「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ ノンフィクション作家・阿奈井文彦氏が死去 ■
阿奈井文彦氏(あない・ふみひこ=ノンフィクション作家、本名・穴井典彦=あない・ふみひこ)3月7日、誤えん性肺炎のため死去、76歳。通夜は10日午後5時、静岡県藤枝市志太4の14の3、平安会館ふじえだで。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は弟、穴井信彦氏。
反戦運動団体「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」に参加し、戦時下のベトナム各地をを取材。主な著書に「アホウドリの仕事大全」「ベ平連と脱走米兵」など。
=サンケイ ニュース=
◆ 解説 ◆
3月9日のお昼に、私はベトナムでこの記事を読み、大いに驚きました。信じられない記事でした。そしてすぐに、ベトナム戦争当時にCai Be(カイベー)でバナナを植えていたあのYさんに私の携帯電話から連絡しました。Yさんはこの時ベトナムに戻られたばかりで、サイゴンにおられました。
Yさんは、その時点では阿奈井さんが亡くなられたことはご存知なかったようで、すぐに自分でも調べてそれが事実であると知り、「残念の一言です・・・」とメッセージを折り返し私に送ってこられました。
その後、日本におられる、浅草のお好み焼き屋「染太郎」の総支配人であられたSさんにも連絡されました。Sさん自身も、ベトナムにいるYさんから連絡が来るまではご存知なかったということでした。Sさんも阿奈井さんとはサイゴンで会われていました。
私自身は阿奈井さんと直接の面識はありません。その私が何故「阿奈井さん逝去」の報せを読んで驚いたかといいますと、実はその前日まで阿奈井さん自身が書かれた記事を何回も繰り返し読んでいた矢先だったからです。
その阿奈井さんが書かれた記事とは、何と今から24年ほど前の1991年に、雑誌の『中央公論』12月号に掲載された記事なのです。その『中央公論』を、二月末にサイゴンに戻られたYさん自身が持ち込んで来られました。私はYさんからその雑誌を貸して頂きましたので、それから毎日何回も文章を覚えるくらいまで読んでいました。阿奈井さんが書かれた記事の題名は<ベトナムに帰った「日本兵」>です。
ページ数にしたら22ページぐらいですが、そこにはYさんと阿奈井さんとの出会いが詳しく書かれてありました。さらには、この記事自体には興味深い人物が登場していました。ベトナム戦争当時にYさんと同じようにCai Beのバナナ島でバナナを栽培していた<松嶋春義さん>に関する記事が載っていたのです。
松嶋さんはYさんが経営していた、通称「第二農園」と呼ばれる場所で、Yさんの下で働かれていたのでした。ですから、私自身もYさんから松嶋さんのことは以前から詳しく聞いていました。阿奈井さんは、その松嶋さんに1966年にCai Beで会われていました。
松嶋さんの日本の故郷は、私と同じ熊本県。さらに、その田舎は驚くべきことに、私の田舎の隣町の『玉名郡南関町』の出身なのでした。そのことは数年前から、私もYさんから直接聞いて知ってはいました。
この『中央公論』に載っていた記事は、その松嶋さんが50年ぶりにベトナムから日本に戻り、自分の故郷を訪ねた時のルポルタージュなのでした。松嶋さんが日本に50年ぶりに帰られた時のことは、断片的に新聞記事に載っていたのは読んだことがありました。しかし、それはこの阿奈井さんが書かれた記事と比べれば、その内容の豊富さと詳しさにおいて雲泥の差がありました。
私はYさんが今回ベトナムに持ち込んで頂いたこの『中央公論』の記事によって、松嶋さんが50年ぶりに日本に帰国された時の様子を、実に詳しく知ることが出来ました。阿奈井さんが書かれたその記事の一部を抜き出してみます。記事中の年齢はその当時の年齢です。
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【松嶋さん今夜帰国】元日本兵半世紀ぶり祖国の土
第二次大戦の終結直前にベトナム南部のサイゴン(現ホーチミン市)に進駐し、戦後も農民としてとどまっていた元日本兵、松嶋春義さん(69)=熊本県玉名郡南関町出身=が22日午前11時過ぎ、ほぼ半世紀ぶりの一時帰国のため、ホーチミン市のタンソニヤット空港を出発。同日午後タイのバンコクに到着した。
松嶋さんはバンコク国際空港で「早く田舎に帰って両親の墓参りをし、弟や親類の人たちとゆっくり話しをしたい」と元気そうに語った。
一時帰国は二週間と短い滞在だが、心待ちにしていた里帰りを目前に心を弾ませている。
(熊本日日新聞一九九一年七月二十三日付け、朝刊)
ベトナムから旧日本兵の松嶋春義さんが一時帰国する、という新聞記事を読んだとき、私はぜひ再会したいと思った。
いまから二十五年ほど前になる。一九六六年の暮れに、私はベトナム戦争の取材で南ベトナム(当時)に渡り、メコンデルタの農村で松嶋さんに会っていた。
松嶋さんは一九四二(昭和十七)年に応召、陸軍第三一師団光部隊に所属し、中国へ上陸。ハノイ、サイゴンと敗走し、サイゴンで戦争の終結を迎えた。
その後ベトミン(ベトナム独立同盟)の対仏独立戦争に加わり、四九年にはベトナム人女性レ・チ・リンさんと結婚、そのままベトナムに残った。以来、松嶋さんはベトナム名、レ・ハ・タンを名のっている。
<ベトナムに帰った「日本兵」>より
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その阿奈井さんをYさんに紹介したのは、あの作家の『開高 健さん』です。開高さんが書かれた「紹介状」を持って、阿奈井さんはサイゴンにいたYさんを訪ねて来られたそうです。その当時の出会いのことを、同じ記事の中で阿奈井さんは次のように書かれています。
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「サイゴンの西南約百十キロメートル、ミト市を経由し、カイベという小さな漁港からモーター付きの小舟で一時間ほど河を下ると、松嶋さんの住む島に着いた。
島は通称「バナナ島」と呼ばれ、日本人の経営するバナナ園があった。東京から派遣されたY氏とS氏の二人が、サイゴンに事務所を借りていた。S氏はもっぱらサイゴンに常駐し、Y氏がバナナ島の管理にあたっていた。
元ちゃん、徹ちゃんと互いに呼びあっていたが、二人とも当時は私と同じく、二十代半ばの青年だった。・・・」
<ベトナムに帰った「日本兵」>より
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実は昨年も、Yさんは東京で阿奈井さんに会われていました。その時に阿奈井さんはずいぶん足が弱っておられたとのことでした。そして、昨年Yさんに会われた時にこう言われたそうです。
「元(げん)ちゃん、もう一度Cai Beに行きたいよ〜・・・」
「元(げん)ちゃん」とはYさんのアダ名です。杖を付いて来られた阿奈井さんを見て、阿奈井さんがそう言われるのを聞いて、Yさんは返す言葉が無かったと話されました。
今年の冬に帰国された時には、Yさんは阿奈井さんにお会い出来なかったそうです。この日、阿奈井さんの訃報のニュースが流れた日の夜に、私はYさんにお会いしました。「こうなると分かっていれば、今年帰国した時に無理してでも会うべきだった・・・」とYさんは悔しがっておられました。
私はYさんから、阿奈井さんが書かれた著作の何冊かを、以前借りて読ませて頂いたことがあります。「ベ平連と脱走米兵」「アホウドリにあいにいった」などです。私は阿奈井さんが書かれたこの二冊の本と、開高さんが生前に雑誌に書かれた「ヴェトナム メコン河に遊ぶ」という記事によって、Yさんが二十代の青春時代を過ごしていたCai Beのバナナ島の様子や、その当時の時代背景も詳しく知ることが出来ました。
さらにそのCai Beには、「報道写真家の石川文洋さん」も訪れています。その石川さんは、今年の4月30日に行われる「ベトナム戦争終結40周年記念行事」にベトナム政府から招待されているとYさんから聞きましたので、4月の末にはサイゴンを訪問されることでしょう。
そして実は、今月の3月14日(土)には松嶋さんと同じく、もう一人の元・残留日本兵でCai Beでバナナを栽培されていた、<古川善治さんの40回目の法要>があります。古川さんは宮城県出身で、1975年のベトナム戦争終結後に日本に帰国しようとしていた矢先に、Cai Beで亡くなられました。その古川さんの法要には、Yさんと私の他、数人の日本人が参加します。全員が土曜日の夜から泊りがけでCai Beに行く予定です。
古川さんが亡くなられたのは、「太陽暦で1975年の3月8日」です。「旧暦では1月26日」になります。ベトナムでの冠婚葬祭はすべて旧暦に基いて行われます。それで、今年の暦で旧暦の1月26日は太陽暦で3月16日(月)になるのですが、Yさんは古川さんの家族にこう言われました。
「法要が平日に行われると、仕事の都合で来たくても来れない人が多いから、みんなが集り易い土曜日にしてくれ。多くの日本人に来てもらったほうが古川さんも喜ぶでしょう。みんなが土曜日に集れば、その日の夜もみんなでゆっくり語り合えるから・・・」
Yさんのアドバイスを受け容れて、今年の古川さんの「40回目の法要」は3月14日の土曜日に行われることになったのでした。それを聞いた私や、「さすらいのイベント屋」のNMさんは、Yさんに「当日は必ず参加します!」と早々と連絡していました。
古川さんが亡くなられたのは、1975年の3月8日。阿奈井さんが亡くなられたのが、それからちょうど40年後の2015年の3月7日。Yさんは(何か因縁めいたものを感じますねぇー・・・)と呟かれていました。
Yさんは東京の部屋に置いてある、自分の蔵書の多くの中から、たまたま阿奈井さんの記事が載っていた1991年の『中央公論』をベトナムに持ち込んで、私に見せてくれました。そして、それを私に貸して頂きました。Yさんは「何でたまたまあの本を選んだのか分からないが、あれは虫の知らせだったのだろうか・・・」と話されました。
私はそれを何回も読んでいて、3月14日の古川さんの法要に参加する日本人たちにもそれを読んでもらいたく、全員ぶんのコピーを終えていました。古川さんの法要に参加する人たちは、古川さんについてはYさんから良く聞いて知っていますが、松嶋さんのことについてはあまり知らない人たちが多いからです。
それで、この阿奈井さんの記事が松嶋さんに書かれたものの中では一番詳しく、分かり易いので、表紙も付けて準備し、Cai Beに行く途中のバスの中で読んでもらおうと考えていました。その矢先の、「阿奈井さん逝去」の報せでした。長い付き合いのあったYさんの悲しみは如何ばかりでしょうか・・・。
泊りがけになる日本人のお客を迎える準備をされるために、我々よりも一日早くCai Beに入られるYさんですが、古川さんの霊前に「阿奈井さん逝去」のことを報告されるでしょう。
Yさんに「元ちゃん、もう一度Cai Beに行きたいよ〜・・・」と話されていたという阿奈井さん。もし霊あらば、今ごろは古川さんとの再会を天国で果たされておられることでしょうか。
(こころから阿奈井さんのご冥福をお祈り致します)
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