アオザイ通信
【2010年6月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<ベトナムを去る一人の日本人教師>

今から16年前、一人の日本人教師・K先生が中国人の奥さんと一緒に、ベトナムに「日本語の先生」として赴任されて来ました。K先生はこの時45歳でした。

K先生はベトナムに来る前は、中国で二年間日本語を教えておられました。その中国で知り合った奥さんと共に、K先生は日本語の先生として、奥さんは中国語の先生としてベトナムに来られました。そしてK先生が赴任されたのはホーチミン市総合大学(今の人文社会科学大学)でした。

私がK先生に最初にお会いしたのは今から約12年前で、その頃K先生は時々、日本人が新しく立ち上げた喫茶店に出入りされていて、そこで何回か顔を合わせることがありました。K先生は背も高く、物静かな話し方をされる人でした。そこでは『日本語教師の会』というのが毎月開かれていて、ベトナムで日本語をされている方々の情報交換の場となっていたのでした。

今でこそ私はベトナムで日本語を教えていますが、その当時はそういう世界には入っていませんでしたので、その会合に参加したこともなく、二階での会合が終わられてから、下の喫茶ルームに来られたK先生と短い会話を交わしただけでした。ですから、それ以上の親交はありませんでした。

そしてその後、私自身が市内中心部にあるその喫茶店から少し離れた所に事務所を移した後は、そこに足を運ぶことも少なくなり、自然とK先生にお会いする頻度も少なくなりました。しかしその後、私が日本語教育の世界に足を踏み入れた7・8年前から、K先生の名前を生徒たちの口からしばしば耳にすることが多くなりました。

日本語学校や、最近では日本語会話クラブなどでも、私が日本語を少し話せるベトナムの人たちに会った時、「あなたは今までどこで日本語を勉強しましたか。」と聞きますと、「A大学です。」「B大学です。」「C日本語学校です。」という答えが上がって来ます。

そういう中で、「私は人文社会科学大学です。」という答えをする人たちがいますと、「ああー、そうですか。では、あなたはK先生を知っていますか。」と私が質問しますと「えーっ!あなたはK先生を知っているのですか。K先生は私の恩師ですよ。」と少し驚いたような返事が返って来ます。そしてその人の顔には、目にも口元にも明るい笑顔が浮かんでいるのでした。

それを見ていますと、このベトナムでK先生から日本語を指導されてきた生徒たちから、K先生がいかに尊敬され、慕われているかが、その授業の場面を見ていない私にも自然と想像出来ました。

私の質問に答えてくれた、彼らベトナムの生徒たちの表情を見ていた私は、(ああー、あのK先生は人文社会科学大学の生徒たちから、今そのように慕われているのか・・・。)と、このベトナムでK先生がそのように仰ぎ見られていることに深い感銘を受けたのでした。そしてそれはこのベトナムに今いる、同じ日本人の一人としても、こちらまでが嬉しい気持ちにさせられました。

そして私はその後、このベトナムで日本語教育に携わっておられる多くの日本人の先生たちの話を聞いてゆく中で、16年前にベトナムに来られたK先生こそは、「ベトナムにおける日本語教育の基礎創り」の段階に於いて、実に偉大な足跡を残されて来たということがだんだんと分かって来ました。

K先生がベトナムに来られて、当時の総合大学で教えられた時には、日本語を習っている生徒数は少なかったそうでしたが、中国で二年間日本語を教え、本格的な日本語教育の経験を積んだK先生の登場によって、「今度来られた先生はすごいぞ!」という評判が、大学生たちの間でじわじわと広まって行ったのでした。

それまでの日本語の先生はと言えば、旅行者でたまたまベトナムに住み着いたという人たち、またはビジネスで短期滞在している日本人、さらにはただ日本語を話せる日本人であるというだけで雇っていた臨時の代用教員のレベルの人たちが多く、K先生のように体系的な日本語の教授法を身に付けてはいなかったので、生徒たちの評判もあまり芳しいものではなかったようでした。

しかしK先生の登場により、日本語を勉強している生徒たちの中で、ややもするとすぐ日本語の学習を放棄して別の外国語に移る学生たちも、それ以降は目に見えて、安定した、落ち着いた学習の姿勢を持って日本語の学習を継続してゆく生徒たちが増えて来ました。

以前にもその件で書きましたが、ベトナムの人たちにとって日本語とは、文法体系がいくらか似通っている英語や中国語と比べると、その習得が大変難しい言語の一つであり、ある程度のレベルまで到達するには、多くの外国語の中でも長い習得期間を要する言語なのです。ですから日本語学校などでは、習い始めて三ヶ月もすると二割ほどの生徒が辞めて、半年もすると半分くらいになっていることもあります。

しかしK先生が来られてからの総合大学の生徒たちは、着実にその生徒数を増やして来ました。K先生がベトナムに来られて9年目の2003年に、ベトナムで発行されている日本語の雑誌に、K先生へのインタビュー記事が掲載されました。その中でK先生は次のように、大学での日本語学習者の多さについて話されていました。質問への答えがK先生のものです。

Q、最近ベトナムで日本語学習熱は高まっているそうですが、先生の大学では何人くらいの学生たちが勉強されていますか。

A、東洋学部の日本語科、その夜間部、二年制の日本語専科など、全部で四コースあり、合計一千人以上の学生がいます。今日本語科は、英語科についで人数の多い専攻なんですよ。

そして今「日本語能力試験」が毎年12月に実施されていますが、ベトナムでは昨年は1万4千名を超える受験者がいました。ちなみに2008年度は、アジアで「日本語能力試験」を実施した国々の中で、受験者数は中国が20万人強でダントツの一位、韓国は8万人強で二位、台湾は6万人弱の三位、タイは1万6千人で四位、そしてベトナムが五位の1万4千人でした。タイに進出している日本企業の多さや語学学校の数との比較でいえば、ベトナムでの1万4千人という受験者数は大変健闘しているというべきでしょう。

さらにK先生はベトナムで日本語の授業もしながら、日本語を勉強しているベトナム人学生と日本人の交流の場を作るために、総合大学内の建物を借りて、毎週日曜日の午前に「東日クラブ」という日本語会話クラブをスタートさせました。そしてその運営を自分が前面に出て一人でやるのではなく、出来るだけ大学生たち自身に任せるようにしました。実際今毎回のトピックの作成や、出し物の企画や演出は大学生たちが考え、動かしています。

今私は「青年文化会館」「日本語会話クラブ」のほうにに顔を出していますが、ベトナムに来た当初は、この「東日クラブ」のほうに参加していました。そしてその時に会ったベトナムの人たちの結婚式にも招待されたり、その当時学生だったベトナム人の数人とは今でも時々会うこともあります。

そして昨年の10月に、「ベトナムの大学生たちに、是非日本の歌を紹介して下さいませんか。」という依頼を、「東日クラブ」に出入りしている私の知人を通してそこのベトナム人のスタッフからお願いされた時に、「いいですよ。」と引き受けてその時に歌ったのが、今私がほぼ毎日(と言っていいくらい)研修生たちの前で歌っている谷村新司さんの「サライ」の歌なのでした。この時には、研修生たちにも渡しているベトナム語訳付きの「サライ」の歌詞のコピーを持参して、全員に配りました。

そして日曜日の当日、人文社会科学大学の中の部屋に入り、私はこの時参加していた、日本人・ベトナム人併せて約60人ほどの前で、まずその歌を歌う前に次のような話をさせて頂きました。この時K先生はたまたま「東日クラブ」には来られていませんでした。

「私は今ベトナムに来て約13年くらいになりますが、ベトナムに来た最初の時からお会いして、ずっと尊敬している二人の日本人の方がいます。そのお一人は、ベトナムの貧しい子どもたちに無償で小学校教育を受けることが出来るように、ベトナム人の奥さんと一緒に『Saint Vinh Son小学校』を創り、今もその献身的な活動を続けておられる日本人・Fさんです。そしてFさん自らは、その学校の運営資金を作るために、今も一年のうち半分以上は日本の建築現場で汗を流しながら働かれています。」

「そして二人目は、今あなたたちが学んでいる人文社会科学大学で、16年の長きに亘って日本語を教えておられるK先生です。K先生は今のベトナムの日本語教育の基礎を創られた方であり、この「東日クラブ」もそうですが、毎年5月に行われる「日本語スピーチコンテスト」をスタートさせて、それを今ある形に軌道に乗せた方でもあるのです。」と。

事実このベトナムでのK先生の功績を簡単に書けば、『日本語教育の普及』と、今年で16回目になった『日本語スピーチコンテストの実施』、そして毎週日曜日の、この『東日クラブ』のスタートになるでしょうか。今のベトナムで着実に根を下ろし、すべて『日本語教育』に深く繋がっているこれら三つのものは、実にK先生がその端緒をつけられ、行動され、努力され、企画され、そしてこの『東日クラブ』などは今もずっと続けておられる活動なのでした。

しかしその後、ここまでベトナムの『日本語教育』の世界で努力されて来たK先生が今、「ベトナムを去りたい・・・」という気持ちになっているというのを、あるベトナム人の知人から聞きました。

それは我が社ティエラが実施して来た、「ベトナムマングローブ子ども親善大使」のサポートで参加してくれていたTさんからでした。彼女はその当時人文社会科学大学の3年生で、日本からベトナムにやって来る、女子の小中学生を一週間面倒を見てもらうために、私がお願いしたベトナム人の大学生でした。Tさんは意欲的に、「親善大使」の行事に続けて二回参加してくれました。その彼女が実はK先生の教え子なのでした。

彼女は大学を卒業した後に、たまたま昨年の末に日本からFamily Martがホーチミン市に進出して来た時、日本語通訳などの渉外交渉役として採用され、正社員として働くことになりました。Family Martが開店してしばらくしてから会った私たちは、彼女の入社祝いも兼ねて、いつものベンタン屋台村で私の友人も交えて食事をすることにしました。

彼女はそこで、今Family Martに入社出来たことに対して、「これも今まで日本語の勉強を続けて来たおかげだと思いますし、私が日本語を最初に習ったのがK先生でした。ですからK先生に対しての恩を忘れることは出来ません。」と話してくれました。

「K先生は授業も分り易くて、大変優しい先生でした。そして授業が終わって時間がある時などは、クラスの生徒たちみんなと一緒に屋台に行ったりしました。その時K先生は私たちに『ベトナムでの生活と暮らしを愛し、大学での授業をこころから楽しんでいます。』と話されていました。」

「しかし最近私は(そのK先生がもしかしたら、その『こころから愛したベトナム』を去られるかもしれない・・・)という話を知人を通して聞きました。それを聞いた私や友人たちは、その日が近づいてくるにつれて(K先生がベトナムからいなくなってしまうのか・・・)と本当に悲しく思いました。」と、まさに悲しい目をして続けて話してくれました。

「その理由は?と言いますと、昨年末から急に厳しくなったVisaの更新の問題にあるらしいということでした。今まで一年マルチや半年のビザが簡単に出ていたのが、昨年の10月頃から突然厳しくなり、長くても三ヶ月、Visaの必要条件を満たしていない(労働許可証を取得していない)人に対しては、一ヶ月しかVisaを出さない方針に変わり、ベトナムに滞在している外国人社会に動揺が走りました。」

「一ヶ月毎にVisaを更新するとなると、その更新料も馬鹿になりません。そして事実、いろいろな場所で日本語を教えている他の先生たちも、同じような困難に直面しました。そしてその影響は当然K先生にも及んで来ました。」と彼女は、K先生たちが今置かれている状況を説明してくれました。

彼女が私に話してくれた、ベトナム政府が打ち出したVisa取得が難しくなった理由は、後でいろいろ聞きますと、「中国人不法労働者の締め出し」にあるようです。今中国人は世界中に労働者として出て行って現地で働いていますが、世界の各地で一部の労働者がいろんな問題を引き起こしているようです。

ベトナムでも工場や砕石場、鉱山などで多くの中国人が働いているらしく、彼らの中にはVisaが切れても更新せず(お金が掛かるから)、そのまま残留して不法に働いているので、そのような不法労働者を締め出すために今回そのような措置を取ったようでした。

しかし、そのVisa取得を厳しくする対象者を「中国」一国だけに限定して厳しくすると、彼の国のことですからすぐに強硬なクレームを付けて報復措置に出てくるのは目に見えていますので、已む無くベトナムに住んでいるすべての外国人を対象者にしたVisa制限を打ち出したというのが実情のようです。

そしてそのトバッチリを直接受けたのが、このベトナムで何の不法なことも、違法行為を犯すこともなく静かに、真面目に暮らしていた「善良な外国人」たちでした。さらに呆れたことには、K先生のように「ベトナムにおける日本語教育の基礎創り」に多大な貢献をした人までにも、もともと中国人の不法労働者を締め出すために打ち出したVisa制限が一律に適用されてしまい、その厳しくも困難な壁の前に、ただただ呆然とするしかありませんでした。

そしてその後、ベトナムを去ろうとする直前にK先生に直接話を伺った時に、「今まで愛したベトナムを去ろうか・・・」と奥さんと共に相談され、最終的にその結論に至った最大の理由が、今までの簡単なVisa取得から一気に難しくなった時に、K先生が今まで16年間も教えて来た大学側が、何の手伝いも支援もせず、極端に言えば(自分一人でやって下さい。)と言わんばかりの突き放したような冷淡な対応なのでした。

人文社会科学大学は私立大学ではなく、国の管轄下にある大学なのですが、やはり国が経営する組織体につきものの「親方日の丸意識」がここにも強くあり(ベトナムですから「親方一つ星意識」でしょうか)、自分たちにとって利にならないことには、いくら16年間もベトナム国の日本語普及のために献身的に尽くしてきた外国人であっても、全然動いてはくれないのだという彼らの姿を、K先生は二つの目でじっくりと見ていました。

そしてそもそもこの大学には、Visaの問題を親身になって手続きや事務処理をしてくれる窓口も、担当者も全く無いということも分かって来ました。今回の政府の措置を受けて、(外国人の先生方がさぞ困っているだろうな。)と想像して、大学の中でそれらの問題に対応する必要があるという声は上がらなかったということでしょう。

ベトナムで今働いている外国人たちに、ベトナム政府が要求したVisa更新に伴う条件は、先ず労働許可証の提出であり、その許可証作成に伴うのが、本国での履歴書であり、大学の卒業証明書であり、本国の警察が認めた無犯罪証明書などでしたが、それらの必要書類の多さを聞けば聞くほど、何とも悲しい思いが募ってきたのですと、後で私たちに話されました。日本人のKさんと、中国人の奥さんの上記ような書類を揃えるとなると、ベトナムから日本と中国のやり取りに日数を取られ、一人だけでも大変なのにその労苦が倍加します。

今回のVisa問題に対する私の個人的な考えを述べれば、K先生のようにベトナムで日本語教育に多大な貢献をされた人物や、他にも同じように素晴らしい教育的な活動をされている方々に対しては、その大学や語学学校の責任者である校長自らが、「この人物はベトナムにおいては今まで何の問題を起こしたこともなく、素晴らしい活動をされていますので、Visaの更新をすみやかに許可して頂きたい。私が責任者としてその保証人になります。」と自分の名前で一筆書いてサインした書類を、当局に提出すればそれで終わるレベルの問題でしょう。

そしてお役人もそれを時間をかけて確認して「問題無し!」判断した後に、ハンコをポンと押せばそれで済むことだろうに・・・と思うのですが、「何か問題が起きたら自分で責任を取る。」という一点に関しては、自分のほうに火の粉が降りかかるのは避けたいのが人間の心理でしょうから、この大学でもそういう方便は採らなかったようでした。

K先生のような実に貴重な人材が他国に流出することを、人文社会科学大学の当局者たちは惜しいと思わないのかと、それが実に不思議でなりませんが、結局K先生のようにベトナムでの日本語教育に大きな足跡を残した人物も、書類提出の条件では中国人の「不法滞在労働者」と同じ扱いを受けているのでした。

K先生がもともとベトナムに来た動機は、「ベトナムで日本語教育を普及させたい」という、ボランティア精神に近い、ただそれだけの思いでベトナムに降り立たれました。その時に大学側が提示した給与の条件は、驚くべき安さでした。しかしそれは承知の上でした。そして国立大学だからでもあるのでしょうか、この16年の間給与のアップは全くなかったといいます。

しかしそれだけではいくらベトナムといえども奥さんと二人での生活は無理なので、ベトナムで発行されている英字新聞を日本語に翻訳して、それを企業に購読してもらうという方法で何とかやり繰りをされていたのでした。これ以外にも他の大学でのアルバイトなど、幾つかの副業もされていました。

今年61歳になられたK先生は、Visaの問題が発生するまでは、(本当はあと4〜5年は、愛するベトナムに奥さんと一緒に住みたい。)という気持ちを持たれておられたのですが、その問題が起きてからの大学側の冷淡な対応を見ていて大変悲しくなり、(残念だけどベトナムを去る時が来たようだな・・・)と決心されました。

そしてK先生が5月の末にはベトナムを去るという話を聞き、「東日クラブ」に出入りしている知人と、Saint Vinh Son小学校の支援者・Aさんや私たちは、「ぜひみんなで送別会をしてあげましょうよ。」という話が決まりました。

実は、Saint Vinh Son小学校の支援者・AさんとK先生は同郷の長野県なのでした。今年二月に長野朝日放送の撮影隊がホーチミン市に来られた時、「おぉ、信州人!」というテーマでベトナムにいる長野県人を撮影された時、ホーチミン市内の日本料理屋さんに長野県人が一同に集まり、そこで全員が歌っていた長野の県民歌「信濃の国」がYouTubeで流れたのを私も見ましたが、そのみんなの輪の中で、二人がにこやかに「信濃の国」を歌っている場面が出てきます。ですからその時が、AさんとK先生のお互いが初対面の日なのでした。

そして5月の末に、あのおなじみの「Lau De214」のヤギ鍋屋さんで「K先生を送る会」をすることにしました。そこに集まったのは、「東日クラブ」に参加している私の友人のSさん。彼はサイゴンから二時間ほどの距離にあるBinh Duong省に、Gio va Nuoc(風と水)という名前の広大な喫茶店をオープンさせた日本人して有名です。

そしてSaint Vinh Son小学校の支援者・Aさんと、サイゴンでITの会社を立ち上げているKRさんと、その同僚が二人。さらには今Dong Du(ドン ユー)日本語学校で日本語を教えているI先生。I先生は、この日夕方から授業があったのですが、この日がK先生とのベトナムでの最後のお別れだと聞いて、授業が終わるや否やすぐバイクを飛ばして駆けつけてくれました。そしてK先生の教え子で、日本語能力試験一級に今年合格したKHくんなど、十名ほどが参加しての楽しいものとなりました。

K先生ご夫妻はこの店は初めてだったらしく、「ヤギ料理は多く食べましたが、ここの店は初めてです。しかし多くのお客さんで賑わっていますねー。」と喜んでおられました。私は中国人の奥さんとはこの時に初めてお会いしました。K先生の目の前の席に座った私は、K先生がベトナムに来られてから日本語教育にまつわるいろんな話を伺うことが出来ました。

ベトナムに来て最初の頃の授業のこと、「さくら日本語学校」と杉良太郎さんのこと、そして「日本語スピーチコンテスト」実施までの秘話。中国の大学生たちとベトナムの学生たちの違いなど・・・。それらのすべてが、私には初めて聞くような興味深い内容でした。

そしてこの日のお別れ会から一週間足らずでベトナムを去られるK先生ですが、今まで長い間働いた場所への愚痴などはあまり話されず、もうふっ切れたような様子でした。次の中国で日本語を教える予定の大学からは、向こうから丁重な申し出があり、その待遇や条件もベトナムでのそれとは比較にならないくらいの厚遇ですと話されました。

しかし私自身は、中国からの誘いがある前にベトナム側がそのような待遇をそれよりも早く示して欲しかったものだとつくづく思いました。結局ベトナ側からは、待遇面での改善案は最後まで何一つありませんでした。

K先生との最後のお別れの時間が近づき、私たちは全員が椅子から立ち上がり、「本当に長い間ご苦労様でした。」と一人・一人が別れの挨拶をしました。K先生はそれに対して、「みなさん、中国に来たら私のところに遊びに来て下さいね。」と、爽やかに笑いながらお礼の言葉を述べられました。

そしてK先生がベトナムを去られた翌日、K先生の教え子のKHくんから、無事お二人は飛行機に乗ってベトナムを発たれたと聞きました。飛行機の中から下に見える、16年間日本語を教えられたベトナムの大地を、万感の思いを持って眺められたことだろうと思いました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 中学校での日本語学習者が増加 ■

ホーチミン市教育訓練局によると、中学校での試験的な日本語学習について、生徒たちは日本語への興味を示しており、日本語クラス参加の履修登録者は今増加している傾向にある。

しかし生徒たちは同時に二つの外国語(英語と日本語)を学ぶことになるため、標準的な進度に追い付けずに、「普通クラス」に変更する生徒たちが毎年20〜30%いる。しかしながら二ヶ国語を学習しているクラスの生徒たちが、学年で成績優秀者として占めている割合は、一学年に50〜70%と非常に高いものである。

中学校での日本語教育は、ホーチミン市では2005〜2006年度にかけて、一区のVo Truong Toan(ボー チューン トアン)、三区のLe Quy Don(レー クイ ドン)中学校で始まっている。[ベトナムガイド.comより]

(解説)
この記事の中の「同時に二つの外国語(英語と日本語)を学ぶことになるため、標準的な進度に追い付けずに、「普通クラス」に変更する生徒たちが毎年20〜30%いる。」というのを読んでいまして、最近はこういう記事も身近なものとして考えるようになりました。

お父さんが日本人、お母さんはベトナム人。その間に生まれた子がベトナム国で育って行けばどういう言語を身に付けてゆくのかというのは、今の我が娘にその実践例を見ているようなものです。そして今娘は、日々ベトナム語の比重がはるかに大きくなりました。これはベトナム国にいると、娘の回りの人間たちは、日本人である私以外はすべてベトナムの大人・子どもたちであるので、当然だとは思います。

しかしやはり日本人の親として、(ベトナム語プラス日本語、出来れば英語くらいまでは身に付けて欲しいなー)くらいは考えてはいます。ただし、幼い子どもたちが小学生くらいの年齢から、そのように幾つもの言語を覚えこむことがいいのか、問題があるのかについては、私も時々考えることがありました。

今すでに7歳になる私の娘がその現実問題に直面しているのですが、安易に「英語学校」や「日本語学校」に通わせることにはまだ慎重に考えているところでした。まず最低小学生の間までは、第一言語たるベトナム語をしっかりと身に付けることを優先すべきだろう・・・と漠然とは考えていました。

そういう時に、こちらで日本人を対象に塾を開いておられる私の知人Mさんの主催で、日本の高知県にあるM義塾の先生がホーチミンに来られて、「バイリンガル教育を考える」というテーマでセミナーを開かれるというので、いい機会だと思い参加して来ました。

当日は講師のT先生が一人おられて、参加者は私を入れて五人でしたので、円陣を囲むように机が配置してありました。T先生はM義塾で広報入試部長をされておられます。非常に明解な話し方をされる人でした。

配られた資料はA4にして10ページありましたが、まずBilingual(バイリンガル)の定義から話され、次にTrilingual(トリリンガル)、そしてDouble Limited(ダブルリミィティド)という言葉の説明をされました。

高知県にあるM義塾では、帰国子女を今まで数多く受け入れていて、様々な生徒たちのケースの実例を紹介されました。上記の記事の中の二つの中学校とも提携されていて、今年はLe Quy Don高校部の生徒たちが数人M義塾に留学生として来るということでした。

バイリンガルやトリリンガルの能力を上手く身に付けている子たちの例では、国籍の異なる両親が家庭においても読書などに力を入れて毎日教えていること。

母親は日本人で、その子どもはインドネシア語・英語・日本語の三つの言語を立派に習得して成功しているケースを紹介されました。

ダブルリミィティドの失敗例では、両親が国際結婚の場合、どちらかの第一言語がしっかりと身に付いていないと、どちらの言語や文化も不完全なままで、自分自身に自信がなくなり、「学習障害」に陥ることがあること。

そういえばある人から、ボートピープルの子どもの例で次のような話を聞いたことがあります。両親と一緒に幼い頃にサイゴンを船で逃げ出した子どもは、日本に着いたら回りが日本人の中で育ち、日本の学校に通い、第一言語としては日本語の能力が高くなってゆきます。

着の身着のままでベトナムを脱出した両親は毎日生きるためだけの生活に追われ、幼い子供の世話があまり出来ない時期が続きます。両親はベトナム語しか出来ません。そしてだんだんと大きくなるにつれて、ベトナム語しか話せない両親と、あまりベトナム語を話せない子どもが、家庭の中で意思の疎通が上手くいかなくなっていったというケースです。

T先生の配られた資料の中に、以下のようなことが書いてありましたが、そういう例を想起しますと、これは大変示唆に富む内容だと思います。

「年齢相応の言語力は自然と身に付くものと多くの保護者が勘違いしていますが、言語力は社会生活を通じ、また適切な学習環境(特に義務教育の9年間)のもとで時間をかけて育まれるものであり、年齢とともに自然と身に付くものではありません。」

T先生が「バイリンガルやトリリンガルに育てるには」という資料の中で話されたのは、

1.子どもの個性・能力を見極める。

2.第一言語を徹底的に鍛える。書く力を鍛える=考える力を育む。
※書く力を身に付けるためには、語彙力を高める必要がある。

3.保護者と本人は2倍〜3倍の努力(モノリンガルの例と比べたら)をする。

という内容でした。

そして実際にM義塾では本を多く読ませたり、また書く力を身に付けさせるために、毎日「天声人語」を書き写させる指導法を行っているということでした。

T先生は次のような話をされました。

「第一言語という大樹がしっかり大地に根を張り、深いレベルまで身に付いてこそ、バイリンガルやトリリンガルの枝が伸び、葉が青々と茂るのです。第一言語に望まれる力とは、学年相応の読解力と文章力が備わっていることです。」

「そして家庭の中で話す言語の比重の高さが、その言語の深さを増してゆき、第一言語としての根を下ろしてゆくのです。例えばお母さんが台所で<キャベツをみじん切りにしてちょうだい!>と子どもに話しかけると、その動作の中で子どもは<みじん切り>という独特の日本語を覚えて行きます。<小さく切る>と言うのとはまた違う、これら日本語世界の微妙な彩りをそうして身に付けてゆくのです。」と。

T先生には、「将来、私の娘もT先生のM義塾にお願いするかもしれません。その節は宜しくお願い致します。」とお話して別れました。



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