春さんのひとりごと
<「ベトナムの先生の日」のHuongさんの喜び>
今年の11月20日、ベトナム恒例の「ベトナムの先生の日」の行事がありました。当日の朝早くバイクで街中を走っていますと、歩道上には花模様のデザインのビニール袋で包んだ花束や、可愛らしい小さな籠に入った花輪が売られていました。これはベトナムでは毎年11月20日に現れる、いつもの光景です。
現在、世界各国で「先生の日」というのがありますが、日本にはありません。しかし、アジアでは様々な国に「先生の日」があります。それぞれの国によって、「先生の日」はいろいろ違います。例えば、隣国の中国では9月10日。韓国では5月15日。そして、タイでは1月16日に「先生の日」が制定されています。
ベトナムでは1982年から「先生の日」が正式にスタートしました。ということは、今年で32年目を迎えたわけです。今やベトナムでは、一年の中での恒例の行事としてすっかり定着した感があります。この日はベトナムで「先生」と呼ばれている職業に就いている人たちにとっては、大変嬉しい一日であると言えます。
今私が教えている学校でも、先生たちに喜んでもらうために、この日に合わせて生徒たちが一週間ほど前からいろいろな準備に取り掛かりました。全ての生徒たちが、「先生の日」に行われるイベントに向けて、嬉々とした表情で、意欲的に取り組んでいました。
以前は、「先生の日」に生徒たちから先生へのプレゼントなどを頂く事がありました。私自身もクラスからのプレゼントとしてYシャツを貰ったことがあります。しかし、そういうプレゼントの進呈がだんだんとエスカレートしてゆくと、生徒たちにも経済的に負担だし、先生たちにもいい影響が出ません。
それで、数年前から生徒たちにも事前に通達して、贈り物はクラス全体で<小さな花束>くらいにしています。高価なものは禁止にしました。それでも、生徒たちは先生たちに感謝の気持ちを表したいという気持ちが強いのか、自分の手作りの作品を先生たちにプレゼントしてくれます。私も、生徒たちが白紙に色鉛筆を使って書いた作品をたくさんもらいました。
今年も11月20日の「先生の日」の前日から、中庭に舞台設営が行われました。大きなスピーカーも外部から借りてきたようです。当日の司会・進行役の生徒も男子・女子それぞれ一人ずつを決めて、数日前から打ち合わせをしていました。
そして迎えた「先生の日」の当日。朝9時からこのイベントがスタートしました。午前の部では、まず生徒たちから先生たち一人・一人へ花束が贈られました。中には、担当の女性の先生の似顔絵を、生徒が鉛筆一本で見事に描きあげた大きな絵がありました。実にその先生の特徴を良く捉えていて、“傑作”といえるレベルでした。
その後、生徒たちによる踊りと歌の披露。それが終わり、今度は先生たちの歌の番。私も歌を請われましたので、一曲披露しました。そして、ベトナム人の先生の中から、今年から学校で教え始めたHuong(フーン)さんが、みんなの前で歌を歌いました。
私はそれを聴きながら、今年のテト明けの2月初めに“日本語の先生”として採用され、<新人の先生紹介>の時に同じ場所に立って、後輩の研修生たちに向って話していた時の姿を自然と思い浮かべていました。彼女はその時に次のように話しました。
「私は三年前にこの学校で日本語を勉強していました。そして、三年間の日本での実習が終わり、昨年の12月にベトナムに帰りました。そして、今年から“日本語の 先生”として、この学校でみなさんに日本語を教えることになりました。三年前にここで日本語を勉強してから、三年後にまた同じ学校で日本語を教えることが 出来るようになり、大変嬉しいです。・・・」
早いもので、あれからもうすぐ一年が経とうとしています。彼女も“日本語の先生”の仕事に自信を深めて来たようで、私と顔を合わせた時、「毎日教えるのが大変楽しいです。やりがいがあります!」と話してくれます。それを聞いた私も嬉しくなります。
私は今も、約四年前に彼女が日本語を勉強していた時に撮った写真を持っています。それは、彼女のクラスの生徒たちが日本に行く直前に撮り、私にプレゼントしてくれた写真でした。私は新しいクラスの授業に入るたびに、日本語を勉強していた当時のHuongさんが、私と一緒に写っている写真を生徒たちに見せながら、次のように話すことがあります。
「今みなさんが教えてもらっているHuong先生は、かつてはみなさんと同じように、その席に座って日本語を学んでいた生徒でした。日本に行ってからも、彼女は三年の間毎日働きながら日本語の勉強を続けて、日本にいる時に<日本語能力試験のN2>に合格しました。そして、ベトナムに戻ってから、その資格を生かして今この学校で“日本語の先生”としてデビューして教壇に立ち、みなさんたちに日本語を教えているのですよ。」
私がそういう話をしますと、実際生徒たちに直接教えているその本人が、このすぐ後か翌日には彼ら生徒たちのクラスに登場しますので、生徒たちも目を輝かせて聞いてくれます。
ベトナムにいて、まだ日本行ったことがない生徒たちに、ただ「日本に行っても頑張ってね!」と言うだけでは、彼らは頑張りません。しかし、Huongさんのように日本に行ってからも頑張ってN2の資格を取り、ベトナムに戻って“日本語の先生”に就いた人物が、現に彼らの身近にいます。生徒たちの身近にそういう人がいると、「Huong先生のように頑張ってね!」という言葉には、(自分もそうありたい!)という気持ちで、素直に頷いてくれます。
今年、若い“日本語の先生”としてかつての<母校>に登場した彼女は、今いる生徒たちにとっての【努力目標】として、大変説得力のある存在になりました。特に、私は彼女が最初に日本語を学び始めた約四年前の時期から、彼女が日本にいる間の様子や、ベトナムに帰国してから今に至るまでを知っているだけに、嬉しい気持ちでいっぱいです。そういう気持ちで、私は彼女が演壇に立って歌っているのを聞いていました。
そして、この後お昼には、各クラスによる料理のコンテストがありました。料理コンテストに向けて、事前に各クラスでさまざまなメニューを考案し、当日の朝早く市場に買いに行きます。
あるクラスに入り、「朝何時に買いに行ったの?」と聞きますと、「4時に行きました。」と答えました。当日の「先生の日」のために、まだ外が薄暗いうちから市場に買い物に出かけてくれたのでした。
十クラス以上の生徒たちが、クラスごとに違う料理を作り、校庭に置いてある机の上にその料理を並べて審査員の評価を受けます。評価の基準は「料理の説明」「見た目」「美味しさ」の三点です。
審査員は、日本語の先生たちと事務員の全部で十人ほどです。私も審査員に加わりました。一つの料理を少しずつ味見しては、三つの評価基準から点数を付けてゆきます。先生たちが付けている点数が気になるのか、自分のクラスの番が来ると、先生が採点をしている時にそれを覗き込もうとします。それを手で隠しながら、点数を書き込んでゆきます。
しかし、一品の料理を少しずつ味わうといっても、それが十クラス以上ともなりますと、最後のほうに来た時にはだんだんとお腹いっぱいになってきました。生徒が作ってくれた料理の味見だけで、お昼ご飯は食べなくても十分でした。短時間での準備と調理でありながら、クラスのそれぞれが手の込んだ料理を作ってくれました。
お昼どきには各クラスで作った料理を味わってもらおうと、先生たちを招待してくれます。新人の先生も古くからいる先生たちも、各クラスに入って、その料理を頂きます。普段は授業だけでしか接しない先生たちとも、このようなイベントを通して親密感が増してきます。
そして昼食後には「スイカ割り大会」。クラスの代表が一人出て、目隠しをしてスイカを割る単純な遊びですが、これがこの日には一番盛り上りました。目隠しをして三回ほどグルグル回り、正確にスイカの上に棒を振り下ろし、見事にスイカが割れると「ワーーッ!!」という大歓声が起きます。
反対に、目隠しをして回って三回目に、スイカが置いてある位置と少しずれた位置に立つと「もっと右だ!左だ!!もっと前だ!!」という叫び声が飛び交います。実際にやっている本人にはうるさ過ぎて、どの声を本当に信じていいのか分からずに、ヤケになって大地を叩きます。その度に大歓声が起きます。
運よくスイカが割れると、クラスの数人が大喜びで走って駆け込んで来て、その割れたスイカをつかんで戻り、クラスみんなで奪い合うようにしてかぶり付いています。この学校にいる生徒たちはみんな若いだけに、こういうイベントになると少年・少女時代に戻ったかのように、実に無邪気なものです。そういう彼らを見ていますと、私自身も子ども時代に引き戻されたような感じになります。
そして、スイカ割りが終った後の午後にはバレーボール大会が行われました。クラス毎の対抗戦を行いました。ボールが一点入るたびに、大歓声をあげます。試合に参加している生徒たちは汗だくになっていますが、スイカ割りの時の元気の良さは、ずっと続いています。一年の中でこの日だけは朝から夕方までずっと、生徒たちにとって勉強無しの楽しいイベントに満ちています。
この日の行事が一通り終り、Huongさんは日本でお世話になった“恩人”でもあるIJさんに、早速この「先生の日」の様子をSkypeで報告したそうです。IJさんは彼女の部屋の中にある、生徒たちから贈られたという数々の花束を見て感激されていたといいます。
彼女にとっては“日本語の先生”として初めて迎えた「ベトナムの先生の日」なのですが、「先生としての喜び」と「生徒に教えることの楽しさ」をあらためて感じたようでした。後日私に、「 “もっと・もっと頑張ろう!! ”という決意を新たにしました。」と話してくれました。
私は、これから日本に行って三年間を実習生として過ごす教え子たちの中からも、第二・第三のHuongさんのような生徒たちが現われてくれればと願っています。
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