アオザイ通信
【2015年11月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<ハノイから来られた『日本語教育アドバイザー』>

11月初旬、『日本語教育アドバイザー』のKH先生がサイゴンに来らました。約半年ぶりの再会でした。KH先生は今年51歳で、現在ハノイに住んでおられます。「今年の9月でベトナム滞在二年目を迎えました」と話されていました。

私がKH先生に初めてお会いしたのは、2011年12月のことでした。サイゴンにあるVJCC(ベトナム日本人材協力センター)において、「日本語教育に関するセミナー」が開かれることになり、そこに私が参加したことがありました。

そこでのセミナーの内容は「日本語教育の指導方法について」でした。そこに日本から招待されて講義されたのがKH先生でした。KH先生の所属は「国際交流基金」で、肩書きが『日本語教育アドバイザー』でした。その時私は初めてそういう職種があることを知りました。

『日本語教育アドバイザー』の役割とは、いわゆる「生徒たちへの日本語の教え方」ではなく、「日本語を教えている先生方への指導方法」を講義されるというのです。それは極めて高度なレベルを要求されますが、KH先生は長い間それを実践されていました。この時には、サイゴンで日本語教育に携わっている日本人やベトナム人の先生たち、約40人が参加していました。

講義の時間は一時間半ほどでしたが、KH先生の講義を聴いていて、私自身が生徒の立場で日本語の授業を受けているような、不思議な気持ちになりました。それぐらい話題が豊富で、生徒たちに如何に日本語に興味を持たせて、さらに定着させてゆくかのノウハウを提供されました。

特に私が感心したのが、Shadowing(シャドウイング)という方法です。これは生徒たちにテキストを閉じてもらい、先生が話す音声だけを聴いて、少し遅れて先生が話すのと同じ内容を、だんだんと滑らかに言えるようにする訓練です。

そういう語学の訓練方法があるのだということを、KH先生からその時初めて教わりました。それ以来、私が授業に入るクラスで、テキストの中の「会話編」を練習する時に、すぐにこのシャドウイングの方法を採り入れました。

あと一つ、KH先生はその時「会話試験用の想定問答集」を参加者にプレゼントされました。これは、日本語テキストの第1課から第50課までの中で、一課・一課ごとに「会話試験用の想定問答集」の例をいろいろ挙げて、それをコピーして小冊子にされたものでした。それを全員に配られました。

四年ほど前に頂いた小冊子ですが、今でも私は生徒たちの本番の「会話試験」の前にはそれを活用して、生徒たちへの会話試験の訓練をしています。もちろん本番の試験では同じ問題は出ませんが、似たようなパターンが出てくる内容が多いので、大変重宝させて頂いています。

2011年12月にKH先生とサイゴンで初めてお会いした時、その場で名刺交換させて頂きました。私の名刺をじーっと見られて「ああー、本社は神戸にあるのですか。であれば、もしかしたら日本に帰る時には、関西国際航空に降りられますか」と尋ねられました。

私が「そうです」と言いますと、「であれば、日本に帰られた時、もし時間があれば連絡してください。今私はその関空の近くの学校で外国人に日本語を教えていますので」と答えられたのでした。それを聞いて私も「ええーっ、そうですか!」と嬉しくなりました。

実は、KH先生の講義を受けていた時、その講義の内容もさることながら、私が感心したのは、その風貌が実に(教育者らしいなぁ〜)ということでした。「教育者」という雰囲気が全身からにじみ出ているような印象を受けました。それで、(いつかまた再会したいものだ)と願っていました。

そして翌年2012年の春に、私が日本に帰国する予定が決まった時、KH先生に事前に連絡をしました。私の宿泊場所が神戸なので、「では神戸駅前近くの居酒屋で再会しましょう!」と言う嬉しい返事を頂いて、予定通りその日に再会することが出来ました。関空近くでの仕事場から、そのまま神戸駅前まで駆け付けてこられたのでした。

そして、その翌年の2013年にも私が日本に帰国した時にまた神戸で再会できました。そこには私の同僚やPool学院大学の先生も同席されました。その時KH先生は、「実は、国際交流基金の仕事で、9月からベトナム北部のハノイに赴任することになりました。サイゴンにも日本語教育指導に行く機会があると思いますので、またサイゴンでお会いしましょう」と言われました。それを聞いて驚いたと同時に(ベトナムでまた会えるのか!)と、嬉しく思いました。

そして、予定通り2013年9月からハノイに赴任されたとの連絡がありました。単身赴任でした。(これから会える機会が増えてくるなー)と私も楽しくなりました。ハノイにおいても、「生徒たちに授業をする」のではなく、「日本語を教える先生たちに日本語の教え方を指導する」ために、ハノイ市内で日本語を教えている各学校を回ってゆくというのです。

そしてハノイに赴任されてから、しばらく落ち着くまではお忙しい様子で、サイゴンでお会い出来たのは半年を過ぎたころでした。再会した場所は「SUSHI KO」。久しぶりにお会いした時、KH先生は私の手を力強く握られました。そして、その席にはサイゴンで働かれている「国際交流基金」の方やVJCCの方も同席されていました。

それからは約半年に一度くらいのペースでサイゴンでお会いできるようになりましたが、KH先生と関連したことで、ある日面白い出来事がありました。

私が、ベトナム戦争当時にあの「メコンデルタでバナナを植えていた」Yさんと「SUSHI KO」で食べて、飲んでいた時、年配の女性と若いベトナム人の女性が、道路側から私の名前を呼びながら近づいて来ました。私の名前を大きな声で呼んでいるので、一瞬(知り合いが来たのかな?)と思い、私も「やあー」と手を挙げて答えましたが、よくよく見ると初めて見るお二人でした。

その二人の方は私とYさんが座っていたテーブルのすぐ隣に座りました。「失礼ですがお名前は?」と聞きますと、「SRです」と答えられました。一緒にいたベトナム人の女性については、「自分の生徒です」と言われました。「彼女が生徒ということは、SRさんは日本語の先生ですか」と聞き返しますと「そうです。今<人文社会科学大学>で教えています」と答えられました。

しかし「初対面なのに、どうして私の名前を・・・」と聞きますと、「ある人から紹介されました。その方は今ハノイにおられます。誰か当ててみてください」と笑いながら言われました。直接私の質問に答えないで、そういう質問をすることを面白く思いました。しかし、私が知る知人で、ハノイにいる人は五人ぐらいしかいません。(誰だろうか・・・?)と思いながら、古い友人から一人ずつ名前を挙げました。

一人目、二人目の名前を挙げても、首を横に振られます。三人目ぐらいになった時、SRさんが「ヒントは男前の人です」と言われたのでした。「男前・・・?」と聞いてピンときました。「KH先生ですか」と言いますと手を叩いて、「そうです!」と嬉しそうに笑顔を浮かべられました。なんでも、関西空港近くの学校でKH先生と一緒に生徒たちに日本語を教えておられていたということでした。この時、SRさんはサイゴン滞在二年弱ぐらいでした。

それからSRさんの快活な笑いと、独特のジョークで場を盛り上げられました。SRさんは大阪生まれだそうで、大阪人特有の溢れるようなユーモアを持ち合わせておられました。後日のことですが、たまたまSRさんがHong Bang(ホン バン)大学の日本語教師・TR先生と同席されたことがありました。

その時、SRさんが「私はもう年なので、この顔は一円玉のようなものです」とアッケラカンとして言われました。私とTR先生が顔を見合わせて「一円玉のようなもの・・・。どういう意味だろう?」とポカンとしていると、SRさんが続けて「これ以上崩れようが無いという意味です」と言われた時には、二人で大笑いしました。

そしてこの日、私とSRさんが初めて対面した時から、最後に別れる時までYさんはじーっと横で話を聞かれていました。Yさんは遠慮深い性格なので、初対面の人に自分からワー・ワー話をされることはありません。しかし、そのYさんも、SRさんが次々と繰り広げるジョークやユーモアには、何回も大笑いしていました。

SRさんがタクシーに乗って帰られた後、「いや〜、やはり彼女は大阪の人ですねー」と呆れながらも感心し、その話の面白さに喜んでおられました。私もSRさんのように快活で、ユーモア溢れる女性を見たのは、生まれて初めてでした。SRさんのご主人も熊本出身だということで、その後ベトナムを訪問されたご主人とも再会できました。

そして、今年の10月末にKH先生から「11月1日にまたサイゴンに行きます。いつものようにSUSHI  KOでお会いしましょう。SRさんにも声をかけました」という連絡がありました。それを聞いた私は、(Hong Bang大学の、あのTR先生にも知らせよう)と思いました。TR先生は、昨年に続けて先月の<Michiko先生を偲ぶ会>にも参加されました。

今までKH先生がサイゴンに来られた時に、TR先生にも「ハノイからこういう方が来られますので、一緒に参加しませんか」と声をかけてはいました。TR先生もそういう日本語教育アドバイザーに会ったことはないので、大いに関心を示されていました。しかし、その時にはどうしても都合がつかなくてKH先生との対面は実現しませんでした。

ちなみに、TR先生も私と同じ九州の出身です。今年56歳です。彼の実家は福岡です。日本では地方公務員をされていましたが、思いたってその仕事をキッパリと辞めて、サイゴンに「日本語の先生」として来られました。サイゴンでの勤め先がHong Bang大学でした。TR先生とは、毎週日曜日に<青年文化会館>で開かれている『日本語会話クラブ』で知り合いました。

Hong Bang大学では毎年の夏に、そこの大学生たちが日本から来た大学生たちと一緒にカンザーでの「マングローブ植林活動」を行っています。「南遊の会」が主催しています。そしてカンザーでの「マングローブ植林活動」のコーディネートや、現地での案内と植林指導をしているのが、「マングローブ植林行動計画」の浅野さんです。今年は日本とベトナムの大学生たちが五十名ほど参加したということでした。TR先生もそのカンザーでの活動には参加されたことがありますので、浅野さんを良く知っています。

そのカンザーで、浅野さんが日本とベトナムの大学生たちの双方に、日本語とベトナム語の二ヶ国語で植林の仕方について説明する時、毎年同じような光景が見られるといいます。日本の大学生たちは、「浅野さんは日本人である」ことはもちろん知っています。

しかし、浅野さんが日本人の大学生たちに話したのと同じ内容を、ベトナム語で話している時、ベトナム人の大学生たちはみんな首を捻りながら顔を見合わせているのだそうです。浅野さんが話しているベトナム語を聞いていた大学生たちが、

(この人は本当に日本人なのだろうか・・・)

と、不思議そうな顔をしていると言います。

そのことを、私は実際にHong Bang大学の、このカンザーでの植林活動に数回参加したことがある大学生から聞きました。浅野さんが話すベトナム語が、ベトナム人と全く変わらないぐらい余りに見事なので、(どうしても浅野さんが日本人だとは信じられない)とみんなが感想を述べたと言うのでした。それを聞いた時、その場の光景を想像して私も笑いました。

また、TR先生は山歩きが趣味で、大学の授業がお休みになる夏休みやテトの時などは、ヨーロッパ諸国に行き、山歩きをされます。今年の夏休みはスイスの山を歩かれました。TR先生はベトナムという国を「終の棲家」とまで言われていて、いろんなことに積極的です。今教えている大学の生徒たちからも大変慕われている様子を感じます。住まいは大学の寮内です。

今回KH先生が11月初旬にサイゴンに来られることを聞いて、TR先生にもすぐに知らせました。すると、「今回は必ずKH先生に会いに行きます。楽しみにしています」というメールを寄こされました。

そして当日、私がまず席取りのために最初に着き、その後TR先生が着かれました。その後十分ほどしてKH先生が到着されました。久しぶりの再会に私が右手を差し出しますと、KH先生も力強く握り返されました。その場でKH先生にTR先生を紹介しました。

KH先生はTR先生が日本語の先生であり、「前々からTR先生がKH先生に会いたがっていたんですよ」と私が言いますと、身を乗り出して嬉しそうにされ、いろいろな質問を矢継ぎ早にされました。そして、20分ぐらいしてSRさんがタクシーに乗って到着。

KH先生はそれを見るや、タクシーが着いた所まで歩いてゆき、ひさしぶりの再会を喜ばれました。私がサイゴンでKH先生からの紹介でSRさんにお会いして、三人が一緒に顔を合わせるのはこの日が初めてです。TR先生を入れて、四人の宴会がスタートしました。

KH先生とTR先生はこの日が初対面なので、KH先生から自分の来歴を話されました。KH先生は今ベトナムでも『日本語教育アドバイザー』としての仕事をされています。ベトナム以外でも海外で勤務されたことがありました。ハンガリーとマレーシアです。ハンガリーには二年、マレーシアには六年滞在し、『日本語教育アドバイザー』としての仕事に勤められましたが、マレーシアでは実際に生徒たちにも教えていたと言われました。

SRさんも直接KH先生から指導を受けた一人です。彼女が今でもKH先生から受けた日本語指導で印象的なものが<ジェスチャーによる授業>だったそうです。『○○が痛い』という文法を教える時に、ただ『○○が痛い』の構文=「頭が痛い」「のどが痛い」「おなかが痛い」などの構文を黒板に書いて終わりではなく、実際にその状況をジェスチャーで生徒たちに教えるという指導をSRさんは受けたそうです。「今でもそれが授業で役に立っているんですよ」と、嬉しそうに話されました。

KH先生が以前講義されたテーマには、さまざまな、興味深い内容がありました。@日本語チャンピオン大会A創作漢字Bいろいろ使える活用練習C骨組み作文Dリスニング漢字語彙E組み立て読みF漢字しり取りG自信につなげる会話H詩で遊ぶI音から学ぶ日本語Jマンガで発信・・・。テーマだけ見ると、何となく想像できるのもあれば、実際に見てみないと分からないものもありますね。

この宴会の場でKH先生は、実際に今「ホーチミン人文社会科学大学」で日本語を教えておられるSRさん、Hong Bang大学のTR先生から現状を聴いておられました。いろいろな問題が話題になりましたが、やはり最大の問題点は、「日本語教師の待遇の悪さ」でした。しかし、これは一朝一夕に改善されるものではありません。それもあって、日本からベトナムに来る、若い・やる気がある日本語の先生が少ないという現状があります。

KH先生は今回の短いサイゴン訪問で、Marie Curie(マリー・キュリー)高校Le Duy Don(レ・クイ・ドン)高校で、日本語教育の指導に当たられる予定ですと話されました。ベトナムでの任期は三年間なので、あと一年近くはハノイに滞在する予定だと言われました。

夕方五時から始まった四人の宴会は、TR先生の寮の門限の時刻が迫ってきたので、八時半にはお開きになりました。私たちはまたの再会を約束してそこでお別れしました。KH先生は知り合いのSRさんにも再会でき、TR先生にも初めて会えて喜んでおられました。

KH先生がまた来年の9月以降もずっとハノイにおられるかは未定ですが、私個人としては、日々の授業に忙しく埋没している現場の先生がたに、出来るだけKH先生のような高いレベルでの日本語指導法を授けて頂くためにも、まだまだベトナムに滞在して欲しい気持ちです。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ マングローブの森を創った日本人 ■

23年前、浅野哲美氏は一人ベトナムの地に降り立った。知り合いは誰一人もいず、ベトナム語は全く知らず、話せるのはほんの少しの英語だけだった。

潮間帯における植林を行うにあたって、彼は東京に本拠地を置く日本のNGO団体から3つの候補地を与えられた。ベトナム、ミャンマー、バングラディシュの3ヶ国である。

彼が選んだのはベトナムだった。そして今、彼はベトナム人女性と結婚し、二人の子どもを持ち、ベトナム語を流暢に話せる。ベトナムに来て以来、彼は3,400ヘクタールものマングローブ林を植林してきた。

彼は今も日本のNGO団体である「マングローブ植林行動計画(日本にいる4名のメンバーがベトナムとミャンマーのプロジェクトを管理している)」の研究員として働いている。

「バングラディシュにはすでにいくつかのNGO団体が活動しており、ミャンマーは政治情勢が不安定でした。だから私はベトナムを選びました」

彼はオフィス兼自宅で、当時を思い出しながらインタビューに答えてくれた。
そのNGOがベトナムにおける彼の仕事を提示すると、彼はすぐに心を決めた。荷物を詰め、5000ドルの所持金を手に、クアン・ニン省から最南端のカー・マウ省までの7ヶ月の旅に出た。
当時ベトナムにはマングローブ植林プログラムは存在しておらず、長い滞在になることを覚悟していたと言う。

「最初に取り組んだプロジェクトはタイ・ビン省でのものでした。そこでは地域住民の協力を得て、100ヘクタールの植林を行いました。ここは、地方政府が森林の重要性に気づいており、わたしの提案にすぐに賛成してくれ、協力してくれました。」

今日、その地を再び訪れ、広大な森林地域を見るたびに幸せな気分になるという。

「後から他の団体も植林を始めているので、たまに自分が植えた場所がどこだったかわからなくなることもあります。でも、それはたいした問題ではありません」

何年もの歳月をかけ、フエ、ハイ・フォン、そしてカン・ザー地区のあるホーチミン市までたどり着いた浅野氏。それまでに、植林をした地は9つの省(クアン・ニン、タイ・ビン、ニン・ビン、タイン・ホア、ビン・ディン、カイン・ホア、ビン・トゥアン、ベン・チェー、ソク・チャン)に及ぶ。

● 言葉の壁 ●

最初ベトナムに到着した頃、地元住民とのコミュニケーションに苦労した浅野氏は、常にポケットに小型の日越辞書を携帯していた。

「僕自身、英語はそんなにできたわけじゃないし、1986年のドイモイ政策の後でも、英語を話せるベトナム人もほとんどいませんでしたからね」と彼は言う。

ハノイ教育大学におけるマングローブ生態系研究の第一人者であるPhan Nguyen Hong(ファン・グエン・ホン)氏と出会ってからは、ハノイ教育大学の学生が通訳を手伝ってくれることになった。

浅野氏は、「ベトナム語の授業は受けたことがない」と自負しているが、今は日本を訪れると外国に来たような気分になるという。そんな彼でも、ベトナムに来たばかりのころは、見知らぬ土地で、異邦人のように感じたそうだ。

「ベトナムの食べ物は好きでした。問題は、レストランで注文するときの言葉でしたね」

一人で外食する時、彼はボディランゲージを駆使してコミュニケーションを試みた。

「いつも辞書を持ち歩いていました。自分の話す言葉が通じないときには、辞書を引いて単語を見せていたのです」

「今でも、あるレストランのオーナーには、昔のことでからかわれていますよ。玉子焼きを注文したかったのに辞書を忘れたことがあったのです。そのときは、身体を低くして、腕を振って鶏が卵を産むジェスチャーをしたんです。それからキッチンに走って行って、料理をするジェスチャーまでしたものです。おかげでなんとか最後には、おかみさんに僕が玉子焼きを食べたかったことを分かってもらえたんですけどね。」

路上で食べたり飲んだり、地元の友人と会話してゆくうちに、彼のベトナム語は上達していった。「僕の話に誰も笑ってくれないときは、あ、発音が間違っていたかな、と気づきます」

浅野氏がベトナム人の妻に出会ったのは1997年のことだった。ホーチミン市にある日本の銀行に預金に行ったときのことだった。彼は2000年に結婚し、今では12歳と9歳の子どもがいる。

● 緑を求めて ●

彼は生涯にわたって自然との共生に情熱を持ち続けてきたが、このベトナムに来たのは偶然だったという。

「10代の頃は、将来は農業とか、何か自然や植物と関わる仕事をしたいと思っていました」

北海道大学で学んでいるとき、たまたま植林団体、後の「マングローブ植林行動計画」の創設者が執筆した本を読んだ。その本は、中東における海岸塩水地帯での植林可能性についてのものだった。

「その本は私を鼓舞してくれました。非常に面白いと思ったので、北海道大学を辞めて、その仕事に応募しました。」

このNGO団体の代表は彼に今までの研究を継続するよう勧めた。そこで、彼は琉球大学農学部で勉強を始めた。
52歳になった今でも、彼は地方においてマングローブを植えるための、実現可能性の調査を継続している。そのNGOを資金面でサポートする日本企業の支援もあり、マングローブ植林のための調査は自己負担なく進めることができた。

さらにその他のNGOの協力を得て、浅野氏は毎年20名の若者を日本からベトナムに連れていき、ベトナム人の仲間や文化や、ベトナムのライフスタイルを彼ら若者たちに紹介している。

◆ 解説 ◆

浅野さんに関するこの記事を書いて頂いたのは、「Viet Nam News」という新聞社に勤めるDatくんです。原文は英文です。彼は昨年9月にも私の会社・Tierraがベトナムで行っている活動について記事にしてくれました。

実は、毎年の夏にTierraがベトナムで実施している「ベトナムマングローブ子ども親善大使」がありますが、その時に女子生徒たちの世話をしてくれるベトナム人の女性で、昨年と今年の二回続けてLinhさんが参加してくれました。そのLinhさんの友人がDatくんなのでした。

昨年彼が私たちの活動についてインタビューするために、「ホーチミン市友好協会」に来てくれました。その時にインタビューした記事が昨年「Viet Nam News」に載ったことがあります。

その時私が「実は私の知人で、マングローブを専門に植林している人がいますよ」と、彼に話したことがありました。彼はそのことに強い関心を持ち、「いつかその人を紹介してください」と私に頼んできました。私も「いいですよ」と答えて、その場で別れました。

しかし、浅野さんは中部や南部での植林活動に忙しく、いつも出張が多いのでサイゴンにいる時をつかまえるのが大変でした。一方、Datくんもまた海外出張が多く、サイゴンにずっといる日が少ないのでした。

それから約一年後、ようやく二人が会える日が設定できました。それが9月の下旬でした。それはちょうど、「フォト・ジャーナリストの村山さん」がベトナムを訪問していた時でした。村山さんもDatくんとは旧知の仲です。

そこで初めて二人が対面することが出来ました。私もようやく二人が会うことが出来てホッとしました。後のことは二人にお任せしました。浅野さんはベトナム語の達人ですので、二人で会話する時には誰も通訳は必要なく、双方がベトナム語でじっくり会話できたことでしょう。

その時の内容がこの記事になって、10月15日の「Viet Nam News」に掲載されました。それを読んで大変嬉しかったです。「嬉しかった」と言うのは、浅野さんの記事が載ったという以上に、浅野さんがベトナムに着いて初期の頃のエピソードが、この記事には書かれていたからです。

それは、浅野さんと私が三年ほど一緒に同じアパートで暮らしていた時にも、浅野さんの口からは直接聞いたことが無い話でした。そのくだりを読んでゆくうちに、胸がじーんとしてきました。まさしく

(前人未踏の道を切り拓かれてきたのだなぁー)

という思いからです。私の知り合いで、英語が分かるベトナム人にもこの記事を紹介しました。全員が(そういう日本人の方がいるのですか!)と驚き、感動していました。

浅野さんがベトナムで初めて植えたマングローブが、二十数年後の今は大きく成長していることでしょう。それを見つめることが出来る喜びは如何ばかりでしょうか。これからも一年・一年ごとに、浅野さんが植えたマングローブが大きく育ち、やがては大きな森になってゆくことでしょう。

そして、毎年夏に来る「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちも、浅野さんが切り拓いてくれた<マングローブ植林>の道の後を歩みながら、カンザーの地で植林活動を15年も続けることが出来ているのです。ただただ感謝の言葉しかありません。



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