春さんのひとりごと
<世界一周をするリョウスケくん>
一月末の土曜日、 <ホーチミン市工科大学> で日本語を教えている女性の先生・ YD さんから私に電話がありました。「夕方は時間がありますか?実は今、 <世界一周> をしている若い男の人と会っているんですよ。」と。
<世界一周!>
と聞いて驚きました。そして約三年前にサイゴンで出会った 「大介くん」 を思い出しました。大介くんもまた<世界一周>の途上にありました。彼が、インドネシア、オーストラリア、シンガポール、カンボジアを経由して、ベトナムに降り立ったのは 2009年の7月中旬でした。
彼を私たちに紹介してくれたのは、 「フォト・ジャーナリストの村山さん」 でした。さらには、大介くんはもともとベトナムには 3 日くらいしか滞在しない予定だったのに、ここで出会った人たちとの交流が楽しくなり、結局 40 日ほどもサイゴンにいました。
YD さんとは少し年齢が下くらいなので、話が合うのか、二人でバイクに乗っていろいろ遊びにも出かけたり、 YD さんが教えている大学にも招かれて 「日本文化紹介」をしたり、大学生たちと一緒にフット・サルをやったりして、サイゴンでの日々を楽しんでいました。そして、夕方にはベンタン市場横の屋台村で食べて、飲んでいました。
その後大介くんはベトナムを出て、カンボジア、タイ、インド、ネパール、イスラエル、トルコ、ロンドンまで訪問しました。彼の外国旅行の一番の目的地は南米だったのですが、一度タイに戻った時に、そのタイでサイフを盗まれて全財産を失くしてしまい、結局 2010 年の3月に日本に帰って行きました。<世界一周の夢>は果たすことが出来ませんでした。まあ、それでも人から見れば、羨ましい経験を積んできたといえるでしょう。
YD さんは夕方予定があるとのことで、その若者と一緒に付き合えないので、私にお願いをされたのでした。私もそういう青年に会うのは単純に、(それは面白い!)と思いましたので、「いいですよ!」と引き受けました。そして夕方頃、バイクで彼が泊まっている安宿街に行きました。そこで初めて彼に会いました。
あの大介くんは顔も体も大きかったのですが、彼はそうではなく、中肉・中背でした。自己紹介は後回しにして、そのまますぐに食事に行くことにしました。行き先は当然、「大介くん」が大いに気に入っていた 「ベンタン屋台村」 です。
我々は席に着いてお互いの自己紹介をしました。そこで彼の名前を初めて聞いて不思議な気がしました。三年以上前に、このベンタン屋台村で会ったのが「大介くん」。彼の名前は「リョウスケくん」。「大介くん」に出会った時、彼は 28 歳。今目の前に座っている「リョウスケくん」は 27 歳でした。名前も「○スケ」は同じだし、年齢も近いし、何かしら奇妙な縁を感じました。
「三年前にも、ここで世界一周をしている若者・大介くんに会い、この店で良く飲んでいたんですよ。」と言いますと、彼も「へぇ〜、そうなんですか!」と強い関心を示していました。そしてこの日には、 IT 会社の社長・ KR さんも後で来られました。 KR さんも「大介くん」のことは良く知っています。
「リョウスケくん」がベトナムに到着するまでの行路をいろいろ聞きました。彼は最初にフィリピンを訪問しました。<世界一周>をするに当たり、「英語力」を身に付けるためです。そこには二ヶ月間ほどいて一旦日本に戻り、そして本格的に<世界一周>の準備に取り掛かり、日本を発ったのが 2012年12月12日 。先ずはタイに行き、次にラオスに入りました。ラオスでは世界遺産の 『ルアン・パパーン』 にも行きました。ここは、訪れた人たちの多くが、 「いいね!」 と言っている場所のようです。
そしてラオスから陸路でベトナム中部の Vinh( ヴィン ) 市 に出て、そこから Hue( フエ ) 、 Da Nang( ダ ナン ) 、 Hoi An( ホイ アン ) へと南に下りて行き、 Hoi An からはバスでサイゴンまで一気にくだり、 24 時間かけて着いたということでした。 YD さんが私に電話をして来られたのは、彼がサイゴン市内の観光を終えて数日後のことでした。
しかし不思議なのは、彼がその YD さんといつ、どこで知り会ったのかということでした。彼に聞けば、二人が初めて出会ったのは、 YD さんが正月休みにタイに旅行していた時のことでした。「リョウスケくん」がタイに滞在中に路上の屋台で食事していた時、同じテーブルの眼の前の席に一人の女性が座っていました。 ( どうも日本人のようだな・・・ ) と思い、話しかけたら、それが彼女でした。
その話を彼から聞いて、 ( 不思議な出会いがあるものだな〜 ) と思いました。もし YD さんと「リョウスケくん」のタイでの出会いが無ければ、今こうして我々がサイゴンで会っていることも無かったはずです。
思えば、私と YD さんとの初めての出会いもまた、 『不思議な出会い』 というべきでした。ある日私たちの食事の席近くに、彼女たちのグループが座っていたことから始まります。私と YD さんが出会ったその日には、たまたま 『日本語能力試験』 があり、私も日本人の 【試験監察員】 として参加したことがありました。今から約四年前のことです。
『日本語能力試験』の終了後には、試験の終了を祝い、事前に「試験が終わったら、みんなで食事にでも行きましょうね!」と生徒たちと約束していました。そして私たちはサイゴン郊外の Thanh Da( タン ダー ) 地区 に、十数名で食事に行くことになりました。
そしてそこでみんなで食事をしていた時に、少し離れた席にも同じ人数くらいのグループが先に着いていて、楽しく食事をしていました。しばらくの間は何の交流もありませんでしたが、生徒の中の一人が「あそこにいるグループの人たちも、私たちと同じように『日本語能力試験』を終えてここに来ているみたいですよ。そんな話をしています。あの中にいる一人の女性は、多分日本人のようですね。」と、私に話しかけて来ました。
( へえ〜、そうなの? ) ぐらいに、私は聞いていましたが、しばらくするとその生徒は隣のグループの席まで近付いてゆき、いろいろ話していました。そして席に戻って来て言うには、「やはりそうでした。みんな日本語を学んでいる大学生たちでした。<ホーチミン市工科大学>で日本語を勉強しているということです。そしてそこで日本語を教えているのが、あの髪を高く結い上げた女性の先生らしいです。」と言うのでした。
そこまで言われたら挨拶しないわけにもいかず、私もそこの席まで歩いて行き、その女性の方に挨拶をし、お互いに名刺交換をしました。その女性が YD さんでした。「どうぞこちらに来て、一緒にみなさんと日本語で交流して下さいませんか。」と言われるので、しばらく YD さんや大学生たちと話しました。
YD さんは私から見て、非常に快活でハキハキした言い方をされる女性でした。「姉御肌」的なところがあり、生徒たちにも 「日本語の先生+お姉さん」 のような物の言い方、接し方をしていました。後に「大介くん」とも出会うのですが、「大介くん」と会った数日後には「大介くん」ではなく、「大介!」「大介は・・・」という言い方をしていましたね。
その「大介くん」を <日本文化紹介> の一つとして、 YD さんはホーチミン工科大学にも招待したことがありました。そして授業終了後には、そこの大学生たちと一緒に夜遅くまで「フット・サル」もしました。彼は運動靴を持っていなかったので、ハダシで走り回っていたそうです。翌日会った時、「足の皮がすりむけてしまいましたよ!」と痛い足をこすりながら笑っていました。私はそれらのことを思い返しながら、ベンタン屋台村で「リョウスケくん」と話をしていました。
そして、「どうしてまた<世界一周>をしたいと思ったのですか。」と私が聞きました。同じ質問は大介くんにもしたことがあります。大介くんはそれに対して、「小学生の時に父親が広げてくれた世界地図を見て、その地図の中の多くの国々をいつか将来訪ねたいな〜・・・という夢が湧いて来た。」と言っていました。
今眼の前に座っている「リョウスケくん」は、同じ質問に対して、「実は、中学生の時に 【沢木耕太郎さん】 の 【深夜特急】 を読んで、大いに興味を惹かれ、自分も同じように世界中を旅したい!と思うようになりました」と答えてくれました。
(はぁ〜、そうでしたか・・・)と私は聞いていました。何故なら私はまだその本は読んでいなかったからです。沢木さんの本で読んだことがあるのは、 『テロルの決算』 だけです。 【深夜特急】 の本の題名は知っていましたが、まだ読んではいませんでしたので、そういう答えしか出来ませんでした。
博識の KR さんは、さすがにその本 【深夜特急】 を読んでおられました。私には「一巻目までは、確かに大変面白かったですよ。」と言われました。「しかし、二巻目からは旅行者の日記のような印象でしたが・・・。」と話されました。私はまだその本自体を読んでいないので、実際にそうなのかどうかは分かりません。
しかし、私も人づてにはその本の知名度は聞いていて、その本の出版後、 「バック パッカー」 たちの間では大変有名になった本らしいというのも知ってはいました。多くの人たちがその本に発奮して、 バック パック 一つを背負い、旅に出たという話も聞きました。しかし、実際にその本の影響を受けて、「あの本に発奮して、<世界一周>の旅に出ています!」と言う青年に目の前で会うのは、彼が初めてのことでした。
ちなみに 【深夜特急】は、沢木さんがまだ 26歳の若い時の旅行記ですが 、「リョウスケくん」と年齢が近いですね。さらには、沢木さんは 50歳を超えてベトナムにも来ておられます。そして、サイゴンからハノイまで国道一号線をバスで旅した時の旅行記を、後に2003年に 『一号線を北上せよ』 として著されています。
私が国道一号線をバスで旅したのは 1997年のことでしたので、残念ながらその時には読めませんでした。しかし、私も沢木さんの本を読んだのは少ないながらも、沢木さんの独特の、歯切れのいい文体を愛する一人です。
「リョウスケくん」は 24歳で 『公認会計士』 の試験に合格して、この<世界一周>の直前まで会社に勤めていました。そこで<世界一周>に向けて着々と資金を貯めていきました。そして三年間そこで働いた後、いよいよ<世界一周>の旅に発ち、我々は今こうしてサイゴンで会っているわけです。
「ご両親は特に反対されませんでしたか。」と聞きますと、「別に何も言わなかったですよ。」と答えました。私も、「心配はされたのでしょうが、 【可愛い子には旅をさせよ!】 の心境だったのでしょうね。」と言いました。双方とも、 「親離れ」「子離れ」 が出来ている家庭なのだろうなーと想像しました。
ベンタン屋台村で私たち三人がいろいろ話していますと、約三年前に出会った大介くんとそのイメージが重なって来ました。まず何よりも若いということ。覇気があること。そして二人とも性格が明るく、人に優しく、爽やかな印象があること。これらの資質は、これから 「リョウスケくん」が 様々な異国を旅する上でも、大いにプラスになるだろうな〜と感じました。
私は、<世界一周>の “夢” を実現するには、いくらお金や時間や体力があっても、それだけでは不十分だろうと思います。 それ以上に大事なのは、 「異国で人から好かれること」 だと思います。 「こいつはいい奴だ!」 と思われないといけません。 少なくとも、現地の人たちから嫌われ、敵愾心を持たれてはいけません。さもないと、思わぬ不慮の事故に遭うことでしょう。
そのためには、「明るさ」「爽やかさ」「社交性」「人 に対する優しさ」が必要だろうと思います。さらには、 「自己紹介術」 も身に付けておかないといけないでしょう。異国に飛び出した時、 <沈黙は金> ではありませんから。そういう意味で、 「リョウスケくん」にはそれらの長所を十分に備えているな〜と直感しました。 それらの資質は「世界一周」をする上で、行く先々で ATM からお金を引き出す以上に、大きな財産ではないかと思われます。
「大介くん」には「明るさ」と、「豪放さ」と、「ユーモア」があり、ベンタン屋台村の店員たちからも大いに気に入られていて、サイゴンを去る数日前から、それを知った従業員たちが、自分たちが賄いのご飯を食べる時には、「大介、お前もこっちへ来て一緒に食べろ!!」と誘い、同じテーブルに座らせて、タダで夕食を食べさせてくれていました。私たちは別のテーブルから、その姿を笑いながら見ていました。
あれから約三年が経ちました。ここの店員さんたちも、大介くんがいた当時とはずいぶん入れ替わりました。今、当時の大介くんを知る店員さんたちの数は五割もいません。またベトナムもいろんな意味で変わりました。当時と比べると、高いビルが増えてきました。
このベンタン屋台村から見える一番の大きな変化は、ベンタン市場を見下ろす高い位置に掛かっていた大きな看板の名前が換えられたことでしょうか。以前はそこに、赤い文字の 『 SANYO 』 の看板が大きく掲げられていました。しかし昨年の末からそれが新しい看板に換わりました。新しい看板は同じ色でも、名前は中国の電器製品メーカーの大手 『 Haier 』になりました。 KR さんはポツリと「 栄枯盛衰を感じますね・・・。」と言われました。
「リョウスケくん」に、 私が翌日の日曜日の予定を聞きました。特に何も予定は無いと言うので、「明日は日曜日ですが、毎週日曜日の午前中に 『青年文化会館』 で <日本語会話クラブ> という、日本語を勉強しているベトナム人の若者と、ベトナムに在住している日本人との交流会がありますが、それに参加しませんか。」と誘いますと「明後日にベトナムを発ち、カンボジアに向かいます。それで明日一日がベトナム滞在の最後になりますので、是非喜んで参加したいと思います。」と答えてくれました。
翌日の日曜日、私が彼のホテル近くまでバイクで迎えに行き、二人でそのまま『青年文化会館』に行きました。 10時頃私たち二人が着いた時には、すでに40人近い人たちが参加していました。日本人の人たちはそのほとんどが顔見知りの人たちばかりでした。
この日には、日本人が 10人ほどいました。<日本語会話クラブ>に参加するベトナムの人たちは、いつも若い人たちが多いですね。 「リョウスケくん」 もまだ若いので、おそらくベトナム人の若者たちとも話が合うことでしょう。彼をその輪の中に入れてもらい、しばらく好きなように話してもらいました。
そして 11時半を過ぎた頃に、恒例の 「新人紹介」 をすることにしました。最初に、この日初めて参加してくれていたベトナムの若者たち四人ほどを先に行いました。ベトナムの人たちには、いろいろな歌も披露してもらいました。中には日本語で、正確な発音で日本の歌を歌える若者もいて、日本人の参加者たちから盛大な拍手を浴びていました。
この日には、日本人で「新人」は 「リョウスケくん」の他に、あと一人いました。そしてその方が終わり、「リョウスケくん」の自己紹介が始まりました。彼が自己紹介をして、今<世界一周>をしていると聞いた時、ベトナムの若者たちは勿論ですが、やはり日本人の参加者たちも大いに驚いた様子でした。
彼が自己紹介をした後で、ベトナム人の若者たちからいろんな質問が飛び出しました。「どうして世界一周をしたいと思いましたか。」「ベトナムではどこを訪問しましたか。」「まだ独身ですか。」「恋人はいますか。」「ベトナム料理では何が一番美味しいと思いましたか。」「世界一周では幾らぐらい掛かると思いますか。」・・・などなど。
それらの質問に、「リョウスケくん」は、一つ・一つ丁寧に答えていました。そしてちょうどお昼の 12 時になった頃、<日本語会話クラブ>を終了して、日本語クラブに参加していた有志の人たち十数名で、 『青年文化会館』内にある 喫茶店に行きました。
<日本語会話クラブ>で話していた時には席が遠くて彼と話が出来なかった人たちも、ここでは彼の近くに座り、いろいろ深く聞いていました。ある日本人の女性は、「今こうして<世界一周>をしている人に出会えて、本当に嬉しいです。」と感激した面持ちでした。
彼の連絡先を聞いたり、彼と一緒の写真を撮ったりして交流を深めていました。やはり、若い人たち同士というのは、打ち解けるのが早いですね。特にベトナム人の若者たちは気さくに連絡先を教え合っていました。
私が「明日からリョウスケくんはベトナムを出て、カンボジアに向かいます。これから行く先々でいろんなことに遭遇するでしょう。みなさんは時々ベトナムから励ましの言葉を送って上げて下さい。」とそこにいた人たちに言いますと、みんな肯いていました。そしてまた彼との夕食での再会を約束して、彼は先に喫茶店を出て行きました。みんなは手を振って別れを告げていました。
そしてその日の夕方に、彼が泊まっていた安宿街の近くにあるレストラン 「 MARGHERITA 」 に行きました。この時には YD さんも一緒に来てくれました。我々は二階席のベランダ側に座りました。ここは見晴らしが良く、風通しもいいので、このレストランに来た時には、いつもそこに座ります。
私のすぐ横に「リョウスケくん」が座り、前に KR さんと YD さんが座りました。サラダやタコスやピザを注文しました。そして料理が来る前に、「リョウスケくん」の旅の平安を祈り、送別会も兼ねて「乾杯!」をしました。
面白かったのは、 YD さんはまだ「リョウスケくん」と会ったのは数回くらいでしかないでしょうに、もうこの時には彼の名前を呼ぶ時、「リョウスケ!」「リョウスケは・・・」と言っていたことです。 YD さんからそう言われた「リョウスケくん」も、普通に対応していました。知らない人が見たら、「リョウスケくん」のお姉さんだと思われることでしょう。
いよいよ明日の朝早くカンボジアに向けて旅立つ 「リョウスケくん」ですが、まだわずかしか会っていないのに、実に名残り惜しい気がします。「リョウスケくん」のベトナム滞在は、約二週間でした。私が会った回数でいえばたった三回だけですが、彼は非常に爽やかな、明るい印象を私たちに残してくれました。
私が、「どのくらいの期間をかけて、幾つの国を回って<世界一周>をする予定なの?」と聞きますと、「約二年間を予定しています。目標としては、五十カ国を回りたいと思っています。」と答えてくれました。
「世界の中で一番訪問したい国はどこ?」と聞きましたら、「インドですね。」という答えでした。「インド」は KR さんが大学生時代に留学生活を送った国です。それで KR さんに、いろいろインドの情報を聞いていました。彼が言うには、「インドは広いので、三ヶ月間くらいかけて回りたいです。」とのことでした。
その翌朝早く、カンボジア行きのバスに乗って、彼はサイゴンを離れました。 そして一週間ほどカンボジアに滞在し、世界遺産に登録された遺跡 「プレア ヴィヒア寺院」 まで足を伸ばし、その後またタイに戻り、飛行機で一気に飛んでインドまで行きました。今のこの時点では、彼の目標でもある 「一番訪問したい国・インド」 をいろいろ回っています。
二年間という長い旅ですが、無事五十カ国訪問の目標を達成し、多くの人たちに出会い、多くの友人を作り、いろいろな経験を積み、そして元気な姿で、大きく成長して日本に戻って欲しいと願っています。今ベトナムにいる私は、彼の旅の平安を祈るだけです。
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