春さんのひとりごと
<Michiko先生を偲ぶ会>
サイゴン市内にある「人文社会科学大学」の構内で、そこに集う大学生たちに個別に日本語を教えておられたMichiko先生が亡くなられて、早や二年になりました。9月30日がその命日です。
Michiko先生の命日が近づいてくると、昨年も今年も、私は自分が教えているクラスに入った時、Michiko先生についてその人となりを紹介し、「実はその方は、サイゴンで交通事故に遭われて亡くなられました・・・」と静かに話してあげます。
その後で、以前Michiko先生についてベトナムの新聞に掲載されたベトナム語の記事をクラスの中の一人に読んでもらいます。Michiko先生について書かれたその記事は、2007年10月にベトナムの新聞に載りました。それを私が日本語に訳したことがありました。
そして、Michiko先生が亡くなられた後、「サイゴン日本語クラブ」というWeb-Siteの責任者・Thanh(タン)さんから「ずいぶん昔の記事ですから、日本人もベトナム人もそのMichiko先生の記事を読んだ人が今は少ないと思うので、原文と日本語訳を送ってくださいますか」と請われましたので、その新聞記事と日本語訳を寄稿しました。
私は生徒がベトナム語で書かれたその記事を読んでくれている時、じっと目を閉じています。生徒たちがシーンとして聞いている様子が伺えます。誰一人として、お喋りをしている生徒はいません。そして、生徒がベトナム語で書かれた、A4にして約2ページ半に及ぶMichiko先生の記事を読み終えた時、静かに目を開けます。
記事を読んでくれた生徒に向かい、「ありがとう!」とお礼を言い、クラス全体に向かって「しかし、今このMichiko先生はこの世におられないのです・・」と話してあげます。クラスの中の隅のほうで、下を向いて肩を震わせている生徒たちがいます。涙を拭っている子もいます。
私も涙を抑えきれなくなりそうになり、ふっとガラス窓のほうに近寄り、青空を見上げます。青い空にMichiko先生の顔が浮かんできます。昨年もそうでしたが、今年もやはり同じような姿を生徒たちに見せてしまいました。
ちなみに、私がベトナムの生徒たちの前で紹介するのは、日本人ではMichiko先生お一人。ベトナム人ではPhan Boi Chau(ファン ボイ チャウ)とBao(バオ)くんの二人です。生徒たちに話すのは、Michiko先生の場合はその命日が近づいてきた時と、授業中に突如ふっと思い浮かんだ時。
Phan Boi ChauとBaoくんについては、新しいクラスがスタートした時の初めの頃に、必ず紹介してあげます。日本に行く彼らの先達や先輩にこういう人たちがいたのだということを知ってもらいたいためにです。
Phan Boi Chauは今から約百年前に、フランスからベトナムの独立を成し遂げるために、<反仏独立運動>に参加して、ベトナムの留学生たちを日本に留学させる『東遊 (ドンズー) 運動』を興した人物です。そのために、Phan Boi Chau自ら日本に留学しました。
2013年9月末に、「日越国交樹立40周年記念番組〜愛しき百年の友へ〜」と題して、ベトナム人Phan Boi Chauと、日本人医師・浅羽佐喜太郎の交友を描いた番組が日本とベトナムの双方で放映されたことから、この二人の存在がベトナムでも日本でもあらためて広く知られるようになりました。
Baoくんは今年31歳の青年です。彼は2006年に実習生として日本に行き、2009年にベトナムに帰国しました。そして、その日本にいた一年半目に、「日本語能力試験二級」に合格し、二年半目に「日本語能力試験一級」に合格しました。
「日本に行った実習生が日本語能力試験一級に合格した!」
という例を聞いたことがなかった私は、彼に「一体、どういう勉強をしたのですか」と聞いたことがありました。彼が答えた内容は驚くべきものでした。
「毎朝5時に起きて、8時まで3時間勉強しました。そして、9時から6時まで工場で働いて、それが終わるとすぐに寮へ帰りました。そして、夜7時から11時までまた勉強しました。それから、12時に寝ました」
実に一日7時間も日本語を勉強していたというのです。それを3年間も続けながら・・・。Baoくんの答えを聞いた時、(そこまで頑張っていたベトナム人の若者がいた!)という事実に深く感動し、涙が出る思いでした。
彼ら二人のベトナム人を生徒たちに紹介するのは、こういう先達、先輩の存在が彼らの記憶の中に残り、彼ら実習生たちが日本にいる時に、「Phan Boi Chauが恩人・浅羽佐喜太郎のために建てた石碑を見に行こう!」と思い立って<静岡県袋井市>を訪ねたり、「Baoくんのように毎年日本語能力試験に挑戦して、二級や一級に合格しよう!」と、日本語の勉強にも勤しんでくれたらと思うからです。
事実、静岡県にいる私の教え子にも、<Phan Boi Chauが建てた石碑>を見に行った者がいます。彼が「静岡県にある<Phan Boi Chauが建てた石碑>を見に行きました」というメールを私まで送ってくれた時には、深く感動しました。
そして今年、10月3日の土曜日に有志の方々が集まり、<Michiko先生を偲ぶ会>を行うことになりました。平日は集まりにくいので、土曜日にしました。<偲ぶ会>の場所は、昨年と同じく「SUSHI KO」でした。今年は、全員で六人の人たちが集まりました。日本人が四人、ベトナム人が二人参加しました。全員が直接・間接的にMichiko先生を知っている人たちです。
日本人の参加者は、今もMichiko先生の知人に日本語を教えておられるMZさん。サイゴンでケーキ屋さんを営まれているYAさん。Hong Bang(ホン バン)大学で日本語を指導しておられるTRさん。そして、私の四人です。全員が昨年も行った<Michiko先生を偲ぶ会>に参加しています。
実は、Michiko先生が亡くなられた当日、その夜の十時半過ぎにMichiko先生の訃報を私に知らせてくれたのがMZさんとYAさんでした。私はその二ヶ月前にMichiko先生にお会いしたばかりだったので、どうにも信じられない思いでした。しかし、そのお二人から続けて「Michiko先生の訃報」の連絡を受けて、私も「Michiko先生逝去」の悲しい事実を、その日の夜に重く受け止めざるを得ませんでした。涙を抑えることが出来ませんでした。
MZさんからは、ベトナムでMichiko先生が亡くなられた後に、日本の「北日本新聞」に掲載されたMichiko先生の新聞記事を頂きました。その記事には「日越つないだ懸け橋」というタイトルで、Michiko先生の写真と記事が一面に載り、Michiko先生がアオザイを着て真ん中に立っておられる写真とともに、次のように書かれています。
「日本を離れ、ベトナムで10年以上にわたって若者たちに日本語を教えていた女性がいた。南部ホーチミン市で9月、交通事故で亡くなった富山県出身の宮本美智子さん=当時(60.)。一人で海を渡り、不自由な体に負けず、両国をつなぐ懸け橋となっていた。突然の別れを惜しみ、現地では教え子や在ホーチミン日本国総領事も参列し、葬儀が営まれた。遺品は今後、図書館に展示されるという。宮本さんの足跡は小さくとも、確かに現地に残される。」
=2013年11月4日付け 北日本新聞=
そして、この日は二人のベトナム人の青年も参加してくれました。男性のDさんと女性のHさん。二人とも、毎週の日曜日に「青年文化会館」で行われている<日本語会話クラブ>のメンバーたちです。二人はMichiko先生に直接会ったことはないと言っていましたが、友人やいろんな情報からMichiko先生の存在と、その逝去のことを知っていました。
「サイゴン日本語クラブ」の編集責任者・Thanh(タン)さんは昨年参加しました。しかし、今年はちょうど日本行きの出張と重なり、どうしても参加出来ないことを事前に伝えてくれていました。彼は旅行会社に勤めているので、土日が特に忙しい様子でした。
昨年彼が参加した時に、私に手渡してくれた一枚の紙を今も私は大事に持っています。そこには、彼の手書きの字で次のような漢詩がしたためられていました。ベトナム人の若者にして、これだけの漢詩が書けるというのはすごいことで、彼は中国語も勉強してきたのだろうか・・・とその時想像しました。
<在 如 敬>
日本国出身重義
宮本美智子先生
越南国開道重情
道義之心
宮本美智子先生
両国之情
これら六人の有志の人たちが夕方「SUSHI KO」に集まりました。そこに私は一冊のファイルを持参しました。ファイルの最初のページ部分には、Michiko先生の写真を入れています。その次のページから、Michiko先生が亡くなられた後に、ベトナム語や日本語でインターネット上にいろんな人たちが書いてくれていた記事内容を、私が目にした限り全て印刷して、それらをその一冊のファイルに収めていました。
それらを皆さんたちに読んでもらえれば、「Michiko先生を偲ぶ会」に参加した人たちに、Michiko先生の人柄や亡くなられるまでの活動内容をより深く理解して頂けるだろうと思ったからです。ベトナム語で書かれた記事も結構ありますので、二人のベトナム人の参加者にもより良く分かったようで、二人とも熱心に読んでいました。
この場に参加していた方々で、一番身近にMichiko先生と付き合っておられたのは何と言ってもMZさんです。彼は「人文社会科学大学」でMichiko先生が大学生たちに日本語を教えている時の姿を直接見ていました。
私が何回か直接Michiko先生にお会いした時には、いつもニコニコしておられたので(生徒たちにもそうだったのだろうなぁ〜)と想像していたのですが、実際には生徒たちには大変厳しかったそうです。Michiko先生が亡き今、その「厳しさ」もまた、「優しさ」と背中合わせだったMichiko先生のお人柄でもあり、魅力だったことでしょう。直接Michiko先生から指導を受けていた生徒たちは、Michiko先生の生前の時の姿を思い出し、深い悲しみを覚えていたことだろう・・・と想像します。
実は私自身もMichiko先生のことを思い出した時、個人的に深い感慨にとらわれた出来事がありました。それはMichiko先生が亡くなられてちょうど一年目を迎えた頃のことでした。
朝早く娘を学校に送るために、バイクの後ろに娘を乗せて学校に向かいました。いつも通る道を、いつもと同じゆっくりしたスピードでバイクを走らせていました。ただ違っていたのは、もうすぐMichiko先生の命日が来る日のことを思い出し、生前のMichiko先生のことをいろいろ考えながらバイクで走っていたことでした。気持ちがその方にずーっと向いていて、周りの情景が一時的にぼやけてきました。
そして、広い交差点に入った時に、赤信号に変わったのに全然気づきませんでした。娘もこの時には、バイクの後ろでうつらうつらして眠っていたらしく、「赤信号だよ!」と私に注意することもありませんでした。後で振り返れば、私以外のバイクは後ろで停止していたような記憶があります。
私は赤信号のまま、交差点に入ってしまったのでした。右側から進行して来るバイクが多いなぁーという感じがしましたが、私を避けて通り過ぎました。その時もずっと私はMichiko先生のことを考え続けていて、まだぼんやりとしていたようです。
そして、左側から何やら大きい物体が走って来たのが分かりました。そして、その大きな物体は私のバイクの横にぶつかる寸前で急ブレーキを掛けて、大きな音を立てて停まりました。それは多くの乗客を乗せた市内バスでした。しかし、私にぶつかることはありませんでした。私は娘を後ろに乗せたまま、そのまま交差点をバイクで抜けて行きました。2・3分ほど経った後、ようやく我に返りゾッとしました。
あの時バスが急ブレーキを掛けて停まってくれたからいいようなものの、もし停まってくれなかったら・・・と思うと背筋が寒くなってきました。たまたま運が良かったと言うしかないのですが、後でしみじみとして思ったのは、
(あれはMichiko先生のご加護だったのではないのか・・・)
という思いです。今振り返っても、私と娘が乗っていたバイクにバスが衝突しても不思議ではない状況でした。しかし、あの時バスはギリギリの所で急ブレーキを掛けて停まってくれました。亡くなられた後も、Michiko先生は天国で私と娘を護って頂いた・・・、今でも私はそう思っています。
皆さんがそれぞれMichiko先生の思い出や、気持ちを語り合いながら、この日の<Michiko先生を偲ぶ会>は夜の十時近くまで続きました。来年も再来年も、そしてこれからもずっと、有志の方々に集まって頂き、<Michiko先生を偲ぶ会>を続けていくつもりです。
|