春さんのひとりごと
<ベトナムの少年との出会い、そして別れ>
この春日本へ帰っていた時に、あのフォトジャーナリストの村山さんから一冊の本を頂きました。
この本の出版は、今年の春に彼がベトナムに来た時にも話を聞いていましたので、私もその本が出来上がるのを待ち続けていました。そしてそれがようやく今年の3月に発行されたのでした。そしてその帯には、彼が師と仰ぐ石川文洋さんが推薦の文を寄せていました。
本の題名は「命の絆」です。私はこの本を、日本にいた時にも繰り返し読み、またベトナムにも持って帰って再度読み直しましたが、そのたびに何の罪もない幼い子供が生まれた時から背負った宿命に、深い・深い悲しみを覚えずにはおれませんでした。
村山さんは1998年にベトナムで開かれた、石川文洋さんの写真展で初めてサイゴンを訪れました。それ以来彼のベトナムへの渡航暦は、23回にもなりました。
2004年のサイゴン訪問時には、枯葉剤被災者を支援する署名活動にも積極的に参加し、彼一人で何と約1200人の署名を集めたといいます。さらにまた昨年は彼の枯葉剤被災者を追いかけた写真展が、戦争証跡博物館で約二週間展示されました。
振り返りますと、今回この本を出版した村山さんと私が初めて会ったのは、今から約7年前の2001年のことでした。 それ以来、彼が春や夏にスタディツアーで日本から大学生を連れて来るたびに一諸に食事をしたり、夜遅くまで話したり、一緒にビールを飲んだり、そして時には私も植林ツアーにも同行したりしました。
そういう時に、彼は自分が今ベトナムで追いかけているテーマついて、私に熱心に語ってくれたのでした。そのテーマの範囲の広さは、私から見れば驚くべきものでした。よくぞ一人でそれだけのテーマを追求出来るものだなーと、私自身感心しました。
村山さんはストリートチルドレン、麻薬や貧困、洪水被害、エイズ、ゴミ問題、環境汚染、枯れ葉剤被災者など、今のベトナムが抱えている様々な問題について話してくれました。時には大学生たちも交えて、深夜遅くにまで話が及ぶこともありました。
私は彼と7年ほど付き合って来ましたが、彼が私に話す時のベトナムで追いかけているそのテーマ自体は暗いものであっても、彼が話している時の内容は腹を抱えて笑うようなものが多かったのでした。
また彼の人柄なのでしょうか、彼はそういうふうに努めてみんなを喜ばせる話し方を心がけていました。多情・多感、そして純粋な人というのが、私が彼に抱いた感想です。だからこそ私自身も、今まで彼とこのベトナムで会うたびに、嬉しくなってくるのでした。
私はこの本を読むまでは、彼がベトナムの田舎にまで頻繁に足を運んで、具体的にどんな活動をしていたのか、彼自身もその時に多くのことは私には話さなかったので、今まで彼の活動の詳しいことはさっぱり知らないでいました。
しかしその当時彼が私の前で陽気に振舞いながら話していたその笑顔の裏には、こういう慟哭に近い悲しみを抱えていたのかと、実は私も今回この本を読んで初めて知ったのでした。
この本には、彼が2001年にサイゴン市内の擁護施設で偶然出会った、ある一家の子供たちとの出会いから、その中の男の子・H君との永遠の別れに至るまでが、村山さんの切々たる文章で、まるで抒情詩のように綴られています。
そしてこの本に登場する男の子H君は、お母さんがカンボジアに働きに行っていたときに罹ったエイズという病気に、生まれた時から感染しまっていたのでした。
H君のお母さんは、その病気が原因でわずか三十代で亡くなり、お父さんもまた39歳の若さで亡くなりました。さらには末っ子の三女は、まだ生まれて十ヶ月という幼さで亡くなったのでした。
そしてH君も自分の運命をある日知ることになり、出来るだけ回りの子供たちとの付き合いを避けようとして、彼らと遊ぶことも少なくなりました。
ついにはH君は僅か13歳にしてこの地上世界から消えたのでした。その時の村山さんの慟哭の思いが、この本の行間からほとばしってきます。
ベトナム南部の田舎町から、カンボジアまで出稼ぎに行かざるを得ない、ベトナムが抱えている貧困という冷厳な現実。そして、そこで一家に降り注いだ思いもかけなかった悲劇。誰にも、どこにも怒りを向けられない絶望的な気持ちに打ちのめされている、村山さんの悲痛な叫びがこの本からは聞こえて来ます。
そして実は村山さんはこの万感の悲しみの思いを綴った本を出版するにあたり、この本の発行日と同じ日に合わせて、今の彼の活動をこころから理解してくれている、生涯の伴侶となる女性との籍を入れたのでした。その祝宴のパーティーを、彼はこのベトナムで8月に開くことしているそうです。
村山さんの結婚パーティーというこのめでたい席に、今生きていてくれれば18歳になる、彼が愛情を注いだH君が来てくれていれば、どれだけ喜んでくれたことでしょう。
|