春さんのひとりごと
ベトナム北部への旅・中編
ベトナム北部を直撃した「台風3号」でしたが、今回の「社員旅行」の期間中はずっとその台風の影響を受けました。 「台風」のような自然現象には人間の力では勝てませんので、それも致し方ありません。8月・9月はベトナム北部に台風の襲来が多いことをつくづくと感じさせられた、今回の「社員旅行」になりました。
● 北部への旅二日目:ハロン湾クルーズ中止 ●
<ベトナム北部への旅>の二日目に<ハロン湾クルーズ>が組まれていました。 それが、今回の参加者たちには大きな魅力でした。 「台風3号」の影響でその<ハロン湾観光>を「実施する」か「中止する」かは、この日の朝食時に添乗員が皆に伝えることになっていました。
そして、その朝食の場で添乗員が発表しました。結果は「台風が来ている状況で船に乗ると危険なので中止します!」となりました。皆ある程度予想はしていましたが、「ええーっ!」と言う声が上がりました。私の近くにいた女性の先生は「せっかくここまで来たのに・・・」と落胆していました。 その言葉が、参加者全員の声を代弁していたと思います。
「海の桂林」とも呼ばれ、<世界遺産>にも指定されているその「ハロン湾」を、私は以前3回ほど訪れています。 「ハロン湾クルーズ」も「船上でのランチ」も「島巡り」も「島内の鍾乳洞見物」も体験しています。それだけに、その魅力を知っていますので、女房と娘にも是非それを味わってもらいたかったのですが、「ハロン湾観光中止」と決まり、それが無理になりました。
「それで、この後どうするの?」と皆が添乗員に訊いています。添乗員が言うには「今から<Quang Ninh (クアン ニン)博物館>に行きます」との答えでした。旅行会社は予定していたコースが今回の 「台風襲来」のような事態が起きた時、事前に代替案を考えているのでしょうが、「ハロン湾観光」の代替案が「Quang Ninh博物館」見学になりました。私自身はその博物館の名前を今回初めて聞きました。
9時にホテルを出てしばらくして、その博物館に向かう途中、バスの窓から見える道路の右側に、「ハロン湾」の中に浮かぶ、「海の桂林」とも呼ぶべき、 あの奇岩の島々が見えてきました。それが一つや二つではないのです。バスが走る右側の窓越しに次々と現れてきました。それを初めて見た人たちが多いので、「ワーー!!」と車内で歓声を上げています。
今回の社員旅行でも家族連れで参加していたL専務が添乗員に向かい、「どこか適当な所でバスを停めて、あの景色を皆に見せてあげてくれませんか」とお願いしました。すると、添乗員は「分かりました。もう少し行った所でバスを停めますので、皆さんはそこであの島の景色を眼の前でゆっくり見ることが出来ますよ」と言うのでした。
すると、添乗員が言った通り、すぐにバスは広い駐車場の中に停まりました。ホテルを出てから15分ほどでした。そこが「Quang Ninh博物館」なのでした。バスを途中で停める必要もなく「Quang Ninh博物館」に到着しました。すぐ眼の前には「ハロン湾」が見え、海の中に多くの島々が点在しています。実にキレイです。 (台風さえ来なければ、晴天の中クルーズ船に乗って、これらの島巡りが出来たのに・・・)とみんなが思ったことでしょう。
● 「Quang Ninh博物館」を見学 ●
「Quang Ninh博物館」のすぐ隣には「Quang Ninh図書館」もありましたが、私たちが見学したのは「Quang Ninh博物館」だけです。「Quang Ninh博物館」は大きな、真っ黒い外観をしていて、金文字で「Bao Tang Quang Ninh」と銘打たれています。外から見た印象はさほど古くない建物のようでした。 外観が黒いのには理由があり、「ハロン湾」の北の方には、良質の無煙炭を産出するHong Gai (ホン ガーイ:通称=ホン ガイまたはホン ゲイ) 炭田があり、そのイメージを建物の外観の色に反映させたということでした。
博物館入口の前にはそこで採掘されたと思われる石炭の塊がデーンと据えられていました。その大きさは横幅二メートルぐらいもあり、高さは大人の背丈を軽く超えていました。その表面を手の平で触ってみても、雨風に晒されているためか、黒い色は付いてきませんでした。すぐ近くには男性の頭部だけの彫像が置いてあり、炭鉱で働く時に被るヘルメットを頭に付けていました。
そして、実はサイゴンに戻り、このHong Gai 炭田について調べてみたら、「日露戦争」当時にベトナム中部の「カムラン湾」に寄港したロシアのバルチック艦隊が求めたのが、そのHong Gai炭田で産出される無煙炭であることを知りました。以前、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を読んだ時、司馬さんがその本の中で「バルチック艦隊」と「カムラン湾」と「無煙炭」のことに触れておられましたが、それがこの地で初めて結びつきました。
その後、先に切符を添乗員が購入して我々に配りましたので、私たちも階段を上がって中に入りました。切符を切っていた係員に「この博物館の資料をください」と言うと、「有りません」との返事。それで、「この博物館はいつ頃出来たの?」と訊くと、「約6年前の2013年です」と係員が答えてくれました。道理で、まださほど古くない感じがしたはずです。
この「博物館」は三階建てになっています。最初に、展示物がいろいろある一階の部屋の中に入りました。広いロビーの上からは一頭のクジラの骨が天井から吊るされています。帆柱を立てた小さい船も展示されていました。一階の部屋の高い位置まで届くガラスケースの中には、様々な生き物が展示されています。その展示の仕方が実にキレイで見事です。
一階の展示の中心にあるのは「ハロン湾」の自然界に棲む動植物や貝類や昆虫などです。猿、豹、熊、リス、カワウソ、海亀、コブラ、蝶、鮫、珊瑚、ハマグリ、カブトガニ、シャコ貝、カブトムシ・・・など様々な生き物たちが「ホルマリン漬け」や「剥製」になって、ガラスケースの中に収められています。写真だけの展示もありますが、とにかくその種類の多さには驚きます。
二階はQuang Ninh省の昔の歴史のコーナーがあり、三階にはQuang Ninh省の産業のコーナーがあります。この三階に展示されていたものがHong Gai炭田に関する資料です。炭鉱を採掘している時の写真や模型や道具類などが展示されていました。採掘時の模型は良く出来ていて、それを見ると、「露天掘り」で採掘していた当時の様子が良く分かります。
博物館内を見学したのは一時間ほどで、10時半にそこを出発。そこを出て向かった先は「Ha Long Pearl Farm」と言う真珠のお店。旅行会社のツアーでは必ずこういう土産物を扱っている店にお客を立ち寄らせて、お土産を買わせるスケジュールが組まれています。
そこにお客さんたちを案内し、お土産を買ってくれたら、売り上げた利益の中から何%かが旅行会社にバックされてゆくのでしょう。しかし、真珠のお店だけに、一つの値段があまりに高いので、買った人はほとんどいませんでした。女房にも「買いたいものがある?」と訊きましたが、首を横に振っていました。結局、そこでは何も買いませんでした。
● Nhin Binh に移動 ●
そこを出て、レストランに向かい昼食。昼食後、バスでNhin Binh (ニン ビン) に移動。Nhin Binh はハノイ市からだと90kmぐらいの距離ですが、ハロン湾のほうから移動した私たちの場合、添乗員の話だと「距離にして170km、時間にして約4時間掛かります」とのことでした。
何時間掛かろうが、私たちはバスに乗ってそこに行くだけです。その途中、バスの左側の窓から湾内に浮かぶ、緑に覆われた小山のような岩々がまた見えてきました。その手前のほうには湾の中に林がありました。バスがその近くを通り過ぎた時にハッキリとその林の姿が見えました。それは「マングローブ林」でした。それを見た時、強烈な懐かしさに襲われました。
今から約20年前、私がベトナムに来た当初、マングローブ植林の現場の状況を知るべく、「マングローブ植林行動計画(ACTMANG)」の浅野さんに同行してベトナム北部のHai Phong (ハーイ フォン) 市のTien Lang (ティエン ラン) 郡に行ったことがありました。当時はそこが、浅野さんが関わり、現地の人たちの協力を得て「マングローブ植林」を進めていた最前線の現場でした。浅野さんの「マングローブ植林活動」については、【2015年11月号】のBAOに「マングローブの森を創った日本人」として載せています。
ハノイまでは飛行機で行き、そこでバイクをレンタルしてTien Langまで行きました。Tien Lang にある<女性同盟>の方々から温かいもてなしを受けたことは、今でも忘れられません。そして、浅野さんが直接「植林活動」をされている場所まで行きました。堤防の上に立ち、そこから下を見ますと、人の背丈ぐらいの高さに成長した「マングローブ林」の先の海辺のほうに、マングローブの苗が干潟の中に広い面積で植えられていました。
その場所での「マングローブ植林」を支援していた企業は「東京海上」だということでした。あれから長い歳月が経ちましたから、その当時「小さい苗」だったマングローブも大きく成長していることでしょう。Nhin Binhに行く途中で見た「マングローブ林」が、あの時Tien Langで浅野さんたちが植えていたマングローブの成長した姿なのかも・・・とその時、ふと思いました。浅野さんの活動はYoutubeでも「マングローブ・プロジェクト」として観ることが出来ます。
後で、地図で確かめてみると、「ハロン湾」から「ハーイ フォン」に移動し、Nhin Binhに行く途中では確かにTien Langを通過してゆくことが分かりました。その地図を見ながら(もしかしたら、あのTien Langの近くを通っていたのではないのかな・・・)と想像し、嬉しくなりました。
我々がバスで通過した時に見えた「マングローブ林」が、20年前に見た、あの「マングローブの苗」が大きく成長した場所と同じかどうかは分かりません。しかし、それを見た時には大変懐かしい思いがしました。浅野さんは今年でベトナム滞在が27年目になりますが、その「マングローブ林」をバスの窓越しに見ていた時、浅野さんがこのベトナムに関わった「マングローブ植林」の長い歴史を思い起こしたのでした。
2時半頃にHai Duong (ハーイ ズーン)省を通過。Hai Duongは千年前には海だったそうで、「この地方まで中国の軍隊が船に乗って攻めてきました」とL専務が話してくれました。Hai Duongの名物は「ライチ」や「竜眼」だそうです。途中でバスが、その名物の「竜眼」を路上で売っているおばさんの前で停まりました。前の座席に座っていた人たち数人がバスから降りて「竜眼」を買いました。
女房と娘は隣の座席に座っていましたので、私が「竜眼を食べたい?」と訊くと、コクッと肯いたので、私もバスから降りて「竜眼」を買いました。1kgで4万ドン(約185円)でした。安いものです。バスから降りた道路の両側は「竜眼の木」が植えてある果樹園が広がっていました。その「竜眼の木」には実がたわわについていました。まさに、眼の前にある「竜眼の木」からもいですぐの「竜眼」を路上で売っているような感じです。買った「竜眼」は水気が多く、大変美味しかったです。
それから、またバスにみんな乗り込みました。しばらく走り出すと、車中は静かになりました。3時を過ぎた頃でしたので、みなさんお昼寝タイムの時間です。女房も娘もセーターを頭から被り、ぐっすりと寝ています。その時、私はあることを考えていました。(めったに家族で参加したことが無かった社員旅行で、せっかくベトナムの北部まで来たのだから思い出深いものを残したいな・・・)と。
それは(翌日にハノイ入りした時に、女房の誕生日祝いをしてあげよう!)という考えでした。ハノイ入りする日は8月3日。女房の誕生日は8月5日です。8月4日に私たちはサイゴンに戻ります。8月5日はサイゴンに戻ってすぐでもあり、平日でもあり、疲れてもいるだろうし、慌ただしいかも・・・と思い、ハノイで早めに「誕生日祝い」をしてあげればいいなと考えたのでした。
「台風の襲来」で今回の社員旅行の目玉であった「ハロン湾観光」は中止になるし、残りの予定に組まれている「Nhin Binh観光」も果たして無事に行えるかどうかが良く分かりません。台風のせいで、また中止になる恐れもあります。今回の「台風の襲来」は、風は大したことはなかったのですが、毎日が雨・雨・雨の連続でした。
そういう辛い行程の旅が続く中、女房の誕生日が8月5日なのをずっと考えていて、(良し、この北部のハノイで前倒しして誕生日祝いをしてあげよう!!)と思い立ったのでした。思い立ちはしましたが、しかし、ずっとバスに乗っての移動が続いています。(バースデー・ケーキをどうして手配しようか・・・)と考えました。私がケーキを準備する時間も無いし、電話をして頼めるケーキ屋さんも知りません。
その時、一人の友人を思い出しました。「さすらいのイベント屋」のNMさんです。(もしかしたら、今NMさんはハノイにいるかも・・・)と思い、バスの中で携帯からNMさんにメッセージを送りました。すぐに返信が来ました。やはりハノイにおられました。 それで、今家族で北部旅行に来ていることを伝え、翌日にハノイ入りすること。その日にハノイで女房の誕生日祝いを早めに行いたいこと。それで、ケーキの準備をお願いしたいこと・・・などを伝えました。
NMさんにそのようなお願いをすると「OKです!!承知しました!!」と快諾して頂きました。そして、ケーキの上に描く女房のフルネームと生年月日も添えて送りました。ケーキの手配が出来て、私も安心しました。隣を見ると、女房と娘はまだ寝ています。しばらくして、先に娘が頭から被っていたセーターを取り、眼を開けました。それで、NMさんの携帯にメッセージで送った女房の名前と生年月日をこっそりと見せました。
女房はまだ眠っていましたので、こっそりと娘に耳打ちして「明日お母さんの誕生日祝いを家族だけでハノイでやるよ。友人に頼んでケーキを準備してもらうからね。これで間違いないよね。お母さんには秘密だよ」と話しました。娘もそれを見て肯き、ニコッと笑いました。この車中でそのことを知るのは私と娘の二人だけですから、当日の「サプライズ」は成功することでしょう。
その後、バスはシルク製品を売っているお土産屋さんに到着。そこにはシルク製の衣服や絵画などがありました。店内では十数人の工員さんたちが椅子に座り、それらの製品を作成している様子を見ることが出来ました。別の部屋でそういう作業をするのではなくて、お客さんから見える所で作業をしているのでした。店の中にはシルクで作成された実にキレイな絵が沢山あり、欲しくなりましたが、旅の途中でもあり、荷物になるので、そこで買うのは断念しました。
そして、夕方5時にレストランに到着。レストランの名前は「Anh Dzung」。ここでは「ヤギ肉」料理がいろいろ出されました。 聞けば、「Nhin Binhの名物はヤギ肉」とのことで、確かにそこに来る途中で見た店の看板には、「ヤギ肉料理有ります!」と表示したのが多かったです。ここでは「ヤギ肉」を炒めた料理が出されました。
サイゴンでも以前は「宴会」があると、一区にある「ヤギ鍋屋」に良く集まっていました。そこは路上の屋台で夜風に吹かれながらビールを飲み、「ヤギの乳肉」を焼き、「ヤギ鍋」に舌鼓を打っていました。しかし、数年前からは一区にある路上屋台での営業が厳しくなり、室内でしか食べられなくなったので、だんだんと足が遠のいてゆき、最近はほとんど行くことはありません。昨年の7月末に日本から甥っ子が来た時、そこに家族が一同に集まり<歓迎会>をしましたが、それ以来行っていません。
確かに、このNhin Binh のレストランで食べた「ヤギ肉」は大変柔らかくて、美味しいものでした。そして、Nhin Binh名物の「ヤギ肉」をみんなで食べていた時、年配の女性の先生が右手に小瓶を持ち、左手に小さいグラスを持って私の方に近づいてきました。小瓶の中には琥珀色の液体が入っています。それを小さいグラスに注いで、私に勧めてきます。
飲んでみると、それは「焼酎」でした。私にはビールよりも、その「焼酎」のほうが気に入りました。と言うのも、この後の予定は夕食が終わってそのままホテルに行くのではなく、またこれからバスに乗ってお寺を見物に行くというのです。であれば、ここでビールをガブガブ飲むわけにはいきません。ビールよりも度数が強く、少量で酔う「焼酎」のほうがいいのです。
「ところで、これは何から出来た焼酎なのですか?」と、その女性の先生に質問すると、「ヤギのNgoc Duong (ゴック ユーン)です!」とニコッと笑いながら答えられました。「Ngoc Duong」を漢字に当てると「陽玉」となります。大体想像はできましたので、一杯目はすぐに一口で飲み、二杯目を飲んでグラスを伏せました。お寺の見物は歩きもあるでしょうから、あまり飲み過ぎると移動がキツクなります。
● 「Bai Dinh寺」見物へ ●
6時に夕食が終わり、この日最後の予定である「Bai Dinh (バイ ディン) 寺」見物へ。バスに乗り、一路そこに向かいました。しかし、辺りはだんだん薄暗くなってきました。お寺に着いた頃には暗くなっているでしょう。(そんな暗い時間に行って、何が見られるのかな・・・)と思いましたが、添乗員が山のほうを指さして「あちらのほうを見てください」と言いました。
そちらを見ると、遠くのほうに高い塔がライト・アップされて輝いていました。「あれがBai Dinh寺の塔です」と添乗員が説明しました。暗い山の中にその塔がライト・アップされているのを見て皆「ワーー!」と叫んでいます。確かにそれは幻想的な光景でした。しかし、大きく、高い塔全体が上から下まで全部ライトがついていますので、(毎日ああしてライトを点けているのなら、大変な電気代がかかるだろうなぁー・・・)と思いました。
そして、バスはお寺に到着・・・と思ったら、最初に足を踏み入れたのはホテルのロビーのような場所でした。「Bai Dinh寺」はその敷地内にホテルの施設も備えているということです。広大なお寺ですので、ここに泊りがけでお寺を見物してゆく観光客や信者たちが恐らくたくさんいるのでしょう。
しかし、(ここからずっと歩いて「Bai Dinh寺」見物に行くのかな・・・)と思っていますと、ホテルの前に黄色い車体の小型のバスが横付けされました。電気自動車だということでした。そのためか、移動時の音が大変静かでした。10人ぐらいが乗れる座席があり、ドアは無く、座席のシートが運転手の列も入れて五列あり、一番後ろのシートは後ろ向きになっています。聞けば、これが「Bai Dinh寺」見物に向かう専用のバスなのでした。
その専用バスに乗り、最初のお寺に向かいました。専用バスに乗ってすぐに大きな建物に到着。建物の外観は古い感じがしましたが、夜暗いので良く見えません。そして、堂内に入ると金ピカの大きな仏像が三体鎮座しています。堂内の照明のせいもあり、まばゆいほどピカピカに輝いています。
日本で古色蒼然とした仏像を見慣れた私のような日本人には、異様なぐらいのまばゆさです。さらには、壁面一体には天井の位置から下のほうまで、サイズは小さいものの、同じような金ピカの仏像がマス目状の箱に納められています。その数の多さにはあっけにとられました。その壁面一体の仏像は左右にありますので、お堂の中全体が光り輝いています。圧倒されました。
良く見ると、その小さい金ピカの仏像が納めてあるマス目状の箱の下の部分に、「住所」「氏名」がベトナム語で印刷されています。その「住所」を見ると、ベトナムの北部が多かったのですが、サイゴンの住所もありました。どうやら、(この金ピカの仏像をここに寄進した人の名前だな・・・)というのは分かりました。傍にいたL専務に訊くと、やはりそうでした。
L専務の話では「このBai Dinh寺は共産党の幹部が観光地としてこのお寺を建てて、観光客をここまで連れて来るために道路も新たに造りました。2003年に最初のお寺が完成し、その次は2008年、そして2010年に三番目のお寺が完成しましたが、今も続けて建設中です。この小さい仏像は、党員や信者に寄進させたものをこの壁面一体に飾ってあるのです」とのことでした。道理で、仏像がピカピカ輝いているはずです。
このお寺を見物した後、また専用バスに乗り、次のお寺へ行きました。そこのお寺が車内から見えたライト・アップされていたあの塔なのでした。一階のお寺の外観は最初に見たお寺と同じような造りでした。中に入ると、お釈迦様の大きな像が一体だけデーンと座っています。そのお釈迦様がまた金ピカです。お釈迦様だけでなく、天井も壁も金ピカです。
それを見た後、エレベーターを使い、さらに階段を上り、別の階に上がりますと、今度はヒスイのような材質で出来た仏像があり、それにも光が当てられて輝いています。その後ろの壁面にはまた金ピカの仏像が飾られ、足元にも仏像が据えてあります。まあ、お寺の見物ですから当然とは言え、とにかく仏像のオンパレードです。
そこからまたさらに上り、塔の上階に着きました。そこからは、この「Bai Dinh寺」全体の景色が見えるというのです。確かに下の景色が見えました。先ほど見たお寺も見えました。建物全体に電気の装飾がされて光っているので、(あれがそうだな・・・)というのは分かります。しかし、「Bai Dinh寺」は「総敷地面積が700ヘクタール」「東南アジア最大の規模を誇るお寺」・・・とは、サイゴンに戻った後で資料を読んで知ったことですが、どこまでが「Bai Dinh寺」の敷地なのか、その時は暗くて良く分かりませんでした。
そこを見物した後、またさらに専用バスで、別のお寺に行くことになりました。そこには「千手観音」と、えらく背丈の高い「観音菩薩」らしき像がありました。この二体の像をいわゆる「千手観音」「観音菩薩」というのか、仏教に詳しくない私には良く分かりませんが、「千手観音」はこれまた金ピカに輝いています。
眼を見張ったのは「観音菩薩」の像のほうです。その像の頭から下に眼を移してゆき、足元のほうを見て驚きました。この「観音菩薩」の像は石や銅などではなく、何と一本の巨木から作製されていたのです。顔のほうを見ていた時には分かりませんでしたが、「観音菩薩」像の足元を見ると、巨木の根がそのまま残っていたのでした。いや、残していたというべきでしょうか。じっと見ると、相当な大きさの木からこの「観音菩薩」を彫刻したのだなぁーと思いました。
このお寺が最後の見物になりましたが、正直言って「仏像」の見物だけで一時間半ばかり続いたので、少しくたびれてきました。しかし、同僚の先生の中には、行く先々のお寺の仏像の前で熱心に両手を合わせ、何回も叩頭している人もいました。熱心な仏教徒なのかどうかは分かりませんが、その後ろ姿を見ていまして(こういうお寺はこのような熱心な信者たちによって支えられているのかな・・・)とも思いました。
合計で四つのお寺の見物を終えたのが、夜の8時半。そして、バスに乗り込んで、お寺内のホテルを出たのが8時45分でした。それから、この日泊まるホテルに着いたのは9時半でした。部屋に荷物を入れて、「さあー、ビールでも飲みに行くか!」と思い、ホテルを出て辺りを見ても、レストランらしきものは何も無し。
少し歩いてゆくと「TOKYO SUSHI」という名前の店がありました。(ここまで来て日本料理屋に入らなくてもいいけど・・・)と思いましたが、周りに適当な店が無いので、仕方なくその「TOKYO SUSHI」のドアを開けると、店長が出てきました。店長はベトナム人の方でした。「すみません、閉店時間なので、もうすぐ閉めますが・・・」と言うのでガッカリしましたが仕方なし。結局、この日も部屋の冷蔵庫の中のビールを飲んで床に就きました。
(・・・後編に続く)
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
ホー・チ・ミン主席死去から50年、最期の日々をたどる
故ホー・チ・ミン主席の死去から2019年9月2日で50年を迎える。
ホー・チ・ミン主席が死去する前に護衛を担当していたチャン・ベト・ホアン氏は、病気のホー・チ・ミン主席を間近で見守り、主席が亡くなる瞬間にも立ち会っていた。ホアン氏の話によると、亡くなる1か月前の1969年8月、ホー・チ・ミン主席は重病であるにもかかわらず、1970年の主要な祝日に関する決議について政治局の報告に耳を傾けていた。
報告を聞き終わると、ホー・チ・ミン主席はベトナム共産党創立40周年、レーニン生誕100周年、ベトナム民主共和国成立25周年を祝うことにのみ同意した。しかし、自身の誕生日である5月19日を祝うのを決議に盛り込むことには同意しなかった。
主席は「もうすぐ生徒たちが新年度を迎えるというときに、紙とインクとお金を私の誕生日の宣伝に使うくらいであれば、教科書を印刷して子供たちのために学用品を購入し、無駄を省くべきだ」と話したという。
こんなこともあった。ハノイ市の鋳造で有名な村であるグーサー(Ngu Xa)の協同組合がホー・チ・ミン主席の銅像を鋳造するつもりだということがメディアで報道されると、ホー・チ・ミン主席は中央政府に人を派遣し、銅は希少であるため鋳造を止めるよう伝えた。そして、銅像を鋳造するのに使うつもりだったお金を、生徒が使う教室の建設に充てるよう提案した。
ホー・チ・ミン主席は病床でもほとんど国民のことばかり考えていた。紅河(song Hong)の堤防が決壊するかもしれないというときも、中央政府が安全区に避難するよう勧めても「国民を見捨てることはできない。国民の心配をすることが第一だ」としか言わなかった。
危険な状態の後に目が覚めるたび、まず口にする言葉は「紅河の水位は下がったか?今日は南部の同胞たちはどこで勝利したか?」だった。そのため、中央政府は万が一ハノイ市が冠水したときにホー・チ・ミン主席を安全区へ避難させるために水陸両用車を用意し、さらに国民を救助するために別の水陸両用車も多数用意した。
1969年8月12日、ホー・チ・ミン主席は、1973年のパリ協定での交渉に尽力したレ・ドゥック・ト氏とハノイ市のホータイゲストハウスで面会した。戦争を終わらせ、ベトナムの平和を取り戻すための交渉の状況に関する報告を聞くためだった。
その夜、ホー・チ・ミン主席は咳や発熱を起こし、病状は日に日に悪化していった。それでも主席は何とか仕事を続けていた。医師は8月17日の夜に執務用の家から裏の小さな家に移るよう提案した。この小さな家は、爆弾を避けるために政治局が1967年に立てたものだった。
8月30日、ホー・チ・ミン主席は重病ながらも、361師団のミサイルが 米国の無人航空機を撃ち落としたと聞くと、兵士らに花を送った。また、9月2日の建国記念日(国慶節)に先立ちハノイ市の墓地に眠る戦死者にも、 そしてバーディン街区第4区警察隊と第1道路交通安全隊にも花を送った。
9月1日、ホー・チ・ミン主席はとても疲れた様子だった。しかし、時にしゃきっと機敏に動き、小さなリュウガンを自分で食べることもできた。
1969年9月2日午前9時、ホー・チ・ミン主席は重度の心臓発作を起こし、ベトナムと中国の医師や教授が救命処置を行った。しかし、9時15分、心電図モニターはホー・チ・ミン主席の心臓が完全に鼓動しなくなったことを告げた。「私たちは医師と一緒に代わる代わる主席の胸をさすり、心臓がもう一度動き出すことを望んでいました」とホアン氏は回想する。
9時47分、当時の首相であるファム・バン・ドン氏が涙を流してこう言った。「同志たちよ、我々のホーおじさんはもう生き返ることはない」。享年79歳。1週間後、ハノイ市のバーディン広場で追悼式と告別式が執り行われ、何万人もの国民や海外の人々が参列した。
「ホーおじさんが去った日のことを思い出して、今日も明日も彼が残した遺産を尊重し、保存し、活用するために少しでも貢献していきたいです」とホアン氏は語った。
ホー・チ・ミン主席の死去から間もなく50年を迎える2019年8月28日、グエン・スアン・フック首相はホー・チ・ミン主席の護衛と世話を担当していた同志らと会見した。当時の話を聞いたフック首相は、主席の教えや道徳的な模範は常に党幹部や党員らが進むべき道を指し示してきたと強調した。フック首相はさらに、ホー・チ・ミン主席に仕え、護衛してきた人々の功労に心からの敬意を表した。
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
ベトナムの歴史において、「9月2日」には奇妙な符号があります。1945年9月2日にフランス領インドシナから「独立宣言」をしたことを記念して制定されたのが、9月2日の『国慶節』。この日が今の<ベトナムの建国記念日>とされています。そして、「ホーチミン主席」が亡くなったのが1969年9月2日。さらに、「ホーチミン廟」が完成したのが1975年9月2日。
時系列では「独立宣言」が最初に来る「9月2日」ですが、「ホーチミン主席」が亡くなったのも同じ「9月2日」です。人の逝去は計画できないでしょうから、これは偶然なのでしょう。「ホーチミン廟」が9月2日に完成したのは、計画してその日に合わせるようにしたのでは・・・と想像しています。
「国慶節」が明けた翌週から私は授業に出ましたので、意識的に私のベトナム人の教え子たちに「国慶節と故ホーチミン主席の逝去の日が同じ日になっているのは何故?」と訊きましたら、みんなが「偶然ですよ!」と言う答えでした。さらに、クラスの中には、生徒の姓が「ホーチミン」と同じように「ホー ○○○○」と言う名前を持つ男子や女子の生徒がいることがあります。その時、「おおー、あなたはホーチミンのお孫さんですね」と話しかけると、冗談を言っているのは分かっているのでしょうが、男子も女子も嬉しそうに、ニコーッとした顔をします。
今回の「ベトナム北部への旅」にも記しましたが、今回の旅行に参加した全員が、「ホーチミン廟」の中を見学し、「故ホーチミン主席」と対面することはできませんでした。しかし、私自身は今にして思うと、(あれで良かったのでは・・・と)思います。ホーチミン主席が逝去した後、50年経っても生けるが如く遺体を保存してあることに、最初は誰しも興味が湧きますが、実際にその遺体を見ていると、辛く・悲しい気持ちになるからです。
『(Wikipedia)』には「ホーチミン」のことについて、次のように紹介されています。
『ホー・チ・ミン自身は、存命中に自己顕示的行動に及ぶことはほとんどなく、その死に際しても本人は火葬および北部(トンキン)、中部(安南)、南部(コーチシナ)への分骨を望んでおり、個人崇拝につながる墓所の建設を望んでいなかった。しかし、ベトナム労働党政治局はベトナム当局はその遺書を全文公開せず、この部分を削除して遺書を公開した。ホー・チ・ミンの意向は無視されたのである。
政治局の決定により、遺骸はレーニンにならって、永久保存され、南北統一後、ハノイ市のバーディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。「会いたくても統一までは直接会えなかった旧南ベトナム人民のため、統一後も会えるように体を保存した」という名目で建設されたものである。
ホー・チ・ミンの政治思想や手法には賛否両論あるが、特筆すべきは、ソ連のスターリン・中華人民共和国の毛沢東・北朝鮮の金日成など、革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になって反対派を粛清する例が多いのに対し、ホー・チ・ミンは、腐敗や汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていたことである。
ホーの慈愛に満ちた飄々たる風貌、また腐敗や汚職、粛清に手を染めなかった高潔な人柄は、民衆から尊崇を集め、そして愛された。晩年は南北ベトナムの両国民から「ホーおじさん」(Bac Ho)と呼ばれ親しまれた』
革命が成り、ベトナム戦争終結後44年経ち、ホーチミン主席が亡くなって50年が過ぎた後も、その遺体はまだ故郷に帰ることが出来ない。故郷の地で安らかに眠ることが出来ない。
私は≪2010年7月号の「ホーチミンはふつうの人」≫に「両親や家族の人たちが今眠っている故郷のゲ アン省に早く帰してあげて、体もこころもふるさとの地で安らかな、 深い眠りにつかせて欲しいものだと私は思うのです」と記しましたが、それは今も変わらない私の気持ちです。