アオザイ通信
【2012年2月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本人が架けた二つの橋>

今年のベトナムの テト( 旧正月 ) 1 月 23 日 ( 月) でしたが、テト直前の 20 日 ( 金 ) に メコンデルタ の南にある Ben Tre( ベンチェー ) 省 に行きました。 Ben Tre はサイゴンから南に、約 120 kmの距離にあります。

今回 Ben Tre を訪問したのは、観光でもなく、かといって仕事というほどでもなく、今私が日本語を教えている会社のベトナム人の L 社長から、 Ben Tre までの同行を依頼されたからでした。 ( 行くのはいいのですが、何をしに行くのですか? ) と、私が L 社長に聞きますと、

「 Ben Tre に橋が完成したので、その『落成式』に参加するのです。」

と答えました。

(Ben Tre に橋? 橋の「落成式」・・・!? ) 。「橋が出来た」というのは、その時初めて聞いたことですし、その前後の話を全然聞いていませんでしたので、どんな橋で、何で日本人である私が参加するのか、最初よく分かりませんでした。 L 社長もその時は忙しそうにしていて、その場で詳しい内容を話す時間はなさそうでした。

しかし 私自身も、 ( テト前のベトナムの田舎は、どんな雰囲気なのだろうか・・・ ) という興味が強く湧き、「いいですよ!」とすぐその場で答えました。橋が完成するまでの経緯は、道中の車のなかでゆるゆると聞けばいいだろうと思いました。今回行くのは、全員で5名でした。

20 日朝7時前に、サイゴン市内の 1 区にあるホテルに集合しました。私が着いた時には、すでに二人のベトナム人の同僚が来ていました。彼ら二人は日本語も大変堪能です。そしてしばらくして、 L 社長が自ら TOYOTA の車を運転して、ホテルまで来ました。このホテルに泊まっている、一人の日本人の方をピックアップするためでした。

その人は T 部長と言います。我々がホテルに全員集まった頃に、 T 部長がホテルから出て来られました。その時の服装は、「落成式」という固い場に参加するからなのか、ビシッとネクタイも締められていました。しかし私たちに会った時には、ニコニコした笑みを浮かべられていて、大変温厚そうな感じの人でした。 65 歳だと言われました。この日の「落成式」に参加するために、日本から飛んで来られました。

そして、ホテルまでは車を自ら運転して来た L 社長は、そこで車の運転を別の運転手に代わり、道中は私の隣に座って、いろいろな話を横でしてくれました。 T 部長は「前の席のほうが見晴らしがいいから」ということで、私の前の席に座られました。7時 10 分を過ぎた頃に、私たちはサイゴンを出て、東西道路から入って Ben Tre を目指しました。

そしてこの車の中で、今回の「橋の落成式」に至る経緯を、 T 部長からいろいろ伺うことが出来ました。 T 部長の会社・ SW 社は、日本の愛知県にあります。 TOYOTA の車の部品を作っている会社です。その SW 社の会長でもある OKAJIMA さんが、昨年の 10 月の半ば頃日本に出張で来ていた L 社長と、食事を共にしながら、お酒を飲みながら歓談されたことがありました。

ちなみにその OKAJIMA 会長は、ベトナム人研修生の面接や受け入れの件で、何回もベトナムに来たことがあり、ベトナムでも L 社長とは何回も会っています。今年 72 歳だそうですが、 OKAJIMA 会長は大変な酒豪とのことで、ベトナム訪問中は滞在日数ぶんの <サントリーの山崎> を持ち込まれて、一日にボトル一本は空けられるというのです。

秋の気配が深まった頃の日本の料理屋で、 OKAJIMA 会長は L 社長と一緒に食事をし、お酒を飲みながら酔いが回った頃、次のように言われたそうです。その席には T 部長も同席されていました。

「今から振り返ると、うちの会社には7年前から多くのベトナム人の若い研修生たちが来てくれて、会社で研修しながら働いてくれた。改めて、大変世話になったなあ〜と思う。ここらで何か <お世話になった恩返し> をしたい。研修生たちの故郷は Ben Tre 省の出身者が多かったが、 < Ben Tre の人たちの何かお役に立つもので、恩を返したい> のだが・・・。」

酒席の場での話ながら、 L 社長はその言葉を重く受け止めました。そしてベトナムに帰ってすぐ、 Ben Tre の友人・知人に OKAJIMA 会長が話した < Ben Tre の人たちのお役に立つもの> は何が良いかをいろいろと調べて、提案してもらうようにしました。彼らからいろいろな提案があった中で、最終的に L 社長が「それがいいだろう!」と採り上げた案は、

< Ben Tre の田舎のクリークに橋を架ける >

というものでした。この案なら、一部の人たちだけではなくて、「 Ben Tre に住んでいる 多くの人たちのお役にも立つし、 OKAJIMA 会長の志にも一番適うのではなかろうか」と、 L 社長は考えました。

メコンデルタ方面に行きますと、田舎の道のそばに無数のクリークが流れています。そして小学生や中学生たちが、そのクリークに渡してある、細い丸太一本で出来た橋の上をスイスイと歩いているのを見かけることがあります。丸太の下には、数箇所ほど支えの木が打ち込んであります。手すりは細い竹で出来ていて、それをつかんでみんな渡っています。器用なものです。

時には自転車を担いで、ヒョイヒョイと渡っている場面を見たこともありました。身軽なベトナム人だからこそ出来る芸当でしょう。しかしバイクや大きい荷物などは、小船に乗り換えて渡らないといけません。でも、いちいち小船に乗り換えるというのは、やはり面倒なものです。

さらに木の橋もいつかは腐るし、時には川の中に落ちたり、怪我をすることもあるでしょう。出来ればそこに住む人たちも、いつでも安全に通行出来る橋を架けたいのでしょうが、まとまったお金が無いので、仕方なく諦めているのです。

しかも、トラックや車が通過するような大きな橋のようなケースには、国からの支援がすぐ出るそうですが、小さいクリークに架けるような橋を建設したい時には、申請を出しても長い時間が掛かり、ずーっと待たされるし、国がお金を出してくれる可能性は低いということでした。

しかし、そこに小さくてもいいから、頑丈な橋が架かれば、地元に住む人たちはもちろん、小学生や中学生たちも毎日、徒歩や自転車でその橋を通って学校に行けるし、川の中に落ちる危険もなく、安全です。多くの人たちが毎日利用出来るような形のものが、みんなにも一番喜ばれることでしょう。

それで、 L 社長は ( [ Ben Tre の田舎の川に橋を架ける ] という案なら、 OKAJIMA 会長自身も賛成されるだろう ) と思いました。そしてそのことを OKAJIMA 会長に連絡しました。 OKAJIMA 会長からはすぐに「 OK です。それで行きましょう!」というゴーサインが出されました。

さらに OKAJIMA 会長からは、二つの要望が出されました。 「橋を二つ架ける」 ことと、 「テト前に完成する」 ことです。そうなると、正味二ヶ月くらいしかありません。建築資材や材料費は、全て OKAJIMA 会長側が負担することで了解しました。

建築会社が当然工事を請け負いましたが、何せ車も通らない場所に架ける橋ですので、資材の運搬や橋の完成に伴うまでのいろいろな手伝いには、地元の人たちも積極的に参加してくれたそうで、二ヶ月足らずで見事にテトの前には完成し、この日我々が向かっている「落成式」を迎えることが出来たのでした。

そしてその二つの橋には、地元の人たちの強い要望を容れて、 OKAJIMA 会長の名前がローマ字で入れてあるというのです。 Ben Tre の地元の人たちが、日本人である OKAJIMA 会長の恩を忘れないようにしようという気持ちからのようでした。

そこまでの話を T 部長からずーっと聞いていた私は、車の中で何とも言いようがない、ジーンとした感動を覚えてきました。一人の日本人が、酒の場で話された <地元の人に恩返しをしたい!> という言葉が、 <橋を架ける> という形で実現するとは、 ( 何と素晴らしいことではないだろうか・・・ ) と思いました。そしてまだお会いしたことがない OKAJIMA 会長なのですが、強い尊敬心を持ちました。

なぜなら、日本ではいろんな会社が多くのベトナム人研修生を受け入れて来ましたが、「今まで研修生たちにお世話になったから、研修生たちの故郷に何かお役に立つもので、恩をお返ししたい。」と、 OKAJIMA 会長が言われたような 『熱い言葉』 を聞いたことは無かったからです。

T 部長は「会長は酒の場で酔いながら、あの時ああいう話をされましたが、それはあの時に思いついたものではなく、もともとその前から胸に秘めていた考えのようでした。それだけに、今回二つの橋が完成したので、本人は本当に喜んでいましたよ。」と、前の席に座ったままで、後ろにいる私のほうは振り返らずに、ゆっくりと、嬉しそうに話されるのでした。

そして今回私にも同行を依頼されたのは、 その橋の完成までには日本人である OKAJIMA 会長 の援助があって実現したことであり、一人でも多くの日本人に参加して欲しいということで、私にも声がかかったのでした。そして OKAJIMA 会長自身はこの日の「落成式」にはどうしても参加出来なくて、代理として T 部長が来られることになったのでした。 T 部長は、 OKAJIMA 会長とは 30 年以上の付き合いがあるということでした。

そして我々が乗った車は、 8 時半頃にとあるレストランの前で停まりました。そのレストランに入って驚きました。一幅の絵画を見るような瀟洒なレストランであり、メコンデルタの自然美を活かした庭園の造りであり、建物の構成でした。そして庭にはさまざまな種類の花が咲き乱れていました。レストランの名前は、 Mekong Rest Stop

「これはまた、何とも美しいレストランですね〜。」と、私が L 社長に言いますと、「そうですね。今からここで朝ごはんを食べましょう。」と答えましたが、彼がここに立ち寄ったのには訳がありました。

何とこのレストランには、 2009 年 2 月に 『日本の皇太子殿下」 がメコンデルタを御訪問された時に立ち寄られたというのです。このレストランに入ってすぐ正面の上のほうに、その時に撮った御写真が掲げてありました。皇太子殿下がメコンデルタを御訪問されたことは私も知ってはいましたが、このレストランにも来ておられたということは初めて知りました。

建物は大きなドームのような、東屋風の建物が三つほどあり、その周りに幾つもの小さい建物が配置してあります。中庭には池が三つほど掘られていて、ハスの花が咲いていました。その庭には目に鮮やかな緑の芝生が敷き詰められていて、きれいに刈られていました。また至るところに、花が植えてあります。

すぐ側には国道があり、バスやトラックが騒音を撒き散らしながら走っているのですが、この中はまるで別天地のような静けさであり、涼しさでした。我々は大きな建物の中に入り、涼しい風が吹いてくる席に座って、フォーやフーティウなどの麺類を食べました。

そしてここで L 社長は、一人の恰幅のいいベトナム人の男性を紹介してくれました。頂いた名刺を見ますと、 AGRIBANK( 農業銀行)社長・ TAM( タム ) とありました。聞けば、彼も今回の「落成式」に同行し、一緒に Ben Tre へ行くの で、このレストランで待ち合わせしていたのでした。

L 社長によりますと、彼は AGRIBANK の南地区の総責任者で、まだ 49 歳でした。しかし大変な貫禄でした。フォードの車で来ていましたが、それは自家用車だということでした。 L 社長の会社の取引先でもあり、友人でもありました。

( 何故銀行の社長が落成式に行くのだろうか・・・ ) と、その時にはよく分かりませんでしたが、朝食を終えて車に戻ってから、 L 社長の話を聞いてよく分かりました。 L 社長が OKAJIMA 会長の意を受けて、 < Ben Tre の人たちの何かお役に立つもの>をいろいろ探してもらっていた時に、その窓口になっていたのが TAM 氏でした。そして実は、彼が Ben Tre 出身なのでした。

我々は My Tho( ミートー ) を抜けて、 Ben Tre 省の Thanh Phu( タン フー ) 郡 に入りました。この日の町の様子を見ていますと、道路の両側にはサイゴンと同じように、もうすぐテトを迎えようとしている光景と同じものがありました。

菊の花や、黄色い Hoa Mai( ホア マーイ ) が歩道にびっしりと並べて売られています。 ( やはり田舎でもこうして、テトを迎える風景は変わらないのだなあ〜・・・ ) と、当たり前ですが、テト直前の田舎町を訪問出来てあらためてそう感じました。

そして 9 時半過ぎに、私たちは大きな建物に入りました。 Ben Tre 省 Thanh Phu 郡の 人民委員会 の建物でした。ここ Thanh Phu 郡の人民委員会を訪問した目的は、郡を代表する機関への 「表敬訪問」 のためでした。我々を迎えるために、6人ほどの人たちが出て来てくれました。建物に入ってすぐの所にお茶が用意してあり、我々はそこに座りました。

Thanh Phu 郡の 人民委員会主席・ LAM( ラム ) さんが、最初に我々に自己紹介をし、お礼の言葉を述べられました。 LAM さんは、「 Thanh Phu 郡を代表しまして、 OKAJIMA 会長に厚い感謝を申し上げます。会長が支援して頂いた橋が完成して、地元の人たちも本当に喜んでおります。 OKAJIMA 会長にも、是非厚くお礼を申し上げて下さい。」という挨拶をされました。

この場には地元の新聞社・ BAO Ben Tre( バオ ベン チェー ) の記者も来ていて、私たちを取材していました。我々二人の日本人の名前についても、ローマ字で正確にどう書くのかを聞いて来ました。聞けば、テト明けてしばらくしたら、この日の記事が掲載されるということでした。

そしてここを出て車で一時間ほど走って、目指す「第一の橋」の近くまで着きました。直接橋までは車が乗り入れられないので、広い道路から降りて、全員バイクに乗り換えました。そのバイクは、人民委員会側が手配してくれたものでした。二台のバイクがやっとすれ違えるような細い道を、バイクでしばらく走りました。

道の回りは魚の養殖池になっていました。あぜ道に立っている電線に、鳥が十数羽ずらーっと並んで羽を休めていました。よく見るとそれはツバメでした。 ( もしかすると、日本の我が家の小屋に巣を掛けているツバメは、こういうところで冬を越していたのだろうか・・・ ) とふっと思い、大変いとおしくなりました。 ( 春になったら、また日本で会おうね ) と呟きました。

落成式の会場15 分ほどで「落成式」の会場に到着しました。それは普通の民家でしたが、田舎の家にしてはキレイで、大変大きく、床もタイル張りで、今新築されたばかりのような感じでした。その家が橋のすぐ側にあるので、そこを「落成式」の会場に借りているようでした。料理もすでにテーブル上にいっぱい並べられていました。この時には、すでに百人ほどが集まっていました。

11 時半頃に「落成式」が始まりました。式場の正面の上に、大きな看板が掲げてありました。白い看板には赤い字で、 『 LE KHANH THANH CAU RACH VIEN ― OKAJIMA 』 と書いてありました。『 LE KHANH THANH 』は完成式。『 CAU 』が橋。『 RACH 』は小川。『 VIEN 』がここの地名です。簡単に訳せば、 『 VIEN ― OKAJIMA 橋完成式』という意味です。

まず人民委員会主席のお礼の挨拶に始まり、建築を請け負った会社から、建築工程の説明と掛かった経費の説明。そして最後にこの家の大家さんから、地元の人を代表して、感謝とお礼の挨拶がありました。

「今この地区の村には約 2 千人が住んでいますが、今まで私たちは向こう岸の村に行くのに、毎日小船に乗って渡っていました。自転車やバイクも、船に乗せて渡らないといけませんでした。小学生や中学生たちも学校に通うのに、毎日そうしていました。特に雨が降るときや、小さい子どもを抱えた人や、老人たちには大変不便でした。」

「しかし今、ここにこうして立派な橋が完成しました。これからは歩いて、自転車で、バイクで、この橋を渡って向こうの村に行くことが出来ます。この橋を作って頂いた OKAJIMA 会長には、地元のみんなが本当に感謝しています。住民を代表して、こころから厚くお礼を申し上げます。そして、これからこの橋を大事に使わせて頂きます!」

続けて、 T 部長のほうに挨拶が回って来ました。そのような挨拶をしないといけないとは、事前に L 社長からは一言も聞いてなかったらしく、 ( えぇーっ、今から話すの! ) と、少し驚かれていましたが、落ち着いた様子で話されました。それを横ですぐに、 L 社長がベトナム語に訳していました。

「今日の落成式にお招き頂きまして大変有難うございます。そして先ほどのみなさんの挨拶を聞きまして、大変嬉しく思い、また感動しております。今日 OKAJIMA 会長は、残念ながらここに来ることが出来ませんでしたが、日本で大変喜んでいると思います。皆さん方のお礼の言葉を、会長には必ず伝えます。」

「今日橋が完成しまして、向こうの村とこちらの村がつながりました。そしてまた、ベトナムの人のこころと、日本の人のこころがつながりました。 OKAJIMA 会長も、私たちも、日本で大変お世話になった Ben Tre の人たちに、恩返しが一つ出来て大変喜んでいます。みなさんの喜びは、また私たちの喜びでもあります。これからも、また続けて恩返しをしてゆきたいと思います。」

「落成式」が終わった後に、みんなで完成した橋を見に行きました。その式場から歩いて一分も掛かりません。その橋を見ますと、白いペンキで欄干も橋自体も真っ白に塗られていました。全てコンクリート製です。この「第一の橋」は、長さが 28 m、幅は 2.2 mでした。橋を渡る前の部分の盛り土は今完成したばかりのようで、まだ完全には乾いていませんでした。今日の「落成式」も、この橋の完成直後に行われたのだな〜というのが、よく分かりました。

そして車の中で聞いていた通りに、 OKAJIMA 会長の名前が入った、鉄製の青い立て看板が橋の右側に建ててありました。サイゴン市内の道路標識によくあるような、青い色の下地に白い文字で鮮やかに、 『 CAU RACH VIEN ― OKAJIMA 』 と書いてありました。看板の上のほうには、日本とベトナムの国旗が入っていました。

橋の上には、白地にピンクの花柄をあしらったアオザイを着た 5 人の若い女性が、赤いテープを持って立っていました。その女性たちの間に人民委員会の主席、 T 部長、 L 社長、 AGRIBANK 社長・ TAM 氏、住民代表の人たちが入り、テープカットをしました。そこで記念撮影をして、参加者全員で「第一の橋」の渡り初めをしました。

そして 12 時過ぎから「橋の落成式」を完成して、宴会が始まりました。テーブルの上には、大きなナマズの頭と胴体、そしてボールに入ったドジョウが置いてありました。今日の料理は、「ナマズ鍋」と「ドジョウ鍋」でした。最初にナマズを入れてから、次にドジョウを入れて食べるやり方です。

私は日本でも、ブリのような大きな魚の、目玉のゼラチン質の部分を食べるのが大好きで、いつもそこから最初に食べ始めるのですが、みんなが胴体のほうを食べている間に、ここでもその部分から先に箸を伸ばして、全部美味しく頂きました。目玉の周りを覆うゼラチン質のとろりとした部分と、目玉のコリコリした食感は、何とも言えません。

聞けば、そのナマズもドジョウも市場で買って来たものではなく、この地元の小川で今朝獲れたのをそのままここに持ち込んだとのことでした。まさに、 「産地獲れたて」 の「ナマズ」と「ドジョウ」なのでした。確かにそう言われれば、ここのドジョウは私が普段サイゴンの屋台で食べるドジョウよりは、肉質が少し締まっている感じでした。

そしてこの鍋料理を食べながらの、ベトナムの宴会の恒例パターン <焼酎攻撃> が始まりました。小さなお猪口で一気飲みの乾杯・返杯が、あちこちのテーブルで始まりました。私としては暑い真っ昼間でもあり、飲むと体が熱くなる焼酎よりも、本当は冷たいビールを飲みたかったのですが、残念ながらここの宴会場には置いてありませんでした。 T 部長と L 社長は下戸なので、そのぶんまで私のほうに回って来ました。

田舎に行くと、宴会ではビールよりもこのように焼酎を飲まされることが多いのですが、それには理由があります。簡単に言えば、 「1 . ビールよりも値段が安い。2 . 少量で早く酔っ払う。3 . 氷が要らない。」からです。特に、このように車も入れない、バイクしか通れない細い道沿いの家に住んでいる場合は、重いビールを運んで来るのも大変です。

主催者側からすると、事前に氷も購入し、高くて、重いビールを宴会場に持ち込むよりも、安くて、氷も要らず、ペットボトルの半分も飲めば酔っ払う焼酎のほうが、買う本数も少なくて済みますから、焼酎のほうがいいのです。

度数の低い、氷入りのビールをチビチビ飲んで、じわじわと時間をかけて酔っ払い、トイレとの往復を何回も繰り返し、ウダウダと話して長居してもらうよりも、強い度数の焼酎を飲んで「即効」で酔っ払い、「即行」で帰ってもらったほうが、後片付けも早く済んで助かります。

そこでの宴会は一時間半ほどで終わり、私たちは来た時と同じように、またバイクの後ろに乗って広い道路まで戻りました。車の中で運転手が待っていてくれました。彼に「ご飯は食べた?」と聞きますと、「まだだ・・・」と言うのでした。

車を路上においたままそこを離れるわけにはいかないので、彼は我々と一緒には橋の落成式に参加出来ずに、ここでずっと待機していました。しかし辺りを見回しても、ほとんど田んぼや養殖池だけで、路上の屋台もカフェー屋もありません。申し訳ないことをしました。

そしてまた車に乗り、「第二の橋」に行くことにしました。しかし ( そのまま橋に行くのだろうな・・・。 ) と思っていましたら、車は朝に表敬訪問した Thanh Phu 郡の人民委員会の、道路のすぐ向かい側にある大きな建物に入りました。 L 社長に「ここはどこですか?」と聞きますと、 『共産党郡委』 とのことでしたが、ここに来た目的もまた、朝と同じように「表敬訪問」のためなのでした。

しかし、「人民委員会」と「共産党郡委」の二つの建物の距離が相当離れていればそうして別々に「表敬訪問」する意味は理解出来ますが、この二つの役所は道路を挟んで向かい合って建っているのです。 20 mも離れていません。同じベトナムの役所なのですから、どちらか一方の役所の人が、片方まで足を運べばそれで済むことです。しかしそうはしなかったのでした。

「なぜ今朝人民委員会を表敬訪問した時に、一緒にまとめてしなかったのですか。」と L 社長に聞きますと、「もし一つの機関だけを表敬訪問すると、そこが <独裁的> だと思われるから。」と言うのですが、何が<独裁的>なのか、外国人である私にはこの時良く分かりませんでした。そしてそれ以上の詳しい理由は、 L 社長も説明しませんでした。

この事について、後で私なりにいろいろ考えましたが、地方には「人民委員会」や「軍隊」や「公安」や、このような「共産党郡委」などの、いろんな権力機関が並び立っています。今回のような案件の場合は、「人民委員会」と「共産党郡委」を通さねばならなかったのでしょう。それで、もし片一方だけを「表敬訪問」して我々がサイゴンに帰ったとすると、「表敬訪問」されなかった方は、 [ 面子を潰された ] と思うからではなかろうか・・・と推測しました。

まあ深い理由は良く分かりませんが、要は今回の橋の建設にあたって、 OKAJIMA 会長の熱い志を受け止めて、この二つの機関が協力して頂いたからこそ、こうして「二つの橋が完成」したわけです。そしてこの日訪問した二つの機関では、非常に友好的な対応をして頂いたのも事実でした。

さらに OKAJIMA 会長は、この二つの橋だけではなく、今後もまたいろいろな<恩返し>をお考えのようでもあり、この二つの機関には今後もお世話になるだろうし、継続して協力も必要になるので、 T 部長は疲れた顔色も見せられずに、「共産党郡委」の建物に入られました。

ここでもまた代表者の方からの挨拶と、 Ben Tre 省に「二つの橋」を寄付して頂いたことへのお礼を頂きました。その後は、何とまたここでも宴会が始まりました。先ほどたらふく食べて、キツイ焼酎を飲んで来たばかりなのですが ( 特に私は ) 、その後二時間もしないうちに続いての宴会です。まあ、テトを前にしてわざわざ外国人が Ben Tre まで来てくれて、ここの人たちも楽しいのでしょう。

ここには「馬肉料理」が準備してありました。鶏の手羽先やドジョウのカラ揚げもありました。馬肉を鍋の中に入れてグツグツ煮ながら、それらをツマミに食べながら、さらにまた<焼酎攻撃>がここでも始まりました。しかし先ほど食べて来たばかりなので、やはりみんなも多くは食べられませんでした。

ここでの二回目の宴会を終えて、いよいよ「第二の橋」に向かいました。「共産党郡委」の場所から一時間ほどで到着しました。その橋に至るまでも、やはり車では行くことが出来ず、バイクの後ろに乗って行くことになりました。しかしここの周りの風景は、「第一の橋」の場所で見た養殖池だけしか見えない風景とは違い、バイクで通って行く道路の両側には椰子の木がずらーっと植えられていました。

バイクに乗って 5 ・ 6 分ほどで、我々は「第二の橋」に着きました。ここには「第一の橋」で準備されていたような、宴会もなく、アオザイを着た女性もいるわけではなく、テープカットなどのセレモニーもなく、サイゴンから来た私たちを出迎える十人ほどの人がいるだけでした。ですから、「落成式」のセレモニーは「第一の橋」の場所で終わっていたわけです。

ここにはテーブルの上に料理や、酒類はなく、代わりに今もぎたてのココナッツが置いてありました。そのココナッツの上のほうをナタでガツガツと器用に削り、ストローを挿し込んで ( さぞ暑かったでしょう。 ) と言って、我々に差し出してくれました。二回続けての<焼酎攻撃>で疲れた胃には、このもぎたての天然ジュースは、実に美味しいものでした。私などは、二個も飲んでしまいました。

「第二の橋」も同じように、白いペンキで塗られていました。「今完成したのだ!」という、新しさを強調したいがためでしょうか。そして新しい「第二の橋」のすぐ隣には、今まで地元の人たちが使っていた古い木造の橋が、取り壊されずにそのまま残っていました。ですからここには、今までの古い橋と新しい橋の両方を比較しながら見ることが出来ました。

ここにも「第一の橋」と同じようなサイズと色で、 OKAJIMA 会長の名前が入った看板が建ててありました。 『 CAU BA DANH ― OKAJIMA 』 と書いてありました。『 BA DANH 』がここの地名です。 『 BA DANH ― OKAJIMA 橋』 という意味になります。この「第二の橋」は、長さが 10 m、幅が 2.5 mありました。

それを私はしばらく一人で、じーっと眺めていました。この場所まで橋を見に来たのは我々だけなので、ここに集まった人たちも少なく、静かな雰囲気の中で橋の回りを歩くことが出来ました。少し離れた場所から、椰子の木の間から木洩れ日が射す中に、白いペンキで塗られた新しい橋を見ているうちに、私は胸が震えて来るようなこころの高まりを覚えて来ました。

今このようなベトナムの片田舎の村の、普通の日本人が誰一人として知らないような場所に、一人の日本人の方が寄付した橋が「第一の橋」に続いてここにもまた完成して、その人の名前を付けた看板が建ててあります。同じ日本人として、何と嬉しいことでしょうか。そしてふと、私の友人の KR さんが話していたことを思い出しました。

昨年の 11 月に、サイゴン河の下を掘り貫いて、サイゴン市内の一区と二区を結ぶ Thu Thiem( トゥー ティェム ) の地下トンネルが完成し、開通しました。この地下トンネルは、日本からの技術支援と、多額の ODA を注ぎこんで完成したものでした。今まで一区と二区を繋ぐ移動手段は、大回りしてサイゴン橋を渡って行くか、フェリーしかありませんでした。

一区と二区に住む人たちにとって、一番利用し易かったのはフェリーでした。このフェリーには私も数回乗ったことがありましたが、大変な混雑でした。このフェリーの歴史は大変古く、約百年近くもありました。それがサイゴン河の地下を掘り貫いたこの地下トンネルが完成したことにより、フェリーに乗り換える必要もなく、両区を車やバイクで通行出来るようになったのです。画期的な事業というべきです。

しかしその地下トンネルの開通後に、そのトンネルを通過した KR さんは首を捻らざるを得ませんでした。トンネル入り口にも、出口にも、どこにも 『このトンネルは日本の支援で完成しました。日本の支援に感謝致します!』 という内容が書かれたプレートなどはもちろん、それをベトナムの人たちに告知する文字の一行も、一文字もなかったからです。

KR さんはここ最近、世界進出の第一歩として、ベトナムの次はカンボジアに事務所を構えました。そしてカンボジアのプノンペン市内に架かる橋を渡る時、幾つかの大きな橋の入り口に、カンボジアの人たちに知らせるための看板が掲げてあり、次のような言葉が書いてあるのを見ました。

「この橋は、日本国の支援により完成したものです。」

KR さんは看板に書かれたこのような文字を見て、こころに深く感ずるところがありました。カンボジアの人たちの、日本からの支援に感謝する、温かい気持ちがよく分かりました。それは、日本人として大変嬉しいことでした。

サイゴン河の下を潜る地下トンネルの完成までには長い歳月 ( 約 7 年 ) を費やし、前例の無い工法を採用して工事をしたこのトンネルの掘削には、日本から来た人たちの技術指導もありました。そして多額の日本の ODA を注ぎこんで、ようやく完成したわけです。

それだけに、「ベトナム側はそのトンネル名を、 『日本トンネル』 とでも命名すべきではなかったでしょうか。」と、 KR さんはベトナム政府側の感謝の念の薄さと、日本側の交渉力の弱さを嘆かれていました。

しかし今 Ben Tre の田舎で私たちが目にしている橋には、 OKAJIMA 会長の個人名 がしっかりと明記してあります。毎日この橋を通る地元の人たちや、小学生、中学生、高校生たちは、 OKAJIMA 会長の名前が刻まれた二つの橋の名前の由来とその経緯について、自然と興味が湧き、自然と OKAJIMA 会長への感謝の気持ちが培われてゆくことでしょう。

二つの橋とも、大型トラックや車ではそこに到着出来ないので、この橋を渡るのは、徒歩か、自転車か、バイクだけです。トラックや車が橋を傷めることもありません。コンクリート製なので、無茶な使い方をしなければ、橋が壊れることもありません。仕事に出かける大人たち、小学生や中学生や高校生たちが、この橋を利用して毎日通行してゆく光景を想像しました。

「二つの橋」の完成は、 OKAJIMA 会長が酒席の場で L 社長に話されたことなのですが、この橋が予定通り今二つとも完成したわけです。この場に OKAJIMA 会長が来ておられれば、どんなに喜ばれたことだろうか・・・と思いました。

ベトナムの < Ben Tre 省に恩返しをしたい!> という OKAJIMA 会長の熱い気持ちから、テト前に完成したこの<二つの橋>ですが、 OKAJIMA 会長の名前入りの橋を建てることで、地元の人たちはその「恩返し」をしっかりと受け止めてくれました。

これから毎日この橋を渡る Ben Tre の 人たち一人・一人のこころに、「日本人が架けた橋」への厚い感謝の気持ちが刻まれてゆくことだろうと思います。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 『テト』はわたしにとって特別なもの ■

私は 2010年9月にベトナムに来ましたが、5ヶ月後にやって来るベトナムの 『テト(旧正月)』 について、ベトナムの人たちからいろいろ質問されました。アメリカにもお祭りはいろいろありますが、ベトナムの『テト』に匹敵するようなお祭りはありません。

アメリカの会社とかお店は、クリスマスの時や、カトリック教のお祭りなどの時に、二・三日間ぐらい休みます。その他、 Martin Luther King 牧師の誕生日には、学校とか、政府関係のオフィスとかは休みになります。

しかし、ここベトナムの『テト』のようなお祭りはありません。そういえば最近私は、英語の雑誌にベトナムの『テト』と、クリスマスと、太陽暦のお正月を比較した記事を読んだことを思い出しました。

アメリカにいる私の友人たちは、ベトナムの『テト』を理解しにくいのですが、 1968年の <テト攻勢> は、ベトナム戦争の分岐点になった有名な出来事なので、そのことを通して『テト』という言葉は、多くのアメリカ人に知られています。

私からベトナムでの『テト』の様子を聞いたアメリカの友人たちは、みんな誰もが「それは羨ましい!」という反応をします。そもそも、アメリカでのお正月は、ベトナムの『テト』のように長くは休みません。

12月のクリスマス前ころから、ホーチミン市内の中心部 Dong Khoi(ドン コイ) 通りは、街路樹にイルミネーションを飾り付けてゆき、夜になりますと幻想的な光景が現れてきます。多くの店の前には、『テト』の代表的な花である黄色い HoaMai(ホア マーイ) が飾ってあります。大きな店でも、小さな店でも、レストランでも、喫茶店でも、店の中に花を飾って、新年を迎える準備をします。

私の近所でも、家の中をきれいに整理したり、大掃除したり、ドアや窓などをペンキで新しく塗り直します。『テト』に間に合うようにと、朝 7時頃から夜の10時近くまで鉄筋か何かを切る音や、電気ドリルの音などの喧しい音が聞こえてきます。

『テト』が近づいて来ると、街全体の雰囲気がウキウキして来ますが、私が受け持っている生徒たちも、普通の日と比べると授業にあまり身が入らなくなります。もうすぐ長いお休みがやって来るということが分かるからでしょう。

子どもたちには新しい服を買ってあげたり、 Banh Chung(バイン チュン) と言われるお餅が至るところで売られています。今年は 「辰年」 なのですが、「辰年」に生まれる子どもたちは「成功する」「お金持ちになる」という言い伝えがあり、多くの夫婦が『テト(1月 23日)』の後に子どもが生まれるようにと願っています。

『テト』が終われば、またこの街は普通の生活に戻ると思います。しかし『テト』の間は、気持ちも新しく感じて、誰もが希望に燃えて新年を迎えているような感じを受けます。ホーチミン市の忙しい、うるさい生活が一時休まります。子どもたちは、『テト』を前にしてもらった新しいオモチャで楽しそうに遊んでいる光景を見ます。

私の母国のお正月には、このような感じがありませんので、今の私にとってベトナムの『テト』は、特別な感じがしています。

新しい風俗や習慣に興味があり、その中で過ごすのが好きな私は、今年もベトナムで『テト』を迎えようとしている時、ベトナムの人たちと同じように『テト』の準備をするのが大好きです。今年、私はベトナムで過ごす『テト』を前にして、ベトナムの人たちの『テト』に対する感じ方が、以前よりも良く分かるような気がして来ました。

予定では、私は四日間 Phu Quoc(フー クォック)島 へ行って来て、またホーチミン市に戻ってから、残りの『テト』の休日を楽しみます。ベトナムの人々が、「テトの間ホーチミン市はすごく静かな町になるんですよ。」と言うのですが、それが本当なのかどうか、それともオーバーに言っているのか、今から大変楽しみです。

みなさんも、楽しい『テト』を過ごしてください。もしみなさんが私と同じ場所に行ったら、 Phu Quoc島のビーチに横になっている私を見かけても、私は静かな時間と雰囲気を楽しみたいのでそっと一人にしておいて下さいね。

MICHAEL TATARSKI(今ホーチミン市在住の、アメリカ人の英語の先生)

◆ 解説 ◆

ベトナムで迎える『テト』は、私にとって今年で 15回目になりました。そして今ベトナムの人たちと同じように、普通にベトナムの『テト』を過ごしています。しかし、 MICHAEL さんが述べられているように、 <外国人としての目> でベトナムの『テト』を観察した時に、私もベトナムの『テト』を今、 [特別なもの] として、感じています。

今年の『テト』も、私はそのほとんどをサイゴンで過ごしました。『テト』前の恒例の花市にも何回も足を運び、 大晦日 (太陽暦で1月22日)には女房の実家の屋上で花火を見上げ、『テト』当日と二日目までは実家に家族全員が集まって、ベトナムの『テト料理』を食べ、また今年も初詣にはヒンズー教の寺院に行ってお参りをするという、いつものお決まりのパターンです。

昨年の『テト』は、サイゴンから日帰りでカンザーに行きました。今年もまた行こうかな〜と考えていましたが、レンタカー会社に申し込むのが遅く、全て車は出払っていて無理だということになり、 (今年はどこにも出かけずに、サイゴンで過ごすか・・・。まあ、それもいいか。)と、考えていました。

しかし突然、 1月26日にBen Tre行きが決まりました。決まったのが二日前でした。女房の弟の奥さんの実家がBen Treで、彼女の父親が70歳の「古希のお祝い」をするので、急遽「よし、みんなで行こう!」と決まったのでした。日本だと、そういうのは早い段階から事前に分かっているのが普通でしょうが、こういうところがいかにもベトナムらしくて、面白いですね。女房の実家の家族のうち、全部で七人で行きました。

1月20日も 「橋の落成式」 でBen Treに行き、そしてまた26日にも行きましたので、今年は『テト』をはさんで、一週間に二回もBen Treに行ったことになります。行った場所の名前も同じく、Thanh Phu郡でした。当日のレンタカーも調達が難しく、やむなくタクシーで行くことにしました。そして何と、朝の5時にサイゴンを出て、Ben Treには7時過ぎに着きました。

しかしあまり大した期待はしないで行った、 「 Ben Treで過ごすテトの一日」 だったのですが、観光旅行で通り過ぎて行くのとは違い、サイゴンの家族と繋がっている人たちの田舎での生活をじっくりと観察出来て、大いに勉強になりました。「橋の落成式」で Ben Treに行った時にはまだ見えて来なかった部分が、この 「Ben Treで過ごしたテトの一日」 で少し見えて来ました。

当日の宴会には、入れ替わり立ち代りで百人ほどのお客さんたちが来ました。ここでは<焼酎攻撃>はなく、ビールでみんな乾杯をしていました。典型的な田舎の家ですので、敷地も相当に広く、そこには椰子の木が数多く植えられていました。

その椰子の木の横には、細いクリークが並行して幾つも掘られています。そのクリークの水は外の川と繋がっています。これはバナナ園も同じなのですが、乾季に水遣りの手間が要らないので、そういう工夫をしているのです。

Ben Treはココナッツが特産品で、それを利用した飴やお菓子類やスプーンや箸や茶器などの加工品などがいろいろあります。Ben Tre省に入ると、それらを販売しているお土産屋さんが道路沿いにズラーッと並んでいます。

ベトナムの中でもココナッツが有名な特産品になっているのは、南では Ben Treですが、中部にもあと一ヶ所あるそうです。椰子の木は、どこに植えても良いココナッツが採れるというわけでもなく、南部でBen Treが有名なのは、その土壌が多いに関係していると、あのL社長は私に言っていました。

「古希の祝い」のおじいさんの息子さんと同席して、食べて、飲んでいろいろ話を聞きました。そして改めて、 “メコンデルタがもたらす豊穣さ” について、 (うーん・・・)と唸らざるを得ませんでした。

この家にはその広い敷地内に、約 200本の椰子の木が立っています。そして水田もこの近くに持っています。ここでは、米は一年に二回収穫しているそうです。家の裏には、魚を飼っている二十畳ほどの池もありました。その中には、大きい魚が何匹も泳いでいました。鶏やアヒルがたくさん放し飼いにしてありました。

その息子さんが言うには、ここの敷地内に生えている椰子の木に実を付けているココナッツは毎月収穫出来て、それを買い取る業者が収穫してくれるそうで、自分たちが木に登る必要はないというのです。そしてそのココナッツを売って得られる収入だけで、毎月三百万ドン〜五百万ドン (約11,000円〜約18,500円)あるというのでした。

それを聞いて驚きました。サイゴン市内で働いている工員さんの給料が、毎月約二百万ドンくらいだといいますから、それをはるかに超えています。しかも椰子の木に肥料は年に一・二回くらいしかやらず、消毒も要らないというのです。要は放ったらかしにしていても、毎月それだけの収入もたらしてくれるのです。

それを聞いた時に、昔聞いたあの有名な話を思い出してしまいました。先進国から南方に観光に来た旅行者が、椰子の木の下でハンモックに揺られて日がな一日寝ている男に、 「何でもっと真面目に働かないのだ!」 と、説教したというあの笑い話です。あれはもしかしたら、 (ベトナムの、このBen Treの話ではないのか・・・)と、思ったりもしました。

男:「真面目に働くとどうなるのだ?」

旅行者:「将来、ゆっくりと毎日を過ごせるじゃないか。」

男:「何だ、そうか。今すでにそうしているじゃないか。」

と言って、またそのままハンモックに揺られて、眠り続けたのだった。

あれは笑い話として聞いていましたが、ここ Ben Treの息子さんの家では、まさしく毎日椰子の木の下にハンモックを吊って寝ていても、自然と椰子の実が熟して、工員さんの給与をはるかに上回る、それだけの収入が毎月あるのです。米も自分の田んぼで獲れるし、贅沢さえしなければ十分に普通の生活レベルは過ごせます。無理して会社勤めをする必要もないでしょう。

私の娘はここの家族全員が料理の準備をしている間に、裏の池で魚釣りをしていました。餌は小エビの生きたままを半分にむしって、針に付けました。時間つぶしに、ただの遊びで釣りをしていただけですが、何と釣り糸を垂れてものの十分もしないうちに、大きなフナのような魚が釣れたのです。目方は量りませんでしたが、どう見ても三キロ以上はありそうな大きさでした。これには驚きました。娘も大喜びしています。

これに味を占めて、また釣り竿を池に伸ばしました。すると今度も十分くらいで、またまた同じ大きさの魚が釣れました。これもまた大きいものでした。結局わずか一時間足らずの間に、娘一人で五匹の大きい魚を釣り上げたのでした。中には、胴体の色がピンク色をした Ca Dieu Hong(カー ディユ ホン) という魚もありました。これはレストランでも、「魚の鍋」で頼むとこの魚がよく出てきます。

わずかな時間で、五匹もの大きいお魚さんを釣り上げた娘は、もう本当に喜んでいました。そしてその五匹の魚全部を、おじいさんが娘への 「 Ben Tre土産」 として、ビニール袋に入れてプレゼントしてくれました。

サイゴンに帰った翌日は、女房の家族全員が実家に集まって、この五匹の魚を料理して、「魚の鍋」にして美味しく頂きました。娘はその魚を食べながら、目を輝かせて「来年もまた絶対 Ben Treに行こうね!」と嬉しそうにみんなに話していました。

今年 「 Ben Treで過ごしたテトの一日」 は、豊かな自然に恵まれたメコンデルタの生活をじっくりと垣間見ることが出来て、私にとっても、娘にとっても、 “大きな収穫” がありました。



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