アオザイ通信
【2010年3月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<県民歌『信濃の国』のこと>

二月初旬、日本から長野朝日放送の取材班の方が三人来られて、このサイゴンでお会いすることが出来ました。今まで面識のない三人の方を私に紹介して頂いたのは、同じ長野県出身の、あのSaint Vinh Son(セイント ビン ソン)小学校の支援者・Aさんでした。

今回の長野朝日放送の取材班のベトナム訪問の目的は、開局20周年を迎える記念番組として三月一日に放送する予定の番組を作成し、その番組のテーマとして「世界で活躍する信州人」を訪ねて取材し、長野県の人たちに異国の地で活躍している信州人の存在と、その活動を知ってもらうことでした。

三人の取材班の人たちは、一月中旬にまずベトナムのハノイに降り立ち、そこでいろんな信州人に出会って取材を終えた後、ハノイからフエ→ダナン→ホイアン→サイゴンへと下って行かれました。

Aさんによりますと、その三人の中では長野では有名なアナウンサーとして活躍されているSさんが、今回の取材の中心的な役割を果たされていました。そのリーダーでもあるSさんのことをAさんから間接的に聞いて私が感心したのは、このベトナム滞在時にもベトナム人の通訳を雇うこともほとんどなく、自分たちだけでいろんな場所を訪ねて取材されていたことでした。

街中の取材に出かける時などは、50ccのスーパーカブを日割りで借りて(ベトナムでは50cc以上のバイクは免許が要ります。)、頭に被ったヘルメットの上に小型のビデオカメラを括り付けてバイクを走らせ、目の前に展開するいろんな光景を、頭を左右に回しながらビデオに収めていました。私も後でそれを見ましたが、思わず笑いが込み上げて来るとともに、また(何とすごい行動力だろうか!)と驚きました。

三人の方がサイゴンに移動して来るまでに撮影した、ベトナム各地での映像を私も後でYouTubeで見ましたが、ベトナムでの朝・昼・晩の食事編や、路地裏の光景。そしてそれぞれの場所で出会った日本人、ベトナム人たちとのいろんな交流が撮られていました。

さらには北部のハノイから中部、そしてサイゴンに下って来るまでには、いろんな信州人たちとの出会いがあり、その人たちのベトナムでの活躍ぶりを取材されましたが、サイゴンでは一人の信州人、あのSaint Vinh Son小学校の運営責任者・Fさんの取材が今回のメインでした。

そして平日に、いよいよSaint Vinh Son小学校を訪問する日がやって来ました。三人の方はこの小学校を午前に訪問されて、朝から生徒たちが教室に集まる場面や、先生たちの授業の風景など、いろんな場面を撮影した時、前に紹介した、小学2年生の女子生徒がハキハキと質問に答えていた、あの感動的な場面が現れたのでした。

取材班のリーダーの一人であるSさんが何気なく、「将来何になりたいですか?」という質問を小学2年生のその生徒に投げかけた時に、その生徒はスクッと立ち上がって、明るくも真剣な表情で、「将来大きくなったら、貧しい子どもたちに教えてあげる先生になりたいです。」と答えたのでした。それを聴いた瞬間にOanh先生は頭を伏せられ、他のベトナム人の先生方も目を潤ませながら、その子の言葉をジーッと聞かれていたということでした。

日本で三月一日にこの番組がテレビ放送された時には、その場面がしっかりと入っていたそうですので、長野県の人たちにはその場面がこころに深く刻まれたのではないかと思います。

前回、私の恩師のことについて触れた時に、私は恩師の思い出を次のように書きました。

子どものこころに灯をともす人・・・これを『教育者』という。

その小学2年生の女の子の言葉をAさんから聞いた時に、(何とすばらしいことを言う子なのだろうか。)と感動しましたが、Oanh先生はもうすでに今の段階で、その小学2年の女子生徒のこころの中に、明るい灯をともしておられるということでしょう。

そしてSさんたち取材班の人たちは学校の中や、教室での先生たちの授業風景や、生徒たちが授業を受けている様子などを撮影されましたが、今目の前にいる生徒たちが何故授業料無料のSaint Vinh Son小学校に通って来なければならないのかが、生徒たちの外見だけ見ただけでは分からないのでした。

何故なら、彼らの着ている服やカバンはボロボロでもなく、普通の公立学校に通っている生徒たちと見かけだけでは同じように見えたからです。しかしそれも当然で、彼ら両親の貧しい経済状態では制服やカバンを買えない生徒たちがほとんどなので、学年の変わり目ころにはSaint Vinh Son小学校から生徒たちにそれらをプレゼントしているのです。

それでSさんは「子どもたちがどんな所から通い、どんな家に住んで、両親はどんな生活をしているかを見たいのですが・・・」と、Fさんに申し出られました。Fさんはしばらく考えられた後、「分かりました。今から彼らの家に一緒に行きましょうか。」と了解されました。

そしてFさんに同行してもらって、ある一つの場所に固まって住んでいる、5・6人の生徒たちの家を訪問しました。それは日本人から見たら、想像を絶する貧しい家の造りでした。普通のベトナム人が住まないようなクリーク沿いに、バラック建ての長屋が繋がっていて、部屋の中は四畳半ほどの広さで、そこに4・5人の家族が住んでいました。その家は借家でした。

その家の床はタイル張りでもコンクリート張りでもなく、ただの土間です。こういう家でも、大家さんに一ヶ月40万ドン〜50万ドン(2千円〜2千5百円)の家賃を払っているということでした。Sさんたちはそのような生徒たちの家を見た時に「・・・」と、しばらくは言葉が出て来ませんでした。

家の中には目ぼしい家財道具などはほとんどなく、鍋や釜が数個あるだけでした。(一ヶ月や二ヶ月先どころではなく、今日一日だけを必死で生活しているような様子でした。)と、後でSさんは話していました。そしてそれを思い出すと辛い気持ちになるのか、それ以上のことは話されませんでした。

そしてそのような貧しい家庭環境であっても、そこにいた5・6人の生徒の親たちがニコニコとして彼ら三人の日本から来たお客さんを迎えてくれ、その親の側に立ち、明るく、逞しく、学校にもイキイキとして通っている生徒たちの顔を見ていますと、「何とも言いようが無い感動を与えられました。」と話されました。

そのような家庭環境の実態を見て初めて、(このような境遇の中からあのSaint Vinh Son小学校に通っているのか・・・)と、彼ら生徒たちの置かれている状況がこの時にようやく理解出来てきたのでした。そしてベトナムの公立小学校が手を差し伸べることもないこのような生徒たちに、熱い志と溢れるような愛情を持って接しているOanh先生と、同郷の信州人・Fさんにあらためて深い感銘を受けられたのでした。

そしてFさんのSaint Vinh Son小学校での取材を最後にして、一通りの仕事を三人の取材班の方が終えられ、私がこのサイゴンでお会いしたのは、二月初旬の頃でした。この時には三人とも、まだ三週間足らずのベトナム訪問でしたが、私以上にずいぶんと陽に焼けておられました。炎天下の中を、日除けのマスクなどもせずに、いろんな所に行かれたのだな〜と想像しました。

私がAさんから招待されて、このサイゴンで三人の方と親しく一緒に食事をさせて頂いたのは、あのヤギ鍋屋さんの「LauDe214」です。今回の撮影も終わりに近づいて来たので、食事編で紹介する夕食もありきたりのベトナム料理ではなく、「どこか面白いところはありませんか?」とSさんから相談された時に、Aさんは迷わず「ではぜひヤギ鍋屋さんに行きましょう!」と強く勧められたのでした。

そしてこの日には、全員で十数名ほどが参加しました。三人の取材班の方以外は、みんなヤギ鍋料理は体験済みの人たちでした。そしてやはりこの日も店の前の歩道や、向こう側の歩道も、多くのお客で賑わっていました。

私たちは、最初にまずいつもの定番のコースである、「ヤギの乳肉炭火焼き」を食べました。テーブルの上に広げられたヤギの乳肉が入った皿と、スライスされたオクラや玉ねぎやトマトなどを、まず食べてしまう前に撮影しないといけません。

三人の方も、このヤギ肉の炭火焼きを食べたのは初めての人生体験だったらしく、「いや〜、実に美味いですねー!ビールに良く合いますよ。」と感嘆されていました。時に私やAさんがここで食べる時の乳肉は日によって柔らかい時、硬い時があるのですが、確かにこの日の乳肉は柔らかいほうでした。

そしてそれが終わると次はヤギ鍋コースです。ヤギの骨肉から取ったスープは最初に少し温めてあり、そのスープの中にはキクラゲ、蓮根が最初に入っています。そしてまず先に湯葉と豆腐、タロイモ、シナチクを入れ、鍋のスープが煮立った頃に春菊やからし菜、ニラなどを入れます。そして好みや腹具合に応じて、米の麺や乾麺を入れます。

このヤギ鍋もまたまた三人の方は初めてでしたが、「いやー、これまたスープが絶妙に美味いですねー!」と喜んでおられました。そしてこのヤギ鍋コースの中盤ころに、いつものお決まりの大道芸少年二人の登場です。

この二人の少年は、見た目はまだ14・5歳くらいです。この二人の少年は炎の演舞を、路上で食べている多くのお客さんの前で披露してくれます。50センチほどの長さの棒の両端に火を点けて、それをクルクル回したり、口に含んだガソリンを(プーッ)と噴き出して、一瞬大きな炎をボーッと出しますが、その瞬間にはお客さんが驚くくらい辺りが明るくなります。

さらに真っ赤に燃えている炭を口に入れて、口の中でそれを噛んで火を消してしまいます。その口を(アーン)と開けて、「どうだ!完全に消えているだろう。」というつもりで観客の方に向けて首を回して見せてくれます。

また時には、小さい蛇の頭とシッポを握って、口と鼻の穴から数回出し入れして、上下に動かしたりする芸当を見せたりします。(それがどうしたんだ?)という気もしますが、まあいろんな芸を披露したいのでしょう。ボランティアでこういうことをしているわけではないのですから。しかしその蛇の色は、どう見ても、あの強い毒を持っているといわれている緑色をした蛇なのですが・・・。

そしてその芸が終わると、その子は両手を大きな甕に回して抱えて持ち歩き、お客さんの間を回って行きます。この大道芸を見て喜んだお客さんたちは、その甕の中に2千ドン、5千ドン、一万ドンなどのお金を入れてあげます。ほぼお客の間を一巡した少年たちは、最後にキチンとお客さんのほうに一礼をして、また次の大道芸披露会場に向かって行きます。この間15分くらいでした。

今日のこの時には来ませんでしたが、いつもは『火噴き少年』の後に、飴売りのお兄さんと少女も登場します。自転車の前カゴに大量の飴を入れ、荷台にはスピーカーを括り付けて二人は路上に登場します。鉛筆状に長く延ばした飴を、路上に座っている大人や子どもたちに売る商売です。

さらにはお兄さんのほうが、私たちが会話出来ないくらいの大音量で、路上にガンガンと大きな音楽をかけて飴売りのアピールをします。音楽を掛けるだけではなく、お客の注目を集めるために、さらにマイクを握ってこれまた大きな声で、調子の外れた下手な音程で、カラオケを歌い始めるのです。

ベトナムの人たちはそれに対して「うるさい!止めろ!」というふうな文句も全然言わずに平然として焼肉を食べ、鍋を突付いています。私やAさんは最近はもう慣れて来ましたので、(あー、また始まったか・・・。早く終わってくれないかなー。)と諦めて眺めています。しかしこれを初めて見た、日本から来た旅行客は耳を押さえていますね。お兄さんが大きな声で歌っている間に、妹らしき少女が飴を売り付けます。そして適当に飴が売れたところで、また次の目的地に向けて自転車を漕いで行きます。

そしてこのような一連の大道芸人たちの余興も、取材対象として大いに意欲が湧くようで、彼らが芸をやっている間はずっとビデオを回しっぱなしでした。そしてその芸が終わり、ついでにSさんに「ここには私が13年前にベトナムに来て以来、ずっと便座が壊れたままのトイレがありますよ。」と言いますと、「それは面白いですね。ぜひ見に行きましょう。」と乗り気になりましたので、そこに案内しました。

それを見たSさんは、「このような状態で、どうやって使うのでしょうか。不思議ですねー。」と言いながらも、しっかりと撮影されていました。もっとも(この場面は放送は出来ないでしょうね〜。)と笑われていましたが。

また席に戻ったところで、AさんやSさんたちの口から、数日前に開いた信州人だけの「県人会」の食事会のことを聞きました。そこには十数人の長野県人が集まったそうです。同じサイゴンにいながら、その場でお互いが初めて顔を合わせた人たちもいたということでした。そしてその県人会の宴がたけなわになった頃に、誰から言うともなく「今から『信濃の国』を歌いましょう!」となり、全員で歌ったということでした。

実は私はこの時、この場で初めて、長野県には県民歌としての『信濃の国』という、【長野県民なら誰もが知っている歌がある】というのを知りました。その県人会では二番まで歌って大いに盛り上がったという話でした。しかし今までAさんは私に、そのような県民歌の存在は一言も話してくれていませんでした。

あるいは長野県人である彼には当たり前すぎて、それを(わざわざ他人に話すということが頭に浮かばなかったのかな・・・)とも思いました。Sさんは「数日前にYouTubeにUPしましたので是非見て下さいね。」と私たちに話されました。

そしてSさんたちがベトナムを去られて数日後に、私もその長野県人会のYouTubeを見ました。そこには私が直接顔を知っているサイゴン在住者も数名おられました。その中の一人が人差し指を前に突き出して、「イチ ニー サン!」と音頭を執って歌い出されました。

信濃の国は じっしゅうに 境つらぬる 国にして
そびゆる山は いや高く 流るる川は いや遠し
松本 いなさく 善光寺 よっつの たいらは肥沃の地

私が聴いたこのYouTubeには、バックには音楽も流れず、歌詞も画面には出て来ませんでしたので、漢字で拾える部分はそれくらいで、耳で聴き取れたのもそれくらいでした。さらにこの時には、全員の信州人のおじさんたちがアカペラで歌っていましたので、(そうかー。これが県民歌『信濃の国』か・・・。)くらいの印象でした。

しかしその数日後テト休みに入り、私の女房の実家に家族全員が集まった時に、お客さんの中に一人の日本人女性・Nさんがおられました。Nさんは私の女房の姉と同じ日本語学校で、ベトナム人に日本語を教えるために最近来られたばかりでした。それでベトナムに来たばかりの彼女を、女房の姉が「一人でテトを迎えるのも寂しいでしょうから、実家に来ませんか。」と誘って、ベトナムのテトに招待したのでした。

そしていろいろ話していましたら、実は彼女・Nさんも長野県出身なのでした。それでNさんに長野朝日放送の人が話してくれた県民歌『信濃の国』のことを聞きましたら、私が知らない実に興味深いことを話して頂けたのでした。Nさんは次のようなことを話してくれました。

「その『信濃の国』という歌は、1968年に長野県歌に指定されました。長野では何かの儀式や会合に長野県民が集まれば、必ずといっていいくらいこの県民歌『信濃の国』が合唱されます。『君が代』は日本国民としての誇りが持てる歌ですが、この『信濃の国』は長野県人が一つにまとまり、こころの拠り所としている歌です。以前に長野で分県騒動が起きた時に、その『信濃の国』の歌のおかげで、それが避けられたという有名な話もありました。」

「長野では小学校入学と同時に、生徒たちはこの歌を習います。文語体で書かれていますので、小学生たちにはその意味はすぐ分かりませんが、【読書百遍意自ずから通ず】で、長ずるにつれて自然と分かるようになりますね。1998年の長野オリンピックの開会式で、日本選手団が入場する際にも、この『信濃の国』が演奏されました。」と私には初めて聞く、大変興味深い話をされたのでした。

Nさんの話を聞いた私は、(これは伴奏付きで正式に聞かないと、真の『信濃の国』の歌の良さは分からないなー。)と思いました。それでその後で、私は再度YouTubeで演奏付きや歌詞付きの『信濃の国』を聴きました。そしてそのいろんなパターンのメロディーを聴き、文語調の歌詞を見て、読んで実に驚きました。

1. 信濃の国は十州に 境連つらぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
2. 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳
浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
3. 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑採りて 蚕飼いの業の打ちひらけ
尊きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
4. 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山
著き名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる

最初にYouTubeの県人会の集まりでみなさんが歌っていたのを聞いた時には、みなさんは声に出して歌っていただけで、この時歌詞は出て来ませんでした。それで「ま〜つもと、い〜なさく ぜーんこうーーじ」は、「松本 稲作 善光寺」だと思いこんでいました。恥ずかしながら、(松本地方で稲を作っているのだろう・・・。そしてそれを善光寺に奉納するのかな?)と想像していたのでした。

「この歌詞自体は、一体全部で何番まで続くのですか?」と、Aさんに後で聞いた時にも、(実は私もよく分からないんですよ。)というくらい長い歌のようですが、私は初めて演奏と歌詞を同時に聴いて、(この歌はなんとすごい歌なのだろうか・・・!)と、深く感動しました。長野県人ではない私が聴いても、本当にこころに響く歌でした。

このような歌を長野の生徒たちが小学生の時から歌っているとしたら、情操教育という観点からも、感受性豊かな子どもたちに育つだろうなあーと思いました。そしてこのような歌を自然に、素直に歌える人たちは、長野という自分の故郷をまたこころから愛せることでしょう。自分の故郷を愛する人は、また他の国も愛するこころを持てるだろうと思います。

この歌をしばらく聴いていましたが、その文語体の歌詞の詩情溢れる見事さといい、メロディーのテンポの心地良さといい、長野に生まれ育ったことのない私でも、非常にこころに沁みるものでした。私の故郷・熊本には、そもそも県民歌があるかどうかも知りません。「火の国旅情」という歌があったような記憶はありますが、みんなに知られ、みんなに歌われているという歌ではありません。

この歌は長野県を紹介する時に、単純に地名を並べたようでありながら、その配置や順番は、みんなが歌い易いように実に良く考えてあり、私から見てこのように深い内容と、こころ弾むようなメロディーと、郷愁を備えた県民歌を今だかつて聴いたことがありません。

このようなテンポの乗りのよさであれば、今の若い人たちも喜んで歌えるだろうなーと思いました。実際にチアガールのような格好をした女子高生たちが歌っているパターンもありましたが、それがまた大変ノリがいいテンポの『信濃の国』の歌になっていました。

この歌が、長野オリンピックのような大舞台でも歌われたというのも頷けます。この『信濃の国』には、それに相応しい歌の大きさと、美しさと、万人が口ずさめる心地よいリズムがあると思いました。

昔から今まで、長野ではこのような歌が本当に小学生から大人に至るまで、みんなの愛唱歌になっているとしたら、一つの県民の伝統・文化として見た時、これほど凄いことはないだろうと思いました。

そしてテトが明けた二月中旬過ぎに、あの西表島の「やまねこマラソン」から無事帰って来たAさんを、Nさんに紹介しました。この時分かったことでしたが、AさんとNさんはたまたま同年齢でした。ですから同じ長野県内で、住んでいた場所こそ違え、同じ学年を過ごされていたことになります。

今回「やまねこマラソン」初出場ながら、Aさんは23キロ余りの「やまねこマラソン」を完走されました。彼がこのマラソンに挑み、走ったのは、誰のために走ったのでもない、自分のために走ったのですが、このコースは後半が上り坂が多くなって、走っている時にだんだんと足がきつくなって来たそうです。

しかし「キツイ!もう止めて歩こうか・・・」と諦めようとした時に、Saint Vinh Son小学校の子どもたちの顔・顔・顔が浮かび、「よし!最後まで完走して、子どもたちの前でこの思い出を話してあげよう。」と気力を振り絞って遂に完走したのでした。この時に私とNさんの前で、「子どもたちのおかげで、完走出来ました。」と、嬉しそうに話してくれました。彼の話を聞いていますと、今回一つのことをやり遂げた満足感・達成感を強く感じていたようでした。

そしてこの時にAさんとNさんは初めて会い、お二人が長野のこと、長野の思い出、『信濃の国』の歌を話されているのを横で聞いていた時に、徐々に『信濃の国』についての輪郭がクッキリとしてきました。それに関した知識や経験のある人の口から直接語られると、こういうのはより鮮明に理解が進んで来ます。

当事者の人が語ると、今まで同じように見ていた、読んでいたものがまた違う角度から見えて来るという経験は、あのバナナを植えていたYさんの場合にも、そのことを今回痛感しました。

私はこのベトナムでのテトの時は、どこにも行かずに「開高 健」さんの本を繰り返し読んでいたのですが、その開高さんの一冊の本「ベトナム戦記」の中に出てくる「当間(とうま)」さんという沖縄出身の人の名前を本の中に見た時、思わず目を見張りました。それは時にYさんが私に話してくれていた人の名前なのでした。

(この人だったか〜。)と、Yさんが話していたことと、開高さんが書いた内容が結びつき、深い陰影と懐かしさを持って私に迫って来ました。そしてテト明けにサイゴンに帰って来たYさんと再会した時にその話をしますと、Yさんも嬉しそうにまた、その当間さんの話を続けてしてくれたのでした。

AさんとNさんの話を聞いていた私は、長野県の人たちが愛唱歌として歌う『信濃の国』の歌の詩情と内容の深さ、素晴らしさがますます分かって来ました。そして私はNさんと別れた日に、私がYouTubeで聴いたアドレスをNさんに紹介しましたら、「それを聴きました。有難うございました。」というお礼の挨拶とともに、次のようなことを述べられました。

「改めてこの歌を聴いて涙が出る思いでした。一つ一つの情景・山・川・田・木々・・・が、幼かったころ、まだ父母が若くて私が何の屈託もなく、父母の回りで遊んでいたころを思い出させてくれます。」

「故郷の景色はそれだけにとどまらず、私の今までのすべての記憶につながっているような気がします。一人・一人のこころの中にある故郷というのは、そのようなものではないでしょうか。」と。

長野県の人というのは、この県民歌の存在により、他県の人たち以上に、自分のこころの中にいつも「熱く、深い故郷への郷愁」を持っておられるのだなーということを、そのNさんの話を聞いて良く分かりました。

長野の人たちは、他県人である私から見たら実に羨ましい歌を、「県民歌」として持っておられると思います。今回私は偶然にも長野の県民歌を知りましたが、他県の県民歌にも、あるいはこのように感動的な歌があるのではと思います。

願わくばこれからも、長野の生徒たちにこの歌を歌い続けて上げて欲しいなーと思います。長野県内にいる人たちだけでなく、特に長野を離れて他県や異国で暮らしている長野の人には、この県民歌『信濃の国』は長野を偲び、長野を思い起こさせる、素晴らしい名曲としてこころの中にいつもあることでしょうから。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <面白いテト、つまらないテト> ■

● フエ式テトにこころ惹かれて

テトがもうすぐやって来る。私はテトが近づいて来るたびに、(どうしてベトナムのテトに親しみを感じ、楽しく迎えられるのだろうか?)と自問する。

それはきっとフエで三年間過ごした時に、フエの伝統的なテトを体験したおかげだと思う。そして今年もフエでテトを迎えるために、今から荷物を準備している。

今年は私にとって幸運だと思うのは、フエはベトナムの中でも昔から今に至るまで、歴史的な遺跡や建築物、宗教的な建物やお祭りも多く、自然も豊かで、いろんなものが入り混じっている土地だから、楽しいことが体験出来る気がするからである。

ベトナムのテトの底流に流れている文化・精神・伝統は出色のものである。昨年はフエの伝統的な習慣を守る家族たちと一緒に、すばらしい時間を過ごすことが出来た。フエの人たちがテトを祝う時に行う心霊的な儀式や振る舞いについて、いろんなことを学んだり、調べたりして、何故そういう行いをするのか、その意味が分かると驚きもし、強い好奇心が湧いてきた。

中でも一番驚き、興味を惹かれたのは、フエの人たちがテト時に振舞うお参りの仕方や、先祖や祖父母を偲ぶ時の儀式だった。私の国フランスでも、ある儀式や教会でのお参りの時にはいろんなやり方があるが、フエで見た儀式は仏教や他の宗教も入っているので、外国人の私から見て、不思議に思うこともあった。

いろいろな冥器(めいき:紙で出来た車、家、お札、服、動物、テレビ、茶碗、箸、)などを全部燃やして、あの世に送る。燃え上がる火が上に昇って大きくなればなるほど、先祖や祖父母に良いことをしている気分になるという。

亡くなった人は今現世にはいないが、その子どもや孫たちは、テトの時いつも先祖のことを考えているので、フランス人である私には感動的だった。フランスにも確かにお祭りはあるが、そのように先祖を敬う習慣はないので深い感銘を受けたのだった。

ベトナムでは家族の一員が亡くなったら、亡くなった人のことを忘れないで、その人の命日に合わせて祭祀を行う。普段の生活の中でも、先祖を敬う心が生きているのである。そしてテトやこうした命日には、兄弟・姉妹で先祖や亡父、亡母について話し合う。もうすぐ新年が来る直前の深夜に、(ふだんは自分たちの健康を祈っているが)亡くなった人たちの幸運と幸福とお金が儲かるようにと天の神様にお願いし、また健康(!)までも祈っている。

そのようなことは、ヨーロッパの宗教観とは全く違うので大変興味深いのである。このような風俗習慣は、東アジア特有の面白い文化を創っていると思うので、いろんな体験を重ねるごとに、私はそれを探求していきたいと思う。

CHRISTOPHE GAILLARD

● テトは世界の終わりか

このベトナムで初めてテトを迎えた時に、いろんな人から多くの質問を受けた。

Q.ベトナムで、このテトの時何をするのか。

Q.ベトナムで、このテトの時どこへ行くのか。

このような質問を外国人である私にするということは、ベトナムの人の親密さの表れであり、何かこころがほのぼのとして来るのだった。しかし今回初めてテトを体験した時、予想外のことも多かった。

たとえばスーパーなどに行った時、多くのベトナムの人たちで混雑していて、その人たちが多くの品物を買い込んでいる光景を見た。その買い方を見ていると、棚にある品物を手当たり次第にカゴの中に入れているような感じで、本当に必要か必要でないかを充分に吟味して買っているような様子ではなかった。それはちょうど、“世界の終わりの日”が近づいているかのように、あれもこれも買っているような光景だった。

そしてテトにベトナムの人の家に行くと、テトにお客さんを迎えるために、たくさんの料理が作ってあった。どこの家に行っても、同じ料理がたくさん作ってある。そのような料理をたくさん作るというのは、ベトナムの人たちの「お客好き」のこころを表していると思う。

でも私たちのような外国人にとっては、お腹が一杯になればもう食べられないのに、出された料理がまだまだ無くならないで皿の上に残っているのを見ると、「全部食べないと失礼に当たるのでは・・・?」と心配なこともある。

テトそれ自体は楽しい行事なのだとは思うが、私のような外国人から見ると、みんなが不必要に浪費しているように思えたり、ベトナムの人の家に招かれた外国人にとっては、「失礼にならないだろうか。」と悩むことも多い行事なのだ。

CHRISTY SIMON

● プレゼントに見る、妙な考え方

いろんな国で、いろんな習慣や生活様式が違う。それは事実だと思う。ベトナムではテトの前に、日ごろお世話になった人や職場の上司などに、山のようにプレゼントを贈る風習がある。プレゼントを贈ることの意味は、良いことも悪いこともあるのではないかと思う。

私の国ロシアでもプレゼントを贈ることはある。しかしそのような場合でも、ベトナムのように山のようなプレゼントを上げることはまずない。本来お正月(テト)というのは神聖なものだと思うのだが、ベトナムの人たち同志で山のようなプレゼントを贈っているのを見ると、(ベトナムの正月の意味は違うのかな?)と首を傾げることもある。

役所や病院や会社で、その人の地位が高くなればなるほど、貰うプレゼントは多くなり、高価になるという。それが本当に“神聖なお正月”のあるべき姿なのだろうか。

どうしてベトナムの人たちはテトを迎えるたびに、山のようなプレゼントを上げるのか、いや上げないといけないのか、その目的も意味も、正直今も分からない。

NATALIA NIKOKOSHEVA

(解説)
今年のテト(2月14日)数日前に載った、外国人から見たテトの意見ですが、ベトナムで迎えるテトは、異邦人やお客さんとして迎えるのと、ベトナム人の家族の一員として迎えるのとでは、テトに対する見方がずいぶん違うかもしれません。

私もまだ独身の時には、テトの時には普通のローカルな食堂はほとんど閉まるので、テト休みの間の食事に大いに困ったことでした。仕方なく、下宿の近くにかろうじて開店していたヤギ肉屋(Lau De124とは別の)で、浅野さんと二人で3・4日続けてヤギ肉ばかり食べていたような思い出があります。このようなテトの過ごし方では楽しいはずがありません。

しかしこちらで結婚してからは、テトの時は毎日昼と晩の食事は女房の実家で食事をしますから、全然不自由はありません。むしろ最近はサイゴン市内のテト前の街の飾り付けや花市、そして市内の中心部にテト時に設営される豪華な庭園などが、「いよいよ今から正月がやって来るぞー」という雰囲気を盛り上げてテトに突入してゆきますので、こころウキウキするテトになって来ました。

そして日本の正月と、ベトナムのテトはその迎え方、考え方が違います。日本では正月だからといって先祖を思い出すことは少なく、いま現世に住んでいる家族が楽しく紅白歌合戦を観、お雑煮を食べ、おせち料理を食べ、神社に詣でるという感じですが、ベトナムのテトは、 CHRISTOPHE GAILLARDさんが書かれているように、先祖や祖父母を敬い、現世の家族のみならず、先祖の幸福や幸運や健康をお祈りする大きな節目という感じです。

普通の庶民の家には、一階には土地と家財を守るという、大きなお腹をしたおじさん(オム ディア)が祀られていて、その上の部屋には家族を守る神、そして家の外に向けては天の神が祭られていたりします。小さな食堂に入っても、部屋の隅のほうや、頭の上にそういうのがさり気なく祭られていて、線香の煙が漂っています。

そしていよいよ新年を迎える深夜大晦日(今年は 2月13日)になると、小さい台を出して外の方に向け、2本の長いローソクに火をともして台の両方に置き、中央には大きいザボンを添え、また線香にも火を点け、そのような形を整えてから家族がそこに集まり、新年を迎えるというのがベトナムの普通のやり方です。今の我が家もそうです。と言っても、これをやるのはベトナム人である私の女房のほうですが。

ただ私もこちらでは、朝起きたらいろんな神様・仏様に線香を上げないといけません。これは家長の勤めだということなので、一年のうちこちらにいる間はそれが毎日の習慣になり、いつも欠かさず線香を上げています。そして正月二日は家族や親戚総出で、お寺にお参りに行きます。今年も市内にあるヒンズー教の寺院に参りに行きました。(何でヒンズー教なの?)とは思いますが、要は賑わっているお寺にお参りに行くことが目的で、宗旨は問わないようです。

さらにCHRISTOPHEさんが書かれている冥器(ベトナム語でHang Ma)、ですが、ベトナムでは正月、お盆、お葬式などに、紙で作った、お札、服などをご先祖さまがあの世でも使えるようにという意味で、それを煙にして天に送ります。その中のお札はよく百ドル札がコピーされていますが、一見すると本物のようです。何も知らない旅行客は路上に捨ててあるそのコピー札を見付けると、慌てて走って拾いにいったりします。

あと贈り物ですが、これは日本でも盆暮れの付け届けがあるように、ベトナムでもそれは同じですね。女房の妹は病院の女医ですが、このテトでは大きい蘭の花や、透明のビニールで包まれて、ピラミッド型をした 50センチくらいの高さのプレゼントを幾つも貰って、それをバイクに乗せて帰って来ていました。患者さんからの贈り物もあったということですが、薬屋さんからが多いようです。しかしやはり、上司はもっとたくさん貰っていたそうでした。

贈り物の中身は、ワインやビスケット、ポテトチップ、チョコレート、カシューナッツ、瓶のインスタントコーヒーなどが、一つにギッシリ詰めて入れてありました。しかしこのような物を頂いても、喜んでは食べないし、飲まないだろうとは思います。事実、テトが終わって 20日ほど過ぎたのに、ビニールを開けないでそのまま置いてあります。

今年のテトもどこにも行かずに私はサイゴンにいましたが、テトの時のサイゴンは街中のバイクの数が極端に少なくなり、バイクの騒音や排気ガスもずいぶん減っている気がします。公園の花市も、テトを過ぎたほうがゆっくり見れます。そういう意味では私にとってのベトナムのテトは、このサイゴンにいる時のほうが、「面白く、楽しいテト」になってきました。



ベトナム写真館 バックナンバーINDEX