春さんのひとりごと
<四回目の「MICHIKO先生を偲ぶ会」>
今年も有志の方が集まり、「MICHIKO先生を偲ぶ会」を行いました。MICHIKO先生が亡くなられたのは、今から四年前の2013年9月30日でした。9月に入り、MICHIKO先生を知る人たちに会いますと、自然と「もうすぐMICHIKO先生の命日が来ますね・・・」という話題になります。
「MICHIKO先生を偲ぶ会」は、今までその命日に近い週の土曜日に行うことにしていました。土曜日のほうがみなさんたちも集まり易いからですが、今年はちょうど命日にあたる9月30日が、その土曜日になりました。今年の「偲ぶ会」は「MICHIKO先生」の命日とピタリと重なりました。それで、「9月30日18時半」から「偲ぶ会」をいつものSUSHI KOで行うことになりました。
今年も約一ヶ月前から、「日本語会話クラブ」のメンバーでもあるMZさんが窓口になって会場と日時を告知し、MICHIKO先生を知る人たちに、昨年に続いて連絡を取ってくれました。MZさんは「MICHIKO先生を偲ぶ会」の最初から参加されています。
そして、毎年私はMICHIKO先生の命日が近づく週になりますと、自分が授業で入るクラスに、MICHIKO先生の資料が入ったファイルを持参してMICHIKO先生について話をします。「四年前にこのような日本人の方がいて、交通事故で亡くなられました。今からその方についてベトナムの新聞に書かれた記事を紹介しますので、静かに聴いてください」と話し、声の良く通る生徒にそれを読んでもらいます。
しかし、彼ら実習生たちの中で、大学を出ている生徒たちは少なく、ほとんどが高校を卒業してから「実習生として日本に行こう!」と思い立って日本語を勉強しています。それまでは日本語に対しての関心も持っていません。それが、実習生として日本に行く若者たちの標準的な経歴です。ですから、彼らは大学の中では勉強した経験が無いのです。
それで、MICHIKO先生が亡くなられて四年も経つと、実習生たちはもちろんですが、「日本語会話クラブ」に集う大学生や社会人に聞いても、かつてホーチミン市にMICHIKO先生という日本人が存在していたこと自体も知らないのです。
しかし、それも仕方ありません。何故なら、MICHIKO先生がベトナム人の学生たちに教えていたのは「人文社会科学大学」の中の自習室でした。その「人文社会科学大学」に今現役で通っている大学生であるHai(ハーイ)さんにも昨年「MICHIKO先生を知っていますか」と聞きました。しかし、「いいえ、知りません」という答えでした。
今年も、9月初めにHaiさんに奨学金を渡す時にそのことを聞いたのですが、彼女の返事は同じく「知りません。先輩たちからも聞いていません」と言う返事でした。少なくとも「人文社会科学大学」の中ではMICHIKO先生の存在は語り継がれているだろうな・・・と、微かな期待を抱いていましたが、そうではありませんでした。しかし、それだからこそ、毎年「MICHIKO先生を偲ぶ会」を有志の人たちで続けていく意味があると言えます。
「MICHIKO先生を偲ぶ会」実施日の前日29日に、MZさんから私に翌日の参加人数の連絡がありました。「翌日は約10人弱の参加人数になります」と。それを受けて、私がSUSHI KOに予約を入れました。
そして迎えた当日9月30日、私は夕方5時半頃SUSHI KOに到着しました。するとまさにその直後に土砂降りに近い大雨が降り出しました。私は間一髪で雨に濡れることなく着きました。その後、一分もしないうちにTR先生が到着。TR先生も毎年参加されています。
今、TR先生はサイゴン市内からは少し離れた区に住んでおられて、この日はバスで市内まで来て、そこから歩いてSUSHI KOまで来られました。私は全然雨に濡れませんでしたが、TR先生は髪とシャツが少しだけ濡れてはいました。でも、ギリギリで大雨に遭うことなく着きました。
私はMZさんから事前に頂いた参加者リストを紙にマジックで書いて、椅子にテープで貼りました。10人弱の人数なので、着いた順からバラバラに座ってもいいのですが、毎年参加している人たちの人数のほうが多いので、その人たちの席は隣同士になるように敢えてしました。
さらに、額に入れたMICHIKO先生の写真をテーブルの上に立てかけました。昨年と同じように、この店の中にある祭壇にその写真を置きたかったのですが、その上のほうからも雨水がポタポタと落ちてきていましたので、そこには置けません。それで、雨が落ちて来ない隣の席に写真を置きました。
その横に、一人一人に点けてもらう線香も添えました。今年も、参加した皆さんに読んでもらうために、MICHIKO先生に関連した資料を収めたファイルをそのテーブルに置きました。これで、みんなを迎える準備は、料理の注文以外はすべて終りました。
しかし、集合予定時間の一時間前に着いたTR先生と私の二人は、大雨が降る中でみんなの到着をじっと待つしかありません。この雨の中、ほかのお客さんは私達二人以外まだ誰もいません。とにかく、この時の雨の凄さはここ最近では珍しいぐらいの豪雨でした。前の道路も冠水してきました。
さらには、我々が座っている場所は室内ではなく歩道上にあり、頭上にあるのは瓦屋根ではなく、厚手のビニールシート状の屋根なのですが、その生地を通して雨水が垂れてきました。TR先生の席の椅子の上にも雨水がポタポタと垂れてきました。仕方なく、TR先生は別の人の貼り紙がしてある椅子のほうに移動します。
あまりの豪雨に、下水道の水も外に溢れ出てきて、それが我々の足元にまでジワジワと広がって来ました。下水道のドブの臭いがしてきて、TR先生は鼻をつまんでいます。二人で「この大雨ではみんな大幅に遅れるか、もしかしたら急遽キャンセルする人が出てくるかもしれませんね」と話したことでした。
その時、台所のほうの電気が大雨でショートしたらしく、店全体が停電になりました。やれやれです。このような状態では厨房のほうも料理を作ることは出来ません。しかし、まだこの時はみんな着いていないし、料理の注文はしていなかったので、それは問題ありません。
それで、TR先生と私はみんなが来るまで、枝豆だけをツマミにビールを飲んでいました。すると、一人の中年女性がタクシーから降りてきました。雨の降る中、頭の上にハンドバッグを手でかざしながら入って来ました。チラッと見ましたが、私の知り合いでもない人です。
しばらくその女性は店の中を見回していました。すると、テーブルの上に置いてあったMICHIKO先生の額入りの写真に眼を留めたらしく、私たちのほうに近づいて来て、「今日のMICHIKO先生を偲ぶために集まる場所はここでいいですか」と、キレイな日本語で私達二人に話しかけてきました。
私が「そうです。ここでいいですよ。お名前は何と言われますか」と尋ねますと、「私の名前はHong(ホン)です」と答えられました。この日「MICHIKO先生を偲ぶ会」に出席する予定の人数は日本人五人、ベトナム人四人で、合計九名になると事前にMZさんから聞いていました。その中に、Hongさんの名前が確かに入っていました。
Hongさんの席にも名前を書いた紙を貼っていましたので、そこに座って頂きました。みんなが来るまでしばらく時間があるので、TR先生と私でいろいろ話しました。すると、Hong さんは、「今自分の家でベトナム人の生徒さんたちに日本語を教えています」というのですが、生前のMICHIKO先生とは結構親しい仲であったことが分かりました。
今まで私もMICHIKO先生から日本語を習っていたというベトナム人の生徒さんたちには会ったことがありますが、MICHIKO先生と個人的な親交を結んでいたベトナム人の方にお会いしたのはHongさんが初めてでした。
Hongさんは私たちと話しながら、テーブルの上に置いていたファイルを手に取り、興味深く一ページ・一ページを開いていました。私がこの日持ち込んできていたファイルには、MICHIKO先生が亡くなられた後に、悲しみとともにみんなが寄せた追悼文や関連の記事内容を収めています。ページ数にして約40ページです。
そのファイルの中には、以前私がベトナムの新聞記事から、「ベトナムに住んで生活している、市井の日本女性」というタイトルで日本語に翻訳したページがあります。それは、「サイゴン日本語クラブ」というWeb-Siteの責任者・Thanh(タン)さんから「日本人もベトナム人もMICHIKO先生のその記事を読んだ人は少ないと思うので、原文と日本語訳を送ってくださいますか」と請われましたので、そのベトナム語で書かれた新聞記事と日本語訳を寄稿しました。以下がそのアドレスです。
http://www.saigonjsg.com/miyamoto-michiko
その中に一葉の写真があります。その写真には四人の人物が写っていて、MICHIKO先生のほかに二人の日本人の男性と、メガネを掛けた、ベトナム人らしき女性の方が一人います。その写真の中の右端にいる人物を指差して「これが私です!」と言われたのです。
その写真を私は何度も見ていましたが、今までその四人のうちMICHIKO先生以外は私の知らない人たちでした。それだけに、この日この場で、写真の中の一人の女性が眼の前におられるHongさんだと特定できたことは嬉しい驚きでした。
私はその写真をあらためてジーッと見ていて、その写真の中のベトナム人の女性は、確かに目の前にいるHongさん本人だと分かりました。そして写真の下にある説明文には、この写真を撮ったのは「2013年9月16日」と書いてあります。ということは、MICHIKO先生が亡くなられる二週間前の写真なのでした。Hongさんも「この二週間後にMICHIKO先生は亡くなられました」声を落として話されました。
さらに、日本の「北日本新聞」に載っていたMICHIKO先生の記事の中にある写真も私たちに見せて、「この写真の一番左に写っているのは私の妹です」と言われました。その写真には三人の女性がアオザイ姿で写っています。MICHIKO先生と二人のベトナム人の女性です。その一人がHongさんの妹さんなのでした。写真の下には「2006年撮影」と書いてあります。Hongさんの話では、「この写真はテト(旧正月)の時に私の家で撮ったもので、この時MICHIKO先生は五日間私の家に泊まってくれました」ということでした。
Hongさんの後に、もう一人のベトナム人の参加者でLoi(ロイ)さんという女性の方が到着しました。Loiさんは「人文社会科学大学」で、今ベトナム人の大学生たちに日本語を教えているということでした。MICHIKO先生とはその大学の構内で知り合い、交際を結んできたということです。
さらに、ベトナム人の男性では昨年も参加してくれたTan(タン)さんも到着。昨年Tanさんは夫婦で参加されましたが、今年は大雨のためか一人での参加でした。その大雨のせいで、毎年参加していたベトナム人のDu(ユー)さんから「途中の道路が大雨で冠水していて、そちらまで行けそうにありません。今年は残念ながら欠席させて頂きます」という連絡が来ました。仕方がありません。
日本人の男性では、まだ28歳の若い男性KMさんが参加してくれました。彼は初めての参加です。まだ28歳という若さながら、ベトナム人の奥さんと一緒に事業を興しているということでした。すごいバイタリティーを持った青年だなーと、みんなが感心していました。
日本人の参加予定者でまだ到着していないのは、MZさんとサイゴンでケーキ屋さんを開かれているYAさんの二人です。MZさんとYAさんは住まいが空港の近くにあり、ここまでは一台のバイクに二人で乗って来るということで、「大雨のために40分ほど遅れます」という連絡が来ました。結局最後の二人が到着したのは7時20分頃でした。
大雨のせいで、予定の時間よりも一時間ほど遅れましたが、今年の参加者が全員揃いました。今年の「偲ぶ会」には日本人が五人、ベトナム人が三人、合計で八人の方に集まって頂きました。この日のものすごい大雨の中を、みなさん良く来て頂いたと思います。
そして、ようやくその頃になって大雨が小降りになり、シートの屋根から流れ落ちていた雨水も止みました。祭壇のほうにも雨水が落ちてこなくなりましたので、そこをキレイに拭いてMICHIKO先生の写真を置きました。
その後、全員の方に線香を配りました。そしてそれに火を点けて、両手に挟み、一分間の「黙祷!」。毎回この瞬間だけはMICHIKO先生とのさまざまな思い出が甦ってきます。ほかの方たちも同じような気持ちを抱かれていることでしょう。「黙祷!」が終わり、一人・一人が祭壇上にある線香立てにゆっくりと挿します。そして、両手をまた合わせて、MICHIKO先生のご冥福をお祈りしました。
昨年も同じようにSUSHI KOの祭壇を借りてそこにMICHIKO先生の写真を置き、線香に火を点けて「黙祷!」しました。その時には日本人、ベトナム人、欧米人のお客さんたちも多く来ていて、(このSUSHI KOで、一体誰に対して線香を上げているのだろうか?)という風な奇異な眼で見ていた人たちがいました。
しかし、この日は大雨のせいもあり、私たちが祭壇に向かってお祈りしていた時にはほかのお客さんたちは誰もいませんでした。SUSHI KOで働いている従業員たちだけです。それだけに、静かな雰囲気の中で「MICHIKO先生を偲ぶ会」を始めることが出来ました。
線香に火を点けて挿し、「黙祷!」が終わった後、みんなが席に着いた頃から続々とお客さんたちが入って来ました。それから、私たちも「乾杯!」の合図で、四回目の「MICHIKO先生を偲ぶ会」をスタートしました。
やはり、生前のMICHIKO先生の懐かしい思い出をそれぞれが持っていて、それを語り始めます。MZさんはMICHIKO先生を通して、「人文社会科学大学」内でLoiさんと知り合いになったそうで、話が弾んでいます。Tanさんは同じベトナム人同士で、HongさんとLoiさんを前にして、熱心に話し込んでいます。しかし、今日の参加者の方々は、一年に一度しか顔を合わせることが無い人たちが多いはずです。
私から見ても、今回参加したメンバーの方の中では、一年に一度しか会わない人が、日本人ではYAさん、ベトナム人ではTanさんがいます。その人たちとは普段は会えないけれど、この「MICHIKO先生を偲ぶ会」では必ず会えるという期待も抱けるようになりました。それもまた、“MICHIKO先生のお導き”でしょう。
この日は大雨のせいでスタートした時間が遅れましたので、夜の9時半頃までみなさんの話は続いていました。その頃には、あの大雨も止みました。冠水していた道路も水が引きました。大雨を乗り越えて参加してきた皆さん方と、強い連帯感を確かめることが出来た「MICHIKO先生を偲ぶ会」になりました。
来年も、また再来年も、おそらく今回参加したメンバーは毎年欠けることなく参加してゆくことになるでしょう。Hongさん、Loiさんは「来年も必ず参加しますよ」と言われました。そして、KMさんのように初めて参加された日本人も一人・二人と増えてゆくかもしれません。毎年これからもずっと「MICHIKO先生を偲ぶ会」は続けてゆきます。
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
「Ekopia」を構想する日本人
「Ekopia(エコピア)」とは「Ecological」と「Utopia」を組み合わせた造語である。「ユートピア」という用語は、「社会の理想郷」を意味する。35歳の日本人男性であるMiyata Yuji氏は、その「ユートピア」にエコ的な考えを採り入れることは、その理想を現実に近づけるために、最も大切な方法だと言う。
Miyata氏は、エコピアプロジェクト(Ekopia project)を通じて「ユートピア」をベトナムにもたらすことを目指している。
プロジェクト専用のウェブサイトによると、「エコピア」の目標は、そこに住む人たちが新鮮な空気や食品を享受し、健康的な環境施設の中で真の幸福を感じることができる“エコロジカルな地域社会を創ること”を目標にしている。
このプロジェクトは、具体的には、有機食材を使用したレストランやカフェの創設、高齢者のためのケアセンターの設立、子どもたちのための教育や地元ボランティアの文化センターとの結合など、「ユートピア」なコミュニティーを創造するための、5つの柱に基づいている。
Miyata氏の「エコピア」の発想の原点は、現在の社会の欠点である人間関係の希薄化や自己中心性、食糧不足、大気汚染、深刻な環境破壊などの問題に結びついているのである。
世界的な問題ではあるが、Miyata氏は戦争によって国土の多くの森林や大地が破壊されたことから「エコピア」の出発点として、世界の中からベトナムを選んだ。
Miyata氏はすでにホーチミン市から35km離れたLong An省の「サニー・ファーム」を訪問し、プロジェクトの研究を開始している。
◆ 解説 ◆
この記事に出てくる日本人「Miyata Yuji」さんですが、(どこかで聞いた覚えがある名前だなぁ~。以前どこかで会ったことがあるのかな・・・)と、ふと思いました。しかし、三日間ほどその名前が気になってはいても、(どこでその名前を見たのか)、あるいは(本人さんにお会いしたのか)、不確かな記憶のままでした。
それが、この記事を読んで四日目の朝、いつものごとくコーヒーを飲んでいた時(そう言えば、以前Miyata Yujiさんの記事を訳したような気が・・・)と思い出し、BAOの記事を遡ってみてゆきました。
すると、やはりありました。2010年11月号のBAOに「Yuji Miyataさんの“緑の旅路”」 としてMiyataさんの記事を載せていました。7年も前のことなので、自分でそれを翻訳していながら、すっかり忘れていました。
しかし、7年前に読んだ時の感動はまだ続いていましたので、その名前はこころの片隅に残っていたのでしょう。だから、「Miyata」さんの名前を見た時に、素通り出来ないで、眼に留まったのでした。今から7年前の◆解説◆に、私は次のように書きました。
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この「 Yuji Miyataさん」の活動内容を紹介した記事を読んで、大変驚きました。本当に、(すごい日本人の若者がいるな~!)と感動しました。【最近の若い人たちはあまり海外に出たがらない。日本から外に足を向けようとしない。】という情報が多いですが、このYuji Miyataさんの活動の広さ、すごさはどうでしょうか。
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そして、7年後に載ったこの記事を読んでまたまた驚き、そして感動しました。7年前には28歳だったMiyataさんは今35歳。しかし、その「志」が7年間ブレテいないことに対してです。
さらにはブレて止まっていないどころか、その「志」が大きく、広くなってベトナムに戻って来られました。一人の日本人の若者が「Ekopia」という理想郷をベトナムに創ろうとしている。
もちろん「理想郷」の実現までには様々な困難や乗り越えないといけない壁があるでしょうが、このMiyataさんなら(実現するのでは?)という期待感を持ちます。いつか、「マングローブ植林行動計画」の浅野さんを交えて、三人でお会いしたいものだと思います。