アオザイ通信
【2008年8月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<司馬さんを知る人>
私はここ最近の日曜日、特別な用事が無い限りは毎週のようにあの「日本語会話クラブ」に出かけて行くようにしています。

ここで出会う人たちの中にはベトナム人、日本人、いろんな人たちがいます。このクラブに集うベトナムの人たちを分類すると、大学生と社会人が半々という比率ですね。高校生以下の年齢層はほとんどいません。そして少数ですが無職の人たちもいます。

そして日本人の場合は、旅行でベトナムを訪れた人か、語学留学生か、またはこのベトナムで一応は仕事をしているか、自分で会社を興しているかなどに分類されます。

最近では、以前BAOで紹介した、(いつか、どこかで会うことが出来るでしょう。)と書いた、あのMichiko先生にも偶然ここで巡り会うことが出来ました。また先日は、日本から来た20代の人たちを4人ほど連れて行きますと、ベトナム人の参加者は大歓迎していました。

そういうある日、日本人のT女史と出会いました。彼女はこのベトナムで、ベトちゃん・ドクちゃんを支援する活動をされていて、私がこのクラブに顔を出す以前から、毎週のように「日本語会話クラブ」に参加されていたのでした。

今この「日本語会話クラブ」は、朝の9時から11時までの時間帯で行っています。そしてその会話クラブが終わると、ベトナム人と日本人の有志の参加者だけで昼食会をしながら、続けてまた日本語で話をするのが、最近は恒例になっています。日本語クラブが散会した後に昼食会に集まるのは、日本人・ベトナム人合わせてだいたい十人前後です。

まあ昼食会といっても、近くににあるCom Tam(コム タム)という種類の“指差し食堂”で、一食150円くらいの皿飯を食べるくらいのものです。まだ明るい昼間ですから、飲み物もビールなどはみんな注文せず、冷たいお茶(チャ ダー)だけです。

この“指差し食堂”というのは、席に座ってからメニューを見て注文するレストランのようなやり方ではなく、すでに事前に調理された数種類のオカズが道路に面したガラスケースの中かテーブルの上に置かれていて、お客が自分の食べたいものを「これと、これを頂戴!」と指で差して注文しますと、皿の上に平たく盛られたご飯の上に、そのオカズが乗っかって出て来る大衆的な食堂のことを言います。

その“指差し食堂”で私とT女史が話していますと、彼女はベトナムに来て今年で3年目に入るそうですが、彼女がこのベトナムで今まで関わってきたベトちゃん・ドクちゃんを支援する活動を振り返りながら、「この活動を通してベトちゃん・ドクちゃんの成長も見れたし、いろんな人とも知り合うことが出来て、本当に良い経験をさせてもらいました。」と、長いようで短かかった3年間の出来事を、懐かしい思い出のような感じで私に話してくれました。

T女史が私に感慨深く話していた時に、彼女の顔にふっと表れたそのこころ揺らぐような感情の高まりは、実は彼女自身がもうすぐこの8月の末にはベトナムを離れないといけないという事情も当然ありました。

彼女はベトちゃん・ドクちゃんと出会った時の最初の思い出から、私に話をしてくれました。そして昨年のベトちゃんとの永別がトゥー ズー病院で行われた時の様子も詳しく話してくれました。それらの話を聞けば聞くほど、短い人生でありながら、ベトちゃんもよくぞここまで頑張って来たなーという思いを抱かずにはおれませんでした。

そしてさらには7月半ば、日本語会話クラブが行われている青年文化会館で、何と私は偶然にもドクちゃんと彼の奥さんにも会うことが出来ました。

この時は日本の風景写真の展覧会が開かれていて、そこに彼ら夫婦が招待されていたようでした。私たちは2・3分ほど直接話をすることが出来ました。ドクちゃんは今自分でITの会社を立ち上げて、ビジネスを始めたばかりのようでした。

T女史やほかの日本人、ベトナム人と一緒にお昼ご飯をその“指差し食堂”で食べながら話していますと、彼女が「もうすぐ日本に帰らないといけないのですが、本当に後ろ髪を引かれる思いです。」と話されたので、私がなにげなく「日本のどちらですか?」と聞きますと、「大阪です。」という答えでした。そしてそれに続けて、「あの司馬さんの家のすぐ近くです。」と話されました。

私はそれを聞いて、「ええー、司馬さんって、あの司馬遼太郎さんのことですか!」と聞き直しますと、「はい、そうです。司馬遼太郎さんの家の近くです。」とにこやかに答えられました。それは私には、直接司馬さんを知っていた人に出会った初めてのことでした。

思えば、私が司馬さんの作品に初めて出会ったのは19歳の時でした。私と同年齢の友人が、「司馬遼太郎の本はすごいぞ。感動するぞ!お前も読め。」と言って薦めてくれたのが、あの有名な「竜馬がゆく」でした。

そしてその本の最初の数ページを開いてから、私自身も司馬さんの作品世界にのめりこんでいきました。そして十日間ほどかけてその作品を読み終えて、最後のページに到った時、あの武田鉄矢さんがたまらず家の外に飛び出して号泣したという気持ちもよく理解出来ました。

その後も「竜馬がゆく」を繰り返し何回も読みましたが、私は司馬さんの作品世界にもっともっと触れたいと思いました。そしてたまたまその当時私が下宿していたアパートのすぐ近くには、公立の図書館がありました。そこには、その当時発行されていた司馬遼太郎全集の30数巻が揃えてありました。

それを見つけると、平均して1冊2日ほどのペースで借りて、約2ヶ月近くで全部を読破しました。ある時などは、読むのに夢中になって気が付いた時には外が明るくなっていることもありました。

しかし司馬さんの作品はたとえ大部の作品でも、その流麗な日本語の表現力の素晴らしさからでしょうか、読んでいても全然分量の重さを感じませんね。

それより以来司馬さんの作品、そして司馬遼太郎さんという人間の存在は、私にとってテレビに司馬さんが出演される時であれ、新しい本を出される時であれ、格別な人として関心を抱いて来ました。特に週刊誌に掲載されていた「街道をゆく」は、毎週の発行日を待ちわびていました。

その司馬さんを「実は私は司馬さんの近所に住んでいました。」というふうに司馬さんを身近に知る人と出会えたのは、T女史が初めてであり、それを聞いた時、「本当ですか!」と驚きもし、嬉しくてたまりませんでした。何でも司馬さんとは、同じ町内会同士だったそうです。

さらにまた何と、T女史の妹さんはM新聞社に勤められていて、当時その新聞に掲載されていた司馬さんの原稿を自宅まで取りに行くのが仕事だったといいます。

司馬さんが妹さんに渡された手書きの原稿には、最初の下書きの後に黄色や緑や赤などの色鉛筆で加筆・訂正が無数に入り、それを正確に読み解くのに困難を極めたそうです。以前それを私も写真で見ましたが、司馬さん好きな人たちにとって、司馬さんが亡き今は、そういう原稿自体も愛着あるものに見えます。

「近所に住んでいて、あなたから見た司馬さんはどんな人でしたか。」と私が聞きますと、「あの当時はすでにもう大作家の名声が高かったのでしょうが、私たちに接する時の司馬さんは、実に普通の、庶民的な人でしたよ。」

彼女が「今度バザーを開きますので宜しくお願いします。」と司馬さんに依頼しますと、「分かった。分かった。準備しておくから、今度おいでよ。」と気軽に引き受けてくれて、大作家の垣根の高さを全然感じさせなかったと、T女史は話されました。

また「朝や昼に私たちが司馬さんに出会うと、向こうからすぐ気さくに挨拶をされていましたよ。スーパーなどにも夫婦で仲良く手を繋いで出かけられていましたね。ほんとうに奢り高ぶらない、人間的に素晴らしい人だと思いました。」と、司馬さんの人柄について述懐されました。

「食事も実に質素でですね。司馬さんはソバが大好物で、たまたま私もソバ屋さんで同席することもありました。司馬さんはお酒はあまり嗜まれませんでしたが、ソバは大好物のようでした。」とも話されました。

司馬さんが好きな花も華麗な花ではなく、川の土手に生えている“菜の花”を愛したという、いかにも司馬さんらしいいい話ではないでしょうか。

そして司馬さんが亡くなられた時には、自宅での葬儀の当日お焼香をするための参拝者が、駅から司馬さんの家まで延々と続いたそうです。さもありなんと思いました。司馬さんの死後すぐに出た特集などでも、司馬さんのその人となりをこころから愛惜し、追悼する人たちの言葉が何と多かったことでしょうか。

私は司馬さんの作品世界によって初めて、学校の教科書では味わうことが出来なかった日本の歴史の深さと面白さ、そして日露戦争という時代の日本のすがたをも知ることが出来ました。そう言えば、司馬さんはこのベトナムにも来られて、一冊の本を書かれていましたね。

しかし日本の歴史小説家の中で、司馬さんほど古今の人物に愛情を注ぎ、それに血肉を与え、今そこに生きているかのように躍動感溢れる人物像を描き切り、そして武田鉄矢さんがその巻末に到るや、外に飛び出して号泣したように、私たち読者に深い感動を与えるレベルまでの世界に到達した作品を生み出し続けた人はそう多くはいないでしょう。

二十代に差しかかった時の私も愛読した司馬遼太郎さんの感動的な作品の数々は、これからも日本列島に日本語世界を共有する日本人が住み続けていく限り、永遠に読み継がれていくことでしょう。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <少数民族と暮らす日本の女性> ■
ベトナムにいる少数民族の特徴的な文化や生活様式は、ある一人の日本人の女性をして、「ずっと、ずっとそこにいたい」と言わしめるのだった。

◎ 少数民族との縁◎
Masakoさんはベトナムに生活している少数民族の生活様式や文化を研究するために、高い山や珍しい場所にまで足を延ばして行くうちに、その文化や伝統にのめり込むほど惹かれ、彼ら少数民族が好きになっていった。

東京大学を1986年に卒業した後、Masakoさんはアジア・アフリカ文化研究科の講師になった。そして3年後、彼女の博士論文が認められて大学教授になった。

そして1989年の夏、一旅行者としてベトナムを初めて訪れ、37日間滞在し、ホーチミン市、ハノイ、タイ グエン、ベトナム北部など、ベトナムの多くの場所に足を延ばした。

険しい山岳部に住むターイ族の村では、高床式の家の中で民族舞踊を見せてもらったり、タイ族村では彼らが独特の民族衣装を身に着けて、楽器を演奏したり、踊りを披露してくれたりするのに、彼女は強くこころを奪われたのだった。

「少数民族の人たちの料理も、実に独特で興味深いものです。またここの民族の人たちはこころ優しい、いい人が多いのです。」とMasakoさんは話してくれた。その時には単に観光で訪れただけのベトナムだったが、彼女の学問の対象としての興味のほうが大きくなって来たのだった。

それで日本に帰るとすぐに、少数民族の研究をするために、べトナムへ行く手続きを始めた。しかし個人的な事情がありすぐには来れなくて、1994年にまたふたたびベトナムに戻って来たのだった。そしてまず最初にMasakoさんがしたことは、ベトナム語を勉強することであった。

一人で荷物を背中に背負い、その上達したベトナム語を駆使して、彼女はいろいろな場所まで足を延ばした。その場所とは、ダク ラク省、ザー ライ省、ラム ドン省、ハー ザン省、ラン ソン省、ラオ カイ省、イエン バイ省、ゲー アン省などである。

◎第二の故郷◎
外見はまるでベトナム人のようで、ベトナム語も流暢に話すので、彼女を見た人は彼女が日本人だとはすぐには気付かない。彼女は到る所の民族の文化や風習や、彼らの生活様式を愛したのだった。坂道をよじ登り、山に登り、川を泳いで渡り、毎日一緒に民族の人たちと食事をすることも多かった。

「私はベトナムの少数民族の人たちを研究している時、毎日毎日が面白くて堪りません。彼らの伝統文化や習慣を研究すればするほど、その素晴らしさに気付かされます。」とMasakoさんは話した。

Masakoさんはベトナム北部のゲ アン省の高い山に居住している、O−DU(オー ドウ)族を訪問したことがあった。ここには22戸の家があり、64人だけ民族の人たちが住んでいた。

「このように少ない民族の人たちに対しては、何らかの手を打つなりして保護しないと、早晩その伝統文化や言語も失われてしまうでしょう。」と、Masakoさんは憂慮した表情で話すのだった。

「私が少数民族の人たちに会うのは、彼らの伝統文化や風俗を研究すること自体が楽しいのがまず第一の理由ですが、第二の理由としては、私が彼らを好きなのは前世から繋がっている縁のような気がするのです。」

「少数民族の人たちが暮らす田舎は、今や私の第二の故郷だと思っています。」とMasakoさんは話すのだった。

(解説)
私から見たベトナムの大きな魅力の一つが、少数民族の人たちの存在です。21世紀の今も、伝統ある固有の文化、風俗を失わずに現実に存在しているのが、本当に信じられません。

ラフカディオ ハーンは明治時代の日本人に出会った時、「太古からの伝統を失わずに今も伝えている。」と驚き、それからあのすぐれた日本に関する本を書いたようですが、ベトナムの少数民族をもし目の当たりにしていれば、ハーンはさらにまた強い興味を抱いたことでしょう。

今のベトナムには53の少数民族が存在しているといいますが、私が今まで実際に見ることが出来たのは、北部と中部の民族の人たちだけです。中部ではEde(エデ)族とBana(バナ)族の家や、その内部の様子を見ることが出来ました。

中部はまだ観光コース化されていないので、バイクタクシーのお兄さんが知っている民族さんの家まで案内してもらいました。しかしそれだけでも十分に感動しました。

さらにまた初めて北部のサパの町を訪れた時、山の中の石ころだらけの道を民族衣装を着た人が数人、深緑の中から背中に籠を背負って、裸足で向こうから歩いて来た時など、(これは現実の世界だろうか・・・!)と心臓がドキドキして来ました。それ以来私はサパという場所が大好きになり、今まで合わせて五・六回は行きました。

そしてまた同じ北部にはバック ハーという町があります。ここでは日曜日に有名な「サンデー マーケット」が開かれていて、そこではその市で品物を買い求める少数民族の人たちの民族衣装の展覧会のような光景が現れるのでした。さほど広くもない敷地内に、たぶん千人以上は超えるもの凄い数の民族の人たちが密集している場面は圧巻というべきものでした。

赤や緑や青やピンクの糸で刺繍された民族衣装を着た花モン族という少数民族が(そのほとんどは女性ですが)、朝の8時くらいから集まり始めます。その華麗な衣装で市場全体が埋め尽くされる感動的な光景は、実際に見ないと分かりません。中には馬を引いて来ている若い民族の人もいました。

そして約3時間ほどはその市の中での買い物にみんなは夢中になり、やがて11時頃には潮が引くようにサーッと引き揚げて行き、その後の市場の敷地には静寂とゴミと食べ物のカスだけが広がっていました。

少数民族の人たちの家も遠くから見ると、高床式のワラブキ屋根のような家が多く(少し裕福になると耐久年数の長い瓦に換えるようですが)、その光景は私の世代のような日本人には強烈な郷愁を感じさせます。

高い道路から川を隔てた対岸にあるそのような光景を見ていますと、昭和20年代後半から30年代初期の、私の日本の田舎の光景と重なるような感じを覚えるからです。

私はベトナムの少数民族と最初に出会って以来、将来いつか実現したい夢があります。それはまだ足腰の元気なうちに、バイクで山岳部に住む少数民族を訪ねて、南から北まで縦断することです。

ローカル・バスやツアー・バスでは、ベトナムの運転手は猛スピードで飛ばしますので、たとえ私たち外国人が立ち止まって見たいような場所があっても、スピードを落とすこともなくあっという間に通過してしまい、そういう場所を落ち着いてゆっくり見ることなど出来ません。しかしバイクだと好きな場所で停めることが出来ますし、細い小道にも入れるからです。

でもこのMasakoさんのように、少数民族の中に住むことは無理でしょうが、彼らの家を訪問したりいろんな話を聞くことは可能です。

それも出来るだけ早くしないと、Masakoさんが憂えているように、ベトナムがこれから変化するにつれ、少数民族さんが一つ、一つ消えてゆくような気がするからです。

しかしそれにしましても、少数民族と暮らされているこのMasakoさんにも、いつか是非お会いしたいものです。

特報ニュース
ファン・グエン・ホン教授に「コスモス国際賞」
日本の花の万博記念「コスモス国際賞」委員会はこのほど、ハノイ国家大学のファン・グエン・ホン教授に2008年コスモス国際賞を授与することを決めた。この賞は「自然と人間との共生」という理念の形成発展に寄与すると認められる研究活動や業績に与えられるもので、ベトナム人受賞者は初めて。第16回目となる今回は、25カ国131人の候補者から選考が行われた。

ファン教授は、マングローブ林の再生に多大なる貢献をしてきたアジアのマングローブ林研究の第一人者。50年以上にわたりベトナム南部の戦争や発展により破壊されたマングローブ林の保存や再生のために調査研究活動を行ってきた。その研究活動は世界的に認められている。授賞式は11月4日に大阪で行われ、賞状・メダルのほか4000万円が副賞として授与される。
(日刊ベトナムニュースより)


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