アオザイ通信
【2007年4月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<メコンデルタでの宴会>
ベトナムで私の好きな街道や場所としては、北ではサパ街道やハロン湾。中部ではサイゴンから中部高原の方向へ抜けてバンメトートへ向かう街道。そして南ではサイゴンから南西方向に延びているミートー街道です。しかもここミートー街道の魅力は、一年の中でも雨が降らない、ジリジリと焼けるような熱い太陽が照りつける三月や四月にあるのです。

ベトナムに来てから、合計すれば今まで十数回はこの「ミートー街道」を通過して来たでしょうか。しかし私自身も今までなぜこの道路に惹かれるのか良く分かりませんでしたが、今回またここを通り過ぎることがあり、改めてその理由が少しずつ分かって来ました。

私のベトナム人の知人のKさんから、「私の田舎のミートーで祖父の十年忌をするので来ませんか」という誘いがありました。故人の年忌の行事に参加するのは、私の女房の実家でも良くやっているのでさほど珍しいことではありません。

しかしそれはいつもサイゴンでのことで、参加者も毎回同じ、料理もいつも同じメニューが出て、特に目新しいことがある訳ではありません。
さらには故人を偲ぶ年忌祝いといっても、その故人自体を知らない外国人の私にとっては、ただの宴会(不謹慎かもしれませんが)でしかありません。

このKさんからの誘いも「ミートーで祖父の年忌祝いを兼ねた宴会をするので来ませんか」という誘いなのです。それで私自身も、田舎でのそういう体験はまだなかったので、「ありがとうございます」と、そのせっかくの誘いを受けることにしました。

当日は日曜日の朝7時に、サイゴンを車で出ました。ミートーに行く途中の光景は、私にとっていつもの懐かしい光景が続いていきます。
サイゴンを抜ける時に眼にするのは、以前からもそして今もあるゴミ屋敷のような訳の分からない家々です。

そしてロンアン省に入った頃から、広い田園地帯が見えてきます。ちょうどこの時期は米の収穫時期でした。地面にモミを干していたり、稲ワラを集めたりしています。さらにまた最近始まった事業なのでしょうか、工場を誘致出来るような広い区域が、多数の重機を使って造成されていました。

しかし沿線の光景は、昔も今も変わらないのどかさを感じさせています。この街道を行き来するお客の休憩用にハンモックを吊るした茶店がずらっと並び、中・小の食堂もあり、少し路地を入ると市場があります。

そして私の一番好きな風景として、この街道沿いの店や家の前にブーゲンビリアの花が点々して植えてあるのが見られることです。この花は五色もあり、しかも一年中何回も咲きます。赤・白・黄・紫・ピンクの色をした花びらが、満開に咲いている光景は見るだけでも美しいものです。

さらにはこの炎天下に日除けの覆いもなく、道路沿いの棚にはガソリンを入れる時に使うような、ポリ容器に入った地元の酒が置かれて売られています。農村風景やお茶屋、新しい開発地区や道路沿いの花の美しさ。とにかく新旧の入り交ざった混沌とした、他の街道ではあまり感じられないものがここにはあります。

そして9時にはそのミートーにあるKさんの実家に着きました。ちなみにKさんは8人兄弟で、彼は18歳までここで育ち、大学生活をサイゴンで過ごしました。彼は非常に向学心が強く、ロシア語、英語、ドイツ語を習得し、その努力の矛先はさらに日本語にも及び、日本語検定試験2級の資格を取っています。

彼のミートーの実家もまた、私が今までべトナムの田舎の農家で見た中ではあまり見られない独特の建て方をしていました。天井は広々として高く、家の中にある柱や梁にはお寺に使ってあるような大きい木材を使用してありました。屋根もサイゴンやカンザーの田舎で良く見るような、トタンやニッパヤシの葉ではなくて、瓦で葺いてありました。

私もべトナムの農家の造りはいろいろ見て来ましたが、お寺や廟などは例外として、普通の農家でこんな建て方をした家を見たのは初めてでした。ベトナムでは、普通の家はサイゴンのような都会でも、田舎でも、レンガとコンクリートで造られています。

山に木材が少ないベトナムでは、木材は高価な物につきます。平坦部の農作業に便利な土地は、人口の大部分を占めるキン族が占有し、少数民族の人たちは山岳部に住んでいて、山を切り開き、山の傾斜地を利用した稲作栽培やトウモロコシの収穫などで生活しています。

それでベトナムにも山自体はあることはあるのですが、その山には日本のような鬱蒼とした森林を見ることは少ないのです。テイエラがカンザーに建てたセミナーハウスで使用した大きい木材も、実はカンボジアから輸入したものでした。

さらに彼の家のすぐ裏には、巨大なメコン川が悠然と流れています。
彼の家の敷地は何と4千平方メートルはあるということで、家の周りにはジャックフルーツ、竜眼、ココナッツ椰子、ザボン、バナナなどが植えられていました。彼の話では70歳を過ぎたころのおばあさんが、家の屋根よりも高いヤシの木にスルスルと登って、彼にヤシの実をもいで落としてくれたそうです。

またKさんは、足元に生えている雑草のような葉を指差して「これはラウ マーという名前で、みんながよく街中でジュースにして飲んでいる緑の液体がこれです」と解説してくれました。その葉っぱを手に取ってもんで匂いを嗅ぐと、確かにその芳香がしてきます。

しかしここは空からはジリジリと照りつける陽が射していても、家の周囲に植えられたそれらの樹木のおかげで、辺り一帯に涼しい風を運んで来てくれるのでした。

さて「宴会」は10時ころから、古く大きい竜眼の木陰に設けられたテーブルで始まりました。食事のメニュー自体は、象耳魚のから揚げ以外はサイゴンで食べるのと変わりありません。ニワトリのお粥や、ニワトリの肉とキャベツのサラダほか5種類くらいが出て、最後に魚の鍋とデザートで終わりました。

今日ここに参加した人たちはほとんどが親類や兄弟たちなのですが、毎年一度のこの会合を朝からビールや焼酎を飲み、食事しながら語らいつつ、大いに楽しく過ごしていました。

しかしここに参加した人たちの顔付きを見ていても、サイゴンでよく眼にする「生き馬の眼を抜く」ような人たちの顔と違い、一人一人が実におだやかな風貌をしていました。そういう人たちとビールを何本も飲みながら話していると、こちらも大いに楽しくなってきました。そして宴会がお開きになった後、私は木陰に吊るしたハンモックに揺られて数時間寝てしまいました。

喧騒のサイゴンを離れてミートー街道を行けば、その先にはひろびろとしたメコンデルタの風景や、豊穣な食べ物や果物があり、そしてそのメコンデルタの恵みを享け、そこで生まれ育った人々のおだやかな笑顔があるのでした。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <KITANO教授・環境問題について語る> ■

財政を節約するためにゴミの減量を
明治大学のKITANO MASARU教授がベトナムを訪問した。彼は最近の日本のゴミ処理の仕方と、いま民間で普通に取り組んでいる分別ゴミの出し方とその処理方法と効果について解説してくれた。

そしてこの取り組みは、今後の環境問題の改善と、ゴミの減量と、財政の節約に大きい効果をもたらすことを話してくれた。今ベトナムにおいても環境問題は大きな問題となっていながらも、国民の意識は大変低いといわざるを得ない。

そこで今回はKITANO教授に、日本での環境問題への取り組みの現状と、今後の対策について聴くことが出来た。

Q、 日本ではいつ頃から、環境保護の問題についての人々の意識改善が始まりましたか?
A、 それは環境問題とゴミの問題が大きくなり始めた、1950年ころから大体始まってきたようです。

日本は明治維新の近代化への国を挙げての取り組み以降、重工業の拡大を推し進めて、それが結果として後にイタイイタイ病や、水俣病なので深刻で悲惨な公害病を生んで来ました。

特に水俣病の発生は、環境問題と経済発展のバランスをどうするかを考える上で、日本人に大きな転換点をもたらしたと考えられます。

Q、 日本政府は今環境問題についてどのように解決していこうとしていますか?
A、 日本の環境汚染は、工業化を現実に進めている企業が引き起したものでした。それでそれ以降は、排水や排煙などについて世界でも厳しい規制を企業に実施しています。

ベトナムでは、企業の排水・排煙については大変ゆるい規制しかないようですが、この状態が続くままですと、いずれ日本と同じような深刻な問題が起きることでしょう。

そして今大きな問題となりつつあるのは、企業以上に国民の側にあります。国民が毎日の乗り物として使用する車や、各家庭で“排出”するゴミの問題です。ベトナムでは日本の車に当たるのが、毎日の足としてみんなが使用するバイクです。

この2つの問題は、これから発展するどんな都市でも抱える大きい問題だといえます。そしてこれについて政府が無策のままでしたら、その都市は汚れた空気や水と、ゴミに埋もれた都市になっていくことでしょう。

Q、 かつて東京にゴミ戦争が起こり、今もゴミを埋め立てる処分場がなくなりつつあると聞きました。ベトナムも、今ゴミの問題は大きなものになって来ました。このような惨禍を避けるためにはどのような対策を取れば良いとお考えでしょうか?
A、 それは“3つのR”が答えになると思います。Reduce(ゴミの減量)、Reuse(再使用)、Recycle(リサイクル)です。ゴミの減量は「人々の義務」というよりは、「そのこと自体に価値があること」と思う意識を高めることが大事です。

以前は日本でも、「埋める場所がないからゴミの減量をしよう」と考えていました。しかしそうではないのです。ゴミ減量化はゴミ収集の大きい財政負担をも減らすことになるのです。

そしてこのゴミ減量化の実現には、「分別ゴミの出し方」を徹底する必要があるのです。今日本では、32の都市で分別ゴミの徹底を進めています。人々の意識もずいぶんと高まって来ました。

また使用済みペットボトルを機械に投入すると、お金が戻ってくるようなやりかたも導入しています。また石油から作られるこのペットボトルは、いま様々な用途に再生されてもいます。

Q、 教授、今後のベトナムのゴミ処理問題が抱える困難さはどこにあるとお考えですか?
A、 私も、ベトナムの環境省がゴミ処理についての政策目標を持っているのは知っています。しかし、その目標を達成するに当たっては、現場での実行・応用が徹底されていないと考えています。

また各家庭の生活廃水も、何の処理もしないまま垂れ流されているのが現状です。そしてベトナムがこれから経済発展をして行く上で、各企業から出される排水や排煙のゆるい規制も、今のままのような現状が続いていけばこれから大きい問題になり、将来深刻な結果をもたらすだろうというのは、日本の過去の教訓から明らかなことなのです。

日本は、経済発展をして来た歴史の中で発生した公害病を繰り返さないように、今は企業も厳しい規制が課せられています。

さらに環境保護には、人々の積極的な態度と協力が必要です。「ゴミ処理」「ゴミ減量化」に取り組むには、人々の意識改革をどうしたらいいかを考えないといけません。

このことは、ベトナムにおいても早過ぎることはありませんし、今からでもやろうと思えば出来ることなのです。日本もそこに到達するまでに、実に50年かかったのですから。

(解説)
以前私はこのBAOの欄でベトナムのテト後のゴミの惨状を書きました。
今年のテトは私は日本にいて、その現状は見れませんでした。でもベトナムに帰ってから新聞を読みますと、やはりテト後のもの凄い量のゴミの写真と、それに関する読者の意見が掲載されていました。

そもそも私はこういう現状をベトナム人自身、特に若い世代がどう捉えているのかが大きい関心事でした。そして良く読んでいくとその記事は、「読者の意見から」として、まさしく上記のKITANO教授の記事を読んでの、読者からの意見だったのです。そこにはこう書いてありました。

「“財政を節約するためにゴミの減量を!”の記事を読んで、私はベトナムの今後にとって大変参考になる意見だと思いました。私も日本に行ったことがありますが、日本ではみんながゴミを捨てる時に徹底して分別しているのも見ました。

みんなのゴミに対してのそういう意識の高さによって、ベトナム人の目で見たら、日本の街中にはゴミらしいゴミはほとんどないと言っていいほどでした。しかしベトナムに帰って来て見ると、私の住んでいる地区では、みんなはゴミを分別する以前に空き地でも、道路でも、手当たり次第に捨て放題です。ビニール袋が至る所に散乱しているような状況です。

ベトナムの人たちのゴミ、そして環境問題に関しての意識は低いと言わざるをえません。それではみんなの意識が自然と高まるまで待てば解決するのだろうかと考えると、今から増えつづけるゴミの量からしてそれでは追い付かないと思います。それでは具体的にどうすればいいのかと、みんなが知恵を出さないと解決しないと思います。

例えば地区の公安が直接指導して、その地区の人たちが日本のような分別ゴミの捨て方を強制してやらせるぐらいでないと、この問題は解決しないのではと思います」。

内容からして、これを書いた人はまだ若い世代のようです。この提言が採り入れられて成功するかどうかは分かりませんが、今少しずつそういう若い世代の人たちが、ゴミ問題に眼を向けているのだなーと感じたことでした。


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