春さんのひとりごと
<夢を追い求めて 〜ニャー チャーン・マラソンに挑む〜 >
「ニャー チャーン・マラソンに挑む。」と言っても、私が挑戦したのではありません。
Saint Vinh Son(セイント ビン ソン)小学校の支援者・Aさんが十月二十四日に、ベトナム中部のニャー チャーン市で行われた「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン」 に挑戦されました。
Aさんは今年 二月中旬に西表島で行われたハーフ・マラソンにも挑戦して、それも無事完走されたばかりでした。そしてまたベトナムに戻り、さらに五月に日本に帰った後は、この ニャー チャーン・マラソンに備えて、 信州の田舎で一日おきに6kmを走る日課をこなしていました。
ちなみにハーフ・マラソンは約21kmを走るのですが、私が「一日6kmだけ走っていても、本番でも21kmが走れるのですか。」と不思議に思ってAさんに聞きましたら、「出来ます。全然問題ありません。むしろ毎日長い距離を走っていると、足を痛めるのでかえって良くありません。マラソンで最初にキツイなーと感じるのは5kmなのです。それを乗り越えると体が楽になるのです。」と話されました。(へえ〜、そういうものなのか。)と、私には初めて聞く話でした。
ところが六月のある日、Aさんが家の中でたまたま下に置いてある荷物を取ろうとして、手を差し出して背中を伸ばした瞬間に、腰に(ズキーーン)とした激痛を覚えました。ギックリ腰になってしまったのでした。それから一週間は寝たきりの状態になったそうです。寝ようとしても腰が痛むので仰向けには寝れず、うつ伏せの状態でずっと寝ていたといいます。
そして一週間ほど過ぎてようやく起き上がれるようになってから、Aさんは歩く練習を始めて、一ヵ月後にはまた走ることに挑戦しました。それを聞いた時に、私が八月に交通事故で怪我をして、二週間ほど寝たきりの状態になった時のことを思い出しました。私は走るどころか、歩くのもままなりませんでしたが、Aさんはギックリ腰になりながらも、それを乗り越え、不屈の気持ちで田舎道をひたすら走る彼の精神力には本当に頭が下がりました。
その時そこまで彼を奮い立たせていた目標が、実は十月二十四日に実施される予定の「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン」なのでした。Aさんはマラソン当日の六日前に、日本からサイゴンに戻って来ました。そしてサイゴンに着いた翌日には、Saint Vinh Son小学校を訪問しました。この時には、日本の支援団体から頂いた寄付金を持参して、それで20台の自転車をこちらで購入し、遠くから歩いて小学校に通っている生徒たちにそれを進呈しました。
Aさんが今回学校を訪問したのは、自転車のプレゼントが大きな目的でした。そしてひさしぶりに会った生徒たちの前で、自分がもうすぐ「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン」に挑戦することを話しますと、教室の中の生徒たち全員が立ち上がって拍手してくれたそうです。Aさんは胸がジーンとなりました。「生徒たちから強い励ましをもらいました。よし、最後まで完走するぞ!と思いました。」と後で私に話してくれました。
この「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン」は2009年度に始まりました。この年には、約一千名の参加者がいました。この時のゲストランナーには、日本から谷川真理さんが来られたそうです。今年は千葉真(まさ)子さんがゲストに招待されていました。千葉さんは10kmのコースを走られるということでした。
Aさんはマラソン当日の二日前に、飛行機でニャー チャーン入りしました。そして彼が今回ニャー チャーンでハーフマラソンを走ると聞き、彼の友人二人もニャー チャーンまでわざわざ応援に行くことになりました。ベトナム戦争当時にメコンデルタでバナナを植えていたあのYさんと、サイゴン郊外に広大な喫茶店『Gio va Nuoc(ゾー バー ヌック:風と水)』を開かれたSBさんの二人です。
さらにはたまたまこの時には、SBさんの友人の韓国人が二人、ベトナムを訪問していました。JさんとCさんです。Jさんは今年47歳で、韓国で新聞社に勤められています。彼は今まで新聞社に勤めて以来、ほとんど休みらしい休みを取ったことがなくて、今回初めて十日間の休みを取ってベトナムに来ることが出来たとSBさんが話してくれました。
Cさんは今年57歳で、今は仕事からはリタイアされていますが、今回のベトナム訪問は彼がJさんに強く勧めて実現出来たようなことをSBさんが話されました。この韓国人のお二人はAさんとは今まで面識は全然なく、今回初めて顔を合わせたのですが、ニャー チャーンまでの旅行を兼ねて、お二人の韓国人もSBさんたちと同行することになりました。
そして我々はいつものベン タイン屋台村に、壮行会を兼ねて集まりました。しかし面白いのは、日本人であるSBさんは韓国語も英語も出来ません。話せるのは日本語だけです。SBさんの友人である韓国人のお二人はといえば、Jさんは英語が片言ながら出来ますが、日本語はダメです。Cさんは英語も日本語もダメです。
しかし不思議なことに意思疎通出来る共通語がないのに、お互いが話す時にはそれなりに何を言いたいのか、何を欲するのかが分かり合えていることでした。それで良く意思疎通が出来るな〜と奇妙に思いましたが、どうもジェスチャーでそれを補っているようでした。
私が「どうして会話が成り立つのかが不思議ですね〜。」と質問しますと、SBさんは「最初の出会いから数えると、もう十年は経っていますからね〜。最近はアウンの呼吸で、彼ら二人が何を言いたいのかが分かるようになりましたよ。」と答えられました。
そしてこの時に、韓国人のお二人からみんなでここで食べるお土産として、韓国産の味付け海苔をテーブル上に広げられました。その海苔は今まで私が見ていた、穴がよく空いている韓国海苔とは違い、穴一つなく、色も鮮やかな緑色をしていて、ビールのツマミに実に美味しいものでした。SBさんの話では、「上質の韓国海苔というのはこういうものなのです。」ということでした。
そしてさらに、ベトナム料理がテーブルに出て来たところで、Jさんがカバンからやおらマヨネーズの容器の形をしたチューブ入りの品物を出されました。韓国から持ち込んだコチジャンでした。小さい皿にそれを搾り出してくれて、「どうぞ!」という感じで私たちに勧めてくれました。実はお二人は、ベトナムに入る前にはインドネシアに降り立たれたのですが、そこの料理が全然二人の口に合わないので、全ての料理にこのコチジャンをいつもたっぷりと上からかけて食べていたといいます。
私は今まで日本でもベトナムでも、コチジャンだけを舐めて「美味い!」と感じたことは無かったのですが、Jさんがこの時持ち込んでくれたコチジャンは、それだけ舐めても強烈な辛さはなく、実に深い味がして(これが本場のコチジャンなのか!)と驚きました。
Jさんの話では、コチジャンは味噌や唐辛子や砂糖を主体にして、さらに好みに応じていろんな材料を細かく刻んで熟成発酵させるようですが、コチジャンを製造している会社によってもいろいろ味の違いがあるということでした。彼がこの時持参してくれたものは、一年間熟成していると言っていました。
やはりどんな料理でも、そしてそれを支えるこのような調味料でも、本場で味わうのは違うのだろうなーと想像出来ました。さらに嬉しいことには、この日集まったメンバーの中ではベトナムでの所帯持ちは私だけで、みんなアパートで料理を作ることもないので、まだ中に半分ほど残ったコチジャンを、私がチューブごと頂きました。
そしてここでJさんは、原材料がベトナム製の、Jさん特製のコチジャンの作り方を披露してくれました。この屋台村のテーブル上にはいつも、小皿に入った生唐辛子を刻んだのと、小さな茶碗に入った、唐辛子をすり潰したペースト状のものが二種類が置いてあるのですが、その二つを全部茶碗に入れて、玉ネギやスライスしたトマトも入れ、入念にスプーンで細かく潰して、何回も何回も掻き回し始めました。さらにまたこれに加えて、チリソースまで入れました。ベトナム人の従業員たちも、眼を丸くして見ていました。
そして十分ほどその作業をして、「さあー、どうぞ!」という感じで私たちに勧めてくれました。何せテーブルの上の唐辛子は全て使い切って、一つの茶碗に入れてしまいましたから、(さぞ辛いことだろうなー・・・)と想像し、私たちは恐る恐るハシを入れて、それを舐めて見ました。すると不思議なことに、唐辛子だけの強烈な辛さがなく、まろやかでコクのある辛味に変化していました。(さすがに唐辛子をふだんから使い慣れた人たちだなー)と思いました。
しかし私はこの場で、SBさんが韓国人のお二人と言葉が通じなくても楽しく談笑されているのを見ていますと、『国際交流力』というのはやはり語学だけではないなーとつくづくと思いました。最終的には、『自分という人間をどう伝え、相手に自分という人間がどう受け止められるか』でしょう。
実はSBさんと韓国人のCさんは、この七月に二人で『竹島』を訪問されたのでした。Cさんが案内役で連れて行ってくれたそうです。今韓国が実効支配している『竹島』は、外国人の観光客も訪問出来るコースになっていて、この時も日本人や白人の人たちが参加していたといいます。
(『竹島』という微妙な問題のある島によくぞ、日本人と韓国人の二人で連れ立って一緒に行ったなー)と感心しましたが、SBさんとお二人の韓国人はお互いが国を越えた大人の付き合いが出来ているようで、そういう難しい問題を乗り越えた友情関係があるのでしょう。我々から見ても、今回初めて会ったJさんとCさんは非常に明るく、きさくな人柄でした。SBさんが長く付き合っているというのも、良く分かる気がします。
そしてYさんとSBさんと韓国人のお二人は、飛行機で先に入ったAさんの一日後に、寝台車を一部屋四人で貸し切ってサイゴンからニャー チャーンに向いました。飛行機で行こうと思えば行けたのですが、ニャー チャーンまでの列車での移動は、お二人の韓国人の希望だったそうです。
ゆっくり列車に揺られながら、車中でビールを飲みながら、ジェスチャー交じりでワーワーと話しながら、初めてのベトナム旅行を楽しみたいということでした。私は残念ながら同行することが出来ませんでした。そして二十四日のマラソン当日の早朝の五時に、四人はニャー チャン駅に到着しました。
さてマラソンの開始時間は、予定では6時半からになっていました。遅く始めると、陽射しが強くなって来るので、おそらくそのような時間帯になったのでしょう。そして6時には全員が集合して、来賓の挨拶から始まったそうです。そして今回は、5kmと10kmと21kmの三種類のコースが準備されていたといいます。Aさんが挑むのは21kmのコースです。
そしてAさんが後で話してくれましたが、今年の「ニャー チャーン・マラソン」の参加者は、全員で230人だったそうです。昨年が千人ですから、大変な減りようです。参加者の内訳は白人が2・3人と、ベトナム人が80人くらい。後はベトナム在住の日本人と、日本から参加した日本人だったそうです。さらには、今回のマラソンの参加費用は80ドルでした。後で見せてもらった案内文には、「参加料の一部は、チャリティーとして、ニャー チャーン市郊外のSOS村・孤児院に寄贈します。」と書いてありました。
さてAさんはマラソン前日に、ゼッケンとTシャツなどを受け取りに事務所に足を運びました。すると、その時受付のベトナム人から説明されて驚いたことがありました。受付の人がAさんに話したのは、「自分のタイムは自分で計って下さいね。」ということでした。ということは、腕時計をはめて走らないといけないということです。
ふだんでも時間にはおおらかなベトナムの人たちですが、「選手自身が、自分のタイムを自分で管理しないといけないというマラソンには、私自身今回初めて参加しましたよ。ゴールした時には嬉しさのあまり、そういうのをつい忘れる人もいるはずでしょうけどね・・・。」と、Aさんは後で笑いながら話してくれました。
そして当日のマラソンに臨んだ時にも、またひとつ驚いたことがありました。ベトナム人の参加者のうち、半分近くが靴も何も履かずに裸足なのでした。早朝なので路面はまだ熱くはならないでしょうが、小石や砂粒を踏み付けることはあるでしょう。Aさんも最初は心配しましたが、(小さい時から裸足で歩くことに慣れていて、足の皮が厚くなっているのかな?)とAさんは想像したのでした。事実リタイアした人はいなかったそうですから、おそらくそうなのでしょう。
そしてちょうど6時半に『第2回ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン』のスタートの合図が鳴り、時間差をつけてみんなが走り始めました。YさんとSBさん、そして韓国人のお二人は、このスタート地点で声援して見送りました。この時のYさんとSBさんの胸中はいかばかりだったろうか・・・と思いました。
と言いますのは、当初この『第2回ニャー チャーン・ハーフマラソン』には、YさんとSBさんも参加する予定なのでした。しかしお二人がこの夏に日本に帰った時に精密検査(特に心臓)をしたら、「軽いジョギングくらいならまだいいが、長距離のマラソンは避けたがいい。無謀というべきです。責任が持てませんよ。」とお医者さんから忠告を受けて、已む無く断念したという経緯がありました。
特にYさんはあと三年経てば七十歳になりますが、見た感じは誰が見ても壮健そのものというべきであり、今も元気いっぱいです。Yさんは精密検査後に日本からベトナムに戻って来た時、私に次のように話されたのでした。「お医者さんはああ言ったけど、今のところ自分自身でこれといって体調が悪いと感じることもないので、本当は走りたかったけど、(やはり、無謀はいけないかな。何かあったら周りの人たちに迷惑を掛けるし・・・。)と考えて断念しました。」と。
それをじーっと聞いていた私は、以前から考えているYさん、SBさん、浅草・染太郎のSさん、Aさん、そして私の五人が参加する予定の『ベトナム南北縦断・バイクの旅』の計画を、(数年後ではなく、もっと早く前倒ししないといけないかな・・・。)と今考えています。今年のうだるような猛暑から、いつの間にか外を涼しい秋風が吹いているように、一人一人の人生にも秋風が頬をなでるのも早いかもしれないかなーと思うからです。
さて6時半に走り出したランナーたちは、朝のまだ涼しいニャー チャーンの海岸沿いを走って行きました。Aさんの話では、この日の空は快晴でした。観光コースとしてもベトナムでは有名なこのニャー チャーンは、実に風光明媚な場所です。白い砂浜沿いにヤシの並木が続き、その向こうに青い空が広がっていたそうです。
Aさんも「本当にきれいな光景が続いていて、素晴らしいマラソンコースでしたよ。」と、後で話されました。「ただ、もう少し運営に緻密さがあればと思いましたが・・・」とも、苦笑いされながら言われました。
Aさんが今まで参加したマラソンでは、「参加者が千人くらいいるのがふつう」なのだそうです。しかしこのニャー チャーン・マラソンは昨年が一千人いたのに、今年は230人の参加者しかいなかったのでした。「東京マラソンもそうですが、普通はやるたびに年々増えていくものなのですが・・・。」とAさんは言うのでした。マラソンに参加したことがない私は、(はあ〜、そういうものなんですか。)と、ただ聞いているだけでした。
さらにAさんがコースを走りながら、「あれには呆れましたよ!」という場面もありました。マラソンを走る人たちのために、水の補給場所が2.5kmに一箇所ずつ作られていました。それはいいのですが、テーブルの上にあるペットボトルを走りながら取って、それを手にしたAさんは目を疑いました。キャップの外側に巻いてあるセロハンのカバーが取り外してない状態で、そのまま付いていたのでした。
(ふつうは選手たちがすぐ飲めるように、そういうのは前もって取り外しておくんですがねー)と、後でAさんが話されました。それでやむなく、この時はAさんだけでなく全員が、走りながらそのセロハンのカバーを手でむしり取って水を補給していたそうです。
さらに折り返し地点を過ぎて、また水を飲もうとしたら、今度はペットボトルに使い捨てのオシボリが付いていたそうです。(もう、あれには笑いましたよー。誰がマラソンを走りながらオシボリを使う人がいますか。気が利いているようで、どこか間が抜けているんですね〜。)と、この場面では笑いながら話されました。
あと一つAさんが不思議でならなかったのは、今回のマラソンコースには、5kmや10kmを表した標識が全く無かったことでした。「普通のマラソンコースにはそれがあるのが当たり前なのです。」とはAさんの弁です。それを見てマラソン選手たちは、走るスピードの配分を考えて走るのだそうです。しかし、このニャー チャーン・マラソンにはその標識が無かったので、(今大体○○kmくらいを走っている頃だろうな。)と、自分で推測して走るしかなかったのでした。
しかしいろいろな問題があっても、Aさん自身が言う5km地点の苦しさの壁を乗り越えて、10km、15kmと自分のペースでAさんは着実に走られました。そしてあの西表島マラソンの時にもそうでしたが、やはりこの時にもSaint Vinh Son小学校の生徒たちの顔・顔が浮かんで来ました。
ニャー チャーン・マラソンにサイゴンから旅立つ前に、Saint Vinh Son小学校の生徒たちから受けた励ましを思い出しますと、(サイゴンに帰ったら、今回もこの体験を話してあげよう。)と、Aさんは自分の気持ちが奮い立ち、強い高揚感を覚えたのでした。もうすぐ六十歳になろうかという日本人が、異国の十代前後の生徒たちからそのような励ましを受けて、一人ニャー チャン・マラソンを走っているというのは、何と美しく、感動的な光景でしょうか。
振り返れば、AさんがSaint Vinh Son 小学校の生徒たちと出会ってから、もう三年くらい経ちました。最初に私がAさんに会ったのは、多くの外国人の旅行者が宿泊している安宿街の、Pham Ngu Lao(ファム グー ラオ )通り でした。彼はそこを根城にして、(ベトナムで不動産売買の仕事でも始めようかな・・・。)くらいの、漠然とした考えを持って最初ベトナムに来ました。
三年以上前に、私の友人の紹介で私はAさんと知り合うことが出来ましたが、その時彼は日がな一日、安宿街の近くの大衆食堂で、朝・昼・晩と食事していました。たまたまある日、この安宿街の近くをバイクで私が通過した時、薄暗い大衆食堂の隅で、一人ポツンと食事されている場面を見たこともありました。
そして日本から来た私の知人が、たまたまSaint Vinh Son小学校を訪問する機会がありました。それで(ちょうど良い機会だから、Aさんでも誘おうか。)と、軽い気持ちで彼にその話をしました。
「明日小学校を訪問しますが、一緒に来ませんか。」とAさんを誘いますと、Aさんが、「小学校・・・?どんな小学校なんですか。」と聞き返しましたので、 Saint Vinh Son小学校の設立から今に至るまでを簡単に話しましたら、「特に明日何も予定はないので、ちょっと行って見ますか。」と、軽い気持ちでそこを訪問されたのでした。この「ちょっと行って見ますか。」が、彼の人生のベトナムでの大きな分岐点になりました。
そしてSaint Vinh Son小学校を訪問したのは午前中の間だけでしたが、その小学校の訪問を終えた数日後にAさんは一旦日本に帰れられました。そして約一ヶ月後くらいにまたサイゴンで再会しました。その時、「あの時は本当に有難うございました。日本での仕事を一応片付けて来ました。」という言葉に続けて、Aさんは私にこう話されたのでした。
「Saint Vinh Son小学校をあの日初めて訪問させて頂いて、これからの自分の人生の方向性と、生き甲斐と、そして大きな夢を与えてもらいました。これから私は、Saint Vinh Son小学校の生徒たちと一緒に歩んでゆきたいと思います。」と。
AさんにSaint Vinh Son小学校を訪問を勧めた時、私は(軽い見学くらいで終わるだろう。)くらいに考えていましたが、突然の彼のそういう話を聞いて大いに驚きました。そして、それを答えていた時のAさんの顔は、今までの生気のなかった表情とは大いに変わり、明るく・生き生きとしていました。それを見て、私は ( どうやら本気らしいな・・・。 ) とその時思いました。
振り返れば速いものですが、Aさんが「ちょっと行って見ますか。」とSaint Vinh Son小学校を訪問し、生徒たちと最初に出会ってから三年以上が過ぎました。Aさんにとっては、あの時の子どもたちとの最初の出会いから今にいたるまでずっと、「Saint Vinh Son小学校の生徒たちと一緒に歩んでゆきたいと思います。」という気持ちが続いているのでしょう。そしてその子どもたちとの繋がりが、彼のこころの中でニャー チャーン・マラソンを走っている一歩・一歩の足取りにも励ましを与えているのでしょう。
そしてAさんはこの「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン」を見事完走されました。時間は2時間3分36秒でした。順位は41位だったということでした。完走の賞状も頂きました。Yさん、SBさん、そして韓国人のお二人もゴール近くで待っていました。Aさんの完走を祝い、お昼にはみなさんで祝杯をあげたのはいうまでもありません。
マラソンが終った後3日ほどして、サイゴンにAさんは戻って来ました。すぐにその足で、Saint Vinh Son小学校に行ったそうです。Aさんから「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン完走」のことを聞いて、生徒たちは自分のことのように喜んでくれたと言いました。Aさんは「記念に、マラソンの運営委員会から頂いた帽子とTシャツを学校に進呈して来ました。」と言われました。
そしてニャー チャーン・マラソンを完走したAさんを囲んで、「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン完走祝賀会」をしました。場所は、あのヤギ鍋屋さん・Lau De (ラウ ゼー)214です。この時には十人ほどが集まりました。あの韓国人のお二人もいました。
実はこの韓国人のお二人が翌日の飛行機、Aさんもその二日後の深夜便で帰国する予定なのでした。それでAさんの「完走祝賀会」と、韓国人のお二人との「お別れ会」を兼ねて、このヤギ鍋屋さんにみんなが集合したのでした。ちょうどこの時は、外は大雨が降っていました。
韓国人のお二人は、最初に食べたヤギの乳肉の炭火焼が終わり、次のヤギ鍋コースに入った時、この店のヤギ料理に大変喜んでおられました。焼肉などはまたさらに一皿追加して食べていました。そしてここでもまたまたJさんは、テーブルの上にあるすべての唐辛子類やトマトケチャップやチリソース、焼き肉の皿の横に付いて来たトマトや玉ねぎなどを一つの茶碗に入れて、時間を掛けてすり潰し始めました。
そしてまたみんなにそれを味見してもらいました。この時この場で初めてそれを味わった人たちもいましたが、みんなは「美味いですねー!焼き肉に付けて食べると絶妙な味の組み合わせですね〜。」と感心されていました。
私は今回初めて韓国人の方と酒席を共にさせて頂きましたが、韓国人のお二人がSBさん以外は全員が初対面の私たちにも実に親しく、明るく、そして異国においての酒席の場でも、年長者に礼節を尽くして振舞われる姿に、私は何とも言いようがない感動を覚えました。年長者を敬う「儒教」の伝統が、日本よりも非常に深く・長く続いた韓国の文化を体現した人を目の前に見る思いでした。
JさんやCさんが年上の日本人に右手にビールを持って注ぐ時、いつも左手で自分の右手の脇を押さえるようなしぐさをして、相手にビールを注がれるのでした。かつて韓国では、袖のある服を着ていた時代に、袖が下に垂れないように、相手に対して食事や酒を勧めていた時の名残りなのでしょうか。また年長者の前でビールなどを飲む時には、対面してグラスを傾けて直接飲むのは失礼とされているようで、顔を横に向けて片手でグラスを隠すようにして飲む仕草も見せられました。
長い歴史の中でその国に根付いた独特の風習は、異国の人から見た時に「実に美しいなー」と感じることがありますが、最初にお二人にベトナムで出会って以来、この日が最後になる時までも、この所作振る舞いはずっと変わりませんでした。このヤギ鍋屋さんでの宴会が終わった頃、雨もようやく上がりました。私たちは今日でベトナムでの最後の別れとなる韓国人のお二人と、固い握手をして別れました。
そして数日後、Jさんから私に日本語で次のようなメールを頂きました。SBさんによりますと、Jさんは日本語は出来ないはずなので、新聞社の中で日本語の出来る友人に頼んで訳してもらったのでしょうと言われました。しかしそれは問題ではありません。これは私がJさんから頂いたメールなのですが、何回読み直しても実にこころにジーンと響く内容なので、皆さんにもそのままご紹介します。
「ベトナムのホーチミン市で、私たち二人に贈って頂いた日本人の皆さん方のご厚意に、あらためて感謝を申し上げます。初めて訪問したホーチミン市は、皆さんたちと出会ったことで、民族や文化・歴史を乗り越えて、情感あふれる、感動の場所になりました。私たち二人は、皆さん方との出会いを通して、日本の文化についてあらためて多くのことを知るきっかけとなりました。いつか皆さん方が韓国を訪問する機会がありましたら、ぜひご連絡下さい。ホーチミン市で私たち二人に贈って頂いた皆さん方の厚意に、お返ししたいと思います。」
何と嬉しい言葉でしょうか。そして韓国人のお二人がベトナムを去った二日後に、Aさんもまた日本に帰って行かれました。Aさんにはさらに、次に追い求めている夢があります。ハワイのホノルルで行われる『フルマラソンの完走』が、彼の次の夢です。
実はAさんは、今年の12月に行われる『カンボジア・ハーフマラソン』にも参加する予定だったのですが、YさんもSBさんも健康上の理由で参加出来ないことが分り、(一人だけで参加するのも寂しくもあり、申し訳ないなー、と思うのです。さらにまだギックリ腰の心配もあるし、今年の年末のカンボジア・マラソンは諦めて、今から体調を整えながら、2011年12月の『ハワイのホノルルマラソン』に挑戦しよう!)と固く決心されました。ハワイのマラソンはフルマラソン(42.195km)です。
Saint Vinh Son 小学校を支援する活動を続けながらも、つぎつぎと自分の目標を立てて、新たなる夢を追い求めてひたむきに走り続けるAさんに、今サイゴンにいる友人たちは、私もふくめて、熱い・熱い応援歌を贈っています。
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