春さんのひとりごと
<ニャー・チャーンへの旅>
今年の<学校恒例の社員旅行>は11月24・25・26・27日の日程で、ベトナム南中部のNha Trang (ニャー・チャーン)に行くことになりました。以前は海外編がカンボジア、タイと続いて、前回はダラットでしたので、またベトナム国内の旅行になりました。
Nha Trangに私が行くのは、実に18年ぶりのことになります。サイゴンからベトナムの北部へ一人で旅行をしていた時に、Nha Trangに立ち寄りました。その時は、Sinh Café(シン・カフェー)のツアーで行き、Sinh Caféが手配したホテルに泊まりましたが、Nha Trang名物のきれいな海で泳いだという記憶がありません。その時波が荒かったからでしょうか。
Nha Trangでの思い出で残っているのは、ポー ナガル塔(Thap Ba Ponagar)という遺跡だけです。そこには現地で雇ったバイク・タクシーに乗って行きました。ガイドブックでNha Trangのページを見ても、興味をそそる観光名所は余り無く、そこが古い歴史のある遺跡だというので訪問しました。
しかし、その当時私はベトナム語がまるで分からず、ガイドもまた英語は知らないので、その遺跡の由来やいつ出来たのかなども理解出来ないまま、ただ遺跡を見学しただけで終わりました。ただ、遺跡の詳しい説明は受けなくても、ポー ナガル塔の迫力には圧倒された印象があります。そしてその遺跡がある小高い丘の上から眺めた光景に、しばし見入っていた思い出があります。
実は、今回<学校の社員旅行>の告知は9月初旬頃にありましたが、最初私は迷いました。 (今年はNha Trangか・・・。ビーチで遊んで、海産物を食べるいつものパターンかな)と想像しました。ベトナムは海に面した国ですので、海辺の砂浜で憩い、海で泳いで、地元の海産物を食べるような旅行を楽しめる場所が多いのですが、Nha Trangがその代表的な場所です。
今回の<社員旅行>の日程がベトナム語で書いてある案内文をコピーして、手帳に挟んで持ち歩いていました。家族も参加出来ることになっていますが、<社員旅行>の日程はいつも祭日を避けた平日なので、娘は学校があり参加出来ません。もし参加するとしたら私一人になりますが、(どうしようかな?)と、しばらく考えていました。
案内文には太字で、<Nha Trang―Vinpearl Land>と書いてあります。(このVinpearl Landとは何だろうか・・・)という疑問が湧きました。ある日、SUSHI KOでそれを広げて読んでいました。そこへたまたま、私の知人のベトナム人青年が来ました。彼は日本に実習生で行ったこともあり、日本語は堪能です。それで私が聞きました。「今年の学校の社員旅行でNha Trangに行くんだけど、ここにあるVinpearl Landというのは何なの?」と。
彼はその案内文に眼を通した後、こう答えました。「Vinpearl LandというのはNha Trangにある島の中のリゾート施設ですよ。大きなホテルがあり、東京ディズニーランドを小さくしたような、子ども連れで楽しめる施設もあります。この島をNha Trang市から丸ごと
借り上げて一大リゾート施設を造り、今も継続して工事を続けているのが、海外で成功したベト僑のベトナム人です。ホーチミン市内にある、あの大きなVincom Centerのビルを建てたのも、Vin Groupの社長その人です」
それを聞いて驚きました。Vincom Centerのビルは私も直接見て知っていましたが、あのビルのオーナーが誰なのかについては無知でした。彼の話を聞いて大変興味が湧きました。それで(久しぶりのNha Trang再訪でもあるし、今年も参加してみようか)と決めました。
<一日目・・・サイゴン⇒列車でNha Trangへ>
今年の<社員旅行>の行きの移動は飛行機ではなく、全員がサイゴン駅に集まり、そこから夜の列車に乗って、寝台車でNha Trangへ行くことになりました。しかし、この日学校はお休みではなく授業がありました。
夕方の授業を終えた後、荷物を持って列車で行くのです。列車の出発まで三時間半ほどありましたが、また一旦荷物を取りに帰るのも面倒なので、授業に行く時に、そのまま荷物をバイクに積んで行くことにしました。
授業を終えた後、タクシーに五人で乗ってサイゴン駅まで行きます。列車の出発は夜8時半ですが、途中の交通渋滞を恐れて早めに学校を出たので、7時過ぎにはサイゴン駅に着きました。18年前に一人でここから旅に出て以来、実にひさしぶりのサイゴン駅でした。やはりずいぶん様変わりしていました。
みんなが集合するまで待合室の椅子に座って待っていました。駅の構内を見ると、多くのコンビニが営業していました。当然ですが、18年前には無かった光景です。あの時は構内にあった線路そばのフォーの店でぼられた記憶があります。今はそういう店は無くなっていました。
8時前になった頃から、顔見知りの先生や社員たちが集まりだしました。今回は全員で50名の参加者になりました。8時を過ぎた頃、ガイドが現れてみんなに列車の寝台車の切符を配ります。8時20分頃にみんな列車に乗り込みます。寝台車は上下二段の四人一部屋です。日本人の先生が三人(S先生、HS 先生、私)と若いベトナム人のP先生の四人です。S先生と私には、寝起きしやすいように下の段を譲ってもらいました。
列車は夜8時半ちょうどにサイゴン駅を出発。線路の側ギリギリに建てられた家の間を縫うようにして列車は走ります。店や普通の家が線路沿いに並んでいます。民家は窓を開け放している家が多いので、家の中で家族が寝転がっている様子が見えます。普段はこういう光景は見ることが出来ないので、しばらく見ていましたが面白いものです。
予定では、翌日の早朝の5時半にNha Trangに到着します。しかし、四人部屋に入ってすぐ皆が感じたのは「えらく寒いなぁ~」ということ。クーラーが効きすぎているのです。 上段のベッドにいたHS先生は、頭のすぐ上から冷気が吹き付けてくるので、余りの寒さに頭から毛布を被って体に巻きつけていましたが、それでも寒さに震えていました。
部屋の中に冷房を切るスイッチは無く、通りかかった乗務員に「寒すぎるので、冷房を切ってくれ!」と言っても、全列車に冷房が入っているので、この部屋だけの冷房を切ることは出来ないとのこと。ヤレヤレです。
そして、列車が動き出して20分くらいすると、列車の通路を大きい、黒のビニール袋を提げたベトナム人の同僚が歩いて来ました。ドアを開けたままにしていたのでそれが見えました。「それは何?」と聞くと「ビールだよ」と言う答え。事前に駅の構内の売店で購入していたようです。
彼が言うには、今からみんなで寝台車の一つの部屋に集まり宴会をするというのです。以前の旅行では、ホテルに着いたらそのホテルの部屋に集まって、深夜遅くまでみんなで宴会をしていました。その「列車版」がまた始まるようです。
S先生と私たちの部屋は、みんなが集まった「宴会部屋」から三つほど隔てていました。しかし、そのすぐ隣は女性の日本人の先生、UA先生とHM先生の部屋でした。そして、列車が動き出してから三十分もしないうちに「1・2・3(モッ・ハーイ・バー)」の乾杯の音頭が聞こえてきました。
私は(明日の到着は朝が早いし・・・)と考えて参加しませんでしたが、S先生は果敢にも参加されました。しばらくすると大きな歌声まで聞こえてきました。この日の車両は貸し切り状態なので一両丸ごと学校の参加者だけですから、他のお客さんがいないのが救いでした。しかし、それでも日本だったら「すみません。もう少し静かにして頂けませんか」 と乗務員から苦情が入ることでしょうが、ここではそういうことはありませんでした。
私は早めに寝ましたので、何時までみんなが飲んでいたのかは知りませんでした。翌朝S先生から聞きますと、宴会が始まった四人部屋には十人のメンバーが集まり、深夜二時まで飲んでいたそうです。最初に持ち込んだビールだけでは足りずに、焼酎まで飲み干したといいます。結局、全員でビール二ケース、焼酎を二本空けたと言いました。みんな久しぶりの旅行で気分が高揚していたのでしょう。
<二日目・・・Ponagar塔 見学>
翌日私は朝5時には眼が覚めました。S先生はすでに起きていました。窓ガラスの外には、山の端から朝陽が昇ってきています。快晴でした。先月行った中部のダナンはこの時期雨季ですが、南中部のNha Trangは乾季に入っていたのです。そして、列車は予定通り5時半にKhanh Hoa(カイン ホア)省Nha Trang駅に到着。Nha Trang駅はさほど大きい駅ではありません。
それから、全員バスに乗って朝食会場の喫茶店「Yen Sao Khanh Hoa」に移動。この時まだ6時過ぎでした。目の前には海が見えます。ここにはお土産として、Yen Sao(ツバメの巣)が箱入りで売られています。その値段を見ると、コブシ大くらいの大きさの箱に入っていて、日本円で二万円ぐらい。ずいぶん高いものです。
ホーチミン市内には「Yen Sao Can Gio」という名前のツバメの巣が売られています。Can Gioとはもちろん、南部にあるマングローブ地帯のCan Gioのことです。今回の社員旅行に、今年も家族連れで同行した学校のL顧問に聞くと、「Can Gio のツバメの巣は小屋の中でツバメを飼育して、人手を掛けて作ったもの。Nha Trangのツバメの巣はこの地方の洞窟に棲んでいるツバメの巣から採取した天然のもの」と言う話です。
ツバメの巣は「美容にいい」と俗に言われていますが、私の身近にそれを毎日飲用している人はいませんので、その効果のほどは分かりません。以前タイに行った時も、そのツバメの巣を売っている店に連れていかれて、実際に試飲しましたが、大して美味しいものではありません。
そこでは洞窟内のツバメの巣を採取しているビデオを観せてもらいました。長いハシゴを掛けて作業をしていましたが、大変な重労働の様子が伺えましたので、値段もそれなりに高くなるのでしょう。
そこで朝食を摂り終えた後、7時過ぎからPonagar(ポーナガル)塔の見物に行くことに。このPonagar塔だけは、18年前にNha Trangを訪れた時の思い出として、今も鮮烈な印象が残っています。特にこの塔がある丘の上から眺めた時の光景は、写真で現像して残しているわけでもないのに、記憶の中からふっと蘇ってきます。
朝8時頃になると、大勢の観光客が丘の上に上ってきました。白人客(特にロシア人)が多かったですね。Ponagar塔は8世紀から9世紀にかけて建てられたと言われている<チャンパ王国時代>の遺跡です。チャンパ王国時代の特徴的な建築と彫刻が、神を祀る祠堂として設計されています。
丘を昇った所には多くの塔があり、その中で最大の塔が、Ponagar塔です。高さが23mあるとガイドさんが話していました。レンガ色で統一された建物群は、我々外国人が今見ても見事です。長い歳月と風雨に晒されて、一部外側の石が剥落している箇所がありますが、それもまた時の流れを感じさせます。
我々観光客が集まると、チャム族の人たちによる民族舞踊が始まりました。頭の上に壷を乗せて踊ったり、扇を使った踊りを披露してくれました。ガイドさんの話では「毎年、旧暦の3月20日から23日まではお祭りがあり、その3日間で、数万人の観光客がここへ集まる」と言うのです。
私はチャム族の踊りが終った後、そこから一人離れ、18年前に丘の上から見た光景があるはずの場所のほうに行きました。その場所の前に立つと、脳裏にある光景の場所とピタッと重なりました。今回も同じ場所から昔と同じ光景が見えてきました。
南シナ海にすぐ注いでいるニャー・チャーン川の中に架かっている橋があり、そこをバイクや車やバスが走っています。その橋の左上側には、川の中に大きな岩が座っています。まさしく18年前に見た光景と同じです。ただ、以前とは一つだけ違う光景がありました。それは、川の対岸に大きなビルが建設されていたことです。それでも懐かしい光景でした。
その後、「ニャー・チャーン大聖堂」に行きました。ここでは教会に至る階段の手すりに、キリストが十字架を背負って十三階段を苦悶して歩いている姿が大理石に彫ってありました。さらに坂道沿いには、亡くなった人たちの名前を刻んだお墓が石版にしてずっと続いていました。しかし、キリスト教徒でない私には、あまり興味を惹かれる場所ではありませんでした。丘の上にある教会では、新婚さんのカップルがアルバム作成のための写真撮影に何組も来ていました。
その後、Nha Trang 市内にある「Bao Tang Hai Duong Hoc(海洋学博物館)」へ行くことになりました。そこも一度訪れた思い出があります。この博物館は、フランス植民地時代の1923年に設立された海洋研究所です。この博物館内には、南シナ海に棲む様々な種類の魚介類が水槽の中で飼育され、実際に魚たちが泳いでいる大きな水族館がありました。東南アジアで最大の魚介類の標本がここにあると言われています。
ここの展示物の圧巻が、全長26メートル、高さ3メートルの巨大なクジラの骨です。確かに、鯨の骨の写真や実物を見慣れた日本人にとっても、その大きさには圧倒されます。ちなみに、ベトナムでは鯨は「神様」扱いされていて、何でも食べるベトナムの人たちでも、鯨の肉は食べません。Can Gioでは毎年「鯨祭り」が行われています。それで、私も「日本では子どもの頃、鯨の肉をよく食べていたよ。大変美味しいよ。日本に帰った時には、今も時々食べているよ」とは、ベトナムの人たちの前で敢えて言いません。
10時半まで「海洋学博物館」にいて、いよいよVinpearl Landへ行きます。バスに乗って十分ほどで、ホテルのような広い待合室に着きました。ここは、Vinpearl Landに渡るスピード・ボートに乗るために、お客さん方が待機する場所でした。我々が椅子に座るやいなや、従業員の方がオレンジジュースをお盆に載せて全員に配りました。
ここのロビーには大きな香木がドーンと据えてありました。幹回りも高さも初めて見るような巨大さです。(これほどの香木だと値段もさぞ高いだろうなぁ・・・)と考えていると、その香木の下に説明書きがありました。何と、<9万ドル>と値段が書いてありました。
スピード・ボートに全員一度には乗れないので、数組に分かれて乗り、目の前にある島を目指します。島の名前はHon Tre(ホン チェー)島。島にある山の上のほうには、<VINPEARL>という看板文字が遠くからも見えるような大きい字で作ってあります。そして島の左手に白い、大きなホテルが見えてきました。そこが今回我々が泊まるホテルでした。ホテルの名前も<VINPEARL>ホテルです。
ボートに乗って七分ほどで船着場に到着。そこからホテルへの送迎バスに乗ってホテルに向かいます。バスから外を見ると、道路の脇に竹を植栽している人たちがいました。まだこの島自体は工事の継続中という感じです。
送迎バスに乗って五分ほどして、ちょうどお昼に<VINPEARL>ホテル着。五つ星ホテルでした。ガイドが受付に行き、全員のチェック・イン手続きを済ませようとしました。しかし、この時間まだ部屋に入れないグループが出てきました。前のお客がまだ部屋を使っているか、部屋の清掃中のためです。自分の部屋のカード・キーだけはこの時点でもらいました。
仕方がないので、先にビュッフェで昼食を摂ることに。ビュッフェに入る時には、受付で貰った部屋のカード・キーを入口で係員が機械に通してチェックします。今まで食券を出してホテル内で食事をしたことはありましたが、このようなやり方は初めてでした。
さらにはこの部屋のカード・キーはビュッフェだけではなく、Vinpearl Landのいろいろな施設(スピード・ボート、レジャー・ランド、ケーブルカーなど)を利用する時、いちいち切符や入場券を買う必要はなく、このカード一枚でフリーパスになり、乗り物などで一般のお客が多い時でも、これを見せれば優先してくれるというやり方でした。
最初は、ビュッフェ形式で揃えてある料理をみんなで見て回りました。すでに調理された冷たい料理が置いてあるだけではなく、その場でお客の注文を受けて作ってくれるメニュー(麺類、焼き物類、揚げ物類、蒸し物類)も多かったですね。五つ星ホテルだけに、麺類、ご飯類、揚げ物類、サラダ類、デザートの果物など、実にメニューが豊富です。サシミやスシまでありました。デザートのアイスクリームもいろんな種類があります。
たまたま同じテーブル席にL顧問が座りましたので、このホテルやVin Groupについていろいろ説明を聴くことが出来ました。L顧問の話によりますと、Vin Groupの総帥はPham Nhat Vuong(ファム ニャット ヴーン)という立志伝中の人物で、1968年生まれの、今年48歳。後で調べましたら、Wikipediaにもその経歴や事業内容が英文で詳しく載っていました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pham_Nhat_Vuong
L顧問の話では、彼がベトナム全土で今一番のお金持ちだそうで、毎年長者番付の一位を占めていると言います。さらには、その奥さんや親族も長者番付の上位に入っているそうです。彼が手がけている事業は、ホテル、デパート、レジャー・ランド、不動産、病院、証券など多岐に渡っています。
この島全体を彼が借り上げて、島をレジャー・ランドに造成し始めたのは今から十年前だそうで、我々が泊まるこのホテルは「出来てまだ二年目です」と受付の従業員が答えてくれました。このホテルは、山側に面した部屋が一室350万ドン(約1万8千円)で、ビーチが臨める部屋は500万ドン(約2万6千円)するといいます。我々は全員が、窓を開けると山が見えるほうの部屋で予約されていました。
食堂やロビーからガラス越しに見える所にプールがあり、その先には青い海が見えています。空も青く晴れていて、お客さんたちは海辺で海水浴をしていました。<ニャー・チャーン ブルー>とも言うべき青さでした。波も荒くないので、家族連れで泳いだりしていました。
食事が終った後、部屋に荷物を入れて、S先生と私は一旦ロビーに下りてゆきました。着いたばかりで泳ぐのも疲れるので、ロビーの椅子に座り、二人でビールを飲みました。こういう高級ホテルだけに、一本のTiger Beerも安くはありません。9万ドン(約470円)もしました。サイゴンの「SUSHI KO」では一本1万6千ドン(約80円)です。
二人でしばらくロビーで話しながらビールを飲んでいました。S先生は学校に来た当初は生徒たちに日本語を教えられていました。しかし、総務全般を担当していた日本語の達者なベトナム人社員が辞めた後、そちらのほうの仕事をすることになり、毎日次々と学校を訪問する、日本から来た組合の人たちとの折衝、迎え入れなどで、日々忙しい生活を過ごされています。
それだけに、「電話も掛かって来ない。メールも来ない。こういうふうに無為に過ごすことが出来る時間を持てることは、お互いに貴重ですねー」と話したことでした。S先生も私も「スマートフォン」ではなく「ガラ携」なので、この島まではメールも届かないのです。二人で話していたこの時、回りに私たちの同僚の姿は見えなかったので、年配の人たちは部屋で過ごしているか、若い人たちはみんなで連れ立ってどこかへ遊びに行ったようです。
ビールを二人で飲んだ後、また部屋に帰って少し昼寝をして、夕方6時にレストランでみんなと食事会。夕食も同じくビュッフェ形式での食事です。貸切ではなく、ここには他のお客さんたちも入って来るので、列車の中でのドンチャン騒ぎのようなことは出来ません。みんな静かに食べていました。
ビュッフェで食べ終えて、またロビーの椅子に座り、みんなで話していた時、学校のTR会長がお母さんと一緒にホテルに到着しました。我々は列車でNha Trangまで来ましたが、TR会長とお母さんは飛行機に乗って来ました。翌日TR会長はL顧問と一緒にVinpearl Land内にあるゴルフ場でプレイすると言って、サイゴンからゴルフクラブも持参して来ていました。
その後、我々日本人のグループはホテルのすぐ前にあるビーチまで行きました。(満天の星が見えるかな)と期待していましたが、あまり星は見えませんでした。ビーチに置いてある長椅子にしばらく寝そべっていろいろ話して時間を過ごしました。一匹の蚊もいませんでしたので、海辺で心地良い夜風に吹かれていました。
私は足元にあるビーチの砂を踏みしめながら、「そうだ!この砂をお土産にサイゴンまで持って帰ろう!」とふと思い、少し乾いた場所の砂を探して、たまたまポケットに入れていたビニール袋にそこの砂を入れてゆきました。
同僚の女性のUA先生に「そんな砂を集めてどうするんですか」と聞かれたので、「今回のニャー・チャーン旅行の記念として、サイゴンへのお土産に持って帰ります。旅行に行けなかったベトナム人の先生たちが十人ほどいますので、その人たちにプレゼントします」と答えますと、「そんなものをあげてもみんな喜ぶでしょうか」と笑いながら見ています。
以前私はムイネーに旅行した時にも、ムイネーの砂丘地帯にある砂を小瓶一杯ほど記念に持って帰りましたが、それは今も私の部屋に置いてあり、<ムイネー旅行の記念>としていい思い出になっています。それで、次にまたいつ来るか分からないので、大した量ではないですが(1kgぐらい)、「喜んでくれる人が数人もいればいいや」と思い、袋いっぱいに砂を詰めて輪ゴムで留めました(しかし、この時は知らず、実はこれが帰りの空港でひと悶着の原因になりました)。この日はみんな早めに寝ることにして、二日目の夜は終わりました。
<三日目・・・レジャー・ランド 見学>
今回我々が泊まったホテルがあるHon Tre(ホン チェー)島には、新しく出来た施設(ホテル、ゴルフ場、レジャー・ランド)や、今も出来つつある施設(ヴィラなど)はありますが、ホテルの外にはレストランや喫茶店や居酒屋のようなものはありません。
それで、この島のホテルに宿泊しているお客は、三度の食事はホテルのビュッフェで食べます。それに飽きて、どこか他の場所で食べたい場合はニャー・チャーン市内まで行くしかありません。ホテル側で提供しているサービスも幾つかありました。「ヨガ教室」や「自転車で島内一周」や「テニス」など。
そういう中、私の同僚の先生の動きで感心したのは、同僚の女性のHM先生が「ダイビング」に挑戦されたことです。HM先生は今年72歳になられます。HM先生については、2016年8月号のBAO「道徳教育に人生をかける85歳の現役女性教師」でも触れたことがありましたが、実に生き生きとして元気良く、生徒たちの前でも溌剌とされています。
生徒たちには日本語以外にも、「茶道」や「歌」や「盆踊り」、そして最近は「花笠音頭」にも挑戦されて、今実際にそれを生徒たちに教えていて、12月の末にはBen Tre(ベン チェー)に生徒たちと一緒に行って、それを地元の人たちに披露されます。そのHM先生のもう一つの趣味が「ダイビング」なのです。最初それを聞いた時、大変驚きました。
「ダイビング」は潜水具を着けて海の中に潜り、海の生態系(魚や貝やサンゴ礁)などを楽しむものですが、誰でもが簡単に潜れるものではなく、危険を伴うので<資格>が要ると、HM先生から聞きました。彼女はそれを、オーストラリアで日本語を教えている時に、自分の趣味を広げるために取得したと話されました。とにかく、いろんな事に積極的で、大変感心します。
その「ダイビング」を希望する人たちに、このホテルでサービスを提供していることを知り、早朝からの時間帯ながら早速申し込まれました。参加費用は50ドルだったそうです。後で「どうでしたか」と聞きますと、「やはりニャー・チャーンの海の中はキレイで、大変満足でした」と喜んでおられました。
私はそういう趣味も無いし、ヨガにも興味は無いので、みんなと一緒にすぐ近くにあるレジャー・ランドに行くことにしました。ここは大人でも十分楽しめますが、子ども連れなら子どもたちが喜ぶこと間違いありません。日本のディズニーランドの大きさの規模はありませんが、そのミニサイズ版のような施設でした。
私は最初、ジェットコースターに乗りました。女性の人たちは乗るのを怖がる人たちが多いですが、私は好きです。特に、あの坂道をコトコト上り、上り終わった後、急降下する時のスピード感が好きです。
園内には水族館もありました。さほど大きい水族館ではありませんでしたが、館内はクーラーも効いていて、大変涼しく、お魚さんたちの生態系が良く分かります。HM先生は我々が水族館で見ているこういうお魚さんやサンゴの生態を、海の中で泳ぎながら観察されているのです。羨ましいと言うべきです。
ここには日本のディズニーランドには無い施設もありました。昨年の12月末にダ ラットに社員旅行に行った時、Datanla(ダタンラ)滝まで下りる時に、コースターに乗りましたが、それと同じ乗り物がこのレジャー・ランドにもありました。
そこに行きますと、何と一時間待ちの行列が出来ていました。一台のコースターには最大でも二人しか乗れないので、参加希望者が多いと待ち時間が長くなります。私の場合もやはり一時間を少し過ぎた頃にようやく乗ることが出来ました。
このコースターは、ニャー・チャーンから島に渡る時に見えた、山の頂上近くに<VINPEARL>という看板文字があった場所近くまで上ります。「山の言う返事でした。後でパンフレットを見たら、「山の高さは海抜140m」と書いてありました。 高さはどのぐらいなの?」と、コースターに乗せてくれた従業員に聞きましたが「知らない」と
乗る前に係員が操作方法について注意をしてくれます。と言っても、「動く」「停まる」の二つの操作だけです。どのぐらい時間が掛かるか計りました。上りが10分、下りは5分で出発点に着きました。このコースターに人気があるのは、山の上からずっと先に見える海の光景が美しいからではないかと思います。コースターが着いた所で、いつの間に撮ったのか、「写真が出来ているよ!」と言うので、旅の記念に買いました。一枚が6万ドン(約300円)でした。
園内は大変広いので、歩き疲れてきます。ノドも乾きます。お腹も空きます。しかし、大きなレストランやファーストフードのような店はありますが、落ち着いて、気軽にゆっくり座れるような小さい店がありません。これから少しずつ改善されてゆくのでしょう。
レジャー・ランドでの遊びが終り、この日の夕食はホテルではなく、ニャー・チャーン市内で食べることになりました。大型バスに全員乗り込み、7時にニャー・チャーン市内の夕食会場に到着。結婚式場のようなレストランでした。事実、隣の部屋には結婚式のセット(写真など)が準備されていました。
ここはホテルのビュッフェではないので、心置きなく最初にみんなで「1・2・3(モッ・ハーイ・バー)」の乾杯の音頭が始まりました。ここの料理では、私が(まさか?)と驚いた一品が出てきました。貝の「タイラギ」です。
私が子どもの頃、有明海でよく獲れていたというあの「タイラギ」です。最近はほとんど獲れなくなったと言いますが、私もあの貝を食べた記憶がありません。ベトナムでは市場では良く見かけますが、何せ一個が大きいので買って食べたことはありません。それをここで食べることが出来ました。
UA先生も私と同じ熊本の出ですが、やはり食べたことがないそうです。それで、この時出された「タイラギ」に手を付ける箸を止められていました。そして「私のぶんをどうぞ食べてください」と言われましたので、「では遠慮なく!」と言って、彼女のぶんも食べて上げました。大変美味しいものでした。
食事の後、バスはお土産屋さんに立ち寄りましたので、みんなお土産選びに専念しました。私もここで家族へのお土産を買いましたが、やはり安くはありませんでしたね。ニャー・チャーンのお土産と言えば、やはり海産物ですが、それらを加工したお土産は値段が高いものです。
そして、ホテルには10時過ぎに着きましたが、その後もロビーにTR会長と日本人の先生たちが集まり、ビールを飲みながら雑談して、結局寝たのは深夜0時過ぎでした。この日観光案内などは一切無く、「自由行動」の一日で終りました。
<四日目・・・Nha Trang ⇒サイゴンへ>
朝も朝食はホテル内のビュッフェです。やはり毎日同じとなるとだんだん飽きてきます。しかし、この日が最後のホテルでの朝食です。朝食後すぐに、私と同室のベトナム人のP先生は、昨日私が話したコースターに乗りたいというので、友人を誘って出かけました。
この日にサイゴンに帰ります。みんが荷物を持ってロビーに集合するのは11時半です。私は帰る荷物の準備を終えた後、時間が来るまで部屋でゆっくりと本を読んでいました。今回の旅は「自由時間」が多いスケジュールになっていたので、一冊の文庫本を持っていきました。
本の名前は、山崎豊子の「不毛地帯」。これはなかなか読み応えがある本です。一応モデルは、<瀬島龍三氏>だと言われています。瀬島氏は、戦前は「大本営作戦参謀」、戦後は「伊藤忠商事会長」に就いた人ですが、実に複雑な、波乱万丈の人生を送った方です。この本の文庫本を一冊持込み、初日の列車の中からこの日まで、読んでは考え、考えては読んでゆくうちに、この旅が終るころ、ちょうど一冊を読み終わりました。
そして11時半にロビーに集合しました。みんなチェックアウトの手続きを受付で済ませます。それから、ホテルを出る前に、またビュッフェで食事です。私が最初にレストランのほうへ行き、部屋のカードを従業員に差し出しました。従業員はそれを受け取り、機械に通します。すると、エラーの表示が・・・。
従業員が「申し訳ありません。チェックアウトされたので、もう部屋の精算が済んだことになっていて、昼食までの予約は入っていません」と言う返事。私はそれを聞いて「ええーっ!」と驚きました。昨日の夜別れる時に、バスの中で男のガイドが「昼の食事はホテルで食べることになっています」と伝えていたのを覚えていたからです。
「そんなはずはない!もう一度確認してくれ」と文句を言っても、やはり「ダメです」との返事。ラチがあかないので、ベトナム人の年配の同僚を呼んで来て、「これこれ、こうだ」と事情を説明してもらいましたが、ベトナム人同士で話してもやはりダメでした。50人の学校の同僚のみんなもそれを知り、途方に暮れています。
TR会長にも事情を話すと、「旅行会社のミスですね。今旅行会社に文句を言って、みんながこのホテルで昼食を摂れるように交渉させています。しばらく待ってください」と言う答えでした。我々もしばらく待つしかありません。
そしてようやくして、従業員が「OKです。みなさんお入りください」と声を掛けてた時には12時40分になっていました。ヤレヤレでした。TR会長は「今回の旅行会社はミスが多すぎる。来年は代えます」と嘆いていました。
面白かったのは、昼食を終えてホテルを出、来た時と同じくスピード・ボートに乗って対岸に着き、バスに乗り込んだ時、ガイドの男性が「お昼の食事の手配のことでは“事故”が起きたようですが・・・」と話していたことです。「自分のミスで・・・」とは謝りませんでした。TR会長はますます(やはり来年は代えんとイカンな)と考えたことでしょう。
帰りは飛行機でサイゴンに帰りますので、バスはCam Ranh(カム ラン)空港に向かいました。Cam Ranhと言う地名は「Cam Ranh湾」として良く知られています。Cam Ranh湾は良港で、フランス植民地時代から軍事拠点に利用され、日露戦争の時には“バルチック艦隊”が寄航したことでも有名です。私はそれを、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」で初めて知りました。
飛行機の出発は15時55分です。空港に着いたのは14時45分。しかしこの時、他にも大勢お客がいて、我々だけでも50人の団体です。手荷物を預ける人たちの行列が出来ていますが、なかなか受付が進みません。空港でゆっくりお土産を買う予定の人たちは、その場所を動くわけにもいかず、焦っています。私も空港内にいいお土産があれば、もう少しお土産を買う予定でいたのですが、断念しました。私の荷物は大きくないので、着いてからすぐ外に出られるように、機内持ち込みにしました。
そして受付が終わり、ガイドがみんなに搭乗券を配り終えたのは、飛行機の出発20分前。そこからX線チェックが始まりました。みんなは体だけで、荷物は土産だけなので、スイスイとチェックのゲートを過ぎて、機内に向かいます。
私の順番は後ろのほうになりました。そして、荷物をX線の機械があるレールに乗せると、「異常!」のマークが出たのかどうか、「バッグの中身を出せ!」と言う係員の指示。みんなはもう先のほうに行って見えなくなってきました。私の預け荷物のバッグに写っている物体をペンで指示します。「これは何だ?」と。
(不審な物は入れていないはずなのに・・・)と思いながら、彼がペンで指示した箇所の物体を見て、ハッと思い出しました。あの時ビーチで「旅の記念に、みんなへの土産として持って帰ろう!」とビニール袋に詰めた砂でした。
それを思い出したので、「砂だ!」と言っても、首を傾げているので、バッグの一番下に詰めていたビニール袋を取り出し、中を開けて見せました。それでようやく「OK!」と笑いながら言いましたが、(何で砂なんかを・・・)という表情でした。
そして、まだこの係員とやり取りしていた時点で、「ミスター○○、出発時間です。早く飛行機の中に入ってください!」と、英語で私の名前を呼ぶ声が空港内に響きました。焦りました。係員に「今放送したあの名前が私だ!」と言うと「早く行け!」と言う手つきをします。
急いで荷物を仕舞い、機内に向かって走って行きました。すると、また「ミスター○○、これがFinal Callです。もうすぐ飛行機は飛び立ちます。早く機内に入ってください!」と再度放送がありました。本当に慌てました。荷物を抱えて、大いに走りました。
そしてやっと、滑り込みセーフで間に合いました。「申し訳ありませんでした!」と謝りましたが、恥ずかしかったですね。機体は予定時刻通り、15時55分に飛び立ちました。サイゴンには16時半に無事に着きました。
今回の旅はトラブルもいろいろありましたが、今年の社員旅行も無事に終わりました。週明けの月曜日、トラブルの原因の一つになった、ニャー・チャーンの砂を持って行きました。ヨーグルトの小瓶のような容器に入れて、10人ぶんの砂を入れました。ちょうど10人ぶんを入れ終わると、砂が全部無くなりました。
その日の終礼の後、「実は今回の旅行に行けなかった先生たちに、ニャー・チャーンのお土産を持って来ました。これです。ニャー・チャーン・ビーチの砂です」と言うと、みんなの顔に笑顔が出て、ワーッと群がるように集まり、全部無くなりました。「そんなものを上げてもみんな喜ぶでしょうか」と心配していたUA先生も驚き、笑っています。いろいろあったトラブルも、みんなが喜んでいる顔を見て、「旅の思い出」の一つになりました。
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
ベトナムで天皇誕生日祝賀レセプションが開催
今月のBAOは<ASEAN PORTAL>12月13日掲載記事です。
在ベトナム日本大使館は、12月23日の天皇誕生日に先立ち12月6日に「平成28年度天皇誕生日祝賀レセプション」をベトナムにおいて開催した事を発表した。
今回のレセプションは、天皇陛下の83歳の誕生日を祝して実施されるものである。このレセプションは、ベトナムのダオ・ヴィエット・チュン国家主席府官房長官、ファン・ミン・チン政治局員・共産党中央組織委員長などのベトナム政府関係者や越日友好議連会長などが参加し、合計で600人が参加した。会場では、ベトナム現地の日本商工会や地方自治体・政府機関などの協力により、日本の観光・和食文化や日本企業の製品・サービスの紹介ブースが設置されていた。
レセプションの冒頭では、ベトナム国立交響楽団による日越両国の国歌演奏が実施された。日本の梅田大使は「日本とベトナムの指導者の間には厚い相互信頼感が構築されており、国民レベルでは強い親近感が存在している。来年に期待されるハイレベル交流や行事等の機会を通じて、日越関係を更に強固な関係にしていきたい。」との旨が述べられた。ベトナムの国家主席府官房長官からは、日本の天皇誕生日に関しての御祝辞が述べられ、日本はベトナムにとって最重要かつ長期的なパートナーであるため今後もあらゆる方面で協力関係を強化していく方針である事が述べられた。
<以上「ASEAN PORTAL」より掲載>
◆ 解説 ◆
この記事はハノイ市で行われた「天皇誕生日祝賀レセプション」ですが、実はホーチミン市内でも同じく「天皇誕生日祝賀会」が行われました。
ホーチミン市では、12月8日に「ホーチミン市友好協会」で「日本国天皇誕生日祝賀会」が行われました。「ホーチミン市友好協会」から事前に招待状を頂いていましたので、私も参加させて頂きました。
しかし、日本に於いても「天皇陛下の誕生日祝賀会」などに参加する機会は無かったので、今回の「誕生日祝賀会」は実に初めてのことでした。
会場の中に入りますと、正面舞台に「日本国天皇誕生日祝賀会」と書かれた大きな題字が掲げてありました。10時から大学生たちによる、<よさこい節>と演歌が披露。一人の大学生が歌った「浪花節だよ 人生は」の歌は、日本人顔負けの上手さでした。
そして、「ホーチミン市友好連合委員会」の議長であるNguyen Cong Tanh(グエン コン タン)さんの祝辞の挨拶。続いて、ホーチミン市の日本領事館の中島総領事のお返しの挨拶。その後、さらに続いて剣舞や踊りや歌があり、午前の部は11時半に終了。私がいた時には約150人の参加者がいました。
会場内には料理も用意されていました。みなさんは料理を食べて、その後午後の部も「祝賀会」に続けて参加されていたそうですが、私は午後から授業があったので、午前の部だけ参加してそこを後にしました。
ここに来られていた「村山日本語学校」の校長Luan先生の話によりますと、この「天皇誕生日祝賀会」は、何と20年も前から行われてきたということです。 べトナムという異国の地で、日本の天皇陛下の誕生日を祝う行事を毎年行ってくれている・・・。実に、有り難いことです。