アオザイ通信
【2014年10月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<サイゴンで【居合道】を教える日本人女性>

私が【居合道】を初めて見たのは、四年前の2010年のことでした。その年の夏の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」に参加していた、小学4年生(当時)のHくんがベトナムの人たちの前で披露してくれました。

Hくんは、ベトナム人の生徒たちとの交流会の時や、「ホーチミン市友好協会」、さらにはカンザーのレストランでも、その【居合道】の演武を披露してくれました。彼はそのために、日本から模擬刀や胴着や袴もベトナムまで持ち込んで来ました。

模擬刀はホーチミン市の空港で一時没収されそうになりましたが、「ベトナムの生徒たちとの交流会のために使うのです。」という事情を説明して、何とか許してもらえました。その税関員の柔軟な対応のおかげで、Hくんは模擬刀を使った演武を、交流会の時にベトナム人たちの前で披露してくれましたが、拍手・大喝采でした。 やはり、棒や竹刀では模擬刀の迫力には敵いません。

あれから四年経ちましたが、Hくんは今も【居合道】の修養に励んでいることだろうと思います。さぞ体も成長し、【居合道】の境地も深まっていることでしょう。Hくんが大学生くらいになった時、また再会したいものだと思います。

それからしばらくの間、【居合道】について触れる機会も、見ることもありませんでしたが、2013年11月号の「Vietnam SKETCH」を開いた時に、思わず目を惹かれる記事が載っていました。月一回発行されるこの「Vietnam SKETCH」には、「ベトナムの日本人」というコーナーがあり、ベトナム在住の日本人が毎回登場します。

11月号のコーナーには、<未来が広がる学生たちに居合を通して、日本文化と心の成長を伝えたい:井浦あすかさん・日本語教師>というタイトルで、井浦さんのホーチミン市での活動が紹介されていたからです。
http://www.vietnam-sketch.com/2013110435294

その記事を読んだ私は大変感動しました。(若い日本人女性が日本語を教えながら【居合道】も指導されている。何と素晴らしいことか!いつかお会いしたいものだ・・・。)と思いました。

それから数ヶ月ほどして、<青年文化会館>で行われている「日本語会話クラブ」に木刀を持参して来たベトナム人の女子大生がいました。いつもの「新人紹介」の時に、その女子大生にも自己紹介をしてもらいました。彼女は「ホーチミン市師範大学」の生徒さんでした。自己紹介の終わりに、彼女はその木刀を使って【居合道】を披露してくれました。よく聞けば、彼女は「井浦あすか」先生からその【居合道】を習っているというのでした。

彼女に【居合道】を披露してもらうために、椅子を端に寄せて、狭いながらも演武してもらう空間を作りました。彼女は、井浦先生から習っているという居合の型を見せてくれました。彼女が木刀を腰の位置に添えて座りますと、見ている「日本語会話クラブ」のメンバーたちの会話が止み、一瞬の沈黙が流れました。

そして、腰を下ろし、呼吸を整えた彼女の表情が引き締まります。キリリとした顔つきになりました。木刀を目の前に置き、軽く一礼してから、両手でそれを取り、腰の位置に据えます。それから素早く木刀を腰から抜き、【居合道】の型を見せてくれました。時間にしたら三分間ぐらいでしたが、その演武が終るとみんなから大きな拍手を浴びていました。

さらにこの日は、ブラジル人のFernando(フェルナンド) くんも参加していましたが、彼も同じく井浦先生から【居合道】を習っていました。この日、井浦先生から【居合道】を直接習っている二人に出会い、「Vietnam SKETCH」で最初に知った井浦先生の存在を身近に感じるようになりました。

しかし、井浦先生の教え子たちとは会えたものの、井浦先生との出会いの機会はなかなか無いだろうなーと、私は思っていました。それが、8月初旬にある一人の日本人男性に出会ったことで井浦先生に出会える道が拓かれました。

8月初旬に、三重県から来られたIJさん、そしてフォト・ジャーナリストの村山さん、さらには日本から来ていた私の友人。そして、IJさんの会社で実習をしていた私の教え子たちと路上屋台の日本料理屋『SUSHI ◎◎』で夕方頃食事会をしました。

この日は、村山さんの「日本帰国の送別会」も兼ねていました。村山さんはこの夏に『Hoang Sa諸島』へ写真の取材に行き、様々な苦労を重ねてその目的を果たし、この翌日に日本に帰ることになっていました。

その席に、私が初めて出会う男性が来ていました。水嶋さんという方でした。水嶋さんはベトナム在住三年になられるそうで、このサイゴンに住んでおられて、ベトナム紹介のWEB『べとまる』の運営をされています。私も名前だけは知っていましたが、会うのはこの日が初めてでした。

お互いに名刺交換を済ませましたが、その場では席が離れていたので、詳しい話をすることは出来ませんでした。しかし、水嶋さんという方は非常にユーモアに富んだ方で、ダチョウに乗った話や、奇抜な衣装を着てベトナムに初めてオープンしたマグドナルド一号店に行った話を読んだ時には大いに笑いました。

そして、実はその水嶋さんはすでに井浦先生の記事を書かれていました。それで「Vietnam SKETCH」で最初に読んで想像していたイメージが、さらにクッキリとしてきました。初めての出会いからしばらく経った9月の半ば過ぎ、その水嶋さんから、「サイゴン・カルティベート・トーク」というイベントで、井浦先生がゲストとして招かれるという連絡が来ました。

私はすぐに「参加します!」という連絡をして、その日が来るのを楽しみにしていました。。

その「トーク・ショー」の日は9月26日でした。時間は7時から開始となっていました。その日は6時前には着きました。水嶋さんがいました。スタッフの方が数人「トーク・ショー」で使用するスライドなどを準備していました。お客は、私以外はまだ誰も来ていませんでした。

そのスタッフの方の中に、「Vietnam SKETCH」や水嶋さんのWEBで見た写真の女性に似た方がおられました。(あの人が井浦先生ではないか・・・)と思い、「井浦先生ですか。」と声を掛けてみますとやはりそうでした。非常に清楚かつ凛とした印象を受けました。

水嶋さんも当日の司会進行役で準備に余念が無く、私は時間が来るまでしばらく一人で過ごしました。そして開始十五分前頃から参加者が集り始めました。7時に開始した時には十数人が集りました。中には若い女性の方も一人おられました。

最初にまず井浦先生の簡単な自己紹介がありました。今年25歳で、中学三年から【居合道】を始め、9年間続けていること。2012年11月にベトナムに日本語教師として赴任して来たことなどを話されました。ベトナムで初めて【居合道】を披露されたのは、ベトナムに着いてすぐにやって来た、11月20日のベトナムの『先生の日』に演武を行ったのがきっかけだったそうです。

そして、この時【居合道】の型を披露するために、袴と胴着に着替えるために一旦中座されて、また戻って来られました。模擬刀を持って黒い袴と胴着のスタイルに変身されたその姿は、背筋がピンと伸びて、まさしく武道家の姿でした。それは、 「Vietnam SKETCH」で見た写真のままでした。

そして、腰の左側に模擬刀を差して、静かに正座されました。呼吸をしばらく整えられていました。普段演武している学生たちの前ではなく、全員が日本人の大人の前での演武です。少し緊張されてはいたようですが、表情は平静なままでした。それから五分間ほど【居合道】の型の演武を幾つか披露されました。

【居合道】には流派がいろいろあるようです。四年前の小学4年生のHくんが習っていたのは<柳生新陰流>でした。井浦先生の【居合道】は<夢想神伝流>で、今四段を保有されているそうです。四段になって初めて、人に教えることが出来るということです。

井浦先生が一人で演じた約五分間の演武を、みんなシーンとして見ていました。私はただただ感動していました。そのスピードといい、一つ・一つの型の動作の美しさといい、迫力といい、永い武道の修練を積んだ、素晴らしい【居合道】の演武でした。ベトナム人の生徒たちにも大きな感動を与えているはずです。井浦先生の演武が終ると、大きな拍手が起きました。

それから「トーク・ショー」に移りました。まだこの時には、井浦先生は袴と胴着を着けたままで、ハーハーと大きな息を吸い、額には汗をかかれていました。【居合道】は短時間の演武でありながらも、体力を大きく消耗するようです。

室内には、ホワイト・ボードに<今日のテーマ>が書かれていました。

●「井浦あすか」って何者?!
● つくっているもの
● 仕事のルーツ
● ベトナムとわたし
● 仕事の流儀
● ゲストが用意したテーマ
● 未来のわたし
● フリーセッション

井浦先生は「日本語教師」になった動機として、お母さんの影響を話されていました。お母さんは国語の先生だったそうで、そのお母さんから<日本語の美しさ>を教えられたそうです。家庭の中でそういう経験をするというのは稀というべきでしょう。

井浦先生は<日本語への感動>の具体例として、幾つかを具体的に挙げられました。

* 秋のつるべ落とし
* しおり
* 薬指
* 竜田揚げ
* 葛藤

などですが、私自身はそれを聞いて、そういう言葉の表現の美しさに気付く感性の高さに唸りました。私はそこまでの字義を考えていたことが無かっただけに、大変新鮮な驚きでした。

例えば「葛藤」ですが、葛や藤が複雑に絡み合っている様相を例えて、「葛藤」という単語が出来たというのです。「葛藤」自体はもちろん多くの人たちが普通に使う単語でしょうが、その字義を理解している人は少ないでしょう。確かに「葛」は「クズ」、「藤」は「フジ」ですが、それが単語としてそういう意味を持っていることは、私自身知りませんでした。

さらには「刀由来の言葉」として、

* 抜き打ち
* 単刀直入
* つばぜりあい
* しのぎを削る
* つかの間

の例を挙げられました。こういう言葉自体も【居合道】に携わっている人だからこそ気付く言葉でしょう。普通の人たちは無意識に使っているだけで、その深い意味までを意識している人は少ないでしょう。

井浦先生はトーク・ショウの途中で、自分で準備された手書きのコピーを配られました。パソコンで作成した文章ではなく、自分の手で書かれた絵や文字が載っています。いわば、井浦先生の自己紹介文ですが、今あらためて読んでいましても、大変愛着ある資料です。

その中で、≪4、夢と目標≫として

今までの目標 ・・・ 海外で日本語を教える。(居合を教えるのは夢だった)
2014年目標 ・・・ ベトナムで広げたものを深めていく。
(教師として+居合+ベトナム語・英語)

と書かれていました。今25歳の井浦先生には、十分実現可能な「夢と目標」ではないかと思います。いや、是非ともその「夢と目標」を実現してほしいと思います。

最後の「フリーセッション」に移った時、井浦先生への質問と今日の感想をみんなが述べました。今回の「サイゴン・カルティベート・トーク」参加したみんなが、大変感動し、喜んでおられました。

最後に、私の感想を述べさせて頂きました。

「今日の井浦先生の演武を見て、大変感動し、深い感銘を受けました。≪日本語の先生≫だけをしている人、≪武道≫だけを教えている人は数多くいることでしょう。しかし、井浦先生のように≪日本語を教えながら武道を指導している≫人は稀と言うべきでしょう。一人の人間にして≪日本語≫と≪武道≫を教えておられる。その存在はこのベトナムにおいて

“実に天晴れ”

と言うしかありません。出来れば、【居合道】を教える後継者が育つまで、このサイゴンで続けて指導して欲しいと思います。そして、毎年五月に行われる『日本語スピーチコンテスト』のアトラクション部門で、来年は是非その【居合道】の演武を披露して頂きたいと思います。」

井浦先生はそれに対して感謝の言葉を述べられました。そして、「実は、来年五月の『日本語スピーチコンテスト』では、【居合道】を披露するように依頼されましたので、その予定で生徒たちとも準備してゆきます。」と話されました。

来年五月初旬に行われる『日本語スピーチコンテスト』では、井浦先生の【居合道】が、今習っている大学生たちも参加して、みなさんたちの前で演じられることになるはずです。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 「都市の思い出」をどう処理するべきか ■

地下鉄駅建設のために、樹齢百年を超える大木が伐採され、創建から130年経った「百貨店」の建物も今から壊されようとしているが、現在このことが大きな議論を呼んでいる。

『市民劇場』前にあった、樹齢が古く、大きな木も地下鉄駅建設のために伐採されてしまった。簡単に言えば、これらの存在はホーチミン市民の「思い出」だったのだが、今や「保存と開発」の矛盾に直面している。

こうした状況を、専門の建築家はどのように思い、どう解決したら良いと考えているのだろうか。

● 建築家:Nguyen Van Tat(グエン バン タット)氏

*より良い機関が必要*

多くの類似した話と同じように、「百貨店」をどう扱うべきかについて、それを惜しむ人たちはもっと早い時期から積極的に活動すべきでした。

「百貨店」の問題だけではなく、現代の都市の発展において市民の社会生活に与える影響を考慮しながら、“必要と決定”をしなければなりません。

「保存と開発」という難しい問題を処理する時に、さまざまな「選択肢」の中からある決定をする場合、それが他とどう繋がっているのか、確かに難しい問題なのですが<一つの単位>として事案を考慮しないといけません。

不幸なことに、「都市の魂」を残すことについて多くの人たちの心の中には「潜在的な関心」はあっても、具体的にどう動くかについてはなかなか難しいものがあります。多くの人たちがこの問題についてコメントを述べることは出来ても、実際に動くとなると意思決定した時に「責任」を伴いますので厳しい現実に直面します。

都市生活が発展の要求に直面する時、そこには“チャンス”と“投資”が生まれます。今ホーチミン市が直面している“交通渋滞の解消”のために、地下鉄のような現代的な交通インフラを整備してゆくことの是非については、誰も異論を唱える人はいないでしょう。

また、貴重な外貨をもたらしてくれる数百万人の旅行者が、高層ビルや貿易センタービルを訪問し、そういう施設でサービスを受けるのは合理的な要求だと言えるでしょう。日常生活の利便さと開発の関係は、兄弟のように密接に結び付いています。

しかし、今ホーチミン市が抱えている問題は、大きな事案から小さな事案まで一筋縄ではゆかない、簡単な問題ではありません。大変頭が痛い問題です。<都市計画と建築と環境保全>という総合的な観点から議論をしてゆくべきです。

ホーチミン市内の中心部には「都市の思い出」となっている数多くの建物や公園などがあります。「統一会堂」前の「9月23日公園」、「市民劇場」、「人民委員会」などなどです。

特に、「9月23日公園」の中に立っている樹木は百歳を超えています。

これら由緒ある建物の保存と、永い歴史を刻んできた樹木の保全も、いずれこれから将来ホーチミン市が開発・発展する時に、同じような問題に直面することになるでしょう。だから、今のうちから「開発」と「保存」の両立をどうバランスを取るかを考えてゆくべきだと思います。

◆ 解説 ◆

今工事が進められているホーチミン市の地下鉄は、2020年に完成が予定されています。それに伴い、ホーチミン市内の中心部は今急速な勢いで景観が変貌しています。具体的には、「百貨店」の取り壊しと樹齢百年を優に超えた樹木の伐採です。

以前、ベトナム戦争当時にCai Be(カイ ベー)でバナナを栽培されていたYさんから、当時のサイゴン市内の景観を直接聞いたことがあります。Yさんは次のように話されました。

「当時のサイゴン市内は樹木が多くて、街路樹の下に立つと薄暗いほどでした。今のDong Khoi(ドン コイ)通りを市民劇場方面からサイゴン大教会に向って歩いて行くと、多くの樹木で教会が見えませんでしたよ。まさに“Sai Gon dep lam(サイゴン デップ ラム:サイゴンは美しい)!”でしたよ。」

あの“Sai Gon dep lam!”の歌は、私は「ベトナム戦争」終結後に出来たものかなと思っていたのですが、そうではなくて当時からすでに歌われていて、サイゴン市民の実感だったということです。

また、この7月に『Hoang Sa 諸島』まで行って写真撮影の取材を終えた、フォト・ジャーナリストの村山さんは、この地下鉄工事に伴う市内の景観の変貌ぶりにもこころを痛めて取材されていました。村山さんが言われました。「子どもの頃からあの樹木を見慣れて育って来たというお爺さんが、目の前で大木が伐採されるのを見て涙を流していましたよ。日本のODAを使って工事を進めているだけに、何とかならなかったのか・・・と残念です。」

もう工事はドンドンと進んでいて、その歩みを止めることは出来ません。2020年以前にホーチミン市を訪問した人たちが、2020年以降にここを訪れた時には、その変貌ぶりに驚かれることでしょう。



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