春さんのひとりごと
< 元日本兵・古川さんの奥さんの法要 >
三月初旬、サイゴンの南西にある Cai Be( カイ ベー )で行われた、 「元日本兵・古川さんの奥さんの法要」 に参加して来ました。昨年は古川さん の三十八回忌の法要に参加して来ました。
ベトナム戦争当時に、 Cai Be( カイ ベー ) でバナナを栽培していた、あのYさんから「今年からは古川さんと奥さんの法要を隔年ごとに交互にやることになりました。」という連絡を事前に頂きました。それで、私は今回初めて奥さんの法要に参加させて頂きました。
古川さんの奥さんはベトナム人で、十年前に亡くなられました。古川さんの奥さんの名前は、 Tran Thi Anh( チャン ティー アン ) さん と言います。 元日本兵・古川さんは 1975 年の 1 月 26 日 ( 旧暦 ) に亡くなられました。そして、奥さんは今から十年前の、 2004 年の 2 月 9 日 ( 旧暦 ) に亡くなられました。
その旧暦の2月9日に法要を行うことが決まりました。ベトナムでの慶弔の式は、すべて旧暦で動いています。結婚式の案内状でも、まず旧暦が最初に書いてあり、その後に太陽暦が書いてあります。そして、今年の旧暦の2月9日は、太陽暦では3 月9日になります。それで、3月8日から泊りがけで行きました。
ちなみに、今年の三月は太陽暦と旧暦の日付けがピタリと一致していました。太陽暦の3月1日が、旧暦では2月1日になります。そして3月30日までの一ヶ月間だけは、奇しくも太陽暦と旧暦は日にちが同じになりました。太陽暦の3月30日は、旧暦では2月30日になります。そして太陽暦の3月31日からズレ始めて、その日からが旧暦の3月1日になります。
後日、Yさんとたまたま 3 月 15 日の夜に一緒に飲んでいた時に、その旧暦の話になりました。Yさんが Cai Be でバナナを栽培していた時にも、潮の満ち干を知るのは、当然「旧暦」を見ながら考えていたといいます。Yさんはしみじみと次のような話をされました。
「いや〜、旧暦を初めに考え付き、作り上げた民族というのはスゴイですねー! Cai Be にいる時には、何の情報手段も無いので、潮の満ち干や月の満ち欠けは旧暦に頼るしかありませんでした。」
それでそれを検証するべく、この時に上空にある月を眺めましたら、見事な満月が頭上を煌々と照らしていたのでした。
● サイゴン ⇒ カイ ベー ●
3 月 8 日の朝早く、昨年と同じように ベンタン・バスターミナル からバスに乗って、 ミエンタイ・バスターミナル まで行くことにしました。私の他に今回同行する日本人は、女性の Gon ちゃん。彼女は人に自己紹介をする時に、いつも「私は Gon です。」と紹介していますが、最近まで私は彼女の本名を知らないままでいました。しかし、本名が分った今でも、呼ぶ時には「 Gon ちゃん!」と読んでいます。
彼女とは今から約五年前に知り合いました。 <フォトジャーナリストの村山さん> がベンタン市場前の「屋台村」に連れて来てくれて、そこでお互いを紹介してくれました。私は彼女の故郷が九州の福岡だと聞き、急に親近感が湧き、すぐに親しくなりました。
そして私が日本に帰り、故郷・熊本にいる時、彼女はわざわざ福岡から来てくれて、玉名で 『再会の乾杯!』 を毎年するようになりました。そして今年は二月の末からサイゴンに仕事で彼女が来ましたので、私たちはサイゴンで『再会の乾杯!』をしました。
さらに、たまたまサイゴン滞在中に彼女の誕生日を迎えましたので、最近私がよく行く、路上屋台の店「 SUSHI ◎◎」で、「誕生ケーキ」ならぬ、 「誕生 SUSHI 」を作ってもらい、○十歳の「誕生日祝い」をしました。特製「誕生 SUSHI 」は、寿司の握りを使い「 GON 」という文字を創作してくれました。
サイゴンから Cai Be までは約 110 kmあります。サイゴンから南西にある My Tho( ミー トー ) 市内を過ぎると Cai Be に着きます。メコン川が海に流れ出る場所に三角形の Ben Tre ( ベン チェー ) 省 があります。
その三角形の頂点に当たる位置に、古川さんがバナナを植えていた島 ( 通称第一農園 ) と、 元日本兵の松嶋さん という方にYさんが依頼してバナナを栽培していた島 (通称第二農園) があります。松嶋さんは偶然にも、故郷が私と同じ熊本です。さらには、私の故郷のすぐ近くの、玉名郡南関町の出身です。
朝 6 時 45 分に GON ちゃんとベンタン・バスターミナルで待ち合わせしました。このバス・ターミナルから2番のバスに乗って、ミエン タイ・バスターミナルに向かいます。切符はバス乗り込んでから、中で買いました。一人が 5000 ドン ( 約 25 円 ) 。実に安いものです。バスは 6 時 52 分に出発。
そして7時 40 分に、バスはミエン タイ・バスターミナルに到着。 50 分ほどで着きました。
ここで、昨年も Cai Be まで同行してくれた、 Xuan( スアン ) さん というべトナム人の女性と待ち合わせ。 Xuan さんは古川さんの三女の娘さんで、古川さんにとってはお孫さんになります。大変明るい女性です。 GON ちゃんとは初対面なので、私が紹介してあげました。
彼女が切符売り場に向かい、我々の切符を買って来てくれます。切符売り場のガラス板にはいろんな地名が書いてあり、金額も表示されています。中にいるおばさんが「どこに行く??ここで買え!!」と大声で叫んでいます。大声で叫ばなくても、買う人は買う、買わない人は買わないと思いますが。
Xuan さんが窓口に行って Cai Be までの切符を購入しようと頑張りますが、この日はお客が多いらしく、三人一緒に乗れるバスの席が少ないようです。そしてようやくして、三人ぶんの切符を購入出来ました。 Cai Be までは、一人が 10 万ドン。しかし、バスの発車時刻は、何と 9 時 45 分発。これから 1 時間半ほど待たないといけません。仕方なく、待合室に入って待つことに。
待合室は日が昇った後の朝の時間帯だからなのか、室内に電気は付いていません。薄暗いです。その中で待つことにしました。 Xuan さんは横で、朝食代わりのパン ( バインミー ) を食べています。私は朝が早かった( 5 時起床)ので、椅子の上でしばらくウツラウツラしていました。すると、突然前の方から大きな声で、私の名前を日本語で叫ぶ声が聞こえました。
( こんな所で誰が私を呼ぶ?? )
と、不思議に思い顔を上げて眼を開けると、何と眼の前には、私の教え子が二人立っているではありませんか!!「アレッ!!」と驚きました。聞けば、彼らの故郷は Vinh Long( ビンロン ) なので、土日の休みで田舎に帰るとのこと。まあ、ここはメコンデルタ方面に帰る人たちの中継地点になっているので、メコンデルタ出身の生徒たちに会っても不思議ではないのですが。
そして、 9 時 45 分発のバスに乗りました。席は九割がた埋まっていました。バスに乗ってしばらくすると、高速道路に入りました。ここから見える窓ガラス越しの光景は、昨年もそうでしたが、今植えたばかりのような青々とした色の稲や、黄色い穂を出している稲、そして、最近稲刈りを終えたような田んぼの光景が広がっています。
さらにまた走ると、水平線の先までずーっと青々とした色の田んぼが広がっています。日本では当たり前の 「春に田植え」「秋に稲刈り」 という光景が、ここでは同じ時間帯に現われています。
11 時 25 分にバスは国道と Cai Be への別れ道に到着しましたので、我々はそこで降りました。ここからフェリー乗り場まで、昨年はバイクタクシーで行きました。しかし、今回は古川さんの末の娘さんが一人バイクで迎えに来ていました。 Xuan さんはそれに乗り、私と Gon ちゃん二人は、バイクタクシーに乗って行きました。
途中で古川さんの娘さんと Xuan さんは、「市場で法要のための買い物をして来ます。」ということで、私と Gon ちゃん二人が先にフェリー乗り場まで行きました。フェリー乗り場までは 15 分ほどで着きました。バイクタクシーのおじさんには、二人ぶんで 5 万ドン ( 約 250 円 ) 払いました。
我々が着いたフェリー乗り場は昨年利用した場所と違い、新しい場所に移動していました。フェリーが来るまで少し時間があるので、 GON ちゃんと二人で 「 Nuoc Mia( ヌック ミア ) 」というサトウキビ・ジュースを飲むことに。暑いし、ここまで何も飲んでいなかったので、実に美味しいものでした。 ( こういうのが日本にもあればいいなー・・・ ) と、二人で話したことでした。
そして、フェリー乗り場に着いた時、ちょうどYさんから電話があり、対岸で待っているとのこと。私たち二人がサトウキビ・ジュースを飲みながら、川のほうを見ていますと、白人の観光客たちを乗せた「観光船」が水上を走っていました。
後でYさんが、「当時を知る私からすれば、考えられませんね ~ ・・・。」と話していました。この地区は「解放戦線」の基地があった場所ですから、爆弾が川越しに飛び交っていたといいます。かつて爆弾が飛び交っていた同じ場所を、今は白人の観光客が押し寄せているのです。往時を知るYさんから、そういう言葉が出てくるのも無理ありません。
私たちがちょうど「サトウキビ・ジュース」を飲み干した頃、古川さんの娘さんと Xuan さんが市場での買い物を終えて到着しました。そして待つことしばし、向こうからフェリーがやって来ました。乗っているのは、人・自転車・バイクだけ。車はありません。フェリーが着いたと同時に、みんなすぐ乗り込みました。
この日は土曜日でしたが、白いアオザイ来た生徒がいましたので、学校が終わったばかりのようです。フェリーの中には料金表がありました。バイクに乗って来た人で、日本円で約 30 円です。
=徒歩の人= ・・・ 3000 ドン
=自転車の人= ・・・ 4500 ドン
=バイクの人= ・・・ 6000 ドン
フェリーを運転する人は手で舵を握らずに、何と片足で操作していました。そしてフェリーに乗って5・6分ほどで、いよいよ対岸の島に到着。 Xa Tan Phong( タンフォン ) 村 と、看板に書いてあります。
対岸にはYさんが我々を待っていました。さらに古川さんの娘さんたちが二人、我々のためにバイクで迎えに来てくれていました。私はYさんのバイクの後ろに乗って、古川さんの家に向います。
それに乗って島の中にある細い道を走ります。途中で学校の前に花を咲かせていた見事な「ブーゲンビリア」には眼を奪われました。その「ブーゲンビリア」は小学校の前に覆いかぶさるようにして育っていました。ここに通う小学生たちは、毎日この花を見ながら学校の門をくぐって行くのでしょう。嬉しいでしょうね〜〜。
そしてバイクに乗ること 20 分ほどして、 12 時 40 分にようやく「元日本兵・古川さん」の家に到着しました。サイゴンの「ベンタン・バスターミナル」から、約6時間掛かりました。そこに着いてまず先に、ご夫婦の遺影に線香を上げさせて頂きました。
「古川さん、そして奥さん、今年もこの Cai Be に来ることが出来ました。有難うございます。 今日と明日、ここにお邪魔させて頂きます・・・。」
古川さんの三女のご主人が先に着いていました。その人が Xuan さんのお父さんです。彼は、カンボジア国境に近い Long Xuyen( ロン スィン ) に住んでいて、この日もその遠い所から来ていました。その彼と一緒に、 Cai Be までの無事到着を祝い、タイガー・ビールで乾杯!!我々の到着前に、Yさんがバケツに氷と缶ビールを入れていましたので、ギンギンに冷えていました。
ビールを飲みながら、周りの光景を見ていました。古川さんの家の周りには果樹がたくさん植えられています。昨年植えたばかりのドリアンの木が大きく成長していました。しかし、まだ実が成るのは数年先です。昨年は竜眼の実がたわわに実っていましたが、今年は実が付いていても、まだ小さい状態でした。「パパイヤ」「ジャック・フル−ツ」「マンゴー」「バナナ」は実が成っていました。
しばらくビールを飲みながら、当時のことをいろいろYさんから伺いました。Yさんは今 70 歳を超えられましたが実に壮健です。Yさんがバナナ栽培のために、 Cai Be でベトナム人の労働者を雇って切り開かれた 「第二農園」 の開拓は 1963 年からスタートしました。Yさんが 21 歳の時です。
そして、この日の古川さんの奥さんの法要に、Yさんは貴重な写真を収めたファイルを持ち込んでこられました。当時のバナナ園の開拓風景や、バナナ栽培時の様子を写した写真です。それらは、Yさん自らが写真に撮り、それを現像して、コピーされたものです。これは当時の時代背景を写したものとしては、第一級の資料と言えます。Yさんはそれらの写真のコピーを全て一冊のファイルに入れて、古川さんの家に寄贈されました。
Yさんを見ていまして驚嘆すべきことは、大変なメモ魔であり、ものスゴイ記憶力の持ち主であるということです。Yさんと話していますと、 50 年前に起きた出来事を、まるで昨日や最近の話のように再現されて語られるのです。
Yさんが寄贈されたファイルを一ページ・一ページめくっていますと、その全ての資料に、年月が打たれています。Yさんという人が、当時からいかに几帳面な人物なのかが良く分かります。これで、その写真がいつ頃のものなのかが、明瞭に分かるわけです。
「 1968 年 11 月第二農園事務所」 と記されている写真がありました。その写真には、当時の 26 歳のYさん、そして古川さんと松嶋さんが写っていました。Yさんの若き頃の顔付きを見ますと、実に精悍です。
さらに貴重な写真が二枚ありました。一枚目は、「第二農園前」を流れるメコン川で泳いでいる、 <報道写真家の石川文洋さん> の写真です。石川さんはYさんの大親友です。Yさんが日本に帰られた時には、いつも会われています。「石川さん」は 1938 年生まれです。
その写真には 「 1968 年 10 月 」と記されていますから、石川さんがこの Cai Be に来られたのは、ちょうど 30 歳の時になります。そして、 1968 年の 12 月までサイゴンにおられたといいますから、その二ヶ月前にこの Cai Be を訪問されたわけです。
二枚目は、またさらにスゴイ写真が出て来ました。今は亡くなられましたが、あの <大作家である開高 健さん> の写真です。その写真には、もの思いに耽る表情をした「開高さん」の表情がありました。その隣にいるYさんは、遠くを見つめている表情です。
これも同じく「 1968 年 10 月」と記されていますから、「開高さん」と「石川さん」は、時を同じくした頃に Cai Be を訪問されていたということになります。最初にこの二枚を見た時、別々のお二人の写真でしたので、 ( 違う時期に来られたのかな? ) と思っていました。
しかし、後でいろいろYさんに聞きましたら、やはり「石川文洋さん」が作家の「開高健さん」を誘って、 Cai Be に同行されたそうです。ですから、同じ日にお二人は Cai Be を訪問されて、Yさんに会われています。
さらにYさんは驚くべき貴重な資料を保存されていました。それは間違いなく 『戦争証跡博物館』 で展示に値する資料と言うべきでしょう。そもそも、このような資料を今も保存しているのは、日本人ではまずいないでしょうし、ベトナムの人もいないだろうと思います。
その資料とは、 ベトナム戦争当時に南の政府軍側が北の政府側に付いた兵士たちに対して投降、寝返りを勧めたビラです。しかもコピーではなく、当時のままの原版です。それらのビラは、上空を飛ぶ飛行機から撒かれて、畑や山に散らかって落ちてゆきました。
Yさんのバナナ園にも落ちて来ました。それをYさんは丹念に拾い集めて、余り汚れていない、きれいなものを選んで持ち帰りました。しかし、普通の人はこれを手にして見ても、内容を見たら捨てて終わりでしょう。しかし、Yさんは違いました。
その時これを見て、「歴史的な価値がある資料だ。」と思われたかどうかは分かりませんが、その全てを 50 年経った今に至るまで、大事に保存されていたのです。その資料をこの日、初めて見せて頂いた時、思わず唸りました。
サイゴンでは、今でも交差点に差し掛かると、お兄さんが良く広告宣伝のための「ビラ配り」をしています。しかし、みんなはチラッと見たら、すぐに捨てています。ああいうものを保存している人はまずいないでしょう。ああいうビラは、一度見たら「読み捨てゴミ」になってしまいます。
今Yさんが大事に保存しているこのビラも、当時はおそらく「読み捨てゴミ」のように、畑や山や海辺に撒かれていたはずです。みんな一度見たら、読んだ後には、おそらくゴミとして捨てていてしまっていたでしょう。しかし、Yさんは普通の人がゴミとしか思わなかったこのビラを、捨てないで大事に保存されていたのでした。
私が「ベトナムの人たちで、こういう資料を今も持っている人はいるのでしょうか。」とYさんに聞きますと、「いや、こういうビラを家の中に置いているのを見つかったら、北と南の双方から怪しまれ、身に危害が及ぶのを怖れたはずです。ですから、一度読んだら、すぐに捨てたでしょう。ですから、今も大事に持っている人はいないはずです。」と言われました。
そのファイルには、さまざまな種類のビラがありました。 「 家族の元に帰って来い!! 」 と、家族愛に訴えかけているビラもあります。 そして、 ここに顔写真が写っている人たちの中には、南の政権が倒れた後、アメリカに逃げて行った者もいるそうです。今のベトナムの人たち、そしてベトナム語が理解できる日本人がこれを見たら、大いなる興味と関心を抱くことでしょう。
そして日が暮れて、翌日の古川さんの奥さんの法要の買出しなどの準備も終わり、十時頃には男性群は部屋の中で談笑しています。女性群は明かりの点いた家の軒下で、トランプ博打をしています。ベトナムの人たちは本当に博打が好きです。
この日も私とYさんは二人だけで夜の 12 時過ぎまで延々と、それらの資料についてビールを飲みながらいろいろ話していました。と言っても、私は専ら聞き役で、 99 %はYさんが語り役です。
私と深夜に及ぶ話の中で、Yさんはずいぶん酔われていたからでしょうか、普段は話されない、次のようなことを話されました。それを聞いた私は、古川さんの 『奥さんの恩』 に対する、Yさんの思いの深さを知り、返す言葉がありませんでした。
「古川さんの奥さんには言葉に尽くせない<恩>を受けました。この Cai Be にバイクで来る時も、古川さんと、奥さんの生前の姿が瞼に浮かびます。もし来る途中で、交通事故に遭った時には、いつも次の言葉を神様に叶えて欲しいと思っています。“古川さんの奥さんに、一分間だけでいいから会わせて欲しい!”」
Gon ちゃんは蚊帳の中で先に寝ていました。田舎の朝方は寒くなるそうなので、家の人が厚手の毛布を彼女にかけておいてくれました。翌日が古川さんの奥さんの法要になります。
● 法要の日 ●
翌日、私は朝 6 時に起きました。家族の人たちはもっと早く、 5 時には起きて、この日の法要の準備に取り掛かっていました。私が起きた時には、多くの女性たちが料理の準備にすでに取り掛かっていました。
Yさんが言われるには、 「家族以外の女性たちは、みんな近所から応援に駆けつけた人たちですよ。ベトナムの田舎では、こういうふうに家で行う法事の場合は、隣近所の主婦の人たちが応援に来てくれます。昔の日本の田舎もそうでしたね。」 と。
確かにそうですね。日本でも、昔は結婚式を家で行うことが普通にありましたが、その時には村中の女性たちが応援に来て、ご飯を炊き、オカズを作っていましたね。そのような思い出が、私の子どもの頃の記憶の中にもあります。今は結婚式場でやりますので、そういう風習は日本の田舎からも消えてしまいました。
朝もやが立ち込める中を、私と Gon ちゃんはYさんの案内で、古川さんの家の周りを散策しました。この時間に、畑一面には雨が降ったかのように、しっとりと露が降りていました。古川さんの家の周りには、野菜もいろいろ植えてあります。「ナス」「オクラ」「かぼちゃ」「トウガラシ」など。
近くには魚の「養殖池」があります。「養殖場」の土手沿いには「ジャック・フル−ツ」が、ずらっと植えられていて、それが実を付けていました。「養殖場」では、 Ba Sa( バサ ) という魚を養殖しています。サバではありません。
この魚は日本にも輸出されていて、白身魚のフライなどに形を変えて、日本人のみなさんの食卓にも上っているはずです。「養殖池」の中に入り、この日のオカズにするつもりでしょうか、おじさんが網でその魚を獲っていました。
古川さんの家から歩いて、わずか五分ほどで土手に着きました。目の前を「メコン川」が悠々と流れています。早朝のメコン川には早くも多くの船が行き来しています。Yさんが「第二農園」に住んでいた当時も、多くの船がこの川を通過していたと言います。
そしてYさんは第二農園がある島から古川さんの家まで、お昼と夕方の一日ニ回手漕ぎ舟で往復して、食事を摂りに行っていたと言われました。Yさんが住んでいた島には市場も無いし、農園の事務所には調理道具も無かったので、古川さんの家で毎日お昼と夕方は食事されていたのでした。その時、奥さんが親身になってYさんを世話してくれたそうです。
ある日、Yさんが松嶋さんと二人でメコン川を眺めていたら、一隻の大きい船が通過しようとしていました。その船体には「日の丸」が赤く描いてありました。それを見た松嶋さんが、
「俺もお金があれば、船に乗って日本に帰りたいよ・・・。」
と呟くように言われたそうです。隣に立ったYさんが、その時の松嶋さんの横顔をふと見ると、眼を細めて、遠い故国・日本に思いを馳せているような表情をされていたそうです。Yさんは、 ( その時の松嶋さんの胸中の辛さは如何ばかりか・・・ ) と想像されたといいます。
私たちは古川さんの農園のほうまで歩いて行きました。果樹園の大半には「竜眼」が植えられていますが、所々に「バナナ」もあります。Yさんの話では、「バナナ」は約 6 ヶ月でその寿命を終えるそうです。であれば、今眼の前にある「バナナ」樹は、Yさんが栽培していた時から百代目くらいの孫になるのでしょう。
「バナナ」樹を良く見ますと、先のほうには紫色をした、砲弾のようなものがあります。それがバナナの花です。この中には、バナナのまだ若い房が詰まっています。そして、この花の部分を切り取って、それを切り刻んで、ベトナムでは鍋料理に入れて食べたりします。大変美味しいものです。
その花がだんだんと開き、小さいサイズのバナナが櫛状に並んで現われてきます。それが大きくなると、市場で見るような、反りの入ったバナナの房になってゆくのです。我々が普段食べている「バナナ」は、こういうふうにして実を付けてゆくのだなーというのが良く分かります。そして「バナナ」の親樹の根元から、「バナナ」の子どもが芽を出して、「バナナ」はどんどんと増えてゆきます。
Yさんのバナナ園「第二農園」は、 1963 年から開拓を始めました。バナナ樹を目の前にして、Yさんが私と Gon ちゃんにいろいろと説明してくれます。Yさんが両手を使って我々に示してくれます。
「このバナナの房の中にはこれくらいの長さの、バナナと同じ、緑色をした<毒ヘビ>が隠れていてね〜。当時、従業員が何人も<毒ヘビ>に噛まれたことがあってね〜。」
その当時、現に「バナナ」を栽培していた人の言葉ですので、真実味があります。この時Yさんが立って我々に説明をされている場所は、おそらく 50 年前にも何回も足繁く歩いた場所なのでしょう。昨日「バナナ園」の開拓風景の写真を見たばかりでしたので、その写真のイメージと重なりました。
それから、古川さんの家に戻ると「奥さんの法要」のための料理の準備が始まっていました。隣近所から多くの主婦の方々が料理の手伝いに来ています。デカイ氷も外から買って来ました。手袋もはめずに、素手で抱えるようにして家の中に運び入れましたが、いかにも冷たさそうでした。
「しばらくしたら、料理が出来上がるから、朝ごはん代わりにこれでも食べていて!」
と家人の方から言われて、頂いたのがバナナの葉に包んだお餅と、手長エビでした。 Gonちゃんはすぐその場で食べて「美味しいです〜〜!!」と喜んでいました。私は昨日のビールの酔いがまだ少し残っていたので、お茶だけを頂きました。
しかし、法要のための料理の準備は全て女性たちがやっていましたが、その動きはキビキビしたものでした。古川さんの娘さんが肩に担いで、大きくて、長い、白い物を調理場に持ち込みました。彼女の身長と同じくらいの長さでした。(何だろうか?)と思いましたら、バナナ樹の芯の部分でした。
畑に生えているバナナの中から、まだ実を付けていない若い「バナナ」樹を切り倒し、外側の堅い部分を捨て、中心部の白くて柔らかい、芯の部分だけを残して台所に持ち込んでいました。これは「サラダ料理」の材料に使います。
まだ実を付けていない「バナナ」樹は、芯の部分が柔らかくて、少し甘味があるので、他の具材と混ぜ合わせて、「バナナのサラダ」を作ります。バナナの芯がサラダに生まれ変わるのです。その切り方が実に手際が良かったので、この料理方法には慣れているのだろうなーと思いました。
しかし、バナナというのは実の部分はそのまま食べ、その葉っぱは餅やオコワなどを包むのに使い、花は鍋に入れて食べ、芯はこのようにサラダにして食べられます。バナナというのは、捨てるところが無い植物です。その光景を見ていまして。あらためて感心しました。
主婦の方たちの共同作業で、いろんな料理がドンドン出来上がってゆきます。ライスペーパーではなく、 Bun( ブン ) という米の麺で巻いた春巻きも作っていました。米の麺は白と緑の二種類がありました。出来上がったのを見ると、そのコントラストが鮮やかです。
どんどんと出来上がってくる料理を、男性群はお茶を飲みながら待つだけです。そして、出来上がった料理がどんどんと台の上に並べられます。昨年もそうでしたが、今年もすごい種類の多さです。そして、それらの料理を次々と各テーブルの上に並べます。
最初は、「奥さんの法要」のお供えとして、外に置いたテーブルに料理を置きました。それが終わると、家人の方々がお線香を上げ始めましたので、私たちも同じくお線香を上げました。さらに、庭先に据えてある祭壇にも線香を上げました。その祭壇には「天神」という名前が彫ってありましたが、「天の神」のことでしょうか。
「法要」が始まる前は、まだ参加者もまばらです。そしていよいよ 10 時頃に、本格的に「奥さんの法要」がスタートしました。昨年の古川さんの法要の時も同じでしたが、ベトナムの<法要>は、お坊さんが来てお経を上げる訳ではありません。みんなで楽しく食事をして、ビールを飲んで、焼酎を飲んで過ごすのがベトナムの<法要>の普通の姿です。長男からの挨拶などもありません。みんなテーブルに座り、テーブルの上の料理を頂くだけです。
4 つのテーブルに、 40 人ほどが座りました。古川さんの長男は車椅子に乗ってテーブルに向かっています。彼の長男が生まれてから、ある日椰子の木に登りココナッツをもぎ取ろうとして、木から落ちて半身不随になりました。それから以降は、奥さんが仕事も家庭内のことも、全て一人で切り盛りされて来ました。「なかなか出来るものじゃありませんよね・・・」とは、Yさんの話です。
10 時から始まった<法要>の宴会は、 11 時半頃まで続きました。近くに住む人たちは、どんどんビールを飲んでいます。しかし、我々はこの日にサイゴンに帰らないといけませんので、ビールを飲むのは少しだけにしました。 Xuan さんに「何時にここを出るの?」と聞きますと、「今出ると暑いので、昼過ぎの一時半頃出ましょう。」との返事。それまで昼寝をすることにしました。
● カイ ベー ⇒ サイゴン ●
そして、昼寝をしばらくした後、一時半頃に古川さんの家族の方々に別れを告げました。「また来年も来てね!!」と、家族の方たちが別れ際に言ってくれました。三台のバイクを出してくれて、我々をフェリー乗り場まで送ってくれました。
着いた場所は、8日に着いたフェリー乗り場とはまた違う場所でした。フェリー乗り場の前を大きな運搬船が動いています。フェリーを渡った所を少しバイクで走っていましたら、バナナを出荷している場面を見ました。この Cai Be で育ったバナナが、今からまさに出荷されている光景を、この時初めて見ました。
バナナの図が書いてある箱に、バナナの房を入れていました。その後ろには、バナナを積んでいるトラックが待機しています。目方を図っている場面も見ました。しかし、バナナは黄色い状態ではなく、やはりまだ青い状態のままで箱詰めしていました。
今まで私にとって、「バナナ」は「ただのバナナ」でしかありませんでしたが、Yさんと出会い、 「古川さんのバナナ園」 そして 「松嶋さんのバナナ園」 の存在などを直接知ったことで、 「バナナに籠められたドラマ」 を学ぶことが出来ました。
そして我々三人が乗ったバイクがバス停に着いたのは午後二時。そこでミエンタイ・バスターミナル行きのバスをしばらく待ち、二時半発のバスに乗り込みました。バスは寝台車のような座席で、一人・一人の席がリクライニングになっていました。このバスに乗り、ミエンタイ・バスターミナルまで一人が7万ドン。
そして、 4 時 40 分にミエンタイ・バスターミナルに到着。 Xuan さんとはここでお別れです。 Xuan さんは昨年も今年も我々の Cai Be 行きをいろいろ助けてくれました。外国人だけでは、なかなか Cai Be までは行き着くのは難しいでしょう。 Xuan さんのお陰で、行きも帰りもトラブルなく終わりました。
ミエンタイ・バスターミナルで私達は Xuan さんと別れました。彼女は「ここでお別れですね。来年もまた Cai Be へ行きましょうね。」と言って、古川さんの家族からお土産に貰った、大きな袋を肩に担いで、自分が乗るバスの方に歩いて行きました。
Xuan さんはバスに向って歩きながら、こちらを時折振り返りニコニコした笑顔を浮かべていました。その後ろ姿を私はしばらく見ていました。
古川さんは若き日に国の命令で、このベトナムという遠い地まで来て、その一生を終えられました。しかし、このベトナムの Cai Be で奥さんと出会い、六人の子どもさんに恵まれました。
「古川さんの血を引いたお孫さんが、今こうして存在しているのだ・・・」
と思いますと、感無量になります。
古川さんは Xuan さんが生まれた時には、すでに亡くなられていましたが、古川さんの奥さんは Xuan さんが大きくなった姿までは見ています。そして彼女は「おじいさん」「おばあさん」の法要に、サイゴンから毎年来てくれています。さぞ、お二人とも天国で喜んでおられることでしょう。
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