アオザイ通信
【2015年6月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本帰国余話・前編・・・ 〜神戸、奈良へ〜>

● ツツジ咲く頃に日本帰国 ●

今年は5月初旬日本に帰国しました。当日は早朝7時に関西国際空港に着きました。そして、いつものように空港バスに乗り、本社に入るために神戸三宮へと向かいました。9時頃神戸市内に入りました。三宮へ行く途中で、バスは「Kobe Bay Sheratonホテル」の前で一旦停まりました。

停まったバスの中から、私は窓ガラス越しにじっと外の風景を見ていました。そこにはいつも私が帰国していた時とは違う風景がありました。今まで私は4月初めに帰ることが多く、その時期神戸には桜の花が咲いていました。

しかし、今年の帰国時には既に桜は散っていました。代わりに別の花が咲いていました。それはツツジでした。ホテルの前の道路沿いに植えてある街路樹の植え込みには、色鮮やかなツツジが満開に咲いていました。

神戸でこういうふうにツツジが美しく咲いている風景を、強く意識して見たのは初めてです。神戸でツツジが咲いている時期に来たのはもちろんこの時が初めてでは無かったはずですが、今年のように意識して見た記憶がありません。おそらくそれは、私がベトナムに行って以来、ツツジが咲くこの時期に初めて日本に帰ったからだろうなぁーと、後で思いました。

そのツツジをじっと見ているうちに、何故か胸がじーんとしてきました。それは自分でもよく分からない不思議な感情でした。ツツジの植え込みが道路の両脇に見事な花を咲かせているのを見ているうちに、奇妙にもそういう気持ちになったのです。

(日本は何と美しいのだろう・・・!)

という気持ちが、私のこころの中にあらためて湧いてきました。ツツジの花の美しさだけに感動したのではなく、ここまで綺麗な形でツツジを咲かせてくれている<人手の大変さ>と、その美しいツツジの周りにも、ビニール袋や紙くずやペットボトルなどの<ゴミが無いこと>に強くこころを打たれました。

道路の至る所にゴミが散乱している国から、道路にほとんどゴミが落ちていない国・日本に来た人たちは、もしかしたら私と同じような気持ちを抱いているかもしれません。初めて日本に着いたベトナム人の私の教え子たちも、同じように感動しているのでは・・・と想像した次第です。

● 奈良への旅・一日目 ・・・「東大寺二月堂」訪問 ●

日本に帰国した翌日に奈良へ向かいました。奈良へ行く目的は『奈良歴史トリップ』というグループ旅行に、運良く私も参加することが出来たからです。私をその旅に誘って頂いたのは、あの「さすらいのイベント屋のNMさん」です。

実は、私が帰国前にサイゴンでNMさんと話していた時、たまたまお互いの帰国時期が重なることが分かりました。そしてNMさんから「日本に帰国したら、ベトナムで出会った友人たちと奈良のお寺や古墳を訪ねる旅をする予定です」と話されました。

そのNMさんの話に私は強い関心を持ちました。私が「それはいつからですか」と聞きますと、それは偶然にも私が日本に帰国して本社に入り、一通りの用事を済ませた翌日からでした。それで「私も是非その旅に参加させて下さい!」と申し出ますと、NMさんは快く「OK、いいですよ」と受け容れて頂きました。

NMさんの話では、今回その『奈良歴史トリップ』には約8名の参加者がいて、すべてNMさんがダ・ナンやフエで知り合った人たちばかりだというのです。それを聞いて、ますます強い興味が湧いてきました。さらに、今回の旅が<奈良>と聞いた時、私のこころの中には(昔からずっと抱いてきた《悲願》が実現するかもしれない・・・)という予感がしてきました。

日本に着いた翌日から、いよいよ『奈良歴史トリップ』がスタートしました。神戸から奈良まではJRで大阪まで行き、大阪で<大和路快速・加茂行き>に乗り換えました。11時半頃奈良駅に到着しました。NMさんと落ち合う場所は、奈良駅前の「スーパー・ホテル」で、時間は12時半です。

しばらく時間があるので、駅前をぶらぶらと見学しました。駅の外に出ると、かつての奈良駅がありました。お寺の形を模した優美な建物です。今は観光案内所になっていました。奈良駅に私は生まれて初めて降り立ちました。そして、奈良への訪問自体も中学校の修学旅行以来45年ぶりのことでした。

NMさんと落ち合う12時半が近づき、「スーパー・ホテル」に行き、ロビーで待つことにしました。そこには既に『奈良歴史トリップ』に参加されると思われる人たちが二名いました。初対面の挨拶をお互いに交わしました。

一人は男性の方でYHさん。彼は以前ベトナム中部のダ・ナンで、JICAの水道関係の仕事をされていました。もう一人は若い女性で、フエで日本語の教師をしていたということでした。YHさんは何とこの日は横浜から車でその女性の方と一緒に奈良まで移動されて来たのでした。そして、二人ともNMさんと繋がっていました。

しかし、12時半を過ぎてもまだNMさんが来ないので、私が電話を掛けました。すると、「今車で移動中なのですが、そちらのホテルまで行くと今日訪問予定の相手方との約束の時間に遅れるので、直接その場所に行きます。そこで皆さんたちと落ち合いましょう」という返事でした。それで、我々はYHさんの車でそこに行くことになりました。

<東大寺二月堂>に行くのに、車を一旦県庁近くの駐車場に置きました。そこにあと一つのグループの四人が待っていたからです。そこで皆さんたちと落ち合い、そこから全員で歩いてNMさんが待っている場所まで行くことになりました。実はこの時点では、私は今からどこに行くのかをまだ聞いていませんでした。しかし、実はここから『奈良歴史トリップ』が始まっていたのでした。

そこから皆さんたちと歩きながら、私は周りの風景に魅了されました。五月初旬の若葉が萌える時期の「奈良公園」の木々や、なだらかな形の「若草山」はその名前通りに、山全体が緑に染まっていました。ゆっくりと歩いてゆく私の周りを、風に運ばれてきた若葉の匂いが包んでくれました。

少し歩いては立ち止まり、じっと道路沿いの光景を眺めました。道路の左右には普通の人たちが住んでいるであろう家々が並んでいました。その一つ・一つの家々が実に見事に美しい門構えと、その門の奥には綺麗な庭がありました。さらにその通りには、「入江泰吉旧居」と書いてある家がありました。

奈良の写真を撮り続けた、あの写真家・入江泰吉氏の旧居がここにあるのを初めて知りました。こういう場所に家があれば、四方が写真の題材に囲まれているようなものでしょう。その家のたたずまいを眺めているうちに、私一人だけが皆さんたちとずいぶん離れていることに気づき、慌てて追いかけました。

そして、今回の『奈良歴史トリップ』のリーダーである【関谷さん】に、「今からどこに行くのですか?」とあらためて聞きました。すると、【関谷さん】は「今から<東大寺二月堂>に行きます。そこでNMさんが待っていますよ」と答えられました。<二月堂>と言えば、「お水取り」で有名なあの<二月堂>のことでした。

この日は快晴で、ゆっくりと歩きながらも汗が流れてきました。歩き続けて20分ほどして東大寺の屋根に金色に輝いている鴟尾(しび)が見えてきました。東大寺を眺めるのも中学校の修学旅行以来です。あまりに昔のことなので、東大寺を訪問した時の印象はおぼろげな記憶しか残っていません。この近くで、若い青年が人力車で観光案内をしていました。

しかし、東大寺の全体の姿は写真では何回も見ていますので、その前を通り過ぎた時に

「あっ、東大寺だー!」

と思わず叫んでしまいました。しかし、我々はそこには入らず、二月堂への坂道を登りました。すると、道の脇の草が生えているところで、鹿が草を食んでいました。すぐ近くを人が通っても全然警戒していません。草を食べ続けています。全く人を恐れる気配がありません。

二月堂へ続く坂道にはお地蔵様もありました。長い土塀もありました。その一つ・一つが永い歳月の歴史の波で磨かれているようで、実に詩情溢れる光景に満ちています。出来れば10分でも、20分でもそこに腰を下ろして、しばらくじーっと眺めていたい気持ちでした。しかし、皆さんたちと一緒に移動して行かないといけません。ゆっくり立ち止まる時間はありません。

二月堂の石段は長い歳月と多くの人たちが踏みしめたせいで、石の表面が磨り減り、つるつるになっています。そして二月堂の石の階段を登り終わり、大きなお堂がある場所に出ますと、そこから奈良市内が一望の下に見えました。この日は快晴でしたので、奈良市内が遠くまでよく見えました。そのお堂のすぐ横に小さい建物があり、NMさんが中から笑顔で我々に向かって手招きしていました。

その建物の中に入りますと、一人の男性の方が僧服を着て正座しておられました。我々が全員中に入ると、ニコニコして「ようこそおいで下さいました」と歓迎の挨拶をされました。その人のお名前は狭川晋文院主。年齢は64歳とのことでした。

後で、「この東大寺に何年お勤めされていますか」と伺いますと「40年です」と答えられました。よくよく聞けば、『東大寺の僧侶は世襲制』だそうで、外部から来た人がその職に就くことは出来ないそうです。従って、狭川院主も父親の後を継いで今の仕事を勤められているということです。

狭川院主は大変話し好きな方で、その話が滅法面白く、身振り手振りを交えて話される姿を間近で見ていますと、まるで落語を聞いているかのようでした。三十分ほどは独演会のような感じで、一人で話しておられました。みんな全然飽きることなく、院主のお話をニコニコとして聴いていました。最後にNMさんからみなさんに質問を振られた時、私が「今までベトナムを何回訪問されましたか」と聞きますと「五回行きました。ベトナムに学ぶことは多いです」と答えられました。

奈良の僧侶さんが五回もベトナムを訪問されたと聞いて、正直驚きました。「何故?」「何をしに?」というのが素朴な疑問でした。そして、狭川院主の話をじっと聞いていまして、その橋渡しをしたのが、「さすらいのイベント屋のNMさん」だと分かりました。さすがは「イベント屋のNMさん」でした。奈良のお寺とベトナムのお寺を繋ぐ架け橋の仕事をされていたのです。

実は、NMさんは数年前にある大学教授の講演を聞いた時、今から1300年前の昔に日本とベトナム、この二つの国の間に最初に橋を架けたベトナム人の存在を知りました。その人物がキーワードとなり、それからその人物と日本との繋がりを調べてゆくうちに、<二月堂>と<大安寺>との関係を突き止めました。

それで、この日に<二月堂>とこの次に訪れる<大安寺>を訪問することになったのでした。そのキーワードとなったベトナム人が『仏哲(ぶってつ)』です。『仏哲』についてはWikipediaに次のように紹介されています。ちなみに聖武天皇は、天皇にして初めて出家された天皇だということです。

「仏哲(生没年不詳)は奈良時代の渡来僧。林邑国フエの出身。インドに入り、菩提僊那(せんな)に師事して密呪に秀でた。開元年間(713年−741年)に菩提僊那とともに入唐、当時日本から唐に滞在していた僧理鏡等の招きにより、736年(天平8年)師の菩提僊那と・唐の僧道サン等とともに来日した。

大宰府を経て都に入り、大安寺に住した。聖武天皇の信頼篤く752年の奈良東大寺大仏完成時の法要で舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった林邑楽(りんゆうがく)を伝え、また多くの密教経典、論籍も請来したという。

大安寺では林邑楽(林邑は現在のベトナムのこと。仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ。)などを楽人に教え、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養会の際も舞を伝授した。

仏哲らが伝えた林邑楽は、春日若宮おん祭で毎年12月に披露されており、2014年には春日の雅楽団「南都楽所(なんとがくそ)」がベトナムで里帰り公演を行った。」

以上がWikipediaにある『仏哲』紹介の内容です。狭川院主は「五回ベトナムを訪問しました」と話されましたが、2014年10月にベトナムのダナンを訪問された時の様子が、【奈良日日新聞】に掲載されていました。

実は、私はその新聞をこの日の夜の宴会に参加された【奈良日日新聞】の社長兼主筆の藤山さんから頂きましたので、それも併せて紹介します。そしてその記事自体が、NMさんの寄稿によるものでした。奈良の仏教界とダナンの仏教界の橋渡しを、NMさんが以前から行っておられたのだなーというのを、この新聞記事を読んであらためて私は知りました。

《 仏教を縁とした交流 》

★ベトナム仏教巡礼団 ダナンの観世音寺を参拝★

東大寺上院の狭川晋文院主の呼び掛けによるベトナム仏教巡礼団一行20人が10月26日、ベトナム中部の都市ダナン市の五行山にある観世音寺を参拝した。狭川院主を含む一部団員は、4年ぶり2度目の参拝となる。(ベトナム奈良県ゆかりの会会員NMさん寄稿)

=歓迎交歓会で親交深める=

同院参拝のきっかけは、約1300年前のベトナム僧仏哲の平城京入りが縁。ベトナム中部出身といわれる仏哲は、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)に従い入唐。その後聖武天皇の命を受けた日本僧の招請に応じ、736年に2人は遣唐使船で渡来した。

平城京に入った後は大安寺に居住。752年の東大寺大仏開眼供養会では、菩提僊那が導師を、仏哲が雅楽の師を務め舞楽を奏したが、後にこれが日本の雅楽の源の一つとなったと伝えられている。

2010年9月に同寺院のティック・フエ・ビン住職初来日時に、大先達の仏哲師を偲(しの)び東大寺に狭川院主を訪ねたのがきっかけとなり、3ヶ月後の同年12月には狭川院主ら日本の仏教関係者30人がダナンの同院を参拝するなど、仏教を縁とした交流が始まった。

今回、一行は同院到着後、現在建設中の新本堂内講堂でお勤めを行い、その後同寺院による歓迎交歓会に参加。同寺院奉仕団による精進料理や歌や踊りで歓待を受け、返礼に同寺院を讃える歌を全団員で合唱し、相互交流を図った。・・・・・

<2014年11月14日付け 奈良日日新聞より>

40分ほど狭川院主のお話を伺い、そこを辞しました。東大寺二月堂の中に入れただけでもラッキーでしたが、狭川院主から直にお話を聞けたことは貴重な体験でした。狭川院主の巧みな話を聞いていますと、ベトナムでも同じようにベトナム人に対して面白い話をされておられるのだろうなぁーと想像したことでした。

そこを出て次は、歩いて「東大寺戒壇堂」に向かいました。「東大寺戒壇堂」とは、『鑑真和上』を祀ったお寺だと言われています。「東大寺戒壇堂」は二月堂からさほど離れていない距離にあります。ここで頂いた案内書には、「東大寺戒壇堂」についての説明が以下のように書いてあります。

「天平勝宝6年(754)当時中国における戒律の第一人者唐の僧鑑真が来朝し、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、440余人に戒を授け、翌年の9月に戒壇院が建立された。創立当時は金堂、講堂、軒廊、廻廊、僧坊、北築地、鳥居、脇戸等があったという。(東大寺要録)。そののち、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の三度、火災にかかり創立当事の伽藍は全て灰燼に帰した。現在の戒壇堂は享保17年(1732)に建立されたものである。

戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う儀式で尤も厳粛なものであり、従って戒壇は神聖な場所である。・・・

堂内には四天王(塑造)及び多宝塔(木造)を安置する。四天王はもと銅造のものであったが、今はない。現在の有名な四天王は東大寺内の中門堂から移されたものといわれ、天平時代の傑作である。四天王は仏法の守護神としてわが国においては既に飛鳥時代から信仰があり、天平時代に最高潮に達した。身にまとう甲冑は遠く中央アジアの様式で、文化の広大なることを物語っている。静にして動、動にして静、彫刻における理想境を具現したものとして世界的水準をゆくものである。・・・」

このお寺を見学してあらためて教えられたことがありました。「四天王」についてです。「四天王」という言葉自体は知っていましたが、「四天王」にはそういう意味があるというのを初めて知りました。「四天王」は「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」の四つからなりますが、それぞれの頭文字を取り「持増広多(じぞうこうた)」と覚えればよい、と後で教えてもらいました。

ここには白い小石状の砂が庭一面に敷いてありました。その白い庭には草ひとつ生えていませんでした。「きれいですね〜」と誉めますと、「いや〜、毎日草むしりが大変なんですよー」と笑っておられました。庭の白い砂は波紋状に敷き詰めてありますが、住職さんからその砂の模様の意味についても教えて頂きました。その意味は<海の波>を表しているとのことでした。

『鑑真和上』が日本に仏教を伝えるために、荒海を乗り越えてきたことに思いを致しているというのです。『鑑真和上』は5回の渡航を試みて失敗。遂には視力まで失われましたが、6回目にしてようやく日本に着きました。この砂の波の文様はその不屈の精神に敬意を表しているのです。

● 奈良への旅・一日目・・・「大安寺」訪問 ●

そこを辞して、次は<大安寺>を目指しました。大安寺は、住所自体がその寺の名前と同じで、【奈良市大安寺】となっています。私は皆さんとは別の、大阪で日本語学校を開かれている男性の方の車に同乗させて頂いて、大安寺に行くことになりました。車が停めてある駐車場が遠く、みなさんよりも少し遅れて、4時半過ぎにそこに到着しました。

境内に入ると、左側に青々とした竹がたくさん生えていました。親竹の間から筍も伸びていました。ここの境内も掃き清められていました。ここに竹が生えているのには由来があります。ここでは毎年1月23日に光仁会(こうにんえ)というお祭りがあるそうです。

このお祭りは、長命だった「光仁天皇」ゆかりの癌封じのお祭りで、浴衣姿の娘さんたちが青竹に入れた笹酒を参拝客に振舞います。また6月23日には竹供養が行われ、この日にも笹酒が振舞われるといいます。

部屋に入ると、我々以外はすでに全員一つの部屋に集まっていました。奥のほうの席に、一人の男性が笑顔を浮かべて正座されていました。今回我々の応対をして頂いた、「大安寺貫主・河野良文(こうのりょうぶん)」さんです。私は初めて見た河野さんに、大学教授のような印象を受けました。

奇しくも、河野さんは二月堂の狭川院主と同じ64歳でした。河野さんのすぐ隣に座っていたNMさんは、河野さんに対して「河野先生」と呼ばれていましたので、私も「河野先生」と呼ばせて頂きます。大安寺で購入した本「知らなかった!もっと知りたい、大安寺」という題名の本に、河野先生の略歴が書いてありましたので、それを紹介します。

「1951年福岡県生まれ。15歳で高野山に登り、仏門に入る。高野山大学卒業後、開教留学僧として、タイ国に派遣され3年余、上座仏教の研鑽を積む。帰国後、高野山真言宗教学部勤務。尼僧修道院加行監督など。2002年より大安寺貫主。奈良日独協会会長。奈良大文字保存副会長など。」

奈良時代にはこの大安寺が一番大きいお寺で、日本に来た渡来僧はここに住んだといいます。ベトナムから来た『仏哲』もその一人でした。ここで『仏哲』は、サンスクリット語を教え、雅楽を伝えました。河野先生は2010年に初めてベトナムを訪れました。その『仏哲』への恩返しとして、ベトナム中部のダナンにある「五行山」を訪問されたのでした。

それに対して、フエの宮廷雅楽団が雅楽の演舞を奉納したということです。さらには、2014年3月に国賓として来日したTruong Tan Sang(チューン タン サーン)国家主席が宮中晩餐会で次のように挨拶されました。「ベトナムと日本との交流の歴史は古く、今から約1300年前に仏哲が奈良の大安寺に住んでいたことがありました」。天皇陛下もそれに対して「そうです。今宮中に雅楽として残っているのはまさしく仏哲のおかげです」と応えられたそうです。

大安寺については、ここで頂いた「大和路秀麗・八十八面観音巡礼」という冊子に以下のように説明してあります。

「大安寺の歴史は今を遡ること千四百年、聖徳太子が創建した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)に始まるという。そののち舒明天皇や天武天皇によって移築され、「百済大寺」「高市大寺」「大官大寺」と寺名を変えながら壮大さを増していった。天皇の私寺という性格があったようだ。そして遷都によって平城京に移り、唐から帰国したばかりの道慈(どうじ)律師が、新しい構想をもとにこの地に大伽藍を造営した。東大寺が創建されると、大安寺は「南大寺」と呼ばれることもあった。

奈良時代の大安寺はとても大きくて、現在のおよそ二十五倍だったといい、千人近い僧侶がいたと推定されている。そして仏教の総合大学さながらに、弘法大師の師となる勤操(ごんぞう)など多くの高僧を輩出したり、唐・インド・ベトナムからの国賓級の高僧が居住したりと活気に満ちていた」

河野先生のお話を聴きながら、1300年前に日本に来たベトナム人僧侶『仏哲』が日本に与えた遺産と、東大寺二月堂とこの大安寺との関係がより良く分かってきました。さらには二月堂でお会いした狭川院主とこの大安寺の河野貫主のお二人から、『仏哲』のお話を聴ける幸運にも恵まれました。これも全てNMさんの働きかけによるものでした。さすがは「さすらいのイベント屋NMさん」でした。

約一時間ほど河野先生のお話を聴いた後、境内にある讃仰殿(さんごうでん)という建物に案内して頂きました。普段は閉まっているそうですが、この日は我々のために特別に開けて頂きました。中での写真撮影はダメなので、みんな建物の外から撮っていました。

この中には奈良時代に製作された仏像が7体収められています。1250年経っているといいます。『仏哲』さんが来た時にはなかったそうです。右端と左端に2体ずつで4体の四天王像と、3体の観音像があります。観音像は頭部から台座まで一本の木で彫られているといいます。河野先生のお話では、鑑真和上が連れて来た中国の技術者と日本の工人の共同制作で、中国人の指導の下に作られたのだろうということです。

その一例として、四天王の一人の「多聞天」の像の足元にある岩の形は、木を荒々しく掘り抜いて作ってあり、この4体の中では「多聞天」だけが突出して作風が異なっている。日本人の技術者であればこういうふうに作ることはないだろうと、河野先生は話されました。要は、同じ「四天王」でもお寺により、それぞれが微妙に作風が違うということです。

そして大安寺ともお別れが来ました。この日一日でベトナムの僧『仏哲』と関係がある二つのお寺を回ることが出来ました。この日が来るまでは、私自身も『仏哲』についてはNMさんからチラッとは聞いていたものの深くは知らず、何の関心もありませんでした。

しかし今回、奈良にある二月堂と大安寺を訪れて、1300年もの昔に『仏哲』と深い繋がりがあることを知りました。そして、その『仏哲』を縁として、今もベトナムの仏教界と日本の仏教界との交流が続いていることも分かりました。これは大きな収穫でした。

河野先生には我々と別れる時、門の下にずっと立ち止まって見送って頂きました。頭を下げ続けておられました。寺の外に植えられていた生垣には、赤いツツジが綺麗に咲いていました。

奈良で知り合った人たち ●

<奈良の旅>一日目の大きな目的である<二月堂>と<大安寺>訪問が終わりました。この日の夕方から、今回の『奈良歴史トリップ』に参加したメンバーと、そのメンバーの中で奈良市在住の知人たちを交えて、奈良駅前の居酒屋で親睦会をしました。全員で9人ほどいました。

それぞれの人たちが個性的で、面白い方々でした。全員がベトナム、さらにNMさんと繋がっていました。その中でも、【奈良日日新聞】の社長兼主筆の藤山さん、【フエ・フーズ】の関谷さん、【漆絵】の浜さんとは大いに話が弾みました。先に述べたように、藤山さんからは<2014年11月14日付けの奈良日日新聞>をこの宴席の場で頂きました。この記事によって、『仏哲』を縁として今も続いている「ベトナムと日本の仏教界の交流の様子」を私は初めて知りました。

関谷さんとは初めての対面でした。しかし、その名前は知っていました。ベトナムで日本酒を造っている「日本人の杜氏(とうじ)」として、<2005年12月号のベトナムスケッチ>の連載記事、「ベトナムの日本人」に登場されていたのを覚えていたからです。そして、実はその記事を書かれたのがNMさんだとはこの時初めて知りました。NMさんが関谷さんに直接インタビューして書かれたというのです。

関谷さんの口から、「ベトナムに来て、日本酒造りの基礎からベトナム人スタッフに指導するのに大変苦労しましたよ」と言う言葉を直接聞きました。前任者が教えていた日本酒の造り方をなかなか変えようとしないベトナム人部下たちの頭の中を、また白紙に戻して日本酒造りの正しい理論を教えたそうです。

関谷さんはベトナムで日本酒を造るために、「ベトナム全土の米の種類」を試してみて、今の「越の一」を造ったと言われました。<ベトナムスケッチ>に載っていた、日本酒造りに情熱を注ぐ関谷さんの次の言葉は大変感動的です。

「まだ長い道のりですが、皆、確実に育っています。杜氏の考えを理解し、一言で全員が動けるようになれば、ここでもきっと凄い製品ができる。酒造りで大切なのは、米、水、酵母に温度帯、そして造り手の情熱。ベトナム人に厳しい仕事ぶりを求めるのは難しいと言われますが、我々の酒造りから浸透していけばいいと、今ではスタッフの皆も思っています。」

そして、今回の『奈良歴史トリップ』の発案・企画は、誰あろうその関谷さん自身でした。それを聞いたNMさんが、ベトナムでの知り合いの方々に声を掛けたことで、みんなが大いにその気になり、YHさんのようにわざわざ横浜から奈良まで車を飛ばして来た人もいたのです。

関谷さんは年齢61歳。京都伏見で20年間酒造りに携わった後、2002年にベトナムに来られました。今フエで日本酒造りをされています。そしてフエの酒造場で、「越の一(えつのはじめ)」という銘柄の日本酒を造られました。驚いたことに、その「越の一」を一升瓶のまま、この宴会の場にみんなに味わってもらおうとして、わざわざベトナムから手荷物で持ち込んでこられたのでした。

普通、日本の居酒屋では外部から酒類の持ち込みは出来ませんが、【奈良日日新聞】の藤山さんがここの店長と大変親しいようで、その間の事情を聞いた店長から特別に許可を頂いて、遠いベトナムからはるばる旅をしてきた「越の一」がここにいた全員に振舞われました。さらには宮内庁でしか売っていないという「御苑」という名前の酒も、また一升瓶で持ち込んでこられました。この日は二時間ほどで、二升の日本酒が無くなりました。

この宴会の場には20代の女性もいれば、30代の男性もいたりと、私よりも大変若い人たちもいましたが、全員がベトナムと何らかの形で繋がっていて、楽しい時間を過ごすことが出来ました。関谷さんのほかに、ここで特に親しくなった人に前述の「浜さん」がいます。

「浜さん」は今年66歳。非常に気さくな方で、みんなから「浜さん、浜さん」と慕われていました。「浜さん」はベトナムのフエで「漆絵」を描かれています。「漆絵」と聞いて私は驚きました。「漆絵」の題材はベトナムの人物や風物だと言われました。日本各地をミニバンで旅行されるのが趣味のようで、この時も、そのミニバンで奈良まで来られていました。車の中には、その中で寝泊りできるように、小型のベッドまで作ってありました。

「浜さん」の出身は熊本の天草だと言われて嬉しくなりました。「私も熊本の出ですよ」と言いますと、「そうですか!」と喜んでおられました。さらに続けて「熊本のどこですか」と聞かれましたので、「玉名市です」と答えますと、「えっ、本当ですか!実は私の兄が玉名市内に住んでいますよ」と言われるではありませんか。

そして、この奈良の旅が終わればまた別の県に行き、その後5月下旬に玉名に行き、お兄さんの家に泊まるので、その時にまた会いましょうという約束をしました。お互いの連絡先を聞き、玉名での再会を楽しみにすることにしました。夕方5時過ぎから始まった奈良での親睦会は9時頃に終わりました。

(この後のことになりますが、「浜さん」は律儀にも、奈良での私との約束を果たして頂いて、5月下旬に玉名で「浜さん」と、そのお兄さんにお会いすることが出来ました。そして、お兄さんのお家に招かれて、ご馳走して頂きました。お兄さんの家には「浜さん」の漆絵が飾ってありました。)

● 奈良への旅・二日目 ・・・「岡 潔先生」のお墓参り ●

今年日本に帰国した時、NMさんたちと一緒に奈良への旅が実現すると聞いて、(昔からの《悲願》が実現するかも・・・)と思いました。その《悲願》とは・・・

『岡 潔先生のお墓にお参りしたい!』

ということでした。高校生の時、私は初めて岡先生が書かれた文章に出会いました。それが『春宵十話』でした。最初は新聞に連載されていましたが、私が読んだのは文庫本でした。

世界的な大数学者にして、文化勲章受章者でもある岡先生ですが、当時高校生の私にはそういう未知の世界は分からず、ただ岡先生の著作を読んで、日本の文化論、教育論、学問への姿勢、文学論、芸術論。そして、日本民族の根源的な思想を明快に解き明かされた数々の著作にこころから感動しました。今でもその思いは変わることがありません。

夏目漱石や芥川龍之介の文学作品に対する鋭い洞察。それは今に至るまで、私から見て岡先生以上に深い考察をされた人を聞いたことがありません。さらには、俳聖「松尾芭蕉」が創った芭蕉俳諧の山脈の高さ、奥の深さを教えて頂いたのも、数学者の岡先生からでした。

そして18歳の時、たまたま大学受験で県外に出た時に、ある本屋で『岡潔集』と銘打たれた箱入りの本があるのを見つけました。今でもその時の情景、感動を思い出すことができるのですが、向こうから私の眼にその箱入りの本が飛び込んできたような気持ちでした。

この全集には、岡先生の数々の著作のほとんどが収めてありますが、さらには岡先生と各界の人たちとの対談集も入っています。石原慎太郎氏、松下幸之助氏、司馬遼太郎氏、小林茂氏、井上靖氏などです。今でもその全集は、私の宝として日本で大切にしまっています。日本に帰った時にそれを手にすると、今でもこころに沁み入る箇所が多々あります。

岡先生が著された本は、最初に読んだ『春宵十話』以来、単行本であれ、文庫本であれ、新書版であれ、全て買い求め、それらを全て読みました。今まで私が全集として刊行された本などで、全てを読破したのは「岡 潔先生」「司馬 遼太郎さん」のお二人だけです。

岡先生は78歳で亡くなられましたが、その時の訃報の新聞記事や、週刊誌に載った追悼の記事は今でも大事にしまっています。そして、岡先生が亡くなられて以来

(いつか岡先生のお墓参りがしたい・・・)

という思いが、私のこころの中では消えることがありませんでした。それが、今年日本に帰国した時、奈良への旅に参加できると聞いた時、

(よし、ぜひ今年お墓参りに行こう!)

と強く決めました。しかし、岡潔先生のお墓がどこにあるかについては皆目分からず、ベトナムにいる時からインターネットでいろいろ調べました。そして、ある人が書いた次のような文章に出会いました。

「岡潔のお墓は奈良公園の南のほうにある白毫寺(びゃくごうじ)という小さいお寺の裏の墓地にある。白毫寺へ行くにはまず新薬師寺へ行く。・・・新薬師寺南門前から百毫寺方面へ案内板に従って行くと、白毫寺の参道へ入る。“東海自然散歩道”という標識があるので、右折して白毫寺の裏へ回ると、墓地がある。納骨堂のすぐ上の二段目の一番端に、岡潔のお墓はある。納骨堂のすぐ左にある細い道を上っていってもすぐに見つかる。岡家先祖代々霊位と書かれた墓石の側面には俳句

春なれや 石の上にも 春の風
石風

が刻まれている。石風とは岡潔の俳号である。」

<純粋日本人の数学>

岡先生のお墓へ行く手がかりがこの文章だけでした。これを印字し、手帳に挟んでベトナムを発ちました。飛行機の中でも、それを繰り返し何度も読みました。とにかく目指すべきは「白毫寺」であることが分かりました。そして奈良駅に着いた日に、奈良市観光協会が発行している奈良市の地図で見ると、「白毫寺」は地図の下の右端、奈良駅から見て東南の位置にあるのが分かりました。

そして奈良の旅二日目の朝、岡先生のお墓を訪ねるのは、この日の朝の数時間しかありませんでした。何故ならこの日の予定は、朝9時半からみんなで奈良駅近くのお寺を訪ね、午後は「橿原市」まで足を伸ばし、「明日香村」を訪ねることになっていたからです。

それで、朝7時半過ぎに奈良駅前からタクシーで「白毫寺」に行くことにしました。奈良駅前にある大きなスーパーの中に花売り場がありましたので、墓前に供える花を買いました。それから、奈良駅前に四・五台ほど停まっていたタクシーの中で、先頭にいたタクシーに乗りました。

運転手さんは60代半ば過ぎの人でした。「白毫寺までお願いします。どれくらいで着きますか」と言いますと、「了解しました。20分くらいで着きますよ」との答えでした。地図で確かめても、それくらいの距離でした。上手くいけば、9時半までにはまた奈良駅まで帰って来れるだろうと思いました。

しばらくタクシーが走った後、運転手さんが「もう少しで白毫寺に着きますが、そこへ何をしに行かれますか」と、私に尋ねました。白毫寺の案内には「3月下旬から4月中旬に白の花を咲かせる五色椿、9月に参道を埋める萩が名高い寺」とありますので、私が観光目的でそこに行こうとしているのだろうと思われたようです。

私が「実は白毫寺にあるという岡潔先生のお墓に行きたいのです。文化勲章を受章された岡先生ですが、ご存知でしょうか」と言いますと、その運転手さんが「えっ、岡先生のお墓ですか!岡先生に私は高校生の時に数学を教えてもらいましたよ」と言われたではありませんか。

それを聞いた私は「えーっ・・・!」としばらく絶句しました。言葉が出ませんでした。(こんなことがあり得るのだろうか・・・)と驚くだけでした。45年ぶりに訪れた奈良で、岡先生のお墓を訪ねようとして、奈良駅前からたまたま乗った一台のタクシーの運転手さんが、その岡先生の生徒だったとは・・・!どうにも信じられない思いでした。「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、この時の私自身の思いがまさしくそうでした。

運転手さんのお名前は中井さん。「市立一条高校」で岡先生に数学を習ったということです。まさかタクシーの中で岡先生の生徒に出会えるとは思わなかった私は、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。

タクシーの中で中井さんと岡先生についていろいろ話をしているうちに、20分ほどして8時頃に「白毫寺」に着きました。外から見た「白毫寺」はこじんまりしたお寺でした。しかし、この時間に、「白毫寺」の中には入ることが出来ませんでした。何故なら、門が開くのは9時からになっていたからです。

「9時からしか門が開かない・・・」これは困ったなーと思いました。9時半にはみんなと一緒に行動する計画が、おそらく無理になるからです。(どうしたものか?)と思いました。中井さんは「今から一時間もあるし、東大寺でも見学に行きますか」と言われましたが、岡先生のお墓訪問を第一にしてここまで来ただけに、しばらく考え込んでしまいました。

(今から一時間どうすべきか・・・)と考えていた時、目の前に犬を連れたおばさんが歩いて来ました。その人に「岡先生のお墓の場所をご存知ありませんか」と聞きました。すると「その人のお墓かどうかは知らないけれど、このお寺の裏のほうにはたくさんのお墓がありますよ」と言われました。

それを聞いた中井さんはキラリと眼を輝かせて「今からそこに行きましょう!」と言われました。そして、中井さんに私がインターネットで調べたあの記事を見せました。中井さんはザッとそれを読んだ後に「ここからその納骨堂まではおそらくそんなに遠くはありませんね」と話されました。

そしてタクシーで行くこと5分もしないうちに、多くの墓がある墓地が見えてきました。すぐにそこに着きました。納骨堂もありました。しかし、道路の両側に丘があり、そこには階段状に多くの墓地が広がっていて、目指す岡先生のお墓をすぐには見つけ出せそうにありません。タクシーから降りた私は、(この広い中から岡先生のお墓をどうして見つけだしたらいいものか・・・)と、思わずそこに立ち尽くしました。

すると、中井さんが「先ほどの資料をもう一度見せてください」と言われましたので、それを渡しました。そして、「ここには<納骨堂のすぐ上の二段目の一番端に、岡潔のお墓はある。>とありますね。あそこにその納骨堂がありますよ」と言って、その納骨堂を指差されました。そして、「私が探してきます」と言って、タクシーから降りて墓地の坂道を登って二段目まで行かれました。すると、一分もしないうちに、

「ありましたよぉー!」

と叫ぶ中井さんの声が聞こえました。あまりに早く見つかったので、私も驚きました。すぐに中井さんが叫んだ所まで走って行きました。中井さんが一基の墓の前に立っていました。そして、「こちらです!」と言って目の前にあるお墓を指で示されました。その正面には「岡家先祖代々霊位」と刻まれ、右側面には「春なれや 石の上にも 春の風      石風」という岡先生の俳句が確かにありました。

中井さんは「下に行って水を汲んできます」と言って、階段を下りて行かれました。私は「岡家先祖代々霊位」と書いてあるお墓の前に立ち

「岡先生、今日ついに先生のお墓に来ることが出来ました・・・」

と話しかけました。胸がじーんとしてきました。思わず涙が出てきました。感無量でした。中井さんがすぐに戻ってこられて、バケツに入れた水をお墓の上からゆっくりと注がれました。

そして、私は花をお供えしました。二人で手を合わせました。岡先生のお墓の横にはきれいなツツジの花が咲いていました。中井さん自身も岡先生のお墓に来たのは初めてなので、大変喜んでおられました。二人であらためて頭を下げて、岡先生のお墓にお別れの挨拶をしました。

帰りの車の中で、中井さんに「岡先生の授業はどうでしたか」と聞きますと、中井さんは「岡先生は教科書を一切使われませんでした。でも、いつも大変面白い授業をされました。岡先生の授業を聞いて、数学が好きになった生徒が多かったですよ。私もその一人でした。ああいう偉い先生になりますと、教科書などは必要なく、全て頭の中に入っているのでしょうね。ほかの先生たちからも、<岡先生は偉い先生>という風に見られていたようです」と話されました。

岡先生の教え子である中井さんに偶然にも出会い、私が予想した以上に容易にお墓を見つけることが出来ました。(これも岡先生のお導きではなかったか・・・)と今でも不思議に思っています。中井さんにはお礼の言葉を述べて、固い握手をして奈良駅でお別れしました。

私が25歳の時に岡先生は亡くなられましたが、岡先生が亡くなられてから抱いていた《悲願》を、今年ついに叶えることが出来ました。

● 奈良への旅・二日目 ・・・『興福寺』『崇神天皇陵』『石舞台古墳』へ ●

奈良の旅二日目の午前中は、奈良駅近くのお寺に行くことになり、全員ホテルから歩きました。目指すは「興福寺」。そこに至る道路沿いには昔ながらの構えの店が多くあり、ここにも奈良の歴史を感じさせました。そしてゆっくり歩いて10分ほどすると、左に興福寺の五重塔、右手に池がありました。

関谷さんに聞けば、「猿沢池」だというではありませんか。(これがあの有名な猿沢池か!)初めて私は見ました。池の大きさはベトナムのハノイにあるホアン キエム湖を一回り小さくしたくらいです。湖畔に植えてある柳が優美でした。

そして「興福寺」に行きました。五重塔がそびえています。ここには鹿が観光客の周りに群がっています。鹿も馴れたもので、全然人を怖がりません。外国人の観光客も多く来ていて、鹿と遊んでいる写真を撮っています。この「興福寺」も奈良公園の中にあるそうです。

『奈良公園の鹿は春日大社の神の使い』とされてきたといいますが、『春日大社』自体は約1300年もの昔に創建されたのですから、奈良の鹿は長い間奈良の人たちに可愛がられてきたわけです。たまたま読んだ、今年2015年6月11日号の「週刊新潮」には、「奈良公園と若草山には、昨年7月の調査時点で1362頭の鹿が生息している」と書いてありましたが、ものすごい数だと思います。

我々は興福寺のすぐ横に建っている「北円堂」に行きました。「北円堂」は養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提のために建てたお寺であると案内文には書いてあります。その中にも「四天王像」がありました。やはり、「大安寺」で見た「四天王像」とは趣が違いました。

その後「猿沢池」の周りを歩きながら、池の中を覗き込みますと亀や魚が姿を現します。観光客が投げるエサを目当てにして頭をヌッと水面上に出します。その光景をみんな面白がってしばらく眺めていました。

そして、奈良駅前に戻って三台の車に分乗して、天理市にある『崇神(すじん)天皇陵』に行くことに。そこに行くまでには天理市を通過しますが、天理教の建物の壮大さと関連施設の数の多さに驚きました。

12時半に『崇神天皇陵』に到着。私は生まれて初めて<前方後円墳>なるものを見ました。そして、ここで関谷さんの古代史に関する造詣の深さには驚かされました。関谷さんは『崇神天皇陵』を背にして、「崇神天皇は第10代天皇で、神武天皇は神話上の天皇だと言いますが、崇神天皇はその存在が実在した初めての天皇だと学術的にも確かめられています。この天皇陵は242mあります。後円部のお濠沿いに山の辺の道があります。・・・」と説明されました。

『崇神天皇陵』には30分ほどいて、桜井市まで車で行き昼食を摂ることに。1時過ぎに着いた所は“そうめん”のお店「三輪茶屋」。この頃から雨が降り出しました。「三輪茶屋」は大きなお店で、店内には“そうめん”の売り場までありました。我々が座ったテーブルの後ろには、“そうめん”を使ったスダレのような、粋なカーテンがありました。

席に着いてメニューを開きました。メニューには、「万葉」「古都」「山の辺」という名前が載っています。名前からして詩的であり、いかにも奈良らしいですね。雨が降ってきて肌寒くなってきたせいか、みなさん温かい「にゅうめん」を頼んでいました。そして、大変美味しかったです。

雨がなかなか止みませんでしたが、少し小降りになってきたので、2時頃次の訪問地へ行くことにしました。次は明日香村にある「石舞台古墳」。そこに向かうまでの途中の景色を車の中から見ていて、(奈良は何と美しいのだろう)と思いました。

郊外に出ても、見える景色は緑あふれる山々や、なだらかな丘や畑が続き、けばけばしい建物や景観を壊すパチンコ屋のようなものがありません。条例でそういうふうにしているのかどうかは、関谷さんに聞くのを忘れましたが(まるで日本の庭のようなところではないか)と、奈良に住む人たちを羨ましく思いました。

3時過ぎにそこに到着。車を少し離れた所に停めて、そこから歩いて「石舞台古墳」へ行きました。雨が止んできて、風に乗って若葉の匂いが漂ってきます。歩いてすぐに「石舞台古墳」に到着。「石舞台古墳」の周りは水が入っていないお壕が掘ってありました。

入り口の所で、「石舞台古墳」に使われている数々の巨石がどういうふうにして組み合わされたのかが、子どもたちにも分かるように図解して(後世の人たちの想像でしょうが)、説明があります。しかし、みなさんたちはこれを見ても(よく分からんなぁ〜)と首を捻っていたのはご愛嬌でした。

そこから歩いて一分足らず。今までテレビや本でしか見ることがなかった「石舞台古墳」が眼の前にあります。「これが石舞台古墳かぁ〜」と、その一個・一個の石の大きさに驚きました。石舞台の中に入りますと、男性の案内人がいて、この古墳についていろいろ説明してくれます。聞けば、ボランティアで活動しているということでした。

男性の話によりますと、「この墓は築造が7世紀初め頃。この墓の被葬者は【蘇我馬子】ではないかと言われています。約30数個の石で組み合わされていて、岩の総重量は2700トン。上の天井石は77トンほどもあります」

中から上を見上げると、石と石が組み合わさった隙間から、今まで降っていた雨のしずくがポタポタと落ちてきます。しかし、クレーンも重機も無い時代に、よくぞこれだけの石を運び、見事に組み合わせたものです。感心しました。ここには40分ほどいました。

そして、この「石舞台古墳」を最後に私の『奈良歴史トリップ』は終わりました。この日の夜も皆さんたちと宴会をしました。皆さんたちは翌日も奈良の旅を続けられますが、私は別の予定があり、皆さんたちとは翌日お別れすることになりました。

大変充実した『奈良歴史トリップ』二日間の旅でした。この日は、橿原市の<近鉄八木駅>近くのホテルに泊まりました。私たちが泊まった部屋は、男性四人が雑魚寝する部屋でした。奈良二日間の、私の今回の旅が終わりました。





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