アオザイ通信
【2013年6月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<娘の『卒業式』 ....Saint Vinh Son 小学校の『終業式』>

● 娘の『卒業式』●

5月29日(水)に、小学5年生の我が娘の『卒業式』 がありました。二年前には娘の終業式に参加しましたが、いよいよ今年、今まで通って来た小学校ともお別れの時期を迎えることになりました。

ベトナムの教育制度では小学校は5年間、中学校は4年間ですので、小・中の合計の年数では日本と同じです。その(5年間の小学校生活がもう終わったのだな・・・)と、あらためて振り返りますと、感慨深いものがあります。

当日は娘と女房と三人で学校まで行きました。そして、朝7時半に学校に到着。バイクを停めて校内に入ると、すでに多くの生徒たちが校庭の敷地の中に据えてある低い椅子に座っていました。ざっと見回したところ、 500人以上はいました。女房に聞けば、全員が5年生だとのことでした。我が娘も、自分のクラスの生徒たちが集っている一群の中に入ってゆきました。

校庭内は、今年卒業する多くの生徒達の話し声が響き、賑やかなものでした。生徒たちは全員一階の校庭に集まり、保護者の人たちは二階のテラス席で卒業式を見物することになります。テラス席には保護者用に椅子が置いてありました。

8時を過ぎた頃に、5年生の卒業式の開始です。いろんな人たちが壇上に上がり、挨拶に立ちます。ここらへんは日本の卒業式に似ています。それが終わると、生徒達自身によるアトラクションが始まりました。

最初は男子の生徒によるオルガンの演奏。そして少数民族の服装をした少女の踊り。これは実に愛嬌があって、踊りも可愛らしいものでした。次に白いドレスを着た女子生徒二人の歌と踊り。さらには男子学生と、女子の学生による「テッコンドー」の演舞。

次は、ハスの花をモチーフにした男子と女子の踊り。これで、生徒たちによるアトラクションが終わりました。後で娘に「あの時舞台に立って、オルガンを弾いたり、踊ったりしていた生徒たちは何年生なの?」と聞きましたら、「オルガンを弾いた生徒とテッコンドーの演舞は、小学5年生。それ以外は小学2年、3年、4年生。」という返事でした。

しかし、まだ十歳以下の年齢ながら、 500人以上もいる生徒たちや、二階席から見ている保護者たちの前で、一人で演奏したり、二人で踊ったり、歌を歌ったり出来る度胸は大したものだと思いました。

それらのアトラクションが終わると、次はベトナム国歌の合唱。先生や生徒たちはもちろん、保護者たち全員も起立して、直立不動の姿勢で歌っています。国歌斉唱時に椅子に座っている人は、ここには一人もいません。

そして次は、お世話になった先生方へ生徒たちから花束のプレゼントがありました。それが終わると、小学5年生たちがクラスごとに壇上に上がり、先生から卒業証書とノートのプレゼントをもらいました。

娘の話では、「小学5年生は全部で12クラスまである。」と言うことです。私の娘は11クラス目ですので、壇上に上がるのは終わり近くになります。しかし、小学5年生のクラスの生徒が次々と壇上に上がる姿を最初からずっと見ていますと、(すごい人数だな〜)と思わざるをえません。一クラスには、平均 50人いると言いますから、単純計算しても600人はいるわけです。

そして9時半頃に、私の娘のクラスの生徒たちが壇上に上がりました。先生から一人ずつ、表彰状とノートをもらいました。そして、クラスの友達たちと一緒に記念写真を撮っていました。この時には、二階のテラスから私も女房も校庭に降りました。

壇上に上がったクラスの中に交って立っている娘の姿を見ていますと、小学校に入学した一年生の頃のことが思い出されてきました。あれから早や5年が経ち、この小学校でずっと学ぶことが出来ました。実に有り難いことだとおもいます。今日ここに来られていた保護者の方々も、おそらく同じ思いだろうと思います。

特に我が子の場合は、日本人である私とベトナム人の女房との間に生まれました。そういう境遇の子どもであれば、日本では “イジメ” の問題が出て来る可能性がありますが、このベトナムで我が子が5年間通っていた間、一回としてそういうことはありませんでした。それどころか、ベトナム人の友人も数多く出来ているようでした。

私自身が、子どもからも女房からも、「今日学校でイジメられた!」という言葉を聞いたことはありません。娘は、本当に毎日喜んで学校に通って行きました。子を持つ親にとって、もし(我が子が学校でイジメられている・・・)ということが現実に起きたとしたら、どんなに辛いことでしょうか。しかし幸いにも、私は親としてその「辛い」体験をこのベトナムですることはありませんでした。

仕事を通じたキッカケでこのベトナムという地に足を踏み入れ、 “縁” あってベトナムの女性を妻にもらい、そして子どもが出来ました。そして我が子が、小学校を無事卒業する時を迎えることが出来たわけです。

今年の卒業式を迎えた時に、我が娘を普通のベトナム人の生徒と同じように、温かく迎え入れてくれたこの学校や先生たち、そして友人たちには感謝の気持ちでいっぱいです。ベトナムではそれが当たり前だとしても、日本でのいろんなことを見聞きする私には、このベトナムで娘が何一つ問題も無く小学校生活を過ごすことが出来たことは嬉しい限りです。

校庭の壇上の横には、胸像が据えてありました。私自身は今まであまり注意して見ていなかったので気付きませんでしたが、女房が「あれが Luong Dinh Cua( ルゥォン ディン クア )博士 よ」と教えてくれました。この学校は、クア博士の名前を付けた小学校なのでした。

この5月に、「九州国立博物館」 で見た 「大ベトナム展」 の中で紹介されていた、あの博士の胸像でした。(これがあのクア博士か〜・・・)と、「大ベトナム展」でその経歴を読んでいましたので、身近に感じられました。クア博士は日本人女性と結婚されていただけに、さらに親近感を覚えます。クア博士の子どもさんたちは今どこで、どうされているのでしょうか・・・。

そして12クラスまでの生徒たち全員が壇上に上がって卒業証書を受け取った後、そのまま自分たちのクラスにそれぞれ戻って行きました。女房と私もそのクラスまで付いて行きました。最初に担任の先生が生徒たちに話していましたが、生徒たちの私語があまりにうるさいので、「静かにしろ!!」と怒っていたのには笑いました。

面白かったのは、本来は廊下で待つべき保護者たちが、教室の中にまで入り込んで、自分の子どもの写真や、クラスの全体写真をカメラでバチバチ撮っていたことです。担任の先生も「保護者の方は教室から出て下さい!」とも、何も言わずに黙認です。

それ以上に面白かったのは、この時には生徒たちに配る菓子パンと、フライドチキンと、コカ・コーラなどのプレゼントがたくさんあったのですが、その配布を担任の先生一人だけに任せずに、保護者もクラスの中に入ってゆき、それが当たり前のように先生と一緒に生徒たちに配っていたことです。

それを貰った生徒たちは、全員大変喜んでいました。それらを配り終えた後には、保護者の人たちも、担任の先生と生徒たちを囲んで記念撮影までしていました。このあたりは、大変おおらかでいいな〜と思いましたね。全然堅苦しくない『卒業式』だな〜という感じでした。

この学校とも今日がお別れになるので、隣のクラスから娘の友人たちもやって来て、彼らと肩を組んで記念写真を撮っていました。また同じ中学校で再会し、共に学ぶ友人もいるでしょうが、この日が最後の対面になる友人もいます。娘も別れを惜しんでいました。

10時半過ぎにクラスの中での『卒業式』が終わり、生徒たちも廊下で待っている両親たちと帰ってゆきました。最後に、私と女房もクラスの担任の男の先生にお礼とお別れの挨拶をして、娘が小学校5年間を過ごした学校を後にしました。

● Saint Vinh Son小学校の『終業式』 ●

娘の卒業式が終わった二日後の5月31日(金)に、 Saint Vinh Son(セイント ビン ソン)小学校 『終業式』 がありました。二年前には Le Van Tam(レー バン タム)小学校 で、小学5年生の卒業式があり、私もそれに参加しましたが、今年はそれが叶わず、 Saint Vinh Son小学校で生徒たちだけの『終業式』に参加しました。この日は、小学5年生にとっては『卒業式』も兼ねています。

今までは私一人が参加していましたが、今年は我が娘も同じく小学校を卒業したこともあり、娘を連れて参加させて頂きました。事前に娘にそれを話しますと、大変喜んで「行く!行くよ!」とその日が来るのを楽しみにしていました。

当日は朝8時に小学校に到着。生徒たちは全員教室に入り、着席して待っていてくれました。最初に小 1と小2のクラスに入りました。二学年が一つの教室に入っていました。Oanh先生が私と娘を紹介して頂きますと、生徒たち全員が立ち上がって拍手をしてくれました。

それから歌を歌ってくれました。そして担任の先生たちによる、成績優秀者への表彰状とノートのプレゼント。選ばれた生徒たち全員が前に出て、先生からプレゼントを受け取ります。

そしてこのクラスの全員にパンやアメやスナックなどのお菓子プレゼントがありました。この時には、私の娘もそれを生徒に配るのを手伝いました。机の上はそれら大量のプレゼントでいっぱいになりました。授業料は生徒たちから全く徴収してはいないので、全てこれらのプレゼントは Saint Vinh Son小学校からのプレゼントになります。

次に小3と小4のクラスに入りました。これもまた一クラスに全員が入り、また私と娘を歓迎してくれました。小1・小2と同じく、拍手と歌を歌ってくれました。娘もこういう体験は初めてなので、顔が紅潮しているのが横で見ていてよく分かりました。この二クラスで、小1から小4までの『終業式』は終わりです。そして、彼らはまた次学年もここで勉強します。

それが終わり、いよいよ最後に小学5年生の『卒業式』に入りました。ここでも同じように拍手と歌の歓迎がありました。特に私の娘と同学年だけに、以前から私を知る生徒たちは自分たちと同じ学年の娘が今日来てくれたことを喜んでくれていました。娘もまた教室の空いた席に座り、側にいた生徒たちと仲良く話していました。

このクラスには体が大きくて、どう見ても小学生とは思えない男女の年長者もいました。 Oanh先生に聞きますと、男の子は15歳。女の子は16歳とのことでした。そういう年齢差のある生徒をも受け入れて、小学校教育の課程を無事に終わらせて送り出してくれているのでした。

そしてこのクラスでは、『卒業式』を兼ねていますので、今年卒業する生徒たち全員に、 Oanh先生が卒業証書とノート、そしてお菓子類のプレゼントをしました。恒例のCASIOの電卓のプレゼントもありました。もらったプレゼントの一番上にその電卓を置いて、全員で記念写真を撮っていました。

5年生のクラス担当の男の先生が、生徒達の “将来の夢” について全員の生徒に聞きました。その“将来の夢”で、一番多かった職業は 「先生」 でした。他には「パイロット」や「社長」や「政治家」などがありましたが、それらを押さえて一番人気の職業が「先生」なのでした。生徒達が Saint Vinh Son小学校にどういう気持ちで通っていたのかが分かる気がしました。

この後、生徒が前に進み出て一人で歌ったり、ペアで歌ったりしました。5組くらいの歌が終わったところで、私が Oanh先生に「今から私が生徒たちに日本の歌を贈りたいと思いますが、いいですか?」と聞きますと、Oanh先生は目を丸くして喜んでくれて、「いいですよ。どうぞ、ぜひお願いします!」と言ってくれました。

私は前に進み出て、無事に今日の卒業を迎えたことのお祝いを述べました。そして、 「今日がこの小学校との最後の日になる」 こと、 「中学校に行っても勉強を頑張って欲しい!」 ことを簡単に述べて、「今から日本の歌をみなさんのために歌いますね。その歌は 【四季の歌】 です。」と言って、携帯電話に入れている音楽の中からそれを選び、スイッチのボタンを押しました。

教室は狭いので、マイクを使わずとも声は大きく響きます。この歌は私が毎日研修生たちに歌っていますので、ふだん通りに歌いました。しかし、この時は Saint Vinh Son小学校の生徒たちと一緒に、私の娘も一番前の席で、私の目の前に座っていましたので、面映い感じもしてきました。

それが終わり、学校の前で各学年の記念写真を撮りました。学校の前と両隣は市場になっていますので、人通りが多く、なかなか全体の写真を撮るチャンスが来ません。カメラを構えると、すぐ前をバイクが通ります。小学1年生から4年生までは写真を撮り終えました。この時、 10時半を過ぎた頃でした。

5年生はまだ Oanh先生が教室内で話していて、外には出て来ません。先生も生徒たちももうすぐお別れとなる寸前の時間までを惜しんでいる様子でした。小学校の低学年の生徒たちは、『終業式』自体が終われば、サッサと帰ってゆきます。しかし、5年生のクラスの『卒業式』の時には、いつもこのように別れを惜しむ光景が見られます。

後で Oanh先生に聞きましたら、今年卒業する小学5年生は全部で18人いますが、今年もまた全員が次の中学に進学出来るということでした。日本の家具の会社から、奨学金を今年も支援して頂いたからです。両親も生徒たちも、そして先生たちもさぞ喜ばれたことでしょう。

学校で勉強した生徒たち一人・一人には母校があります。しかし、もしかしたら小学校教育を享けることが出来なかったかもしれない子どもたちが、この Saint Vinh Son 小学校において、授業料無料で学ぶことが出来た5年間の思い出と恩を、彼らは将来もずっと忘れることはないだろうと思います。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 到る所に増えてきた「日本食レストラン」 ■

ベトナム人の多くに受け入れられている「日本食レストラン」が最近サイゴン市内に急速に増えてきた。ホーチミン市内だけでも、今や 250軒以上の「日本食レストラン」がある。スーパーマーケットは言うに及ばず、今や街中の小さな小売店でも「日本食」を取り扱っている状況である。

◎90%がベトナム人のお客◎

その理由としては、比較的良質な日本の食材を供給しているチェーンストアの存在がある。今や「日本食」はベトナムの一部の階層だけではなくて、普通の庶民にも受け入れられる料理として定着して来た感がある。

以前は、ホーチミン市での日本食レストランは在住者の日本人向けに、レ・タン・トン通りやティー・サック通りやゴー・ヴァン・ナム通りなどの一部にしかなかった。でも、今や到るところで見かける。寿司、刺身、天ぷら、ラーメン、焼き鳥など、その種類もいろいろ豊富になってきている。

一区の広告会社で働く Thuy Duong(トゥイ・ユーン)さんは、同僚との昼食やグループの集まりで日本食レストランをよく利用する。お客の目を引くような、店内の洒落たデザインも好みだが、その料理自体もベトナム料理と比べて日本食は調味料が少なく使ってあるので、普通のベトナム人の口には良く合うという。「日本食の値段は確かに高いですが、同じレベルのサービスを提供するベトナム料理店に行くとしても、大きな値段の違いはないのです。」とDuongさんは言う。

日本風の屋台横丁 「TOKYO TOWN」 を管理する Dao Minh Tung(ダオ・ミン・トゥン)氏によると、一日の来店者数500〜600 人のうち80%以上はベトナム人で、たこ焼き、お好み焼き、寿司、ラーメン、串揚げなどに人気がある。ある日本食レストランのなかには、来店者の90%がベトナム人という例もある。その客のほとんどは、安定した収入を得ている若い世代たちなのである。

日田春光(ひだ はるみつ)・在ホーチミン総領事は、食品分野で活動する多数の日本企業はベトナムで成功していると言う。ホーチミン市には日本食レストランがおよそ 250軒あり、ベトナム人にとって日本食はより身近なものになっている。

◎清潔で安全なものを好む◎

ボディ・フード社 (1区)の経営者チュック・ダオ氏によると日本食レストランは、安全なものへの関心の高まりから若者に受け入れられている。なおトゥン氏によると、材料の80%は日本から輸入しており、現地のものは野菜だけのため、日本料理の値段は決して安くはない。

根室市の市場開拓の責任者である Hiroshi Tokunou氏によると、2010年に根室市からベトナムに輸出された冷凍サンマは6.7トンだったが、2012年には415トンにまで増えている。「我々の目標は、サンマの輸出を毎年1200トンにまで増やすことです。」とHiroshi 氏は言う。

ベトナムの人たちは魚を好むが、特に海の魚は大好きである。それらの理由から、このベトナムで日本料理は人気があり、広く浸透してきたとも言える。

Hiroshi はさらにこう語った。「我々はこれからサンマ以外にも、サケ、タラの輸出を進めていきますが、キャビアやカキやタコなどもベトナムのレストランやホテルや日本食材店にも取り扱ってもらえるようにしてゆきます。」

◆ 解説 ◆

5月半ば、私が日本からベトナムに戻り、タクシーに乗って住まいの近くまで来た時に、歩道上に「 SUSHI  ○○」と書いた縦看板がありました。最初にそれを見た時に、我が眼を疑いました。日本に帰る前には、そういう看板を見たことは無かったからです。

私はサイゴン市内の中でも、いわゆる<下町(とベトナムの人たちも言う)>に住んでいます。私以外の日本人がいるかと言えば、以前日本語教師をしていた女性が一人おられたくらいで、他には見かけません。それだけに、(ほとんどがベトナムの人しか住んでいない、超ローカルの場所に、何でまた SUSHI 屋さんが・・・)と思いました。

そしてそれから数日後、友人の KR さんを誘い「ものは試しに、一度そこへ行ってみますか。」と、二人で行きました。そして、歩道上に据えられた席に座り、メニューを見て驚きました。日本食レストランがひしめく「 レ・タン・トン通り」の日本料理屋さんの値段とは比較にならないくらい安い値段だったからです。いやそれどころか、ベトナムの路上の屋台よりも、はるかに安い値段設定でした。

今やベトナム料理屋は、店を構えたレストランはもちろん、路上の屋台ですら値段が上がっています。中には、(日本料理屋のほうの値段が安いぞ!)と思える店もあります。路上の屋台でもそういう店が増えました。いわば、ベトナムの地元の料理のほうが、日本料理屋さんよりも値段が高いという 「逆転現象」 が起きているのでした。

それだけに、一応日本料理を提供しながらも、この 「 SUSHI  ○○」のメニューの安さには驚いたのでした。しかし、「安かろう。不味かろう。」ではこの日一度きりで終わりです。私たち二人はまず「サンマの塩焼き」を頼みました。待つこと十五分ほどして出てきました。それを見て私たちは驚きました。その大きさ、長さにです。味は・・・、脂も乗って実に美味しいものでした。サンマは「合格点!」でした。

この「サンマ」さんは上の記事にあるように、おそらくはるばる遠い根室から運ばれて来たものでしょう。ありがたく頂きました。それにしても、(どこで焼いたのだろうか・・・?)と不思議に思い、よく見ると路上にブリキの箱に煙突を乗せたものがありました。裏に回ると、そこには炭火が熾っていました。「サンマの塩焼き」はここで、炭火を使って焼いていたのです。道理で美味いはずです。

そして、この方法はモウモウたる煙が空に逃げてゆく、路上の屋台ならではの料理方法だとも言えます。普通のレストランの厨房では「サンマの塩焼き」はガスの火で焼いているはずですから。さらにここには、「キスの塩焼き」もありました。

またここには「海ぶどう」も「枝豆」もありました。居酒屋メニューは充実しています。「海ぶどう」など、私はベトナムで初めて食べました。今まで、日本で食べたことはありません。「茶碗蒸し」もありました。後日、女房と娘をここに誘い、「茶碗蒸し」を食べましたが、「オイシイです!」と言ってくれました。

次に「焼き鳥」と「スシ・ロール」を頼みました。この二つとも「合格点!」でした。しかも、単品の値段は、ローカルのベトナム料理屋よりも安いのです。私達二人は、異口同音に「当たりでしたね!」と叫びました。「 到る所に増えてきた・・・」というタイトルそのままの店の出現でした。

ここの店長と話しますと、「日本食レストラン」で修行したベトナム人でした。道理で味がしっかりしているわけです。オープン以来、初めて我々のような日本人が来てくれたと言って喜んでくれていました。それを聞けば、私達も嬉しくなります。

私と KR さんが会う時には、「日本料理屋」、特に店の中で食べる「日本料理屋」に行くことはありません。私たちは路上の屋台での憩いをこよなく愛します。しかし、今まで屋台の「日本料理屋」はこのサイゴンにおいて、全く存在しませんでした。それで仕方なく、屋台の「ベトナム料理屋」に行っていました。

しかし、最近はそういう店でもドンドン値上がりしてきて、二人で(困ったもんですね〜)と話していました。ベトナムでは 『テト』 を迎えると、その前から必ず値段が上がりますが、『テト』が過ぎても一度上がった値段は下がりません。そのままです。そして、次の『テト』が来ると、また上がります。こういう現象は今後も同じです。ですから「逆転現象」が起きているわけです。

二人で路上の屋台「 SUSHI  ○○」に座って話していますと、ベトナム人のお客がドンドン来ました。しかも若い人たちが多いのです。 30 人くらい座れば満席になるテーブルが一杯になりました。しかも、みんな「サシミ」や「スシ・ロール」をバンバン頼んでいます。

可笑しかったのは、小学生くらいの男の子が家族連れではなく、たった一人で来て、サケの刺身をワサビ醤油に浸けてモクモクと食べていた光景です。二人で思わず笑いました。しかしその光景を見ていますと、(こういう年齢層の子どもたちにも、だんだんと日本料理が受け入れられて来たのだな〜)と実感しました。大変興味深い光景でした。

14年ほど前、 「SUSHI BAR」一号店(今やサイゴン市内に6店舗あります)からスタートした「 SUSHI 」と「サシミ」という日本料理が、ほとんどベトナム人しか住んでいないような、こういうローカルな場所にも今広がり始めたのでしょう。

しかしこの店が日本人の間で有名になり過ぎると、私達二人の座る席が無くなりますので、「しばらくは、私たち二人だけのヒミツの穴場にしておきましょうね。」と話したことでした。



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