春さんのひとりごと

日本帰国余話・前編

今年も例年と同じく、4月中旬に日本に帰国しました。ベトナムに赴任して以来、日本に帰国していた時とベトナムに戻る時には、今までずっと「関西国際空港」を利用していました。しかし、今年からは「福岡国際空港」経由になり、故郷・熊本への移動も早く、短くなりました。今後も日本とベトナムへの移動では「福岡国際空港」を利用することになると思います。

今年の日本帰国時の前半でも、多くの友人・知人、恩師、親戚の方々との<再会>がありました。一年に一度日本に帰国した時、それらの人たちとの<再会>は有難いことであり、ベトナムに戻ってまた一年生活する時に、私に大いなる励ましを与えてくれる<再会>なのです。

● ガンボさんとの再会 ●

「福岡国際空港」には早朝の7時に着き、預けた荷物を受け取り、ゲートを出た時、外には<ガンボさん>が待っていてくれました。<ガンボさん>については、【2017年1月号】<年末の嬉しい思い出と年始の出会い>の中の●ガンボさんの来越●でも紹介しています。

<ガンボさん>は朝7時半頃に空港に着き、私の到着を待っていてくれたのでした。我々はシャトル・バスに乗り、地下鉄に乗り換えて博多駅に着きました。シャトル・バスで移動時、私はバスの外の景色を眺めていましたが、道路上にゴミ類は落ちていませんでした。

30分ほどで博多駅に着きました。ベトナムに戻る時にはまた同じ経路で帰ることになるだろうな・・・と思い、<ガンボさん>に移動手段を確認しておきました。博多駅で喫茶店に入り、二人でコーヒーを飲みながら久しぶりの再会を喜びました。「6月頃にはまたベトナムに遊びに行けるかもしれません」と<ガンボさん>は話してくれました。

ベトナムに戻る時には飛行機の出発が朝8時と早いので、(博多に前泊するかも・・・)と思い、「その時にはまた博多で飲みましょう!」と言いますと、<ガンボさん>も「分かりました!」と笑っていました。<ガンボさん>はこの日仕事があるので、30分ほど話しただけで私たちは別れました。それから、私は一年ぶりに故郷・熊本の玉名に帰りました。

● 亡父の十三回忌の法要 ●

私の父は2007年4月に83歳で亡くなりました。今年が父の「十三回忌の法要」になります。その法要を4月21日に自宅で行うことにしました。父の兄弟は全部で7人いますが、すでに3人の方が亡くなり、4人の兄弟姉妹の方が健在です。父に限らず、昔は兄弟姉妹が多かったですね。

父の兄弟で最高齢だった長女の方は一昨年97歳で亡くなられました。私の日本帰国時、毎年その方が療養されている施設を訪問していました。その方は「肥後狂句」を作るのが趣味で、自作の句がその病室の枕元の壁にも掛けてありました。その句は「もうもてん 早う先生ば 呼んでくれ」というもので、それを見た時、思わず吹き出しました。また兄弟7人全員の生年月日を全部覚えていたのには驚きました。

亡父の弟の方は今年89歳ですが、老いても壮健で、まだトラクターに乗り、畑を耕しています。面積は狭くなりましたが、今でも米を作っています。父が亡くなった後、我が家の田んぼは誰も作る人がいないので、以前は広い面積をその方にお願いしていました。でも、今は高齢になられましたので遠慮しています。

さらに、私が日本に帰国して、その叔父さんに挨拶に行く時は、ちょうど家にある、樹齢の古い、大きなツツジに咲く花が満開で、それは見事な美しさです。その時は親しい知人を招いて宴会をされています。ツツジの数も多く、その剪定作業も大変ですが、ここを訪れた友人・知人たちのためにその見事なツツジを育てられています。

この日の「法要」には入院している方一人を除いて、3人の兄弟姉妹に来て頂きました。その方たちの親族も併せて16人が参加しました。みんなが一同に顔を合わせるのは久しぶりなので、とても喜んでいました。私の子ども時代から顔馴染みの方たちですが、みんなが高齢になりました。そして、私の弟と2人の妹も東京から来ました。

そして、朝10時にお坊さんが到着。まだ若いお坊さんです。以前の法要の時にはその方のお父さんに来て頂きましたが、今回はその息子さんが来られました。「法要」を行う場所は仏壇がある部屋で、二つの畳の部屋を仕切る戸板の障子を外して一つにし、そこに腰掛ける椅子を置きました。高齢者は正座が苦痛だからです。お坊さんだけは正座で読経を行います。

この日唱えるのは『仏説阿弥陀経』。その最初のページには「この経は仏陀の覚りを得られたお釈迦様が、真実の救いの教えを説かれたものです。今日の御法縁にあたって皆様と読誦(どくじゅ)して、仏様とのご縁を深めて参りたいと思います」とあり、次のような言葉から始まります。「如是我聞。一時佛在。舎衛國。祇樹給孤獨園。輿大比丘衆。千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。衆所知識。長老舎利弗・・・」

その経典を参加者全員に配りました。そして、全員に経典がゆき渡り、お坊さんが今から経典を読み始めようとしたその時、突然部屋の上のほうから私の足元にバサッと何かが落ちて来ました。良く見ると、それは父の写真がプリントしてある2007年版のカレンダーで、父が生前勤めていた会社が贈ってくれたものでした。

それを我が家の先祖の遺影が飾っている部屋の中にテープで止めておいたものです。父の死後13年間そこにあり、今まで一度として落ちて来なかったものが、「十三回忌の法要」のこの日、お坊さんが読経を今から始めようとしたこの時、上から落ちて来たのです。そのことに、何か不思議な因縁めいたものを感じました。

私のすぐ隣に座っていた弟がそれを拾い上げて、すかさず「亡き父が一緒にお坊さんの読経に参加しに来ました」と当意即妙に叫んでくれました。みんなもそれを聴いて、ニッコリ肯いています。(本当にそうかもしれないな・・・)と私も思いました。

それからお坊さんが「経典」を約45分かけて全部読んで『仏説阿弥陀経』の読経は終わりました。それから、坊さんの「講話」が始まります。その中で次のようなことを話されました。「実はこのお宅のご尊父さまと私の名前が同じなので、不思議な縁を感じています」と。それを聞いて私も驚きましたが、みんなも「へぇ~~」という顔をして聴いていました。

自宅での『十三回忌の法要』はお坊さんを見送って終わり、この後みんなで 食事会に行きました。食事会の場所は、玉名市内にある「尚玄山荘」。昔からある旅館です。温泉もついています。11時に「尚玄山荘」からマイクロバスが迎えに来ました。この日の法要に参加した人たちはそのままバスに乗り込んで移動。

食事会の開始前、私から今日の「亡父の十三回忌の法要」に集まって頂いたことに対してのお礼を述べました。今日のこの法要には熊本市内から車で来てくれた父の兄弟もいます。めったに会わない方です。その方もニコニコしておられます。(次に会えるのはいつのことだろうか・・・?)と思うと、準備などで私の兄弟全員大変でしたが、(無事に終えてよかったな!)と思いました。

● 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の説明会 ●

熊本市内にある「能力開発センター・熊本本校」の教室長・SC先生から私に連絡が来ました。「日本滞在中に、市内の教室に来て“ベトナムマングローブ 子ども親善大使”の説明会をして欲しい」と。
私は二つ返事で「いいですよ!」と引き受けました。

そして4月27日、熊本市内の味噌天神にある「熊本本校」に行くことになりました。11時半に熊本駅に着くと、SC先生が迎えに来てくれていました。 SC先生とは一年ぶりの再会になります。

SC先生の車で教室に向かう途中、驚いたことがありました。
「今年の “ベトナム マングローブ子ども親善大使” の日本からベトナム、ベトナムから日本までの生徒たちの引率は、私に決まりました!」と言われたではありませんか。初めて聞いた私は大いに驚きましたが、それ以上に嬉しさが込み上げて来ました。

SC先生とは私と同年齢でもあり、私が日本で働いていた時一番仲良くしていた先生です。私がベトナムに行って22年になりましたが、その当時の先輩や同僚や後輩たちがほとんど退職している中で、今も頑張って残り、熊本市内にある各教室の牽引役として活躍しています。

SC先生と熊本市内の教室で一緒に働いていた頃、生徒のこと、受験のこと、 教育のことなどを、事務所で、居酒屋で、夜遅くまで話した思い出が数々あります。日本に帰国した時には毎年いつも<再会に乾杯!>をしています。

2016年に起きた「熊本大地震」では、熊本市内の益城町にあった彼の家は全壊し、 それを聞いた私は大いに驚き、涙しました。しかし、その年再会した私の眼の前で、彼は涙ひとつ見せず、努めて明るく振る舞っていました。私に心配を掛けたくないという彼の思いやりだったのでしょう。

(その彼がベトナムまで来てくれる!)、私は車が教室に着くまで、彼が車を運転している席の横に座り、彼がベトナムに生徒たちと着いた初日から日本に帰国するまでの一週間を想像していました。(さぞ、面白い合宿になることだろうな・・・)と思いました。

車は12時半に「熊本本校」に到着。駐車場に車を停めて、事務所に入りました。 事務所内には男女合わせて4人ほどのスタッフの方々がおられました。私から挨拶をして、SC先生から私の紹介をしてもらいました。事前にスタッフの方たちには連絡されていたようで、私が「ベトナかから来ました!」と言っても 驚いた様子はありませんでした。

「昼礼」の開始は1時からと聞いたので、それまでこの日生徒たちに配る 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」のパンフレットに目を通しました。その中には 1997年から始まった活動内容の紹介と、その年度の参加者数が書いてあります。 1997年から昨年2018年までの参加者数の合計を出してみると、132名になりました。 (132名かぁ~、今までこれだけの生徒たちが参加してくれたのか・・・)と、今までの生徒たちの顔を思い出し、感慨深いものがありました。

私が一階の事務所にいた時も、生徒たちが次々と入って来ます。ドアを開けるなり、大きな声で挨拶してくれます。この時間帯に来るのは全員小学生たちですが、 みんな元気がいいです。先生たちがそう指導されているのだろうと思います。

午後1時になり、女性の先生が「生徒たちが待っています。どうぞ二階へ」と声を掛けてくれました。そのまま二階に上がります。その途中、「持ち時間は何分ですか」と聞きますと、「30分です」と答えられました。二階に上がり、 教室の後ろから中のほうを見ると、SC先生が前に立ち、私の紹介をしてくれ ました。全部で20名ほどの生徒たちがいました。

私がホワイト・ボードの前に出て挨拶。そして、私の自己紹介をしました。 小学生たちの前で話をするのは実に久しぶりのことです。最初に、「今まで海外に行ったことがある人は手を挙げてみて!」と言うと、20人ほどの生徒たちの中で6名ほどが手を挙げました。主にアジアの国が多かったですが、一人 「フランス」と答えた生徒もいました。ベトナムはいませんでした。

それで、私がベトナムの位置を説明し、ベトナム合宿で何を行うかを説明 しました。生徒たちが手にしたパンフレットにはベトナムでの合宿中どんな ことをするのかが日付ごとに書いてありますので、それを基にして話してゆきました。今までベトナムの合宿に参加した生徒の数が132名になっている ことも話しました。

さらに、「ティエラの海外合宿は観光旅行ではない、異文化体験であること。また異国という鏡に写して自分の国を見つめ直し、自分の国の良さを学ぶこと。自分の国から離れて初めて、自分の国の良いところに気づくものです」などと話してあげました。

この日の説明会の最後に次のような話をしました。「この中で<勉強が好き>でこの能開に来ている人、手を挙げてみてください」と言いますと、誰も手を挙げません。私が「誰も手を挙げませんね。では、どうして<勉強が好きではない>のに、休みの日を潰してまで、高いお金を払ってまでこの能開に来ているのですか?」と言いますと、みんなが考え込んでいます。

「勉強が好きではないのに、これから皆さんたちは小学、中学、高校、さらには大学まで勉強してゆかねばなりません。みなさんたちの先輩たちもそうしてきましたし、みなさんのお父さん・お母さん、ここにいる先生たち、そして私たちもそうしてきました。それは何故なのか?」

「私はこう思います。人が<好きでもない勉強>をするのは、<将来の自分の夢の実現のため>だと。さらには、より良い、より有名な高校や大学に入ると、自分の<将来の夢の実現の選択肢の幅>が広がります。だからみんなが有名な 学校を目指してゆくのです」

前にいた生徒たち数人に尋ねました。「あなたは将来何になりたいの?君の将来の夢は何?」すると、「パイロットです。お医者さんです。学校の先生です」という答えが返ってきました。中に、「弁護士です!」と答えた一人の女の子もいました。

私が「小学生時代から<夢>を持つのはいいことです。今みなさんたちが持っている<夢の実現に向けて、これからもこの能開で頑張ってくださいね。江戸時代の有名な学者で【佐藤一斎(1772~1859)】という人がいます。この人がこういう 言葉を遺しています」と話して、その言葉をホワイト・ボードに書きました。

「この言葉の意味は、“若い時にしっかり勉強しておけば、大人になった時りっぱな仕事ができる”という意味です。この言葉を今日ここにいる皆さんにプレゼントします。これから、中学、高校、大学に進み、そして社会人になってゆきますが、この言葉を時々思い出してください」

「佐藤一斎」の上記の言葉は、「ベトナムマングローブ子ども親善大使」が最後に迎える「閉校式」の時に、私が筆ペンで書いたのを参加者一人一人に渡しているものです。「日本に帰ったら、これを自分の部屋に貼っておいてね」と言って渡しています。

時間はちょうど30分で終わりました。ちょうど時間通りに正確に終わったので、女性の先生も笑っておられました。SC先生は「話し方は当時のままですね」と言ってくれました。中学部の生徒たちには話す機会はありませんでしたが、この日聞いてくれた小学生たちの中から一人でも、二人でもその気になって、<ベトナムで再会!>出来ればと思います。

● 中学時代の恩師との昼食会 ●

私の中学生時代の恩師・N先生とは毎年私が日本に帰国するたびに、N先生のかつての教え子たちと一緒に<N先生を囲む昼食会>を行っています。2011年から<昼食会>は始まりましたので、今年で9回目になります。
その時のことは【2011年5月号】の<さまざまな再会>に載せています。

<昼食会>の場所は例年決まって同じ場所です。玉名市の菊水インターチェンジの すぐ近くにある「欧風レストラン・シェ・ホンダ」です。その場所で<昼食会>を行うことになった経緯については、【2009年5月号】の<マイケルさんと日本の友人たち>とでも触れています。

今から12年前にベトナムで、ある一人のオーストラリア人との出会いが無ければ、私はこのレストランを知ることも無かったし、例えたまたま知ったにしても、例年同じ場所で<昼食会>をしようというこだわりは無かったでしょう。

2007年2月に私はサイゴンでオーストラリア人の マイケル・ラッタさんに偶然会いました。 その最初の出会いについて載せたのが【2007年3月号】<熊本弁を話すオーストラリア人に逢う>です。しかし、その時はまだマイケルさんから私の故郷・玉名市にある「シェ・ホンダ」のことは聞いていませんでした。マイケルさんが初めて「シェ・ホンダ」のことを話してくれたのは2009年4月のことでした。

それ以来、毎年日本に帰国するたびに<N先生との昼食会>は「シェ・ホンダ」で行うことが定例になりました。<昼食会>を行う一週間ほど前からお店に予約を入れています。いつもホンダさんの奥さんが電話口に出られて「わー、お久しぶりですねー。はい、お待ちしています」という返事をされます。

<昼食会>の前日には、北九州市からバイクに乗り、一人の友人HS君が玉名市に 到着します。彼もN先生の教え子です。<N先生との昼食会>は毎年日曜日に 行っていますので、彼は土曜日に玉名市内で前泊し、日曜日の<昼食会>に 参加し、それが終わるとまたバイクに跨って高速道路を走り、北九州に戻ります。

彼もこの<昼食会>を楽しみにしている一人です。彼と私は高校が同じなので、この前泊する日には高校時代の同級生にも声を掛けて、玉名市内の居酒屋で「ミニ同窓会」をしています。今年は全員で四人集まりました。それもあり、彼は<高校時代の友人との再会>と<中学時代の恩師との昼食会>の二つに参加するために前泊している次第です。

彼の趣味は山登りで、日本のみならず、世界各地の有名な山を踏破してもいます。 その時の写真をこの<昼食会>には持参して、話のタネにそれを披露してくれます。 非常に行動力がある友人です。「何でそんなに山が好きなの?」と私が聞きますと、 「自然が好きだから」と答えてくれました。

<昼食会>の当日は私の友人Kくんの車に乗せてもらい、N先生を迎えに行くことにしました。奥様が玄関口に出られましたので、「先生をお借りいたします」と言って、車に乗って頂きました。N先生の家から「シェ・ホンダ」までは車で15分ぐらいで着きます。

N先生とKくんと私の3人がそこに着いた時、すでにHSくんが先に着いていて ベンチに腰掛けていました。私たちを見ると、ニコッとして頭を下げて挨拶しました。その後、次々と当日の参加者が到着しました。この日は全員で7名になりました。

予約した部屋に入りました。そこは我々だけで食事が出来る個室になっていました。 ホンダさんの温かい配慮を感じました。この日は女性が二名参加してくれていたので、列の真ん中の席にN先生に座って頂き、その両側に女性二人に座ってもらいました。

みんなが席に座った時、私から挨拶させて頂きました。
「皆さん、今日はお忙しいところお集まり頂きまして有難うございます。毎年この時期に私はベトナムから戻り、N先生との昼食会を兼ねた再会を楽しみにしています。この昼食会も今年で9回目になります。振り返れば、私たちが中学校を卒業して早や50年を超えました。 ここにいる同級生のみんなが社会人となり、結婚して子どもを持ち、孫までいる人もいます」

「ここに集まった私たちがまがりなりにも社会人として頑張ってこられたのも、 数々の恩師のお陰だと思います。残念ながら、その恩師の方々の中にはすでに亡くなられた方もおられます。でも、N先生は私たちを指導されていたあの時と お変わりなく、今も元気でおられることを大変嬉しく思います。当時の同級生でもある私たちがこうして集まることが出来るのも、N先生がお元気でおられれば こそです。N先生にはこれからもお変わりなく、ずっとずっとお元気でいて欲しいと願っています。では、N先生の健康を願って“乾杯!”したいと思います」

そうして、みんなで“乾杯!”しました。“乾杯!”と言っても、みんなは車で来ているので、グラスに注いだ水で“乾杯!”です。N先生もニコニコしておられます。N先生の奥様のお話では、「毎年の昼食会の後、家に戻って来てから、 いつも以上に機嫌が良くなり、嬉しそうにしているのですよ。本当に有難う ございます」と感謝されます。

N先生の趣味は「古文書の解読」で、部屋の中には昔の「古文書」が本棚に無数にあります。今もその趣味を続けられていて、最近は「伊能忠敬の日記」を読んでいると言われました。伊能忠敬は玉名にも立ち寄ったことがあるそうで、日記にあるというその部分の話を興味深く話して頂きました。まだまだ好学心旺盛なその姿勢には敬服するしかありません。

N先生は台湾で生まれ、戦後に日本に戻られました。一昨年は台湾で生まれた自分の故郷を奥様とご一緒に旅して来たと言われました。まだ昔の面影が残っていて「懐かしかったよー」と話されました。N先生の生まれが台湾であったということも、中学生時代には私たちが知らなかったことで、<昼食会>を続けてゆくうちに初めて聞いた話でした。

N先生は今年85歳になられます。「今の天皇陛下と同じ年齢だよ」と話されました。実は、この日の<N先生を囲む昼食会>を行った日は「元号」「平成」から「令和」に代わる三日前のことでした。ですから、N先生は「昭和」「平成」「令和」と三つの時代を見てこられたわけです。「令和」になっても、これからもいつまでもお元気で、一年に一度の<昼食会>に来て頂きたいと願っています。

● 島原への旅 ●

「能力開発センター・熊本本校」での説明会から一週間過ぎた頃、SC先生から 「島原に一泊二日で旅行に行きましょう!いい露天風呂があるホテルがありますよ。料理も豪華です。食べ放題、飲み放題です」という誘いを頂きました。

私自身、今まで「島原」は通過したことはあつても、泊まるのは初めてのことなので「いいですね、行きましょう!」と答えました。島原に行く日は、「十連休」が明けた「5月8日、9日」になりました。「十連休」中に行くと大変な混雑、交通渋滞が予想されましたので、その期間は避けました。私たちの他に、かつての同僚NHさんも参加すると聞きましたので、合計3人での<島原への旅>になります。

当日私は午後1時にJRで熊本駅着。この日は快晴でした。SC先生が熊本駅に迎えに来てくれました。その車に乗って「熊本港」に向かいました。1時20分に「熊本港」着。その10分後にNHさんも到着。NHさんについては【2017年6月号】の<坂本龍馬の手紙展>でも触れていますが、その時「熊本県立美術館」で開かれていた 「坂本龍馬の手紙展」に同行した友人です。現在は介護の仕事に就いています。

「熊本港」から島原まではフェリーで行きますが、島原行きのフェリーは2時50分なので、私たちは「熊本港」内の喫茶店で昼食を摂ることに。フェリーが出るまで しばらく時間があるのでそれぞれの近況を報告しました。SC先生についてはすでに聞いていたので、この時はNHさんの近況を聞きました。彼は笑いながら、次のような話をしてくれました。

「世間は“十連休だ!”と騒いでいましたが、介護の仕事に就いている人たちには十連休はありません。おじいさん、おばあさんを放り出して旅行に行くわけにもいかず、誰かが面倒を見ないといけないので、長期の休みを取ることは出来ません」

「でも、十連休は無理としても一応休みは与えないといけないので、その時は家族持ちで子どもさんがまだ小さい人から優先して休んでもらうことになります。自分のように60半ばを過ぎて、子どもが独り立ちしているおじさんは短い休みしかもらえませんでした」

そして、2時50分にフェリーは「熊本港」を出発。大きいフェリーでした。フェリーに乗る途中、奈良県から観光で来られていた70代ぐらいのご夫婦に会いました。「近畿ツーリスト」の団体旅行で来たと話されていました。私が「4年前に奈良を訪れました。奈良は“日本の庭”のようなキレイなところですね」と言いますと、「いや~、奈良は“日本の田舎”ですよ」と謙遜されていました。

すでに十連休は終わっていたのでお客も少なく、私たちは窓側の席に座りました。この日有明海は波も穏やかで、対岸にある普賢岳もくっきりと見えました。3時25分にフェリーは「島原港」着の予定です。ベトナムでもフェリーに乗ることはありますが、長時間乗ることは無いので、ゆっくりと海を眺めながら過ごすことが出来ました。

そして、予定通りにフェリーは「島原港」着。そこには我々が当日泊まるホテルから、マイクロバスが迎えに来てくれていました。我々を含めて、全員で11人が マイクロバスに同乗してホテルに向かいます。この日泊まるホテルの名前は「みかどホテル」

私自身はこの時までそのホテルを知りませんでしたが、熊本でも結構有名なホテルのようでした。後日、私の亡父の弟の、あの89歳の叔父さんご夫妻にその話をしたら「ああー、そのホテルなら知っとるばい。3回行って来た。食いきれんごつ食うてきたたい」と、熊本弁で話されました。

バスに乗ると、中年の運転手の方が饒舌で、車の運転とバスガイドを兼ねたような活躍をされて「雲仙普賢岳」が爆発した時の様子を、「普賢岳」を右手に見ながら説明されます。「右手に見えるあの麓の所まで火砕流が押し寄せて来ましたよ。あれが土石流が流れた水無川です。普賢岳は爆発後に130m高く なりましたよ」と、まるで見てきたかのように話されます。
「雲仙普賢岳」の 当時の爆発の様子については、インターネットでは次のような説明があります。

「雲仙普賢岳は、平成2年11月17日 198年ぶりに噴火、まもなく活動は低下したが、平成3年2月12日再び噴火が始まり、5月15日には水無川で最初の土石流が発生した。溶岩ドームは5月20に出現し、5月26日、6月3日には火砕流により死傷者、行方不明者が発生した。6月7日には島原市の一部、8日には深江町の一部で警戒区域が設定され、以降順次拡大された。
平成3年6月3日の大火砕流による死傷者の発生のほか、堆積した大量の火山灰により土石流の発生しやすい状態となっており、平成5年には水無川から溢れ出た土砂によって大きな被害を受けた。山体には約2億立方メートルの土砂が堆積しており、降雨の状況によっては現在も大規模な土石流発生の危険がある」

3時45分にバスは「みかどホテル」に到着。このホテルは11年前にオープンしたと運転手さんは話されました。ホテル内の石垣に使用されている大きな石の 数々は土石流で大量に流れ出た石を集めて構築したとのことで、その分、費用も安く済んだと言われました。

バスを降りて、ホテル正面の門の入口の前に立つと、その門に使われている柱の大きさには驚きました。さらに、その門には黒く焦げている箇所もありました。「これは火砕流で柱が焦げた跡です」とホテルの人が言われました。門をくぐってフロントに行く間にも、これまた驚くような大きい木材が柱として使われていたり、大木に「孔雀」や「虎」や「七福神」などの彫刻が施されているものもありました。

受付で鍵を受け取り、部屋に向かいますと、通路の廊下にも、これまた大木がズラリと並べてあります。その説明書きには
「樹齢1300年のムク」「樹齢1200年のケヤキ」「樹齢1000年の楠」「樹齢1200年のトカ松」・・・などと、あらゆる大木が数百年どころか、千年単位で表示してあり、見ている者を圧倒します。

部屋に入り、荷物を下ろしますと、室内のテレビがおいてある台の柱にも大きい 木の根が使われていました。どうやら、ここの経営者は大木が趣味のようです。部屋に荷物を入れて整理した後、私がカバンから2冊の小冊子を取り出して、SC先生とNHさん見せました。その小冊子のタイトルは「熊本大附属中学合格 作文集~喜びの声、決意の言葉、新しい出発へ~」

この2冊の小冊子は、今回私が日本に帰国して部屋の整理をしている時に見つけた ものでした。1993年版と1994年版の2冊がありました。この冊子には「熊本大附属中学」を受験した、当時小学6年生たちの作文が収められています。その生徒たち全員が、SC先生もNHさんも、そして私も知る生徒たちです。それで、(これを二人に見せたら喜んでくれるだろうなぁ~)と思い、今回の<島原への旅>に持ち込んだ次第です。

案の定、二人とも喜んでくれました。特に今も現役で仕事を続けているSC先生は「わぁー、懐かしい!この子も、この子も今でも覚えていますよ。この子は今熊本市内でお医者さんをしていますよ。この子は東京で弁護士をしていますよ」 と、今から26年も前の、当時小学6年生たちの近況まで良く知っていました。 その嬉しい笑顔を見て、私も嬉しくなりました。(持って来て良かった!)と 思いました。

6時から夕食とのことなので、それまで風呂に行くことに。三階に温泉の露天風呂がありました。露天風呂は高台になっていて、露天風呂からは有明海が見えました。やはり、露天風呂は気持ちがいいものでした。風呂の温度も熱すぎず、ぬる過ぎず、ちょうどいい加減でしたので20分ぐらい浸かっていました。

こうして、風呂に入るのも久しぶりのことでした。ベトナムでは湯舟にお湯を溜めて風呂に入ることはありません。そもそも湯舟自体がありません。毎日シャワーだけです。一年中暑い国に住んでいますので、むしろそのような浴び方が普通になり、私は日本に帰っても風呂にはあまり入りません。シャワーだけです。でも、ここの露天風呂ではゆっくりとくつろぐことが出来ました。

夕食は夕方6時からですが、ここの夕食がビュッフェ形式の食べ放題、飲み 放題のバイキング料理なのでした。その食堂の広さにも驚きましたが、メニューの豊富さには目を見張りました。「握り寿司」「刺身」「焼肉」「タラバガニ」などが大量に並べられています。「握り寿司」にはウニやイクラなどもあります。デザートにはスイーツやアイスクリームやケーキなどもあります。

一つの種類のメニューがなくなると、すぐにまた補充されて、人気のメニューが無くなって食べられないということはありません。食べ盛りの若者たちには喜ばれるでしょう。余りに種類が多すぎて、何から手を付けていいのか迷いましたが、SC先生は数回来ているので、特に何が美味しいのか良く知っています。それで、彼に任せました。

さらには飲み物も多くの種類が用意されています。ビール、焼酎、ワイン、ウイスキー、日本酒、梅酒、ジュース、コーヒー、コーラ、スープ・・・などなど。とにかく、大人から子どもまで対応出来るメニューが全部あります。(こんなに食べ物、飲み物を提供して儲けがあるのだろうか・・・)と思うほどです。

しかし、いくら食べ放題、飲み放題と言っても限度があります。あまり食べ過ぎない、飲み過ぎないように心掛けて、ゆっくりと時間をかけて食べて、飲んで、そこを後にしました。

食事の後、7時40分からホテル内にある「みかど劇場」で劇が上演されました。ホテルに泊まっている人たちは無料です。演ずるのは「劇団 三桝屋」。この劇の間、カメラやビデオの撮影は禁止と放送がありました。人情物の「時代劇」で、笑いあり、涙ありの一時間でした。劇の終わりには大きな拍手をお客さんたちが贈っていました。

それが終わり、また私たちは露天風呂に行くことにしました。島原の夜景が下のほうに見えます。夜風に吹かれながら浴びる露天風呂は大変気持ちがいいものでした。ここから見る夜景もしばらく見納めです。部屋に戻り、しばらくすると、SC先生とNHさんの寝息が聞こえるうちに私も深い眠りに入りました。

翌日は「雨の島原」になりました。肌寒いほどです。しかし、しばらくはあの露天風呂も味わえないだろうなと思い、また露天風呂に入りに行きました。露天風呂が見えるドアを開けて外に出ると、やはり寒いぐらいです。風呂の中に入ると温まってきました。露天風呂から見る有明海は雨で曇っていて良く見えません。

朝食もバイキング形式でした。和食、洋食など、さまざまな種類が用意されていました。私は昨晩が普段よりも多く食べたので、朝は軽く済ませました。食事を終えて、お膳を片付けに来た若い女性の名札を見ると「徐」と書いてありました。「中国の方ですか?」と尋ねますと「いいえ、台湾です」と日本語で答えました。

「みかどホテル」を出たのは朝9時半です。ホテルのスタッフの方が丁寧なお辞儀をして見送ってくれました。そして、10時15分「島原港」発のフェリーに乗り、10時55分に「熊本港」着。SC先生とはここで別れました。

島原での楽しい一夜を提供して頂いたSC先生に感謝です。かつての同僚と、昔教えた生徒たちとの思い出話にも花が咲いた、思い出に残る<島原への旅>になりました。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月は春さんが日本に一時帰国中のためお休みです ■

↑このページのTOPへ