アオザイ通信
【2009年5月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<マイケルさんと日本の友人たち>

以前私が紹介した「熊本弁を話すオーストラリア人」のマイケル・ラッタさんとの出会いから約二年が経ちましたが、あの時ベトナムで彼とは二回だけ会ったきりで、その後数日してから私は日本に一時帰国しました。

日本にいた時の間も、私はマイケルさんの不思議な魅力が忘れられませんでした。それで日本での滞在を終えてベトナムに戻った後に、私はマイケルさんにまた会いたいと思い、すぐ彼に電話をしました。

私がマイケルさんに「今どこにいますか。」と聞きますと、「今オーストラリアにいます。」と彼は答えました。私はマイケルさんと別れたあの後、彼はてっきりベトナムで仕事に就いているものと思っていましたので少し驚きました。

それでマイケルさんからいろいろ事情を聞きましたら、ベトナムで私と会った時点では、彼はベトナムで英会話学校の先生としての仕事が決まりかけていたようでしたが、学校側が彼に提示した勤務の条件が、彼の希望するものと差があり過ぎたので最終的にお断りしたという話でした。

学校側が彼に提示した条件は何と、「一週間休みなく授業して欲しい。」ということでした。彼がベトナムで考えていた生活設計は、出来得れば週二日、最低でも週のうち一日は休みを取って、ベトナム国内をいろいろ旅したり、自分の趣味の時間を持ちたいという考えのようでした。

しかしそれが不可能となって、「日本と同じようにベトナムも好きになれそうな国だったのですが、残念ながら故国に帰ることにしました。」という、電話の向こうからのマイケルさんの返事でした。

それを聞いた時に私も、(もうベトナムでマイケルさんに会うことは出来ないのか・・・)と思った次第でした。それからマイケルさんとは電話やメールでのやりとりはしていましたが、それ以上の進展はありませんでした。

そして私は彼と出会った後、マイケルさんという人間に大変興味を持ち、いろいろ彼のことを調べてみましたら、サイゴン市内の喫茶店であの時出会ったマイケルさんという人間は、ただ熊本弁を流暢に話すというだけではなく、実は大変な才能の人物だということを初めて知りました。それだけにサイゴンで彼に会うことが出来ないのが残念で、残念で仕方ありませんでした。

しかしそれから二年後、この春に私が日本に帰り、故郷・熊本に滞在していた時に、幸運にもマイケルさんを知る三人の日本人と出会ったのでした。そして当然ながらというべきか、三人とも全員が熊本出身でした。

三人のうちの一人は女性で、今は東京に在住されている Iさん。彼女は以前私が書いたマイケルさんとの偶然の出会いの文をたまたま目にされて、青春時代に出会ったマイケルさんのことを、こころから懐かしく回想されたメールを私に送って来られました。

彼女が初めてマイケルさんと出会ったのは 20 代初期の頃だそうで、その当時マイケルさんは YMCA の英語の先生で、彼女はその生徒でした。そして授業が終わると、友人関係のような付き合いになり、クラスのみんなで一緒に食事に行ったり、飲みに行ったり、時にはディスコにも出かけたこともあるということでした。

「マイケルとはケンカする時にも、お互いに熊本弁でやり合っていたんですよー。私が結婚して東京へ行くことになり、私が乗っていた車を売らなければならなくなった時、マイケルは快く買ってくれたんです。」と、 I さんはマイケルさんとの遠い昔の貴重な思い出を、熱い思いを込めて述べられました。

そして三人のうちのもう一人は、実は私のいとこに当たる人物で U さん。彼は最近になって、私がベトナムでマイケルさんと会っていたことを知ったのでした。そのU さんがマイケルさんと知り合ったのは、今から約 16 年前のことでした。

彼は当時青年会議所の責任者で、毎年の講演会の人選に頭を悩ませていた時に、ある知人から「外国人で熊本弁を流暢に話す者がいるぞ。」と聞き(それは面白い!)と思い、それでマイケルさんに直接講演会の依頼をして、私の市の市民会館で講演会を開いたのでした。

当日の講演会のテーマは、「外国人から見た熊本弁」という内容でした。その時の講演会の視聴者は何と約 8 百人の盛況だったようで、その夜は U さんやスタッフの人たちとマイケルさんは一緒に食事もし、温泉にも入ったということでした。

その U さんがたまたま私の家を訪ねて来られた折に、マイケルさんの話に私たちが及んだ時、私が「今からオーストラリアにいるマイケルさんに電話しましょうか。」ということになり、まず私が先にその場からマイケルさんに電話を掛けて、次に U さんに代わりました。彼も突然の日本からの電話に驚いた様子でしたが、私たちは懐かしくいろんな話を 20 分近くもしてしまいました。

そして彼は電話の終わりに私に、「あなたの市の隣町に Hさんという私の親友がいます。彼は今レストランのオーナー・シェフなのですが、日本にいた時の私の大の親友なので是非一度みなさんで訪ねて下さい。」と言って、 H さんの電話番号を教えてくれました。

さらにその電話から約二週間後、たまたま今回私が熊本にいる時に、東京から I さんが所要のため故郷・熊本に帰られることになったのでした。それを事前に私も聞いていましたので、お互いの都合の良い日を決めて、いとこのUさんにも、「お昼過ぎに三人で、 H さんのレストランに行きましょうか。」と誘い、彼も同意してくれました。 H さんのレストランは、私の実家から車で 15 分ほどの距離の近さにありました。

花や木に囲まれた赤いレンガ造りの瀟洒なレストランに、私たち三人は一時前に着きました。看板には「欧風レストラン」と書かれていました。そして中に入って驚きました。

明るい色調の部屋やテーブルの造りはそれだけでも見事でしたが、この時にはすでにテーブルはお客さんで埋まり、満席なのでした。しかし前日に U さんが今日の訪問の事をH さんに伝えていましたので、私たちは別室の予約席に通されました。

ちょうどランチタイムの時間でもあり、シェフの H さんは大変忙しい様子で、この時すぐには会えませんでした。それで私たちもゆっくりとここの料理を食べながら、 H さんの仕事が終わるまで待つことにしました。

店員さんが持参したメニューを開きますと、 H さんの経歴が簡単に紹介されていました。それを見ますと、 H さんはフランスに料理の研究で留学し、その後京都や熊本市内の有名ホテルなどでの修行を積んだ後、このレストランを 2年前に開業したということでした。

そのメニューの中には様々な種類の料理がありましたが、私たちが食べた料理は、前菜のサラダにマグロの刺身なども使い、和の味も取り入れた創作料理ともいうべき“欧風レストラン”のメニューで、まことに美味しいものでした。

私たちが食べたランチタイムの料理だけでも、サラダやスープ、メインディッシュのスズキ料理、そしてデザートにいたるまで、一品一品が実に手が込んでいて、 I さんも感心していました。

この日私たち三人は、マイケルさんの親友であるHさんに会うという目的のために来たわけですが、そのHさんに会う前に、彼のレストランでこういう料理が堪能出来るとは思ってもみなかったので、大変感激しました。

そして H さんはランチタイムが一段落した2時半頃に、料理を作っている時の服装のままで厨房から出てこられて、私たちに挨拶されました。私たちはお互いの名刺交換の後に、それぞれがマイケルさんとの出会いを話しました。

Iさんはマイケルさんと過ごした英会話学校時代のこと。U さんは「熊本弁を話す」面白い外国人がいるということから、マイケルさんを講師で呼んだ時の経緯など。私はベトナムという外国で、マイケルさんと偶然にも会った時のことなどを話したのでした。

そして次にHさんがマイケルさんのことを語り始めてからは、一気に堰を切ったような勢いで、 30 年近くに亘るマイケルさんとの思い出の数々を滔々と私たちに話してくれました。私たち三人はずっと聞き役に回りました。Hさんはマイケルさんについて、様々なことを私たちに話してくれました。

今思い返しますと、最初に私がマイケルさんとベトナムで会った時に、彼が私に、「これからはお互いに熊本弁で話しましょう。」と言ったのは、ただ単に私が熊本県人であることへの親近感からだろうと私は思ったのでした。

しかしHさんの話によりますと、実は彼の熊本弁のレベルは少し片言の熊本弁を話すどころのレベルではなく、彼は熊本にいる間に実は熊本弁の研究をしていて、一冊の本まで書いていたとのことでした。言わば、筋金入りの「熊本弁を話す達人のオーストラリア人」なのでした。

そしてHさんはマイケルさんと一緒に海に出かけては、日本式の魚釣りを教えたりしたこと。さらにマイケルさん自身は、実は故国では水上スキーもプロ級の腕前で、水上を走る時には両足ではなく、一枚の板だけでも、裸足ででも楽々と海の上を滑り、熊本の海でもその腕前を披露して、その芸当を見た日本人たちを唖然として驚かせたという話。

彼がホームステイしていた○○町の家には、“○○の母”と慕う女性がいて、その方が亡くなられた時のマイケルさんの深い悲しみ。熊本の名士<ばってん荒川さん>と組んで活動していた漫才の話。熊本のラジオやテレビに出演した頃のこと。細川元首相の通訳をしていた時のことなど。

正月などは、Hさんの家にマイケルさんの外国人の友人などを呼んで、新年会を毎年のように開いていたこと。 Hさんがマイケルさんの母国・オーストラリアを訪問した時のエピソード等々、話は尽きることがありませんでした。

Hさんはマイケルさんについて「家族ぐるみの付き合い」という言い方を、話の中で何回もされましたが、Hさんがマイケルさんについて話す時の感じは、まさしく家族の一員のように、また大の親友でもあるマイケルさんのことを強く、深い友情を今でもずっと抱いている話し方でした。

マイケルさんは 20 代初期から 30 代後半までを熊本で過ごしましたが、ここHさんのレストランに集まった人たち以外にも、数多くの友人を作っている様子が実によく分かりました。そして彼の多彩な才能についても、私はHさんの話を聞きながら改めて、(やはりすごい人だったんだなー)と実感しました。

そして年齢的には、Hさんはマイケルさんよりも四つほど年長になりますが、マイケルさんは「日本の兄貴」と、今も遠いオーストラリアから慕っていることでしょう。

マイケルさんとの青春時代の付き合いを次々と語る H さんは、ディナータイムの準備前までの二時間近くを、熱情を込めてマイケルさんの思い出の数々を私たちに語ってくれました。

そして私自身は、ベトナムで出会ったマイケルさんという一人の外国人の縁で、ここで今こうしてマイケルさんを知る四人が一同に会していること自体に、本当に不思議な思いがしました。

まだまだ H さんは話し足りないようでしたが、忙しい厨房から抜け出してわざわざ私たちのために時間を割いて、マイケルさんのことを話して頂いたのは痛いほど分かりました。

私たちは H さんに、「またいつか今度は、マイケルさんを交えた五人でこのレストランで再会したいものですね。」と残り惜しい別れを告げて、レストランを後にしました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月は春さんが日本に一時帰国中のためお休みです ■

 



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