春さんのひとりごと
<石川文洋さんに会う>
● 石川文洋さんを囲む<トーク・ショー> ●
ベトナムでは今年4月30日が、「ベトナム戦争終結40周年」にあたり、様々な記念式典が行われました。「報道写真家の石川文洋さん」がその記念式典に参加されるために、4月25日サイゴンを訪問されました。今回のベトナム訪問は<戦争証跡博物館>と<外務省>の招待によるものでした。
「石川文洋さん」が4月末にベトナムを訪問されるということは、石川さんの大親友でもある、ベトナム戦争当時にメコンデルタのCai Beでバナナを植えていたYさんから事前に伺っていました。
4月初旬の夕方、そのYさんを囲んで私と「さすらいのイベント屋のNMさん」、そして「フォト・ジャーナリストの村山さん」が<SUSHI ◎◎>に集りました。NMさんはこの日、サイゴンには所要でダナンから飛んで来ていました。村山さんは今回週刊誌の取材のために、たまたまサイゴンに滞在していました。その四人で食べながら、飲みながら、いろいろ話していた時、Yさんがポツリと次のように言われました。
「今回せっかく石川さんが日本から来られるので、サイゴン在住の日本人の方に、石川さんと話す<トーク・ショー>のような場を設けたらどうかな〜と考えていますが・・・」
それを聞いた私たちは、「それはいい考えですね、是非やりましょう!みんなきっと喜びますよ」と、全員の意見が一致しました。後は、石川さんのサイゴンでの都合を聞いて、<トーク・ショー>の日時をいつにするか、どこで行うかの場所の設定です。
場所はすぐに決まりました。村山さんと同じ大学出身の友人が経営している喫茶店「ユートピア・カフェー」で行うことが決まりました。あとは、日時をいつにするかです。これが案外難航しました。日本にいる石川さんに連絡を取って頂くのは、友人のYさんしかいません。
それで、Yさんが「サイゴンに石川さんがいる間に、こちらで<トーク・ショー>を開きたいということで、みんなの意見がまとまりました。石川さんの空いている日にちと時間はいつですか」と打診すると、穏やかな口調で電話口の向こうで次のように言われたそうです。
「元ちゃん、それはサイゴンに行ってみないと分からないんだよねー。実はまだ、詳しい日程を何も知らされていないんですよ」
[元ちゃん]とはYさんのあだ名です。そう言われてみると、ベトナム事情に精通したYさんも(それは確かにそうかもしれないな・・・)と妙に納得しましたが、ハタと困りました。
(石川さんが25日にサイゴンに着いてから詳しいスケジュールを確認し、後で<トーク・ショー>の日時をみんなに告知しても間に合わないだろうな・・・。どうすべきか?)と。石川さんの今回のベトナム訪問は十日間ほどで、そのうち二日間ほどはサイゴンにおられない日もあったからです。
それで、Yさんと私たちが話し合ったのは、「石川さんがベトナムに着いてから日程を決めても遅いので、まず先にこちら側で<トーク・ショー>の日時と場所を決めて、それを日本にいる石川さんに連絡して、それで良いかどうかの確認を取ることにしましょう!」という結論でした。<トーク・ショー>の日にちは、みんなが集り易い「日曜日」がいいだろうとなりました。
そしてYさんが石川さんに連絡を取り、石川さんからすぐに「それでいいです」という返事を頂きました。それから村山さんが素早く動きました。「ユートピア・カフェー」の友人のオーナーに連絡を取り、石川さんとの<トーク・ショー>が確定したことを伝えて、その日と<トーク・ショー>が行われている時間帯は、「ユートピア・カフェー」を貸し切りにしてもらうようにしました。
さらに村山さんは、石川さんとの<トーク・ショー>のことを「フェイス・ブック」上で4月20日に告知しました。タイトルは「石川文洋さんを囲むトーク・ショウ」。開催日時は「4月26日(日)4時〜5時半まで」。「参加費用は無料」でした。
「ユートピア・カフェー」内はさほど広くはないので、「申し込み定員は20名まで」としました。すると、告知から三日後の23日には、定員の20名に達して締め切りになりました。<トーク・ショー>に残念ながら参加出来なかった人には、二次会の「石川さんを囲んで宴会」の部に参加して頂くように案内しました。
そして迎えた4月26日。<トーク・ショー>の開始時間は4時からでしたが、Yさんと私は一旦二時に「ユートピア・カフェー」に行き、場所を提供して頂いた村山さんの友人・EBさんと簡単な打ち合わせをしました。喫茶店内にはすでにお客さんが座っていました。三人でやかましく話すと迷惑なので、ドアの外にあるベランダの席で話しました。
参加者の氏名も見せてもらいましたが、三分の一ほどの方は私の知人でした。中には、一名だけベトナム人の方の名前もありました。「<トーク・ショー>は日本語だけで行うけど、この人は日本語で大丈夫ですか?」とEBさんに聞いたら、「ええ、大丈夫ですよ。彼は大阪大学に留学したことがあるので、日本語は流暢です」との答えでした。
司会・進行は私のほうですることになりました。そして、私はこの時全員の参加者に配布するために準備していた資料を持参してきました。その資料とは、2011年7月にYさんから頂いた「朝日新聞」の記事です。タイトルは【ジャーナリズム列伝】。これは2011年4月1日から5月16日まで「朝日新聞」の夕刊に連載されていた記事です。
全部で29話、ページ数にして8ページほどですが、「石川さんの少年時代から青春時代」。そして「どういうきっかけでベトナムに足を踏み入れたのか」、「ベトナムで戦場カメラマンとしてどういうふうに過ごしていたのか」が簡潔に書いてあり、非常に読み応えがある内容になっています。「この資料を当日配ります!」と予告しましたら、「その資料も楽しみにしています」という返事を頂いた方もいます。
簡単な打ち合わせが済んだ後、Yさんは石川さんのホテルに出迎えのために座を立たれました。そして定時になりました。4時前には申し込んでいた人たち全員が着席していました。その中には、確かに若いベトナム人の青年もいました。私も彼に話しかけ、彼が流暢な日本語を話すことが出来るのを確認しました。
その頃、Yさんから私に「石川さんはまだ今<戦争証跡博物館>におられるようで、そちらへの到着が少し遅れるかもしれません」という連絡が入りました。これは事前に予想されたことなので、みなさんたちも落ち着いたもので、私が配布した【ジャーナリズム列伝】を読みながらじーっと待たれていました。
そして4時15分頃、またYさんから連絡があり、「今石川さんとホテルで落ち合い、タクシーに乗ってそちらへ向かっています」という連絡が入りました。そのことをすぐに参加者のみなさんたちに伝えました。(いよいよ、あの<念願>の石川文洋さんにお会い出来るのか〜・・・)と思うと、私のほうがドキドキとしてきました。
振り返れば、今からちょうど五年前の2010年の4月末に、石川さんは「南部解放35周年記念式典」参加のために、サイゴンを訪問されました。その時、Yさんが石川さんに「石川さんに是非会いたいという日本人がサイゴンにはたくさんいて、みんながベンタン市場前の屋台に集っていますよ」と話し、石川さんがそこに登場されたことがありました。
しかし、私はその時には日本に帰国していて、残念ながら会えずじまいでした。その時の強い後悔があったので、「今年こそは是非<念願>の石川さんに会いたいものです!」と、以前からYさんにも話していました。その<念願>がいよいよ叶おうとしています。
4時20分を過ぎた頃、Yさんからまた連絡が入りました。「今タクシーを降りて、ユートピア・カフェーに入る道路を二人で歩いています。もうすぐ到着します」と。そのことをまた参加者に伝えました。何かしら、実況中継のアナウンサーになったような気持ちでした。二階のテラス席から(今か・今か)と下を見ていた私にも、お二人の姿が見えてきました。
そして、Yさんの言葉通り、それからすぐに石川さんとYさんが階段を昇って二階の喫茶室に入って来られました。みんなが拍手で迎えました。喫茶店の奥側のカウンター席に石川さんとYさんに座って頂きました。私は石川さんのすぐ隣に座りました。
最初に私から、今回お忙しい中にもかかわらず<トーク・ショー>のために時間を割いて頂いたことに対してのお礼を述べました。そして、この<トーク・ショー>の実現に尽力されたYさんにもお礼を申しました。
それから、最初にYさんの紹介をして、その後で石川さんを紹介しました。石川さんは今年77歳になられます。肌の色艶もよく、話す口調もハキハキされていて、お元気そのものでした。私のすぐ右隣に石川さん、その石川さんの右隣にYさんが座られました。長い間夢見ていた石川さんとの対面が、ようやく実現しました。感無量でした。
石川さんは結構話し好きで、こちらが一つ質問すると、様々な方向に話が広がり、聞いている私達は石川さんの話術の中に惹き込まれてゆきました。話しておられる石川さん自身も、途中でふっと立ち止まり「ところで何の質問でしたでしょうか?」とそこで話を止められました。私はその時の石川さんの表情を、今も大変楽しく思い出しています。
石川さんが話されているのを横で見て、じーっと聞いていた時に、Yさんが石川さんについて、いつも言われていた言葉を思い出しました。
「石川さんは非常におっとりしている人なんです。」
「石川さんは、無類のこころやさしい人なんです。」
私もそういう印象を強く持ちました。石川さんは非常にのびやかな、落ち着いた話し方をされる人で、聞いているこちら側が何かホッとするような気持ちになってきます。Yさんの話では、すでに20代の頃からそうだったと言われるのです。
今回の<トーク・ショー>で石川さんが話されたことを時系列で全部を書き留めると、大変な量になりますので、会場からの質問に対しての石川さんの答えと、質問とは別に、石川さんが思いを籠めて話された中で印象的な言葉を箇条書きにして、以下順次紹介します。
★Q:「命拾いするような様々な場面に遭遇しても、ベトナムを去らなかった理由とは?★
石川さん「正義感とか使命感とかそういうものはなく、ベトナムで何が起きているのかという“好奇心”、簡単な言葉で言えば“野次馬根性”という気持ちでした」
★Q:「北の政権ではなく、南の政権がベトナムを統一していたらどうなったでしょう?★
石川さん「北とか南とか、共産主義とか資本主義とかには関係なく、戦争状態が終わったことが良かったんです。同じ民族同士で血を流すことがなくなったのが一番大切なことです。これは実際に戦争の場面を直接見た人間として、その写真を撮ったカメラマンとしての目で言っています」
★Q:「生前のボー グエン ザップ将軍やホーチミン主席にお会いされましたか?★
石川さん「日本人でボー グエン ザップ将軍に会った人は私が一番多いと思います。残念ながら、ホーチミン主席には会うことが出来ませんでした。私は政治家の中で尊敬している人は少ないのですが、ホーチミン主席だけは例外です。ホーチミン主席は尊敬出来る政治家だと今でも思っています」
◆質問以外の中で、石川さんが話された印象に残る言葉◆
◎北の戦場の撮影を許されたカメラマンは私一人だけでした。
◎計画経済が始まった後、今までの自由なやり方に慣れていた南の経済は極度に貧しくなりました。その理由は、農民達の「やる気」を削いだからです。
◎それが変わり始めたのは、1986年から行われた「ドイモイ」からです。
◎ベトナムではカメラマンが捕まっても殺されることはありませんでしたが、カンボジアではすぐに殺されました。
◎当時私が見たベトナムはまだほんの一部に過ぎない。でも、それらを記録として写真に残すことが必要であり、大切なことでした。
◎テレビで見る映像は、時間の流れとともに消えてゆきます。しかし、記録としての写真は、見るものをそこに立ち止まらせ、考えさせてくれます。それが写真を記録として残す意味だと思います。
◎アメリカにはベトナムを侵す、ベトナムの人たちを殺す「権利」など何も無い。
◎アメリカがベトナムの人たちを自分の味方にしようと思うなら、空から爆弾を落とす代わりに、食料やお金を落とせばいいのです。
◎自分の村が破壊され、家が焼かれ、田んぼや畑が爆弾でメチャクチャにされたら、農民だって、誰でも立ち上がります。私だって戦う。
石川さんが話された内容を抜粋すれば、以上のような内容になります。石川さんには今回の<石川文洋さんを囲むトーク・ショー>で率直に、また情熱的に語って頂きました。
ベトナム戦争当時に戦場を歩き、戦場の写真を撮り、ベトナムの農民たちにも深い愛情を注がれていた石川さんの熱い思いと、石川さんの一つ・一つの言葉の重みがひしひしと伝わってきました。
予定していた一時間半はあっという間に過ぎました。参加した20名の方々も満足そうでした。最後には、また石川さんに対してのお礼の拍手で、今回の<トーク・ショー>を無事終えることが出来ました。
そしてこの後、有志の方で二次会の案内をしました。次の二次会は「石川文洋さんを囲む宴会」という名前で、<石川文洋さんを囲むトーク・ショー>に参加出来なかった人たちにも声を掛けていました。二次会の場所は、いつものあの「SUSHI ◎◎」ですが、人数が多いのですぐ二軒隣に出来た2号店のほうで行いました。
石川さんとYさんはタクシーに乗って行かれました。我々もその後を追い、バイクで行きます。二次会の場所には、<トーク・ショー>に参加出来なかった人たちもすでに来ていました。その方たちは二次会で石川さんにお会い出来ることを知り、大変喜んでいました。
そして、この日サイゴンに到着したばかりのフォト・ジャーナリストの村山さんも、空港から「SUSHI ◎◎」2号店に直行して来ました。今回は奥さんも一緒でした。最終的にはここにも二十名ほどが参加しました。石川さんには真ん中の席に座ってもらいました。Yさんは遠慮して端のほうに座られました。
石川さんに「ここはまだ開店して二年目の路上の屋台のスシ屋ですが、このように2号店まで出来る賑わいです。そしてお客さんたちの九割方はベトナムの人たちです。このような店があるのを石川さんにも見て頂きたいと思いまして、ここを二次会の場所に選びました」と言いますと、石川さんも好奇心一杯の表情で周りを見回されていました。
面白かったのは、宴会の途中でふっと席を立たれて、道路のほうに歩いて行かれた時のことです。その手には愛用のカメラを持たれていました。そして道路側から「SUSHI ◎◎」2号店の光景や、店の賑わいや、我々の様子を写真に撮られていました。いつか雑誌や写真集に、この時撮られた写真が載るかもしれません。
みんな石川さんと同じ空間、同じ場所に座っているのが実に嬉しい様子で、みんなで写真を撮ったり、石川さんの横に座って「一緒にいいですか」と言って、ツー・ショットで記念の写真まで撮らせてもらっていました。それに対しても石川さんは嫌な顔を全然されず、ニコニコとしてみなさんたちとの写真に納まっておられました。
食べながら、飲みながら二次会は続いてゆきました。私は石川さんを近くで見ていまして、感心したことがあります。ここに参加した人たちと話している時、相手の話にじーっと耳を傾けながら、話の内容が「大事だな!」と思われた部分では、やおら手帳を取り出してその人の話をメモされてゆきました。
話している相手は五十代の人もいれば、三十代の人もいましたが、同じようにペンを取り出して書き留められていました。(何歳になられても、瑞々しい好奇心を失われておられない方だな〜・・・)と深い感銘を受けました。そのような姿勢は、若い時からそうだったのだろうなーと想像しました。
8時半を過ぎた頃、Yさんが石川さんの後ろに立ち、(明日の予定もあるし、そろそろ石川さんに帰って頂こうか・・・)という表情をして、私のほうに目配せをされてきました。私もYさんの気持ちがよく分かりました。
前日日本から着かれたばかりの石川さんですが、確かにこの時日本時間では十時半を過ぎているのです。Yさんは、話に夢中の石川さんに、後ろから話しかけようとしました。しかし、相手の方と途切れることなく話されている石川さんの元気な話しぶりをさえぎるのをためらわれ、遠慮されて、私のほうを見て(ニコッ)とされて、また元の席に戻られました。
結局この日は9時少し過ぎまで、石川さんは私達と一緒に、お開きになるまで付き合って頂きました。みんなが感激していました。石川さんとYさんがタクシーに乗って帰られるところまで私達は見送りました。<トーク・ショー>に参加したみなさん達、そして2次会に参加した方々のこころに、忘れられない一日として刻まれたことでしょう。
● <戦争証跡博物館>で石川文洋さんの写真の記念式典 ●
<石川文洋さんを囲むトーク・ショー>を終えた翌日の27日、<戦争証跡博物館>でベトナム戦争当時に戦場を取材していたカメラマン約20名を招待しての記念式典がありました。そして、この日は石川文洋さんの写真が常設展示してある部屋の中の、新しい写真を入れ替える記念式典も行われました。この日のセレモニーは、誰でも自由にそのセレモニーの模様を見ることが出来ます。私も村山さんも参加しました。
9時から式典が始まるとのことなので、私は十分前に着きました。バイクを駐車場に預けて、切符を買おうとして「一枚下さい」と言うと、女性の係員が「2000ドンだ」と言うではありませんか。「2000ドン」という値段はベトナム人料金の値段です。私をベトナム人だと見たようです。
「いや、私は外国人だ!」と言うと、笑って「15000ドンです」と言って切符を渡してくれました。外国人は全員「15000ドン」なのですが、ヨーロッパやアメリカ人などは外見ですぐ分かるのでしょうが、私のような日本人はおそらく見分けがつかないのでしょう。
中に入ると、「EXHIBITION OPENING CEREMONY」と、大きな幕が掲示してありました。その幕の前にある大広間に、石川文洋さんが座られていました。そのすぐ隣には「ホーチミン市友好連合委員会」のNguyen Cong Tanh(グエン コン タイン)さんも座られていました。Tanhさんは『ベトナム−日本友好協会』の会長でもあられます。それで、Tanhさんにも挨拶しました。Tanhさんとは私も知り合いの仲です。
Tanhさんには、毎年我が社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」がベトナムに来た時、「ホーチミン市友好連合委員会」を表敬訪問してお会いしています。そこでは、ベトナム人の学生さんたちと日本人の生徒たちとの交流会を開いています。
Tanhさんには、今から15年前の2000年に私がインタビューをしたことがありました。以下の記事がそれです。(年齢は当時の年齢です。)
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「ホーチミンは細かいことに気付く、部下思いの人」
Nguyen Cong Tanh(グエン コン タン・65歳)さん
◆ 経歴 ◆
ベトナム民主共和国の外務省の外交官として活躍され、ホーチミンと毛沢東の通訳をしたこともある。世界各地を友好訪問し、世界の主な国で訪ねていないのは米・豪くらい。ベトナム戦争後外交官の仕事を辞め、1976年からサイゴンツーリストという旅行会社を設立。1992年までその会社の社長として勤め、今は11年前から続けている越日友好協会の事務局長。
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1973年に日本をはじめて訪問されたということですが、まだベトナム戦争終結前ですよね。
よく出国出来たものですね。その間の経緯と訪日の印象をお聞かせ下さい。
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○ |
南ベトナム臨時革命政府の代表として、1973年の6月にチリの大使と2人で訪問しました。
当時はサイゴンからは行けないので、北ベトナムまで歩いてハノイに行き、中国→香港→羽田へと向かいました。
約一ヶ月間東京名古屋・大阪・神戸・京都・札幌などの都市を友好親善のために回りました。
東京では美濃部都知事とも会いました。はじめて東京を見たとき、ベトナムでは当時2階建ての建物しかないものですから、高いビルの多さに驚きました。 また商店にならんでいる電気製品の多さにも驚きました。
しかし当時の東京は大気汚染がひどく、空気が悪かったです。
最初の訪問からその後30回ぐらい日本を訪問していますが、最近は良くなって来たと思います。
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日本語はどこで勉強されましたか?
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○ |
独学でせざるを得ませんでした。当時は私が通えるような学校や、まとまったテキストがある訳ではないので、NHKでラジオの日本語放送を聞いて勉強しました。またその後、中越戦争の時日本人のカメラマンの高野さん(赤旗の記者)と一緒に仕事をして、彼からもいろいろ教わりました。
(注:高野さんは中越戦争の時、取材中に流れ弾に当たり死去)
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全部で何カ国の外国語を話されますか?
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一番得意なのは中国語で、その次が日本語。英・仏・露語も勉強しましたが、少ししか出来ません。
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今の日本を見てどう思いますか?
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食事などがヨーロッパ風になって来ているかなと思います。それと私は音楽が大好きで自分でもバイオリンを弾くのですが、世界の国々にはその国の伝統音楽の学校が有りますが、日本にはないようですね。どこの国でも自国の音楽を大切に守っているのに不思議ですね。ベトナムにも当然あります。
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ホーチミン主席や毛沢東とも会われたそうですが、毛沢東はどのような人でしたか?
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それは大変答えにくい質問ですね。
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ではホーチミン主席は、タンさんが間近かで個人的に見られてどうでしたか?
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大変細かいことに気がつく人であり、とても部下思いの人でした。当時私が主席の通訳をしていた時のことでした。通訳の仕事というのは、政治家同士が食事をしながら話す時でも、横や後ろに控えて通訳しないといけません。その間当然食事は出来ません。
ある時、会談が終わって帰ろうとする時のことでした。主席が私を呼び止めて「タン君、君はまだ夕食を食べていないだろう。これを家に持って帰りなさい」と言って、台所に有った食べ物を私に持たせてくれました。
また、今でもはっきり覚えていますが、あれは1969年の5月31日のことでした。
この日夜遅くまで仕事をしていた時、主席が「タン君、明日は子どもの日ではないですか。子どもが家で待っているでしょう。早く帰りなさい」と言って私の手に飴を握らせて「これを子どもさんにあげて下さい」と言われたのです。
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戦後すぐ外交官の仕事を辞められたのはなぜですか?
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南と北に有った外務省が、1976年に統一されてハノイに移りました。私はハノイには行けませんでしたので、辞めざるを得ませんでした。
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その後どんな仕事をされましたか?
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○ |
1976年にサイゴンツーリストという旅行会社を始めまして、そこを8年前に辞めて、今は11年前から続けている越日友好協会の仕事をしています。
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他の国の友好協会もたくさんある中で、なぜ日本とベトナムの友好協会をやろうとお思いになられたのですか?
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これは党委員会の依頼が有って引き受けたのですが、その当時は日本語が出来る人が少なく、たまたま私は日本語が出来たからです。
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今その友好協会は全員で何人でなさっていますか?
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10人です。みんなほとんどボランテイアでやっている状態です。
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今まで訪問した国の中で、住むとしたらどの国がいいと思いますか?
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○ |
やはり自分の国が一番良いですが、それ以外で住むとしたらスイスでしょうか。 風景の美しさと戦争の無い国と言うのが印象的でした。それと日本の京都と沖縄でしょうか。
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ベトナム戦争後とドイモイ後の変化を見てこられて、今のベトナムについてどんな感想を持たれていますか?
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○ |
良いことは仕事が速くなった事でしようか。昔は大変遅く、間違っても集団責任で進めている為、責任の所在が結局はっきりせず誰も責任を取りませんでした。それと心配なのは、都市部では貧富の差が大変大きくなっていることです。
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いままでの人生の中で一番嬉しかった事は何ですか?
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○ |
サイゴン開放後、今まで行方も知れず、安否も不明だった母と23年ぶりに逢えたのが何より嬉しかったです。
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今のベトナムの若者はどうですか?
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外国語をしっかり勉強している若者が多くなりましたが、勉強できる平和な 時代になったにも拘わらず、遊んでいる子も見かけます。
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最後に将来の日本とベトナムの若者たちへ一言。
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日本とベトナムの若者の相互交流を、もっともっと進めて行けばより良い関係が築いていけると思います。お互い平和な関係を続ける事が一番大切だと思いますから。
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その場でお二人に挨拶をしました。石川さんには昨日のイベントに対してのお礼を述べさせて頂きました。「<トーク・ショー>に参加した人たち、二次会に参加した人たちのみなさんが大変喜んでおられました」と言いますと、石川さんもニコッとされました。
9時半過ぎから式典が始まりました。まずベトナム側から歌や踊りの披露がありました。武道の演武もありました。こういう厳かな式典の場合は、日本だと式典も厳かにやるのでしょうが、ベトナムは違います。賑やかに、楽しく行います。お葬式もそうです。近所でお葬式があった時などは、深夜に至るまでカラオケの大音響が響きます。
そして、ベトナムの側から様々な人が挨拶に立ち、次に<戦争証跡博物館>の館長のVan(バン)さんからベトナム語で挨拶がありました。そのVanさんの話を椅子に座って聞いている人たち、立って聞いている人もいましたが、この時周りには普通の観光客も頻繁に出入りしています。彼らも足を止めて「何ごとだろう?」という表情で見ていました。
この式典には、石川さんと並んで有名な写真家・Tim Pageさんも招待されていました。Tim Pageさんについて、私は詳しく知らなかったのですが、ここに来られていた知人のNAさんから「Tim Pageさんは大変有名な写真家ですよ!」と聞きました。NAさんはその方面に詳しい方です。
NAさんは以前「Vietnam SKETCH」の編集長をされていました。私は一年ほど前にNAさんに出会いました。実に温厚な、穏やかな話し方をされる方です。実は2010年に石川さんがサイゴンに来られて、ベンタン市場前の夜の屋台に顔を出された時にも、NAさんは石川さんに会われています。
さらに驚いたことには、「Vietnam SKETCH」に連載されている<ベトナムの日本人>として、私の親友でもある「マングローブ植林行動計画」の浅野さんが以前登場しましたが、そのインタビューをしたのがNAさん自身なのでした。それを今回初めて伺いました。NAさんは26日の「石川文洋さんを囲むトーク・ショウ」にも参加されていました。後で、Tim Pageさんについて調べましたら、NAさんが「有名な写真家ですよ!」と言われたように、WIKIPEDIAにも載っていました。
そして、この場には、村山さん夫妻も来られていました。ベトナムのTV局や新聞社、カメラマンなど多くの方が取材に来ていました。そういう人たちが重い機材を担いで、招待客にマイクを向けていました。その中には英字新聞の[Viet Nam News]の記者・DAT(ダット)くんも来ていました。DATくんとは私も知り合いです。
昨年8月に「ベトナムマングローブ子ども親善大使」がベトナムに来た時、「ホーチミン市友好連合委員会」を表敬訪問しましたが、そこにDATくんも我々の取材のために来ていました。そして、私達にいろいろインタビューした後、9月7日の日曜版でその時の内容を記事にして載せてくれたことがありました。
この日の取材でも、多くの人にインタビューが出来たようでした。後で、村山さんの情報から、DATくんが取材した内容が記事になったことを知りました。そこには石川さんと村山さんへのインタビューもありました。以下がそれです。記事は英文ですので、多くの方にもお分かり頂けるかと思います。
>石川さんと村山さんへのインタビュー記事
式典が終わりに近づいた頃、石川さんの挨拶の順番が来て、石川さんが挨拶に立たれました。石川さんは日本語で話されました。その横でTanhさんがそれを通訳されました。
「今回の<40周年記念式典>に招待して頂き、大変有難うございます。あの戦争当時に多くのカメラマンが戦争の最前線に出て写真を撮りました。そして記録に残しました。私が撮ったのはベトナム戦争の一部分でしかありません。でもそれをこうして常に展示して頂くことによって、戦争の悲惨さを理解して頂けると思います。・・・・出来れば、<45周年記念式典>の時にも、また元気な姿でここに立ちたいと思います。」
そして、その後招待客の人たちは館内にある写真を見て回られました。石川さんとTim Pageさんも一緒に館内を回られました。そして、三階にある石川さんの写真が常設展示してある部屋に入りました。テレビカメラも回っています。カメラマンたちもバチバチと写真を撮っています。
Tim Pageさんが石川さんに向かい、「自分が撮った写真の中で、一番思いが深い写真を一枚選ぶとしたらどれですか。」と質問されました。石川さんは次のように答えられました。
「ここにあるすべての写真が私の宝であり、大切なものですが、あえて一枚を選ぶとしたらこれです。」
と言って一の写真を指さされました。沖縄生まれの石川さんにとって、「自分の身内が亡くなった沖縄戦、その怒りと悲しみ、戦争の悲惨さが重なるから・・」とのことでした。その写真のキャプション(説明)には、次のようなことが日本語で書かれていました。その日本語の内容は石川さん自身が書かれたものです。
「傷ついた母親・・・絶えず砲撃や爆撃を受けていた農村には各戸に防空壕があった。突然の攻撃で逃げ遅れた母親が負傷した」
石川さんのこころの中では、「沖縄戦」⇒「ベトナム戦争」⇒「辺野古をめぐる今の沖縄」へのスタンスは一貫して同じ思いが滔々として流れているようです。戦場を直接ご自分の二つの眼で見て、写真として記録に残された人の重みがそこにはあります。
この時石川さんと館内を一緒に回りながら、石川さんの写真の部屋まで来た時、私には感慨深いものがありました。今まで<戦争証跡博物館>内の石川さんの部屋へは「ベトナムマングローブ子ども親善大使の」の生徒たちが来た時にも何度も訪れています。
しかし、今回その部屋にある数々の写真を、撮られた石川さん本人の案内で見ることが出来たのです。その部屋には戦場の写真を撮られていた、当時20代の凛々しい石川さんの若き姿の写真もあります。当時撮影に使用していたNikonのカメラや実際に着ていた軍服もあります。それらの前に石川さん本人が立ち、話をされているのです。時間が一瞬遡ったような感覚を覚えました。
<戦争証跡博物館>での式典が終わり、石川さんたちと<戦争証跡博物館>のスタッフの方たちが、連れ立って昼食に行かれることになりました。朝から石川さんのそばにずっといたので、私達も同じ仲間だと思われたらしく、Vanさんから「日本人のみなさん方も一緒に行きませんか」と我々に声をかけて頂きました。思いがけない好意に我々も驚きましたが、「せっかくのお誘いだから、一緒に行きましょう!」ということになり、村山さん夫妻、NAさん、そして私も一緒にお供しました。
昼食は<戦争証跡博物館>のすぐ近くにあるホテルのレストランの中でした。ビュッフェ形式になっていて、各自で好きな料理を取って食べました。そこでも石川さんは食事をしながら、取材を受けたり、書き物をされていました。
食事が終わり、ホテル内で石川さんとVanさんにお礼を申し上げましたら、VanさんがNAさんに「実は29日朝9時頃にドクちゃんが<戦争証跡博物館>に来て、石川さんと日本の新聞社の取材を受けます。もし良かったら、あなたも来ませんか」と話されました。
NAさんは「是非参加させて頂きます」と答えられました。私も横で聞いていて、「じゃ、私もまた当日行きますよ」と答えて、石川さんとVanさんにこの日はお別れさせて頂きました。
● <戦争証跡博物館>で石川さんとドクちゃんに会う ●
29日朝9時前に<戦争証跡博物館>に着きました。しかし、館内は普段の様子と変わりなく、観光客が次々と見学に訪れに来ていました。Vanさんが話された「ドクちゃんへのインタビューがあります」というのは(本当にこの日、ここであるのだろうか)と不安になりました。また、誰も知った人が来ていないので、(日にちを間違えたのかな・・・)という思いが横切りました。
すると、しばらくしてNAさんが来られました。(ああー、やはり今日で間違いなかったのだなー)と、今までの不安が消えました。しばらくすると、Yさんから「石川さんが今ホテルを出られて、そちらに向われていますよ」との連絡が来ました。安心しました。
その言葉通り、しばらくすると三人の日本人の方と一緒に石川さんが<戦争証跡博物館>の中を通り、館内に入ってこられました。この時Vanさんとドクちゃんも一緒でした。ドクちゃんの横には、女性の方で医者のTan(タン)さんが付いておられました。
そこであらためて石川さんとドクちゃん、Tanさん、そして他の日本人の方に挨拶しました。私自身は、ドクちゃんには今まで個人的に三回ほど会ったことがあります。でもその時は軽く立ち話をしただけで終りましたので、今回のように日本から来た取材班からインタビューを受けているのを見たのは初めてのことです。
私たちは裏手にある建物のほうに案内されました。日本から来た取材班の方から名刺を頂きました。『西日本新聞社』の方が二人、『日本電波ニュース』の方が一人でした。T字形にテーブルを置き、そのT字形の上の位置の席にドクちゃんとTanさんが座り、日本の取材班からいろいろな質問を受けます。ちなみに、ドクちゃんは今年で34歳になります。
日本側の取材班は日本語で話し、それをこの日の通訳として勤められた日本人女性・SYさんがベトナム語に訳されます。私は彼女のベトナム語の大変な上手さに驚きました。日本の取材班の方が日本語で難しい表現をされると、それを分かり易いベトナム語に訳して、的確に訳していました。さらには、SYさんは英語も大変流暢であるのが、この後分かりました。すごい日本人女性がサイゴンにおられるものです。本当に感心しました。
最初にドクちゃんには「枯葉剤被災者」についての質問がありました。今Tu Du(トゥー ヅー)病院内にある「平和の村」には、1歳から34歳までの60人の「枯葉剤被災者」たちが生活していること、ベトナム全土には約380万人の「枯葉剤被災者」がいること・・などなど。詳しいことは取材班の方の記事内容に触れるので、ここに載せることは出来ませんが、私はドクちゃんが話された中で次の言葉が印象的でした。
Q: |
「自分がそのような体に生まれついたことに対して、恨みや憤りを感じたことはありませんか」
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ドクちゃん: |
「過去に起きた出来事に対して、恨みをいつまでも引きずっても仕方がありません。」
「今私には6歳になる双子の子どもがいます。その成長を見るのが楽しみです。」
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このインタビューの後、石川さんはドクちゃんと一緒に<戦争証跡博物館>を回られました。ドクちゃんは松葉杖をつきながら、石川さんの後ろを同じスピードで歩いていました。石川さんの常設写真展示の部屋のすぐ近くには、「生まれたばかりのベトちゃんとドクちゃん」の写真が掲示してあります。
ドクちゃんはその写真の前まで来ると、松葉杖をついたままじーっと立ち止まって、ベトちゃんと自分の写真を見つめていました。2007年にすでにベトちゃんは亡くなりました。しばらくして、ドクちゃんはズボンのポケットから携帯電話を取り出し、自分が生まれたばかりの時のその写真を撮っていました。この時のドクちゃんの胸中は如何ばかりだったでしょうか・・・。
この日の石川さんには、「VIEW TV」というテレビ局が取材をしていました。「VIEW TV」 というのは、ベトナムの人たちにベトナム語で日本の情報を提供する意図で作られた放送局とのことだそうです。そのこともNAさんから教えて頂きました。
石川さんは自分の写真の前に立ち止まり、その「VIEW TV」のビデオ・カメラの前でいろいろな話をされていました。この時は英語で話されました。そして、この日の取材が終る頃、「VIEW TV」の女性アナウンサーに向って、一枚の写真を指さされました。
その写真は南政府軍の兵士たちに「民族解放戦線」の兵士たちが捕まり、中腰で座らされ、手を後ろ手に縛られ、服は上下とも取り上げられて脱がされ、上半身裸になり、下着一枚になった写真でした。捕まえた側と捕まえられた側は、同じくらいの年齢です。
その写真の説明には≪平和であれば友達≫と書いてあります。石川さんはその写真を指で示して、次のように話されました。
「私が戦争を憎むのは、同じ民族同士が敵と味方に分かれて戦い、憎み合うからです。戦争さえ無ければ、同じ友達なのに・・・」
石川さんは5月5日の朝、ベトナムを発たれたことをYさんから聞きました。私は今【ジャーナリズム列伝】の最終章にある石川さんの言葉を読み返しています。
「私が伝えたいのは命(ぬち)どぅ宝〔命こそ宝〕ということです。戦争は大勢の命を一度に奪う。そのことを知って欲しい」
石川さんは「次の45周年記念にも、また元気な姿でベトナムに来たいです」と話されていました。「是非また五年後にも来て頂きたい!」と、今回石川さんと対面出来た私達は願っています。
そして、今回石川さんにサイゴンで初めてお会い出来た時、私は石川さん自筆のサイン入りの「石川文洋 ベトナム報道35年」という写真集を頂きました。わざわざ日本から持参して頂き、私に贈って頂いたのでした。Yさんの温かい配慮のおかげでした。
念願の石川さんにお会い出来ただけでも十分嬉しかったのに、写真集まで頂くとは望外の喜びでした。感激で胸が震えました。そして、この写真集は〔私の宝〕になりました。
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