春さんのひとりごと

<元日本兵・古川さんの奥さんの法要に今年も参加>

3月24日、サイゴンの南西にあるCai Be( カイ ベー )で行われた、「元日本兵・古川さんの奥さんの法要」に参加して来ました。毎年Cai Beにある「古川さんの家」では、古川さんとその奥さんの法要が一年ごとに交互に行われています。古川さんが亡くなられた命日と奥さんの命日が近いからです。古川さんの奥さんは2004年に亡くなられました。昨年は古川さんの四十二回忌の法要に参加しました。

Cai Benまでの移動手段は毎年バスで行っています。昨年もそうでした。私一人だけならバイクでも行けないことは無いのですが、毎年数人の日本人が参加していましたので、安全策を採って、バスに乗って行きます。その時には、いつも古川さんの親族の一人がMien  Tay(ミエン タイ)バス・ターミナルから一緒に同行してくれていました。

今年も私の他に一人参加者がいましたので、バスで行くことにしました。それで、いつものように「ベトナム戦争当時にバナナを植えていた日本人・Yさん」が、Cai Beにいる古川さんの家族に「今年は誰が一緒にバスに乗って同行してくれるのか?」と打診しました。ちなみに、Yさんはいつも一人でバイクに乗ってCai Beまで行かれます。前日にはCai Beに到着して、みんなを迎える準備をされています。今年は当日バイクで行かれました。

YさんがCai Beの家族に聞くと、「今年は同行できる人はいない」との返事。Yさんが驚いて「何故?」と聞くと、「今アメリカにいる姪のXuanが先日たまたまベトナムに帰ってきていて、その姪のXuanがアメリカに帰国する前に、早めに法要を済ませてしまったから。でも、母親の法要自体は今年も行うよ」との返事でした。

Xuanさんなら私も良く知っています。2013年と2014年の二回、Cai Beまでバスに一緒に乗り込んで案内をしてくれました。その後、彼女は結婚してアメリカに住んでいることも聞いていました。その彼女がベトナムに戻って来ていたので、それに合わせて親類一同に声を掛けて「両親の法要と宴会」を兼ねて行ったということでした。

Yさんも心配して、「今年は家族の中で一緒に行ってくれるのがいないようだけど、どうしますか」と言ってくれました。確かに、Cai Beはバスの終点ではなくて、通過点ですから、降りるべき場所を乗り過ごしたら目的地に着くことはできなくなります。

でも、Cai Beでの法要は毎年のことでしたので、Cai Beに行く時にどこで下車するかは覚えています。Cai BeとMy Thuan(ミー トゥァン)橋の分かれ道の三差路の地点です。それで、事前にそれを図解しておき、当日持参してバスの車掌に見せることにしました。Yさんにも「大丈夫ですから、心配なさらなくていいですよ」と答えました。

そして、当日はもう一人の参加者・NHくんとMien Tayバス・ターミナルで朝7時に待ち合わせることに。四区からバイク・タクシーに乗り、そこまで着くのにちょうど30分で、料金は8万ドン(約400円)でした。ちなみに、翌日Grabバイクで帰った時には同じ距離で5万2千ドンでしたので、やはりGrabバイクははるかに安いです。

私がMien Tayバス・ターミナルに着いたのは6時45分。その後、五分ほどしてNH君も到着しました。二人で窓口に行き、切符を買います。そこの窓口で、事前に描いていた「My Thuan橋とCai Beの三差路」の図を見せて、「我々はここで降ります!」と説明すると、窓口の受付の女性もすぐに理解してくれて「そこまでなら4万6千ドンです。バスの発車時間は8時。所要時間は約2時間です」と説明してくれました。

このMien Tayバス・ターミナルには、西部方面に行くバスが多数待機しています。我々二人が目指すバスを探してきょろきょろしながら歩いていると、案内員らしき男性が近づいてきて「どこに行く?」と聞くので、切符を見せると「ああ、Cai Be行きならあのバスに乗れ!」と教えてくれました。

それで、そのバスまで近づいてゆきました。バスは大型バスではなくて、補助席を入れても28人乗りぐらいのマイクロバスでした。昨年は大型バスに乗り、10万ドン払いましたので、(あれ、今年は安いな・・・)と思いましたが、その訳は小型バスだったからです。しかも、後で分かりましたが、この小型バスはクーラーが効いていなくて、バスが走っている時にはずっと窓を開け放していました。

バスの乗車口には、中年のおばさんが一人、風呂場で使うような小さい椅子に座り、同じような小さな椅子の上にドンブリを載せてラーメンを啜っていました。私たち二人のお客が近づいても、立ち上がるわけでもなく、そのままラーメンを食べています。(この人はお客さんなのだろうか。それとも車掌なのだろうか?)と、一瞬戸惑いました。

お客さんならば、(待合室などもたくさんあるのに、わざわざ人が乗り降りするようなこんな所でラーメンなんか食べなくてもいいだろに・・・)と思いました。もし、車掌ならば(朝食を摂るという行為と、切符を確認するという仕事の二つをここで両立させているのかな・・・。時間を無駄にしないやり方かも)と思いました。

すると、そのおばさんは、ラーメンを食べながら口をモグモグさせて、我々二人の切符を見るや、右手に持った箸でバスの方を指し示して「このバスに乗れ!」という合図をします。それが終わると、また右手に箸を持ち、左手でドンブリを押さえて、ラーメンを食べ続けていました。

それで、そのおばさんはお客さんではなくて、車掌さんなのだと分かった次第です。しかし、そのおばさんの車掌さんはお客である我々が来ても挨拶するわけでもなく、立ち上がるわけでもなく、ずっと座ったままで、右手の箸で我々が<乗るべきバス>を指示していました。今思い出しますと、こういうのもまた面白い光景でした。

そして、7時15分に私とNHくん二人はバスに乗り込みました。すると、乗って15分ほどした頃、乗車口で朝食のラーメンを食べていたあの車掌さんがバスに乗り込んで来て、フロントガラスの前の、ギアの変速機の上の位置に作ってある祭壇に線香の火を点け、それを線香立てに挿して、また出て行きました。私とNHくんはその祭壇に近い席に座っています。

「交通安全」を祈ってのことでしょうが、狭い車内でそれをやられたので、私たちは煙たくなってきました。車での「交通安全」を祈って線香に火を点けるのは、普通は車の前部のナンバー・プレートの辺りが多く、こういうふうに車内で線香に火を点けているのは初めて見ました。私は普段はバスを利用することがほとんど無いので(一年に一度のこのCai Be行きの時だけです)、知らないのかもしれません。しかし、煙たいからと言って、それを消すわけにもいきません。線香が燃え尽きるまでじっと待つしかありません。

そして、しばらくしてまた先ほどのおばさんが来て車内に入り、切符のチェックをし始めました。その時に、私はバスの切符売り場でも見せた「My Thuan橋とCai Beの三差路」の図を広げて降りるべき場所を指で示しました。その地図の中には「ここで降ろしてください!」と言う意味の言葉も、ベトナム語で書いていました。その図の場所が理解できたらしく、「分かりました。安心してくださいね」と言ってくれました。

予定出発時刻は「8時ですよ」と、切符を買う時に窓口の女性は言いましたが、すでに車内が満席になったからか、7時45分にはバスが動き始めました。私たちとしても、早く出発すれば、早く現地に着くのでそちらのほうがいいのです。バス・ターミナルを出てすぐに、ガソリン・スタンドに立ち寄り、ガソリンを満タンに入れました。さー、いよいよCai Beへの出発です。

バスがガソリン・スタンドを出てすぐに、車掌さんが「高速道路代を払ってください」と言って、全員から一人5000ドンずつ徴収します。(最初から切符代の中に入れておけばいいのに・・・)と思いますが、何か訳あってのことでしょう。みんな素直に払います。

私が座った席はバスの入り口近くで、隣には若い男性が座りました。その男性のすぐ横に、車掌のおばさんが通路に低い椅子を置いて座っています。バスが出てからしばらくすると、二人でいろいろな話をしています。それはいいのですが、耳元で話しているので、その話し声が実に大きい。二人の席はすぐ横にあり、膝が触れるぐらいの近くに座っているのに、大きな声で喧しく話しています。

横で聞いている日本人の私には、どうでもいいような話を延々と話しています。途中で私は眠くなり、うとうとしている間も、耳の奥からその声がずっと響いていました。でも、それを子守唄代わりにして、さらにしばらく眠りました。これぐらいの騒音には慣れてきました。平気になりました。

それから、30分ぐらいして目が覚めました。しかし、まだずっと二人は話し続けていました。(おそらくこの二人も今朝は早く起きただろうに・・・)と思うと、その元気の良さ、タフさに、ある意味では感心もしました。しかし、NHくんはその喧しい話し声をものともせずに、バスに乗っている間はずっと眠っていました。私は降りるべき「三差路」の地点に着くまでは外の景色を注意して見ておかないといけませんので、そのままずっと寝ているわけにはいきません。

そして、おばさんの車掌が「もうすぐしたら、その三差路に着きます!」と声を掛けてくれました。私もNH君を叩き起こして、「もうすぐ降りるよ!」と話して、バスを下車する準備をします。ちょうど10時にバスは目的地の「My Thuan橋とCai Beの分かれ道の三差路」に到着。やはり、二時間ほどで着きました。

NHくんと降りた、その「三差路」の近くで、Yさんがバイクで待機していました。すぐにそれが見えました。一台のバイク・タクシーの手配をお願いして、そこからCai Beの「フェリー乗り場」まで行きます。昨年はこの同じ行程をバイクで走っていた時に、交差点で横から飛び出して来たバイクと衝突し、胸ポケットに入れていたカメラが壊れたことがありました。でも、今年はそういうトラブルも無く、バイクに乗って15分ほどで無事にフェリー乗り場まで到着。

そこからは全員がフェリーに乗って、対岸まで渡ります。多くのお客さんたちがフェリーの到着を待っていました。7分ほどで対岸に到着。着いた場所の名前は「Tan Phong(タン フォン)村」。フェリーで渡ったところで、Yさんが事前に古川さんの家族に一台のバイクで迎えに来るように連絡していましたので、一人の青年がバイクに乗って来ました。それにNH君が乗ってもらい、古川さんの家を目指します。

バイクに乗って、二十分ほどで古川さんの家に到着。ちょうど11時でした。Dong Nai(ドン ナーイ)に住んでいる古川さんの家族も来ていました。この日は法要の宴会のために2テーブルが用意されていました。先ず、古川さんの長男夫婦に挨拶をします。

それから、古川さんご夫妻の遺影が置いてある部屋に向かいました。NHくんも私の後に付いて来ました。彼と一緒にお二人の遺影に向かって手を合わせました。そして、次のように話しました。

「古川さん、奥さん、今年もまたYさんのお導きでここに来ることが出来ました。今日と明日、このお家に泊まらせて頂きます。よろしくお願い致します。」

私自身は古川さんご夫妻には一度も会ったことは無いのですが、Yさんからの話を聞き、年に一度こうしてこのお家を訪ねて法要に参加させて頂いています。回を重ねるごとに、古川さんご夫妻、そして家族の方々が自分の身近な存在になってきています。

古川さんご夫妻への挨拶が終わると、毎年恒例の宴会が始まります。この日は2つのテーブルが用意してあり、二十人ほどが参加しました。料理もドンドン運ばれてきます。食べきれないほどです。この日のために、家族総出で市場まで食材を買出しに行き、それらを調理して準備しておき、当日こうして提供して頂いています。有り難いことです。食後にはデザートの果物類も揃えてあります。その果物は眼の前の果樹園で採れた「竜眼」でした。

古川さんの生前には家の周りの畑にはバナナを栽培していましたが、今は「竜眼」「ドリアン」の果樹園になっています。そちらが1kg当たりの単価が高いからです。「竜眼」はこの時期がちょうど熟れ頃で、多くの実を付けていました。それを、食後のデザートにすぐ眼の前にある枝から切り取って、テーブル上に出してくれました。

「ドリアン」はこの時期、まだ実が小さくて食べることが出来ませんでした。Yさんの話では「あと二ヶ月もすれば市場に出せるでしょうね。ドリアンは単価が高いので、この家にとっても結構な収入になるでしょう」とのことでした。日本人の方の中には、あの「ドリアン」特有の匂いのせいで、「ドリアン」を嫌う人たちが多いのですが、私はベトナムに来た当初からこの果物が大好物になりました。「ドリアンは果物の王様、マンゴスチンは果物の女王」と言われる所以が良く分かりました。

さらに、今年は例年とは違う<準備物>が用意してありました。「カラオケのセット」です。この日、ここに大きなテレビの画面やカラオケの機器を持ち込んでいて、リヤカーの上には大きなスピーカーが6台もありました。お客さんが自分の歌いたい曲を申し出ると、それをカラオケの曲の中からすぐに選んで、画面に映し出してくれる女性のスタッフまで連れて来ています。

古川さんの家は周りが果樹園に囲まれた中にありますので、どれだけ大音量で歌っても、夜中何時まで騒いでも問題はありません。もっとも、ベトナムの人たちは街中でも、隣近所の迷惑などお構いなしに、カラオケのマイクを握り、夜中まで大音量で歌っていることがよくあります。近所の人たちも(次は自分もそうするから、お互いさま)と思っているからか、文句一つ言いません。

今年初めて登場したこのカラオケで、大いにこの日の宴会の場を最大限に盛り上げてくれたのが、今回「Cai Beでの法要」に初めて参加したNH君です。彼は愛媛県出身で、若干34歳の青年です。NH君とは「スシコ」でほんの最近知り合ったばかりです。たまたま隣り合った席に彼が友人と座っていて、向こうから話しかけてきました。

彼といろいろ話していまして、大変感心したことがあります。彼は北部のベトナム語が大変上手なのです。聞けば、ベトナム北部のハノイに7年間仕事で滞在していたそうです。しかし、毎日仕事があるので学校に通うことは出来ず、何とYoutubeでベトナム語を習得したと言いました。それを聞いて大いに驚きました。感心しました。

そして、あの「マングローブ植林行動計画」「浅野さん」を連想しました。「浅野さん」はベトナム人自身が驚くほどの「ベトナム語の達人」ですが、「浅野さん」も学校に通わずして、ベトナム語を身につけました。また、「浅野さん」は努力家でもあり、外出する時には「日越・越日辞典」を肌身離さず持ち歩いていて、知らないベトナム語に出会うと、すぐに辞書で調べ、近くにいるベトナム人にそれを発音してもらっていたそうです。

「浅野さん」が話すベトナム語を聞いたベトナム人は(この人は日本人なのだろうか?ベトナム人なのだろうか?)と、首を捻るそうです。それぐらい上手いということです。今まで私は「ベトナム語の達人」としては「浅野さん」一人しか知りませんでしたが、NH君を知ったことで二人目になりました。

そこから、「語学の達人」に共通しているものが見えてきたような気持ちがしています。一つ目の要因は「記憶力がいいこと」。二つ目が「耳がいいこと」。もちろん、「浅野さん」が実践していたように、日々の努力は必要ですが、それに加えて、この二つが「語学の達人」には必須の要件ではないかと感じています。

NH君とスシコで話していますと、路上にはいろんな物売りや手品師やカラオケ屋さんが登場します。手品師やカラオケ屋さんは手品を見せて終わり、一曲歌って終わりではなく、最後に物を売りに来ます。お客さんがそれを買う・買わないは自由です。私は手品師の技が見事な時にはお菓子を買ってあげます。一個が1万ドン(約50円)です。

ある日のこと、そのカラオケ屋さんが登場した時のことです。それまで、私とビールを飲みながら話していた彼が、視線をそのカラオケ屋さんのほうにチラッと向けました。その時まで、私は彼に関して歌が上手いことなど知りませんでしたから、続けて彼と話していました。

すると、彼はカラオケ屋さんが歌い始めてからしばらくして、曲の中休みの時、私の眼の前から立ち上がり、そちらへ歩いて行きました。(何をするつもりなのだろう・・・?)と私が思っていると、彼はマイクを握ったカラオケの青年にツカツカと近づき「僕にも歌わせてくれ!」というふうなことを頼んでいるらしく、幾ばくかのベトナムドンを彼の手に握らせていました。もちろんカラオケ青年も了解しました。

近くの路上でビールを飲んでいるお客さんたちは、私も含めて(何をしているのだろう?)という表情で見ています。さあー、驚いたのがそれからです。彼はベトナム語の歌をリクエストして、カラオケ青年のマイクを奪い、ベトナム語で「私は日本人です。今から○○○○という曲を歌わせていただきます」と言うや、堂々とベトナム語で歌い始めたのでした。その歌声も見事なものでした。私も感心しましたが、私の周りにいた日本人やベトナム人たちも大変驚いていました。

曲が終わると、道路沿いの両方にある屋台の歩道上で食べて飲んでいた、外国人やベトナム人のお客さんたちから大きな声援を受けていました。席に戻って来た彼に「いや~、すごかったねー。感心したよ。しかし、よくあんなベトナム語の歌を完璧に覚えているねー」と誉めますと、NHくんは「一つの曲を10回ぐらい聴くと、僕は大体の歌詞は覚えます」と答えたのでした。やはり、暗記力がいいのでしょう。さらに、音感が優れているのは、耳がいいからでしょう。この時、そう思いました。さらにはその堂々とした度胸には圧倒されました。実に、稀に見る「快男児」というべきです。

彼に何回か会った後、私は彼のことが大いに気に入りました。それで、「元日本兵・古川さんの家で毎年行われている法要」のことを話しましたら、彼も大いに興味を示して、今日のこの日私に同行してCai Beまで来てくれた次第です。そして、彼を一緒にここに連れて来て大正解でした。

このCai  Beでも、その本領を発揮してくれました。ベトナム人のおじさんたちは「カラオケ大好き」な人が多いのですが、彼らと肩を組んでベトナム語の歌を堂々と歌い始めました。同じく、この日の法要に参加していた地元の女性と一緒に、ベトナム語の曲をデュエットで四曲ほど歌いました。さらには一緒に踊ってもいました。

いや~、もうベトナム人のみんなに大受けでした。今回の法要には初参加ながら、地元の人たちとすぐに溶け込んでいました。このようなすごい日本人はなかなかいるものではありません。Yさんも首を振りながら「いや~、NH君はすごいねー」と感嘆されていました。「また来年も彼を連れてこないと、みんなが寂しがるだろうねー」と、笑いながら話されていました。

カラオケ大会が大いに盛り上がった後、3時半を過ぎた頃、Yさん、NH君、そして私の三人でYさんの「青春の源流・メコン川」のほうに歩いて行きました。実は、そこに足を向けたのには理由があります。Yさんの大親友でもあった「浅草のお好み焼き屋・染太郎」<元総支配人>でもあったSさんが昨年2017年6月に亡くなられたからです。

SさんがYさんをベトナムに呼び寄せる機縁を作った大親友です。先にSさんがベトナムに来て、Yさんに「お前もベトナムに来いよ!」と言った言葉がキッカケで、Yさんがベトナムに来ることになったのでした。当時はベトナム戦争の真っ最中でしたが、「何でも見てやろう!」精神の旺盛なYさんは、家族の反対を振り切ってベトナムに来られ、このCai Beで「バナナ園」の経営に当たられたのでした。

私が初めてSさんにお会いしたのは2008年の12月です。その時に初めて「元日本兵・古川さん」のお墓参りをさせて頂きましたが、Sさんも日本から飛んで来られました。2011年に「古川さんの三十六回忌の法要」が行われた時にも、一緒にCai Beまで同行しました。私が個人的に知っているSさんは笑顔が爽やかで、こころ優しい人でした。Sさんに私が会うたびに、いつもニコニコとされていました。

さらには、2014年6月に私が妻子を連れて日本に帰国した時、先ず東京に行き、「浅草・染太郎」を訪ねました。Sさんがそこに待っておられて、<元総支配人>自らの手で、自ら考案したという珍しい「お好み焼き」を焼いて頂きました。女房も娘も喜んで食べていました。そのことは、今でも私のこころの中で、Sさんとの懐かしい思い出として甦ってきます。

その時のことは、2014年7月号<日本帰国時の再会>でも触れていますが、その時の場面を「この日も染太郎で総支配人をされていたSさん自らが、お好み焼き専用のコテを握り、私たちにいろんなメニューを焼いて頂きました」と書きました。今にして思いますと、あの日がSさんとの最後の出会いになったのでした。

YさんはSさんとは16歳からの大親友だったと言われました。それ以来、60年近いお付き合いが続いて来た訳です。そのSさんは昨年5月末まではまだお元気でした。亡くなられる一週間前、YさんとはSさんに会われています。その時、Sさんは次のように言われたそうです。

(ゲンちゃんがサイゴンにいる間に、もう一度ベトナムに行きたいなー)

「ゲンちゃん」とはYさんと親しい仲間うちでのYさんの通称です。Yさんの話では、晩年は体力も弱られてきたようで、とうとうその夢が叶うことなく、旅立って逝かれました。YさんからSさんの訃報を受けた時、私自身も呆然としました。Yさんは「未だに彼の死が信じられません・・・」と言う言葉を私に送ってこられました。
私自身も未だに信じられません。

そして、昨年2017年の9月にSさんの娘さんがサイゴンに来られました。その日に4区のスシコで会いました。その時にはYさんも同行されていました。Sさんの娘さんがこう言われました。「実は、今回ベトナムを訪問したのは、父の遺灰を少し持参しましたので、それを父の<青春の思い出>であるメコン川に撒くのが大きな目的でした。明日その遺灰を持って、Yさんと一緒にメコン川に行って来ます」と。そして、翌日Yさんと一緒にCai Beへ行き、メコン川に撒かれたのでした。

Sさんの遺灰が撒かれたそのメコン川に三人で立ちました。今回のCai Beへの訪問は「古川さんご夫妻の霊」を弔うことと、そのメコン川に撒かれた「Sさんの霊」を供養するために、メコン川に向かってお祈りをすることにありました。その目的が今回達成出来たのは嬉しいことでした。しばらく三人でメコン川を見つめていました。すると、しばらくして、Yさんは感無量になられたのか、メコン川に向かって・・・

「Sよー、戻って来たぞー。何でお前はオレよりも先に逝ってしまったんだよーー!」

と大声を上げて慟哭されました。私はYさんのそのような姿を初めて見ました。私も生前のSさんを直接知っているだけに、Yさんのその言葉を横で聴いていて、涙を抑えることが出来ませんでした。NH君も私たちのその様子を見て辛い思いになったのか、悲しい表情で無言のままメコン川を見つめていました。Yさんは今回、Sさんの遺影もCai Beに持参されていました。メコン川を後にして家に戻り、私たち三人はその遺影に向かい、線香を上げさせていただきました。

家に帰るとYさんはまたみんなと宴会の続きです。NH君と私は今朝五時起きしたので、眠くもあり、酔いも回ってきたので、夕方四時から昼寝タイムに入りました。Yさんは我々よりもさらに早起きして、「この日は朝四時に起きた」と言われましたが、全然疲れも見せずに、またみんなとビールを飲み続けておられます。

(あの元気の良さはどこからくるのだろうか・・・?)と不思議でなりません。本人は「ビールなら何本飲んでも大丈夫ですよ。それにここならバイクで帰る必要も無いし、気楽に何本でも飲めますからね」と、後で笑いながら話されました。とても今年75歳とは思えないタフさです。Yさんより若いNH君や私のほうが先にダウンしてしまいました。

そして、夕方6時頃にYさんから「おーい、起きろ!晩御飯だぞー」と叩き起こされました。あの後もやはり全然眠ることなく、ずーっとビールを飲みながらみんなの相手をされていたというのでした。9時過ぎまで夜の宴会は続きました。さすがにその時間頃になるとYさんも疲れが出てきたのか「さー、寝るぞ!」と言って蚊帳の中にもぐり込まれました。今回は我々日本人三人が一つ蚊帳の中で眠りました。

翌日は朝6時起きです。いつものように熱い麺が朝食で出てきます。麺の上に乗っている具材の量が多く、NH君は「量が多いですねー」と言っていましたが、せっかく作って頂いた朝食です。みんな全部平らげました。前の果樹園を見ると、昨日飲んだビールの空き缶が転がっています。「朝確認したら、全部で100本近くありましたよ」とNHくんが話してくれました。

そして、食事の後、バイク・タクシーを一台家まで呼んでもらい、「古川さんの家」を離れることになりました。「古川さんご夫妻」と「Sさん」の遺影に向かい、線香を上げさせて頂き、最後のお別れの挨拶をしました。家族のみなさんたちにも今年お世話になったお礼の言葉を述べて、「古川さんの家」を去りました。Yさんもそのままバイクに乗り、サイゴンに帰ってゆかれました。

帰りのバスは寝台タイプの座席のバスで、クーラーも効いていました。昼過ぎにはサイゴン市内に着きました。今年もまたいろいろな感慨を深めて、「古川さんの奥さんの法要」が終わりました。来年は「古川さんの法要」になります。バスの中で、NH君は私に「今回は実に貴重な体験をさせて頂きました」と大変喜んでいました。

YさんがCai Be まで一人でバイクに乗って、「古川さんの法要」に顔を出されるたびに、「古川さんの家」の近所の人で、その法要に参加した人たちがYさんに聞くそうです。「ベトナム戦争が終わり、古川さんが亡くなって40年以上も経つのに、家族でもない、親族でもない、外国人である日本人のあなたが毎年このようにどうして参加してくれるの?」と。それも当然な疑問です。

それに対して、Yさんは饒舌には語られません。しかし、Cai Be の家でもDong Naiの家でも、深夜遅くなった頃の時間に、ポツポツと私に話されました。「古川さん夫妻、特に古川さんの奥さんには大変親切にして頂きました。その時受けた恩を今も忘れることは出来ません」と。その時の「恩返し」のためにYさんは毎年「古川さんご夫妻の法要に参加されているのです。

今から13年前の2005年の3月に私はYさんと知り合いましたが、それ以来の長い付き合いが続いています。日本では知り合うことが全然無かったYさんですが、Yさんと付き合えば付き合うほど、知れば知るほど、Yさんのこころの優しさ、人間としての奥の深さに触れる思いがしています。

Yさんはわずか二十歳でベトナムを訪れ、誰一人頼る人がいないベトナム南部のCai Beという村でバナナ園の管理を任されました。電気もガスも水道もトイレも台所も全く何も無いところで1963年から1969年までの6年間近くをそのCai Beで過ごされたのでした。

その時の心細さは如何ばかりだったでしょうか。その時、Yさんの世話を焼き、声を掛け、「晩御飯は食べたかい?」と優しい心遣いをされて、親身になって面倒をみられたのが「古川さんご夫妻」、特にその奥さんなのでした。その時の奥さんの優しさがあったればこそ、Yさんは「一人でもCai Beで頑張ることが出来ました」と、今でも私にしみじみと話されます。

言わば、「古川さんご夫妻」、そして特に、その「奥さん」はYさんにとっての<大恩人>でもあるわけです。だからこそ、毎年こうして「古川さんご夫妻の法要」に参加されているのです。さらに言えば、今ベトナムにおられるYさんは、私にとっての<大恩人>でもあります。

ベトナム戦争当時にベトナムに来ていた日本人はもちろんYさん以外にもたくさんいたはずです。でも、そのうち今何名の方が日本やベトナムに存命されているでしょうか。また仮に元気でおられたにしても、少なくとも私の身近にはいません。その当時のことを臨場感を持って話してくれる人はおられません。Yさんを除いては・・・。

ベトナム戦争当時にCai Beにいた時、対岸から大砲が打ち込まれたこと。「解放戦線」の兵士たちが税金を取り立てに来た時のこと。あの作家の「開高健さん」がCai Beに来た時のことやその時の写真も見せてくれます。また、「サイゴン解放」の時、今の<統一会堂>に戦車が突入した時のこと・・・など、その時代のことを生々しく話してくれます。

また、当時有名な女性歌手でもあった「Khanh Ly(カン リー)さん」と三回ほど会って食事を共にしたことなどを懐かしそうに、笑いながら話してくれます。「彼女が歌うDiem Xua(ズィエム スア)と言う歌があるけど、切なくて、哀愁があって、大好きな歌なんですよ」と。Youtubeは以下です。
https://www.youtube.com/watch?v=n-wyVoW9Fbg

私はこのベトナムでYさんと知り合えたことによって、Dong Naiにいる古川さんの家族に会えたり、石川文洋さんや多くの人たちと巡り合うことが出来ました。本当に感謝に堪えません。私が毎年Cai Beでの「古川さんの家の法要」に参加する動機は、Yさんの「古川さんご夫妻」への<恩返し>であるのと同じような意味で、私にとっての<大恩人>でもあるYさんに対する感謝の気持ちでもあります。

この毎年の行事は、来年も、さ来年も、Cai Beでは今後もずっと続けてゆくことになります。そして、私もYさんが元気でおられる限りは、毎年・毎年この「Cai Beでの法要」に参加させて頂くつもりです。NH君もまた来年も私と一緒に参加してくれることでしょう。一人でも多くの日本人が参加すれば、Yさんへの<恩返し>にもなり、「異国の地」で一生を終えられた「元日本兵・古川さん」の安らかな<供養>にもなるのではと思っています。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ホーチミン市の貝料理レストラン街、公式フード・ストリート認定

貝料理を提供している店が多いことでも知られているホーチミン市の4区のVinh Khanh通りは、公式の「フード・ストリート」として認定された。これは、食品の衛生面が保証されたことを意味する。

3月30日の金曜日の夜、ホーチミン市の4区のVinh Khanh通りでは、「フード・ストリート」の認定式が開催され、地元の人を始めとする多くの市民が参加した。

Vinh Khanh通りは、S字型となっており、4区のBen Van Don通りとTon Dan通りにつながっている。この通りが交わった部分にある店が「フード・ストリート」としてサービスの提供を始めるのである。

これに関して、4区のLam Tan Hung議会副議長は「フード・ストリートの走り出しは順調であり、これは地元民の努力の賜物である。これから、ホーチミン4区の社会的、経済的発展を促すものになるだろう」と話す。

地元関係者は、「街の知名度向上や国外からも人を呼び込むことに繋がる良い機会であるだけでなく、食の安全性の保証や公平な売価規制もすることができる。」と考えている。

今後、Vinh Khanh通りでは、貝料理を始めとするベトナム料理の種類がさらに増える予定だ。

<POSTE>

◆ 解説 ◆

ホーチミン市の4区の「Vinh Khanh(ヴィン カーン)通り」はシーフード類、特に「貝料理」の店が集中している通りです。私が良く通う「SUSHI KO」も、実はこの通りにあります。この通りの店の形態は「路上屋台の店」が多いことです。

「SUSHI KO」もまさしく「路上屋台のスシ屋」です。以前から、この通りには欧米人の観光客も数多くやって来ます。Vespaのバイクに乗り、この通りで食事するのをツアーに組み込んでいる旅行会社があるからです。彼らはベトナム人が運転するバイクの後ろに乗り、10人から20人の団体でやって来ます。

ちょうど一年前の2017年4月号の=BAO=にも書きましたが、昨年一年間はサイゴンの人民委員会の責任者が路上にある屋台や歩道を占拠している物・人を排除する動きが急速に広まり、中心部の一区などでは路上の屋台が消えてゆきました。

しかし、一年中暖かい南国の魅力は「屋台文化」にあると言ってもよく、それで私は昨年の=BAO=の◆解説◆に【サイゴンの人民委員会の幹部の人たちも、一度「SUSHI KO」に来て、「屋台文化の魅力」をじっくり観察すればいいのでは・・・と考えています】と書きました。その願いが通じたのかどうか知りませんが、多くの欧米人が集まる「バック・パッカー街」の「ブイビエン通り」は「歩行者天国の通り」として復活し、今や多くの観光客で賑わっています。

「ブイビエン通り」に続き、4区の「Vinh Khanh通り」を「フード・ストリート」にすると言う話は、実は私は昨年末頃から聞いていました。その時期から、この通りの入り口にアーケードのような構造物を造り始めたからです。「あれは何?」と、入り口近くにある店の人に聞くと「しばらくしたら、この通りを歩行者天国にするらしい」と言う答えでした。

「歩行者天国」と聞いて、(これは困ったな・・・)と思いました。私は学校に行く時、帰る時には毎日この通りを利用するからです。事実、「ブイビエン通り」が歩行者天国になった今は、土曜日と日曜日にはそこをバイクで通過することは出来ません。

そして、3月中旬にアーケードのような構造物にベトナム語の看板が掛かりました。それには「Pho Am Thuc Vinh Khanh」と大きな字で書かれていました。「Pho」は「街」、「Am Thuc」は「飲食」。訳すれば、「Vinh Khanh通り飲食街」という意味になります。

そして、この「Vinh Khanh通り飲食街」の開幕式があるということで、道路の両側に蛍光灯のような長細い電気スタンドのようなものが20m置きぐらいにずらーっと並べられました。それで、この通りがずいぶん明るくなりました。

「フード・ストリート」の開幕式が行われたのが、この記事にあるように3月30日でした。「Vinh Khanh通り」の入り口には公安関係者が数人立っていて、交通整理も行っていました。開幕式を行う場所が、実は「SUSHI KO」の店がある場所なので、「SUSHI KO」も前日と「開幕式」当日はお休みでした。

私が仕事帰りにここを通過して行った時「開幕式」がスタートしたばかりで、男性歌手や女性の歌手が大音量で歌っています。その音量は並大抵の大きさではありません。大変なやかましさでした。大抵の騒音には慣れた私も、このカラオケの大音量には参りました。

面白かったのは、私が音を上げるような大音量の中でも、「開幕式」の舞台の反対側の店に座っている人たちは普段通りに平気で食事をして、ビールを飲んでいたことです。「開幕式」があった舞台近くの店は、「SUSHI KO」も含めてこの日は閉店でしたが、そこから少し離れた店は普段通りに営業していましたし、お客さんたちもいつもと変わりなく飲んで、食べていました。やはり、ベトナムの人たちは「大騒音」には慣れています。日本人なら参ってしまうような「大騒音」でも全然平気です。大したものです。

実は、この「開幕式」が行われた「3月30日」は私の誕生日でもあったのですが、昨年は「SUSHI KO」で宴会をしました。今年は無理になりましたが、「開幕式」と「誕生日」がちょうど重なって、いい思い出になりました。これから「誕生日」が来るたびに、(そう言えば、あの時の「開幕式」も今日のこの日だったなぁ・・・)と、思い出すことでしょう。

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