春さんのひとりごと
<ベトナム、そしてアフリカに行く青年>
このベトナムのサイゴンで、約五ヶ月前に知人の紹介で知り合った日本人青年・Tくんがいます。彼は今年の春に卒業予定の大学生で、このベトナムには「インターンシップ」の教育プログラムに応募して、昨年の8月にやって来ました。彼は今年で24歳です。
「インターンシップ」とは、「大学の教育活動の一環として、学生が在学中に一定期間、企業などで自分の専攻分野や、将来の仕事に関連した就業の体験を行う教育プログラム」だということです。ただしこれに応募・参加したからといって、単位がもらえるわけではないようですが、将来の自分の職業への意識を高めたり、自分の適性を知るという点では、大きな意義を持つ教育プログラムのようです。
しかしこのような教育プログラムは近年になって出来たもののようで、私が大学生の時代(今から約40年前くらいになりますが)には聞いたこともありませんでした。しかし社会人体験がない大学生たちが、実際に社会に飛び出す前にこういう経験を積むというのはなかなか有意義なことではないでしょうか。
もちろん日本国内の企業でもこの教育プログラムはあるそうですが、日本ではそういう大学生たちは、ただ単に卒業前のアルバイト感覚で応募する者も多いということでした。しかしTくんは給与面でも、生活面でも有利な(そのまま慣れた水の中で泳げるという意味で)日本国内での「インターンシップ」には応募せずに、アジアの中の幾つかの国で経験を積むことを希望し、自分が行きたい国についていろいろ調べました。
彼の大学は名古屋のN大学ですが、その「インターンシップ」に応募し、自分が希望とする国を調べた時に、最終的には中国とベトナムの二つの選択肢が残ったそうです。しかしその二つのうちのどちらを選ぶか迫られた時に、「迷わずベトナムに決めました。」と私には話してくれました。その理由は、「ベトナムのほうが中国以上に未知の国であり、面白そうだったから。」だそうです。
彼は今年の春から働く会社は既に内定しているという安心感もあり、それまでは異国でいろんな体験を積みたいと考えたのでした。その体験も旅行や語学留学などではなく、異国に飛び込んで“武者修行”のようにして、現地で実際に働く体験コースとしての「インターンシップ」制度の門を叩いて、この「ベトナムという道場」に入門してきたのでした。
それを彼の口から直接聞いた時に、私は大いに感心しました。私も今までこのベトナムでいろんな若い人たちに会いましたが、彼のように「インターンシップ」の制度に応募して、“武者修行”のような覚悟で来ている人物に会うのは初めてのことだったからです。
このベトナムで今まで会う日本の大学生たちは、単なる旅行者か、スタディツアーか、語学留学生がほとんどであり、彼のように就職が内定しているケースでは、卒業旅行で友人数人と連れ立って来るパターンが多かったですね。彼のようにわざわざ自分自身を、いわば「試練の場」に敢えて放り込むような人は見たことがありませんでした。
だからこそ、その話を彼から聞いた時に、若くしてそのような志を抱いているTくんに、彼がこのベトナムにいる間は可能な限りの励ましをしてあげようと思いました。
「インターンシップ」の制度で異国で働く若者たちには、一応は給与が支給されます。しかし会社から見れば、彼らの扱いは「見習いのまた見習い」くらいに考えているのかどうかは分かりませんが、その金額を聞きますと驚くべき薄給です。
当然彼もそれを承知の上で、ベトナムに来ることは正式に社会人として飛び立つ前の“武者修行”として考えていますので、何の屈託もありません。そのことにも私は、またまた好感を持ちました。
彼が私たちと顔を会わせる時には、いつも「こんにちは!」と明るい・大きな声で挨拶してくれます。ベトナム戦争当時の20代初期に、ベトナム南部の田舎で、バナナを植えていたあのYさんは、自分の若かりし日のことを重ね合わせてしまうのか、「今どきの若者にしては覇気があり、元気があり、明るさがあり、彼に会うと嬉しくなって来るんだよね〜。」と、私に話してくれました。
そして彼が「インターンシップ」に応募して、このベトナムで働いている会社は本社が日本にあり、アジアの各地にオフィスを置いている経営コンサルタントの会社でした。そこで彼が任された仕事は「営業」でした。
それもベトナムの会社を主な対象にした「営業」でした。その会社から命じられた仕事は、その会社が出している出版物の中の、広告を出してもらえる会社の新規開拓でした。
「ベトナムの会社に営業というけど、ベトナム語が出来ないあなたがどうやって営業するの?」と私が聞きました。実際彼はもともとが五ヶ月間しかベトナムの任期はなかったので、ベトナム語の学校に通う時間など当然ありません。
彼は「電話を掛けた時に、英語の通じる会社かどうかを判断して、英語の通じる会社とだけ話して、アポが取れたらその会社に向かいます。そしてそこでも英語で話します。」と答えました。
彼は朝出社したらまずベトナムのぶ厚いイエロー・ページをめくり、片っ端から電話を掛けてゆくそうです。しかし電話を掛けた相手先が英語が通じるか否かは、掛けてみないことには分かりません。そしてアポが取れて営業に出向き、夕方会社に戻ると、また翌日のアポを取るために電話を掛け続けるのでした。
彼が言うには、「掛けた相手の約6割が、英語が通じる会社でした。そしてその中の2割の会社とアポが取れて担当者と会えることになり、10社の担当者に会えるとしたら、そのうちの2社くらいと契約が取れました。」と、その契約成立の時を思い出したかのように、嬉しそうに話してくれました。私から見ますと、彼のように明るく・快活な性格の人間は、相手先からも好感を持たれる営業マンのような感じがします。
彼の会社はサイゴン市内の中でも今開発が著しい七区にあるのですが、彼は自分のバイクがないので、アパートからそこまで毎日バスで通います。そして毎日そのバスの中で展開する光景が、彼にとっては「面白くて、笑えてたまらないんです。」と、彼が通勤途上で日々遭遇する体験談を語ってくれました。
私は彼よりもベトナム滞在が当然長いのですが、日々の移動はバイクを使いますので、市内バスに乗った経験は今まで2・3回しかありません。そういう意味では彼の“バス体験談”は、私自身も初めて聞くような内容が多く、(へ〜、そうなの)と笑える話でした。
まずバスの中のお客さんに、宝クジなどを売る少年・少女が平気で乗り込んでくるのを車掌が咎めもしないし、さらには車内でそれを売るのも注意しないこと。お客がバスの中で、携帯電話で辺りの迷惑も考えずに大きな声で話していること。バスの窓から、飲み終わった後のジュースの空コップやビニール袋を平気で放り投げること。
そして日本のデパートなどでよく見かけるような、商品の「実演販売」を市内バスの中で実演してくれた時には、彼はその演技を見ながら涙が出るほど笑ったそうです。彼がそのバスの中で見た「実演販売」は、果物や野菜の皮むき器と、着火マンでした。
果物と野菜の皮むき器の「実演販売」の時には、本物のキュウリとサツマイモを車内に持ち込んで、そのキュウリとサツマイモの皮を実際にシャッ・シャッとむいて見せ、「どうだ、包丁よりも簡単にむけるだろう!」という説明をしたそうです。
さらに面白いのが着火マンの「実演販売」でした。車内で数本の着火マンの火を最大限にして、お客さんたちの前でこれも実際に火を噴かせて見せたのでした。しかし数本の着火マンが「シュボーッ」と音を立てて、長い火を噴いているのを見ても、お客さんたちは淡々とした様子でそれを眺め、バスの車掌が特に何も言わないのにも驚きました。
火気類を公共の場所で扱うのに慎重な日本では、考えられないような「実演販売」でしょう。そして興味深いのは、それらの商品を市内バスの中で買う数人のお客さんたちがちゃんといたということでした。
さらには「あれは傑作でしたねー!」と、彼が大笑いしながら話してくれたのが、天秤棒の両端に大きな籠をぶら下げたおばあさんが、その天秤棒と籠をバスの中に持ち込もうとして、この時はさすがに車掌から「それはダメだ!」と注意されたそうですが、「チョットそこまでだからいいじゃないか。」と、その車掌に食い下がっていた光景だったそうです。「毎日紙芝居を見ているようで、ほんとうに楽しかったですよ。」と笑っていました。
ベトナムでは、こういう市内バスに限らずローカルバスなどでも、座席二人ぶん以上を占有するような大量の荷物を車内に持ち込んだり、車内に入らない大きな荷物は、バスの屋根にヒモを掛けて積んでいる光景を良く見ますので、そのような場面は私も想像出来ました。田舎では、バイクや自転車などをローカルバスの屋根に積んで今も走っています。
日本のように宅急便の制度がまだ発達していないアジアの国々では、ベトナムに限らずバスや列車が宅急便を代用しているようなところがあります。私自身も以前ベトナムの北部で長距離を移動する必要があった時に、列車にバイクを積み込んで移動したことがありました。
バイクはバイク専用の車両にまとめて収納されていて、お客が座る車両とは別になっています。そして積み込んだバイクのガソリンが自然発火すると危ないので、ガソリンは全て事前に抜かれています。そして列車が着いた駅から自分のバイクを降ろし、そこからそのままバイクに乗って走ります。着いた駅からすぐ移動手段が確保出来るので、ある意味では大変便利なシステムです。
また営業活動の移動で時どきタクシーを使う彼は、タクシーの運転手とも料金のことでは良くもめたり、ケンカしたりしたこともあったようです。ある時などは、タクシー運転手が道を間違えたのか、彼の言った目的地を運転手が聞き間違えたのかして、目的地に着いた時のメーターの表示は、普通に着いた場合の料金の三倍の料金になっていました。
そして運転手からそのメーターの料金を請求された時には、彼もさすがに切れて、タクシー会社の営業所に直接電話して、二時間ほどスッタモンダしたあげく、最後は「結局半額までにまけさせました。」と、これも「いい修行をした。」という感じで、サバサバした話しぶりでした。
この五ヶ月間に会っていた彼は、日々精神的に逞しく成長している様子で、Yさんなどは(このベトナムでの生活は、彼の気性には合っているよ。このままずっと続けてここにいたらいいのにね〜。)と、私に話していました。そして彼はベトナム人女性との淡い恋も経験したようですが、なにせ短い任期のベトナム滞在であっただけに、雨上がり後の虹のようにはかなく消えてゆきました。
彼がベトナムを去る日が近づき、年の瀬が押し迫ったある日に、彼の送別会をベン タイン市場前の屋台村で、みんなでしてあげることにしました。この時には十数人ほどの友人が集まってくれました。わずか五ヶ月間ほどのベトナムでの滞在でしたが、Tくんは多くの、日本人・ベトナム人の友人を持ちました。
そして宴たけなわの頃、私が何気なく「ベトナムから日本に戻った後はどうするの?」と聞きましたら、Tくんは「すぐにアフリカに行きます。」と答えました。「えーっ、ベトナムの次はアフリカへ行くの!」と、その話は初めて聞きましたので、私も驚きましたが、参加したみんなもびっくりしていました。「そのアフリカのどの国に行くの?」とさらに聞きましたら、「トーゴという国です。」と答えました。
「トーゴ・・・?」私には聞き慣れない国でした。「その国はアフリカのどのあたりにあるの。」とTくんに聞きましたら、「西アフリカのほうで、アフリカの地図で見ますと、後頭部がせり出した下のほうにあります。」という答えでした。
しかし彼もそれ以上は詳しくは知らないようで、後で私も調べましたら、確かに「トーゴ」は西アフリカに位置していて、ナイジェリアとガーナに挟まれ、面積は約5万7千平方キロ、人口約660万人の小さな国でした。その形は南北に細長く、まるでネクタイを締めた形に似ています。
「しかし何でまたそこに行くの?」と聞きますと、「トーゴにはHIVエイズ撲滅の啓蒙活動をしているNGOの団体があって、その活動に加わることにしました。」と、サラリと言うではありませんか。
「そのトーゴにあるNGO団体には、知り合いや日本人がいるの。」と質問しますと、「いいえ、そういう知り合いはいませんし、日本人がいるとも聞いていません。」との彼の答えでした。そして予定では、そのアフリカ行きを終えた後には、この春の四月に日本に帰るということでした。
この言葉を聞いて、この場にいた人たちは彼の已むことのない行動力のすごさに、ホトホト感心しました。彼がこれから赴く「トーゴ」という国が、実際にどのような国なのかは彼自身も、そして私たちも詳しくは知りません。
しかし生活習慣や文化、食事などの点において、ベトナムと比べたら大きな違いがあるのは明らかでしょう。そしてそのことは彼も充分承知の上で、これから「トーゴ」に向かおうとしているのです。
ベトナムでの生活体験は、彼にとって生活習慣や食事面では大変馴じみやすいものでした。やはり米を主食にした国々の食事文化は、「ご飯+おかず」が基本的なパターンであり、「おかず」には野菜、肉、魚類が添えられて出てくるのは共通しています。ただ「味付けの違い」が、それぞれの国によって特色があるというくらいでしょうか。
そして私は送別会の二・三日後に、彼に再度の別れの挨拶をしたく、彼の携帯に電話を掛けましたが、「おかけになった電話番号は、今現在使われておりませんので連絡が出来ません。」と、ベトナム語で音声が流れて来ました。もうこの時にはTくんは次の“武者修行”の地に向けて、新たなる旅立ちをした後のようでした。
彼の若々しい行動力を 短期間ながらも間近に見ていた私は、司馬さんの『竜馬がゆく・立志編』の最初に現れる、竜馬が十九歳で江戸に剣術修行に行く場面をふっと思い出しました。
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