春さんのひとりごと

サイゴンで「七夕祭り」を祝う

今年7月6日(土)に、私が日本語を教えている学校で、恒例の「七夕祭り」を祝いました。「七夕祭り」を祝う主体はベトナム人の生徒たちです。この行事は学校の中でもだんだんと定着してきました。今年で5年以上になります。

しかし、実は私自身が日本にいた時、子ども時代、青春時代に、短冊に願い事を書き、「たなばたさま」の歌を唄い、「七夕祭り」を祝っていただろうか・・・と振り返りますと、そういう記憶がありません。それが、今ベトナムにいて、この地でベトナムの生徒たちと一緒に願い事を書き、「たなばたさま」の歌を唄っているのですから面白いものです。

「七夕祭り」については、広辞苑には次のような説明が載っています。

『五節句の一つ。天の川の両脇にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという、七月七日の夜、星を祭る年中行事。中国由来の乞巧奠(きこうでん)の風習と日本の神を待つ「たなばたつめ」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつけ、書道や裁縫の上達を祈る。』◇広辞苑(岩波書店)◇

元々は中国から来た風習なのでしょうが、それを日本流にアレンジして、子どもたちでも参加出来るように親しみやすい形になってきたのでしょう。『広辞苑』に書いてあるように、起源が奈良時代から始まるとすれば、実に長い歴史のある祭りだと言えます。

この広辞苑の中に出ている「天の川」に関しては、私自身の体験の中で忘れられない思い出があります。
今から20数年前に我が社・「ティエラの海外合宿」のコースの一つに【モンゴル合宿】がありました。その時に私が生徒の引率でモンゴルに行きました。私にとってそのモンゴルへ行ったのは初めてであり、その後もまだ行ったことはありません。

モンゴルに行った時の季節は8月でした。日本から「モンゴルの首都・ウランバートル」へ行き、そこからさらに2時間ほどバスで移動して、「ゲル」と呼ばれる「モンゴル遊牧民の移動式住居」に泊まりました。そこはまさしく大草原の中にありました。

首都のウランバートル自体が標高約1,300mの場所にありますが、そこも同じぐらいの標高の高原地帯でした。周りには何も無い高原地帯ですので、空気は澄んでいます。しかし、昼間は涼しいのですが、朝・夕は大変寒くて、ゲルの中でストーブを焚いていました。ストーブを焚いているゲルの中は全然寒さを感じませんでした。

そして、モンゴル到着の初日の夜、ゲルを出て見上げた空には無数の星がきらめいていました。その無数の星がまるで大きな川の流れのような形をして、蛇行しながら輝いていたのでした。その時初めて、「天の川」の意味する言葉が実感として良く分かりました。(まさしく、天を流れる星の川のようだな・・・)と。

熊本にある我が家は田舎にあり、周りを森が取り囲み、その山には多くの樹木が茂っています。 ですから、空気は澄んでいます。夜になりますと星がまたたいていますが、パラパラと点在して見えるだけです。あのモンゴルで見たような「天の川」を見ることはありません。 ちなみに、ベトナム語で「天の川」はNgan Ha (ガン ハー)と言います。
この言葉は「漢越語」から来ていますので、 Ngan = 銀、Ha= 河を意味します。まさしく「銀河」です。

実は、ベトナムには「七夕祭り」に当たるものはありません。「たなばたさま」の歌もありません。ベトナムは日本と同じように昔から中国文化の影響を強く受けてきましたが、この風習は入らなかったか、「祭り」としては定着しなかったようです。

それで、「七夕祭り」を祝うためには、「七夕祭り」の意味や背景を知らない彼等ベトナム人の若者たちに「その祭りの意味」、「たなばたさまの歌」、「短冊の書き方」、「折鶴の折り方」などを丁寧に教えないといけません。その日本風の「七夕祭り」を私たち日本人の教師たちが今、ベトナムの若者たちに教えているのも感慨深いものがあります。

それで、「七夕祭り」を祝うためには、「七夕祭り」の意味や背景を知らない彼等ベトナム人の若者たちに 「その祭りの意味」、「たなばたさまの歌」、「短冊の書き方」、「折鶴の折り方」などを 丁寧に教えないといけません。その日本風の「七夕祭り」を私たち日本人の教師たちが今、ベトナムの若者たちに教えているのも感慨深いものがあります。

それを先頭に立って指導されてきたのが、日本人女性のHM先生でした。HM先生については【2016年12月号】の<ニャー・チャーンへの旅>でも触れています。HM先生は日本語だけを教えて終わりではありません。 日本式の「ラジオ体操第一」も教えておられます。今年75歳を超えられたばかりですが、その元気の良さにはいつも感心しています。

その「ラジオ体操第一」も朝だけやって終わりではなく、一日四コマある各授業の終了時に、自身が校庭内の舞台上に立ち、大きな掛け声で元気良く指導されているのです。それを後ろから見ていていまして、私自身頭が下がります。そのほか、生徒たちには日本語以外にも、「茶道」や「日本の歌」「盆踊り」までも教えておられます。

そのHM先生が着任されてから「七夕祭り」もいろいろな工夫がなされて、男性の先生しかいなかった時と比べて、その流れや形が充実してきました。特に、折り紙などは女性特有の細やかな指導が生徒たちにも理解しやすく、彼等も生き生きとして取り組んでくれます。

「七夕祭り」で有名なものとして、「仙台の七夕祭り」がありますが、そこで作成されている、“7つ飾り"と呼ばれる、7種類の飾りも参考にされたようです。"7つ飾り"は以下のようなもので構成されています。

 






短冊
紙衣
折鶴
巾着
投網
くずかご
吹き流し






学問や書の上達を願う。
病や災いの身代わり、または、裁縫の上達を願う。
長寿を願う。
富貴と貯蓄、商売繁盛を願う。
豊漁を願う。
飾り付けを作るとき出た裁ち屑・紙屑を入れる。清潔と倹約を願う。
織姫の織り糸を象徴する。

この中で、ベトナムの生徒たちが作成し易いものを選んで、毎日指導されました。色紙や糸などはAEON スーパーで購入されました。「たなばたさま」の歌も二週間ほど前から各クラスの中で授業が終わる10分間ぐらいを割いて生徒たちに教え、教室内で唄いました。私も同じように生徒たちにその歌を指導しました。「たなばたさま」の歌は毎年生徒たちに教えています。

 
 
ささの葉 さらさら のきばに ゆれる
お星さま きらきら きんぎん すなご

 
 
ごしきの たんざく わたしが かいた
お星さま きらきら そらから みてる

私はこの「たなばたさま」の歌は昔からあるものだと思い込んでいましたが、実はさほど古い歌ではなくて、1941年に作詞・作曲され、 文部省発行の「うたのほん」に載せられたものなのでした。それを今年初めて知りました。昔から知っていること、聞いていることでも、いろいろ調べてみると、新しい発見があります。

この歌詞自体は短いので覚えるのは簡単ですが、音の高低が小さいので、何回も練習しないと、上手く唄えるようにはなりません。この歌も二週間ほど前から練習しました。振り返ると、この歌も日本でこうして毎年のように唄った記憶がありません。それが、このベトナムの「七夕祭り」では、生徒たちと一緒に何回も唄っているのですから不思議なものです。

生徒たちが一年に一度のこの「七夕祭り」に取り組んでいる姿を見ていますが、「たなばたさま」の歌や、「短冊」「折鶴」「吹き流し」などの作成などにも生き生きとして取り組んでいます。彼等は「完全寮生活」の中で毎日暮らしていますので、一日中勉強漬けの生活です。寮内では飲酒も禁止です。一息つけるのは田舎に帰った時ぐらいです。それで、毎日の勉強以外にこうした活動があると、楽しく感じてくれるようです。

HM先生は「短冊」の書き方も具体的に例を挙げて教えておられました。
「願望」を表す表現として「○○○ように」という書き方の例では、次のような指導をされていました。

 





「家族の健康を願う」
「早く日本へ行きたい」
「日本語を上手に話したい」
「恋人が欲しい」
「お金がたくさん欲しい」
「お母さんの病気がなおってほしい」





「家族が健康でありますように」
「早く日本へ行けますように」
「日本語が上手になりますように」
「すてきな恋人ができますように」
「お金がたまりますように」
「母の病気が早くなおりますように」

そして、「七夕祭り」の3日前ぐらいから、学校の中はバタバタと忙しくなりました。先ずは、「ささのは さらさら」を唄う時の、「笹の葉」の準備です。これは直ぐに用意出来ました。学校の隣には真竹がたくさん生えています。その真竹に笹の葉が付いているものを三本だけ頂いて、この日の準備のために備えました。早く切り過ぎると笹の葉がしおれてしまうので、このイベントを行う2日前に切りました。

今回の「七夕祭り」の準備を生徒たちが進めていた時、教室の中を覗くと、一日・一日ごとに「折鶴」の数が増え、「吹き流し」が美しく出来上がっていました。それまで、休憩時間になるとスマホをいじるのに夢中になっていた生徒たちが、この期間は「七夕祭り」の準備に熱中していたのでした。それが微笑ましかったです。

生徒たちは「七夕祭り」の前に手描きの絵も作成してくれていました。その中の一人の生徒 が「手描きの絵に添える詩をみんなに紹介したいので、教えてください!」というので、インターネットで探してみたらありました。難しい漢字にはひらがなを付けてその生徒に教えました。以下のような詩です。

<織姫(おりひめ)・彦星(ひこぼし)の物語(ものがたり)>

遥(はる)かにみる 彦星(ひこぼし)
美(うつく)しく 輝(かがや)く 織姫星(おりひめぼし)

細(ほそ)く 白(しろ)い 手(て)を 伸(の)ばし
カシャンカシャンと 機(はた)を 織(お)る

終日(しゅうじつ)織(お)っても一枚((いちまい)の
布(ぬの)さえできず

雨(あめ)のように涙(なみだ)がつたう

天(あま)の川(がわ)は清(きよ)らかで浅(あさ)く

両岸(りょうぎし)はそれほど離(はな)れている
わけでもないが

川(かわ)の流(なが)れを間(あいだ)にして
言葉(ことば)もなく

想(おも)いをこめて見(み)つめ合(あ)う

そして迎えた「七夕祭り」の当日。今年の7月7日は日曜日なので、一日早めて7月6日の土曜日に行いました。朝7時半に校庭に生徒たちが全員集合。HM先生が生徒たち全員を前にして「七夕祭り」の意味を説明されます。

【日本では毎年7月7日に「七夕祭り」が各地で行われています。一年後の7月7日には、日本でみなさんも「七夕祭り」に参加しているかもしれませんね】という話をされました。 そして最後に、【みなさんが日本で頑張っている姿を空からお星さまが見ていますよ!】と締めくくられました。

それから、「七夕祭り」の絵を描いた生徒たちが舞台に立ち、自分たちが描いた絵で「七夕」の意味をベトナム語で説明してくれました。全部で6枚の絵が描いてあり、1枚ずつ「七夕」の由来とその意味がベトナム語で書いてありました。ベトナム人の生徒がベトナム語で紹介していましたので、それを聞いていた生徒たちも肯いていました。

その後、全員で「たなばたさま」の歌を合唱。二週間練習してきましたので、ずいぶん歌が上手になっています。 目を閉じて聴いていれば、まるで日本人が唄っているような感じがしました。この日はたまたま外部から来たベトナム人のお客さんたちもいて、彼等も興味津々という表情で聴き入っていました。

それから、いよいよ生徒たち一人・一人が自分で作成した「短冊」を笹の葉に結び付けます。しかし、何せ人数が多いので一度には無理です。クラスごとに呼び出して、一つのクラスが終われば、また次のクラスの生徒たちが横に倒してある真竹に走って行きます。呼び出されると、「ウワァ~~!!」と歓声を上げて走り出します。嬉々としていました。たかが「七夕祭り」なのですが、されど「七夕祭り」なのでした。

全クラス、全員の生徒たちに交じり、そのクラスの担任の先生たちも一緒に笹の葉に「短冊」を付けます。私も付けました。ある生徒たちはその「短冊」を小さいビニールの袋で包んだり、透明のガムテープを裏表に貼り付けて、雨に濡れないように工夫しています。この時期は雨が多い雨季なので、少しでも雨に濡れたら紙で出来た「短冊」はすぐに破れてしまいます。彼等もよく考えています。

それが終わると、男子の生徒たち十数人に集まってもらい、校庭に事前に掘っていた穴に真竹を入れて立てました。穴に入れた真竹はそれだけでは雨風に遭うと倒れてしまうので、1mほどの竹を3本ほどその真竹の周りに添えて上から打ち込んで、真竹を固定させます。

笹が付いた枝に「短冊」や「吹流し」で美しく飾られた竹が3本見事に上がると、全員の生徒たちから歓声が上がりました。そして次は、クラスの「記念写真」の撮影です。これも一クラスずつ分かれて写真を撮ります。普通に撮った写真とポーズを決めた写真の二枚をクラスごとに撮ります。そのクラスの担任の先生にも入ってもらいます。その後は、各クラスの生徒たちが校庭に集まり、みんなでいろんなポーズを決めて写真を撮っていました。

朝7時半から始まった今年の「七夕祭り」は8時40分頃に終わりました。生徒たちが書いてくれた「短冊」は笹の葉に揺られながらしばらくは校庭の中にずっと飾られています。ベトナムでの「七夕祭り」に参加し、自分の「願い」を書いてくれた彼等もしばらくしたら日本に行きます。ここで書いた「願い」が叶うことを期待して、今年の「七夕祭り」は終わりました。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

「日本の精神を持っている」と評価されるベトナム人実習生

日本企業から見るとベトナム人実習生は、「学習意欲、向上心があり、勤勉」という、今や日本の若者には多く見られなくなった特性を持っていることが、高く評価されている。

☆ベトナム人労働者は日本企業の財産☆

現在、滋賀県の滋賀協同組合JCLの採用スタッフとして働く、日本在住が10年以上になるHoa Phuongさんは、同組合が毎年、地域のコールドスタンピング・金型・機械分野の各企業のために、最低でも90人のベトナム人労働者を受け入れていると言う。

Phuongさんは、「ベトナム人実習生は通常、日本企業が納得する勤勉性、真面目さ、給与のため、他の国からの実習生よりも優遇されます」と話す。

新潟県に本社を置く石倉製麺所の石倉悟社長によると、同社は現在、主にベトナム・タイ・フィリピン・中国から200人の外国人スタッフを抱えており、ベトナムからの実習生29人、留学生アルバイト48人が同社で働いている。

外国人を採用して20年になる石倉氏は、「習得が難しい言語である日本語での実習生の学習態度を見るだけで、ベトナム人の良い点は十分に感じられます。当初は言葉が障害となりましたが、彼らは非常に辛抱強くコミュニケーションを取り、学び、年に2回実施されている日本語実用試験を受けたりするため、言葉の壁はあっという間になくなりました」と話す。

建設・設計を専門とし長年ベトナムの技術者と共に働いてきた、Okamura Sanyo Property社ベトナム支店長のTojo氏は、「日本の地元の若い従業員が勤勉さや、会社への忠誠心を失いつつある中、こうした貴重な要素をベトナム人実習生に見ることができます。専門性の面では、ベトナム人実習生は新卒の日本人技術者に引けを取りません」とベトナム人実習生を選ぶ理由を説明する。

長年に渡り日本に派遣する実習生を紹介してきた、ホーチミン市にあるEsuhai社のLe Long Son社長は、日本人はベトナム人実習生の採用にとても慎重だと話す。

社長は、「たった1人の実習生を採用するために、会社の社長や指導者が自ら採用面接のためにベトナムまで渡航することもあります。彼らは会社のスタッフを採用する際、新しい労働者こそ企業の財産であると考えるため、このスタッフの契約期間中の仕事と育成のロードマップを持っています」と話す。

☆ベトナム人を優先して雇用する日本企業☆

石倉氏は、「最近のベトナム人実習生を見て、私は数十年前の自分の姿を感じました。熱心で、わき目もふらず、勤勉なため、私たちはとても敬愛していて、彼らが会社の中で重要な地位につけるよう、喜んで投資・教育を行います」と語る。

石倉氏によると、当初は日本人が常に隣で時間を共有し、指導しなければならなかったが、ベトナム人研修生は伝えられた意図をすぐに完全に習得し、重要な地位にいる日本人の同僚に取って代わったという。

現在の規定では、日本企業は国籍に関係なく、全ての従業員に各地域の最低料金を支払うことが決められている。しかし実際のところ企業は、実習生の生活を守るために家賃、生活用具やその他のコストなど多くの費用を支払わなければならない。

Tojo氏は、「日本人労働者を雇うには、非常に多くの費用を支払わなければなりませんが、ベトナム人を雇うためのコストはその半分程度にしかなりません」と話す。

日本の岡村ホームで3年間実習生として働いた経験のあるTran Van Dungさんは、「私が以前働いていた会社の日本人は、ベトナム人が仕事で一生懸命努力すると、かなり高く評価していました。そのため日本企業でのベトナム人スタッフの採用数はどんどん増えていきました」と言う。

☆ベトナム人から見たベトナム人実習生☆

Phuongさんは、「ベトナム人実習生はとてもプライドが高く、人に譲ることは無く、自分自身の部屋はかなりきれいですが、寮での公共スペースをきれいに保つ方法を知りません」と話し、「ベトナム人実習生が仲違いをしたら、2度とお互いに協力をしたり、サポートしたりはしません」と加えた。

例えば、日本の南部のある県で実習期間を終えたDong Nai省出身の実習生によると、乗り越えるために長い時間を要したのは、日本の気候でも言語の不一致でもなく、同郷の実習生たちの嫉妬や不和、お互いの悪口だったと言い、「私が残業することを選ぶと寮の仲間は、私がずる賢く、日本人にお世辞を使う人間だと考えました」と打ち明けた。

中国からの労働者は、もともと漢字を使っているため、日本語の習得に有利だが、Phuongさんによると、中国人労働者の給与が上がっているため、日本企業はベトナム人労働者ほど、中国人労働者を好まなくなったという。

☆ベトナム人のイメージを落とすベトナム人☆

愛知県一宮市で実習生として働いたことのあるThu Haさんは、「実際、ベトナム人のイメージは、日本に限らず世界から見てもあまりよくありません。それを責めるつもりはありません。なぜなら本当に一部のベトナム人は公共のスペースをきれいに保ちませんし、公の場所や職場をわきまえた振る舞いが出来ていません。でも、それはごく一部の人です。そのせいでベトナム人全体のイメージが悪くなってしまっています」と話す。

また、「日本にいる殆どのベトナム人は良い人達で、自尊心と自国のイメージを守る意識を持っています。多くの不正な行為は、仲介会社の準備不足と理解の欠如から来ていることを理解して欲しいです。一方、日本人はどれが自分のもので、どこからが共通のものかを非常に明確な意識していますが、これはベトナム人の多くが本当には理解していないことです。公の物であるならば、例えそれが道端に生えている果物であっても、盗ってはいけないのですが…」と打ち明けた。

<HOTNAM>

◆ 解説 ◆

私自身もこのベトナムで、日本で働く予定の<実習生>たちに実際に日本語を教えていますので、(彼等が日本に行ってからの評判はどうなのだろうか・・・)については気になるところです。

しかし、私自身が日本の会社に連絡して、「ベトナムの実習生たちの働きぶりはどうですか」と訊くことはありません。毎年日本に帰国した時に、連絡が取れた幾つかの会社を訪ねたことはありました。そこの会社の方々が言われるには「大変真面目に働いていますよ!」と言う評価がほとんどでした。悪い評判は聞きませんでした。

でも、私が訪問したのは、日本で多くの実習生たちが働いている会社の中の幾つかでしかないので、その他の多くの会社での評判がどうなのかについては知る由もありません。平均すれば大体6ヶ月間ぐらい異国の言葉である日本語を学んで日本に行きますので、毎日の仕事や生活の中で言葉上のトラブルも当然あるだろうな・・・とは想像しています。

普段そういう思いを持っていた時、この記事を読みました。ベトナムに行った教え子たちの様子と重ね合わせて読みましたが、大変深く掘り下げているなぁ~~と感心しました。そして、最近私が再会した昔の教え子たちの姿とも重なりました。

彼等は一度日本で実習生として3年間働いて、ベトナムに戻った後、私と再会した時「また日本に働きに行くことになりました!」と言う話をしてくれたのでした。 そういう生徒たちがこの半年間でも数人いたのです。昨年の【2018年3月号】の<教え子との再会、同僚の先生との別れ>でも触れたVu(ブー)くんの場合がそうでした。

彼等のような存在は、日本側の会社が日本での働きぶりについて良い評価をしてくれた証しであると言えます。普通なら3年で終わり、 故郷に戻るところを、さらに2年延長して日本で働いてくれるように日本の会社側からお願いされたのです。

私は自分が日本語を教えるクラスに最初に入る時、『わたしたちの目標』という模造紙を作成し、クラス全員の生徒たちに一人・一人の【目標】を立てさせます。その内容を見ると<家族を助けたい!> <日本人の仕事の仕方を学びたい!>などがありますが、一番多いのは<日本でお金を稼ぎたい!>という【目標】です。そういういろいろな【目標】を抱いて日本に向かう彼等たちなのです。

そういう彼等の存在は、結果として人手不足の今の日本の現状を補ってくれていると思います。しかし、彼等を受け容れる日本の会社の中には彼等を低賃金で働かせる目的で雇う会社が無きにしもあらずということも聞いています。それだけに、彼等を採用して頂く日本の会社の方々には、彼等に働き甲斐のある職場を提供して頂きたいと望む次第です。

日本に行く前に、彼等は<家族を助けたい!><日本人の仕事の仕方を学びたい!><日本でお金を稼ぎたい!>というさまざまな【目標】を抱いています。そして、青春時代の3年間を日本で働き、さらにまた延長して2年間頑張ってくれている彼等がその任期を無事に務め上げて母国に帰ってきます。

時にそういう彼等と会うことがありますが、彼等が抱いたいろいろな【目標】の達成も含めて、私が一番嬉しいのは「日本に行って本当に良かったです!」という言葉に尽きます。

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