春さんのひとりごと
<送別会と結婚式>
毎週日曜日の午前中に<青年文化会館>で行われている『日本語会話クラブ』。その『日本語会話クラブ』に繋がっているメンバーの「送別会」と「結婚式」が三月下旬、四月初めと続きました。この二つの行事に参加した『日本語会話クラブ』のメンバーたちにとっては、「寂しさ」と「慶び」が重なった日になりました。
●Nguyenさんと日本人・YCさんの「送別会」●
昨年の12月に結婚式を挙げたNguyen(グエン)さんの「送別会」のことは、今年一月号の「Nguyenさんの結婚式」の最後に“Nguyenさんが日本に旅立つ前に、クラブのメンバーで「送別会」をしてあげる予定です”と触れました。彼女は4月の初旬に、日本の名古屋で待つ日本人のご主人の元に向かい、そこで二人の結婚生活を始めます。
さらにもう一人、同じく『日本語会話クラブ』のメンバーである、日本人女性YCさんもNguyenさんが日本に行った後しばらくして、同じく日本に帰ることになりました。彼女はベトナム滞在五年になりました。ベトナムでは「ケーキ屋さん」を開業されました。日本に帰国後、彼女は犬好きなので、故郷の兵庫県で【ドッグカフェー】を開きたいという夢を持っています。
そのお二人の「送別会」を3月25日に「SUSHI KO」で行うことになりました。最近はあらゆる宴会をここで行うことが多くなりました。大人数でも少人数でも、一週間先でも当日でも、メッセージを一回送るだけで予約を済ますことが出来ますので重宝しています。
今回の「送別会」の声掛けは、『日本語会話クラブ』の常連でもあるMZさんが「送別会」の窓口になり、一ヶ月前からみんなに告知してゆきました。彼の元に参加希望者は連絡を入れてゆきます。私にも人数の変化があるたびに、「今現在○名です!」という連絡がきました。「SUSHI KO」に予約を入れるのが私だったからです。
「送別会」の一週間前には参加希望者が18名、前日にはちょうど20名になりました。(そろそろこれで確定かな・・・)と思い、「SUSHI KO」に予約を入れて、当日を待ちました。しかし、20人という人数は、「SUSHI KO」に配置してある座席の一列全部を占めてしまいます。
そして、実はこの二人の「送別会」と同じ日、同じ場所で、時間は少し遅くなりますが、私の同僚のHSくんの「激励会」も行う予定でした。HSくんは今年二月の「古川さんの法要」にも参加してくれた日本語の先生です。彼の経歴は面白く、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」にも脇役として出演したことがあるといいます。私自身はまだそれを観たことはないのですが、最初にそれを聞いた時、大いに驚き、嬉しくなったことを覚えています。
彼は今年でベトナム滞在が三年目になりましたが、今まで勤めていた学校を去り、この四月から新しい分野での仕事をスタートします。その「激励会」を予定していましたが、その企画を立てたのは「送別会」の後だったので、偶然ながらちょうど同じ日に重なりました。
さらには、こちらで金融業を始められたUNさんからも事前に連絡があり、「家族がサイゴンにやって来るので、五人ぶんの席取りをしておいて欲しいのですが・・・」という依頼が私にありましたが、それもまた同じ日でした。彼が始めた金融業の支店は今急速に増えてきていて、忙しい日々を過ごされています。
結局、3月25日に「送別会」を予定していた「SUSHI KO」一号店の路上屋台は、私の友人・知人たちだけで満席になりそうな予感がしました。ふだんでも土曜日の「SUSHI KO」は大変な混みようですから、(さあー、どうなることやら・・・)と心配にはなりました。しかし、昨年の二月末に、50人が「SUSHI KO」に集まった、あのNHKの撮影も何とかしのぎましたので、(まあー、何とかなるだろう)と思い直しました。
そして迎えた当日の3月25日、集合時間は夕方6時でしたが、私は30分ほど早めに「SUSHI KO」に着きました。すると、Hong Bang(ホンバン)大学のTR先生が私より先に席に着き、すでにビールを飲み、付き出しの「枝豆」を一人でつまんでいました。私を見ると頭を下げて、ニヤリと笑われました。
しかし、TR先生が座られていたその席はHSくんの「激励会」のテーブルでした。いつも「SUSHI KO」に来た時に座るのがその席でした。それで、ビール瓶とコップと枝豆を手に持って、すぐその隣にセットしてあった「送別会」の席のほうに移動してもらいました。
その時、すぐ隣の席の人が私の名前を呼びました。そちらを見て驚きました。一月号の「ガンボさんの来越」の中に登場した、日系の歯科医院のAG先生とIAさんご夫妻でした。まさか、さらに知り合いの方が先に来られているとは気づきませんでしたが、「SUSHI KO」の席が私の友人と知人だけでほとんどを占めてしまいました。私が予約したテーブル以外で、残る席は四人が座れるテーブル一つだけになりました。
「送別会」のほうは、MZさんが「6時だよ、全員集合!」と事前連絡を徹底していたお陰で、夕方6時10分前頃から続々と集まりだしました。この日に参加予定の日本人は全部で9名、ベトナム人側は全部で11名でした。この日来られた中で一番遠い人は日本人の若い女性NNさんで、何とハノイ市から飛行機で飛んで来られました。
集合時間は6時にしていましたが、日本人でもベトナム人でも、早く来る人はいつも早く来て、遅れる人はいつも遅れます。MZさんと私の予想では、全員が揃うのは6時半ごろと考えていました。それで、厨房のほうには6時半頃に最初の一品目の料理のサシミ類を出すように伝え、「テーブルの数だけの皿数を準備しておいてね!」と板長には確認していました。全員が揃うまでは、みんな枝豆をつまんで待っています。
しかし、YCさんは早く着きましたが、Nguyenさんのほうはまだ着きません。6時少し前に、私の携帯にNguyenさんからメッセージが入っていました。「空港に友達を迎えに行って、今そちらに向かっていますので、6時半頃になるとい思います」と。こういう連絡がしっかり出来るあたりは、さすがはNguyenさんです。
でも、肝心の「送別会」の主賓二人のうち一人が遅れてまだ着かないので、それまで料理は出せません。この日は暑かったので、私もみなさんもノドが乾いてきました。それで、先に来て席に座っているみなさんには、ビールやジュースを頼んでもらいました。ツマミは枝豆だけです。みんなイライラすることもなく、お喋りしながら待ってくれます。
そして、6時半頃になり、ようやくNguyenさんが到着。これで全員が揃いました。しかし、みんなで乾杯をして、最初の料理のサシミ類を出した時、二人のベトナム人がバイクに乗って我々の席の近くに着き、道路上にバイクを停めました。良く見ると、『日本語会話クラブ』の責任者Tanさんと、毎週トピックスを配っているDuyさんでした。
しかし、20人で予約したテーブルの席には、すでに全員が座っていて、空き席がありません。MZさんに「彼らも参加者の中に入っていましたか?」と聞きますと、「いいえ、入ってはいません。彼ら二人は今日参加するとは申し出てはいませんよ」と、苦笑しています。ベトナムでは、予約無しで突然現れるというのはままあることです。しかし、せっかく「送別会」のために来てくれたのですから、追い返すわけにもいきません。
20人席の端には、我々の席から少し離れた所に、道路側スレスレにテーブルが一つ置いてあり、すでに三人の若者がそこに座って料理を食べています。店員が彼らに別の席を指差して「お客さん、申し訳ありませんが、あちらの席に移動して頂けませんか」と丁重に断り、そちらに案内してくれました。それで、22人全員が一列の席に座ることが出来ました。
「送別会」の主役の二人には真ん中の席に座ってもらい、全員で“乾杯”しました。Nguyenさんは約六年間近く、ガイドの仕事の出張で忙しいTanさんを助けて、『日本語会話クラブ』の窓口となり、本当に良く頑張ってくれました。YCさんも、『日本語会話クラブ』のメンバーの誕生日会などでは、MZさんとともに率先してその音頭を取って頂きました。そのことに対して、お二人に感謝のお礼をみんなが述べました。
サイゴンに住んでいる私たちは、サイゴン市内の場所であれば、「送別会」がどこで行われてもすぐに駆けつけることが出来ます。しかし、今日のこの場には、今ハノイで仕事をしているNNさんもいました。彼女もNguyenさんとYCさんを良くご存知なので、この「送別会」のためにわざわざハノイから飛行機に乗って来られたのでした。
Nguyenさんは、ご主人が待っている日本への「憧れ」と、ベトナムを去ることの「寂しさ」を口に出していました。日本での仕事はまだ決まっていませんが、今多くのベトナム人実習生たちが働いている名古屋に行きますので、日本語が上手な彼女のことですから、いろんな仕事が見つかるだろうと思います。
二人の「送別会」は9時頃まで続きました。みんなで写真を撮り合い、全員での記念写真も撮りました。「SUSHI KO」の同じ敷地内で、私は「送別会」にも参加しながら、HSくんの「激励会」にも加わり、UNさんのご家族にも挨拶したり、忙しい動きになりましたが、何とか無事にこなすことが出来ました。
YCさんは6月頃にベトナムを去る予定だそうですが、Nguyenさんは4月7日にベトナムを離れました。空港にはMZさんも見送りに行かれました。 これから日本で新しい生活がスタートしますが、「いつも明るく振舞い、何事にも自分から率先して頑張っていたNguyenさん」です。日本で幸せな家庭を築いて欲しいと願っています。
●Xuanさんの「結婚式」●
4月2日にXuan(スアン)さんの「結婚式」がサイゴン市内で行われました。「結婚式」の連絡は、三ヶ月ほど前から私に伝わっていました。花婿さんはベトナム人で、大きなIT系の会社で働いているということでした。写真も見せてもらいましたが、Xuanさんと同じくらい若い青年です。
Xuanさんについては、私自身の格別な思い入れがあります。彼女はまだ大学生の時から、毎週日曜日に行われている『日本語会話クラブ』に参加していました。彼女はいつもニコニコして明るく、話し方も穏やかで、みんなから人気がありました。
毎週そういう彼女の姿を見ていた私は、毎年夏の【ベトナムマングローブ子ども親善大使】の女子の世話をしてもらうのに適役だなと思いました。彼女にその活動内容を話し、女子の班のアテンド役のことをお願いすると、
「ええー、そういうのがあるのですか!私も子ども好きだし、日本の生徒さんたちと活動出来るのが楽しみです。喜んでやらせて頂きます!」
と快く引き受けてくれました。そして、2013年の夏にその活動に参加してくれて、生徒たちみんなからも「スアンさん!スアンさん!」と慕われていました。生徒たちが日本に帰国する時、空港では生徒たちもXuanさんとの別れに涙を流して惜しんでいました。
【ベトナムマングローブ子ども親善大使】の行事が終った後、その行事に参加した<感想文>を彼女が私に寄せてくれました。今でも私は、それを大事にファイルの中にしまっています。彼女は<感想文>の初めに次のように書いています。初めてこういう活動に参加した時の、Xuanさんらしい、素直で柔らかい感性が溢れた<感想文>だと思います。
“私は子どもの時、「外国に行く」ということは「観光のため」だけに行くと考えていました。しかし、今回、日本の子どもたちは「マングローブの植林」をしたり、ベトナムの子どもたちに「プレゼントを進呈」したり、ベトナム戦争を通して「戦争と平和」について考えたりしていました。ベトナム人の大学生である私にとって、それは素直な驚きでした。”
2015年3月から、彼女は和歌山の大学に一年間の予定で留学しました。日本留学中は、大学の休みの間を利用して、京都や奈良や大阪などを旅行したそうです。そして予定通り一年間の留学生活を終えて、2016年3月に帰って来ました。
彼女と一年ぶりに会った場所は『日本語会話クラブ』です。ベトナムに帰国した彼女は、すぐにその週の日曜日にそこに来てくれていました。一年ぶりの彼女との再会のことは、2016年4月号に「Xuanさんと一年ぶりの再会」として触れています。
その時は、みんなにXuanさんのことを紹介した後、「何か日本の歌を覚えましたか?もし歌える歌があれば、是非みなさんたちの前で歌ってください」と聞いたら、「では、今から“花は咲く”を歌います!」と彼女は言って、伴奏無しでその歌を歌ってくれました。それを横で聴いていた私は(恥ずかしがり屋だった彼女も、ずいぶん逞しくなったなあ~)と感心しました。
それからしばらくして、彼女はMZさんの紹介で日本の総合商社・M社に勤めたということを聞きました。大学で日本語を専攻し、さらに日本の和歌山の大学に留学し、『日本語会話クラブ』にも顔を出し、日本語の勉強に励んできた彼女の今までの努力が、そのまま日本の会社への就職に繋がりました。それを聞いた時、私も嬉しかったです。
結婚式の二週間前に、彼女は招待状を『日本語会話クラブ』に持ってきてくれて、親しい人たちにそこで渡しました。みんな「わー、Xuanさん結婚するの!おめでとう!」と喜んでいました。私もその場で頂きました。「喜んで出席しますよ!」と彼女に言いました。
そして式当日の4月2日、私はバイクで式場に向かいました。式は日曜日のお昼からでした。式場の入り口に新郎新婦が立ち、お客さんを迎えています。彼女はもともと美人顔なのですが、この日は艶やかなウエディングドレスを着ていて、さらに美しく輝いていました。そこで恒例の記念写真を撮ってもらいました。
式場の中に入ると、三百人ほどのお客さんたちが席に着いていました。私は『日本語会話クラブ』のメンバーたちが座っているテーブルに案内されました。『日本語会話クラブ』のメンバーは全部で20人ほど来ていました。私はNguyenさんのすぐ隣に座りました。
私が座った別のテーブルにもクラブのメンバーがいましたが、その同じテーブルには日本人らしき、知らない人が二人座っています。Nguyenさんに聞きましたら、Xuanさんの会社の上司の方でした。席が離れていましたので、この日の式の間に、直接お話する機会はありませんでした。
昨年12月に行われたNguyenさんの結婚式では、長淵剛の“乾杯”をクラブのメンバー全員で歌いましたが、この日の結婚式でもそれを歌うつもりで、コピーを持参してきました。私が座った席にいるメンバーにそれを渡しました。ベトナム人もいましたが、みんな前回歌ったメンバーですので、この歌は知っています。歌の予約を先に入れるために、Nguyenさんを連れて司会の方に行き、彼女の携帯からその歌をYouTubeで探して、司会者に示しました。
その後、別のテーブルのほうに行き、そこの人たちにも歌詞を配りました。Xuanさんの上司の方二人にもその歌詞を配り「出来れば、クラブのメンバーたちと一緒にこの歌を歌ってください」とお願いしました。まさかこの日の結婚式で突然歌わされるとは思わなかったでしょうから、お二人ともさぞ驚かれたことでしょう。
そして、12時半を過ぎた頃に、いよいよ式がスタートしました。式場の照明が消え、扉を開けて入ってきた二人にスポットライトが当たり、結婚式恒例の音楽が鳴り出しました。そして、壇上に新郎新婦二人が並びました。ウエディングドレスを着て、新郎と腕を組んで立っているXuanさんの姿を見ていますと、彼女の大学生の時の思い出が甦り、胸が熱くなってきました。
新郎新婦のご両家の両親も同じ壇上に立たれ、新郎のお父さんが感謝の言葉を述べられます。そして、新郎新婦による「ケーキカット」「シャンパンタワー」へと進みます。Nguyenさんの結婚式の時と同じです。彼女も自分の結婚式の時を思い出したことでしょう。
そして、最初の料理が運ばれてきた後、司会者から「では先ず初めに、『日本語会話クラブ』の人たちにより、日本の歌を歌っていただきます」と言う挨拶がありました。いよいよクラブのメンバー全員で“乾杯”を歌います。メンバー全員が壇上に上がりました。新郎新婦にも上がってもらい、中央に立ってもらいました。嬉しいことに、Xuanさんの上司の方お二人も一緒に上がられました。
そして、メンバーの中の男性・Tuan(トゥァン)くんに、今から歌う日本の歌について参加者にベトナム語で説明をしてもらいました。「今から全員で日本の歌“乾杯”を歌いますが、この歌は結婚式などのおめでたい席でよく歌われる歌です」と彼が話してくれました。
それから歌がスタートしました。♪かたい絆に 思いを よせて 語り尽くせぬ 青春の 日々♪・・・と、一番まで全員で無事に歌い終えました。すると、一番が終っただけで、音楽も終りました。ブチッと切れてしまいました。日本人は二番までこの歌があるのは知っていますから、(あれれ?)という顔をしています。この曲は二番目に入るまでに間が少し空くので、司会者は(これで終わりだな)と思ったのでしょう。
しかし、また最初から曲を掛け直して歌うのもしらけるので、私たちもそれで終わりにしました。Xuanさんたちも十分喜んでくれていたし、今日初めてこの曲を聴いたベトナム人の出席者たちも(ははぁー、これが日本ではめでたい時に歌う歌かぁー)とは理解してくれたことでしょう。
式は二時過ぎまで続きました。式が終った後、クラブのメンバーたちですぐ近くにある喫茶店に行く事にしました。私はバイクで帰らないといけないし、式場の距離が少し遠かったこともあり、結婚式でもビールは飲みませんでした。他のみんなはビールを飲みすぎたようで、ここではソフトドリンクだけ飲んでいました。
この時、空には黒い雲が出始めました。もうすぐ大雨が降りそうです。一時間ほどそこで時間を潰して解散しましたが、帰る途中やはり大雨に遭いました。結婚式が始まる前までは雨は降らず、終った後に雨が降ったので、Xuanさんたちにとってもラッキーでした。
結婚式の後、二人は「新婚旅行」に行くと言っていましたが、その行き先は日本でした。和歌山、大阪、名古屋、岐阜などを訪問したそうです。名古屋では日本に着いたばかりのNguyenさんとの再会も果たしました。そこには数年前まで『日本語会話クラブ』のメンバーだった知人の日本人もいました。どんなに嬉しかったことでしょう。
昨年12月末と今年4月初め、『日本語会話クラブ』のメンバーの中でも常連のNguyenさんと Xuanさん二人の結婚式が続きましたが、Xuanさんはこれからもサイゴンにいますので、落ち着いたら時々は『日本語会話クラブ』に参加出来るでしょう。しかし、Nguyenさんはこれから日本に住みますので、『日本語会話クラブ』に参加することは出来ません。
Nguyenさんは『日本語会話クラブ』で六年間近く活躍してくれました。 Xuanさんには、四年前の【ベトナムマングローブ子ども親善大使】で日本の生徒たちのお世話をして頂きました。あらためてお二人に「お祝いと感謝の言葉」を述べたいと思います。
“Nguyenさん、 Xuanさん、ご結婚おめでとうございます!幸せになってくださいね!”
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
バックパッカーエリアの歩道占拠物の撤去
ホーチミン市1区ファングーラオ街区当局は1日、ファングーラオ通り、ブイビエン通り、ドークアンダウ通りなどのバックパッカーエリアの住民や飲食店を始めとする店舗に対し、10日以内に歩道占拠物を撤去するよう指導する文書を交付した。
文書は歩道にはみ出たひさしや立て看板、机や椅子、営業や生活に関わる物品、植木の鉢などを撤去するよう指導するもので、期限内に撤去されなかった物については強制撤去になるという。
これを受けて2日のブイビエン通りは歩道に机や椅子、バイクなどを置く店が数店舗まで減り、人通りもいつもよりが少なくなっていた。同エリアで長年食堂を商う女性は、歩道に机や椅子を並べられなくなることで客足が遠のくことを心配している。夫は病気で働くことができず自身も心臓を患っているが、娘が大きくなるまでなんとか続けなければと声を震わせる。
自宅で飲み物を販売する店主は、自身は食事を質素にさえすれば生活できるが賃貸の店舗で歩道が使えなくなれば店をたたむ人も出てくるだろうと語る。
また、路上に置かれたテーブルで街を眺めならビールを飲むのがバックパッカーエリアの醍醐味だというのに、それができなくなれば客は寄り付かなくなり地域の住民や商売人だけでなく旅行業界自体に影響が出かねないと指摘する人もいる。 1区当局の報告によると、バックパッカーエリアを訪れる客の数は1日500人ほどでハイシーズンには2000人に達し、同エリアの年間総売り上げは370億VND(約1億9000万円)に上るという。
<VIET JO>
◆ 解説 ◆
今ホーチミン市内では、急速な勢いで歩道上から「屋台」が消えてしまっています。特に1区の規制が厳しくなっています。昨日までは確かに歩道上で営業していたのに、今朝行くと昨日まであった屋台が無くなっていたということが起きています。
「屋台」は「屋台文化」という面があり、特に年中暑いサイゴンのような街では、それが一つの魅力にもなっています。20年前にサイゴンに来た当初、私は1区に住んでいました。当時は一歩外に出ると、至るところにいろんな屋台がありました。
歩道上にあるので、ベトナムに来た当初、ベトナム語が分からない私でも、お客さんが何を食べているか、どういう料理なのかが見れば分かります。その料理に幾らぐらい払っているのかも見当がつきます。サイゴンにはいろんな料理の種類を出す屋台があり、「新しい屋台の発見の喜び」もあります。
何回も同じ屋台に通うと、店のおじさん・おばさんたちとも親しくなり、一旦親しくなるとベトナム人は向こうからいろいろ話しかけてきます。こういう点、特にサイゴンに住んでいるベトナム人たちは気さくで、「お客さん」という垣根が低くなり、まるで「友人」のような態度で接してきます。
「おまえは何人だ?」「日本のどこだ?」「日本のオオサカとトウキョウは知っているぞ!」「お前の給料はいくらだ?」「お前は独身か?ワシには娘がいるが、お前の嫁さんにどうだ?」などなど。こういう会話を冗談ではなく、おじさん・おばさんが眼の前で料理を作りながら、お客である私に投げ掛けてきます。
これが店舗形式のレストランなどだったら、板長や店長と、こういう会話をすることなど有り得ないでしょう。「食事をする」という点では同じでも、屋台の場合はおじさん・おばさんと対面で会話しながら、食事が出来る楽しさがあるのです。
その屋台がこのホーチミンから消えつつある・・・。何とも寂しいことです。この記事にある「ブイビエン通り」というのは、実はあの「ベトナム戦争当時にメコンデルタでバナナを植えていたYさん」が懇意にしている路上屋台の店がある通りです。そこでは、観光客にビールだけを提供しています。
Yさんの知り合いがその店を営んでいるので、Yさんも良く顔を出します。そのYさんが「いや~、最近夕方そこの通りをバイクで行くと、歩道からテーブルや椅子が取り払われて、以前よりめっきりお客も少なくなりましたよー」と話されていました。
そもそも、この規制を打ち出したキッカケは、「歩道上をバイクが我が物顔で走って危ないので、歩行者のために歩道を取り返せ!」と言う人民委員会の幹部の声掛けで始まりました。それが、「歩道を占拠している屋台も取り締まれ!撤去しろ!」というふうに進んでゆきました。
バイクだけを歩道上に乗り上げさせないように規制すれば良かったのに、屋台までがその影響を受けてしまいました。しかし、もともとこの暑いサイゴンでは、炎天下で歩道上を歩いているベトナム人は少なく、日傘をさして歩いているのは外国人ぐらいのものです。
サイゴンに限らず、暖かい東南アジアではいろんな国で「屋台文化」が根付き、それが街の風物となり、それで生計を立てている人たちも多いことでしょう。「ブイビエン通り」でビールを提供しているおじさん・おばさんたちも、まさしくそこに集まる多くの観光客を目当てに商売をしていました。そして、欧米人の観光客にとっても多くの人たちが集まるその賑やかさが魅力で、夕方からはそこが「観光名所」になっていました。
それが無くなるとしたら・・・、おじさん・おばさんは歩道上での屋台の営業を畳んで、そこから消えていなくなり、すっきりした歩道だけが残りますが、それではサイゴンという街の魅力も無くなってしまいます。街の魅力が消えれば、観光客も少なくなり、長い目で見れば大きな損失になることでしょう。
私が行きつけにしている「SUSHI KO」も、路上屋台の「日本料理屋」です。四年前にサイゴン市内で初めて出来た屋台の「日本料理屋」でした。店舗を構えている「日本料理屋」は、このサイゴン市内にはたくさんあります。しかし、私自身はそういう店に行くことはまずありません。夜風に吹かれながら料理を食べ、ビールが飲めるのが屋台の魅力です。「SUSHI KO」が出来る前は、ベンタン市場前の屋台でみんなと一緒に食べて、飲んでいました。
そして、「SUSHI KO」が出現した後、まさしく「屋台でスシやサシミなどの日本料理が味わえる!」という、その魅力を知った日本人はもちろん、ベトナム人、欧米人が毎日押し寄せて来て、大変な混雑ぶりです。サイゴンの人民委員会の幹部の人たちも、一度「SUSHI KO」に来て、「屋台文化の魅力」をじっくり観察すればいいのでは・・・と考えています。