春さんのひとりごと
<Saint Vinh Son小学校の“Fさんを囲む会”>
ベトナムに戻ってからしばらく経った6月中旬、ソファーの製造・販売をされているABさんにSUSHI KOで会いました。私は5月末にベトナムに戻りましたが、ちょうどその時ABさんは家族を連れて日本に帰国されていましたので、しばらく会えませんでした。そしてまたベトナムに戻って来られて、久しぶりに会えたのが6月中旬でした。
約二ヶ月半ぶりの再会でしたので、おおいに話が弾みました。さらにこの時には、あの<ベトナム戦争当時にメコンデルタでバナナを植えていた>Yさんが一時帰国されることになり、<Yさんとのしばしのお別れ会>も兼ねていました。全員で8人の方が参加しました。
そこでの宴会は9時半過ぎまで続きました。その場で私がYさんを初めとして、ベトナムに長く関わっていて、私が知る幾人かの名前を挙げました。その中のお一人に「Saint Vinh Son小学校」のFさんのことを話しました。すると、ABさんを初め、そこにいたほとんどの人たちがその存在自体を知らなくて、みなさんポカンとしていました。Yさんは直接何回かFさんには会ったことがありますので、ご存知でした。
私がFさんについて「これこれ、こういう人ですよ」と言う話をしますと、みなさんが「へ〜、そういう人がこのサイゴンにおられるのですか」と驚いていました。ABさんが「いつかそのFさんをここにお招きして、お話を伺いたいですね」と話されましたので、「分かりました。Fさんの気持ちと都合を聞いてみましょう」と答えて、その場は終りました。
それから十日ほど経った頃、ABさんから連絡があり「いろいろ皆さん方の都合をお聞きしましたら、7月1日(金)の夕方がいいということになりました。そこにFさんにお越し願えませんでしょうか」と私に依頼されました。
それで、私はその後すぐにFさんに連絡しました。「実は先日たまたまFさんのことをお話ししましたら、是非直接話を聞きたいということで、SUSHI KOで<Fさんを囲む会>をやりたいという依頼がありました。今のところ参加人数は未定ですが、7月1日に行うことになりました。その日においで頂くことは可能でしょうか」と言いますと、Fさんは「ああそうですか。いいですよ」と快く引き受けて頂きました。
そして実はこの話とは別になりますが、この<Fさんを囲む会>を行う予定の五日前、「青年文化会館」で毎週日曜日に行われている<日本語会話クラブ>において、一人のベトナム人女性の大学生と知り合いになりました。
彼女はその時一人で、新しくそこに参加していました。いつもの恒例の新人紹介として、彼女にも自己紹介をしてもらいました。彼女は「人文社会科学大学」の二年生でした。そこで彼女は将来の夢として、日本語の通訳ガイドになりたいという話をしてくれました。
彼女の名前はHai(ハーイ=海)さん。小柄な体ながら、キビキビとしていて、明るい表情が印象的な大学生でした。そして、その後分かりましたが、彼女は「人文社会科学大学」で日本語を教えておられる私の知人・SR先生の教え子なのでした。
『日本語会話クラブ』が終ると、青年文化会館の中にある喫茶店の中で、続けてまた食事しながら、お茶を飲みながら、希望者で日本語での会話の練習を続けています。そこに彼女も来てくれました。そして、そこで何気なく彼女の家族のこと、両親のことに触れた時、大いに驚いたことがありました。
彼女のご両親は、すでに二人とも亡くなっているというのです。「母は10歳の時に亡くなり、父は19歳の時に病気で亡くなりました」と彼女は淡々と話してくれました。まだ若い彼女だけに、当然両親はご健在だろうと思い、私が気軽に聞いた質問なのでしたが、それを聞いて(辛いことを聞いてしまったな・・・)と一瞬後悔もしました。
しかし、そういう状況でありながら、彼女は今人文社会科学大学に通っています。(どのように学費や生活費を工面しているのだろうか?)と思い、それを聞くと「今奨学金を頂いています」と答えてくれました。「その奨学金はいくらなの?」と聞くと、「一ヶ月100万ドン(約5千円)です」とのこと。「奨学金は毎年・毎年申請する必要があります。今年ももらえるか、それとももらえないのか、毎年不安はあります」と彼女は言いました。
そこまで聞いて、日本語を勉強しながら大学に通っている彼女の余りに可哀そうな境遇 に思いを致し、「日本人の有志の方で“Haiさん奨学金制度”を作ろうか」と考えました。今彼女は大学二年生ですので、彼女が卒業するまでの大学四年生まで続けて支援しようと思いました。その支援は彼女の卒業まで続けたいなと考えました。
そのことを、今回<Fさんを囲む会>に参加する人たちの前で話して、有志の方を募り、<Haiさんの奨学金支援の会>を立ち上げようと思いました。普段の飲み会の場ではそのような提案は“場違い”なものになりますが、今回の会合に参加して頂く人たちの中にそのことに理解を示し、幾人かの賛同者が出ればいいなと考えた次第です。
そして迎えた7月1日。参加者はABさんの奥さんとお子さんも入れて、全員で13名になりました。そのことを事前にFさんにお知らせしますと「ええーっ、そんなにたくさん来られるんですか。恥ずかしいですね。でも、みなさんお忙しいところを来て頂きますので、当日参加させて頂きます」と電話口の向こうで話されていました。今回の参加者も、ABさんがいろいろな人たちに呼び掛けてくれたおかげでした。その中には私の共通の知人・友人も半分ほどいました。
私の知り合いでは、「人文社会科学大学」で日本語を教えておられる女性の先生・SRさん。ベトナムの大学でつい最近まで居合道を教えていた「井浦あすか」さんのトーク・ショーが2014年9月に行われましたが、そこに参加されていた<人材紹介会社>のKTさん。ホンバン大学で日本語を今も教えておられるTR先生。
古い友人では、18年前私がベトナムに来てすぐ中部を旅行していた時に知り合いになって今もお付き合いが続いているKMさん。1998年にカンザーで、喜納昌吉さん、加藤登紀子さん、新井英一さんの歌手三人がコンサートを開いた時に、新井さんのほうの通訳をお願いしたOTさん。以上の方たちが参加されました。
TR先生とABさんが一番先に来ていました。Fさんも開始予定の時間よりも先に来られて、ABさんが早速質問攻めにしていました。こういう時には、ABさんはいつも好奇心旺盛に行動されます。奥さんもその横でお子さんをあやしながら聞いています。全員の方が席に着かれた後、参加者の中では私が一番Fさんを良く知るほうになりますので、私からFさんの紹介をさせて頂きました。
今から約17年前にもなるFさんとの出会い。授業料無料で立ち上げたSaint Vinh Son小学校の簡単な沿革。毎年日本からベトナムに来た我が社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちがその小学校の生徒たちと交流会を行っていること。・・・などについて話しました。みなさんたちが深く頷きながら聞いてくれました。そして最後にこう話しました。
「Fさんのような日本人の方がこのサイゴンにおられるというのは、同じ日本人の一人として“日本人の誇り”だと思います」
長年Fさんとお付き合いし、恵まれない生徒たちへの献身的な活動を地道にされるその姿勢に感動してきた私からFさんを見ていて、こころの底からそういう感想を持っています。特に私はSaint Vinh Son小学校が開設してすぐの時期に、Fさんに招いて頂いてそこを訪問した思い出がありますので、いろいろな困難を乗り越えてこられたその長い道のりは大変だったろうな・・・と想像しています。
今回の参加者の皆さんたちには、Saint Vinh Son小学校をより良く理解してもらうために、 その小学校を立ち上げて間もない2000年に、私がそこを訪問した時の記録「Saint Vinh Son小学校訪問記」を全員にコピーして配りました。以下がその訪問記の内容です。文中の年齢や値段などの数字は2000年当時のものです。
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<ベトナム・特殊小学校訪問記>
● 訪問日時:2000年12月12日(火)AM9:30〜11:00
● 訪問場所:ホーチミン市 7区:Lop Hoc Tinh Thuong Saint Vinh Son
(セイント ヴィン ソン 無料小学校)
2000年12月12日(火)、ホーチミン市・7区の住民票の無い子供および年長者の為の施設、Saint Vinh Son (セイント ヴィン ソン)小学校を訪問する。ベトナムでは住民票の無い子供や、年長者は公立の小学校に入学は出来ない。この施設はそういう子供や年長者のために建てられた施設で、今から2年前に開設されたばかりである。場所はサイゴンの南の7区に位置し、市内からバイクで20分ほどで着く。
案内して頂いたのは、Fさんという日本人の男性と、その奥さんでベトナム人のLam Thi Hoang Oanh さん(37才)。Fさんは1年のうち3分の1はベトナム、3分の2は仕事の関係で日本で過ごしている。
10年前に奥さんとベトナムで知り合い、当時すでにボランテイア活動をしていたOanhさんの活動に共鳴し、日本で仕事をしながらOanhさんが創ったこの施設の経済的な援助を継続して行っている。
奥さんのOanhさんはカトリック教徒で、子供のころからそのカトリックの団体のボランテイア活動を行って来た。そして長じてからもそのような活動をしたいと考え、この7区に自分の家を解放して、教育を充分に受けられない子供たちに教育の場を与える施設を創りあげた。
そしてその運営資金は夫である藤牧さんの援助と、自分の家で裁縫の仕事をしながらの収入を充てている。今現在は他の団体からの寄付は一切頂いていない。全ての経費は基本的に自分達でまかなっているが、貧しい子供たちに援助を与えるスコラシップの制度を創り、有志の方にその制度に参加してもらっている。
そのスコラシップの制度は、1人の有志の方からひと月100,000ドン(約800円)を1年分として1,200,000(約9,000円)ドンを頂いて、それをスコラシップの制度の対象者に毎月与えている。今1ヶ月に約10人の子供がいて、有志の方の中には、日本の女優の三林京子さんの名前もある。子供を援助したいと思う人がいれば誰でも参加出来る。
そして子供からその人たちに手紙を出すこともあり、その時は藤牧さん夫婦が翻訳してその支援者に送る。子供たちも自分の支援者がベトナムに来る時などは首を長くして待ち、会えた時は大変喜んでくれるという。
われわれが施設に着いた時はちょうど9:30。建物は二階建てで、一階が15坪ほどの広さがある。教室はその一階を利用して1つだけある。道路側からその教室の中の様子や、授業内容は丸見えである。この時は小学3年生のクラスに女性の先生がベトナム語の授業をしているところであった。
午前中は7時〜12時まで小学1年生から3年生までの授業があるという。午後は4年と5年生のクラスがある。同じ学年によってもクラスの進度が違うので、遅い時は夜の9:00まで授業をする時もある。この時間帯に来ていた生徒数は22人いて、みんな楽しく授業を受けていた。生徒の中にはクメール人の子もいた。われわれが教室に入ると全員で立ちあがって挨拶してくれた。
教室で授業をしている間に、外では次の授業を待っている生徒たちがすでに10人ほど来ている。その子供たちを相手にまた物売りの人がいる。ここでたまたま日本のカキ氷売りと全く同じのを見つけた。
日本で大工さんが使うカンナを引っくり返して、その歯の部分に氷を当ててガリガリと削り、削って出て来た氷のクズをヒョウタンの形に手で丸め、それをまたビニール袋に入れ、赤や黄色の液体をぶっかけて売っている。値段を聞いて見ると1個が500ドン(約5円)であった。つい買いたくなるのをぐっとこらえて、藤牧さん夫妻に近くの喫茶店で話を聞くことにする。以下は藤牧さん夫妻から聞いた話をまとめたものである。
ここに来ている生徒は全部で80人いて、学年は1年から5年まである。1クラスには平均15人の生徒がいる。生徒は月曜日から金曜日まで、毎日2時間ずつ授業を受ける。低学年のクラスは算数とベトナム語。上の学年のクラスには歴史も教える。土・日は休みだが、土曜日はオーストラリア人の先生が絵と音楽を教えにやってくる。
教えている先生は全部で5人いて、1人に一ヶ月30万ドン(約2,500円)ずつ払うので、全部で150万ドン(約12,500円)かかる。先生は公立の学校と掛け持ちで教えていて、全くのボランテイアで教えているのはそのオーストラリア人の先生だけである。
来ている子の年齢は下は7・8才から、上はなんと27才の子(?)がいるという。この子たちの親は経済的な困窮が原因で田舎からホーチミンに流れつき、この近くの公有地にバラック建ての家を作って住んでいる。遠くはカーマウから来ている子もいる。こういう親に付いて来た子供たちは、当然戸籍がこのホーチミンには無い。従って公立の学校には行けない。そういう状況の中でも、親や子は教育を受けたいという希望は持っている。
この地域には近くにこのような施設が少ないので、今来ている生徒以外にも、20人くらいの生徒が1年に2回(4月と9月)だけある入会時期まで待ち、さらにまた30人の生徒がその次の入会の時期に備えて待っているのだという。ひとつのクラスがスタートすると、途中から入りたい希望者が居ても授業の進度が違ってくるので、年に2回のその新入会の時期から入ってもらうという。
そして年に2回ベトナム政府の教育委員がやって来て試験を受けさせ、それに合格すれば次のクラスに進むことが出来る。それに合格しなければ次のクラスには進めない。つまり落第である。ベトナムでは公立の学校でも、所定のレベルに達しない場合はこの落第の制度がある。日本のような妙な平等主義はない。そしてこの試験にも合格し、教育委員が特別に認めた場合に公立の学校に編入することが出来る。その場合は定時制の夜間部である。
Oanhさんに「子供たちは喜んで来ていますか?」と言う質問には、友達が出来るのが楽しいらしく、親が「行け」と言わなくてもみんな意欲的に来ているという。
しばらく教室の授業風景を見せてもらった後、近くの喫茶店でOanhさんに話をいろいろ聞く。ちなみにOanhさんは日本語が出来ず、藤牧さんはベトナム語が出来ないので双方の会話は、外でも家庭の中でも英語で行っているという。従って正確を期すためにこの質問は藤牧さんが英語に訳して、彼女も英語で答えるというやり方で行った。
Q.「何故このような施設を創ろうと思ったのですか?」
A.「子供のころからカソリツクの団体でボアンテイア活動をしていましたので、このようなことにも興味がありました。多くの子供たちが学校に行けない状況があり、自分の家を解放して教室にすればそういう子供たちでも教育を受けられると思ったのです。」
Q.「Oanhさん自身は、どのような家庭でしたか?」
A.「3人兄弟で、私の小さい頃に父と母は離婚しました。そして一人で私たち3人を育ててくれたその母も、私が16才の時亡くなりました。その後は3人で助け合って生きて来ました。今は1人の兄はベトナムのチョロンに住み、もう1人の兄はアメリカのカリフォルニアに住んでいます。」
Q.「自分達の資金だけでこのような施設を運営するのは大変でしょう」
A.「過去にいろんな団体から援助を頂いたこともありましたが、それを自分達のビジネスに利用されたという経緯等が有り、それ以降は出来るだけ人の援助に頼らず自分でやって行こうと思ったのです。」
Q.「こういう施設もこの地区の役所に登録する訳ですね?」
A.「はい、こういう施設はあくまでも慈善活動として許可されていますので、生徒から授業料を取ったりするような営利目的の活動は出来ません。また生徒に宗教を教えることも許されません.。もしそういう不法行為が生ずれば、ここの土地や建物は全て没収されます。中にはこのような活動をビジネスとしてやっている人もいますが、私はそのような事はしたくありません。」
Q.「最後にOanhさんの将来の夢をお聞かせ下さい。」
A.「今の施設の設備や内容をもっと充実させ、ここで子供たちに職業訓練を施して、将来子供たち一人一人に手に技術を身につけさせてあげたいと思います。ここでは子供たちのために仕事の世話もしていますが、住民票もここにない子供たちの職業の選択肢は非常に狭いのです。ですから子供たちが自立できるような技術をここで教えてあげたいと思うのです。 資金面や人材の面でまだまだ不充分ですが、ぜひそういう夢を実現させたいと思います。」
以上の話を淡々と語るOanhさんの話し方、そしてそれを通訳している時の藤牧さんのOanhさんに対しての態度。ビジネスとしては成立しないけれども、夫婦で一つの共通の仕事をやっていることから生まれる強い「絆」や「信頼関係」がうかがえた。聞けば藤牧さん夫婦は今年の4月に結婚したばかりだという。時々日本には仕事としては行くけれども、これからも一生をこのままベトナムで過ごすつもりだという。これからもOanhさんの活動を助けながら・・・。
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<Fさんを囲む会>ですので、みんながいろいろ質問し易いように、Fさんには真ん中の席に座って頂きました。そして私からのFさんの紹介の後、初めて顔を合わせる方もいるので、全員の方々にそれぞれの自己紹介をして頂きました。私自身も初めて会う人たちが三人ほどいました。
そして、私の自己紹介の番が来た時に、私の簡単な紹介と、今回ここに参加した人たちに対して、「Haiさんへの奨学金支援の会・発足」の話をしました。私が作成した「Haiさん支援の会」のコピーも配り、説明しました。最終的には、「Haiさんへの支援の会」はこの日集まって頂いた方と、その後「日本語会話クラブ」で呼びかけたことで、現在の段階で6名の有志の方が現れました。
各自の自己紹介が終わり、次に自由にみなさんがFさんに質問を投げかけてゆきます。それに対してFさんが丁寧に答えられてゆきます。しかし、私が座っている席からは離れていたので、どういう話をされているのかは私には良く聞こえませんでした。
ABさんはFさんの正面の席に座っていましたので、彼が一番多く質問していました。ABさんが今回の<Fさんを囲む会>の発起人だったので、人一倍強い関心があったのでしょう。以下はその後、ABさんがご自分の手記で述べられた感想です。
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今回7月1日(金)は、特別ゲストでFさんをお呼び頂いてのスシコ会。 この方、Saint Vinh Son(セイントビンソン)という無償の小学校を開設して活動されています。初めに、
Fさんのご紹介、各自の自己紹介から懇親会スタート。
■Fさんのストーリー■
御年73歳、ベトナムとは1991年くらいからのお付き合いとのことですが、以前は海外を飛び回るホテルマン。アメリカ、ヨーロッパ、タイなど20年以上海外生活を経てベトナムへ。当時はお仕事関連で初めてホーチミンへ。
その際に慈善事業の施設などを訪問したのがきっかけで、それからホーチミンへ来て無償の小学校を1998年末に開設。実はそのホーチミンでの施設視察の際にアテンド頂いた女性が今の奥様。敬虔なカトリックで、慈善事業を積極的にやっていた奥様にほれ込んで、ご結婚してご夫婦で小学校の運営に携わっています。
公立小学校としての認可も受けており、過去18年で送りだした生徒さんは300名以上。
正式に小学校卒業で送り出せるので、卒業生の中にはそれから中学校、高校はもちろん、大学まで行かれた生徒さんもいらっしゃるそうです。
企業や一般の方から少しずつ支援金を募り、教員の先生の給与、活動費に充て、ご本人はほぼ無償でやり遂げてこられました。素晴らしい活動ですが、ベトナムの経済発展に伴い、ご自身の活動としてはやり遂げた思いがあるそうで、2年後には学校は終了されるとのこと。
私もホーチミンに住んでいながら、このような方がいらっしゃったことは存じ上げず、あまり表舞台には出られない方。なぜだろうかと思っていましたが、Fさん曰く、
「こういった慈善事業は、PRすればするほど資金は集まってくるけれど、実際の活動費以上に頂いて、実は儲かっている団体も多いんです。会計報告として完全にオープンにする必要はないから、実際個人で儲かっている人も多いのが実情。私はボランティアでやっているのだから、自分が儲かってはいけないし、必要以上の資金は要らない、そうやって良いことをやっていますと人に言う必要もないから。」
それでも18年ずっと続けてこられたモチベーションはなんでしょうか?と質問したところ、
「好きなことをやってきただけだから・・・特になんてことはないよ」
・・・そうやってさらっと言ってのけるお姿が印象に残ります。自分が今も、そして70歳を超えてそんな発言が出来るだろうか・・・。これからの人生の課題です。
家庭の経済事情で教育に差がついてしまう発展途上国。そんな差を埋めてあげようと子供たちを支え続けてきたFさん。この10年くらいのベトナムの経済発展で、その役割も一つの区切りと感じてこられたとのこと。
私自身は、誰かに継承して続けていってほしいと勝手ながら思っていましたが、Fさんにお会いして、少しFさんの終了されるに至った経緯、お考えが少し理解できた気がします。
ビジネスにおいては数は力であり、資金調達は必要条件であり、それが出来る人間が強いですが、そことは真逆をいくFさん。何より「人として」どう生きるかを考えさせられた、意義深いスシコ会でした。
■Fさんから、若い世代へのメッセージ■
「あんまり偉いことを考えなくて良いんだよ、1人1人、自分でできることを頑張れば良いんだよ。」
柔らかく、温かく、その中に垣間見える熱い思いの数々。ホーチミンのラストサムライ、ここにあり。
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<ホーチミンのラストサムライ>とは言い得て妙ですが、若いABさんからFさんを見て、そういう印象を抱いたというのは興味深いことです。ABさんがここに述べられているように「2年後には学校は終了されるとのこと」とありますが、私自身も今から二年ほど前からそういう話を伺っていました。
その決断を下された理由としてはさまざまな事情がおありでしょう。今まで他人の資金援助に頼ることなく、ご自分が日本の建設現場で働いて得た資金を学校の運営資金に充ててこられました。しかし、それもFさんが高齢になられてきたこともあり、難しくなってきたのも大きな理由です。
あと2年でFさんと奥さんのOanh先生が設立した「Saint Vinh Son小学校」の活動は20年目を迎えますが、そこで一つの区切りを付けられます。20年間に亘って続けてこられたこの学校を閉じるに当たっては、お二人にしか分からない万感の思いがあることでしょう。
FさんがOanh先生と二人でサイゴンの地で小学生たちを相手にして創られた舞台の幕が、 多くの人たちから惜しまれながらそろそろ閉じようとしています。
今まで社会に送り出した生徒さんたちの数は300名以上。今社会人になっている彼らは、 本来であれば両親が貧しいために、公立の学校には行けない子どもたちなのでした。そういう彼らに対して、<授業料無料>で小学校教育を授けて頂いたFさん夫妻に寄せる感謝・尊敬の念は言葉に尽くせないくらい深いものがあるはずです。
この日の<Fさんを囲む会>は夜の十時頃まで続きましたが、この日参加した方々にも深い感銘を与えた会合でした。
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