アオザイ通信
【2012年3月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<カンザーでカヤック>

今年で三回目のベトナム訪問となる、大阪の P 大学 の生徒さんたち 20 名が二月末にサイゴンに到着しました。中には、 2 年前にも参加していた生徒さんが 6 人いました。久しぶりの再会を私も喜びました。

今回のベトナム滞在中は、 「クチトンネル」「カン トー」「ミー トー」「 Saint Vinh Son 小学校」 などを訪問されましたが、ベトナムに来たら必ず実施しているのが、 『カンザーでのマングローブ植林』 です。それを受けて、私が 『カンザー森林保全局』 と連絡を取り、準備・手配をしていました。

その手配をしている時に、森林保全局の局長から「今年のテト明けから、新しいプログラムを採り入れたので、大学生のみなさんたちにも挑戦してもらいたい。それをやりたいかどうか聞いてみてくれないか。」と打診を受けました。 ( 新しいプログラムとは一体何なのだろう・・・ ) と思いながら、送られて来たメールを見ました。そのメールには、写真が二枚添付されていました。

それは長細いボートに二人分の座席があり、一本のオールを両手に持って漕ぐ <カヤック> でした。その写真を見た時に、マングローブの森が背後に茂る海辺近くで、楽しそうにカヤックを漕いでいる人たちの様子が伝わって来ました。カヤックに乗る人たちは、全員が救命胴衣を着けているので、安全性も確保されているようでした。

「これだったら大学生にも勧められるな。」と思い、引率責任者の KT さんに確認しますと、「 OK です。」との返事をもらいましたので、急遽 「植林プログラム」 に加えて、この 「カヤックの体験プログラム」 も取り入れて、カンザーでの活動内容が決まりました。「カヤックの体験プログラム」は、値段もさほど高いものではありませんでした。

そして、 3 月 2 日にカンザーに行くことになりました。カンザーへの移動は朝 8 時からの予定でしたが、フロントに大学生たちが下りて来たのが 8 時で、それからホテル側に大きなトランクの荷物を預けたりしているうちに、結局ホテルを出たのは 8 時半を過ぎていました。 KT さんは、「今年参加した学生たちは、本当に手が掛かるんですよ。」と、私にポロリと言われました。

ホテルを出発して早々に、その言葉が事実であることを、私自身が体験しました。バスがホテルを出てから 15 分くらいして、7区の Phu My Hung( フー ミー フン ) という所に来た時のことです。

私のすぐ後ろの席に座っていた女子大生が、今思い出したかのように、「ああー、いけない。ワタシ、大変大事な物を部屋の金庫の中に置き忘れて来ちゃったー!」と、何ともノンビリとした口調で叫んだのでした。

隣に座った生徒が「大事な物って何よ?」と尋ねますと、「ワタシの財布に、全部お金を入れていたのをそのままと、同じ部屋の友達から預かって、二つの封筒に入れていたお金をそのまま全部、部屋の金庫の中に入れて出て来ちゃった。全部で 10 万円以上はあると思うわ。」と言うのでした。

それを聞いた友達はもちろん、後ろで聞いていたみんなも「えぇーっ!」と叫んでいました。引率責任者の KT さんは、口をアングリ空けたような表情をされていました。彼女のすぐ前の席にいた私は、それを聞いて頭の中が一瞬真っ白になりました。

(何ということだ!今からまたホテルには引き返せないし、金庫に置き忘れたお金は、残念ながら戻って来ないかもしれないな・・・。)と覚悟しました。その大学生は途方に暮れたような表情をしています。異国に来て言葉も出来ず、為す術がないという感じです。しかしチャッカリしたもので、ホテルの名刺はもらっていました。

それで車の中から、その名刺にあるホテルの番号に私が電話を掛けました。フロントの男性が出たので、彼女が泊まっていた部屋番号を伝え、「これこれしかじかで、財布と現金を部屋の金庫の中に置き忘れて出て来てしまった。今からすぐに調べに行って見てくれ。」と言いますと、「分かった。今から見に行く。」と言って、一旦電話を切りました。

いつもはホテルを出て大体 20 〜 30 分したら、私はカンザーについての説明をし始めるのですが、これが解決するまでは、本人はもちろん回りの友人たちも「心ここに在らず」の状態で、話しても聞く余裕はなかろうと思い、敢えて説明しませんでした。

そして、 15 分くらいしてホテルにまた電話しました。先ほど電話に出たフロントの男性が出ました。結果を聞きますと、「有りましたよ。」と言うではありませんか。それを伝え聞いた本人の大学生はもちろんホッとして、友人たちも大喜びしています。

「いつ取りに来るのか。」とフロントの男性が聞きますので、「今日はカンザーに行き、そこで泊まる。サイゴンには戻らない。そして明日の午後またサイゴンに戻るので、責任を持ってそのまま預かっておいてくれ。」と念を押しました。しかし、私自身はそのフロントの男性が言った言葉を聞いても、まだ安心はしていませんでした。翌日実際目の前に、その財布と現金が手元に戻って初めて、 ( ああ〜、良かった ) と安心出来るのですから。

大体こういうケースでは、「見に行ったけど、そんな物は無かったぞ。」と言われても文句は言えないここベトナムなのですが、ホテルのスタッフが、「有りました。」と言ってくれたのは奇跡的なくらいに幸運な出来事でした。もし翌日サイゴンに帰って来て、そのまま本人の手元にお金が戻れば、このホテルは大変信用度が高いホテルといえます。

しかし、お金を金庫に忘れたその本人は私が伝えたその言葉を聞いて、こころから安心したような表情でした。カンザーに行く前に、何ともハラハラした体験をしただけに、彼女はカンザーでの一泊二日の行事に、積極的に参加してくれることでしょう。

そして予定よりも 30 分ほど遅れて、 Nha Be( ニャー ベー ) フェリー 乗り場まで着きました。この日はフェリーに乗る車やバスが多く、私たちが乗って来たマイクロ・バスは、次のフェリーになりましたので、ここでもまた 30 分待つことになりました。

フェリーを降りて、 Binh Khanh( ビン カーン ) から車が走り出してしばらくして、道路の光景を見て私は目を見張りました。昨年の 8 月にわが社・ティエラの 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』 が来た時には、すでに道路の舗装は完成していました。今は広くて、立派な道路が出来ています。

しかし昨年の夏には無かったものが出来ていました。道路中央にある分離帯の中に様々な色の ブーゲンビリア が、 2 〜 3 m間隔で、ずらーっと植えられていたのです。その高さや大きさなどから、最近植えられたのだなーというのは分かりました。そしてこのブーゲンビリアは、何とそこから 30 km以上はある Can Gio Resort Hotel までずーっと続いていたのでした。

まだ植えてさほど経っていないのですが、この時にすでに、そのブーゲンビリアはいろいろな色の花を咲かせていましたので、これから 5 年・ 10 年と経てばさぞ見事な景観を提供し、観光客の目を楽しませてくれるだろうなーと思いました。

そして 11 時前に、我々は「カンザー森林保全局」に到着しました。そしてこれまた驚きました。今まであった建物の半分以上が取り壊されていたのでした。局長の話では、「新しい建物を造る」ということでしたが、建物の床面積が広いだけに、相当な経費が掛かるだろうなーとは想像出来ました。

今日の P 大学の生徒さんたちの最初のスケジュールでは、着いてすぐにパワー・ポイントを使った 「カンザーの歴史」「カンザーのマングローブ林」「カンザーの特産物」 などについての説明をする予定でした。しかし、到着が遅くなったので、炎天下の外での活動を避けるために、午後に予定していた「カヤックの体験プログラム」を先に行うことにしました。

「どこでカヤックに乗るのだろうか。」と思いましたら、「森林保全局」の裏手にある道を 10 分ほど歩いて行くと、新しく出来た船着場のような建造物がありました。これは初めて見ました。そして船着場には、今日これからみんなが体験する<期待のカヤック>が、 10 数艘繋がれていました。船体の色は、黄色や白や赤やブルーなど、いろいろな色がありました。

一つのカヤックには二人が座れる席がありました。オールは長さが 2 m近くあり、重さも結構ありました。最初に、ベトナム人の指導官と、日本人の男子学生が一人乗り、ベトナム人の指導官が右や左への進み方、後退の仕方を簡単に教えました。そして次々と、一人が一本のオールを持ち、広い入り江に向かって漕ぎ出しました。

指導官の KT さんも含めて、全員がカヤックに乗りこんで、みんながオールを手に持 って漕いで行きました。私はベトナム人のスタッフとともに、エンジン付きのボートに乗って、波や風で遠くに流されてゆくカヤックがあれば、入り江に引き戻すために日本語で注意して欲しいというので、その役目を引き受けました。

しかし、何せみんなが初めてのカヤック体験ですので、最初はどうやって漕いだら右や左に進むのかが分からずに、風向きや潮流の流れのままにグループから離脱してゆきます。

そのようなカヤックに対して、私が拡声器を使って日本語で、「そちらに流されてはいけません。こちらに引き返して下さい!」と叫んで、自分が漕いでいるカヤックが、みんなのグループから離れつつあることを知らせないといけません。そのまま放置していたら、海のほうまで流されてしまうからです。

あまりに離れすぎたカヤックがあれば、エンジン付きのボートで追いかけて、カヤックに結んである綱を引っ張って、みんながいる区域まで連れ戻します。中には自力で漕いで、好んでグループから離れようとする、一人旅が好きなカヤックもありましたので、それもまた連れ戻します。

カヤックに乗ってすぐの段階では、どうオールを動かせば左右に進むかも分からない大学生たちでしたが、さすが若いだけに 30 分も過ぎた頃にはそのコツをつかんだようで、スイスイとカヤックを漕げるようになりました。一旦コツを覚えた後では、大学生たちのあるグループは競争したりして、実に楽しそうに遊んでいました。私も一緒に参加したかったほどです。

後で KT さんに聞きましたが、左右に進みたい時には一艘のカヤックに乗り込んだ二人が、同時に体を左に傾けると左に進み、右に傾けると右に進むそうです。このコツを覚えると、水上に浮かんだカヤックを自由自在に操れるようになるそうです。そうであれば、「どんなに楽しいことだろうか」と想像しました。

約一時間近くのカヤック体験を楽しんだ後に、すぐ昼食に行きました。そして昼食後に、大きな会議室に入り、パワー・ポイントによる「カンザーについての講義」を受けました。この会議室もまた新築されたもので、百名近くは収容できそうな広さでした。

そしてそれが 2 時前頃に終わり、マイクロ・バスに乗って、いよいよマングローブの植林に向かいました。植林場所は、昨年の夏に『ベトナムマングローブ子ども親善大使』が植えた区域と同じ場所にありました。それで、昨年生徒たちが植えたマングローブの活着状況、生育状況を私自身の目でじかに確かめることが出来ました。

植えて約半年を過ぎたその結果は、 99 %が活着して、新しい葉を伸ばしていました。嬉しかったですねー。この区域は面積が相当広いので、ベトナムにある日本の企業や、ベトナムの小学生たちも、ここで植えていました。中には一本・一本の木に自分の名札を付けたマングローブもありました。

この区域は土地が少し高い場所にあるし、今は雨の降らない乾季でもあるので、マングローブの胎生種子を直接地面に挿す方法ではなく、「森林保全局」があらかじめ種子から発芽させたのをポット苗に入れておき、根が張っていて、ある程度の大きさまで育てたのをこの場所に持ち込みました。

そしてその苗はどこで育てているのかが、以前からの私の関心事でしたが、実はカヤックの体験をする時に通って行った道の両側に、その苗床がずらっーと並んでいたのでした。そこには様々な種類のマングローブの苗が、ポットの中で育っていました。

苗が並べてある場所には、上から網目の黒い覆いが掛けてありました。強い直射日光から守るためでしょう。苗床の中で大きく成長しているマングローブを見ていますと、 ( 乾季のような今の時期には、毎日水遣りをしているのだろうなー ) とは想像出来ました。

事前に私は「森林保全局」側に、「一人が 10 本の植林をするので、その計算で全員の人数分を準備しておいて下さい。」と頼んでいました。ですから、ここに持ち込んだのは 200 本を超えていました。大学生の身長と同じ高さまで育っているのもありました。「森林保全局」の職員たちが、いつ誰が植林に来ても良いように、事前に種から育成した苗を準備してくれていたのでした。

その「森林保全局」の人たちが準備してくれていた苗を、みんな一人・一人両手に持って植林場所まで運んで行きました。「森林保全局」の局長は全員ぶんのスコップを肩に担いで行きました。そしてここで、その局長自らが、苗の植え方を直接指導してくれました。この日に植えたマングローブの苗は、 Lumnitzera( ルムニッツェラ ) という名前の種類のマングローブでした。

「隣の苗との間隔が一mくらいの場所に、スコップで穴を掘ります。スコップで縦・横 30 cm、深さ 40 cmくらいの穴を掘って下さい。苗を穴に入れる時には、ビニールのポットを取ること。そして、苗を真っ直ぐに立てて、穴に入れた苗の根元の土を足で踏み固めて下さい。」

そしていよいよ、大学生たち自身の手による、カンザーでのマングローブ植林が始まりました。時間は 2 時半を過ぎていましたので、野外の陽射しが段々と厳しくなって来ました。生徒さんたちは年齢が若いだけに、みんな元気なものです。

しかし私から見て、農業体験があまりない若者たちが多いのか、スコップの使い方が上手ではなく、手の力だけで穴を掘ろうとしています。案の定、穴を掘って 2 ・ 3 本の苗を入れた段階で、くたびれて手を休めている生徒が出始めました。

それで私が、スコップの使い方を説明します。「手だけでスコップを使うとしんどいので、こうしてスコップに足を上から乗せて、足の力で掘るんだよ。」と、説明しますと、みんな ( へえ〜、そんなものか ) という表情をしています。

しかし 6 本目くらいを植えたころから、暑い炎天下での作業ということもあり、だんだんと掘るスピードが遅くなって来ました。 KT さんが彼らを励まします。「二年に一度しかない貴重な体験を今しているのだぞ。そして、ベトナムの人たちが準備してくれた苗だ。ここまで苦労して持ち込んだ苗を、最後まで全部植え切ろう。」

そして持ち込んだ 200 本を超える苗は、一時間半ほど掛けてすべて植え終わりました。みんな疲れた表情はしていましたが、やはり嬉しそうでした。最後に、「マングローブ植林終了」の記念撮影をして、「森林保全局」が作成してくれた 「植林記念証明書」 を、局長から頂き、私がローマ字で書いてある生徒の名前を読み上げながら、一人・一人に手渡しました。

今日一日の活動のメイン行事である「マングローブ植林」が終わり、我々はこの日泊まる予定の、 Can Gio Resort Hotel までバスに乗って行きました。そしてホテルに着いてすぐ、このホテルにはプールがあると聞いた一人の男子学生が、フロント前に荷物を置くやいなや、シャツもズボンも手早く脱いで、パンツ一枚でプールに向かってダッシュしてゆき、そのままプールの中に飛び込みました。

あまりの暑さに耐えかねて、よっぽどプールに飛び込みたかったのでしょう。 ( まだ受付も終わっていないのに・・・ ) と思いながら、 KT さんも私も、叱る気力も失せて、笑うしかありません。

そして夕食は、いつものあの 「カンザー・レストラン」 に行くことにしました。この日は残念ながら、いつもの店長はサイゴンに出かけていて、会うことが出来ませんでした。しかし何と、たまたまその娘さんが帰って来ていましたので、私はひさしぶりの再会を喜びました。娘さんは今、サイゴン市内で日本人にベトナム語を教えています。

そのレストランには二時間ほどいて、またホテルに戻りましたが、みんなはそれからホテルの横で開いている喫茶店で、夜の 11 時すぎくらいまで盛り上がっていました。この場には、今日一日車を運転してくれていたベトナム人の運転手も呼びましたら、大変喜んでいました。

そして翌日の午前中は、カンザー博物館の中にある 「猿の島」 コースを体験しました。そしてここに入るための切符を買うために、門の入り口で切符を購入しましたが、入場料が3万5千ドン ( 約 137 円 ) になっていました。昨年の夏は 3 万ドン ( 約 117 円 ) でした。

そしてみんな全員が強い興味を示したのが、ワニ釣り体験です。一回1万 5 千ドン ( 約 58 円 ) でワニ釣りが出来る遊びがあります。これには 10 人以上が次々と「やりたいです!」と言って、自分でお金を払って申し込んでいました。お金を払うと、釣り針に通されたウナギの半身と、一本の釣竿が渡されます。ワニ一匹を釣り上げることは出来ません。その餌のウナギが、ワニさんに取られて無くなるまではゲームが続けられます。

釣竿にぶら下げたウナギを、ワニさんの鼻の先に近づけますと、周りにいる数匹のワニさんが大きな口を開けて、それに飛び掛ろうとします。その飛び掛る寸前に餌をすぐ上に上げます。ワニさんは池の中でさぞ怒っていることでしょう。しかし時間にして 30 分くらい、回数にして 4 ・ 5 回これを繰り返すと、ワニさんにすべて取られてしまいました。まあそれくらいの時間を楽しめれば、みんな満足という表情でした。

そしてこの後すぐに 「ゲリラの基地探訪」 に行くために、ボートを四艘申し込みましたが、この日のボート一艘の値段は、何と 50 万ドン ( 約 1,960 円 ) に値上がりしていました。これも、昨年の夏は一艘が 40 万ドン ( 約 1,570 円 ) でしたから大変な値上がりです。

しかしこのボート・トリップによる「ゲリラの基地探訪」は、彼らにとって毎年行ける体験でもないし、全員をボートに乗せて「ゲリラの基地」を見せたい、というのがKTさんの希望でした。

それで、四艘のボートをお願いしました。この日はベトナム人の観光客が多くて、さほど多くない数のボートが出払っていましたので、少し待たないといけないくらいでした。「ゲリラの基地」に着いて最初に見るビデオの部屋は、ベトナム人の観光客でいっぱいで、ビデオを観ることが出来ませんでした。

そしてこの「ゲリラの基地」訪問を終えて、バスに乗り込んだのはちょうど 11 時でした。それで KT さんに、「ここで昼食を摂ってからサイゴンに向かうよりも、このまま一気にサイゴンに戻り、食事はサイゴンで摂られたほうがいいでしょう。」と言いますと、「そうしましょう!」という返事でしたので、私たちはお昼ごはんを食べないでサイゴンを目指すことにしました。

そしてサイゴンに帰りながら、道路の中央の分離帯にブーゲンビリアの花が咲いているのをまた眺めていましたら、 15 年前に 【マングローブ植林行動計画】 の浅野さんと、このカンザーの道路を最初に二人で、 50cc のホンダのスーパー・カブに乗って走った時のことを思い出しました。

あの時はまだ道路も舗装がされていなくて、道幅も狭く ( 現在の約 4 分の 1) 、乾季の時にバイクですれ違ったり、向こうから車が来て通り過ぎる時などは、モウモウとした砂ボコリが舞い上がり、その中を走り抜けて行ってバイクから降りると、髪の毛から鼻の穴までホコリで真っ茶色になっていました。

これに懲りて、その後カンザーに行く時には、日本で購入した<防塵マスク>と<防塵メガネ>を着けて行くようにしました。その<防塵マスク>は鼻の部分が飛び出ていて、ちょうど豚さんの鼻のような形でしたので、通り過ぎるベトナムの人たちは大笑いしていました。しかし、市販の布製のマスクではああいう細かいホコリを防げませんので、ベトナム人から笑われようが、ずっとそれを着用していました。

それが今はどうでしょうか。バイクや車が通り過ぎても、ホコリは全然舞い上がらないし、速いスピードで車も走ることが出来るし、一時間半もあればサイゴンからカンザーのビーチまでは着きます。

さらにまた、フェリーを降りた場所から Can Gio Resort Hotel の入り口に到るまでの距離には、今はきれいなブーゲンビリアの花が植えてあり、隔世の感があります。切符やボートの値上げもありましたが、ここまでカンザーが大きく変貌してゆくとは思いませんでした。

そして 12 時半ころサイゴンに戻ることが出来ました。カンザーの「猿の島」を出てから、ちょうど一時間半ほどくらいでした。ホテルに着いてすぐフロントまで行き、「昨日電話で話した者だが、日本の大学生が自分の部屋の金庫に現金を置き忘れてホテルを出てしまった。そして今帰って来た。金庫の中のお金は預かってありますか。」と聞きました。

するとフロントにいた女性は、「聞いていましたよ。」というような表情でうなずき、すぐに「ありますよ。」と言ってくれました。それを聞いた私は大いに安心し、置き忘れた本人たちは、もちろん大喜びをしています。しかしまだ現物をこの目で確認していません。その受付の女性が、受付のテーブルの下に保管していた、茶色の封筒を取り出しました。それを渡してくれました。

そしてその中身を本人に確認させて、間違いがない場合は、「ここにサインをしてくれ。」と言ってペンを渡しました。本人たちにそれを渡し、茶色の袋を開けて、自分が入れたはずのお金が、キチンとあるかどうか調べさせました。すると、金庫に財布を忘れた本人が、「大丈夫です!」と叫びました。他の二人も、封筒に入れていた現金を確認しました。

これもまた「全部有りました!大丈夫です。」と言ってくれたので、 ( ああ〜、良かったー ) と、ホッとしました。しかし、このホテルはさほど大きいホテルでも、有名なホテルでもないのですが、大いに信用がおけるホテルだなーと思いました。

P大学のベトナムでの活動は一週間ほどでした。翌日は 「日本語会話クラブ」 にも全員が参加して、ベトナム人大学生たちとの交流を深めてくれました。この日は全部で 60 名近くのベトナムの若者たちが来てくれていました。そしてクラブの終了後には、ベトナム人の大学生たちと、カラオケにも一緒に行ったということでした。私はP大学の大学生さんたちとはここで別れました。

私との別れ際、「カンザーでのカヤック体験は大変面白く、マングローブ植林は印象的な体験でした。また次回もベトナムに来させて頂きます!」と、ある一人の学生さんが言ってくれました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 3.11からの復興を願う ■

春休みが2月から始まりました。その時 Peace Boat というボランティア団体と一緒に、 Ishinomaki という所にリュックを背負って行こうと、私も決心しました。そこは昨年の地震と津波による影響と被害が一番大きかった所でした。

私もそのような活動には関心がありましたので、ボランティアの人たちの呼びかけに応えて、それに参加することにしました。そして結果として、大変な被害に遭った人たち自身から、温かいこころと、励ましの気持ちを頂いたのでした。

私たちが津波で室内に流れ込んだ汚泥を除く作業をしていた時のことでした。昼食で配られたお弁当の中に、豆腐が 2 ・ 3 片入っていたのです。それは、「豆腐工場」の社長さんが、「ボランティアの人たちが、熱心に汚泥を片付ける作業をしてくれたから。」と言って、お礼としてお弁当の中に入れて、プレゼントしてくれたものでした。

「もしあなたたちがここに来て熱心に手伝ってくれなかったら、自分たちだけではとても手が足りず、機械は大きな被害を受けて故障したままだし、どうしようもない状態でした。あの状態がずっと続いていたら、私はおそらく自殺していたでしょう。本当に有難う。」と、その社長さんは繰り返し、感謝の言葉を述べられていました。

私自身にも忘れられない思い出があります。 Ogatsu で漁業をしている夫婦の家の片付けに行った時のことです。寒い日に、畑の中に散乱したガレキを片付けて、荒れた土地に囲いを作って、ジャガイモを植える作業を手伝いました。そしてそれが終わり、その農家の人から、「本当に何も差し上げられなくて・・・」という言葉とともに、海草の入った温かく、美味しいスープと、缶の熱いお茶を頂いたのでした。

さらにまたこんなこともありました。私たちのグループには、「地球の裏側から」というくらいに遠い国からやって来て、このボランティアの活動に参加していた Michael がいました。彼は、自分の国では IT の技師をしていて、この Ishinomaki で 2 ヶ月間ボランティア活動をしていました。

真珠貝の養殖業をしていたおばあさんで、 Fumi という人がその Michael の手を強く握り締めて、

「津波は悲惨な、辛い出来事でした。津波が来なかったら、私は死ぬまでこの小さな村に何事もなく住んで生活していて、あなたのような外国の方と会うことはなかったことでしょう。」

「世界中のいろんな国から、あなたたちのように親切な人たちが私たちの村にやって来てくれて、いろいろな手伝いをしてくれて、私たちを助けてくれています。津波は不幸な出来事でしたが、親切な皆さん方とこのようにして知り合うことが出来ました。」

と話してくれたのでした。この Fumi おばあさんの養殖業も、大きな被害を受けていました。

それを聞いていた私は、鼻の奥がツーンとなり、もう少しで泣きそうになりました。最初私が Ishinomaki に行こうと思った時、「この地区の人たちを手伝おう、助けよう!」と思いました。でもここの人たちから反対に、 <愛情とこころの優しさ> を頂きました。

7 日間ボランティア活動をした Ishinomaki の人たちと、別れの挨拶をしてバスに乗り込んで、座席に座りました。その時、夕陽に沈む太陽を見た時、屋根に積もった雪が、その光でキラキラと美しく輝いているのを見ました。

「また出来るだけ早くここに戻って来よう。漁業の夫婦の家の畑に植えたジャガイモが実をつけた頃にまた来て、その収穫のお手伝いをしよう。」 と思いました。

TRUONG NGOC DIEP( 東京・早稲田大学 )

◆ 解説 ◆

一人・一人の記憶の中に、一年前のあの 【 3.11 】が強く、悲しく刻まれていることでしょう。今年の 3 月 11 日を迎えた時に、いろんな人たちが、一年前のあの【 3.11 】に、自分がどこにいて、どういう気持ちを抱いたか、どのような衝撃を受けたかを述べられていました。

私は一年前の【 3.11 】に、このベトナムにいました。そして、あの衝撃的な映像を観たのは、ちょうど授業がひと区切りし、教員室に帰った時でした。ベトナム人の先生たち全員が、 PC の前に集まりワーワー騒いでいました。 ( 何をワーワー騒いでいるのだろう・・・ ) くらいに思っていました。

すると、その中の一人が私に向かい、「今さっき日本で大変な地震が起こって、大きな津波が起きていますよ。」と言うのでした。「地震は、日本ではよくあることです。」と言い、 5 ・ 6 年前にサイゴンで起きた、軽い地震の時の場面を思い出しました。

あの時は、日本人にとっては問題ないくらいの震度だったのですが、普段めったに地震を経験したことがないベトナムの人には、大変な恐怖心を感じたようで、大きなビルから、大勢の人たちが市内の道路上に飛び出していました。

私たち日本人はその時、喫茶店でのんびりとコーヒーを飲んでいました。何で大勢の人たちがビルから飛び出して来たのか、その時は分かりませんでしたが、地震が理由だというのは後で知りました。

それで私は彼らが見ているその PC のほうには行かずに、そのまま次の授業の準備に掛かろうとしました。するとまた、「いや、地震だけではなくて、今とんでもない津波が街を呑み込み、畑の中を進んでいるのです。」と言うのでした。

それを聞いて私もようやく、 ( どうも尋常ではないようだな・・・ ) と思い、彼らが観ている PC のほうに近づいて行きました。そしてその映像を観ました。

今までそのような光景は見たことが無かっただけに、最初は何の映像なのか分かりませんでした。上空から撮影した映像には、小さな家や大きなビルが黒い色をしたアメーバーのようなものに呑み込まれ、流されてゆく光景が映っていました。そして次の場面では、大きい橋の下を流れる川の中に、車が次々と流されてゆく光景でした。だんだんと理解出来ました。私も呆然として、息を飲み込んでしまいました。

・・・・

そしてあれから、【もう一年】が経ったわけです。今年の 3 月 11 日には、世界中の新聞に【 3.11 】の特集と追悼記事が掲載されていました。そしてこのベトナムでも、 3 月 11 日にその特集記事が掲載されました。私が目を通したのは、 Tuoi Tre( トゥイ チェー ) Thanh Nien( タン ニエン ) の二紙ですが、この二紙にも大きく載っていました。上の記事は 3 月 11 日に載った記事です。そして Tuoi Tre には、 3 月 12 日の紙面にも、【 3.11 】に関した記事が続いて載っていました。

昨年は日本人の校長の故郷が、陸前高田市ということもあり、その陸前高田市の教育委員会に、研修生が自分たちで作成して、寄せ書きをしてくれた <日の丸の旗> 、と <折り鶴> を手渡ししました。 ( 今年はどんな励ましを贈ろうか ) と考えて、その校長が音頭を取って、「研修生たち全員が参加して、 <人文字> を作ろう」ということになりました。

授業終了後に、 3 日間ほどかけて全員が校庭に出て <人文字> の練習をしました。描く文字は 「ガンバレ 日本」 です。その人文字が完成したのが、 3 月 10 日でした。それをすぐに、陸前高田市のほうにメールで送らせて頂きました。ベトナムでは炎天下の中で汗を流しながらの <人文字> の完成でしたが、東北地方ではこの時まだ寒い中で日々を過ごされていたことでしょう。

あの大震災の後すぐに、世界中から日本そして大震災と津波に遭われた人たちに、多くの義捐金と励ましの言葉、映像、手紙、そして DIEP さんのようなボランティアの方々の支援を頂きました。そのことに多くの日本人、被災者の方々が励まされ、感動しました。

あの【 3.11 】から一年が過ぎた今、遠いベトナムに住む研修生たちが東日本大震災に遭われた人たちに出来ることは限られていますが、それを見た人たちの中で、一人でも二人でも、励まされる人がおられればと思います。



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