春さんのひとりごと
<『ベトナムマングローブ子ども親善大使』十周年を迎えて>
今私は十三年前のことを思い返しています。アクトマン【マングローブ植林行動計画】の浅野さんに案内してもらって、サイゴンの南にあるカンザーを初めて訪問した日のことを。そこで、生まれて初めて『マングローブ』を見たのでした。
その当時のカンザーはまだ道路も全然舗装もされていなくて、バイクや車とすれ違うと、モウモウとした砂ボコリが舞い上がっていました。その中を二人でホンダのスーパーカブにまたがって走り抜けて行きました。そしてラテライトの赤い色をした田舎道の両側に、亭々とそびえるマングローブの木が延々と続いていました。(これがマングローブか・・・)と、バイクを停めてしばらく眺めていました。
この時見た道の両側に生えているのは、樹種名で言えば「フタゴヒルギ」が多かったですね。この樹種は、たくさんの支柱根が木の根元から飛び出ているのが特徴です。
カンザーのマングローブ植林の歴史は、『ベトナム戦争』が終結した年の3年後の、1978年から始まります。ベトナム戦争で米軍が撒いた枯葉剤によりカンザー地区のマングローブ林は壊滅しましたので、胎生種子を南部のカーマウから運んで植林活動がスタートしました。ですから、私がこの時に見たマングローブ林は20年弱経過していました。
しかしまだ20年弱とはいえ、毎年冬が来る日本の気候とは違い、カンザーのマングローブは南国の熱い太陽に照らされて大きく成長していました。
そして一直線の道路をまっすぐにどんどん進んで行き、最後に幾つか折れ曲がると、対岸にブンタウが見える海に出ます。ここが今、日曜・祭日になると多くの観光客で賑わっているカンザーの海岸です。
今この海岸の前に立ち、辺りの風景を眺めていますと、どうしても最初にここに来た時の風景の記憶が蘇りますが、当時の景色と比較しますと隔世の感があります。当時のカンザーのこの辺りの風景は、単なるひなびた漁村の一つという感じでした。今のカンザーの海岸沿いには、サイゴン・ツーリストが建てたビラ風の部屋が配置された瀟洒な建物がいくつも並んでいますが、この時はそういうホテルと呼べるほどのものは何もありませんでした。
仕方なく我々は、海岸沿いにポツンとある人民委員会の役人たちが利用している宿舎を使わせてもらったり、海岸からバイクで30分ほど離れた木賃宿のような部屋に泊まっていました。この二つの宿舎とも、食堂などの設備はありませんでした。
今のサイゴン・ツーリストのホテルでは、朝食などはビュッフェ形式の、サイゴン市内とあまり変わらないレベルの食事が提供されていますが、当時は宿舎の隣のひなびた店で、インスタント・ラーメンに熱湯を注いで、上からフタをして待つこと三分して食べていました。
中に入れてある具はといいますと、シッポの付いた小さな、赤いエビが一匹入っていただけでした。さらに夕方ころに、浅野さんと「ビールを飲みましょうか!」と言ってビールを注文しても、生ぬるいビールのことが多く、コップに入れる氷を手に入れるのにも苦労していました。
しかし当時は、私自身そういう生活もぜんぜん苦痛ではありませんでしたが、今にして思うと、それは(浅野さんと行動を共にしていたからだろうなー)と思います。
私がベトナムに来た当初、北から南までの多くの場所で浅野さんと一緒に行動を共にして来ましたが、彼は日本とは大いに違うベトナムの言語や生活文化の環境の中で、普通の外国人が到底真似出来ないような、抜群の学習能力と適応能力を持った人物でした。
私がベトナムに来てすぐの頃、当時の総合大学でベトナム語を習い始めて、家でその日のおさらいをする時に、当時一緒に住んでいたアパート一階の食卓を挟んで、毎日のように似たような発音の違いを浅野さんに質問したことがありました。
ベトナム語は、アルファベットにして書けば同じ綴りでも、声調記号が違うと全く別の単語になるように、外国人には似たような発音の単語が山のようにあるので厄介なのです。この時浅野さんは、ベトナムに来てまだ四年目ころの時期でした。
私: 今日授業でKhacとKhachの二つの発音を習いましたが、先生の発音を聞いていても同じように聞こえて、その違いがさっぱり分りません、どう違いますか?
浅野さん: さあー、私も正式に学校に行ったわけではなく、我流で学んだようなものなので、具体的にどう違うかと言われても上手くは説明出来ませんが・・・。
と言いながら、自ら数回その二つの単語を発音しながら、自分自身で確かめるように口の中に人差し指を入れていました。
浅野さん: あはーー、今の私の舌の位置は、Khachのほうは―achの発音で終わる時、このように舌が上のアゴに付いていますねー。Khacはそうではなくて、―acで終わると下に下りたままですね。
口を開けたまま上にして、自分の口に指を入れて、舌の動きを確かめながら淡々と解説している浅野さんを目の前にして、(この人は何という人だろうか!)と私は思いました。今目の前に座っているのが、日本人なのか、ベトナム人なのか、一瞬分らなくなりました。
さらに私がベトナム語を習い始めたと知って、浅野さんは自分が昔使っていたという一冊のベトナム語の参考書を、「これはいい本ですよ。もう私は使いませんからプレゼントします。」と言って、私に進呈して頂きました。それは浅野さんが日本で買って、ベトナムで学校にも通わずに、独学でベトナム語を習得した時の手助けとなった参考書でもありました。
「有難うございます。」とその場で頂いて、自分の部屋に戻って、その本を開いてびっくりしました。表紙だけは数年の歳月が経ち茶色く変色しているものの、参考書の中は活字の部分以外は真っ白で、一本の鉛筆の線も、一本の赤線も引いてなかったのでした。中身は新品同然の状態でした。(実際にこの参考書を使って、浅野さんはベトナム語を覚えたのだろうか・・・?)と、私は不思議に思いました。
そして翌日聞きました。「昨日頂いた参考書には、鉛筆の線の跡一本もなく、何の書き込みもしてありませんでしたが、本当にあの本で勉強したんですか。」と。浅野さんは「ええ、そうですよ。」と、そのような質問自体を不思議そうな顔をしていました。
後でいろいろ聞きますと、彼の普段の勉強方法が昔からずーっとそうだったようで、大学入試の勉強などにおいても、テキストや参考書を何べんもじっくり読んで覚えるやり方で入試を突破したようでした。
英単語を覚える時なども、普通の受験生がやるように、白紙が真っ黒くなるまで単語を繰り返し書くような方法ではなく、辞書を何回も繰り返し読んで覚えるやり方で単語を覚えたようでした。いずれにしましても、抜群の記憶力と聴覚の良さが、浅野さんには備わっているようです。
そして彼のベトナムでのふだんの振舞いを横から見ていますと、ベトナムにおいてのマングローブ植林という一大事業を進めながら、その日々の生活においては、こころからベトナムを楽しんでいるような感じでした。
毎日食べるベトナム料理においてもそうです。ちなみに私たち二人が一緒にいる時には、日本料理屋に行くことは一度もありませんでした。毎日ベトナム料理ばかり食べるのが長く続いたので、それが当たり前になってしまい、このベトナムでは今でも、自分から日本料理屋に行くことがない日本人になってしまいました。
そして私たちがサイゴンにいても、田舎に行っても、浅野さんと一緒に食事に行って、彼が「これは不味い!」と言って、ハシを置いて食事を止めた場面を見たことがありません。どんなローカルな屋台の食事でも、いつも美味しそうに食べています。
さらに街中の指差し食堂へ皿飯を食べに行きますと、食べ終わった後の彼の皿を見ますと、誰しもが唸ります。一粒の米粒も、骨以外は一片のオカズも残さず、白い皿の上がピカピカに磨かれたようになっているのです。いつ一緒に行っても、そうなのです。値段にしたら、日本円にして百円もしないような料理のレベルなのですが。
ネコでも負けてしまうような浅野さんの徹底した食事の仕方を見ていまして、日本での幼い頃の彼の家庭環境がそのような行動を自然にさせているのだろうな〜、と私は思いました。浅野さんのご両親は、浅野さんが小さい頃は食堂をされていたそうで、彼が学校から帰ると、お父さんが「今日は何を食べたい?」と聞きますと、壁に掛かっているお客さん用のメニューの中で、自分が食べたい好きな物を指差すと、それがその日の食事になって出て来たといいます。
その話を聞いた時に何とも言えないユーモアを感じたとともに、ふだんからのご両親のそのような行為を見ていて、「料理を作ってくれる人への感謝のこころ」が自然と育ち、ベトナムでもそれが当たり前のように続いているのだろうと思いました。
そして右も左も分らないベトナムに来た私は、あらゆる場面で浅野さんのお世話になったと言っても過言ではありません。まだその恩を全然お返し出来ていませんが・・・。
そして私がベトナムに来た1997年から、ティエラの生徒さんたちがベトナムに来て、マングローブの植林を行う活動が持続的に行われることになりました。最初は「ベトナム・マングローブ調査団」という名前でスタートして、翌年からは『ベトナムマングローブ子ども親善大使』に名前を変えて、今に至っています。
最初に生徒さんたちがマングローブを植えた場所は、カンザー森林公園のマングローブ林の中にようやくこの頃に出来上がった『ティエラ・セミナーハウス』の周辺でした。朝から一時間ほど掛けて種子を自分たちで採り、それを一本・一本植えていきました。この時には、私はまだマングローブの樹種の名前も、植え方も知らないので、浅野さん自らがそれを指導してくれました。
そして2000年頃から、セミナー・ハウス周辺の、植林に適した場所はほぼ植え尽くしましたので、マングローブ林のもっと奥のほうに植林出来る場所はないかと、浅野さんといろいろ探して見ましたら、それが有りました。回りが成長しているマングローブ林の中に、ポッカリと約五百平方メートルほどの空き地があったのでした。そこを私たちは遊び心で、「月の砂漠」と名付けました。
しかしこの「月の砂漠」の場所まで歩いて到達するのには、子どもの足だと二時間くらい掛けて、途中に横たわるマングローブの多くの支柱根を乗り越え、膝まで軽く没するヌカルミが続くクリークの中を歩いて行かねばなりません。しかもこのクリークは海と繋がっていますので、満潮の時には三メートルくらいの深さにまでなります。
(こういう場所まで、はたして生徒たちが最後まで歩き通すことが出来るだろうか・・・?)と浅野さんと二人でいろいろ考えましたが、生徒たちには各自地下足袋を履いてもらい、クリークが満潮になる時の事態も想定して、こちらで常時浮き輪を人数分用意することにしました。
そして結果としてこの「地下足袋作戦」と「浮き輪作戦」は大成功でした。今の日本の小学生や中学生たちは地下足袋など履いた体験の無い子たちがほとんどであり、一足の地下足袋をキチンと履き終わるまでに十分くらい掛かっていました。しかしこれを履き終えるや、嬉々として軽快な足取りで歩いて行きます。
そしてこの地下足袋についてさらに言えば、最初にアクトマンのメンバーがこのカンザーに来た時、浅野さんたち全員がこの地下足袋を履いてマングローブの森の中を怪我もせずに自在に歩いているのを見て、(日本には何と便利な履物があるのだろうか・・・)と、カンザー森林公園のベトナム人スタッフたちも感心しました。それまではここで仕事をしているベトナム人スタッフたちは、裸足で森の中を歩き回っていました。
それでアクトマンの人たちがカンザーを離れる時、「もしよかったら、その地下足袋をここに置いていってくれないか。」と頼むと、アクトマンの人たちも「いいよ。」と言って自分たちが使っていた地下足袋を残して行ってくれました。それ以降私がカンザー森林公園を訪ねた時に、日本の地下足袋を履いて歩いているベトナム人スタッフを見かけるようになりました。
さて「浮き輪作戦」について言いますと、ヌカルミ地獄のクリークの中を自力で歩くよりも、満潮の時に浮き輪を使って水の中をプカプカ浮いて移動するほうが溺れる心配もなく、はるかに楽なので、生徒たちはヒヤリとした水の感触を楽しみながら、海水浴気分で移動していました。またベトナム側から参加した女子スタッフも、中にカナヅチの人がいて、生徒以上に移動時には手がかかっていましたが、この浮き輪には喜んでいました。
しかしそれでも、小学生くらいの年齢層の生徒たちにとってはハードな行程であることには変わりありません。背丈の低い、ある一人の男子生徒などは腰まで泥の中に埋まってしまい、スタッフ二人掛かりで「ヨーイ、コラショッ!」と引き抜きました。今は植林場所まではボートで行きますので、それと比べれば楽なものです。
この「月の砂漠」へは四回ほど移動して植林活動をしましたが、ほぼ五百ヘクタールの面積を植林し尽くした頃に、今まで二時間近くを費やして移動していた道程そのものが、雨や海水の浸食によって崩れ落ちてしまい、そこまで到達出来なくなりました。そういう意味では、この場所で植林した生徒さんたちは大変な苦労をして植林をしたとも言えますが、またそれだけに印象に残るベトナムでの植林体験だったのではと思います。
今まで九回続いた『ベトナムマングローブ子ども親善大使』には、延べ63名の生徒さんたちが参加して頂きました。彼ら一人・一人が今までに植えたマングローブの種子の本数を合計すれば、軽く一万本は超えています。中には一人で五百本の種子を集め、二時間近くを掛けてそれを植え切った生徒もいました。
みんなが植え終わって腰を下ろして木陰で休んでいても、炎天下の中で顔を真っ赤にして、(自分が採ったぶんの種子は自分で植えるぞ!)という意気込みで、一人モクモクと植え続けていた男の子の姿は忘れられません。
今振り返ってもこのベトナムに来てくれた生徒たちは、一人・一人が印象的な、個性的な生徒たちでした。我が社『ティエラの夏の合宿のコース』には、国内・海外を併せていろんなコースがありますが、海外のベトナム合宿に参加してくれた生徒さんたちには、いろんな意味で深い思い出が残っています。
カンザーの海岸で、昼食にカンザー名物のハマグリを注文した時に、蒸し上がってテーブルに出てくる皿一杯のハマグリを、競争するように奪い合って食べていた生徒たち。それを見た給仕のお兄さんたちが、口をアングリ開けて見ていた光景。
サイゴン市内探訪の時、統一会堂前で腰を下ろして休んでいた時、自分と同じ年齢くらいのベトナム人の子どもの絵葉書売りが近づいて来て売り付けに来ると、最初は「要らないよ。」と手を横に動かして断った生徒が、立ち去った子どもの後ろ姿をしばらく見ていて、何を思ったかその後を追っ駆けて行き、三束の絵葉書を手に抱えて帰って来た場面。
ベトナム最終日のサイゴン市内の焼肉屋さんで、柳田さんや生徒たち全員で、日本の歌を大声で歌ってくれた生徒たち。回りのベトナム人のお客さんたちが、その歌に合わせて手拍子を叩いてくれたことなど・・・。いろんな生徒たちの思い出があります。
さらに2006年度からは、<ベトナムの人たちの家庭生活を見、ベトナムの人たちとの草の根交流をしよう。>という目的から、『ホームステイ』も実現しました。このホームステイ先の選定には、私の知人のLuan(ルアン)先生が校長をしていた『あけぼの日本語学校』の生徒さんの家を選びました。今も男子の生徒たちはLuan先生のご自宅、女子の生徒たちは、日本語学校に通う生徒さんの家に宿泊しています。
良く考えて見ますと、このベトナムでマングローブの植林活動をするのであれ、ホームステイをするのであれ、それらの行事は日本側の思いだけで実現するものではなく、ベトナムの人たちの協力があってこそ成り立つものなのです。
その意味でも『ベトナムマングローブ子ども親善大使』のスタート当時から、日本の生徒さんたちの植林活動において、種子を準備し、ボートの手配もし、さらには昼食まで提供してくれてきた「カンザー森林保全局」の方々や、異国の生徒たちを我が家に預かる大変さは承知の上で、こころ良く引き受けて頂いたホームステイ先の家族の人たちへの感謝の気持ちでいっぱいです。
そして私は、「一人の人間が異国を訪ねる、見る。」ことの意味を、時に考えることがあります。サイゴン市内でリュックを背負い、ガイドブックを片手に持ちながら歩いている日本の人たち。観光地で出会うヨーロッパから来た人たち。彼らと少し仲良くなると、私自身がベトナム人になったような感じで、ベトナムについての印象を聞きます。
すると彼らも日本人であると分かった私に対して、「ベトナム料理は○○です。」「ベトナムの人たちは○○です。」「べトナムの観光地は○○です。」と、率直にいろいろ答えてくれます。
彼らが話してくれた印象をじーっと聞いていますと、「(自分の国と比較して)ベトナム料理は○○です。」「(自分の国と比較して)ベトナムの人たちは○○です。」・・・というように、潜在意識の中に<自分の国との比較>という視点があり、その位置からベトナムという国、人、生活文化を観察した印象を話しているような感じがします。
そして私はそれが当然だろうとも思います。一人の人間が自分の国で十数年も暮らせば、その国の言葉や文化・習慣を自然と身に付けてゆくことでしょうし、どこにおいても依って立つ国は自分の生まれた国だろうと思いますから。
さらにまた、「人が異国を訪れる」ということの意味は、その<自分が生まれた国の良さ>を、『異国という鏡』に映して再認識することではないかと最近思うようになりました。
私自身がベトナムに長く住むにつれて、日本という国の良さがしみじみと分かるようになりました。日本の豊かな自然、変化に富む季節、長い歴史を秘めた風土、多彩な種類の食べ物、深く・厚い人情など、異国に来てその良さにあらためて気付かされることが多いのです。
今年十周年を迎え、『ベトナムマングローブ子ども親善大使』に参加した生徒さんたちも、このベトナムという異国に来ていろいろな発見や体験をし、さらにまたこのベトナムから自分が生まれ育った日本という国についてじっと考え、その良さを感じ取ってくれたらとこころから願っています。
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