アオザイ通信
【2010年5月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<歴史の道を“歩く”>

この四月に日本に一時帰国しました。今回の日本への帰国にあたっては、ベトナムにいる時から(是非観たいものだ!)と、大変期待していたTV番組がありました。それはNHKの大河ドラマ『龍馬伝』でした。

しかし毎週日曜日に放映されるこの『龍馬伝』を、私は日本にいる間にとうとう一度も観ることが出来ませんでした。何故なら毎週日曜日の夕方頃に限って、友人・知人に会う用事が出来て夜遅くまで外にずっと出ていて、家にいることがなかったからです。土曜日の昼の再放送も、これまた昼食後は毎日すぐ野良仕事に出掛けないといけないので、残念ながら見逃しました。

ところが平日のある日、家でTVをたまたま観ていましたら、『龍馬伝』に出演しておられる武田鉄矢さんへのインタビュー番組を観ることがありました。そしてこれが実に面白い番組でした。武田さんの「竜馬」への思い入れの強さは、その若き日のバンド名が「海援隊」であったように、多くの人たちの知るところでしょうが、この番組を観ていましたら他の追随を許さないほどの武田さんの、「竜馬」への心酔ぶりを知ることが出来ました。

武田さんは十八歳の時に読んだ司馬さんの本をその番組に持参されていましたが、武田さんが持ち込んだその単行本の厚い表紙はボロボロになっていました。武田さんは司馬さんの「竜馬がゆく」を読んだ後、その感動のあまりすぐに高知の桂浜に足を運び、桂浜の高台に立つ竜馬の銅像の前に正座して、誰もいない深夜に号泣したそうですが、その後の武田さんの人生は竜馬の生き方に意識して重なり合うように行動したこともあり、偶然にも竜馬とほぼ同じ年齢に、武田さん自身が似たような出来事に遭遇したことなどを話されました。

例えば竜馬は二十八歳の時に、自分の将来を切り開いてくれた勝海舟との運命的な出会いがあり、それから竜馬の人生が一介の素浪人から大きく変わってゆきますが、武田さんも同じ年齢のころ不遇を囲っていた時に、「幸福の黄色いハンカチ」の山田洋次監督との運命の出会いからその作品への出演依頼があり、そこから武田さんの役者人生が大きく開けて来たと話されていました。

武田さんの話を聞いていて実に面白かったのは、竜馬が勝と出会ったのと同じ二十八歳の年齢のころの武田さんは、まだ売れない役者生活をしていた時期だったのですが、(竜馬が二十八歳で勝に出会ったように、自分にも竜馬にとっての勝に当たる人物が必ず現れる。)と固く信じていたという話でした。それが山田洋次監督なのでした。

そして今回の『龍馬伝』では、武田さん自らが竜馬の師匠である勝海舟の役で出演されていましたが、そのシーンの一部も番組の中で観ることが出来ました。竜馬と勝海舟が出会う有名な場面において、司馬さんの著作「竜馬がゆく」では竜馬が勝を暗殺する目的で勝の家を訪ねたという筋書きになっていますが、武田さんは(果たしてあの竜馬が、人を“暗殺”するような後ろめたい目的で勝に会いに行くだろうか?)という大きな疑問を抱き、『龍馬伝』では竜馬が勝を訪ねた目的は“暗殺”ではなくて、(実は勝の竜馬への“人事面接”だったのではないか?)と想像し、自らが勝役で演ずるその場面では自分の推理通りのシナリオにしてもらったと話されていましたが、武田さんのそのユニークな発想は実に面白く思いました。

そして竜馬が三十三歳で暗殺されて亡くなった後、武田さんも歩調を合わせるように、また同じ三十三歳で「海援隊」を解散したこと。それは当然ながら竜馬の三十三年という短い生涯を意識しての行動でもありました。

幕末の日本に奇蹟のように現れて、彗星が流れるように去って行った革命の志士・竜馬への熱い思いを武田さんが情熱的に語られるその番組を観ていて、結果として『龍馬伝』は今回観ることが出来ませんでしたが、私は十分に満足しました。

武田さんは「竜馬がゆく」の著作者・司馬さん本人にも1988年に直接会われたそうで、その時に司馬さんに書いて頂いたという色紙を番組の中で見せてもらいました。その色紙には次のように書いてありました。

厚情 必ずしも 人情にあらず。 薄情の道 忘るる勿れ。

さらにこの番組の終わりには、武田さんへの質問という形で、視聴者からの「質問コーナー」がありましたが、その中の一つに「竜馬のように生きるにはどうしたらいいですか?」という質問が来ました。それに対して、武田さんはすかさず「ただ歩け!歩け!」と答えられてこの番組は終わりました。私には、この「歩け!」という言葉が非常に印象的に残りました。

実はその数日前に私の長年来の友人と会うことがありました。彼は最近ヘルニアの症状が進んでいるようで、私と話している間も腰を押さえてずいぶん辛そうな表情でした。そしてその彼が今治療に通っている、その分野では有名なお医者さんが話してくれたという言葉を私に紹介してくれました。

彼の主治医は次のような話をされたそうです。「人が抱える病気というのは、そのほとんどが自堕落に、体を動かさないでダラダラとしているような生活の仕方が原因で起きる。何もしないでダラダラと生きている、そのような状態を漢字で書けば“止”という字になる。その“止”という状態が長く続くと、人は病気になる。ではそうした状態から抜け出し、健康を取り戻すにはどうしたらいいのか?“止”の状態を“少”なくすればいい。つまり“歩け!”」と。

彼の主治医が話されたというこの言葉を聞いて、私は(う〜ん)と唸りました。そして何とも哲学的とも言えるその言葉を聞いて、その実に深い意味に感心しました。武田鉄矢さんが言われた“歩け!”は「積極的に行動しろ!」ということでしょうが、その主治医の方が話された“歩け!”は、「とにかく体を動かせ。二本の足で歩け!」ということなのでしょう。

そして武田さんの“歩け!”と、私の知人の主治医の方の“歩け!”という、同じ言葉ながら意味合いが違う、印象的なこの二つの言葉がまだ鮮烈に残っていたある日、私が地元の新聞を何げなく開いて読んでいましたら、地元の<お知らせ>欄の囲み記事の中に、「西南の役・田原坂(たばるざか) 歴史の道を歩く。くまもとウォーキング協会」というのが載っていました。その説明には、「玉東(ぎょくとう)町JR木葉(このは)駅前集合。同町から熊本市植木町にかけての史跡を訪ね、15キロを歩く。参加費五百円」と書いてありました。

ふだんの私であればこのような記事を見ても、何の関心も持たずに読み過ごしてしまっていたことでしょうが、これら二つの“歩け!”の言葉がずーっと頭の中に残っていたこともあり、迷わずにその協会にすぐ電話で参加申し込みをしてしまいました。

そして結果としてひさしぶりのこの長時間のウォーキング体験は、一年のうちほとんどをバイクで移動し、歩く事の少ないベトナム生活で、いかに自分の足が弱って来ているかを実感させられたのでした。日本にいる時には、私自身「歩く速さは普通の人よりも速いはずだ。」と今まで勝手に思い込んでいただけに、この日に気づかされた自分の足の衰えは意外なことでした。

さて「西南の役・田原坂 歴史の道を歩く」当日、普通列車に乗るために、私の地元の駅に行きホームに入りました。もうすぐ列車が来るその方向を見やると、そのホーム上に「玉名ラーメン」という赤いちょうちんがぶら下がった屋台がありました。実は私の地元では、この「玉名ラーメン」「玉名温泉」と並んで名物なのです。私も玉名に降り立った日には、家に着く前に必ず「玉名ラーメン」の店に直行します。「玉名ラーメン」は、熊本ラーメン特有の豚骨スープ味のラーメンです。

それでそのホーム上にある赤ちょうちんがぶら下った屋台を見て、(あ、駅のホームでラーメンの屋台を出しているのかな?面白い!)とベトナムの屋台文化に慣れ親しんだ私は期待し、近寄って行きましたが、そこにはただ屋台だけが据えて置いてあるだけで、屋台の中には誰一人いませんでした。

(なーんだ。ただ宣伝のために置いてあるだけか。)と少しガッカリしました。そしてふとその横に立っている、ある一人の人物が目に入りました。それは白人の男性でした。私が彼を見ますと、その白人の男性はニコーッとした顔でこちらを見ました。こういうふうに、お互いに名前も素性も知らない初対面同士でも自然に笑顔で挨拶出来るところが、彼らの素晴らしい習慣ですね。日本人ではこういう笑顔がさりげなく見知らぬ他人に出来る人は少ないでしょう。

彼の笑顔を見た私はすぐに英語で、「どこから来ましたか?」と聞きました。すると彼は「南アフリカから来ました。」と答えました。それを聞いた私は、「えっ、南アフリカですか!」と思わず聞き返し、ちょうど今から二年前に私の親戚の家でイノシシの焼肉パーティーを開いた時に出会った、同じ南アフリカの黒人男性を思い出しました。もし彼の返事が、「アメリカからです。」「イギリスからです。」という答えであったなら、「ああー、そうですか。」で終わり、それ以上深い話にはならず、簡単な世間話程度の挨拶で別れたことでしょう。

「南アフリカといえば、二年前に私は体の大きい黒人の男性とイノシシ肉のバーベキュー・パーティーで会いましたよ。そして昨年も居酒屋で再会しました。」と私が答えますと、その白人男性は、「ええーっ!本当ですか。」と少し驚いた表情をしました。実際に私は短い日本滞在の間、二年前と昨年に二回その黒人男性と会いました。

さらに私が「彼は玉名にALT(外国語指導助手)の仕事で、あなたと同じく南アフリカから来ていましたよ。でも昨年帰国したと思います。名前はえーと・・・、確かアズくんだったと思いますが・・・。」と言いますと、彼はその二つの目を、驚いたように大きく見開きこう言いました。「本当ですか!アズは私の友人ですよ。」と。今度はそれを聞いた私のほうが驚きました。

そしてすぐ私たちが乗る列車が来たので、続けて車中で話しました。彼の名前はピーターといい、39歳でした。非常にスマートな印象で、実際の年齢よりもずいぶん若く見えました。彼もまたアズくんと同じく、ALTの仕事のために五年前に私の地元に来たのでした。今は私の市内の公立中学と小学校で教えていました。この日は土曜日でしたが、彼は熊本市内の学校に教えに行っているということでした。今年の七月にはALTの任期が切れるそうですが、出来れば日本で別の仕事を見つけて、そのままずっと熊本に住みたいような意向でした。

しかしほんの先ほどまでは全然知ることがなかった私たちがこうして会えたというのは、偶然といえば偶然であり、不思議といえば不思議な出会いでしたが、お互いに数奇な出会いに驚きながらも私は、(このピーターくんとこのまま別れるのも惜しいな。また次の約束をして会おう。)と思い、彼の携帯の電話番号を聞きました。

何故ならば、彼と同じ駅に乗ってから二つ目の先の駅で私は降りるからでした。それで、「明日は日曜日ですが、ピーターさんは暇がありますか。」と聞きますと、「ええ、いいですよ。大丈夫です。」と彼が言いました。「では、明日はアズくんを知る私の友人も連れて来ますので、楽しみにしていて下さい。」と、私の降りる駅が近づいて来た時に話しますと、「そうですか。私も楽しみにしています。」と彼が答えましたので、私は彼に「では明日会いましょう。さようなら。」と手を振って列車を降りました。

さらにこれには後日談があり、翌日私たちは約束通り再会出来ましたが、またそこで彼が驚いた出来事がありました。彼との別れ際に、「アズくんを知る友人を連れて来ますよ。」と私は約束をしましたが、すぐその後に私はアズくんを知る友人に電話して「今日こうして南アフリカから来たピーターという人と会ったよ。」と話しますと、何とその友人は「そのピーターなら僕も知っているよ。」と言うではありませんか。

「えーっ!どうして知っているの?」と聞きますと、「彼が玉名に赴任したその日から三日間、自分の家にホームステイしたから。」と私の友人は答えたのでした。「へえー・・・。」と、私もその意外な二人のつながりに驚きました。しかしピーターくんは、私が彼に話した“友人”が実は自分がホームステイした家の主人であるとはこの時まだ知りません。

そして約束の日に、私は友人の家族全員と一緒に先に着き、ピーターくんを待っていました。しばらくして現れたピーターくんは、先に着席していた私と、友人家族を見渡して、キョトンとした顔をしています。それは(なんでここに五年前のホームステイ先の家族がいるの?)という表情であり、不思議そうな顔をしていましたが、友人家族のみんなは「ピーター、おひさしぶり!」と大喜びでした。

そして彼が座ってから私が、「昨日話したアズくんを知っている私の友人というのはこの人なんですよ。」と説明しますと、彼も「そうだったんですか!」と、愉快そうに喜んでいました。しかし今年この地元で異国の友人が出来て、私もまた楽しみが増えました。来年も彼がまだ私の故郷にいれば、おそらくまた彼に会えることでしょう。

さて話はまた「歴史の道を“歩く”」に戻りますが、ピーターくんと別れた後、私がJR木葉駅に朝十時前に着きますと、すでにもう五十名くらいの人たちが来ていました。参加費用を払った後に、今日一日で歩くコースの資料をもらいました。その資料の中には一枚の地図があり、今日歩く予定のコースが赤い線で引かれていて、この日に参加した人たちがどういうルートを辿るのかが分かるようにしてありました。

参加者の年齢層は、60代から70代の年齢の方が多く、最高齢者は何と81歳。一番若い人では二人の小学生が父親と一緒に参加していました。参加者の中には、福岡県からも5名ほどが参加されていました。

そしてこの日の天気は快晴で、実に穏やかな暖かい天気と、ここちよい風が吹いていました。集合時間の十時を少し過ぎた頃に、主催者の中の代表らしき人が今日一日のコース説明と緒注意をされた後に、出発前に十五分ほど軽い柔軟体操を全員で行い、いよいよ“歩け!”がスタートしました。

今回私は(15キロを歩いた時には一体どれくらいの歩数になるのか?)と思い、百円ショップで買った万歩計を腰に付けて行き、ちょうど10時半のスタートの合図とともにゼロにセットしました。今日の一般参加者は何と86名にもなり、協会のスタッフの方が十名おられましたので、この日は約百名近い大人数での“歩け!”になりました。

この日私は「くまもとウオーキング協会」についても知りたくて、この協会の副会長である75歳のNさんの側を出来るだけ添うように歩きました。Nさんによりますと、この協会は今年で16年目になり、Nさん自身は副会長を6年間勤められているということでした。そして常時百名近い会員の方が「くまもとウオーキング協会」に登録されていて、「歩く」ことに楽しみを見出している人たちが集まって、熊本の各地を歩いているということでした。頂いた資料を見ますと、2010年度だけでも27回ものウォーキング・コースが組まれていました。

しかし今日の参加者の方々と一緒に歩いていますと、幕末当事の人物や、道中の景色、自然の作物などいろんな分野に話が及んで、みなさんがこういう集まりに意欲的に参加されているなーという感じがしました。事実常連のメンバーの顔ぶれは同じ人が多いようで、最初に駅前に集合していた時には、「やあ〜、おひさしぶりですね。」という声があちこちから聞こえて来ました。

そして私はNさんと一緒に歩きながら、「くまもとウォーキング協会」の活動内容について、いろいろ話を伺うことが出来ました。Nさんによりますと、「くまもとウォーキング協会」はその名が示す通り、熊本県を中心に活動しているのですが、「ウォーキング協会」そのものは全国の都道府県に存在しているということです。それらを統括している団体が、「日本ウォーキング協会(JWA)」ということでした。

さらには、「ウォーキング協会」に会員登録している人や一般参加者の方たちが到達目標、そしてまた時間を掛けて一つ一つ達成しようとしているのが、JWAが認定した「美しい日本の歩きたくなる道・500選」というものだそうです。福岡県から参加されていた、ある会員の方からその冊子を見せて頂きましたが、大阪や京都などに出かけてウォーキングに参加された時のスタンプが押してありました。

大阪府の一ページを見ましたら、10コース以上のウォーキング・コースがありました。自分がある一つのコースに参加して無事完走したら、最後にスタンプを押してもらえるので、それが参加者の方の励みになってゆくような仕組みでした。それらの各コースを踏破したら押してもらえるスタンプに大きな喜びを感じている人たちが多いようで、そのような団体の活動を私は初めて知りました。

また私の前を歩いていた、ある男性が頭に被っていた帽子の後ろを見ますと、「坂本龍馬グランプリウオーク」という文字が入っていました。それは坂本龍馬が生前に辿った道をウォーキングするということでした。「それは、今年から始まった大河ドラマ『龍馬伝』の影響でしょうか。」と私が聞きますと、その男性は「そうではありません。もう今年で七回目になりますよ。」と答えられました。ですから、そのようなコースも含めて、さまざまなウォーキング・コースを皆さんで歩かれているということです。

この日私が参加した「西南の役・田原坂」のウォーキング・コースの行きのルートは、普段車で通過していたルートではなく、今回私が初めて通る道でした。帰りのルートは今観光地としても整備され、「田原坂資料館」もある、三の坂・二の坂・一の坂を通る道でした。行きも帰りも坂道が多いコースでした。

山の中の薄暗い坂道の片側に竹の子が生えているルートを、Nさんと一緒に横に並んで歩きながら、このようなウォーキングを実施するまでの事前準備などについてもいろいろ教えて頂きました。Nさんが言うには、本番のウォーキングの前にまずスタッフの方たちで実際に歩いてみて、危険な箇所がないかの確認、トイレの場所やその状況の確認、昼食場所の下調べなどを入念に行い、さらにまた行きと帰りでは同じルートを極力通らないようにしていると話されましたが、事実この日もそうでした。

私は今まで田原坂を車では数え切れないくらい通りましたが、歩いて行くのは今回が初めての体験でした。そして皆さんたちと一緒に自分の足で歩いてみて、世に言われている「田原坂の戦い」というのが一の坂から二の坂、三の坂に至り、今の「田原坂公園」に通じるルートだけの戦いだけではなく、実はかなりの広範囲に亘る戦いであるということが、この日に渡された地図や資料を参照しながら自らの足で歩いて、実に良く理解出来ました。

さらに、Nさんやその他スタッフの方が指で山の向こうを示しながら「あそこに見える山の峰の辺りでもこういう戦闘があったんですよ。」と説明されるのを聞いていますと、当時の「田原坂の戦い」が、私自身今まで知らなかった数多くのドラマに彩られているというのも改めて分かりました。そういう意味では今回のウォーキングに参加して、自分の足元にある歴史を再発見出来たような気がします。

「田原坂の戦い」は、「西南戦争史」の中で維新政府の官軍と西郷隆盛をリーダーに担いだ薩摩軍との戦闘が天王山となった戦いであり、ここで敗退した薩摩軍は勝機を逸して、熊本城からも撤退し、人吉、宮崎へと敗走し、ついに鹿児島へ帰り、そして最後は西郷さんが城山で自決して「西南戦争」が終わります。

この田原坂公園の中にある「西南戦争戦没者記念碑」には、その「西南戦争」で亡くなった官軍や薩摩軍の両軍の死者を併せて、約一万四千名の名前が刻まれていました。そしてその中には、西郷隆盛や桐野利秋の名前がありました。

また「田原坂資料館」には当事の戦闘時の様々な資料が展示されています。実は私はこの資料館に入るのも初めてのことでした。あまりに多くの資料があり過ぎて、ここに一言では書き尽くせませんが、私は広い壁の両端の対に墨で書かれた西郷隆盛と大久保利通の書(もちろん複製ですが)に強く惹かれました。

西郷さんの書はあの有名な「敬天愛人」、大久保さんの書もこれまた有名な「為政清明」の書です。これら二つの言葉が書かれて百数十年以上経っているわけですが、今でもその二人の言葉の輝きが全然色褪せていないというのはやはりすごいことだと思います。西郷さんの無欲ぶりと高潔さ、そして大久保さんの政治家としての際立った清廉さについては司馬さんもいろんな著作の中で触れられていますが、今改めて二人の書の前に立ち、私はしばらくじーっとそれを見ていました。

そして私は今回のウォーキングに参加して驚いたことがありました。今回の参加者の平均年齢をNさんに聞きましたら、約65歳くらいだろうということでした。しかしそれら全ての人たちの歩くスピードが私よりはるかに速く、しかも途中で棄権した人が一人もいませんでした。

70歳を超えている人たちが(あ〜、疲れた。少し休もう。)というような場面を見ることもなく、歩くスピードも全然衰えることなく、サッサ・サッサと坂道を上り下りして行かれるのでした。中には80歳を超えているおばあさんも一人おられましたが、背は少し曲がっていても、その歩く速さは皆さんに全然遅れをとりませんでした。

しかも休憩時間といえば十分ほどで、みなさん立ったまま水分を補給し、昼食も桜の若葉が茂る公園の中の椅子に座り、三十分ほどで済ませました。そして休憩の時間が終わると、全員サッと立って、すぐ歩き始められました。休憩後に歩き始めた時には列の中ほどにいた私なのに、十五分くらい経つとすぐに70歳代の人たち、さらにその80歳の人にも追い抜かれて、最後尾になってしまいました。

歩いてしばらくすると、私よりもはるかに高齢の人たちがサッサと私を追い抜いて行くというこの歯がゆい現実は、自分自身でもどうにも信じられなかったですね。さらには10キロを過ぎた頃から、だんだんと足の筋肉や、両足の小指がたいへん痛くなってきました。

Nさんに「みなさん、私よりもお年を召されている方がほとんどなのに、すごいスピードで歩かれますねー。感心します。」と言いますと、Nさんは「こういうウォーキングに参加している人たちは“歩く”ことに普段から慣れているんですよ。毎日あまり歩かない人は、あなたのように最初はそういう状態ですよ。」と私を慰められました。

しかしベトナムにいる時にはあまり意識しないでいた自分の「ウォーキング不足」を、今日のこの日は再認識させられた一日でした。そして朝の十時半に出発した木葉駅に、最終的に到着した時刻はちょうど三時でした。この日のウォーキングが終了した時に万歩計を見ますと、14,780歩の表示が出ていました。(ただし、この数字は百円ショップで買った万歩計の数字ですので、正確かどうかは分かりません。ある一人の人は17,000歩を超えていました。)

ウォーキングに参加した皆さん方と別れて夕方頃に我が家に着いてから靴下を脱いでみますと、やはり足の小指にはマメが出来ていました。そして両足の筋肉の痛みもやはり数日続きました。しかし年配の人達からはいつもずっと追い抜かれましたが、最後まで歩き通した達成感もあり、この日の夜はぐっすりと眠ることが出来ました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月はお休みです ■


ベトナム写真館 バックナンバーINDEX