春さんのひとりごと
<メコンに流れる『青春の源流』〜元日本兵の三十六回忌〜 >
第二次大戦後、戦争が終結してもまだベトナムに踏みとどまり、フランスからの解放運動を支援して、その後はメコンデルタでバナナ園を開かれた元日本兵・古川さんがいました。
そして古川さんは、現地のベトナム人女性を娶り、6人の子どもさんを残されて、メコンデルタの島・Cai Be(カイ ベー)でその一生を終えられました。その元日本兵・古川さんの36回目の法要に今回参加させて頂きました。
以前2008年12月に、元日本兵・古川さんの法要が行われた時には、4人の日本人で古川さんのお墓がある、奥さん実家のほうに行きました。そしてこの時は日帰りでした。しかし今回は一泊二日で、Cai Beにある古川さんの住居兼仕事場でもあった、バナナ島まで行きました。そして今回の法要には、何と8人もの日本人が参加しました。簡単に紹介しますと、
1.Yさん
ベトナム戦争当時に、1963年からCai Beでバナナを栽培していた人です。そしてベトナム戦争後の、1975年6月にベトナムを去られました。Yさんと友人のSさんがCai Beで古川さんと厚い親交を結んでいた縁で、今回私たちも参加することが出来ました。
今回の36回目の法要では、ベトナム側と日本側の間に立って、細かい段取りをして頂きました。参加する日本人の数も多く、その日は全員が古川さんの家に泊まるので、料理や寝具の手配などを、細かく指示されたようです。
2.Sさん
Sさんは、日本でのYさんの同級生で、Yさんと同じくベトナムでバナナに関わる仕事をされていました。実はこのSさんが先(1961年)にベトナムに足を踏み入れ、その後に同級生のYさんを呼び寄せられたのでした。古川さんとはカン トーで偶然にも会われたということでした。その繋がりで、古川さんの土地を借りて、そこでバナナ園を開かれたのでした。
そしてベトナム戦争の終結後、1975年8月にベトナムを去り、日本に戻られた後は、一時安宅産業に勤められ、その後浅草にあるあの有名なお好み焼き屋さん『染太郎』の総支配人をされていました。私も約二年ほど前にそこを訪れました。今はそこは辞められています。Sさんは今回の古川さんの法要のために、わざわざ日本から駆け付けて来られました。久しぶりのSさんとのベトナムででの再会は、実に嬉しいものでした。
3.SBさん
Binh Duong(ビン ユーン)省にGio va Nuoc(ゾー バー ヌック:風と水)という広大な喫茶店を開かれた人です。Yさんとはこのベトナムで約二年前に知り合い、今は大親友のような関係です。SBさんはYさんと一緒に、以前この古川さんのバナナ島まで、二人でバイクを飛ばして一度訪れています。
4.Nさん
ふだんはハノイに滞在されていますが、今回の元日本兵・古川さんの法要のことを聞き、(何でも見てやろう!)精神の旺盛なNさんは、当日朝一番のハノイ⇒ホーチミン行きの飛行機で飛んで来られました。60歳を少し超えたばかりですが、精神の若々しさは驚くばかりです。ある人がNさんのことを、「さすらいのイベント屋」と言うあだ名を付けてくれたといって、それをいたく気に入っているようでした。
事実Nさんは、このベトナムで様々なイベントを手掛け、それを実現させています。「ホイアンの18km遠泳大会」はNさんが実現させたものでした。今構想しているイベントは、ダ ナン「日越友好・文化交流センター」を造ることと、「ダ ナン・マラソン」の実現です。その次には、世界遺産のミー ソン遺跡の近くに、温泉施設を造る構想を描いています。ものすごい企画力をいつも胸に秘めている人です。私は13年前に初めてNさんに出会いました。
5.KRさん
ホーチミン市内で、ITの会社を立ち上げた人物です。大学時代は、インドのデリー大学に留学しました。KRさんは多彩な趣味を持っています。登山、クラシック音楽鑑賞、絵画(見事な水彩画を自分で描かれます。)、写真などです。そして多岐にわたる人脈もあり、私が「ええ〜っ!あの有名な人とも知り合いなのですか。」と驚くこともしばしばです。彼の目標は、今のITの会社を15年後には世界最大の会社に成長させることです。
6.村山さん
フォトジャーナリストです。今回の春の渡越で、何と31回目になるとのことでした。ホーチミン市からは『名誉市民』の表彰を受けられました。ベトナム訪問の直前には、姫路市で「戦争終結から35年〜あなたの知らないベトナム事情〜」という題で、講演会もされて来ました。今回のベトナム訪問は取材がメインで、このCai Be訪問もまた、村山さんは楽しみにされていました。Cai Beの後には、すぐ中部にまで足を伸ばして取材に出かけて行きました。
7.SI子さん
村山さんの知人で、今は日大写真学科の一年生です。あの一之瀬泰三さんの後輩になります。非常に明るく、活発な女子大生でした。事前に私が、「Cai Beではタイルの上にみんな雑魚寝になりますよ。それでもいいですか。」と、村山さんを通して連絡しましたら、「全然構いません。大丈夫です。」と、頼もしい返事が返って来ました。
彼女は保育園のアルバイトもしているそうで、Cai Beでは子どもたちの扱いが大変上手かったですね。夜はその子どもたちと蚊帳の中で抱き合って寝ていました。しかし写真学科らしく、このCai Beでは、バチバチ写真を撮っていました。
そして私の8人です。この人数が確定した後に、私がYさんに今回の最終的な参加人数の件を電話で連絡しましたら、Yさんもこれだけ多くの日本人が参加するとは思っていなかったらしく、「えーっ、そんなに来るの!」と電話口の向こうで驚かれていました。
それで私が「今どこにいるんですか?」と聞きますと、「今は、以前三人で行ったDong Nai(ドン ナーイ)省にまたヘビを捕まえに来ているよ。今から森の中に、頭に電気を点けて入って行きます!もし大きいヘビを捕まえたら、サイゴンに持ち帰りますよ。ベンタン屋台村でぜひ蒲焼にして焼いてもらいましょう。」と、本気とも冗談ともつかない返事をされて、あとは「ハッハッハー」と言って電話を切られました。この時、夜の9時を過ぎていました。
半年ほど前に、YさんとSBさんと私の三人でバイクを飛ばしてDong Naiまで同じくヘビを捕まえる目的で行きましたが、この時はその時期ではなく、ヘビは捕れずじまいでした。まあしかしヘビは捕れなくても、ベトナムの田舎までバイクでツーリングして、Yさんのベトナム人の知人の家で宴会をするのが目的でしたから、それだけで実に楽しい時間を過ごすことが出来たのでした。
そして実はこの時に、古川さんの長女のAさんとYさんは、古川さんの36回目の法要について二人で、いつ、どこでするのかを打ち合わせもされていたのでした。日にちのほうは早く決定していました。旧暦の一月二十六日です。この日が古川さんの命日なのです。そして今年の暦で旧暦の一月二十六日は、太陽暦では2月28日(月)になります。それで事前にYさんや私の知人にも早めに、この【旧暦一月二十六日にCai Beで法要】の件を伝えておいたのでした。
翌日サイゴンに帰って来られたYさんが、元気よくベンタン屋台村に来られました。ヘビの捕獲の結果を聞きますと、「今回は、小さいヘビ一匹しか捕まえられなかったですよ。サイゴンに持ち帰るほどの大きさでもないので、そのまま向こうに置いて来ましたよ。ですから今日はヘビの蒲焼きは無理ですね。アッハッハー」と話されたのでした。それを聞いたSBさんは、ほっと安堵した顔付きをされていました。私は半分期待していましたが・・・。
そしてこの日、今回の古川さんの法要では、昔Yさんが栽培していたバナナ園にも行けると聞きました。それを聞いた私は、前回はそこに行くことが叶いませんでしたので、嬉しくて、嬉しくてたまらなくなり、思わず「あのバナナ島は、まさにYさん自身の
『青春の源流』
というべき場所ですね。」と言いますと、Yさんはテーブルを「バン!」と強く叩いて、「まさしくその通りですよ!」と、わが意を得たりとばかりに頷かれました。あやうく、テーブルの上のビール瓶が倒れるところでした。
森村誠一さんの本『青春の源流』は、実は今回古川さんの法要に参加する予定の人たちのほとんどが読んでいる本なのでした。そしてこの本は、その登場人物の舞台が日本とベトナムの二つの国にまたがっていて、私はこのベトナムで初めて読みました。そしてこころの底から深く感動し、最後のページを読み終えた後はしばらくボーッとしていました。
この小説の主人公<楯岡>氏は、第二次大戦が終わった後にも、まだベトナムに踏みとどまり、フランス植民地からの独立を求めて組織されたベトミン(ベトナム独立同盟)側に協力し、第一次インドシナ戦争を共に戦ってゆきます。
そして彼は、その青春時代を残留元日本兵たちのリーダーとしてベトナム側に立って戦いながら、多くの戦友を亡くし、ベトナム女性に恋をし、その青春をこのベトナムで燃焼し尽くしてゆきます。青春時代をこのベトナムで燃焼し尽くしたという点では、まさにYさんとSさんは、この本の主人公と同じ人生を歩いていたのでした。
その二つのイメージが重なり、それが私が、「Cai BeはYさんの『青春の源流』ですね。」と発した所以です。そして今回古川さんとYさんの元バナナ島を訪れて、Yさんのその『青春の源流』は、今も途切れることなく、メコン河のCai Beに滔滔と流れているのを実感しました。
2月27日の朝11時に、ベンタン市場・ロータリー前の南口に全員集合しました。15人乗りの車をYさんが手配してくれていましたが、車内は満席でした。Yさんを除く日本人7人のほかに、Dong Naiから古川さんの次女のB(ベー)さんの家族が既に先に乗り込んでいたからです。
Yさんは同じく27日の朝5時前の暗い時間に(道路が空いているから)、サイゴンから一人でバイクに乗ってCai Beに向かい、ちょうど7時には古川さんのバナナ島に着いたと連絡がありました。先に着いて、いろいろな準備をしなければならないからでした。一番大切な準備は、大きなバケツに氷をぶち込み、そこに缶ビール1ケースぶん入れておいて、我々日本人が到着した頃には、“ギンギンに冷やしておく”ことでした。
サイゴンを出る前に、有名な老舗のパン屋さん「Nhu Lan(ニュー ラン)」でフランスパンを15本ほど買いました。ここのパンは形も大きく、今焼きあがったばかりのような香ばしさがあり、1本が何と1万ドン(約40円)しました。路上で売っている小さなパンは、2千ドン〜3千ドンです。Cai Beにはこのような高級なパンは無いので、「是非Nhu Lanの美味しいパンを、古川さんの家族のみんなにも食べさせてあげたい。」という、Yさんのこころ優しき気遣いなのでした。
そして私たちは最初東西道路に入り、その後高速道路に入りました。この二つの道路が完成した後は、メコンデルタ方面に行くのは非常に便利になり、大変速くなりました。今回お互いが初対面の人もいるので、私が全員の紹介をして、Yさんから事前に預かっていた二冊の冊子のコピーを渡しました。
一冊は、開高健さんの『私の“釣魚大全”最終回』です。この中にYさんとSさんが実名で登場します。開高さんが古川さんとYさんのバナナ島を訪問された時には、石川文洋さんも同行されていました。この開高さんの本には、その石川さんの写真が載っています。
あと一冊は、2003年6月に発行されたもので、滝田誠一郎さんの『開高健が見たベトナムを旅する』という雑誌です。この中にもYさんとSさんのお二人が登場します。この二つの資料は、YさんとSさんを直接知る私たちには、第一級の資料ともいえるものです。
そしてYさんの若き日の写真や、開高さんと一緒に写っている写真のコピーもありましたが、その当時のYさんの若さと男前ぶりに、「わー、信じられない!本当にいいオトコですね〜。」とみんなが笑いながらも驚いていました。当時25歳の若さですから、若くて当然なのですが・・・。この時YさんはCai Beで、おそらくクシャミをしていたことでしょう。
さらに車中では、Sさんに今から行くCai Beについて、古川さんのこと、YさんやSさんの古川さんとの関わりについて、Nさんや村山さんは一言一句聞き逃さないような感じで、手帳にメモを取っていました。SBさんやKRさんや私たちはそれらを聞きながら、ひさしぶりにメコンデルタに向うまでの車外の光景を眺めたり、雑談をしていました。
前の席に座っている村山さんに私が、「今回YさんとSさんが青春時代を過ごした、<バナナ島>に行けるかと思うと、今からワクワクして来ますね〜。」と話しかけますと、村山さんも「同感です!」と言われました。
サイゴンからCai Beまでは約110kmあります。11時過ぎにサイゴンを出た我々の車は、1時半過ぎにCai Beの船着場に到着しました。途中でどこかに立ち寄って昼食を摂ろうかとも考えましたが、「少しくらい遅れても、みんなで一緒に楽しく飲みましょう!食べましょう!」とみんなが言いますので、そのまま古川さんのバナナ島まで直行することにしました。それで事前にYさんに、「途中で昼食は摂らずに、みなさんそちらで食べたいと言いますので、宜しくお願いします。」と連絡しますと。「分りました!」と引き受けて頂きました。
バナナ島には車は入れないので、車から一旦全員降りて、一艘の小型の船に乗り移りました。ボート代は一艘が25万ドン(約千円)でした。ボートトリップでバナナ島まで向かいますが、途中の細い水路は観光コースになっているらしく、向こうから白人の観光客の一団がボートに乗ってやって来ました。すれ違う時に、「Have a nice trip!」と大きな声で叫びますと、白人さんたちも笑っていました。
そして大きな川幅のある場所に出ました。これがSさんが言う「表メコン」なのでした。メコン河には通称、「表(おもて )メコン」と「裏(うら )メコン」という言い方があり、Tien Giang(ティエンザーン )省を流れるのが、「表メコン」。Hau Giang(ハウザーン)省を流れるのが、「裏メコン」です。この表メコン河の両岸には、水草やホテイアオイが群生していました。
ボートに乗ること三十分ほどで、古川さんの家があるバナナ島(通称第一農園)に到着しました。ボートが着いた所で、Yさんが待っていてくれました。「お疲れさん!」と右手を挙げて、我々を迎えてくれました。とうとう私たちは古川さんのバナナ島に到着しました。着いた場所の目の前には、Basa(バサ)という種類の魚を飼っている養魚場がありました。それが水面にピチピチと飛び跳ねていました。ここのバナナ島の面積は、Sさんの話では42ヘクタールだということでした。
以前は見渡す限りバナナ園だったそうですが、今はバナナ自体が安いので、家の回りには代わりに竜眼の木が植えられていました。Sさんは4年ぶりの訪問だと話されました。しばらく一人で外をテクテク歩きながら、往時を偲ぶように時に立ち止まって、ジーッと竜眼が植えてある畑を眺められていました。当時も今も園内には大きな水路が掘られていますが、当初はただの原野だったこの場所を200人の現地の人を雇って、一斉に並ばせてこの水路を堀り上げた時は、「それは、それは壮観でしたよ。」とSさんは言われました。
そして古川さんと奥さんの写真の前に全員が並び、一人ずつ線香を上げてお参りさせて頂きました。一枚の大きな額の中に、お二人の写真が入り、飾ってありました。みんなしばらく無言で、一瞬の静寂が訪れました。前回、古川さんのお墓があるほうを訪問した時にも胸に迫る感慨がありましたが、お二人の写真を前にしていますと、直接の面識は無いものの、今まで繰り返しYさんから聞いていただけに、また同じような気持ちが湧いて来ました。翌日の28日が、正式な36回忌の法要になります。
そしてみなさん全員テーブルに着席して、期待の“ギンギンに冷えたビール”を「乾杯!」の音頭とともに飲みました。サイゴンで飲むビールと銘柄は同じなのですが、堪えられない美味しさでした。しばらくすると、Dong Naiから長女のAさんの家族も、バイクに乗ってやって来ました。朝早く出て、ここまで7時間くらい掛けて来たということでした。
少し目を先に伸ばせば、悠々と流れるメコン河が見える古川さんの家で、8人の日本人と40人くらいのベトナムの人たちが一同に集まり、飲んで、食べて、語らう時間がゆっくりと流れてゆきました。
古川さんの法要がメインの行事なのですが、今日の話のメインはやはりYさんとSさんでした。日本人みんなが、このCai Beのバナナ島の中で仕事をしていたYさんとSさんにいろんな質問を浴びせます。それに丁寧に一つずつ答えられてゆくのでした。YさんとSさんの役割分担を説明しますと、Yさんがここからボートで20分ほど離れた所にあるバナナ島(通称第二農園)で実際にバナナを栽培され、Sさんはサイゴンでバナナの輸出管理のほうを担当されていました。
そして毎月一回は、サイゴンからSさん自ら従業員の給料を持って来られたそうです。SさんがCai Beに着いて島に上がり、遠くからベトナム人がその姿を見付けると「あー!給料が来た。給料が来た!」と叫んで、手を叩いて喜んでいた、とYさんが笑いながら話されました。
3時前から始めた宴会は、夕方までずっと続いてゆきました。一旦夕方の涼しい風に吹かれに行こうと、みんなでメコン河のほうに向かい土手の上を歩いて行きました。クリークの中では、子どもたちが水浴びをしていました。そしてちょうどこの時、メコンデルタに沈んでゆく赤い夕日が輝いていました。
さらに夜になっても、まだまだ宴会は続いてゆきました。途中休憩を入れて、数人で家の近くを散歩しに行きました。当然辺りは真っ暗闇です。するとバナナ畑の中に掘られた、水が溜まっている溝の中に、蛍が飛んでいました。近くの草を揺すると蛍が飛び立ってゆきます。それは幻想的な光景でした。
枝に明滅している一匹の蛍を捕まえようとして指を伸ばしますと、その一匹の蛍は光を明滅させながら、すーっと空に上がって消えてゆきました。それをじーっと眺めていましたら、日本に一度帰国しようとする直前に亡くなられ、ついに故国の土を踏むことなく、最期をこのCai Beで終わられた古川さんに思いが至り、今研修生たちに歌っている“サライ”の歌がふっとよみがえって来ました。
♪ 離れれば 離れるほど なおさらに つのる ♪
この思い 忘れられずに 開く 古い アルバム
若い日の 父と母に 包まれて 過ぎた
やわらかな 日々の暮らしを なぞりながら 生きる
♪ まぶた閉じれば 浮かぶ 景色が ♪
迷いながら いつか帰る 愛の故郷
サクラ 吹雪の サライの空へ
いつか帰る いつか帰る きっと帰るから
その後4・5匹の蛍を捕まえて持ち帰り、それをグラスの中に入れて、上からフタをして、またみんなでビールを飲みながら眺めていました。さらにまた続けてみんなで、SさんとYさんにいろいろな質問をしました。軒先の下だけは電気が点いていましたが、辺りは真っ暗です。
夢中で話しているうちに、時計の針を見ると深夜12時近くになっていました。気が付いた時には回りには誰もいず、YさんとKRさんと私のたった三人だけになっていました。みんな先にダウンして、早々と寝てしまっていたようでした。今回は私も、Yさんと同じ時間までお付き合いすることが出来ました。
どちらからともなく「それじゃ、明日もあるし、そろそろ我々も寝ましょうか。」と言って、お開きにしました。家の中は家族の人たちが寝ていますので、日本人のみんなは、家の軒先のタイルの上にゴザを敷き、上から蚊帳を吊って寝ていました。蚊帳の中で寝るのもひさしぶりのことでした。枕の上に頭を置いたら、すぐに記憶がなくなりました。
翌日はメコンに昇る朝日を見るのは残念ながら逃しました。朝は涼しい風が吹いていました。朝食は熱い麺類が出て来ました。昨日飲み過ぎて疲れた胃には、こういうのがいいですね。しかし突然押し掛けた日本人たちの朝食まで作って頂いて、みんなも恐縮していました。
法要まではしばらく時間があったので、5・6人で島の中の小道を歩いて行くことにしました。道の両側には、竜眼以外にもいろんな果樹が植えられていました。この島にも開高さんは来られましたので、今我々が歩いているこの小道も踏みしめられたことでしょう。
しばらく歩いて行くと三差路になっていて、その角に家が一軒ありました。私たちが近付いて行くと、中からおじさんが出て来て手招きしています。良く見ると、昨日の宴会に参加していた人でした。みんなに「お茶でも飲んで行きなさい。」と言われるので、有り難く頂くことにしました。
しかし話していると、ロレツが回らない話し方です。もう朝から酒を飲んでおられるようでした。若嫁さんに「コーヒーを作れ。」といって、そのロレツが回らない舌で、Sさんに親しげに話しかけていました。Sさんは適当にあしらっていました。後でYさんに聞きますと、「あのおじさんはいつもそうなんですよ。もう朝から飲んでいたんでしょうね。」と笑いながら話されました。「メコンデルタの恩恵」を享けているおじさんなのでしょう。
そして家に帰りますと、男の参加者たちは老いも若きも全員がトランプ博打をしていました。もちろんお金を賭けていました。しかしこの時女性群は、台所でニワトリの羽をむしったり、それを解体したり、バインセオを揚げていたり、スープを作ったり、野菜を洗ったり、果物の皮をむいたり、茶碗や皿を洗っていたり、昼の食事の準備していて戦場のような忙しさでした。
日本だったら、家で法事をやる時に。男が何の手伝いもせずに博打などしていたら、「この忙しい時に何やっとるんだ!」と怒鳴られるでしょうね。しかしここの家だけなのか、他もそうなのかは知りませんが、女性たちが男性たちを怒っていたり、男性群が(何か手伝おうか?)という光景も見ませんでしたので、それが当たり前なのでしょう。女性たちはせかせかと動き回り、台所で忙しく立ち回っていましたが、男性たちは軒先でゆうゆうとトランプ博打を法要の開始時間の直前までやっていたのでした。
そして十時になって、正式に法要が始まりました。といっても、日本のようにお坊さんが来るわけでもありません。お経を読むわけでもありません。参加者が写真の前に正座するわけでもありません。日本人が想像するような、法事の堅苦しい儀式は何一つありません。
昨日と同じように、一人・一人が線香に火を点けて、ベトナム式にお祈りをして、線香を線香立てに挿しただけです。それが終わった段階でまた食べて、飲んでの宴会の始まりです。前回も古川さんの法要に参加しましたが、私はベトナムのこのような法要にまた参加して、日本との違いをつくづくと考えずにはいられませんでした。
結婚式でも法事でも、日本では一つの型に押し込んでゆきます。そこの型に入れる内容の固まり具合で、日本では「今日は良かった・悪かった。」と考えます。固くかたまるほど良く、型が崩れるのを嫌いますね。結婚式で言えば何時から外に立つ。何時に開始する。誰が挨拶するのか。市会議員や、会社の上司の挨拶や、友人代表の挨拶。その順番は誰を先にするか。最後はまた誰が挨拶するか、などなど・・・。
法事でもお坊さんを呼んでお経をあげる間、足のシビレを我慢しながら、(早く終わってくれないかな〜。)と心の中で祈りながら、三十分以上も沈黙状態の中で正座して、ずーっと聴いていないといけません。法事の時に笑ったりしたら、とんでもないことになります。
以前私の知り合いが、この法事の苦痛に耐えられずに、当日来たお坊さんに「長くお経を上げたところで故人が生き返るわけでもないし、いつもの時間の半分にして頂けませんか。お布施はきちんとお払いしますから。」と申し出たら、「そんな、故人に失礼なことは出来まっせん!」と怒られたそうです。やはりどうも、私たち日本人は形式美を好むようです。
ベトナムの結婚式では、最初に新郎の父親側の挨拶はありますが、会社の社長や上司の挨拶もなければ、友人代表の挨拶もまずありません。式の終わりにも、新郎・新婦の挨拶などもありません。そもそもそんな挨拶をしても、みんなお喋りをしていて、誰も聞いていませんし、(シーッ、静かにしなさい!)と注意する人もいません。みんな楽しく食べて、飲んで、歌って、ワーワー騒いで、すべての料理が終わればサッサと帰って行きます。本当に堅苦しくなく、呆れるほどあっけらかんとしています。
そしてベトナムでは、法事も同じ延長線上にあるようです。但し、故人が亡くなった時のお葬式には、日本と同じようにお坊さんを呼んで、お経もあげるそうです。その後の○回忌にはそういうことは無くなり、飲んで、食べて、騒いでの宴会だけのパターンになるということでした。
さて私たち日本人のグループが着席した場所は、古川さんと奥さんの写真が飾ってある部屋の中でした。出てきた料理は昨日のメニューとはまた違っていました。今日が正式な法要の日だからでしょうか、昨日のメニューよりもさらに品数が多く、多くの種類の料理が並びました。
ベトナムの法要につきものの、子豚の丸焼きもありました。子豚は、一匹50万ドンするということでした。ビールも出ましたが、YさんやNさんやKRさんや私は、まだ昨日の酔いが残っているので、冷たいお茶にしました。最後には鍋まで出て来て、みんな腹一杯になりました。
私の目の前にはYさんが座られました。この時、どういうわけか帽子を被っておられました。私が「今古川さんの写真をこうして目の前にして、日本人みんなで集まって飲んで、食べていますと、古川さんも喜んでおられるような顔に見えますね。私たちも今回本当に楽しい思い出が出来ましたが、古川さんにも喜んで頂けたのかなと思いました。」と何げなく言いますと、Yさんは帽子のツバをすっと下げられて、しばらく黙っておられました。
さらにみんなで食べながら、飲みながら、私は(古川さんが亡くなられて36年も経つのに、同じ日本人ではあっても、何の血縁関係もない古川さんの家族の人たちに、どうしてYさんはここまで長い間、このように優しく、深い付き合いが出来るのだろうか・・・。)と、感心もし、また不思議に思いました。
事実私は、Yさんがこの家にテレビを買って上げたということを聞いたり、Dong Naiに行く時にも、多くの服を持ち込んで「これはもう自分は着ないから上げるよ。」と言ってプレゼントしているのを見たりしました。しかしそれはまだ新品に近い服なのでした。(田舎の人たちは、新しい服もなかなか買えずに、ボロボロになるまで着ているんですよねー。)と、Dong Naiの家族に服を渡した後に、Yさんは私にそのように話してくれました。
そしてこのCai Beの家族たちにも、同じようにまた服を持って来られたようでした。席に座っている人たちが少なくなった時に、私は率直にそのことについて静かに聞きました。するとYさんはしばらく言葉に詰まり、昔のことをぼつぼつと語られました。
「私がこのCai Beに来た時には20歳だったけれど、古川さんの奥さん(当時34歳くらい)には、時に我が子のように、時に自分の弟のように本当に可愛がってもらってね〜。顔を合わせると『ご飯は食べたか。今から作ってあげるから、ちょっと待ってろ。』『病気はしてないか。』『彼女は出来たか。』『何か不自由なものはないか。』などなど、異国から来た人間に、本当に親身になって気を遣ってくれました。その時奥さんから受けた恩の千分の一もお返し出来ないけれど、その時受けた恩を忘れることは出来ません。」と。
20歳で日本からベトナムに来て、日本人がほとんどいない場所で働き、さらにまた言葉も通じない田舎で生活していた時に、元日本兵・古川さんとその奥さんの存在はどんなにかこころ強かったろうとは想像出来ます。古川さんの写真の前で、Yさんが語られているその言葉を聞いた時、泉下の古川さんはどんなに喜ばれていることだろうかと思いました。
食事を一旦終えて、いよいよこころ待ちにしていた、Yさんのバナナ島(第二農園)を訪問することになりました。実はもう少し早い時間に行く予定だったのですが、潮が干潮の時間帯に当たり、ボートが出せなかったのでした。ちょうど昼12時にボートで出発しました。
Yさん自身も、4年ぶりの訪問だということでした。ボートには日本人が全員と、Bさんの娘さんとその子どもさんも三人付いて来ました。しばらくボートが進んで行きましたが、Yさんは(おかしいな〜?)という感じで、首を捻っています。水草やホテイアオイが岸を埋め尽くしていて、以前バナナ島にあった水門の位置が分らなくなっていたのでした。
(困ったなー、困った。)とYさんがSBさんに話しています。SBさんも以前一度来たことがあるので、手がかりになるのがないか、目を皿のようにして対岸の景色を見つめています。すると何と、Bさんの娘さんが「あのバナナ島はあそこから入ればいいよ。」と、遠くを指差していました。ボートの船長もその場所は知っていましたので、無事にYさんのバナナ島に着きました。後でYさんは「どうしてあのBさんの娘は知っていたのだろうか。」と不思議がっていました。
とにかく、Yさんが青春時代を過ごしたバナナ島にようやく着きました。ここは18へクタールの広さがあるということでした。そして当時、この第二農園のバナナ島でYさんは一人の日本人を雇っていました。その方も古川さんと同じく、元日本兵でした。名前を松嶋さんと言います。松嶋さんの出身を聞いて驚きました。何と私の故郷の近くの熊本県玉名郡南関町の出身なのでした。
そしてその松嶋さんは、1991年に50年ぶりに一度日本に帰られたことがありました。当時の地元の新聞にも<元日本兵、半世紀ぶり祖国の土>というタイトルで、それが掲載されていたようです。私自身はその当時熊本にはいなかったので、全然記憶にないのですが。この時松島さんは、二週間ほどの一時帰国でした。そしてYさんの話では、松嶋さんはその数年後に、最後は奥さんと一人の子どもさんと一緒に日本に戻り、日本でお二人とも亡くなられたということでした。
そして日本にYさんが帰られた時に、一度だけ電話で奥さんと話したそうですが、その時奥さんは「早くベトナムに帰りたい・・・。」と悲しそうな声で、電話口の向こうで話されていたということでした。Yさんは(それを聞いても、その時の自分にはどうしようもありませんでした。)と話されました。
ボートが着いた所には、一軒の家がありました。ご夫婦と子どもたちがいました。そのご夫婦はYさんを知っていました。そこの家の奥さんが言われるには、子どもの頃にYさんに「バナナをちょうだい。」とねだると、Yさんがニコニコして手に乗せてくれたそうです。
しかしこの家の周りに植えてあるのは、バナナではなくてMan(マン)という果物でした。これは唐辛子を混ぜた塩に付けて食べると、大変美味しいものです。私も好きです。この果物が、まるで満開の花のような赤い実を付けて、たわわに実っていたのでした。ちょうど収穫期のころに来たようでした。
ここから歩いて、Yさんが青春時代を過ごしていた場所まで行きます。Manの木の木陰の中を歩いて行くので、大変涼しいものです。するとちょうどManの実を女性たちが収穫して籠に詰めて、その籠を男性が担いでいる場面に出会いました。見事なほどに赤く熟れたManの実が、籠一杯に並べられていました。そこで働いている人たちにはいつものありふれた単純な作業なのでしょうが、初めてこの光景を見た私たちは、何ともいえない、実に美しい光景に見えました。
そこの女性に、「このManの実は、ここでは1kgいくらで買い取ってもらっていますか。」と聞きますと、「一万ドン(約40円)です。」と答えました。サイゴンに戻ってから女房に聞きますと、路上で売っているManの値段は「ふつうは1kgで一万ドン」ということですから、ここのManは品質がいいのでしょう。後でYさんに聞きますと、タイから種を持ち込んだらしいと話されました。確かに良く見ると、実に鮮やかな赤い色をしていて、果肉も厚く、形も均一に整っていました。
Yさんはかつて知っている場所なので、一人で先に足早に歩いて行きました。そして残りの全員で岸沿いの土手を歩くこと20分くらいして、ようやく先頭を足早に歩いていたYさんに追いつきました。そこは一軒の家でした。Yさんの話では、かつてこの家はバナナを貯蔵する倉庫として使っていたということでした。「Yさん自身が住んでいた家はどこですか。」と聞きますと、その当時ニッパ椰子で建てた家は、今はもうその建物自体がないとのことでした。
そしてその昔の倉庫のあった場所に、新しい家を建てて住んでいる夫婦は、古川さん、松嶋さん、そしてYさんを知っていたのでした。Yさんと日本人の数人は、家の中で椅子に座り、勧められた冷たいお茶を飲んでいました。家の前には様々な果樹や、花が植えられていましたが、その中に見事に赤く咲いている、彼岸花のような花がありました。ベトナム語の名前は、Hoa Sen Can(ホアセンカン)。Hoaは花、Senは蓮、Canは乾いたという意味ですから、乾いた土に咲く蓮の花という意味です。
私は家の周りを一人でしばらく歩きました。家の周りはほとんどがManの木が植えられていましたが、ところどころにはまだ(自分たちが食べる食用のためなのか)数本のバナナが植えられていました。そのバナナの幹は当然Yさん植えたバナナではありません。しかし、たまらなく無性にいとおしくなってきて、そのバナナの幹を撫でてしまいました。
(ここでYさんはその青春時代を過ごしたのか・・・)と思うと、Yさんの当時のここでの過ごし方についてあれこれ想像しました。先に紹介した滝田誠一郎さんの『開高健が見たベトナムを旅する』という冊子の中に、その当時のYさんの日常生活を、開高健さん自身が記述したものがあります。これはその当時のYさんの生活ぶりの、非常に貴重な記録だと思いますので、それをそのまま引用してみます。
『バナナ島の、ニッパ椰子で葺いた2階建ての小屋に、ゲンちゃん(※Yさんのあだ名)は1人で住んでいた。電気もなければガスも水道もない。電話も、冷蔵庫も、炊飯器もない。トイレもなければ風呂もないという生活である。その暮らしぶりを体験した小説家(※開高さんのことです。)はさながら「石器時代であった」と書いている。』と、滝田さんの紹介に始まり、以下が開高さんが書いた、YさんのCai Beでの生活ぶりを表した記述が続きます。
『水は、メコンの水を汲んで、ミョウバンを入れて泥を沈殿させて、その上澄みを沸騰させてから飲む。』
『穴を掘って、そこにおがくずを一杯入れて、その中に買ってきた氷の塊を入れておく。それが冷蔵庫代わり。買ってきた肉などをビニール袋に入れて、穴のなかへ入れておくわけです。外へ出したままだと一発でアウトですから。』
『トイレはそこらへんですませる。スコップ片手に草むらに入っていって、適当な穴を掘って、用が済んだら土をかけておしまい。』
ベトナム戦争当時に、20代初期の一人の日本人青年がメコンデルタでそのような生活をしていたというのも、何とも興味深い事実でしょうし、古川さんという元日本兵がこのメコンデルタで眠られているというのも、何という運の巡り合せなのだろうかとも思います。
私たちは今回古川さんのバナナ島と、Yさんのバナナ島の二つの島巡りを終えて、三時ころにボートでCai Beの島を離れました。桟橋に立って我々を見送ってくれたYさんは、いつまでも私たちの姿が見えなくなるまで手を振っていました。
今回Yさんの尽力でCai Beの法要に参加出来た日本人全員が、本当にこころから深い感銘を受けていました。あの日、あの時、あの場所で、元日本兵・古川さんの36回忌法要を共有した私たちは、これからCai Beの名前を目にし、聞くたびに、【あの二日間の実に濃密な時間】を思い起こすことでしょう。
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