春さんのひとりごと
<日本帰国余話・後編・・・ 〜三重、熊本、鹿児島へ〜>
● 教え子たちとの再会@・・・三重県へ ●
奈良での三日目、朝6時に起きて窓の外を見ますと、小さな、形の良い山が見えます。しばらくして、関谷さんにお聞きしますと「<耳成山>ですよ」と言われました。(あれが<耳成山>かぁー)と、しばらくじっとその山を眺めました。「大和三山」の<天香久山><畝傍山><耳成山>の、あの<耳成山>でした。優美な形をしています。
関谷さんの古代史や奈良に関しての造詣の深さについて、この二日間で良く分かりました。
いろいろ伺うと、関谷さんは京都生まれで、高校生の時、将来の進路は「考古学者になりたい!」という夢を抱いていたそうです。
しかし、両親から「考古学では飯が食えないぞ!」と反対されて、東京農大の醸造科に行くことを勧められ、そこで醸造の研究をし、大学を卒業した後、京都の清酒メーカーに勤められました。そこに20年いた後、2002年にベトナム中部のフエに日本酒醸造の技術部長として来られたといいます。関谷さんの古代史に関する博学ぶりは、若い頃からの下地があるのでした。
そして、朝みんなと集合するまでは少し時間があったので、ホテルの前の駐車場に出て道路のほうを見ますと、何やら句碑みたいなものが据えてあります。昨日ここに着いたのは夜でしたので、それには気付きませんでした。よく見ますと、何と「松尾芭蕉」の俳句を刻んだ句碑でした。
草臥(くたびれ)て |
|
|
|
宿かる比(ころ)や |
|
|
|
藤の花 |
|
|
|
はせ越(芭蕉) |
とありました。その横に書いてある説明には
「この句は芭蕉が貞享五年(一六八八年)四月十一日(旧暦)「笈の小文」の旅で八木町の宿に一泊した時のものである。当時の八木の宿は街道町、市場町としての性格を見せていた模様である・・・ 橿原市教育委員会」
とありました。どうやら、「松尾芭蕉」はこの近くにも立ち寄っていたらしいのです。私が大好きな芭蕉の句碑を見たのは生まれて初めてのことですので、大変嬉しくなりました。
この日、私は奈良で皆さんたちとお別れです。三重県で私の教え子たちに会うためです。教え子たちに会う段取りをして頂いたのは、三重県にいるIJさんです。IJさんは二年前にも同じように、私と教え子の再会に協力して頂きましたが、今年もまた教え子たちとの再会に尽力して頂きました。
9時にはホテルを出ました。そして、近鉄八木駅まで送って頂き、私はそこで全員の方々とお別れしました。そして、10時の電車で三重県津市まで行きました。11時半前に津駅に到着。
改札口を出て階段を下りて行くとIJさんが車を停めていて、私を見てニコッとしました。さらに、何とそこには若い男性が一緒にいましたが、彼も私の教え子でした。私を見ると飛びついてきました。私も嬉しい限りでした。
彼の名前はCanh(カーン)君といい、数ヶ月前に日本に来たばかりです。彼は「いなべ市」に住んでいます。わざわざ「いなべ市」から電車に乗って、津駅でIJさんと一緒に私を待っていてくれたのでした。日曜日ですし、遊びに行きたいだろうに、この日のために津市まで来てくれていました。
IJさんの車に乗って、教え子たちが待っている場所に向かいました。車の中でCanh君といろいろ話しました。彼の話を聞いていますと、まだ日本に来たばかりで、仕事にも日本語の勉強にも意欲満々という様子が伺えました。IJさんもインターネットで彼に日本語の指導をしているそうで、「Canh君はやる気がありますよ」と誉めていました。 しかし、毎日の仕事が終った後も、また家でベトナム人の若者に日本語を教えているIJさんの熱意には頭が下がります。
そして30分ほどで、みんながいる会場に到着。そこは「サンヒルズ安濃」という、地域のコミュニティー・センターのような施設でした。大きな建物と広い敷地があり、この日は駐車場が満杯で、IJさんはようやく一台ぶんのスペースを見つけたぐらいでした。
IJさんは今回その一室を借りて、事前に教え子たちをそこに集めていてくれました。みんな全員が自転車で来ていて、先に部屋の中で待っていました。部屋は教室タイプで、ホワイト・ボードも備え付けてありました。中に入ると、IJさんの奥さんと10人の教え子たちがいました。みんなワーッと喜んでくれました。
Canh君と同じように数ヶ月前に日本に来たばかりの教え子もいれば、来年の5月にベトナムに帰る子、後半年で三年の実習が終わりベトナムに帰る子もいます。彼ら一人・一人の顔を見ていますと、ベトナムで教えていた頃の様子を思い出しました。ジーンとしてきました。ベトナムでの授業の開始時と同じように、先ずは「出席」を取りました。IJさんと奥さんは笑われていました。
そして、みんなで一緒にお昼ご飯を食べることに。この部屋にはIJさんが手配したお昼の弁当が用意されていました。彼らとお昼ご飯を一緒に食べながら、いろいろ話していますと、日本に来た時期は前後していますが、それぞれがベトナムでは中学校が同じだったり、郷里が同じ村だったりと、非常に身近な関係にある子たちがいました。ここで初めて、そういう繋がりがあったのを知りました。
今回は、事前にIJさんから私に、彼らに対していろいろ励まして欲しいということを頼まれていましたので、最初にIJさんが話されたのを受けて、私から続けて話しました。
「三年間はあっという間に過ぎる。長いようで短い。大変だろうが、仕事をしながら【日本語能力試験】にも毎年挑戦して欲しい。日本にいる間に二級合格を目指して頑張れば、ベトナムに帰っても日本語を生かした仕事に就くことが出来るのだから。また、寮の中ではお互いに協力し合い、助け合って“いい関係”でいてください。健康にも注意して下さいね」
先輩のHuong(フーン)さんが日本で盲腸炎になり、ベトナムから両親が看病に来ることができない事情の中、IJさんと奥さんがHuongさんの世話を献身的にされたことを思い出していました。IJさん夫妻が何故Huongさんの面倒をそこまでして頂いたのかといえば、彼女が人一倍頑張っていたからでした。そのことは、彼ら実習生たちの間では、知る人ぞ知る事実でした。
この日、IJさんは歌の準備までしていました。“サライ”と“乾杯”の歌詞のコピーも周到に準備されていました。必然的に歌わないといけない状況に陥りました。生徒たちにもこの二曲はベトナムで私が教えていたので、全員が歌うことが出来ます。それで一緒に歌いました。二曲ともみんな大きな声で歌ってくれました。
再会の時から一時間半ほどで、別れの時になりました。玄関口までみんなで出て、そこでお別れすることになりました。車の中から、彼らの手を振る姿が小さくなりました。その姿を振り向きながら、じっと見ていました。
そして、この日はまた神戸に戻る予定で2時過ぎの近鉄電車に乗り、大阪難波でJR神戸三宮行きに乗り換えて、端の座席に座りました。電車が尼崎まで来た時、私が座っていた席の向こう側の扉が開き、ドカドカとお客が入ってきました。私はうつらうつらして半分眠っていました。
すると、近くで私の名前を呼ぶ二人の男の声が・・・。(こんなところで私の名前を呼ぶのは誰だろう・・・)と思い、眼を開けてよく見ると、何とそこにはベトナムでの私の教え子が二人立っているではありませんか。「あれーっ!」と私は叫びました。何たる偶然!!驚きました。信じられませんでした。実は、彼らは二年前に日本に来た「留学生」でした。
「何でここに君たちが?」と言いますと、「今日は休みなので、二人で遊びに行くところです」と一人の教え子が答えました。しかし、たまたま乗った電車の中で、「教え子に再会」出来るとは、偶然といえばあまりに偶然過ぎました。嬉しくてたまりませんでした。
電車が一本違えば、彼らが乗る車両が一両違えば、ドアが一つ違えば、私が座っていた席が彼らから見て正面の端になければ、我々が再会することは出来なかったでしょう。彼ら二人は、次の駅ですぐに降りてゆきました。眼の前に座られていた年配のご夫婦の方も、私たちのやり取りを聞いていて大体のことを察した様子で、ニコニコとされていました。
短い期間ながら、ベトナムでは毎日顔を合わせていた我々ですが、彼らが日本に行ってからは当然会うこともありませんでした。しかし、今年日本で偶然にも電車の中で会えた嬉しさで、彼ら二人も大変喜んでいました。
彼らは私との写真も撮りました。ほかのみんなにも見せるのでしょう。今回の日本帰国では“偶然”がよく起きるなーと思いながら、夕方には神戸駅に着きました。翌日、母が待つ故郷熊本に向けて帰りました。
● 故郷へ帰る ●
生徒たちと会った翌日に、故郷熊本に帰りました。私の故郷の山河は、私が生まれた時以来全然変わっていません。毎年私を迎えるのは母親です。そして、母の友達として二匹のワンちゃんと三匹の猫がいます。寒い冬場には、ワンちゃんには犬小屋の中で毛布をかけてあげて、猫には湯たんぽを入れてあげています。今年は例年よりも朝と夜が少し寒いと言って、母は五月いっぱいまでワンちゃんたちと猫たちにそうしていました。
さらに、去年から彼らに加えて新しい友だちが加わりました。それは「カラス」です。名前は「カー子ちゃん」。昨年の7月から我が家の新しい友だちになりました。我が家に来た時には、まだ生まれて間もないころでした。
ちょうど一年前の7月のある日、夕方薄暗くなった頃に母が家に帰ると、玄関先に黒いものがうずくまっていました。(誰かがお土産でも置いて帰ったのかな・・・)くらいに思って、それに近寄りました。すると、それがヌッと立ち上がって動いたので、母はびっくりして後ろに下がりました。
そして眼が暗い中に慣れてきたのでよく見ると、それは一羽の小さいカラスでした。まだ幼いので、自分のツバサで飛び立てないのでした。その子どものカラスをゆっくりと両手で抱き上げたら、暴れもしないでじっとしたままだったそうです。その日はそのまま部屋の中に入れてあげたそうです。しかし、(なんでまたカラスが我が家に・・・)と、その時は不思議に思ったといいます。
後で母が言うには、猫のために置いてあるエサを狙って親子でやってきて、母が車で突然帰って来たので、カラスの親は驚いて飛び立ちましたが、カラスの子どもだけが取り残されたのだろうということでした。ベトナムにいた私は、そのことをしばらくして母から聞きました。(カラスが人間に馴れるのか・・・!)と、びっくりしました。
そのようにして、この日の翌日から我が家にカラスが仲間入りしました。母はすぐに「カー子ちゃん」と名前を付けてあげました。面白いことに、ワンちゃんや猫ともすぐに友達になったようで、ワンちゃんや猫は「カー子ちゃん」が近くに寄ってきても噛むことはありませんでした。ベトナムでは、カラスは「不吉な鳥」とされていますが、我が家では「一羽の友だち」として仲間入りしました。
不思議なのは、「カー子ちゃん」の上空を、夕方頃に別のカラスが「カー・カー」と鳴いて飛んでゆくのですが、それに対して同じように鳴くこともしないし、羽が伸びてからも一緒に飛んでゆくこともありません。他のカラスたちが誘いにくることもありません。「カー子ちゃん」にとっての友だちはカラスではなく、母やワンちゃんや猫だと思っている様子です。
母の話では「生まれてすぐに人間や犬や猫を目の前に見たので、それが自分の友だちだと考えて、自分のことをカラスだとは思わないのだろうね」ということでした。二ヶ月ほどすると、ワンちゃんや猫のシッポをくちばしで挟んでイタズラをすることも覚えたようです。当然ワンちゃんや猫は怒ります。犬は「ワン!」と吠えたり、猫は爪でサッと引掻こうとしますが、「カー子ちゃん」はすばしこくて、サッと身を引いて逃げます。
そして、今年私が家に帰った時には「他人が来た!」と分かったのか、その日は姿を現しませんでした。しかし二日ほど経ち、母と私が一緒にいる姿を(じーっ)とどこかから観察していたのでしょう。数日後には、母のそばにいる私にも警戒感を示さなくなりました。ソーセージなどを薄く切って、手を伸ばして指に挟んでやると、素早く食いつきにきます。
そういうことを丸一日繰り返していると、私の足元まで近づくようになりました。近づくだけならいいのですが、サンダルを履いた私のつま先を鋭いくちばしでカツカツと突付きます。カラスのクチバシを近くでよーく見ると大変鋭く、頑丈に出来ています。これで突付かれると大変危ないし、痛いのです。カラスのくちばしで、人間の赤ちゃんを突かれでもしたら危険です。
さらには畑を歩いていると、後ろから横走りでピョンピョン飛んで近寄って来て、後ろのカカトをまたくちばしで突付きます。振り返ると、すぐに立ち止まります。また前に進むと後ろから付いて来る。いやー、「カー子ちゃん」は大変なイタズラ好きです。
そして、カラスは頭もいいです。ソーセージを5切れほど与えると、それを一度には食べずに、数箇所に隠しています。そして、一日・二日して、その隠した場所からまた取り出して食べています。(隠した場所を数日後でも覚えているのか!)と感心しました。
ある日などは、母がうっかり外に置いた軽トラックの鍵を、空からサッと舞い降りてきて、口にくわえて屋根に飛んでゆき、そこに鍵を置きました。高い屋根まで母は登ることが出来ず、鍵が無いと車は出せず、(どうしたものか・・・)と困り果てました。
それで「カー子ちゃん、お願い、鍵を返して、返して!」と手を合わせて「カー子ちゃん」のほうに向かって叫ぶと、あら不思議、「カー子ちゃん」は鍵をくわえて舞い降りてきて、くちばしにくわえていた鍵を母の足元にポトンと落としたそうです。ウソのような本当の話です。
しかし、「カー子ちゃん」のイタズラ好きは畑に植えた野菜が大きくなるにつれて、困りものになってきました。ようやく実を付けたピーマンを突付いて遊ぶ。キュウリが花を咲かせた頃に、花をくちばしで引きちぎる。当然キュウリの実が成りません。レタスが大きくなった時には、またまたレタスの葉をくちばしで食いちぎって遊ぶ。田舎に帰って来た私が食べるレタスが消滅しました。
せっかく母が苦労して植えた野菜畑が、「カー子ちゃん」のために全滅しそうな様子になりました。(こらぁー、イカン)と母も思い、母の両足の間に警戒せずに入ってきた「カー子ちゃん」をサッとつかんで両手で抱きました。
それで、今は植木の茂みの中に金網で作った「カラス小屋」に、畑の野菜類が大きくなって収穫が終わるまでは「隠居」してもらっています。それが過ぎれば、また「カー・カー」と鳴いて、空を自由に飛びまわるでしょう。
● ラッセル先生との再会 ●
奈良で出会った「浜さん」との再会が、私の故郷の玉名で実現しました。奈良で別れてから二週間後に、「浜さん」から「今日玉名に着きました!24日の日曜日に会いましょう」と電話があったからです。私も嬉しかったです。そしてその日の夕方、お兄さんの家で「浜さん」には歓待して頂きました。お兄さんの家で、「浜さん」が描かれた「漆絵」も見ました。
「ラッセル先生との再会」の話は、その「浜さん」との再会のために、市内の喫茶店で少し休憩したことから始まります。私が「浜さん」と会う時間までには一時間ほどあったので、4時頃に市内にある喫茶店に“偶然”入ったことから、またまた“偶然の再会”が起きました。
私の友人に「待ち合わせの時間まで少し時間があるので、どこでもいいから浜さんのお兄さんの近くにある喫茶店に行ってもらえますか」とお願いしました。「浜さん」のお兄さんの住所は事前に聞いていました。玉名市内の中心部です。
私の友人は「分かった!」と言って、お兄さんの住所をスマートフォンで調べて、そこから余り遠くない喫茶店を探してくれました。スマートフォンを持たない私は、それを使って目指す場所を探すことが出来ると知り、感心しました。それが「Café Gallery Mocha(カフェー ギャラリー モカ)」でした。その喫茶店に入るのは、実は初めてでした。
その喫茶店は高瀬大橋の近くにありました。高瀬裏川の「花しょうぶまつり」会場のすぐそばでした。そこまでは友人の車で行き、私一人だけ降ろしてもらいました。友人はそのまま去って行きました。
そして、私がその喫茶店のドアを開けて中に入ろうとした瞬間、中から二人のお客さんが出て来られました。その中のお一人が「ラッセルさんが・・・」と話されていたのが、私の耳に入りました。その人は私とすれ違ったまま去って行きました。
(この玉名市で、「ラッセルさん」と言えばあの人しかいない・・・)
そう思い、私はすぐに喫茶店の中にいる女性の店員さんに「どうして今の方はラッセルさんを知っているのですか?」と聞きました。すると、その女性の方は「ここに飾ってある絵は全部ラッセルさんの絵ですよ」と言って、壁に掛けてある絵を示されました。
よく見ると、確かに多くの絵が掛けてありました。壁一面にきれいな花の絵や鳥の絵。風景画や人物画が掛けてありました。それは私から見て、描いてある題材といい、色彩といい、実にこころ打たれるものでした。(あのラッセルさんにはこういう趣味があったのか!)と、これには感心しました。彼と一緒に働いていた時、「趣味は絵です」とは一言も聞いていませんでしたので、その絵を見た時「意外な嬉しさ」を覚えました。
ラッセルさんはイギリス生まれで、今年50歳です。1993年に日本に来ました。そして、1995年頃に玉名市に移住しました。玉名市では我が社『能開玉名教室』に勤められ、小中学生に英会話を教えていました。私が熊本で教えていた幾つかの教室にも来られました、それで私は彼と知り合いになりました。彼は非常に誠実で、性格も明るく、生徒たちからも大変人気がありました。
私がベトナムに行ってから、ラッセルさんにしばらく会うことはありませんでしたが、四年ほど前にみんなで集まった宴会の席にひさしぶりに顔を出されました。しかし、ここ三年ほどはお会い出来ませんでした。それで、しばらく会っていないラッセルさんの名前をその喫茶店で聞いて驚いた次第です。
喫茶店の方は「実はこうして、今ラッセルさんの絵の個展を開いているのですよ」と言って、私に一枚の絵葉書を渡されました。その絵葉書には「Russell Teece ONE-MAN SHOW 個展」と書いてありました。期間は「5月21日〜6月1日」となっています。
壁に掛けてある絵の中には、「菊池渓谷」の絵が幾つもありました。「菊池渓谷」は菊池川の上流にある渓谷で、鬱蒼とした原生林に覆われ、秋は紅葉が魅力です。ラッセルさんもおそらく気に入ったのでしょう。
さらにその女性の方は、「3時までラッセルさんはここにおられましたよ。この個展の期間中は毎日ここに来て、3時までラッセルさんはいますよ」と言われました。「そうですか!ではまた明日伺います。私はラッセルさんとは古い友人です」と言いました。すると、「そうなんですか。では今からラッセルさんに電話してあげますね」と言って、直接電話されました。
するとすぐに電話が繋がりました。ラッセルさんも喫茶店からの電話を、すぐに私が代わったので驚いていました。「翌日もラッセルさんがここに来られるのなら、翌日にまた会いましょうね」と約束して電話を切りました。実は、翌日は昼12時からこの近くの葬祭場で、同級生のお母さんの告別式があるので、私もそれに行く予定でいたからです。それが終わり次第、この喫茶店に来ようと思いました。
そして、翌日同級生のお母さんの告別式が終わり、母と一緒に喫茶店に行きました。私も母も喪服のままでしたが、仕方がありません。喫茶店のドアを開けました。約束した通り、ラッセルさんが目の前にいます。嬉しい限りでした。固い握手をしました。彼の風貌は以前と全然変わりありませんでした。
さらにびっくりしたのは、彼のそばに私の知人の女性が二人いたのでした。大牟田教室と玉名教室で事務をされていた方々でした。大牟田教室の女性の方には、私が帰国した時にかつての同僚が開いてくれている宴会で、毎年といっていいほどお会いしています。
しかし、玉名教室にいた女性の方は、私がベトナムに行って以来、ひさしぶりの再会でした。これもまた“偶然”でした。私が今日ここに顔を出すことを知っておられたわけではありません。三人ともひさしぶりの再会に、話が弾みました。
この日は高齢の母親と一緒でしたので、あまり長居は出来ませんでしたが、私はラッセルさんと来年の再会を約束して別れました。ラッセルさんは今『能開』は辞めていて、和水町(なごみまち)で英会話教室を開かれています。ラッセルさんは、平日は夜遅くまで授業があるので、「来年会うのなら日曜日ですね」と話してくれました。
そして、ラッセルさんと再会してから4日後の朝、いつものように「熊本日日新聞」を開いた私は、思わず身を乗り出しました。そこには「ラッセルさんの絵の個展」の紹介の記事が載っていたからです。大いに嬉しくなりました。次のように書いてありました。
〜〜熊本の風景に 故郷・イギリス重ねて〜〜
「イギリス人のラッセルさんは・・・中学時代に始めた趣味の絵画を続けており、玉名市に移って以来初めての個展を開いた。水や植物の絵が多く、天水町のコスモス畑や、家族と訪れた菊池渓谷をモチーフにした川のせせらぎなどを描いている。
水彩の下絵に油絵を塗り重ね奥行きを持たせ、絵の具を浸したひもをキャンパスにたたきつけて花の茎を表現するなど、自由な作風が特徴だ。ラッセルさんは“自然豊かな熊本の風景が作品のヒントをくれる。日本の美しさを感じてほしい”と話す」
−5月29日付「熊本日日新聞」−
これからも趣味の絵画を続けながら、玉名で英会話を教えられることでしょう。来年ゆっくりとラッセルさんにお会いするのが楽しみです。
● 教え子たちとの再会A ・・・熊本市へ ●
6月初旬に『熊本外語専門学校』を訪問。この日はあいにく雨が降っていました。12時半に『熊本外語専門学校』に到着。昨年もここを訪問しましたが、その時にはベトナムからは8名の留学生が来ていました。今年は18名いましたので、2倍以上に増えているわけです。
今日本に留学生している外国からの留学生は、1位:中国94,399人、2位:ベトナム26,439人、3位:韓国15,777人となっていて(2014年度)、ベトナムからの留学生が中国に次いで多いのです。少し前までは韓国が2位でした。このような流れは今後も続くでしょう。
今回の『熊本外語学校』訪問にあたっては、校長先生の横田先生には「秘密にしておいて下さい。“サプライズ”でいきましょう」と、事前にお願いしていました。さらに「今年は何か生徒たちの中で問題がありますか」と聞きますと、「一人だけ入管から“アルバイトのし過ぎだ”と注意された生徒がいます。後は特に大きな問題ありません」と言われました。
12時50分にすべてのクラスの授業が終了するというので、それまで事務所にいました。今ベトナムの留学生のクラスは2つのクラスに分かれています。それで、授業終了後に一クラスに全員を入れてもらうことにしました。時々そうして連絡事項や諸注意をしていることがあるそうなので、生徒たちは誰一人何も疑わずに一つのクラスに入っていきました。
そして、女性の先生から最初に少し話をして頂きました。私はドアの外で待機していました。次に女性の先生が「実はみなさんに会いたい人が来ています。どうぞ!」と言って声を上げて、手招きされました。それから中に入りました。
この日私が来ることは、生徒たちは全く誰一人知らなかったので、「ワァー!」という歓声が上がり、みんな驚いていました。私から見ても、彼らの予想外の表情が良く分かりました。先生たちと事前に打ち合わせていた“サプライズ”は大成功でした。
昨年私が注意した「深夜の雑談」と「漢字テストの努力」はずいぶん改善されているようで、私も少し安心しました。今年はある一人の生徒が注意を受けたという「勉強とアルバイトのバランス」について以下のような注意をしました。
「みなさんは“留学生”として日本に来たのです。“日本語を勉強するため”に日本に来たわけで、“日本で働くために”に来たわけではない。その目的を忘れないようにしてください。だからこそ、毎年<日本語能力試験>を受けて、日本語のレベルを上げること」
みんな「分かりました」と答えてくれました。しばらくベトナムのこと。日本での日々の過ごし方のこと、今後のことについても話しました。この学校には二年間学び、その後は専門学校に進む予定になります。みんながそういう目標を持っていることを話してくれました。
40分ほどいろいろ話して、そろそろ去ろうとしましたが、一人の生徒が「今から“サライ”を歌ってください!」と大きな声で言いました。他の生徒たちも「そうだ、そうだ!お願いします」と言うので、歌いました。
歌っている時、彼らがベトナムの教室で勉強していた時の姿を思い出し、(その彼らが今こうして日本の熊本にいる・・・)ということに想いを馳せると、つい眼が潤んで来ましたがグッと堪えて歌いました。生徒たちの中にも、目を押さえている子がいました。それが終わり、教室の中で「また来年来るからね!」と言って、そこを後にしました。
最後に、事務室で横田先生にもお礼の挨拶をして、「生徒たちのことをくれぐれも宜しくお願いします」と言って、学校を去りました。外はまだしとしと雨が降っていました。
● 教え子たちとの再会B ・・・鹿児島垂水市へ ●
熊本で生徒たちに会った翌日、「鹿児島の垂水市」に行きました。そこにも私の教え子たちがいます。昨年もそこを訪ねました。いつも垂水訪問の段取りをしてくれるUさんに事前に「6月6日(土)に垂水に行きたいと思いますが、いいでしょうか」と打診しました。「いいですよ。でも漁協のほうが土曜日は午前中までかもしれない。漁協の人たちはいないかも」と言う返事でした。
その週は、私の日程の都合上どうしてもその日しか空いていないのでした。私は「出来れば漁協の人たちにもお会いしたいけれど、午後はお休みなら仕方がありません。大きな目的は、ベトナム人の実習生たちに会うことですから」言いました。
そして、新幹線で「鹿児島中央駅」まで行きました。12時頃そこに着きました。改札の出口でUさんが待っていてくれました。駅構内のレストランで一緒にお昼ご飯を食べ、Uさんの車で「垂水漁協」に向かいました。この日、昨日までの雨とは打って変わって快晴でした。
この日の桜島はおとなしく、噴煙はもくもくと吹き上げていましたが、爆発音や噴火はありませんでした。道路の歩道上には、至る所に火山灰をホウキで掃いた痕があります。火山が無いベトナムから来た彼らは、さぞやびっくりしていることだろうと思います。
今回はUさんに桜島が良く見える展望所に案内して頂きました。それは桜島の中腹にありました。名前は「湯之平展望所」。Uさんが言われるには、「私も最近まで、ここにこういう展望台があることを知らないでいました。ほんの最近、友人にここを紹介してもらって来ましたが、鹿児島県人ながら感動しました」と。
確かにその展望台から見ると、桜島の雄大な山容が眼の前に迫り、反対側に回ると「錦江湾」の中を回る海流が、明るい陽光を受けてキラキラと照り映えていました。Uさんと同じく、その光景には私も感動しました。ここには観光バスも停まっていて、外国人の観光客が多く来ていました。
そして、1時半に「垂水漁協」に到着。ここにも火山灰が降り積もっていました。ここの漁協の位置から見ると、桜島の噴煙が良くみえます。事務所のほうに眼を向けますと、人の気配が感じられません。念のために、Uさんが事務所のある建物のほうまで行きましたが、やはり鍵が掛かっていて留守でした。誰もいませんでした。
(もしかしたら、午後はお休みかも・・・)というのは想定していたことなので、Uさんも「よし、誰もいないようだから、実習生たちがいる寮に行いましょう」と言われて、そこへ向かいました。寮へは車で行けば2・3分の距離にあります。歩いてでも行けますので、恵まれています。実際寮の中には自転車もバイクも無かったので、彼らも歩いて行っているのです。
Uさんが寮の扉を叩きますと、Hang(ハン)さんが最初に出てきました。彼女のお姉さんは5年ほど前に私が教えた生徒でもありました。さらにこの日彼女が言うには、私が日本にいる時に、また妹さんも学校に入って来ているということなので、同じ家から三姉妹が続けて同じ学校で日本語を勉強することになります。
ベトナムに帰ってからのことになりますが、鹿児島でHangさんに妹さんの名前を聞いておいて、私が学校に顔を出した時に、最初にその妹さんに声を掛けました。お互い初めて会うのですが、彼女は(どうして自分を知っているのだろう・・・)という表情をして不思議がっていました。
そして、Hangさんに続いて、今この寮に入っている全員の教え子たち5人が現れてきました。去年ここを訪ねた時には4名いましたが、今年の4月から新たに2名が加わりました。
彼女たち2人が垂水市に来た時には、市を挙げて歓待してくれたそうです。市役所の中で歓迎会を開いて頂いて、市長自ら歓迎の挨拶をされました。その時の様子は4月16日付けの「読売新聞」にも載りました。以下のような内容が載りました。
<ベトナムからの研修生歓迎 垂水市漁協に2人、3年間実習>
垂水市漁業協同組合(岩切隆美組合長)が今月から新たに受け入れたベト ナムの女性研修生2人の歓迎式が、市役所で行われた。市漁協は、日本一の生産量を誇る養殖カンパチについて、3年間の実習を通じて2人に冷蔵保存や加工の 技術を身につけてもらい、ベトナムへの輸出拡大にもつなげたいとしている。
2人は、グエン・ティ・トゥエット・ランさん(21)とグエン・ティ・キム・ティエットさん(21)。市漁協がベトナムから研修生を受け入れるのは2013年10月に続き2回目で、これで研修生は女性ばかり計6人となった。歓迎式では、尾脇雅弥市長が「先輩方と仲良く、楽しみながら仕事に慣れてください」とあいさつし、2人に住民票を手渡した。
民族衣装のアオザイを着て出席した2人は「日本に来てとてもうれしいです。これからお世話になります」と日本語であいさつした。岩切組合長は「ベトナムの研修生はとても勤勉。第1陣のメンバーらに教わりながら頑張ってほしい」と期待していた。
=2015年4月16日付け 「読売新聞」=
同じような歓迎会は、今いる4名の教え子たちが二年前に垂水に来た時にもそうでした。この時は、垂水市に初めてベトナム人の実習生たちが来たということで、多くのマスコミ関係者も招待されて、市役所で歓迎会が行われました。その時にも「読売新聞」に歓迎会の記事が載りました。ベトナムにいる私も、その時の状況を報告した記事を読みましたので、実に有り難く思いました。
寮の中にUさんと一緒に入り、彼女たちの仕事の様子を聞きました。彼女たちは「毎日朝6時から昼の2時まで働いています」と答えました。その後は昼寝をしたり、寮の中でみんなでお喋りをしたり、夜になると日本語を勉強したりしているそうです。「外にはあまり出ないの?」と聞きますと、「火山灰が降ってきて、服は汚れるし、眼は痛くなるし、あまり外出は出来ません」と言いました。
「今の仕事はどう?」と尋ねますと、「毎日楽しく仕事をしていますよ」と答えました。事実Uさんが話されたことですが、「ある日、彼女たちがカンパチの加工をしている様子を見ましたが、実に上手な包丁さばきでしたよ」とのことでした。第一期生として垂水市に来た彼女たちは、そこまでレベルが上がってきているのかと思うと嬉しい限りでした。
今年垂水市に来たベトナム人の生徒は、記事にもあるように「Lan(ラン)さん」と「Thiet(ティエット)さん」と言います。彼女たちは一年半ほどベトナムで日本語を勉強しました。そして、「Thietさん」はベトナムにいる時に<日本語能力試験>4級に合格しました。彼女は私がベトナムで日本語を教えていた時に、「日本にいる間に、<日本語能力試験>2級を目指して頑張ります!」と、私に話していました。
毎日の仕事と日本語の勉強の両立は大変でしょうが、“やる気”がある彼女ならそれを達成するのではと期待しています。彼女たちとは一時間近く話しました。最後の別れ際、握手をして別れようとした時、なかなか手を離してくれませんでした。家族もいない異国で、頑張っている彼女達の心中が痛いほどよく分かりました。
今年日本に帰って、二年ぶりに三重県の教え子たち。そして、故郷・熊本に帰った後、昨年に続いて「熊本外語専門学校」の留学生たちと「垂水漁協」の実習生たちに会うことが出来ました。来年もまた彼らに会えればと願っています。
● 教え子たちとの再会C・・・日本滞在最後の夜・神戸にて ●
日本滞在が最後になる日、夕方まで本社にいて、6時過ぎにそこを後にしました。そして、
本社のビルを出てエスカレーターで神戸駅に上がろうとしようとしたまさにその時、何と三人の男子の教え子たちとの“偶然の再会”がありました。この日の夜が今年最後の日本での滞在となり、翌日はベトナムに帰ろうという日に、「何たる偶然か!!」と思いました。
あまりの嬉しさに、そのまま三人を誘って食事に行きました。彼らは4日前に日本に来たばかりで、今神戸で日本語の特訓を受けていて、それが終わり、ぶらぶらと神戸の街中に出て来たところを私とバッタリ出会ったのでした。
神戸では一ヶ月ほど研修を受けて、二人は大阪で「塗装」の仕事に就き、一人は神戸で「溶接」の仕事をすると言いました。これから日本で三年間彼らの生活が始まる最初に、そして私の日本滞在最後の日に彼らに会えたのは実に意外であり、不思議でもありました。
|