春さんのひとりごと
<SUSHI KOで「偲ぶ会」と「十数年ぶりの友人との再会」>
●MICHIKO先生を偲ぶ会●
2013年9月30日にMICHIKO先生が亡くなられて今年で三年になります。三年目の今年も、「MICHIKO先生を偲ぶ会」をSUSHI KOで行うことになりました。日にちは、みんなが集まりやすい10月1日の土曜日に行うことになりました。
今年もMICHIKO先生の命日の当日と前後の日に、私は自分が教えているクラスで、MICHIKO先生についてベトナム語で書かれた新聞記事を紹介しました。MICHIKO先生が亡くなられて三年が経ちましたが、そういう日本人の先生がいたこと自体を知らない生徒たちがほとんどでした。
MICHIKO先生は『人文社会科学大学』の中の喫茶店で日本語を大学生たちに教えておられました。しかし、先日「日本語会話クラブ」に来ていた、大学生のHai(ハーイ)さんに聞きましたら、「知りません」という返事でした。「そうですか・・・」と。私は寂しい思いがしました。
Haiさんについては、2016年7月号の<Saint Vinh Son小学校の“Fさんを囲む会”>の中でも触れましたが、彼女は今その『人文社会科学大学』に通っている大学生なのです。その彼女も知らないということは、MICHIKO先生についての関心がベトナムの若者たちの間では日々疎くなって来ているなーという感じがします。残念ですが、仕方ありません。
今私が教えている生徒たちも、やはり知りませんでした。それでも、MICHIKO先生について書かれた記事をクラスの級長に読んでもらっていると、二分・三分と経つうちに、生徒たちの表情が徐々に真剣な顔つきになってくるのが良く分かります。
この新聞記事の半ばを過ぎたあたりに、次のような内容が載っています。この箇所に至ると、生前のMICHIKO先生のありし日の姿を偲び、いつも私は涙を抑えることが出来ません。
『一台の古いカセットと、二・三冊の日本語の文法書と、古ぼけて擦り切れた一冊のベトナム語の辞書と、昼食用の二・三個のパン。・・・これがベトナムで日本語を教えて生活している時の、ミチコさんのバッグの中身である。
彼女は、「このようにして日本語を教える仕事から、毎月2~3百万ドン(約1万5千円~2万2千円)くらいの収入があります。それで毎日の生活費は足ります。あまりお金は持っていませんが、ベトナムで仕事をしながら生活出来るのは大変幸せだと思います。私は日本人ですが、日本とは縁が薄かったのです。ベトナムに来てから、私は自分の幸福を見付けることが出来ました。」と話してくれた。』
最後の段落に至り、新聞記事を読んでもらっていた生徒が顔を上げてから、生徒たちに向かい、次のように話しました。
「MICHIKO先生は私の知り合いでもありました。MICHIKO先生が亡くなられた時には、多くの友人・知人、そして人文社会科学大学の生徒たちが涙を流しました。私もそうでした。MICHIKO先生のお葬儀には、友人・知人だけで500名の方が来ました。そのうち、大学生だけでも200名の生徒たちが、MICHIKO先生との最後のお別れの挨拶にVinh Nghiem(ヴィン ギエム)寺に来てくれたのです。」
MICHIKO先生を知らない若い人たちが増えているだけに、MICHIKO先生の命日が近づいて来た時には、これからも毎年そういう話をしてゆくつもりです。ベトナムの若い大学生たちに日本語を「無私の精神」で教えておられたMICHIKO先生の存在は、今もMICHIKO先生を知る私たちのこころの中に消えることが無いからです。
最近私は、ある一冊の本を読んでいて深い感銘を受けました。その本の名前は「無私の日本人」(磯田道史著)です。この本には、江戸時代や幕末から明治初年に生きていた日本人が登場します。私心を捨て、世のため、人のためにその人生を生き抜いた、三人の「無私の日本人」が描かれています。
そして、今まで余り知られていなかったその三人を古い歴史の中から洗い出し、新しい光をその三人の人物に当て、感動的に著された磯田さんの力量にも敬服しました。何か、司馬遼太郎さんの初期の頃の作品を読む思いでした。
事実、この本によって初めて、私は文人画家・富岡鉄斎と大田垣蓮月という女流歌人とは深い繋がりがあったことを知りました。大田垣蓮月との出会いにより、後の富岡鉄斎という大画家が育っていったのだということを詳しく教えて頂きました。富岡鉄斎という文人画家は日本の画壇史の中でも唯一独歩の足跡を残していますが、その鉄斎を育てたのが大田垣蓮月女史だったというのでした。
そして、著者の磯田さんの若さにも驚きました。まだ46歳の若さなのです。その若さにして、江戸時代の古文書を縦横に読み解かれています。自分自身でも「図書館や古本屋などで古文書を一日中読んでいる時が一番幸せ」と言われています。稀有の人と言うべきです。これからどんな作品群を発表されてゆくのかが非常に楽しみです。
その磯田さんの本「無私の日本人」を読んでいた時に、MICHIKO先生の姿がふっと重なる思いがしました。日常は質素な生活で過ごし、不自由な足を引きずりながら、毎日「人文社会科学大学」までバスで通われていたMICHIKO先生。いつも学内のベンチや喫茶店で、「日本語を教えて欲しい!」と希望する大学生たちに、亡くなるその日の直前まで教えておられました。
まさに、MICHIKO先生はサイゴンにおける「無私の日本人」だったな・・・という感を深くします。その「無私」の生き方に、MICHIKO先生に接した人たちの多くが、今もMICHIKO先生を慕い、ありし日の姿を偲んでいます。もっと、もっと、このサイゴンで活躍して頂きたかったという思いがしてなりません。
そして、MICHIKO先生を慕う人たちが、今年も「MICHIKO先生を偲ぶ会」に集まりました。今年は10月1日(土)にその「偲ぶ会」をSUSHI KOで行いました。昨年も同じ時期頃に行いましたが、その時には日本人が四人、ベトナム人が二人、合計六人が参加しました。
今年は「MICHIKO先生を偲ぶ会」の告知を十日ほど前に行い、当日には日本人六人、ベトナム人三人、全員で九名が参加しました。そのうち、私も含めて五人は昨年の「偲ぶ会」にも参加しています。四人は三年連続の参加です。ベトナム人のDu(ユー)さんは二年連続の参加です。
ベトナム人のTan(タン)さんは夫婦で参加されましたが、仕事の都合でみんなよりも少し遅れて着きました。その前に着いていた七人で先に、MICHIKO先生の遺影に向かい、焼香と、一分間の黙祷をしました。
ベトナムのお店には、いろんな神様を祀る祭壇が店の外壁や、店の中に作ってあります。このSUSHI KOにも、いろんな祭壇があります。その中の一つを貸してもらい、みんなが焼香しやすい場所にMICHIKO先生の遺影を置き、その前にみんなが立ち、黙祷と焼香をしました。
この時すでに回りのテーブルには他の日本人やベトナム人のお客さんたちもいました。みんな私たちのほうをじーっと見つめていました。MICHIKO先生の写真を祭壇に置いて、みんなで手を合わせて黙祷していましたから、何をしていたのかは、日本人もベトナム人も分かっていたようです。
そして、焼香と黙祷が終わり、あらためて「MICHIKO先生を偲ぶ会」をみんなで乾杯の音頭で始めました。今年参加した顔ぶれを見ると、いつも会う人もいれば、一年に一回のこの「偲ぶ会」の時にしか会えない知人もいます。これもまた(MICHIKO先生が取り持つ縁だなぁ・・・) と思います。
みんなで食べながら、飲みながら、MICHIKO先生の思い出を話してゆきます。いちばんMICHIKO先生の身近に接していたのはMZさんです。MZさんがMICHIKO先生の思い出をたくさん共有されています。そして、MZさんは今でもMICHIKO先生の知人に日本語を教えておられます。MZさんは今年で三回続けて参加されました。
サイゴンでケーキ屋さんを開かれているYAさんと、Hong Bang(ホンバン)大学で日本語教師をしておられるTR先生も、三年続けての参加です。YAさんは霊前にお供えするためのお菓子を自分の会社で作り、この場に持参されてきました。そして、今年は私の知人のABさんにも参加して頂きました。
今年も昨年と同じように、「「MICHIKO先生を偲ぶ会」には一冊のファイルを持ち込みました。そのファイルの中には、Michiko先生が亡くなられた後に、ベトナム語や日本語でインターネット上にいろんな人たちが書いてくれていた記事内容を収めています。
初めて参加したABさんやTanさんの奥さんもじっとそれを読んでいました。ベトナム語で書かれた記事もいろいろありますので、奥さんも熱心に読んでおられました。昨年参加した人たちもあらためてそれらの記事を読み直していました。 MICHIKO先生が亡くなられた直後にみなさんが載せている記事が多いだけに、書いた人の真情と悲しみが素直に吐露されている内容が多いのです。
みんなでいろいろ話しながら、食べながら、飲みながら、三時間近くがあっという間に過ぎました。これからも毎年、MICHIKO先生を知る私たちが中心になって、MICHIKO先生の命日が近づいた時、「MICHIKO先生を偲ぶ会」を続けてゆくつもりです。
● 十数年ぶりの友人との再会 ●
今から17年ほど前の1999 年頃だったような記憶があります。その当時、一区にあるレータントン通りに、私の友人が<日越喫茶 ひろば>をオープンしました。その喫茶店には、いろいろな日本人やベトナム人が出入りしていました。しばらくして、そこに一人の日本人青年が出入りするようになりました。良く顔を合わせるので、自然と双方から声をかけました。
彼の名前はTNくん。まだこの当時20代半ば頃の若い好青年でした。いろいろ話を聞いてゆくうちに彼がホーチミン市で「合気道」をベトナム人に教えていると知りました。「合気道」と聞いて大変驚き、感心しました。(まだ若い日本人の青年が異国で合気道を広めようとしている・・・)その心意気に感動しました。私のこころの中では(爽やかな好青年)という印象を抱いていました。
そして、2002年にTNくんは「ハノイでも合気道を広めに行きます!」と言って、ハノイに旅立って行きました。それ以来しばらく会うことはありませんでした。しかし、一度だけ、今から十数年前にたまたまハノイの空港でバッタリと再会したことがありました。短時間だけの再会でしたが、お互いに喜びました。その後、私もハノイに行く機会が無くなり、TNくんとの再会は出来なくなりました。
それが、ふとしたことからTNくんと知り合いの人と出会ったことで、彼との連絡が取れるようになりました。昨年の春、私が日本に帰国した後、<さすらいのイベント屋>NMさんの知り合い日本人の方々と奈良への旅をしました。その参加者の中の一人の方が、実はTNくんと知り合いだというのが後に分かりました。
それからはすぐに連絡が取れました。そしてTNくんから「ホーチミンに仕事で行くこともありますので、その時には連絡します」というメッセージが届きました。私もそれを見て、(彼と再会出来る日も近いかな・・・)と、こころ待ちにしていました。
そして、10月初旬、「今日ホーチミン市に入りました、夕方ごろ会いたいと思います!」という連絡が突然来ました。久しぶりの再会です。この日はさらに、知人のABさんのほかに、日本から瓦屋のSNさんと知人のWNさんともSUSHI KOで会う予定がありましたので、彼もそこに一緒に参加してもらうことにしました。
夕方6時半頃、TNくんがSUSHI KOにバイクで到着しました。ヘルメットを脱いで、私たちが座っている席まで歩いて来ている姿を見たら、すぐに分かりました。<十数年ぶりの再会>でしたが、以前とまったく変わっていませんでした。彼も私たちの席をすぐに見付けて、ニコニコして近づいて来ました。
お互いに固い握手をして、<十数年ぶりの再会>を喜びました。私以外は他のみなさんたちも初めてTNくんに会いますので、私から双方の紹介をしてあげました。
“朋有り遠方より来る また楽しからずや”
とは孔子の言ですが、まさしくこの言葉の意味を、感動をもって実感しました。特に今までなかなか連絡が取れない状態でありながらも、(いつか彼に会いたいなー)と思っていただけに、実に嬉しかったです。
お互いの再会を喜びながら、最近の近況を聞きました。「今ベトナム人の奥さんと結婚して、8歳と2歳の子どもがいること。ハノイで日系企業に勤めていて、時々ホーチミンに出張があること。ハノイで今も合気道の指導をしていて、教えている生徒が200人近くいること」などを彼は話してくれました。彼は今年42歳になっていました。歳月が経つのは早いものです。
彼がハノイで教えている合気道の道場名は「YUKI SYUDOKAN」と言うそうですが、2014年4月号の「ベトナムスケッチ」にも載っていました。今彼はこの道場で、指導者として合気道を教えています。「ベトナムスケッチ」の載っているその写真を見ていますと、(あれからいろんな苦労があったのだろうな・・・)と想像し、目頭が熱くなってきます。
http://www.vietnam-sketch.com/2014042344785
TNくんは「ハノイにはファミリーマートやマクドナルドがまだ無いので、明日にでも早速行きます。ホーチミンにはたくさんあるので、本当に羨ましい!」とも話していました。ファミリーマートは私も良く行きますが、マクドナルドはまだ行ったことがありません。しかし、そういうものが全く無いとやはり不便を感じるのでしょう。
そして、私たちがいろいろ話している時、夜9時頃になって、ある一人の青年がSUSHI KOにやって来て、私たちの席から少し離れた場所に座りました。その青年は、私が時々SUSHI KOで見かける青年ですが、直接声を掛けたことはありません。
以前から(日本人だろうな・・・)とは想像していましたが、言葉を交わしたことは無かったので、どういう人なのかは知りませんでした。彼はいつも一人で黙々と食事をしていました。見た感じはまだ若く、寡黙な印象でした。
それが、今年2016年3月号の「ベトナムスケッチ」を開いて、思わず目を開きました。まさしく、彼の人物紹介が「ベトナムスケッチ」の中の連載記事<ベトナムの日本人>に載っていたのです。それで、ようやく彼がこのホーチミンで何をしている人なのかが分かりました。
http://www.vietnam-sketch.com/2016030877322
しかし、その記事を読んで、ホーチミンでのその青年の活動内容が分かっても、(一人で食事しているのを邪魔しては悪いな・・・)と思い、私から声を掛けることは敢えてしませんでした。
ところが、この日は違いました。(あそこにボクシングの普及に努めている青年がいる。そして、ここには合気道の指導に努力しているTNくんがいる。彼にここに来てもらえれば、TNくんも彼もお互いが喜ぶかも・・・)と思いました。
それで、私一人そこから離れて、彼の席に近づいてゆき『実はあちらにハノイで合気道を指導している日本人の方がいます。失礼かと思いますが、あなたのことは以前「ベトナムスケッチ」で読んで知っていました。それで、お互いにスポーツと武道という共通点があるので、こちらに来て一緒に話しませんか』と誘いますと、彼は快く「いいですよ!」と言って、私たちの席に来てくれました。
彼の名前はOS君。見た目も若く「今年29歳です」とのことでした。ベトナムに来たきっかけは「ベトナムにはまだボクシングが普及していないそうなので、自分が広めてやろう!」という気持ちでベトナムに来たと話してくれました。
日本では2011年に全日本バンタム級の新人王を獲得したそうで、最高は日本ランク11位だそうです。ボクシングに疎い私はそれがどれほどのレベルなのかは良く分かりませんが、ABさんの話では「すごいですよ!」ということです。OS君はベトナムに来てもうすぐ2年になるそうですが、記事の中にあるような「二つの夢」を持っています。
この日はTNくんに再会出来た嬉しさと、OSくんと親しく知り合えた喜びで、楽しい夜になりました。若い二人の日本人が異国の地で毎日汗を流して、合気道を、ボクシングを教えています。彼ら日本人の指導を受けたベトナムの若者たちが合気道を身につけ、ボクシングを習得してゆく・・・。素晴らしいことだと思います。
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
ベトナムに観音像奉納へ 木津川の彫刻家制作
今月のニュースは京都新聞デジタル 9月24日掲載記事です。
記事本文は、下記リンクからお読みいただけます。
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20160924000079
◆ 解説 ◆
いよいよ今月の10月30日にダナン市の五行山で、この記事にあるように、「観音像奉納」の儀式が執り行われます。10月初旬に<さすらいのイベント屋>NMさんがSUSHI KOに現れて、そこに同席していた私たちは細かい打ち合わせをしました。
サイゴンからダナンに飛行機で向かうメンバーは、「奉納の儀式」の前日にダナンに入ります。そして、翌日の行事を迎えます。今回は同僚のS先生も一緒に参加することになりました。S先生もそれに強い関心を示されて、私も嬉しかったです。
NMさんの話では、日本側からは東大寺の関係者の方々や、その繋がりがある人たち約40人が日本から来られるということです。その中には、昨年奈良の二月堂でお会いした、あの「東大寺の第222世別当の狭川晋文さん」がおられます。
昨年4月に奈良に行った時、狭川さんにお会いしていろいろなお話を伺いました。その話の巧みさにはいたく感心しました。その後、NMさんから「この春から、狭川さんが東大寺の最高位の別当に選ばれ、五月から就任されます」と言うことを聞きました。そうであれば、あのユーモア溢れる話で、これから多くの人たちを魅了することになるでしょう。
その狭川さんとまさかこのベトナムでまたお会い出来る機会が訪れるとは、まったく思ってもいませんでしたので、大変嬉しい限りです。狭川さんが昨年春に二月堂を訪れた時のことを覚えておられるかは分かりませんが、私自身は狭川さんにまたお会い出来るのを、今から楽しみにしています。