春さんのひとりごと

第五回目の「MICHIKO先生を偲ぶ会」

2013年9月30日にMICHIKO先生がサイゴン市内で交通事故に遭われて亡くなられました。それから、早くも5年が経ちました。それから毎年、MICHIKO先生の命日が近づいてきますと、MICHIKO先生を知る方々が参加して、「MICHIKO先生を偲ぶ会」をSUSHI KOで行っています。

例年、生前のMICHIKO先生と一番親しかったMZさんが音頭をとり、みんなに声掛けをしてもらっています。MICHIKO先生の命日は「9月30日」ですが、みなさんたちが集まりやすいように、その命日に近い土曜日に行うようにしました。それで、今年は9月29日に行いました。

昨年もそうでしたが、私はMICHIKO先生の命日が近づく一ヶ月ほど前から、今私が教えている学校でMICHIKO先生のことについてベトナム語で書かれたベトナムの新聞記事をクラスの中の一人の生徒に読んでもらいます。

この記事自体は、MICHIKO先生が「人文社会科学大学」で大学生たちに教えておられた頃に書かれたものです。当時、MICHIKO先生が毎日を元気に過ごされていた様子がこの記事には詳しく書かれています。かつて、このサイゴンにMICHIKO先生という方がおられたというのを、この記事を読んで「今、初めて知りました!」と、私が教えているクラスの生徒たち全員が答えます。

そして、この記事を生徒に読んでもらった後に、「実は、この記事にあるMICHIKO先生は2013年9月30日にベンタン・バスターミナルで交通事故に遭われて亡くなられたのです。その時、まだ60歳でした」と話しますと、みんなが驚きます。そして、悲しい表情をします。

さらには、毎週日曜日に「青年文化会館」で行われている<日本語会話クラブ>にもMICHIKO先生の命日の二週間前に、この記事を持ち込んで、ベトナム人の参加者の一人にこれを読んでもらいました。やはり、ここでも全員が「初めて聞いた」という表情をしています。

そこには現在「人文社会科学大学」に通っている大学生たちも数人いましたが、やはり彼等も同じでした。サイゴン市内に今仕事で来ている日本人も、直接MICHIKO先生に会ったことが無い人たちが多くなり、だんだんとその存在が忘れられてきています。MICHIKO先生を知る私たちとしては大変悲しいことです。

それだけに、毎年「MICHIKO先生を偲ぶ会」に集まるメンバーは、最近顔馴染みのメンバーが多くなってきました。毎年、MZさんが一声掛けますと、二週間後ぐらいにはほぼ同じ顔ぶれの人たちが「今年も参加します!」と連絡してきます。今年は全員で8人の方々に参加して頂きました。昨年参加された日本語教師のTR先生は、ちょうどその日に日本から学校に社長さんの訪問があり、悲しい声で「今年は残念ですが参加出来なくなりました」と、私に連絡がありました。

それ以外は、昨年集まって頂いたメンバーとほぼ同じ顔ぶれでした。ただ一人だけ、新しく参加された方がいました。女性の方でした。昨年初めて参加された方の中に、女性がおられました。名前はHong(ホン)さんと言いますが、そのHongさんの妹さんが今回参加されました。その妹さんに今回私は初めて会いました。

MICHIKO先生はベトナムの「テト」の時に、Hongさんの家で歓迎されて「テト」を過ごされていたことを聞いたことがありました。家族ぐるみの付き合いがHongさんの家族とはあったわけですので、Hongさんの妹さんも当然MICHIKO先生を知っていたわけです。

そして、私が夕方6時少し前にSUSHI KOに着いた時には、Hongさんとその妹さんがすでに着席されていました。Hongさんの顔はすぐに分かりましたので、挨拶をしました。その後、Hongさんが「実はこちらは私の妹です」と紹介されて、その場で初めて妹さんだと知った次第です。

その妹さんは、昨年も紹介しましたが、2013年11月4日の「北日本新聞」に載っていた写真の中の人物なのでした。その新聞記事はこの日も持ち込んでいましたので、それを見せました。すると、Hongさんが「そうです、そうです。この写真がこの妹です」と言われますと、隣に座られていた妹さんが肯かれました。写真の顔を見ると、確かにその人でした。

「北日本新聞」に載っているその写真自体は2006年に撮影されたものです。Hongさんは「この写真はテトの時、私の家にMICHIKO先生が五日間泊まられた時のものです」と言われました。今年も、その新聞記事などを含めた、MICHIKO先生に関係した資料を一冊のファイルに入れて、SUSHI KOに持ち込みました。

このファイルにはMICHIKO先生が亡くなられた時、MICHIKO先生を知る関係者の方々が書かれた追悼文やブログの内容などを出来るだけコピーして、一冊に収めました。全部で約40ページあります。みなさんがこのファイルを開くのは一年に一度だけですので、これを手にした人たちは懐かしそうに読み返してくれています。

私自身はこの日に限らず、ふっとMICHIKO先生のことを思い出す時に、部屋の中に置いてあるこのファイルを手に取り、しばらく読み続けることがあります。MICHIKO先生がまだ元気な時、その質素な暮らしぶりについて紹介された以下のような記事を読むと、今でも胸が熱くなってきます。

“ミチコさんは、毎日朝5時に自分の一日の仕事を始める。急いで朝食のインスタントラーメンを食べた後で、お昼ご飯を作って大学に持って行く。 そしてバスを待って、人文社会科学大学に向かう。この時間にはまだ、大学の中庭にあるベンチに座っている生徒たちが少ないからである。

「ここに座って教えるためには、早く行かないと場所が無くなるからです。遅く行くと座る場所がないので、外の喫茶店に行って教えないといけなくなりますが、もったいないですからね」とミチコさんは話してくれた。”

私がSUSHI KOに着いた時には、Hongさんと妹さんしかいませんでしたので、私が持参したファイルをテーブル上に置くと、Hongさんが最初にそのファイルに眼を通していました。そして、「このファイルにある資料を今から全部コピーさせて頂けませんか」と言われました。「いいですよ!」と私も同意しました。しかし、「Hongさんがここから席を離れてコピーに行くと時間が掛かるので、店員さんに頼んでコピーに行ってもらいましょう」と私が言いました。

それで、SUSHI KOの顔なじみの男の店員に頼んでコピー屋さんに行ってもいらいました。彼はバイクを飛ばして、すぐ近くにあるコピー屋さんに行き、一冊のファイルをそこに預けてきて、「一時間ほどでコピーは終わるそうなので、またその頃取りに行きます」と言ってくれました。そして、一時間後にそれを取りに行き、Hongさんに渡してくれました。

そして、夕方6時半前にはこの日参加予定のメンバー8人全員が揃いました。昨年はLoi(ロイ)さんという女性が参加されましたが、Hongさんが言われるには「今年はLoiさん病気で欠席します。みなさんによろしく」とのことでした。最終的に、昨年の参加者で欠席されたのは、日本人でTR先生、ベトナム人ではLoiさんの二人だけでした。

6時半過ぎには全員が揃いました。昨年は予定していた時間の直前に大雨が降り、みなさんの集合が遅れましたが、今年はそういうことはなく、みなさんがあまり遅れることもなく着きました。みなさんにはMICHIKO先生の遺影の前に集まってもらい、線香を渡しました。

この日にみなさんたちが集まったSUSHI KOの場所は、昨年と同じ場所ではありません。昨年みんなが集まった場所「SUSHI KO 1号店」は最近、すぐ一軒隣にある「SUSHI KO 2号店」に統合されて広くなりましたが、同じスペースの中で営業しています。

そのほうが店側からしても運営や連絡がし易いのですが、お客さんにとっても以前は二つあった店が一つの敷地内になりましたので、待ち合わせも容易になりました。それで、このスタイルに落ち着いてからはお客さんの出入りも多くなりました。

しかし、店が一つに統合されたことで、困ったこともありました。昨年は「SUSHI KO 1号店」で「MICHIKO先生を偲ぶ会」を行った時、店の中にある祭壇にMICHIKO先生の遺影を置かせてもらいましたが、新しく統合された店の中には、その遺影を置く祭壇が無かったのです。それで、仕方なく、店員さんが利用しいているカウンター席の横に臨時の祭壇を設けてもらい、そこに遺影を置かせてもらいました。

「MICHIKO先生を偲ぶ会」は初回からこのSUSHI KOで行ってきましたので、SUSHI KOの店長もMICHIKO先生のことについてよく知っています。私が着く前には、MICHIKO先生の遺影を置く場所をきれいに拭いてくれていました。昨日までは置いてあったビン類も整理していました。さらに、今年は気を利かせて果物まで事前にお供えしてくれていました。(当日は私たちが仕事帰りで来るので、果物を持ち込むのは大変だろうな・・・)と考えてくれていたのでしょう。

線香に火を点けて、全員で一分間の「黙祷」。この瞬間は、私自身、生前のMICHIKO先生とのさまざまな思い出が甦ります。ほかの方々も同じ気持ちだろうと思います。「人文社会科学大学」の構内、「青年文化会館」での喫茶店でMICHIKO先生といろいろ話をしたことなどが思い出されてきます。

さらには、2013年10月6日・7日にサイゴン市内にあるVinh Nghiem(ヴィン ギエム)寺で行われたMICHIKO先生のお葬式での思い出。そこには日本からMICHIKO先生のお兄様が来ておられました。多くの人たちがMICHIKO先生のお葬式に訪れました。その中には「日本領事館」の総領事もおられました。お葬式の後、お兄様が生前のMICHIKO先生と一番親しかったMZさんに次のように話されたそうです。

「こんなにも多くの日本人やベトナム人の方々に妹のお葬式に来て頂き、弔って頂いたことを、日本の本家のみんなも驚くことと思います。本当に有り難いことです」

また私自身もこの日、MZさんの口から「MICHIKO先生は日本には帰らずに、“ずっとずっとベトナムに住みたいと思います!”と話されていました」と聞きました。しんみりとした口調でMZさんが話されていたのを聴いていて、MICHIKO先生が生き生きとした表情で生徒さんたちに教えておられた姿と重なりました。

そういう思いで、このサイゴンで大学生たちに日本語を教えておられた人が不慮の交通事故に遭い亡くなられたのでした。それだけに、MICHIKO先生が直接教えられていた生徒さんたちの悲しみは大変深いものがありました。私自身もMICHIKO先生のお葬式の時に涙を流してお参りしている大学生たちの姿を見ました。

あの時、MICHIKO先生のお葬式に来ていた大学生たちもすでに大学を卒業して、今は社会人となっているはずです。結婚して家庭を持っている者もいるかもしれません。でも彼等のこころの中には「MICHIKO先生の思い出」がずっと残っていることでしょう。それは、この日の「MICHIKO先生を偲ぶ会」に集まった私たちも同じ思いです。

考えてみれば、「MICHIKO先生を偲ぶ会」で顔を合わせる人たちは、数人を除いては一年に一回しか会うことがありません。ほとんどの方がこの「MICHIKO先生を偲ぶ会」でしか再会できません。普段は、仕事場も、住まいも、年齢も離れている私たちが、一年に一度この「MICHIKO先生を偲ぶ会」に集います。それも「MICHIKO先生が繋ぐ縁」と言うべきです。

来年も、再来年も、これからずっと「MICHIKO先生を偲ぶ会」を続けてゆくつもりですが、毎年参加する方たちは同じメンバーが揃ってきました。突然、急な用事が入り参加出来ない方もいますが、昨年と今年のメンバーも大体同じ顔ぶれになってきました。来年もまた同じメンバーの方々が「MICHIKO先生を偲ぶ会」に参加されることと思います。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

「ベトちゃんドクちゃん」分離手術から30年

今から30年前の1988年10月4日、ベトナム戦争時に米軍が散布した枯葉剤の影響で結合双生児として生まれた「ベトちゃん・ドクちゃん」の分離手術がホーチミン市ツーズー産婦人科病院で行われた。

兄のベトさんは2007年10月6日に26歳の生涯を閉じたが、弟の「ドクちゃん」は家庭を持ち、2人の子供のお父さんとなった。これは、世界の医療の歴史において公表された19件の類似ケースと比べても前例のないことだった。

2018年10月4日、「ベトちゃんドクちゃん」の分離手術成功から30年を記念する式典がツーズー産婦人科病院で行われた。

当時ホーチミン市第2小児病院外科部長で、分離手術の外科チーム長を任されたチャン・ドン・アー医師は「当時、分離手術はベトナムに限らず世界でみても大変なことでした。しかし手術は無事に成功し、その成功がベトナムの人々に誇りと名誉を与えました」と述べた。

またアー医師は、「兄のベトさんは手術の前から植物状態でしたが、人工肛門をつけ、手術後も19年間を生き抜きました。これは医療、そしてツーズー産婦人科病院および病院の平和村の人々の熱心なケアによる奇跡です」と話す。

弟のドクさんは今年で37歳。2006年に結婚し、2009年に男女の双子が生まれた。現在はツーズー産婦人科病院平和村に勤めている。2人の子供には、それぞれ富士山と桜にちなみ、男の子を「グエン・フー・シー」、女の子を「グエン・アイン・ダオ」と命名している。

この30年間、ドクさんには数えきれないほどの困難と苦難があった。ドクさんは、「医師の献身的なサポートのおかげで、まるで2度目の人生に生まれ変わることができたようです。皆さんに本当に感謝しています。この第二の人生を私に与えてくれた第二の父・第二の母の恩に報いるため、より良い人生を、そして意義のある人生を生きるよう毎日自分に言い聞かせています」と話した。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

「ドクちゃん」はベトナム戦争が終結した後、その戦争当時に米軍によって撒かれた「枯葉剤の影響」と巷間言われている“ダイオキシン”が原因で、「結合双生児」という状態で「ベトちゃん」と一緒に誕生しました。

そして、この記事にもあるように、30年前にその分離手術を行い、それが無事に成功して、二人は「ベトちゃん・ドクちゃん」としてベトナム戦争の悲惨な後遺症を象徴する人物として有名になりました。しかし、「ベトちゃん」は残念ながら2007年に26歳で亡くなりました。

その時に、こちらのベトナムの新聞「Tuoi Tre(トゥイ チェー)」の一面に「Viet di!(ベトくん 逝く)」と大きく載っていたのを今でも覚えています。それだけ、ベトナム全土の人たちにとっても、「ベトくん」の逝去は悲しい出来事だったということです。

そして、一人残された「ドクちゃん」ですが、私自身は「ドクちゃん」に今まで四回ほど会った思い出があります。それだけに、特に「ドクちゃん」に双子さんの子どもが出来た時には、私自身も嬉しくなり、2009年11月号の=BAO=< 幸せが実を付けた!~ドクちゃんに双子誕生~ >として載せています。

普通の五体満足の体を持って産まれたのではない「ドクちゃん」にとって、そこに到るまでの苦労は並大抵のものではなかったろうなぁー・・・と想像します。それだけに、私の身近にいるベトナム人の友人たちも、「ドクちゃんに双子誕生!」のニュースを聞いた時には、自分のことのように喜んでいました。

「ドクちゃん」と一番最近会ったのは、2015年4月半ばのことでした。その年が「ベトナム戦争終結40周年」に当たり、サイゴン市内でもいろいろな記念行事が行われました。その一つとして、「報道写真家の石川文洋さんの写真の記念式典」<戦争証跡博物館>で行われましたが、そこに「ドクちゃん」が招待されていたのでした。私自身も四回目の再会となりました。その時のことは、2015年5月号<石川文洋さんに会う>として載せています。

<戦争証跡博物館>では、「ドクちゃん」は松葉杖をつきながら石川文洋さんと一緒に館内の写真を見て回っていました。そして、ある一枚の写真の前に来ると、そこで立ち止まりました。そこには、「生まれたばかりのベトちゃんとドクちゃん」の写真が掲示してあったのでした。

ドクちゃんはその写真の前まで来ると、松葉杖をついたままじーっと立ち止まって、ベトちゃんと自分の写真を見つめていました。2007年にすでにベトちゃんは亡くなっていました。しばらくして、ドクちゃんはズボンのポケットから携帯電話を取り出し、自分が生まれたばかりの時のその写真を撮り、それが終わると、長い間じーっとその写真と対峙していました。その時の光景が今でも忘れられません。

「ドクちゃん」は日本の新聞のインタビューでは「ベトナムと日本の架け橋になりたい!」と話していました。今後もその道を歩んでゆかれることだろうなぁーと思います。。

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