春さんのひとりごと
<子どものこころに灯をともす ― 恩師を偲ぶ― >
一月下旬、私の小学生時代の同級生からベトナムに一つの報せが届きました。それは私の恩師・M先生の訃報でした。その報せを受け取った時、私は大きな驚きをおぼえ、そして深い悲しみをおさえることが出来ませんでした。
M先生は、私が小学5年生の時に私たちの小学校に赴任されて来た、若い男の先生でした。この時ちょうど30歳になられたばかりの頃でした。その前の4年生の時の担任は年配の先生でしたので、今度は一転して若いM先生に代わり、この時40人ほどいた私たち同級生の間には、緊張と不安と期待が交錯しました。
しかし5年生を受け持つことになったM先生は、私たちのクラスに最初に入るやいなや、実に爽やかな、明るい笑顔と、ハキハキした話し方をされて、時に冗談も入れて自分の紹介をされました。その途端に、緊張と不安に包まれていた私たちのクラスの生徒たちは、子どもたちのこころをグッとつかんだM先生の中に惹き寄せられていったのでした。
私が今M先生のことを振り返る時に思い出すのは、いつも笑顔を絶やさず、元気溌剌として、若々しい情熱をたたえたその姿です。そしてそれは、45年経った今でも全然色あせないのです。そしてまだヤンチャな5年生たちに時に厳しく接する時にも、時に涙を浮かべて話してくれるM先生のその目の奥には、温かい愛情を秘めたまなざしがいつもありました。
M先生は私たち5年生の生徒たちの名前を呼ぶ時には、男子・女子の生徒いずれにも、いつも「○○くん!」と名前に「くん」を付けて呼び掛けておられました。その後M先生と同じような教育関係の仕事に就いた私は、生徒たちにあの時ああいう呼びかけをしておられたM先生は、実は意識してそのような呼び方をしておられたのだなーと、今にして思うのです。
子どものこころというのは不思議なもので、「○○!」と名前だけを呼ばれる時と、「○○くん!」と呼ばれるのとでは、先生に向けての顔の上げ方、視線の向け方、頭の振り返り方に違いがあるような気がします。
「○○くん!」と自分の名前に「くん」を付けて呼ばれると、まだ小学生ながら、何か(先生は自分を一人前に扱ってくれているのだな〜。)というふうな気がするものです。そしてそのことは、小学生の子どもたちにとっても、後で嬉しい気持ちが込み上げて来るのです。
小学5年生を受け持った頃の若々しいM先生は、体力も気力も盛んな時期であり、全力で私たちにぶつかって来られました。授業時において意欲のない生徒には、時に厳しい指導もありました。数人の生徒たちが、正座をさせられた場面もよくありました。
しかし授業が終わった放課後になると、自分からドッジボールのボールを握り、「みんな校庭に出なさい。今から学年対抗戦をやるぞ!」といって、授業が終わった後の緊張から私たちを解放してくれましたが、生徒たちよりも自分が一番楽しんでいるような感じでした。
また秋になると、校舎の裏の小高い山に自生しているアケビ採りにも強い興味を示し、「もうそろそろアケビが実を付ける頃だな・・。」「来週あたり熟れるころだろう。」「よし、明日放課後にみんなで山にアケビ採りに行くぞ!」と言って生徒たちを喜ばせてくれるのでした。
今から45年前の、私の田舎の小学生時代は中学受験など誰もしないので、学校が終われば家に帰る途中で、カバンを土手に放り投げて小川で魚を獲ったり、藪の中の野イチゴを摘んで食べたり、先生も一緒になってアケビを採りに山に入っていました。今考えると、なんとのどかな小学校生活だったのだろうかと、懐かしく思い起こしています。
そして私たちには印象的な、修学旅行の時のM先生の忘れられないエピソードがあります。その修学旅行は熊本から長崎までの二泊三日の旅程でしたが、二泊目の夜に一人の生徒が高熱を出しました。旅慣れない田舎の生徒たちは、普段の場所と違うところに行くと、よくこういうことが起こります。
その生徒は熱に浮かされて、夜中もなかなか寝付くことが出来ませんでした。そしてM先生は一夜の間、その生徒の額のタオルを一時間おきに取り替える作業を続けられ、ついにその夜は横になって眠られることはなかったのでした。その生徒は、一晩中横にいてくれている先生の気配でそれが分かりました。
その生徒は朝方少し熱が下がり、薄目を開けた時に目の前にM先生の顔がありました。そして「大丈夫かい。起きられるかい?」と、優しく問い掛けられました。その生徒が後でそのことをクラスの中で話してくれた時、私たちみんながほんとうに深く感動しました。
M先生のされたことは、「先生の行動」としては「当たり前のこと」だったのかもしれません。しかしその「当たり前のこと」をさり気なく、平然と出来たのが、まだ若いM先生でした。あの時の同級生は、M先生の訃報を今どのような気持ちで聞いていることでしょうか。
私は今、M先生の授業時の情熱的な光景を思い出すたびに、昨年の「ベトナムの先生の日」に、研修生たちが歌ってくれたあの[Bui Phan(ブーイ ファン:チョークの粉)]という歌がよみがえって来るのでした。
そしてベトナム語で歌われているこの歌は、よく読み返してみますと、実は小学生時代に教えてくれた自分の先生の姿を歌っているのだなーというのに、今あらためて気付きました。
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先生が板書して チョークの粉が 降ってくる
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チョークの粉が 教壇の上に 降る
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チョークの粉が 先生の髪に 降り積もる
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私はこの瞬間が好き 私の先生の 髪が白くなる
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チョークの粉で 白くなる
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先生の楽しい授業 将来大人になっても
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どうして 忘れることが できるでしょうか
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昔先生は 教えてくれた
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私が まだ幼いときに
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今はホワイトボードに水性マジックで授業をすることが多くなりましたが、当時黒板にチョークを使って書いていた先生たちの授業というのは、黒板下の床の上にはチョークの粉がうっすらとした雪のように積もり、先生の手もシャツの袖も、赤や黄色いチョークの色に染まり、そして先生の髪には、確かにこの歌のように白いチョークの粉がかかっていました。
M先生には、私たちが6年生を卒業するまでの二年間受け持って頂きましたが、卒業式が近づいたある日の授業の中で、M先生は私たちに次のような話をされました。そして不思議なことに、45年前にもなる遠い昔のことながら、私は今でもその言葉をはっきりと覚えています。
「君たち小学生には、まだまだ知らない未知の世界が山ほどあるんだよ。何と楽しい、嬉しい、すばらしいことじゃないか!みんなこれから将来いろんな仕事に進み、いろんな場所で活躍することでしょうが、自分がまだ知らない世界に、勇気を出して積極的に挑戦して下さいね。」と。
M先生が私たちとの別れが近づいた時に贈って頂いたこの言葉が、私のこころの奥深くに沈んでいて、もしかしたらそれが、私がこのベトナムという『未知の世界の国』へ足を踏み入れたきっかけになったのかもしれません。
M先生の訃報を受けた日にも仕事があり、バイクで出かけましたが、外をバイクで走っている時にも、一月といえどもギラギラと強い陽射しが照り付けているサイゴンの青い空に、ありし日の先生の姿が浮かんで来ました。遠い青空に浮かんだその先生の面影は、私が小学生の時に見ていたままの若いころの先生の姿でした。
そしてその夜、Saint Vinh Son小学校を支援しているAさんとたまたま会う機会がありました。彼に会った時に、そのことは一言も話さず、いつもと同じような話し方をこころ掛けていたつもりだったのですが、やはり彼から見ると、私は普段の表情とは違う、沈んだ顔をしていたのでしょうか。Aさんは、「今日は元気がない感じですね。どうかしたんですか。」と鋭く突かれました。
それで「実は今朝、恩師の訃報を受けたんですよ。」と正直に話しますと、「そうなんですか・・・」と彼もしんみりとした顔をされました。
私が「でも不思議ですねー。小学・中学・高校・大学と今までいろんな先生に習って来たんですが、習った時代が近い、大学や高校のほうの思い出がふつうは鮮烈なはずなのに、一番古い小学生時代のその恩師・M先生の印象は大変強く、そして鮮明なのです。」と、Aさんに向かって話しました。
Aさんは「それは私も分かります。それは恐らく、小学生というのは人の一生のなかで感受性が一番豊かで、先生の情熱と愛情を最も感じやすい年頃だからじゃないでしょうか。特に情熱的な先生であれば、なおさらその印象は強いのでしょう。」と答えられたのでした。
そしてしばらく時間を置いた後にさらに続けて、「であるからこそ私は時に、Fさんが創った、貧しい家庭の子どもたちでも通えているSaint Vinh Son小学校の生徒たちは、普通の公立の小学校に通っている生徒たちよりも、実はずっと幸せなのではないか・・・と思うことがあるのです。」
「Saint Vinh Son小学校の生徒たちとその親御さんたちは、彼らが成長した大人になった後でも、授業料無料で小学校に5年間も通わせてくれ、そしてまるで我が子のように自分に愛情を注いでくれているFさんやOanh先生や他の先生方の献身的なこころざしを振り返る時、その子ども時代に受けた強い愛情と恩はおそらく忘れないだろうと思います。」
Saint Vinh Son小学校の子供たちに溢れるような愛情を注いでくれている先生たちの姿を、直接自分の目で見ているAさんの言葉に、私も恩師のあり日しの姿を思い出し、しばしの間何も言うことが出来ませんでした。さらにAさんは続けて、次のようなエピソードを話してくれました。
「実は先日、日本の私の故郷のTV局がSaint Vinh Son小学校を取材に来た時に、本当に感動したことがあったんです。日本から来た取材班の一人の方が、小学2年生のある生徒に『将来何になりたいですか?』と質問した時に、その子はサッと立ち上がって、『貧しい子どもたちに教えてあげる先生になりたいです。』と大きな声で答えてくれたんです。事前に何の打ち合わせもしていないのに、そのような言葉をわずか小学2年生の生徒がハキハキと答えていた時に、Oanh先生は思わず顔を伏せられていました。」
そしてそれを話していた時のAさんの顔が突如上のほうを向き、一瞬言葉に詰まり、彼の両目がみるみるうちに潤んできました。そしてすぐにその顔を私に見られないようにと思われたのか、さっと横のほうに向けられたのでした。
その瞬間の光景を見た私は、自分とは全然関係がない、全く知らない私の恩師の訃報にまで、ここまで感情を移入出来るAさんという人間は、(何と純粋なこころを持った人なのだろうか・・・)と、その潤んだ目をした彼の顔を見た時に、胸の奥がジーンとして来ました。
わが社・ティエラの教育部門では、新人教師の教育研修などにおいて次のような言葉を「目指すべき、理想とする教師像」として指導していました。私が日本にいた時にも、繰り返し指導されて来ました。
子どものこころに灯をともす人・・・これを『教育者』という。
【子どものこころに灯をともす。】という言葉の意味は深く、人それぞれの捉えかたがあるでしょう。子どもに夢を与え、やる気を出させ、目標を持たせることにより、子供のこころにポッと灯がともり、また何気なく発した先生の一言で、【子どものこころに灯がともる。】こともあるでしょう。
M先生は、ベトナムのサイゴンにいる私のこころにまでも届く灯をともして頂いたのでした。そしてその灯は、今も私のこころの中にともっています。これは私だけではなく、人それぞれのこころの中にいる『恩師』というのは、そういう存在なのではないでしょうか。
75歳で逝かれた、M先生との小学校でのお別れから45年という歳月が経ちましたが、私のこころの中でのM先生は、若々しい情熱をずっと持ち続けられた、私にとって一生忘れることの出来ない、まことに素晴らしい、『教育者』なのでした。今までも、そしてこれからもずっと。
先生 さようなら・・・・
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