アオザイ通信
【2016年5月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本帰国時のこと〜前編〜>

今年の日本への帰国は予定通り四月中旬でしたが、まさに日本へ帰国する時に、「思いがけない」「想定外」のことが二つ起きました。「思いがけない」ことは<お役に立てた>という思い出で終わり、「想定外」のことは<まさかこの熊本で・・・>という悲しい気持ちが今も続いています。

● サイゴンを発つ前の「緊急事態」 ●

日本への帰国の準備をほぼ終えて、事務所を出ようとしていたちょうど一時間前に、<フォト・ジャーナリストの村山さん>から私に連絡が来ました。

「たった今、日本で大きな地震が起きました!」

「えっ、また地震が!」と思いながらも、「日本ではよく地震が起きますねー。今度の、その大きな地震はどこですか」と尋ねますと、「それが、実は熊本なんですよ。今ご実家のほうに電話しましたら、お母様が出られて“無事ですよ”と言われました」と村山さんが答えられたのでした。

“熊本で地震”と聞いて大いに驚いた私は、村山さんの電話を切った後すぐに、熊本の実家に電話をしました。しかし、電話回線が混み合っているようで、事務所を出る時間ぎりぎりまで何回も掛けましたが、結局繋がりませんでした。空港に行く時間が迫っていたので、已むを得ず事務所を出ました。空港に向かうタクシーの中で、村山さんが言われた「お母様は無事ですよ!」と言う言葉を、私は繰り返し思い出していました。

● 機内で「緊急事態」発生! ●

空港に着いて、いつも通り搭乗手続きをしました。この日はいつにも増してお客さんが多かったですね。空港に着いた後も、熊本の実家に数回電話を掛けましたが、やはりダメでした。繋がりませんでした。この時日本時間では深夜0時を過ぎていましたので、(例え万が一無事でも、この時間は寝ているだろうな・・・)と思い、電話での連絡は諦めました。

飛行機は予定通り、ベトナム時間の深夜0時20分に飛び立ちました。機内には多くの乗客がいましたが、その8割がたは日本人でした(それは後で、客室乗務員から聞いたことです)。残り2割がベトナム人と外国人でした。私がいつも乗るベトナム航空は、関西国際空港への直行便ですから、日本人のお客さんが多いのも当然です。

いつも通り、30分ほどして、機体が安定した頃、機内で飲み物が乗客に配られました。私は飛行機の機内ではいつもジュースしか飲みません。それで、「トマト・ジュースを下さい」と、ベトナム語でお願いしました。そして、皆さんが飲み物を飲み終えてしばらくした後、機内の照明が弱くなり、みんなが眠り始めました。

私も備え付けの薄手の毛布を被って寝ようとしました。機内はクーラーが効き過ぎていて寒かったからです。この時初めて、日本で着るつもりで準備していたジャケットを持って来るのを忘れたことに気付きました。やはりあの時慌てていて、暑いサイゴンでいつも着ている身軽な服装のままで、事務所を飛び出して来ていたのでした。

ジュースを飲んだ後席に座り、しばらくウツラウツラしていた時、私の右肩を叩く人がいます。眼を開けると男性の客室乗務員でした。私に向かって曰く、「実はお客さんの中で、気分が悪くなった人が出ましたので、その人に横になって休んでもらうために、あなたの席を譲って頂けませんでしょうか」と。

私が座っていた席は中央の長い座席で、両端に私ともう一人の二人だけしかいなかったので、私が席を空ければその人は横になれるということのようでした。私は「いいですよ」と言い、その席を離れ、すぐ近くの空いた席に移動しました。

その後、客室乗務員が一人の男性の肩を抱えながら、先ほどまで私が座っていた席にその男性を連れて来ました。そして、私が座っていた席と、残り二つの座席を男性が寝やすいように毛布や枕をセットして、男性をそこに寝かせました。その男性は、見た感じは日本人のようでした。

私は今からようやく寝ようとした矢先に起こされたので、すぐには寝付けず、機内備え付けの新聞や雑誌をしばらく読んでいました。するとしばらくして、今度は客室乗務員が私の席に近づき、「実はあなたにお願いしたいことがあります」とベトナム語で話しかけてきました。

「先ほどから具合が悪かった方ですが、ますます体調が悪くなってきたようで、もし機内にお医者様か看護婦さんがおられれば、是非ご協力を頂きたいのです。しかし、この機内にはベトナム人の乗務員しかいなくて、日本人の乗務員がいません。英語とベトナム語では私たちが伝えることが出来ます。でも、私たちは日本語が出来ないので、そのことをあなたが日本語でみなさんに伝えて頂けないでしょうか」

それを聞いて、(ええーっ!)と、私も心中驚きました。しかし、私の席近くに座っている病人の男性の様子を見ていて、(ずいぶん苦しそうだな〜)という感じがしましたので、「緊急事態発生!」だなというのは理解出来ました。それで、「いいですよ。分かりました」と引き受けました。しかし、(機内には多くのお客がいる中で、よりによって何で私に・・・)という疑問は湧きました。

客室乗務員たちは私を機内中央にある非常口の場所まで案内して、そこに掛かっているマイクを私に渡しました。私もそこまで連れて行かれたら、覚悟を決めざるを得ません。そして、マイクを握って次のように日本語で話しました。

「みなさん、お休み中のところを申し訳ありません。実は、今機内に急病人の方がおられます。もし、この中にお医者さまか看護婦さんがいらっしゃれば、その方の具合を見て頂きたいので、是非ご協力をお願い致します。ここにいらっしゃれば客室乗務員のほうにお申し出ください」

以上のような内容を二回、簡単にマイクで話しました。しかし、数分経っても、十数分経っても、お医者さんや看護婦さんは現れて来ませんでした。結局、この日の機内には居られなかったようです。その後も、どんどん悪くなってきている様子の男性の姿を見ていて、機内にいる客室乗務員たちも(どうしたらいいものか・・・?)と、困り果てていました。

非常口の前で、ベトナム人の男性と女性の乗務員がしきりに議論していた後、また私のほうに近づいて来て、「もう一度日本語で、病人の男性の方に通訳して欲しいのですが・・・」と頼んできました。私も承知して、男性の側に近寄り「具合はどうですか」と聞きますと、胸の部分を押さえて「ここらへんあたりが苦しいです」と言われました。

それをチーフらしき客室乗務員(名前はDさん)に言いますと、彼女は「彼は日本に着くまでもちますか。それを聞いてくださいますか。日本に着くまでには、後四時間ほどかかりますが・・・」と言うので、そのことを男性に伝えますと、首をゆっくり横に振りながら「四時間もてるかどうかわかりません。そう伝えて頂けますか。本当に申し訳ありません」と答えました。その表情はいかにもキツそうでした。彼は頭を下げて恐縮していました。私は「困った時はお互いさまですよ。しばらく頑張ってくださいね」と励ましました。

彼が私に話した内容を乗務員たちに伝えると、その後乗務員同士でしばらく話しあっていました。そして話がまとまったらしく、私に向かい「日本までもたないのであれば、中部のダ ナン市で彼を飛行機から降ろします。それでいいかどうか聞いてくれますか」と言うのでした。私が「もし、ダ ナン市で降ろしたとしても、彼はベトナム語が出来ないのに、どうしたらいいの」と尋ねますと、「その時は、あの人にアテンドしてくれる人を付けるから大丈夫です。心配しなくていいですよ」とDさんが言いました。

それを男性に伝えますと、彼はポカンとした顔つきをしていました。それも当然で、ベトナムに初めて来た人であれば、(ダ ナン市がどこにあるのか、おそらく知らないのかも・・・)と思い、「ダ ナン市はベトナムの中部にあります。この飛行機はそのダ ナンの方角に飛んでゆきます。もうしばらくすると、そのダ ナン市に近づきます」と説明し、さらに「日本までの行程が長いので、あなたを早く病院に連れて行くために、一度そこで飛行機を着陸させたいのですと乗務員が言っています。それでいいですか」と彼に聞きました。

しかし、彼は<ダ ナン市の場所がベトナムの中部にある>という説明を私から聞いても、その是非の判断のしようがないらしく「すべてお任せします」という表情で頷いています。それで、Dさんには「彼もそれで一応納得はしました。日本に着くまで時間が掛かるようであればもたないので、日本に着く前に彼をどこか途中で降ろすように動いてくださいますか」と伝えました。Dさんも肯いて、また別の場所に向かって行きました。

その後、乗務員たちも準備のために彼の側を離れました。その間、彼はずっと非常口のすぐ近くに座り、両足をクーラーボックスの上に乗せて休んでいました。私は彼と話した後も、また乗務員さんたちから依頼があるかなと思い、席に戻らないでしばらく彼の近くに立っていました。彼の様子を見ると大変苦しい様子でしたので、敢えて声は掛けませんでした。

すると、彼の友人たちらしき人たちがその周りに数人集まって来ました。「大丈夫か?」と心配して、彼に声を掛けています。彼は口を開くのも苦しいらしく、じっと下を向いたままです。その友人たちと話しましたら、全員が鹿児島から来た人たちで、今回十人のメンバーでベトナム旅行に来たということでした。急病人の彼はまだ50代半ばでした。

私が「えっ、みなさん鹿児島ですか!私は熊本ですよ」と言いますと、彼らの表情が明るくなりました。それで、彼らに向かい「この飛行機は日本に直行しないで、一旦中部の空港に着陸するそうです。その場合、誰か友人がいないと彼も心細いでしょうから、一緒に彼に付き添う人を決めておかれたほうがいいですよ」と言いますと、友人の一人の方が「分かりました」と答えられました。

さらに「私たちは今回日本の旅行会社を通してベトナムに来ましたが、そこに連絡しておかなくていいでしょうか」と、一人の方が聞きましたので、「それは連絡したほうがいいですよ。旅行会社の人はこういう事態が起きたことは知らずに、予定通りみなさんは日本に着くものと考えているはずです。日本に着くのも相当遅れるはずですから、日本側で待っている人たちにも連絡しないと心配します。ただ、連絡を入れるのは、一旦空港に彼を降ろして、事態がはっきりしてからでいいでしょう」と答えました。

この時深夜一時を過ぎた頃でしたので、機内の人たちは目を瞑っているか、寝ている人たちがほとんどでしたが、中にはこの騒ぎのためか、眠れないで心配そうにまだ起きている人たちもいました。病人の彼の様子も心配だし、このまま日本にすんなり飛行機が行くのだろうか・・・という、二つの心配ごとをみなさんたちが抱えていたことでしょう。

そしてしばらくして、客室乗務員のDさんたちが戻って来て、病人の彼の側に集まりました。この後どうするかの、最終的な結論が出たようでした。この飛行機を操縦しているのはもちろん機長ですから、Dさんたちは彼に相談しに行ったはずです。その後、機長は病人の状態を聞いて、最終的な決断を下したのでしょう。機長が下したその決断を、Dさんが私に話してくれました。

「この飛行機はもう一度ホーチミン市に戻ります!」

Dさんは私の眼を見て、はっきりとそう言いました。私は「ええーっ、もう一度ホーチミン市に戻るのですか!」と驚きました。Dさんは「そうです」と答えました。(今さきほどまではダ ナン市と言っていたのに、何故?)と、思いました。お客さんたちもさぞ驚くことでしょう。

この時、直接Dさんにその理由を聞きはしませんでしたが、私の推測では恐らく@この時深夜の一時を過ぎていたので、ダ ナン市には受け入れてくれる病院が無かったか、その準備が出来なかった。Aホーチミン市のほうがダ ナン市よりも病院の数が多いので、受け入れ先の病院が早く見つかった。・・・(以上のような理由からではないかな)と推測しました。

いずれにしましても、飛行機が降りるのはダ ナン市ではなく、ホーチミン市に決まりました。また元に引き返すのです。そのことを病人の彼と、友人のみなさんたちにも伝えました。病人の彼も友人たちも、「そうですか・・・。仕方がありませんね」とただ頷いていました。しかし、降りる場所がどこであれ、機長が決めた以上、それに従わざるを得ません。

さらにDさんは「そのことをまた日本語で、機内のお客さんたちに伝えて頂けませんでしょうか」と、私に頼んできました。一度乗りかかった船です。私も「いいですよ」と引き受けざるを得ません。先に客室乗務員の人たちがベトナム語と英語で「ホーチミン市へ戻る」ことの理由を説明しました。私もそれをじっと聞いていて、次に同じ内容を日本語で話しました。

「みなさん、お休み中のところを何度も申し訳ありません。この飛行機内におられるみなさんたちに緊急でお伝えしたいことがあります。実は、先ほどみなさんにお伝えしました急病人の方ですが、病状が重いようなので、今からホーチミン市に一旦戻り、そこから病院に運ばれることになりました。それで、この飛行機はもう一度またホーチミン市に引き返します。日本に着くまで大幅な時間の遅れが出てきますが、何卒みなさまのご理解とご協力のほどをよろしくお願い致します」

以上のことをマイクを握って機内放送をしました。放送する直前までは、もしかしたらお客さんたちの中から「ええーっ!」とか「ダメだ!」とか「引き返すな!」とかいう反応やクレームが出るかな・・・と、私は心配していたのですが、意外にもそれは全くありませんでした。

機内にいるみなさんたち全員が大人しく、「ベトナム語」「英語」「日本語」の説明を素直に聞いて頂きました。クレームも騒然とした雰囲気もありませんでした。この日の機内のお客さんたちは、欧米人であれ、アジアの人たちであれ、日本人であれ、みんな静かに機内放送を聞いていました。乗務員たちが病人の状況を早い段階で説明し、理解してもらっていたので、お客さんたちもしょうがないと諦めたか、納得してくれたのでしょう。

深夜1時半過ぎに機体は大きく反転し、ホーチミン市に再度向かいました。そして、深夜2時35分に無事ホーチミン市の空港に到着。窓の外を見ると、飛行機が停まった近くまで救急車が近づいて来て、そのまま待機しています。飛行機のハッチが開くと、すぐに病人をタンカに乗せて運ぶ段取りになっています。

そこからはテキパキと進んでゆきました。病人の彼に付き添う友人としては、三人が申し出ました。彼らはこの後ホーチミン市に病人の彼と一緒に残って、面倒を見ることに同意しました。(三人も残れば大丈夫だろうな・・・)と私も安心しました。

男性をタンカで運んで救急車に乗せ、三人の友人たちも同じ車に乗り込みました。それから飛行機はふたたび日本へ行く準備に取り掛かりました。機内に残った我々はそれまでじーっと待つだけです。

そして、準備が終わり、ちょうど一時間後の深夜3時35分に飛行機は日本に向けて飛び立ちました。その後しばらくして、Dさんが私の席まで来て「本当に有難うございました。おかげで助かりました」とお礼を述べられました。私も「いえいえ、お役に立てて何よりでした」と言いました。

それにしても、多くのお客の中から私を指名した理由が分からなかったので、「どうして私に日本語での機内放送を頼まれたのですか」と尋ねますと、「機内で皆さんたちに欲しい飲み物を配った時、日本人であるあなたがベトナム語で注文されましたね。それでスタッフは(この日本人はベトナム語が分かるらしい)と思ったようです。それで、あのような緊急事態が起きた時、病人の方も日本人だし、私たちの意向を彼や他の日本人の乗客に間違いなく、正確に伝えてもらえるように、あなたにお願いしました」と、Dさんが笑いながら答えられたのでした。

「ああー、そうでしたか。分かりました」と私も答えました。しかし、それにしても、今まで19年間日本とベトナムを往復していて、機内で急病人が出た経験は無いし、一旦飛び立った飛行機がもとの空港にまた引き返したのも初めてのことでした。

関西国際空港には朝10時過ぎに無事着きました。いつもは朝7時頃には着きますので、3時間ほど遅れました。飛行機が関空に着く少し前に、Dさんが「今回の事態の報告を会社に出しますので、日本語であなたも書いて頂けますか。それから、あなたの連絡先もお願いします」と言うので、簡単な状況報告を書いてDさんに渡しました。Dさんは「今回は本当に有難うございました」と繰り返し礼を述べられました。

● 故郷・玉名に帰る ●

関空に着いた後、すぐにその足で本社に入りました。故郷熊本には、大地震が起こった翌々日に帰りました。しかし、新神戸駅から乗った新幹線は博多駅で止まり、それから先は在来線に乗り換えるしかありませんでした。在来線は多くの乗客で満席でした。

その在来線も故郷・玉名駅の四つ手前の荒尾駅までしか動かず、そこから家まではタクシーで行くしかありません。そして、夜9時過ぎにようやく家に着きました。母親も無事で、我が家にも損傷は有りませんでした。我が家は築百年弱ですが、この日も余震でギシギシという音をたてて揺れてはいました。しかし、玉名地方は震度が弱かったせいで、家屋が倒壊したような事例はありませんでした。

家に帰って、初めてテレビで見た熊本市内や阿蘇地方の地震の被害の大きさと破壊力の凄まじさには息を呑みました。特に最たる被害が出た熊本市には、私の友人・知人も数多くいます。そのほとんどには連絡が付きましたが、未だにまだ連絡が取れない友人が数人います。

そして、故郷に帰ってしばらくして、ベトナム航空から次のような内容の、丁重なお礼のメールが私に届きました。「客室乗務員よりあなた様の機内での行動が、とても助かり感謝しているとの報告を受けております」。これを送って頂いたのは、ベトナム航空に勤めておられる日本人の方からでした。

そのメールを頂いた時、あの時の機内での様子を思い出しました。ベトナムに残った彼らは、全員が鹿児島県人です。彼らは日本に着いた後、鹿児島まで帰ってゆくはずです。しかし、まだこの時には、地震の影響で博多から鹿児島中央までの新幹線は動いていない時でした。

お互いに名前を名乗らず、こちらも病人の方の名前も聞かずじまいでお別れしましたが、(あの人たちは無事故郷まで帰られただろうか・・・)と、家に帰った後もふと思いました。それにしても、あの時にベトナム航空の客室乗務員さんたちが取った、迅速かつ親身の対応には<実にあっぱれだった!>と、今でも感心しています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

今月は、春さんが日本に一時帰国中のためお休みです。



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