アオザイ通信
【2011年2月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<サイゴンで過ごすテト>

今年のテト(旧正月)は2月3日でしたが、この休みの期間私は大変楽しく、また充実したテトを過ごすことが出来ました。それは日本からベトナム人の友人・Dさんがサイゴンに帰って来たことと、サイゴン市内の「花市」「花祭り」Flower Street見学と、カンザー訪問が出来たことが大きな理由でした。

日本からサイゴンに帰って来た友人・Dさんとは、五年前くらいからの付き合いです。彼もかつて、今の私と同じところで日本語を教えていました。祭日などには、Bien Hoa(ビエン ホア)にある彼の家の食事会にも招待されたこともありました。

以前私が「週末になると必ず両親に会いに、バイクにまたがって故郷に帰るベトナム人の友人がいます。」と、<サライ〜故郷を偲ぶ〜>にも書きましたが、そのベトナム人の友人がDさんなのでした。

彼は今日本の広島県に住んでいます。日本ではベトナムの研修生たちと、日本の会社の間に立って、その通訳やいろんなトラブルの処理などを担当しています。ベトナムにいる時から、彼の日本語能力は素晴らしいものでしたが、日本に行ってから、さらに進歩していました。ベトナムから日本に行って、約二年半くらい経ったということです。

二年前私が日本に帰国した時の春の連休に、彼はわざわざ熊本にある私の実家まで遊びに来てくれました。そして私たちは、私の友人二人も連れ立って、【菊池温泉】まで行きました。熊本県内には、歴史的にも古く、有名な温泉街が多いのですが、そこもそうでした。

泉質はヌルヌルしていて、温度も熱いくらいです。高い塀に囲まれ、石庭の間にツツジの花が咲く露天風呂の中に浸かりながら、ベトナム人のDさんと二人で向き合いながら話していますと、一瞬(ここは日本なのか、ベトナムなのか・・・)と不思議な感じがして来ました。ベトナムからでも、日本にいる時でも、電話ではお互いに話が出来ても、日本の私の田舎で彼にこうして会っていること自体が、実に奇妙な思いがしてきました。

彼は風呂から上がって早速、ベトナムの故郷にいるご両親に電話を掛けて、「今こうして、日本で、日本の友人の田舎に来て、旅館でゆっくりしたり、食事したりしているよ。」と話し、その後私にも電話を代わりました。ご両親も一度Bien Hoaの実家を訪問した私のことは覚えていてくれていて、電話口で感謝の言葉を述べられました。この日は結局深夜二時くらいまで、友人たちとビールを飲みながらDさんを囲んで話しました。

そのDさんと、テト日四日前の夕方にこのサイゴンで、ベンタン市場前の屋台村で、昔の同僚も集まって彼の帰国歓迎会をしました。かつての女性の校長先生や、受付の女性や、同僚の日本語の先生たち、さらにはMichiko先生までも来て頂き、全部で十人集まりました。彼はみんなが着いた後に少し遅れて到着しましたが、その横には一人の女性を伴っていました。「今はまだ友達です。」とDさんは言いましたが、誰も信じるものはいません。

私は彼の横に座り、日本でのことをいろいろ聞きました。仕事の内容は大変なようですが、給料も高いし、やり甲斐があると答えてくれました。日本語能力試験も、昨年N2(いわゆる昔の2級)に合格したので、今年はN1の合格に向けて勉強しているとのことでした。

日本の暮らしについて聞きますと、「やはり物価が高いので大変です。しかしテトは日本の正月よりも、ベトナムのほうがにぎやかで、花市には花があふれているので、こちらのほうがいいですね。」と言いました。

私は最後に別れる時に、「あなたが毎年ベトナムに帰って来れば、こうして普段会えないみなさんたちも、一年に一度会うことが出来るので、また来年も帰って来て下さいね!」と、彼に話しました。彼は十日間ほどベトナムにいて、また寒い日本に帰ってゆきました。ベトナムから日本へ戻る最終日には、自宅に三十人ほどの人たちが集まり、彼の「送別会」をしてくれたそうです。

彼が話した「花市」ですが、毎年テト一週間くらい前から大きな公園の中で花市が始まります。そこに展示されている花は、ブーゲンビリアや、チューリップや、蘭の花や、ひまわりやツツジ。さらにはいろんな種類の盆栽や、南部のテトの象徴的な黄色い花が咲く、Hoa Mai(ホア マーイ)などがあります。私もこの花市で、毎年一つは小さい盆栽を買い求めます。

この花市には、まさに百花繚乱という感じで、さまざまな色の花が公園内に咲いていて、テト前には夜遅くまでそれらを見物し、購入する人たちで園内は混雑しています。そしてこの花市は、ふつうテトの一日前には終了します。

「花」といえば、市内の中心部に毎年テト前になると造られる路上庭園・Flower Streetも見ものです。テト日の前後をはさんで、約一週間設営されています。これを見物しに行くのも、サイゴンでテトを過ごす人たちの楽しみの一つです。その規模や豪華さも年々派手になって来ました。この庭園は毎年の干支をモチーフにして、いろんな花の造形作品が完成しますので、私自身も大変楽しみです。

そして今年の干支は日本ではウサギですが、ここベトナムでは今年の干支はネコです。中国から伝来した12種類の干支の動物は、日本とベトナムでは幾つか違います。ウサギはネコに変わり、牛は水牛、羊はヤギ、イノシシは豚になります。ですから今年のFlower Streetには、様々な形をしたネコの置物が造られていました。

今年も路上庭園には、蓮を浮かべた池や蘭の花など、毎年恒例の作品も造られていました。中でも圧巻だったのが、中心部にドーンと据えられていた、高さ十メートルはあろうかという、ピラミッド形の花の山でした。ピラミッドの形をした山が、全面を黄色い花で埋め尽くされていました。そしてその頂上まで昇れる階段もあり、みんなはそこに昇って記念撮影をしていました。私も昇りましたが、ぐるりと庭園の全景が見渡せて、大変見晴らしが良かったです。

それにしても、(毎年のこのFlower Streetの構想は、誰がデザインしているのだろうか・・・)と個人的には思いました。来年は辰年ですが、また今年よりもさらに進化した、創造的なFlower Streetが造られるのではないかと期待しています。

そしてサイゴン市内は、実はクリスマスの前の時期くらいから、街中のイルミネーションの街路樹への飾り付けが始まり、テト前でそれがピークに達します。しかも昨年あたりから、市内の中心にある一部の通りでは、一年中このイルミネーションが輝いています。このころから街中もウキウキした雰囲気になって来ます。

夕方くらいになると、テト前に買い物の準備をする人たちや、街中のウキウキした雰囲気を楽しみたい家族連れが街中に繰り出しますので、テト前は大変混雑して来ますが、これもサイゴンのテトの楽しみ方といえるでしょう。

そしてテトの日から数日間は街中を走るバイクの数が少なくなります。サイゴンにつきもののバイクの騒音もぐんと減ります。これも私が好きな「テト現象」の一つです。バイクの数が街中から少なくなると、気分的にホコリも少なく感じます。サイゴンの街中から、多くの人たちが故郷を目指して帰るからです。テトの時に遠くへ旅行しても、人出が多くて、疲れるだけですので、このようにして今私は、サイゴンにいてテトを楽しむようにしています。

そして大晦日(今年は2月2日)から旧正月に変わる深夜0時には、恒例の打ち上げ花火がサイゴン市内の六ヶ所で夜空に上がります。これは約十五分間続きます。この花火も年々華麗になりました。本当は市内中心部まで行って近くで見たいのですが、終了後は大変な渋滞で何時に帰れるか分りませんので、女房の実家の屋上に家族全員が上って、十五分間の花火大会を楽しんでいます。どうせ高い空を見上げるわけですから、遠くからでも鑑賞出来ます。

しかし私は最近そういうテトの楽しみ方を知りましたが、ふつう毎年テトを迎えるころになると、(今年のテトはどこに行って過ごそうか?)と、ベトナムに住んでいる、家族のいない外国人たちは頭を悩ませます。またテトの時期にベトナムを訪問する観光客も(はたして、この時期に訪問して大丈夫だろうか?)と心配します。

その理由は、市内にあるほとんどの店や料理屋が閉まってしまうからです。何故なら、上述したようにサイゴン市内から田舎へ帰る人たちの人口大移動が始まり、店の従業員たちも全員故郷に帰ってしまうのです。(例外的に、家族だけで営業しているようなこじんまりした店は、テトの時期でも開いているところもありますが。しかしそれも少ないです。)ベンタン市場前の夜の屋台などは、二月一日から十二日までお休みになってしまいました。そうなると、<独身の外国人>などは大変困ったことになります。

私の友人で、IT会社のKRさんがまさにそのパターンで、彼は昨年のベトナムのテトにはサイゴンを脱出して、カンボジアで過ごしました。しかし今年はサイゴンで迎えることにしました。彼は今年のテト初日(2月3日)に、彼が住んでいる周りの店が全て閉まっているので、日本料理屋さんが多く集中している、有名なLe Thanh Ton(レー ターン トン)通りに行きました。そして驚きました。その通りの日本料理屋さんもほとんどが閉店していたからです。一・二軒くらいしか開いていなかったということでした。

彼はいつもの行きつけの店も閉まっていたので、仕方なく足を別の通りに向けて探し歩き、ようやく一軒、テト初日にも営業していた馴染みの日本料理屋さんを見つけました。そこは最近開店した、サイゴン市内の日本人の間では知名度の高いラーメン屋さんでした(私自身はまだ一度も入ったことはありませんが)。

そして、彼はドアを開けてまた驚きました。店内は、多くの日本人(と思われる)たちで大変な混みようだったからでした。みんなも同じように、いつもの日本料理屋さんが閉まっていたので、自分と同じようにここの店にたどり着いたんだなーと、KRさんは想像しました。

しかし私は今ベトナムに家庭がありますので、テトの時にも食事には全然困らなくなりました。毎年のテト休みの期間でも、女房の実家で朝・昼・晩と食べていますので、外の店が全部閉まろうが問題ありません。むしろ最近女房の実家では、外国人である私に気を遣ってくれて、昼に食べたメニューとは違う食事を夜には出してくれるようになりました。普通は昼も夜も、ほぼ同じメニューが続きます。今年は鮭の頭の鍋を作ってくれました。これが実に美味しいものでした。

そしてテト三日目には、女房の姉の家族と、私の家族と、友人のKRさんと一緒にカンザーに日帰り旅行に行くことにしました。このテトに「カンザーに行こう!」と思ったのは、ある日の新聞に載った記事を見てからです。

テトの約一ヶ月ほど前に掲載された新聞記事に、「カンザーへ至る道路が完成!」という記事が大々的に載っていました。その記事は、一面に大きく掲載されていましたが、それを見た私は(やっとあの道路が完成したのか〜・・・。)と、感慨深いものがありました。

わずか50kmほどの距離ですが、片側ずつが二車線の広さがあり、両側で四車線の広い道路が出来ました。完成までには五年以上を費やしたのではと思います。その工事の最初の頃、浅野さんと二人でもうもうとしたホコリが舞う、まだ工事中の道路を通るたびに、(何でこんな片田舎に、何年もの時間をかけて四車線もの広い道路を造っているの・・・?)と首を傾げていました。(利権がからんでいるのかな。)と、想像していましたが。

しかしとにかく、サイゴン市内からカンザーの海岸に至る道が完成したのでした。それで私は、「市内から何時間でカンザーの海岸まで着くのか。」「舗装道路が完成したことによって変化したものがあるか、ないか。」を確認する好機会だと思い、女房の姉の家族とKRさんを誘い、このテトにカンザーに行くことにしました。

当日は、サイゴン市内を朝の8時半に出ました。そして運転手を見て驚きました。昨年の夏にわが社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」たちがお世話になった時と同じ運転手さんなのでした。これには私も大変懐かしくなり、気が休まりました。運転手さんも喜んでくれていました。

そしてNha Be(ニャー ベー)フェリーに着きましたが、待ち合わせ場所にはバイクと車が多く待機していました。やはりみんなこのテトに、サイゴンから近場のカンザーに行く人たちが多いのでした。そしてNha Beフェリーから降りて、バスに乗り込んでバスの両側の景色を見ましたが、昨年の夏には見なかった新しい、キレイな家が次々と完成していました。

道路も確かに広くなり、中央にはちゃんと分離帯までありました。その分離帯の中には街灯もありました。そして結局Nha Beフェリーを降りた所から、何と30分で最初に目指す「サルの島」に着きました。驚くべき時間の短さでした。今までの半分以下の時間で着きました。スピード・メーターを運転手の後ろから見ていましたが、彼はずっと70kmのスピードを落とすことなく走っていましたので、それが可能になったのでした。

これだけサイゴンからカンザーに行く時間が短くなれば、これからさぞ観光客が多くなってくるだろうな〜、と思います。同じビーチのあるVung Tau(ブン タウ)よりも格段に時間が短くなったし、またマングローブ林や自然公園のあるカンザーのほうが変化に富んでもいるからです。

私は車から降りて、カンザーの「サルの島」の入り口で切符を買いました。そして驚きました。昨年の夏に来た時には、大人一人が25,000ドン(約100円)でしたが、40,000ドン(約160円)に値上がりしていました。幼児は30,000ドン(約120円)でした。最初に【サルの島】が開園した当初(今から十年ほど前)は、博物館もありませんでした。園内にはサルしかいなくて、何も無い状態だったので、「入園料無料」でした。そして5,000ドン(約20円)から入園料金がスタートしましたので、今は8倍の値段まで上がったわけです。

この日はやはり、多くの観光客がここを訪れていました。この日働いていたスタッフには、顔見知りの人も4・5人いましたが、みんな忙しそうに立ち回っていました。博物館を出てしばらく歩くと、見慣れない建物が目に入りました。入り口には長さ、一メートル五十センチくらいのワニのハクセイの置物が、大きく口を開けて置いてありました。観光客がそのワニの口の中に手を入れて、記念写真を撮っています。

この建物は実は、ワニ製品の販売所なのでした。ワニ革のバッグや財布やベルトやキーホルダーなどが売られていましたが、値段を見ますとバッグなどは百万ドン(約4,000円)を超えるものがほとんどで、ベトナムでは決して安いものではありません。手に取って私も見せてもらいましたが、ツヤツヤした手触りであり、しっかりした作りになっていました。

そのすぐ隣の建物では、ワニとサルと犬によるサーカスが開演していました。可笑しかったのはサルやワニの芸が一応終わると、必ず見物客たちから「見物料頂きます!」という形で、お金を回収していたことです。おサルさんはアルミの鍋を両手に抱えて、お客さんがいる間を通ります。その鍋にみんながお金を放り込みます。お金を放り込む時に、どういう訳かみんなおサルさんの頭を撫で撫でします。あまり強く撫でると、おサルさんは歯をむき出して怒ります。

ワニさんはお客さんの間を通ることは出来ないので、コンクリートの舞台の少し高い場所にその大きな口を広げています。それだけです。そして従業員が、小石と輪ゴムをお客さんに配ります。すると見物客はその小石にお金を結わえて、輪ゴムで留めて、それをワニさんの大きな口に目掛けて放り込むというわけです。このカンザーの【サルの島】では、ワニさんも、サルさんもしっかりとした営業努力をしているのでした。

そして次に、ワニが住んでいる【ワニ園】に行きました。ここも以前とは違う趣向がありました。ワニを眺める円形状の場所の半分が鉄柵で囲われていました。その鉄柵の中にいる人たちは、何やらワーワー騒いでいます。良く見ると、釣り竿を手に持って、ワニのいるほうに垂らしています。ここは「ワニ釣り」の場に変わっていたのでした。「ワニ釣り」は、一人が10,000ドン(約40円)でした。

(エサは何を使っているのだろうか?)と良く見ましたら、釣り竿の先に細長い、ブラブラしたものが付いています。(ヘビかな・・・)と思いましたが、池の中から揚げたのを見たら、ウナギでした。しかも生きていました。それをワニさんの鼻先に垂らして、ワニさんが食い付こうとする寸前にサッと上に揚げます。

何回もそうして焦らしながら、最後はワニさんが大きな口でバクッとくわえて、泥水の中に潜ってしまいました。「ワニ釣り」と言っても、ワニさんを釣り上げることは出来ませんから、ワニにエサを上げるのをゲーム感覚で楽しんでもらい、お客さんからお金を取って、それをビジネスにしているのでした。

そしてそこを見終わって、園内を出たのがちょうど十一時半頃でした。いつもの海辺の食堂で昼食を摂ることにしました。そこに着いて車から降りるやいなや、おばちゃんがバイクに乗って来て、「こっちの店に来ないか。椅子代も、カニやエビも安くしとくから。」と客引きの声を掛けて来ました。

こういう客引きのパターンも、今回初めて見ました。やはり観光客が多くなるにつれて、いろいろ変化しています。しかしこういうのに連れて行かれると、大体後で痛い目に遭うので、そのおばちゃんの誘いは断りました。いつもの馴染みの店に足を向けました。

そして海岸沿いのテーブルと椅子には、多くのお客さんが既に席を取っていました。私たちは奥のほうまで歩いて行き、かろうじて空いているテーブルが一つありましたので、そこに座りました。そのすぐ前にはカンザーのビーチが広がっています。今日の波は少し荒い感じでしたが、海岸から吹く涼しい風が大変気持ちいいものでした。さっそく、男性群はビールで乾杯です。

こういう場所で飲むビールは格別に美味いものです。そして最初はカンザー名物のマングローブ・カニを注文しました。この日のカニは身が詰まっていて、大変美味しいものでした。子どもたちも喜んで食べています。そしてカニを食べている間は、誰しもが無言になります。ベトナム人も日本人も同じです。みんなホジホジと身を掻き出し、バリバリと殻を歯で砕き、モクモクと食べています。そしてカニを食べた後は、どういうわけか疲れます。この後イカを揚げたのや貝を数種類頼み、最後は魚の鍋で終わりました。

私たち男性陣はビールを飲んでほろ酔いかげんになり、しばらく長椅子に寝そべって、海岸からの涼しい風に体を冷やしていました。子どもたちは元気よく海に入って行きました。ここの海は深くないので、安心です。しばらく泳いで、それに飽きると貝堀りを始めました。食べられるような貝ではなく、ママゴト遊びという感じです。そして帰りもまた、市内までスピードを上げて走り、暗くなる前にサイゴン市内に到着しました。

来年のテトもまた私は、(今年のテトはどこに行って過ごそうか・・・)と、悩む必要がないテトを迎えるだろうと考えています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ この国はわたしを歓迎してくれる! ■

現在、私は観光の仕事をしています。私の主な仕事は、ベトナムに来た日本人観光客に、ベトナムの田舎の美しさを紹介することです。私は今のこの仕事を通して、多くの美しい印象が残っているので、これからも誇りを持ってこの仕事をやってゆきたいと思っています。

―― ◇ ―― ◇ ―― ◇ ―― ◇ ―― ◇ ―― ◇ ――

ベトナムに住んで、長い間この国で仕事をした後に今振り返る時、私はここベトナムでの生活に完全に満足しているし、「ベトナムが大好きになってしまった!」と思えるくらい、このベトナムという国を気に入っています。

18歳の年になるまで、私は日本以外の外国に足を踏み入れたことがなかったし、私が知っている国といえば「日本」だけでしかありませんでした。そしてこのような状況は、今の日本の若い人々にも共通しているのです。最近の若い人たちのほとんどは、自分の国で起きているものにしか興味や関心を示さないのです。

しかし私は今でもまだ、私の子どもの頃からの夢を忘れてはいません。それは、日本以外の別の国に行き、新しい土地で多くの異なる文化と、そこに住む人たちとの出会いと発見です。その子どもの頃からの夢は時が経つにつれて、私が年を重ねるのに比例して大きくなり、その後の私の人生をその夢の実現に向うように促してくれたと思います。

大学生の時に、私は勉強しながらいくつかのボランティア団体や、NGOの活動に参加しました。アメリカ、インド、東南アジアなどの外国で生活し、そこに住んでいる人たちと交流出来るチャンスが生まれました。それらいろんな国への旅を通して、私は日本以外の生活が大変楽しくて、驚きに満ちた発見があることが分りました。

特に、2008年のSSEAYP「東南アジア青年の船」の旅程は、私にとって忘れられないイベントでした。私たちの乗った船が東南アジアの国を訪問し、その港を離れるたびに、私はその国の思い出がよみがえり、思わず涙がどっと溢れて来ました。特に、ベトナムの国と、ベトナムの人たちのイメージは私に深い印象を残しました。

多くの親戚や友人が驚きの目で見ましたが、私は大学を卒業後すぐに、次はベトナムで仕事をするために、またベトナムに戻って来ようと決めました。ただし、その時の私の一番の心配は、母の強い賛成と信頼が得られるかどうかでした。もちろん、私も旅行で行く時とは完全に違う、新しい土地で生活し、仕事をすることに不安はありました。

しかし、私はシンガポールに行くか、ベトナムに行くかの選択肢があった時、迷わずにベトナム行きをすぐに決めました。SSEAYPでのホームステイや交流会を通じて、ホーチミン市の若い人々の誠実さ、温かさの記憶が忘れられなくて、この「ベトナム」という国が私を歓迎してくれているように思えたからでした。

私は幸運にも、すぐにホーチミン市での仕事を見つけることが出来ました。しかし暮らし始めて最初の頃は、いろんな困難に直面したり、何度もガッカリすることもありましたが、そんな時に私は自分に言い聞かせました。“人生は楽なことばかりではないんだ。”と。そう思うと、気持ちが落ち着きました。

ベトナムでは、女性であっても男性と同じように仕事をしながら、掃除、料理、洗濯などをやっています。今私も同じようにそうしていますが、毎日の生活が楽しく、日本にいる時のようなストレスがありません。

私はよく親しい友人達と喫茶店に入ってお喋りしたりすることがありますが、友人たちに会おうと思えばいつでも出来ます。また、おいしい料理を味わう機会や、世界各国から来た人との出会いがあります。このようなことは日本ではなかなか容易ではありません。

さらに一番幸福感を感じるのは、私の近所に住んでいる人たちが、家族の一員のように私を温かく扱ってくれて、時に食事に誘ってくれたりすることです。そのようなことは、日本では今やはるか過去の思い出になりました。今日本では、家族みんながバラバラで食事していることも珍しくありませんから。

外国語が得意でないベトナム人の友達は、私にベトナム語を教えるのに、身ぶり手ぶりを交えたジェスチャーで教えてくれます。私の大家さんは、私が病院に行く時、私を自分の自転車の後ろに乗せて連れて行ってくれました。それらのことは、わたしにとって今でも忘れられない出来事です。

ベトナムで今の私の仕事や生活はとても落ち着いています。日本からの友人から連絡がある時に、「私は元気で、楽しく暮らしているわよ!」と、いつも答えています。私のベトナム語がもっと上達し、自転車に乗るのが上手くなれば、さらに過ごし易く、落ち着くと思います。

もちろん私も、ホーチミン市の大気汚染、葬式の時のうるささ、隣人のカラオケの騒音など、ベトナムについての不満はいくつかあります。しかし、“郷に入れば郷に従え”という諺があるように、そのような文化の多様性に自分が溶け込む必要もあると思います。私は物事には必ず、「表があれば裏がある。」と思いますから。

MIZUBAYASHI MAIKO
(ベトナム・A旅行会社の責任者)

◆ 解説 ◆
MIZUBAYASHIさんが勤めておられるのは、ベトナムの中でも大手の日系の旅行会社です。そして私にも、旅行会社に勤務して観光案内の仕事をしている、日本人やベトナム人の友人・知人がいます。

彼らの仕事は大変なようです。何せ、世間がお休みや連休の時に旅行客はやって来るわけですから、みんなが休みを利用して旅行する時が、彼らは一番忙しくなります。時には早朝や深夜遅くに、お客さんの送り迎えに空港にまで行かないといけません。またお客さんに同行して、泊りがけの旅行にも付き合わないといけません。

ベトナム人の友人の女性ガイド・Hさんによりますと、彼女の会社も日系の旅行会社なのですが、半分はアルバイト社員なので、今年のテトには全員が田舎に帰ってしまい、残った正社員で全ての観光案内をこなしたそうです。ベトナムのテトには関係なく、一部の日本人観光客はやって来ますから、当然テトの時にも出社しなければなりません。遠出の旅行があれば一緒に泊まらないといけません。

ただし、このテトの時に出社した社員たちには、ふだんの二倍の給与が支払われたといいます。そしてみんながテト休みを終えた後で、彼らはしばし休むことが出来るということでした。どこの国の観光業でも、実態は同じようなものだろうとは思いますが、でもやはり大変な仕事ですね。

それでもHさんは、そういう大変な仕事でも、生き生きと、明るく振舞っています。彼女はその仕事に就いてもう十年くらいになります。そして子どもも二人いますが、今もその仕事をしています。私と会うたびに、彼女は「大変なんですけど、私は事務所の中のデスクワークよりも、ガイドの仕事のほうが好きなんですよ。いろんな国の人たちとの出会いがあり、繋がりが出来ますからね。」と、ニコニコしながら話してくれます。

MIZUBAYASHIさんは日本人ですが、この記事を読んでいた時に、その私のベトナム人の友人・Hさんと重なりました。そして「内向き志向」が強いと言われる、今の日本人の若者たちと比べても、異国で積極的に生活し、仕事をしておられる様子が分ります。おそらく、快活で、タフで、柔軟性があり、前向きな志向の女性なのだろうと想像します。

そういう女性であればこそ、ベトナムでも多くの友人・知人に恵まれて、「私は元気で、楽しく暮らしているわよ!」と、いつも言えるのでしょう。ベトナムを訪問した日本人たちに、ベトナムの多くの“美しい印象”を紹介して欲しいものだと思います。



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