春さんのひとりごと
<日本帰国余話・前編>
今年の日本帰国時には、いろいろな生徒たちや多くの友人たちとの嬉しい再会がありました。そして、大変悲しいこともありました。私が敬愛する人の訃報です。日本滞在時の前半で、嬉しい思い出、悲しい出来事が二つ重なりました。
● 大阪で教え子との再会 ●
今年は4月15日に日本に帰国しました。昨年はちょうど日本に帰る日の4月14日に私の故郷・熊本で大地震が起きましたが、今年は何事もなく過ぎました。去年の大変な状況を思い出しましたので、無事に日本に帰ることが出来ただけでも嬉しい限りでした。
日本に着き、関西国際空港から神戸市内に向かう時、(もう今年は桜が散ってしまっているだろうな~)と半ば諦めていましたが、まだ桜の花が散らずに咲いていたのが印象的でした。後で同僚に聞きましたら、「今年はいつもの年より寒くて、桜の開花が遅れたようです」と話してくれました。
今年の日本への帰国時にはいろいろ予定を組んでいましたが、嬉しいことにその一つが叶いました。今から約二年前の2015年2月、三重県に行った教え子がいます。名前はGai(ガーイ)さん。今年25歳です。彼女との再会が、知人のIJさんの協力により叶いました。
ちょうど二年前の2015年5月、私が日本に帰国した時に三重県津市で10人の教え子たちに会いましたが、その時彼女も来てくれていました。その時のことは、2015年7月号<教え子たちとの再会①・・・三重県へ>で触れています。その彼女と、日本に帰国した翌日に大阪で再会することが出来ました。
彼女は私が今教えている学校で半年間ほど日本語を勉強して日本に行きました。彼女が学校で日本語を勉強していた時、私自身が直接彼女のクラスで教えることが多かったので、彼女の性格や日本語の進捗度も良く分かりました。
彼女の性格は非常に明るく、声は大きく、努力家でもあり、そして気丈なところがありました。朝私に出会うといつも大きな声で挨拶してくれるのが常でした。(このまま順調に日本語の勉強に励んでゆけば、すごいレベルまで達するだろうなぁ~・・・)と、私自身も大きな期待をしていました。
その彼女は、日本では三重県のA会社で実習を行うことになりました。その会社には私が良く知るIJさんが勤めておられます。IJさんは実に面倒見がいい人で、実習生たちの仕事が終わった後、日本語の勉強意欲の高いベトナム人たちに、自ら進んで日本語を教えておられます。今日本の各地にベトナム人の実習生たちがいますが、彼らにIJさんのような面倒見をしてくれている人がいることを聞いたことがありません。
そのIJさんの下で、Gaiさんの先輩に当たるHuong(フーン)さんも指導を受けました。そして、日本滞在二年目にして、Huongさんは見事に「日本語能力試験」のN2に合格しました。その後、私と同じ学校で今度は日本語の先生としてデビューを果たしました。
Huongさんがベトナムに帰国した時に、私は彼女が自ら書いた原稿用紙9ページもの作文をもらいました。そのタイトルには「私の恩人」として、IJさん夫妻から如何に深い愛情と恩を受けたかが切々と綴られていました。それを読みながら、私は涙を抑えることが出来ませんでした。そのことは、2013年12月号の<三年ぶりに帰って来た教え子たち>に載せています。
Gaiさんが日本の三重県に行くことが決まった後、たまたまIJさんがベトナムを訪問されました。その時私は、「今度お世話になる生徒たちはみんな真面目な子たちですが、その中でもGaiさんという元気のいい、頑張り屋さんがいますよ」と雑談交じりに話していました。すると、日本に行ったGaiさんは運良く、Huongさんもお世話になった、そのIJさんと同じ職場で働けることになりました。
日本に行ってからのGaiさんの様子は、時々IJさんから聞いていましたが、やはり同期で行った生徒たちの中でも、「働きながら日本語を勉強したい!」という意欲が抜きん出て高く、IJさんも彼女のその熱意にこころを動かされました。そこから、IJさんの個別指導がスタートしました。
それは日本に行って数ヵ月後には始まったといいます。IJさんが個別指導していた実習生たちは、ほかにも数人いましたが、Gaiさんもその中に入れてもらえました。しかし驚くべきは、IJさんの実習生たちに対する情熱です。IJさんは朝から夕方までは実習生たちと同じ職場で働かれています。
そして、会社の仕事を終えた後、IJさんは家に帰ってから、課題を与えていた生徒たちの添削を行い、それをインターネットを使ってフィードバックしてあげます。誰にでも出来ることではないでしょう。Huongさんに対して与えて頂いた厚意を、IJさんは今も同じように続けて後輩の実習生たちにも注がれているのでした。
さらにその厚意は会社内だけに止まらず、生徒たちを連れて「伊勢神宮」見物にも行かれました。また行動範囲は三重県内だけでは終わりません。大阪で開かれた「フォトジャーナリスト・村山さんの写真展」にもGaiさんを連れて行き、村山さんに紹介されました。Gaiさんは村山さんと私が友人であることを知り、大変喜んでくれたと言います。
また私が嬉しかったのは、Gaiさん他一名のベトナム人と一緒に、静岡県袋井市にある「報恩の碑」を訪問したと、IJさんから聞いた時です。「報恩の碑」は<Phan Boi Chau>が恩人・浅羽佐喜太郎先生のために建立した石碑ですが、<Phan Boi Chau>とその石碑のことは、いつも私が最初のクラスの授業に入る時に紹介していますので、Gaiさんもその石碑を自身で直接見て大変感動したそうです。<Phan Boi Chau>については、2013年10月号の<「日越国交樹立40周年」記念番組~百年の友へ~>で触れています。
そして、Gaiさんが日本に行って約一年半後の2016年12月初旬に行われた「日本語能力試験」。Gaiさんはその試験ではN2を受けました。そこに到るまでの彼女の勉強ぶりをIJさんからも聞いていましたが、IJさんから見ていても「もの凄い努力家でしたよ!」と言われました。
休みの日も友達からの遊びの誘いを断り、IJさんから出された課題を全部済ませ、自分から「宿題が終わりました。次を下さい!」と自分から進んで申し出ていたと言います。日本に行く前に、ベトナムで彼女が日本語を勉強していた時の「努力家」の姿のまま、彼女は日本でもそれを続けていました。
そしていよいよ来た、12月の「日本語能力試験」。試験が終わった後、GaiさんはIJさんに「難しかったです!今見直してみると、いろいろミスがありました。合格出来たかどうか自信がありません」と、悲しそうに話してくれたそうです。IJさんからそれを聞いた私は(Gaiさんは合格しただろうなぁー)と確信しました。
日本で受験学年を長い間担当していた時、私自身が多くの受験生たちを見てきました。入試が終わり、生徒たちが教室に来た時、私が彼らに試験の感想を聞きます。すると、「出来た、出来た。出来ました!」と言うAグループの生徒と、「難しかったです。ここと、あそこが出来ませんでした」と言うBグループの生徒の、大別すると二グループに分かれます。
すると、結果発表はどうなったかと言うと・・・、「合格」したのはBグループの生徒たちのほうが多く、Aグループで合格した生徒は少ないのです。要は、「自分はどこが出来たか。出来なかったか」の自己分析が、Bグループの生徒たちのほうがシビアに出来ていたということです。
ですから、受験後のGaiさんの感想を聞いた時に、「難しかったです!」と言う彼女の言葉をIJさんから聞いて、IJさんには「発表の日を楽しみにしていますよ!」というメッセージを送りましたが、私のこころの中では「合格!」の二文字が輝いていました。
そして、今年二月に「日本語能力試験」の<合否発表>がありました。見事にGaiさんは「合格」しました。ベトナムで日本語を勉強していた期間と、日本で勉強した期間を合わせても二年ぐらいです。やはり、私が予想した通りでした。私も嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。会社からは「報奨金」も頂いたそうです。
それから四月になり、私の例年の帰国予定をIJさんに伝えますと、「今年Gaiさんが是非会いたいそうです。一人ででも行くと言っています。彼女に会えたら誉めてあげてください」と言う連絡がありました。それを聞いた私は「分かりました。“私も是非会いたいです!”と伝えてください」と返信しました。
すると、IJさんから連絡があり、「実は、Gaiさんは最近親知らずを抜いたのですが、そこが化膿して、化膿止めの薬を飲んだ後に副作用が起きてしまい、足が腫れて今歩くのもキツイ状態ですが、それでも行くと言って楽しみにしています」という内容でした。
それを知った私は大いに心配しましたが、彼女に会って“合格おめでとう!”の言葉を掛けたく、「遅れて来てでもいいですから、大丈夫ですよ。何時間でもお待ちしています」と、IJさんに伝えました。
そして、日本帰国後の翌日、大阪難波駅で待ち合わせることにしました。その方面のルートに私は疎いので、IJさんから事前に神戸駅からの乗換駅を教えてもらい、予定通り11時前にはそこに着きました。私は改札口を出た所で待っていました。
すると、それから十分もしないうちに、IJさん夫妻とGaiさんが到着しました。改札口の向こうから三人が手を振っています。IJさんとは一年ぶり、Gaiさんとは約二年ぶりの再会になりました。やはりGaiさんはゆっくり、ゆっくりと重たい足取りで歩いて来ます。
改札口から三人が出て来て、IJさん夫妻に挨拶し、最初にIJさんと固い握手。そして次にGaiさんとも握手しましたが、彼女の手を強く握った瞬間、彼女の今までのことが思い出され、ついつい私はホロリとしそうになりました。私のその表情を見たGaiさんは「泣くな!」と叫びました。
それを聞いた私は、彼女がベトナムにいる時に日本語を勉強していた時の気丈な姿を思い出し、涙が溢れる寸前で止まりました。Gaiさんから見ても、私は嬉しい笑顔に変わっただろうなーと思いました。
その後、三人でお昼ご飯に行きました。そこで食事しながらいろいろ話しました。IJさんは「Gaiさんは今年の七月に行われる日本語能力試験で、難関のN1に挑戦しますよ!」と話されました。それを聞いた私は大いに嬉しくなりました。
今から二年半前に日本語の勉強を始めたベトナム人の教え子が、日本に行って僅か二年後には最上級のN1に挑戦しようとしている。何と嬉しいことでしょうか。その彼女がN1を目指している時、今回もまた彼女を合格させるべく、IJさんは同じように日本語の指導を変わらず続けてゆきますと話されました。それを聞いた私は頭が下がりました。
私と話していた時、Gaiさんは「日本での実習が終わった後、次はアメリカに留学したいと考えています」と話しました。それを聞いた私は、彼女はずっと日本語を続けてゆくものと思っていただけに大いに驚きましたが、またすぐに(Gaiさんらしいなぁ~)と思い直しました。
まだまだ若い彼女です。これからいろんなことに挑戦し、どれだけ伸びてゆくかが楽しみです。GaiさんがN1に合格した時には、「ベトナムに帰国してから友人たちを集め、盛大にお祝いしてあげましょうよ!」と、IJさんと二人で今から計画しています。
● 渡部昇一先生の逝去を悼む ●
今年の帰国時に、私自身にとって実に悲しいことがありました。「渡部昇一先生」の訃報です。渡部先生には今まで一度もお会いしたことはありませんでしたが、私の若い時から「こころの師」ともいうべき存在でした。
私が初めて渡部先生の論文を読んだのは、月刊誌に載った「文科の時代」だったような記憶があります。その中で、渡部先生が書いておられたのを今でも印象深く覚えています。
「江戸時代は田を作れよりも、詩を作れだった」
その意味は、長い平和な時代が続いた江戸時代の武士階級の価値観は、実生活に利益のある仕事に精出すことが尊いのではなく、文化芸術に力を注ぐことのほうが尊いとされたということです。そのような価値観が江戸時代を通して武士階級の価値観になり、ひいては文化人たちの価値観になってきたということです。
それがあればこそ、松尾芭蕉や与謝蕪村や小林一茶などの俳人。葛飾北斎や歌川広重などの画家。井原西鶴、近松門左衛門などのような文人の輩出に繋がったというのです。それを読んだ私は(なるほど!)と肯きました。それから、渡部先生が著される著作はいろいろ読んできました。
しかし、私がベトナムに行ってからは、日本で渡部先生がどのような本が出されているのかは分かりませんでした。ですから、毎年日本に帰るたびに、渡部先生が書かれた本を買うのが楽しみになっていました。
渡部先生は毎年新しい本を書かれていますので、(今年はどんな本を出されているかなぁー・・・)と、本屋さんでそれを見つけるのが楽しみでした。それだけ、渡部先生は精力的に本を著してこられたということです。
今年も同じように日本滞在中に、渡部先生が出された多くの本を購入しようと考えていました。日本に着いて故郷に帰った日の翌日、本屋で早速買ったのは「名著で読む日本史」「名著で読む世界史」です。その本を見つけた時には大変嬉しくなりました。すぐにその日から読み始めました。
私が日本に帰国したのが4月15日。そして4月19日の朝、いつものように何気なく新聞を開いた時、「渡部昇一さん逝去。86歳」という記事が載っていました。(えっ、あの渡部先生が亡くなられた!まさか・・・)という驚きと悲しみでした。
ベトナムで「知的余生の方法」を読んでいて「老いてもますます盛んだなぁ~」という感想を強くしていただけに、「渡部先生逝去」の報は驚きでしかありませんでした。新聞を手にしたまましばらくぼーっとして、何も手に付きませんでした。
しかし、「渡部先生逝去」の事実は事実として、深く受け止めざるを得ません。私の家では新聞は一紙だけしか取っていません。それで、もっと詳しく書いた記事が欲しいと思い、駅の売店まで新聞を買おうと思い家を出ました。
駅の売店には地元紙、一般紙を含めて五紙ほどが並べてありました。それらに全て眼を通し、「渡部先生逝去」の記事が書いてある新聞は全部買い求めました。それらの全てに共通していた見出しは「英語学者」「知的生活の方法」「保守派論客」というものです。「渡部先生逝去」の日付は4月17日になっていました。
その後数日して出た週刊誌にも、「渡部先生逝去」を悼む記事が載り始めました。一ページ、半ページでも載っていればそれらを買いました。週刊誌の追悼文は生前の渡部先生と親交のあった方が書かれているようで、碩学・渡部先生の逝去を悼む内容で共通していました。
私が今回日本に帰国した際に購入した渡部先生の著作は、全部で十冊になりました。渡部先生は小中学生向けにも実に分かりやすい歴史の本も書かれています。「渡部昇一の少年日本史」がそれです。これは奥付にある発行日が、【平成二十九年四月二十五日第一刷発行】となっています。渡部先生はその《あとがき》に一文を書かれていますが、その日付は「平成二十九年四月」となっていますので、まさに亡くなられる直前に書かれたものだったのでしょう。
そこには渡部先生独自の「歴史観」が述べられています。小中学生たちにも分かりやすく、強い説得力を持って「歴史とは何か?」について、その《序章》で説明されておられます。以下です。
「では、歴史とは何だろう?イギリスの学者バーフィールドは歴史を『虹』にたとえて説明しています。雨が降った後の空には無数の細かい水滴が残っています。この細かい水滴の一つひとつが歴史的事実なのだとバーフィールドは言います。毎日の新聞に記録されているような事件ですね。でも、この水滴をいくら集めても虹にはなりません」
「ところがこの水滴の集まりをある角度から、ある距離をとって眺めると、はっきりとした七色の虹となって見えてきます。虹というのは不思議なものです。・・・さて歴史は虹のようなものだと言った意味がおわかりでしょうか?水滴をいくら集めても虹にはならないように、歴史上の事実や事件をたくさん集めても、それは歴史にはならないのです」
「歴史というのは、水滴のように限りなくある歴史上の事実や事件を適当な角度と距離をとって眺めることによって浮かび上がってくるものなのです。ある角度というのは、たとえば日本という場所を考えるといいでしょう。日本の国に住む国民の目にだけ見える歴史があるのです」
さらにまた他の著作「実践・快老生活」に、次のような箇所がありました。「私がこれまでに五百二十回以上も連載を続けている専門雑誌がある。私の知るかぎり、現在、大学の英語の研究室や高校の英語教員室にずっと入っている月刊雑誌は、一つしかない。大修館書店発行の『英語教育』という月刊誌である。この雑誌に四十年以上書かせてもらっている。」
以上の内容を読んだ後、渡部先生が寄稿されているというその『英語教育』が欲しくなり、本屋まで行きましたら、果たして五月号の『英語教育』がありました。渡部先生が寄稿されているのも載っていました。「アングロ・サクソン文明落穂集」というタイトルで、一ページの量で、五月号で[532回目]になっています。テーマは「アングロ・サクソンの先進性」で時事問題を扱っておられます。
それを読んで、その前の内容も読みたくなり、「古いのは無いかもしれないが、今年に入ってからのものはまだ残っているかもしれないな・・・」と思い、直接東京にある大修館書店に電話をしました。「今年のぶんで、『英語教育』に渡部先生が寄稿されたものはまだ在庫がありますか」と。
すると、受付の人が「編集部に代わります」と言って、編集部の方が出られました。上記の件を伝えますと、「はい、まだ有ります。大丈夫ですよ。本屋さんから取り寄せて頂く事が出来ます」と答えられました。
その方と少し話をさせて頂きました。その方は直接渡部先生の原稿を取りに行かれる方のようで、渡部先生を良くご存知の方でした。私が「渡部先生の突然の訃報に驚きました。お元気で過ごしておられるものと思っていましたので・・・。私は普段は外国にいますが、毎年日本に帰国するたびに、渡部先生の著作を読むのが楽しみでした」と言いますと、その方は「先生は骨折されてから弱られました。お体も痩せられました。私も残念で残念で、仕方がありません」と答えられ、後は言葉少なくなられました。その雑誌はまだ手元に届いてはいませんが、私がベトナムに戻るまでには読むことが出来るだろうと思います。
これからも、渡部先生の追悼の文や特集が雑誌などに載ることでしょうが、私は学生時代から渡部先生の文章や論文に接して以来、渡部先生から多くのことを学び、勉強させて頂きました。特に、日本史や世界史に対する深い洞察と、透徹した史眼には眼を開かれました。
司馬遼太郎さんは主に小説形式で日本史を綴られましたが、渡部先生は学際的に日本史の面白さ、ユニークさを書かれてきた人だなぁーという印象を持っています。渡部先生の著作には私自身深い感銘を受けることが多く、折に触れて渡部先生の深い洞察に満ちた話を今までも紹介してきました。
《文芸春秋六月号》の「蓋棺録」にも渡部先生の逝去が採り上げられていましたが、そこにはこう書かれています。「執筆活動のなかで特に注目されたのは、独自の史観で日本史を書き続けたことだった。古代から戦後まで書き切り、『渡部昇一「日本の歴史」』(全七巻)として完結。今も多くのファンに読まれている」
さらに、《週刊新潮五月四・十一日ゴールデンウィーク号》の「墓碑銘」には以下のように書かれています。人生の晩年に到るまで、「知的生活」を貫き通されてきた渡部先生の姿が眼に浮かぶようです。「自宅の書庫の蔵書は15万冊。ダーウィン『種の起源』の初版本など貴重な本も多く、世界でも有名だ。収集が目的ではなく実際に研究に使うために買い求めていた」
渡部先生の数多くの著作は、あたかも高山から湧き出て、汲めども尽きぬ泉のようなものだと、私には思えてなりません。何回飲んでも、何杯味わっても尽きることがない、宝のような泉を後世に遺されました。これからもずっと、私はその泉の水を味わうことが出来ます。あらためまして、深い感謝の念を渡部先生に捧げたいと思います。
春さんが帰国中のため、今月はお休みです。