アオザイ通信
【2014年7月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本帰国時の再会>

● ハチ公前での再会 ●

6月初旬に日本に一時帰国しました。今年は妻子を連れての帰国になりました。妻子にとっては6年ぶりの日本訪問となりました。

今まで私はいつも4月に帰っていましたが、4月のベトナムはまだ学校の授業があり、娘を連れて帰ることが出来ませんでした。しかし、今年は久しぶりに娘を連れて帰って母親に会わせたいと思い、娘の学校が夏休みに入る6月を待って帰国した次第です。

日本に到着した日に本社に入り、その翌日には東京を目指しました。東京には、私が会いたいと思う人が多くいました。その一人が、私の女房の弟です。彼は日本人女性と結婚して、今東京に住んでいます。現在は東京都内のホテルに勤めています。今年 30 歳になります。そして、3歳の男の子・ Nam ちゃんが一人います。

当日私達は渋谷の 「忠犬ハチ公」 の銅像前で待ち合わせをすることにしました。有名な待ち合わせ場所だけに、やはりこの日も多くの人たちがハチ公の銅像前にいました。我々は十時半に待ち合わせをしていましたが、お互いに決めた時間通りに到着しましたので、ハチ公前に集っていた人ごみの中でも容易に会うことが出来ました。

ベトナム人の弟くんとは二年ぶりの再会でした。二年前のテト(旧正月)の時、弟くんは家族三人でサイゴンの実家を訪問しました。その時には小さかった Nam ちゃんも、今年会った時には大きく成長していました。

私たちは久しぶりの再会を喜び、「忠犬ハチ公」の前で記念写真を撮りました。昼食を摂るにはまだ早いので、 <渋谷名物のスクランブル交差点> の光景を見物するべく、そこがよく見える高いビルに行きました。

「渋谷名物のスクランブル交差点」は YouTube などでも紹介されて有名になりました。弟くんの奥さんが待ち合わせ場所に指定したのがたまたま渋谷でしたので、それを思い出してみんなで高いビルまで移動して見ることにしました。

交差点にはお互いに見知らぬ、関係ない人たちが集まっているのでしょうが、 YouTube で見ると青信号になるやいなや、あたかも幾筋かの川が流れるかのように、横断歩道が切れるところまで人の群が移動してゆきます。まるで意思が統一されたように、大した混乱も、歩行者同士の衝突もなくみんなが歩き、赤信号が点滅し始めるとそのドラマが終わります。日本人にはどういうこともない、当たり前の光景ですが、外国人から見ると驚きの光景のようです。

この日は YouTube で見た時ほどの歩行者の数はいませんでしたが、それでも生まれて初めてそれを見た私の女房は、「わー!」と驚いていました。弟くんもやはり初めて見たらしく、目を見開いていました。

そして昼食をその交差点の近くで摂り、その後は <スカイツリー> を見に行くことにしました。墨田区に入る前から、遠くからその姿が見えて来ました。しかし、あいにくこの日は雨模様で、スカイツリーの上部は見えませんでした。スカイツリーに着いた時には午後一時を過ぎていました。

しかし、ツリーの上のほうは雨雲に覆われてよく見えません。天気が良ければ上に昇り、富士山を見たかったのですが ( この雨雲では富士山も見えず、ツリーの下の光景も見えないだろうな・・・ ) と思い、ツリーの上まで昇るのは断念しました。弟くんたちはまだしばらくそこにいて見学したいというので、そこで私たちは別れました。

● 昔の大家さんとの再会 ●

弟くんたちと別れた後、私達三人は以前東京でお世話になったアパートの大家さんを訪ねるべく、電車に乗りました。今そこには「おばさん」が一人で住んでおられます。6年前にもそこを私たち家族で訪ねましたので、久しぶりの再会になります。

大学生時代、私は東京の葛飾区に住んでいました。熊本から出て来た私は当然アパートを探さなければなりません。学生課に行き、葛飾区にあるアパートを紹介されました。

下町であるということも気に入り、そこの大家さんとも話して、大変人柄の良い印象を受けましたので、私はすぐにその場で 「お願いします!」 と頭を下げて、そのアパートに入居させて頂くことになりました。

そして結果として、それから東京を去る日が来るまでそのアパートを変えることなく、ずっとそこに住み続けることになりました。「その理由は・・・?」と言いますと、何と言っても大家さんご夫婦の面倒見の良さに尽きます。

新しい入居者が四月に決まると、必ず大家さんがそのアパートに入居している全員を集めて 「歓迎会」 を開いてくれるのでした。それは私が入居した時にはすでに行われていました。他の先輩たちに後で聞いたら、ずっと以前からやっているという話でした。

私たちが大家さんご夫妻を呼ぶ時には、全員が 「おじさん」「おばさん」 という呼び方をしていました。この大学生時代から社会人に至るまで、今まで私も幾つかのアパートに入りましたが、アパートの住人と大家さんの関係があれほど親密だったのは、後にも先にもあそこしかありませんでした。大家さんご夫妻のお名前は 「森川さん」 と言います。そのアパートの名前は 「森川荘」

おじさんの趣味はアーチェリーで、応接間の壁には幾つもの弓が掛けてありました。そしてその腕前は相当なもので、 「ゴールドメダル」 と呼ばれる、都内でも数人しかいない賞を獲得されていました。また幾つかの大会で優勝した時の賞状が、額に入れて何枚も飾ってありました。

私がアパートに入ってしばらく経つうちに、夕方頃会社の仕事から帰って来たおじさんから「飲みにいくぞ!」と声が掛かってきました。と言っても、直接おじさんが言いに来るのではなく、いつもおばさんが私の部屋の窓ガラスをコンコンと叩きます。

私が住んでいた部屋は、おじさんの家のすぐ隣にありましたので、まず一番先に私が誘われます。私が窓を開けると 「お父さんが<飲みに行かない?>と言ってるよ。」 とおばさんがニコッと笑われるのでした。私のほうに異論はありません。二つ返事で「行きますよ!」と答えます。それから私がみんなに伝えます。

おじさんが誘うのは私一人だけではなく、そのアパートに下宿していた数人にも声を掛けられます。みんなも喜んでおじさんと一緒に連れ立って行きました。おばさんもお酒が好きなので、おじさんと一緒に行きました。

行く場所は大体がアパートの近くの居酒屋ですが、ある時などは 「浅草の電気ブランを飲みに行こう!」 と誘われました。 「電気ブラン」 という名前はおじさんから初めて教えてもらいました。浅草に着きそれを飲みましたが、何とも不思議な味がしたのを今も覚えています。

おじさんから誘われて、私たち下宿人たちは居酒屋などで飲んでいましたが、いつも勘定はおじさん持ちでした。頑として私たち学生たちに払わせてはくれませんでした。横にいるおばさんがさっと払われます。そういう辺りは 「江戸っ子の気風の良さ」 を漂わせていたおじさんでした。

今にして思うと、私たちが一ヶ月に払うアパートの家賃代よりも、おじさんが払う飲み屋の勘定のほうが確実に多かったことでしょう。そういう大家さんが果たしてほかにいるでしょうか。寡聞にして知りません。しかし、私たちのアパートの「おじさん」「おばさん」はそういう人でした。

おじさんが 「還暦」 を迎えた時、下宿人の中でもおじさんから一番お世話になっていた人たち六人が、それぞれ 「還暦祝い」 の文を寄せました。その中でも一番年長者の喜田さんがそれらを一冊の文集として編んで、おじさんに贈呈されました。こういう冊子を下宿人から贈られるというのは、おじさんの人徳というべきでしょう。それは今も、ベトナムにいる私の手元にあります。

題名は 『堀切奇譚 ( ほりきりきたん ) 』 。全部で 40 ページの小冊子です。各自が寄せてくれたタイトルと、その姓だけを紹介します。

◇ 森川荘は楽しかりき        ・・・阿部
◇ 堀 切 界 隈           ・・・松本
◇ 堀切に江戸っ子を見て      ・・・成田
◇ 変わるものと、変わらざるものと・・・多久
◇ 還暦を祝い、森川荘を想う    ・・・小松
◇ 森川点描               ・・・喜田

そのおじさんは今から二十数年前に亡くなられました。当時姫路で働いていた私に、アパート時代の友人から連絡が入り、そのお葬儀には私も参列しました。おじさんのお葬儀には、あの当時おじさんから誘われて一緒に飲んでいた多くの友人たちが来ていました。

葬儀が終った後、私たちはかつておじさんと飲んでいた居酒屋に集り、みんなでおじさんを偲びました。みんなが「森川荘」を去った時には、まだおじさんも元気な姿で活躍されていた頃です。おじさんの訃報が突然届き、誰もが顔を仰いで涙していました。

それから長い歳月が流れましたが、今から6年前に私が日本に帰国した時、妻子を連れておばさんを訪ねたことがありました。それは私がベトナムに行って以来、初めての再会でした。おばさんは大変喜んでくれました。

そして、また今回も妻子を連れておばさんを訪ねました。 『堀切菖蒲園』 で電車を降りますと、たまたま 「菖蒲祭り」 をやっていて、道路が交通規制され、タクシーがなかなか捕まりません。仕方なく、そこから歩いておばさんの家まで向いました。歩くこと約 20 分。昔と変わらないおばさんの家が見えて来ました。

私たちが以前住んでいたアパートは取り壊されて、駐車場に変わっていました。でも、私が住んでいた部屋はそのまま残っていました。後でおばさんに聞きますと、娘さんご夫婦がそこに住んでいるとのことでした。女房と娘に 「お父さんが大学生時代に住んでいたのがこの部屋だよ。」 と言いますと ( ふーん ) と肯いて、しばらくじっと見ていました。

玄関先に立ち、呼び鈴を鳴らしました。おばさんが現われてこられました。髪は少し白くなられましたが、昔と変わらぬ明るい笑顔の「おばさん」がニコッと笑い、私達を迎えてくれました。

先におじさんの遺影にお参りさせてもらいました。それから、私たちはひさしぶりの再会を喜びました。以前訪ねた時には5歳だった娘も、今 11 歳になっていましたので、おばさんも喜んでおられました。

おばさんとは一時間近く話したでしょうか。またの再会を約束して 「森川荘」 を離れました。門のそばで、おばさんは私たちの姿が見えなくなるまで手を振っておられました。

● 浅草・染太郎での再会 ●

おばさんとの再会を果たした後、葛飾区からバスに乗り浅草に向かいました。目指すは 【浅草・染太郎】 です。途中でバスの中からも <スカイツリー> が見えました。一時間ほどして、バスは 「雷門」 前に到着。染太郎での待ち合わせ時間は6時半でした。

今からちょうど五年前に、私は初めて【浅草・染太郎】に行きました。初めて染太郎を外から見た時に大変驚きました。そこの区画だけが、まるで時代劇に出てくるような雰囲気を漂わせていました。後で聞けば、今年で創業 77 年になるそうです。

五年前に初めて店の中に入った時、さらにその思いが強くなりました。 ( よくぞまあ、大都会の東京の真ん中にこういう店があるものだ・・・ ) と正直思いました。店内の壁にはいろんな方の色紙が貼ってありました。 高見 順さん、 坂口安吾さん、大島 渚さん、開高 健さん、渥美 清さん、小林桂樹さん・・・などなど。

5時過ぎに私達は着いたので、「雷門」の仲見世をお土産購入も兼ねてぶらぶら見学しました。仲見世の通りは多くの観光客で賑わっていました。白人さんも多かったですね。

しばらくは仲見世を見物して、そこから歩いて染太郎に向うことにしました。歩いてゆくと 「電気ブラン・神谷バー」 という看板を見かけました。葛飾区のおじさんを思い出し、ふと足がそこで止まりました。

この日に染太郎でお会いする予定の人たちは、以前染太郎の総支配人をされていたSさん、 ベトナム南部の Cai Be( カイ ベー ) でバナナを栽培されていたYさん。 Binh Duong( ビン ユーン ) 省で喫茶店・ Gio va Nuoc( ゾー バー ヌック:風と水 ) を経営されていた SB さん。 Saint Vinh Son 小学校の運営責任者のFさん。 「ベトナム戦場再訪」 という本を執筆された北畠先生たち です。以上の全ての人たちが、ベトナムと繋がっています。そして、北畠先生はその本を、ベトナムにいる私にまで送って頂きました。

しかし、この日北畠先生は急な用事が入り、「皆さんとは長時間話が出来ないけれど、挨拶をしに顔だけ出します。その時自分の本を皆さん方にプレゼントしたいと思います。」と事前に私に連絡されました。

「雷門」から歩いて十分ほどで染太郎の店が見えて来ました。その店の前まで来た時、私の名前を呼ぶ声がしました。その声の方を見ると、一人の男性が自転車に乗って停まっていました。マスクをしていましたので、 ( 誰かな? ) と思いましたが、声を聞けばすぐに分かりました。 SB さんでした。

「こんな所で何をしているのですか。」と私が聞きますと、 SB さんは「実は昨日からインフルエンザに罹り、みなさんにうつすといけないので今日の参加は止めておきます。そのことを皆さんにお伝えしたいと思い、外で待っていました。」と言われたのでした。「そうですか・・・。それは残念ですねー」と、私は言うしかありませんでした。

そして店の中に入ると、Yさん、Fさん、Sさん、北畠先生たちが既に着席しておられました。北畠先生が三人を前にしていろいろ話しておられました。私が北畠先生にSBさんを紹介して、今日の会合には参加出来ない旨を伝えました。

それで北畠先生は SB さんにご自分の著書をプレゼントされました。それからお二人とも染太郎を去って行かれました。お二人とは長時間の話は出来ませんでしたが、東京でお会い出来ただけでも幸運でした。

この日も染太郎で総支配人をされていたSさん自らが、お好み焼き専用のコテを握り、私たちにいろんなメニューを焼いて頂きました。最初はイカを丸ごと一匹と、ホタテを焼いてもらいました。そして焼きソバ、次にチーズ焼き。あんこが入ったお好み焼き。名前を何というのか忘れましたが、餅を四角い壁にしてその中に具材を入れたもの。

YさんはSさんの大親友なので以前からちょくちょくここには来られていましたが、Fさんは初めてだったようで、染太郎の料理と雰囲気を楽しまれていました。私の女房と娘もこういう所でお好み焼きを食べるのは初めてなので、Sさんが次々と繰り広げられるコテさばきに興味津々でした。

来年は Cai Be で 『元日本兵・古川さんの四十回忌』 になりますが、Sさんも来年の古川さんの法要には参加したいという意欲を示されていました。私たちはベトナムでの再会を約束して、そこを9時くらいに出ました。

一日の間に三つの場所に妻子を連れての移動になりましたが、大変充実した東京での思い出が出来ました。

● ベトナムの教え子たちとの再会 ●

今熊本市内にある 「熊本外語学校」 に、 今年から 8 人のベトナム人の生徒たちが留学生として行きました。「熊本外語学校」にとっては、初めてのベトナムからの留学生でした。

6月下旬、その学校を訪問しました。事前に校長先生には伝えていましたので、ちょうど生徒たちの授業が終わる頃に着くようにしました。

みんな教室の中で待っていてくれました。女性の先生も2人教室におられました。8人の生徒は男子が6人、女子が2人です。懐かしい顔ぶれです。校長先生に伺うと、成績の上下差があり、成績上位の者に限ってアルバイトを許しているそうです。

久しぶりに会ったので、一人・一人に改めて自己紹介と目標を日本語で話してもらいました。ベトナムで勉強していた頃と比べると、やはり上達していました

日本人の女性の先生から、 『生徒たちに活を入れて頂くように!』 と、私に二つのことをお願いされました。一つ目は、漢字の読み方の小テストで点の低い生徒と、点数が0点の生徒に対して、「もっと頑張れ!」と励ましてもらいたいこと。

二つ目は、一部の生徒たちが深夜 12 時近くまで寮の中の一つの部屋に集っておしゃべりをしていることに対しての注意。女性の先生方が言われるのももっともです。

私は 「何をしに日本へ、熊本に来たのか?目標を忘れるな!」 という話をしました。

「ベトナムにいるご両親たちは、日本のほうを見つめて、 ( 我が息子、娘たちは頑張っているだろうか・・? ) と、いつも気にかけていることでしょう。漢字は毎日最低 50 個練習すること。部屋での深夜までのお喋りは禁止。遅くても 10 時までとすること。大体ベトナム人同士ベトナム語で長々と話して何の意味があるの?」 と話し、その場で男女の部屋長を決め、もしそれを超えて話している場合は、部屋長の責任とすると言いますと、彼らは「分かりました。」と返事してくれました。

来年もまたこの学校を訪問するつもりですが、彼ら8人がどこまで成長しているかが楽しみです。

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そしてその翌日、鹿児島の垂水市に行きました。ここを訪問する目的は 「垂水漁協」 <カンパチの水産加工> を している 4 人の実習生たちに会うことです。さらにまた、次に派遣する実習生たちの受け入れ人数と時期の確認のためにです。全ての段取りは知人のUさんがしてくれました。

当日の鹿児島地方は大雨でした。鹿児島港からフェリーに乗りましたが、ふだんは目の前に大きく聳えて見える 「桜島」 も、雨と雲で頂上のほうは全然見えません。この時には女房と娘も同行していましたが、ベトナムでは見ることが出来ない 「活火山」 を見せてあげることが出来ませんでした。

12 時半頃「垂水漁協」に着きました。漁協の人たちと、4人の実習生たちが待っていてくれました。実は当初ここには5人の実習生が来たのですが、一人は一年も経たないうちに帰国しました。垂水市に彼らベトナム人の実習生たちが着いた時、Uさんからは「町をあげての大歓迎でしたよ!」と聞いていましたので、残念でなりませんでした。

でも残った4人は真面目に頑張ってくれているようで、会社の人たちからも可愛がられている様子でした。我々は漁協のすぐ隣にある食堂で一緒にお昼ご飯を摂ることにしました。ここは社員食堂のようでもありましたが、一般のお客さんたちも入って来ていました。

料理は事前に準備されていて、わたしたちが着席すると同時にすぐに出て来ました。刺身、焼き魚、煮付け、吸い物など、全てがカンパチ尽くしの料理でした。私はカンパチの刺身だけは食べたことがありますが、こういうカンパチ料理は初めてでした。

食事しながら彼らにいろいろ話を聞きました。毎日の仕事は朝6時から昼過ぎの2時までしていること。加工の仕事が中心なので、肉体的にはさほどキツクはないこと。カンパチの加工で残った部位や、商品として使えない部分は捨てないで、自分たちに呉れて、それが自分たちのオカズになるので、スーパーで魚を買う必要が無いこと。

他にも、漁協の人たちが野菜や果物などを 「これを持って行け!あれも持って行け!」 と言って、いろいろプレゼントしてくれること。彼らも漁協の人たちの親切さに感謝している様子でした。私は ( まだまだ、町をあげての歓迎の余韻が続いているのだろうか・・・ ) と、嬉しく思いました。

そして食事後に、彼らの寮を見学に行きました。その寮は漁協から歩いてすぐの所にありました。以前建ててあった家を改築して、新しい建物になっていました。台所や風呂場もきれいで、寝る部屋も広々としていました。

冷蔵庫の中を開けてくれて、会社からもらったカンパチや野菜などを見せてくれました。確かに、それらが冷蔵庫いっぱいに入っていました。これなら食費代はほとんど使わなくて済むでしょう。

寝る部屋は3つほどあり、この広さならあと 10 名ほど増えても大丈夫だろうな〜と思いました。これからカンパチの海外への輸出が順調にゆけば、垂水市に派遣されるベトナム人の実習生たちが増えてゆくでしょう。

実は、今回の垂水市の 「ベトナム人実習生受け入れ」 のニュースは、現地の鹿児島でも新聞やテレビで大きく報道されました。その後Uさんのほうには、いろんな会社から打診があったそうです。ただUさんが懸念している材料がありました。

それらの会社にはすでに中国人の実習生たちが働いていたからです。もし彼ら中国人が働いている職場に、ベトナム人が一緒に働くことになればどうなることだろうか?

今中国とベトナムの間の 「領土問題」 で紛争が起きている ≪政治の対立≫ が、 ≪職場での対立≫ になって表われてこないか?・・・それを心配されているのでした。

「今回来たベトナムの実習生たちは、本当に素直で働き者ですよ。ですからもっと増やしたいのですがね。」とUさんは私に話されました。中国のとどまる所を知らない 「覇権主義の野望」 は、日本のこういう遠い場所にまで影響を及ぼしているのでした。

寮で別れる時も大雨が降っていました。 「漁協の人たちもいい人たちだから、三年間しっかり頑張ってベトナムに帰って来てね!」 と励まして、彼らとお別れしました。

● 保育園の先生との再会 ●

6年前、5歳の娘を故郷の熊本に連れて帰った時、 (せっかくだから娘と同年齢の日本の子どもたちと交流させたいなー) と思い、私の田舎にある保育園にいろいろ打診しました。

「実は私の娘はベトナムから来ましたが、短い日本滞在の間に日本の子どもたちと一週間でもいいですから交流したいと希望しています。出来れば入園させて頂けませんでしょうか。」

そういう内容で幾つかの保育園に電話しましたら、ある保育園の園長先生が「いいですよ。一週間でもお預かりしますよ。」と気軽に受け入れてくれました。娘も私達も嬉しくて仕方ありませんでした。その名前は南関町にある 「第四保育園」 と言いました。

受け入れて頂いたその保育園に通ったのは僅か五日間だけでしたが、別れる時にそのクラスの全員が娘のために色紙を書いてプレゼントしてくれました。短い保育園通いでしたが、ある一日は遠足もありました。私と女房もその時には一緒に行きました。

しかし、僅かな期間にもかかわらず、異国から来た娘を快く受け入れて頂いた学校と先生方と日本の子どもさんたちに、私たちは深い感謝の気持ちを持ち続けていました。

さらには、僅か五日間ながら、毎日の娘の出来事を小まめに記録した 「連絡帳」 を頂きました。その「連絡帳」は今も熊本の実家にあります。そして担任の先生の名前も書いてありました。 <日吉先生> と書いてありました。

それで 「またいつか娘が日本に行く時には、必ずあの保育園を訪ねよう。その時の先生たちに挨拶をしに行こうね。」 と決めていました。それが6年ぶりに、今年ようやく実現するかもしれないのでした。

しかし、ことはそう簡単ではありませんでした。故郷に滞在中のいろいろな行事を片付けた後の六月下旬、以前娘がお世話になった保育園の電話番号に、私が電話を掛けました。すると 「この電話番号は現在使われておりません。」 というメッセージが流れて来たではありませんか。

( 昔の電話番号が使われていない!?廃校になったのか? )

と想像するしかありませんでした。しかし、諦めきれずに 104 の番号案内に電話をしました。 「実は以前南関町に第四保育園というのがあったのですが、同じ町に他の保育園はありませんか?」 と聞きますと、三つほどの保育園の名前を挙げて頂きました。それでその全てに電話を掛けました。

「6年前に私の娘はベトナムから来ました、その時五日間だけ第四保育園という所で娘を預かって頂きました。その時の担任の先生が<日吉先生>という方ですが、ご存知ありませんか。」

すると、ある一つの保育園の方が 「ええ、その当時の第四保育園は統合されて、今は【こどもの丘保育園】という名前になっています。<日吉先生>とい名前の先生もここにおられますよ。」 と言われるではありませんか。それを聞いて驚きました。嬉しくてたまりませんでした。何でも、南関町には当時第一から第四までの保育園があり、現在はその四つがそこに統合されたというのでした。

そして、すぐにその<日吉先生>が電話を代わられました。<日吉先生>もベトナムから来た子どもだけに、6年前の我が娘のことをよく覚えておられました。昔の電話番号が通じなかったので、 ( 6年ぶりの再会は無理か・・・ ) と諦めかけていましたが、こうして6年後に直接<日吉先生>と話が出来るとは信じられない思いでした。<日吉先生>も電話口の向こうで喜んでおられました。

そしてその翌日、家族三人で 【こどもの丘保育園】を訪ねることにしました。初めて行く場所だけに道が分からず、途中・途中で人に聞きながら、家から 40 分ほどで【こどもの丘保育園】に到着しました。小高い丘を切り開いた場所に、それはありました。

車から降りて驚きました。その施設の広さ、大きさ、新しさにです。小高い丘には芝が貼られていて、野外活動が出来るようになっています。さらには、ソリに乗ってその芝生の上を滑ることが出来るようにしてあります。幼い子どもたちにとっては、実に開放的なゆとりのある空間が広がっています。

私たちに最初に対応された園長先生が言われるには、 「この施設は4年前に完成し、敷地面積の広さは約 17,500 平方メートルあります。今 250 人の子どもたちが通い、 40 人の先生たちがおられます。」 ということでした。

この日は平日でしたので、教室の中には子どもさんたちがいました。教室の中から私たちに手を振ってくれました。6年前の当時は、あの子どもたちと同じ年齢の頃、南関町の第四保育園で我が娘は遊んでいたわけです。

もうすぐ七夕が近づいてきていましたので、日吉先生が 「よかったら、家族みんなで短冊に願い事を書きませんか。書き終えたら、それを丘の上にある木に結びに行きましょう。」 と言われました。ここの子どもさんたちのぶんはすでに書き終えて、木にぶら下げてあると言われました。

ここを訪問した記念に、私たちも短冊に願い事を書くことにしました。私は当然日本語で、女房と娘はベトナム語で書きました。娘が何を書いているのかなと思い、覗こうとすると、手で覆い隠して見せてはくれません。日吉先生は笑われていました。

書き終えた後、全員で丘の上に昇りました。丘の上には木が数本立っていて、すでに子どもさんたちの短冊が結ばれていました。私たちもその中に一緒に結びました。この丘の上にはパン焼きのカマドもありました。陶芸が出来る施設もありました。保育園としてはずいぶん恵まれているというべきでしょう。

約一時間近く、日吉先生と園長先生が私たち三人のために案内をして頂きました。この数日後には故郷を離れる予定でしたが、【こどもの丘保育園】に電話が通じて、その翌日にこうして昔お世話になった先生方に会うことが出来て、娘も本当に 「日本滞在のいい思い出」 が出来ました。

実は今回の熊本の故郷での娘の過ごし方は、村には同じ年齢の子どもが誰一人もいなくて話し相手が無く、毎日の楽しみはと言えば、蝶々を網で捕まえることと、ワンちゃんと遊ぶことくらいしか無かったのでした。それだけに、日本滞在が終わる頃ここを訪問出来たことは、ベトナムに戻っても娘にとっては忘れられない思い出になったことでしょう。

日吉先生は「私もいつかベトナムに行きたいです!」と言われました。お互いにまたいつか再会出来ることを願い、【こどもの丘保育園】を後にしました。

● 25年前の教え子との再会 ●

一昨年の 11 月に、ティエラから 【地球サイズの子育て】 というタイトルで、保護者向けの刊行物が発刊されました。元・ 『能開』 の卒業生で、世界区で活躍している人たちを紹介する内容でした。それが創刊号でした。

その創刊号に登場したのは、今から約 25 年前に私が姫路の 「能開教室」 で教えていた生徒・中居くんとそのお母さんでした。中居くんは今 <宣教師> という仕事に就いて世界を回っています。私が彼に教えていたのは 25 年前ですが、その後に彼に会ったのは 15 年前です。

昨年は電話だけでの話は出来ましたが、ついに会うことが叶いませんでした。しかし、今年は私が日本に帰国していた時に、彼のお母さんから電話があり 「本人が今日本に帰国していまして、お互いの都合のいい日に会いたいと希望しています。」 と言われました。

それで私がベトナムに帰る二日前に、姫路教室で 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の合宿説明会があり、その日は姫路泊まりになるので、その翌日の午前中に会いましょうということになりました。私が日本を去るギリギリのタイミングで会う約束が決まりました。

そして当日の 10 時半、姫路駅前のホテルの中にある喫茶店に家族で入りました。女房にも娘にも、 「今から会う人は、 25 年前にこの姫路で教えていた、お父さんの生徒さんだよ。」 と伝えていました。

ちょうど約束の時間に彼が現われました。【地球サイズの子育て】で、最近の彼の写真は見てはいましたが、実際に会ってその背の高さに驚きました。聞けば 182 cmはあると言いました。体格もずいぶん大きくなっていました。あの時小学生だった中居くんは、今年 37 歳になっていました。

しかし、大きくなったその姿の中に、昔私が見ていた小学生時代の面影がまだ残っていました。 ( ああー、あの時から 25 年も経つのか〜・・・ ) と改めて思いました。彼はふだんアメリカ、私はいつもベトナムに住んでいます。今回はたまたまお互いの帰国が重なっていたので、偶然にも会えました。ちょうどこの日は7月7日でしたので、 「忘れられない、印象深い七夕の日に会えたね!」 と彼に話したことでした。

まず、私の女房と娘を彼に紹介しました。お互いに会うのは初めてでした。事前に彼のことは話していたので、ある程度の予備知識は持っていました。しかし、女房はベトナムでも<宣教師>の仕事をしている人に出会ったことは無いようなので、不思議がっていました。彼は今宣教師活動の 「博士号」 取得の勉強をしていると言いました。

彼は今アメリカのテキサス州に住んでいるそうです。今まで世界の 10 カ国に布教のために出かけたことがあると言いました。私が 「そもそも何故あなたが<宣教師>という仕事をしようと決意したの。誰かに誘われたの。」 と聞きましたら、彼は次のように答えました。

「誰かから宗教活動を勧誘されたからではなくて、私がアメリカで出会った人に素晴らしい人がいて、その人のバックボーンにあるのがその宗教なのだと知り、自分もそれを学びたいと思うようになりました。それから自分でそれを深く知るうちにだんだんと惹かれてゆきました。そしてそれを他の皆さんたちにも広めたいと思うようになったのです。」

彼が私に話している時の口調は自信に満ちていて、あの時からずいぶん成長したなあ〜と、改めて感じさせました。彼と座って話していますと、 25 年前に姫路の 「能開教室」 で、彼が椅子に座って授業を受けていた光景がふと甦ってきました。あの時小学生だった彼と、こうして今会って話をしていること自体が信じられない思いでした。

そして実は、この姫路には彼と同じクラスで学んでいた丸谷くんという教え子もいます。彼とは三年前から、私が姫路でかつての同僚たちと会う時に声を掛けて、一緒に食事に誘っています。その前日にみんなで食事会をした時、中居くんにも「丸谷くんも来るから一緒にどうですか?」と誘ったのですが、その日は教会の活動が忙しくて参加出来なかったのでした。

時間にして 40 分くらい、私たちはいろいろ話していました。名残惜しいながらも、一旦彼と別れの挨拶を交わしました。すると、すぐその後にお母さまも喫茶店に入って来られました。

しばらく立ち話をした後、お母さまと彼に最後のお別れの挨拶をして、私たちは姫路を去りました。 8 月の末に彼は日本を離れてアメリカに帰るということですが、これからもまた世界の中で活躍してゆくことでしょう。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

今月は、春さんが日本に一時帰国していたためお休みです。



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