春さんのひとりごと
<天然蜂蜜を求めて 〜 Dong Nai 再訪〜 >
「次は蜂蜜を獲りに行きましょうか。しかも天然の蜂蜜を。」
と声をかけて頂いたのは、メコンデルタで 20 代の時にバナナを植えていた、あの Y さんからです。私は 【天然蜂蜜】 と聞いて大いに興味が湧き、「是非行きましょう!でも、それはどこにあるのですか。」と聞きますと、「以前訪問した Dong Nai( ドン ナーイ ) 省 です。」と答えられました。
今からちょうど一年半前に、 Y さんと、 Y さんの友人である SB さんと私の三人で、それぞれ一台ずつバイクに乗って Dong Nai 省を訪問したことがありました。その時は 「蛇を捕まえるため」 でした。しかし雨季の季節だったことでもあり、残念ながらその時には蛇を捕まえられませんでしたが、今でも思い出の深い、バイクによる小旅行でした。
「なぜ Dong Nai 省まで蛇を捕まえに行ったのか。」について説明すれば、 メコンデルタ の Cai Be に住んでいた、 『元日本兵・古川さん』 にまで話が及びます。古川さんは 『第二次大戦』 のために召集されて最初中国に赴き、それからベトナムに入り、そして最後は Cai Be で、ついに日本に帰ることなくその一生を終わられました。
古川さんは Cai Be で六人の子どもさんをもうけられましたが、今 Dong Nai 省には、長女 A( アー ) さんと次女 B( ベー ) さんの二人が、果樹園を開拓するために Cai Be から移り 住んで暮らしています。さらに最近、四女の方も一緒に住んでいるということでした。
Y さんという人の 【人柄のすごさ、こころの優しさ】 は、古川さんが亡くなられて今年で 37 年 も経つのに、別に血縁関係は全くないのに、ベトナムにいる間は頻繁に Cai Be や Dong Nai の家族たちと連絡を取り、 百キロ 以上の距離をものともせずに、いつもたくさんのお土産を抱えて、自分でバイクにまたがって訪問されていることです。時に私も同行させて頂いて、 Cai Be に住む古川さんの長男の家族や、 Dong Nai に住む長女 A さんのご家族の方々と会うチャンスに恵まれました。
しかし、 Dong Nai に開いた果樹園はまだ果樹自体が実を付けていないので、長女 A さんの旦那さんは、副業として蛇を捕まえる仕事もしているのでした。焼酎に入れる蛇や毒蛇を捕まえて、それを売るためです。 A さんの旦那さんの名前は、 Muoi( ムーイ ) さんといいます。毎日外に出ているので、顔も腕も真っ黒に日焼けしています。
Y さんがその Muoi さんと電話で話していたら、「ここ最近蛇は獲れないけれど、蜂蜜が獲れるよ。自分が山の中に入り、木に登って獲っているので、百%天然の蜂蜜さ。」と、 Muoi さんが言うのでした。 Y さんはそれを聞いて「えぇーっ、本当なの!」と驚き、そのことを日本人の友人・知人に話しました。私も聞きました。
するとそれを聞いた人たちみんなが、「それが本物なら、大変貴重なものですねー。少々値段は高くてもいいですから、もらって来てくれませんか。是非私も一本欲しいですよ!」と強くお願いするので、 ( それではまた、 Dong Nai までバイクを飛ばして行って来るか! ) と決められました。それで、「また一緒に Dong Nai に行きませんか。」と、私にも声をかけられたのでした。私は「いいですよ。行きましょう!」と答えました。
さらに今回の Dong Nai への旅には、もう一人の若い日本人・ SK くんも同行を強く希望しましたので、 Y さんも「いいですよ。」と了承されました。 SK くんは今年 27 歳で、ベトナムには約二年間住んでいます。 SB さんの紹介で、二年前に私たちは知り合いました。前回は Dong Nai に一泊二日しましたが、今回は二泊三日の予定です。
私たちは当日の朝、ベンタイン市場近くで待ち合わせて、朝食にフォーを食べて、ちょうど 8 時にサイゴンを出発しました。 Y さんは事前に、サイゴン市内では超有名なパン屋さん 『 Nhu Lan( ニュー ラン ) 』 から、向こうの家族のために大きなパンを買って来ていました。 Cai Be に行く時にも、同じように買って行きましたが、こういう高級なパンは田舎では売っていないので、みんなが大変喜んでくれるからです。
Dong Nai まで行くには、まず 国道一号線 に入らないといけませんが、今回は最近出来た一区と二区を結ぶあの地下トンネル 『 Thu Thiem( トゥー ティム ) トンネル』 を通ることにしました。そして今回は二回目の Dong Nai 訪問でもあり、要所・要所の走行距離をしっかりと記録することが出来ました。
しかし私は今回初めて『 Thu Thiem トンネル』を通って国道一号線まで出た時、 ( 何とも便利になったものだな〜・・・ ) と、あらためて思いました。今までは大回りしてサイゴン橋を渡って国道一号線に入っていましたが、 Thu Thiem トンネルを潜って二区の広い道路を走ると、そのまま国道一号線に入れるようになったのです。
サイゴン市内を 8 時に出た私たち三人は国道一号線を走り、ちょうど 二時間後 の 10 時に、 Da Lat( ダ ラット ) 方向に行く 国道 20 号線 に入りました。長時間同じ姿勢でバイクに乗っていると、疲れてきます。それで、前回来た時にも立ち寄った喫茶店で一旦休憩して、コーヒーを飲みました。ここまでで、メーターの表示はサイゴンを出てから約 60 km になっていました。
そこで 20 分ほど休んで、またバイクに乗って走りました。 Y さんが先頭、 SK くんがその間に入り、私が一番後ろを走って行きました。この Da Lat に行く国道 20 号線は、なだらかな丘陵地帯になっていて、道路の両側はゴムの木や果樹が植えられ、バイクで走っていると何ともいえない爽快感を覚えてきました。
この道路をこうしてバイクでじっくりと走るのは二回目になりましたが、ベトナムの中でも大好きな光景の一つになりました。期間が短くても、長くても、 『旅に出る』 というのは、 『日常の世界』 から 『非日常の世界』 にスリップして行き、知らない土地で見る新鮮な光景や事物が目の前に広がってゆきます。そして様々な人たちとの出会いがあります。それが 『旅の魅力』 だろうと、個人的には思います。
さらには、私の前を走っている二人の背中を見ていますと、一年半前に Y さんと SB さんと私の三人で、この同じ道をバイクで走った時の懐かしい光景が重なって来ました。 SB さんは今東京で仕事をされており、なかなかベトナムに来ることも叶わず、 ( また同じメンバーで Dong Nai までバイクの旅をすることは、これからも出来ないだろうな〜 ) と思います。
途中に市場があるところで、インスタント・ラーメンを一箱、缶ビールを二ケース買いました。先方が今日の宴会に何人呼んでいるのか分かりませんでしたが、 Y さんは「とりあえず、今日飲み食いするぶんくらいはあるでしょう。明日のぶんはまた明日買えばいいし。」と言って、それを三人のバイクの後ろにくくりつけてまた走りました。
そして、 喫茶店を出てから一時間ほど経った頃、 La Nga ( ラー ガー ) 橋 に到着。距離 にして、喫茶店からは 約 35 kmでした。私はこの橋の、何とも 『詩的な名前』 が大好きです。前回この橋に来た時には川を流れている水の量が少なかったのですが、この時には豊かな水が流れていて、橋の下には船上生活者の船が数多く浮かんでいて、魚の養殖をしている生簀が良く見えました。橋の上からそれを見ていますと、一幅の絵画のような、 実に美しい光景に見えました。
La Nga 橋から 15 分 くらい走ったところで、国道 20 号線から左折して田舎道に入りました。国道 20 号線はバスやトラックや乗用車がひっきりなしに走っていましたが、ここからは車の数が極端に少なくなります。 20 分ほどしたら、茶色をした水が流れている川があり、そこを小さいフェリーで渡ります。人間一人とバイク一台で 4000 ドン ( 約 16 円 ) 。昨年はワニの子がこの川を泳いでいましたが、残念ながら今年はいませんでした。
フェリーを降りたところで、スイカを 6 個買ってまた田舎道を走りました。ここの先には昨年きれいな蓮の花が咲いていた池があり、 ( 今年もまた咲いているかな・・・ )と期待していたのですが、乾季のせいなのか、蓮の花どころか池自体が干上がっていて、ほとんど水がありませんでした。
そしてそこからしばらく走って、右に曲がりました。ここからが舗装されていない悪路になります。前回来た時には雨季だったので、この悪路を通過するのに難儀を極めました。狭い道路の至る所に、パルプ用の木材を積んだ大型トラックの車輪が刻んだ、泥水を湛えたワダチがあったからです。水が濁っているので、そのワダチの深さが良く分からないのでした。
かつて Y さんが一人でここを通過した時に、 ( 大した深さではないだろう ) と思い、「エイヤッ!」と突っ切ろうとしたら、バイクごと腰の深さまでの水溜りにはまってしまったのでした。そこから抜け出そうにも、人気の少ない田舎道なので、誰も手伝ってくれる人がいません。
さらに約百キロ近いバイクですから、泥水の中の粘土質のワダチにはまり込んだバイクは簡単には上がりません。ハンドルの下に自分の肩を入れて、何回も何回もバイクを前後に動かしながら、最後は一気に気合を入れて上に持ち上げて、ようやくそこから抜け出せたということを、以前 Y さんが話してくれました。当然、バイクの排気塔の中にも泥水が入ったのですが、一発でエンジンがかかったので、「 HONDA のバイクはやはりスゴイ!」と感嘆したように話してくれました。
しかし今回は乾季でしたから、道路はカラカラに乾いていて、前のバイクが通過すると、物すごい砂ボコリが舞い上がります。そしてその道路を見て、あらためて驚きました。トラックのワダチの深さにです。バイクが落ち込んだら、まず抜け出せないだろうな・・・と思うような深さでした。やはり、ここには乾季の時に来るべきなのでしょう。
そして 12 時 40 分 に、ようやく目指す B さんの家に着きました。途中の休憩時間を引けば、 約 4 時間 近く掛かったことになります。サイゴンから走った距離を計算すると、この時バイクのメーターは 117 キロを指していました。ここの村の名前は、正式には 『 Ap 4 Thanh Son Dinh Quan Dong Nai 』 といいます。『 Dong Nai 省 Dinh Quan 県 Thanh Son 村 第四部落』という意味です。
我々が到着すると同時に、みんなが庭先に飛び出して来てくれて、 Y さんと私たちをニコニコとして迎えてくれました。ワンちゃんまでも走って来て、馴染みの Y さんには甘えたようにすり寄り、見慣れない私と SK くんには、大きな声で「ワンワン」と吠えます。犬が大の苦手だという SK くんは、バイクの前で凍りついたように立ち尽くしています。
以前来た時には、 B さんは所用があって A さんしかいなくて、今回この家で初めて B さんにも会いました。その時は、 A さんと B さんは同じ家に住んでいました。今 A さんはすぐ近くに別の家を新築しましたので、その家に Muoi さんと一緒に住んでいます。
家の中にある古川さんと奥さんの写真を見ましたら、古川さんに顔立ちが一番似ているのが四女、奥さんに似ているのが B さんでした。
ちなみに、この A( アー ) さん、 B( ベー ) さんという名前は本名です。さらには、 A さんの旦那さんの名前の Muoi というのは、数字の『 10 』です。聞けば、彼は9人兄弟の末っ子だそうで、ベトナムでは長男は『 2 』から数え始める習慣があり、それで『 10 』と呼ばれているのでした。
ベトナムの人の名前の付け方というのは、日本人から見ると時に首を捻ることがあります。珍しくないのは、家の中で家族が我が子の名前を呼ぶ時には 【あだ名】 で呼び、外では家族以外の他の人たちは、戸籍に付けた 【本名】 のほうで呼ぶことがあります。同じ人物なのに、内と外で二つの名前を使い分けているわけです。
私の知人の日本人が、ベトナム人の家に電話を掛けて【本名】のほうで「○○○さんはいますか?」と聞いたら、父親が出て「○○○?そんなのはこの家にはおらんぞ。」と答えて電話を切ろうとしたら、その後ろで母親が、「あんた、何を言ってるの!それは娘の名前じゃないの。」と叫んでいるのが聞こえたそうです。要は、父親はふだん家庭の中では【あだ名】で呼んでいるので、戸籍に付けた【本名】のほうをすっかり忘れていたのでした。
私たちも家族全員に挨拶をして、バイクに積んでいた手土産を降ろしました。しかしY さんの周到さは、子どもたちのために飴やお菓子まで事前に用意されて来たことです。自分のバッグからそれを取り出して、子どもたち一人・一人に配っていました。 ( どこまでこころ優しい人なのだろうか・・・ ) と思いました。
私たち三人はホコリにまみれた顔や手足を洗ってから、家の外のテラスのような場所で食事をすることになりました。屋根はついています。もうすでに調理された料理がテーブルに並べられていました。 Y さんは事前に「氷だけは先に買っておいてくれ。」と連絡していました。それで、途中で買って来た缶ビールのケースを開けて、その氷と一緒にまず 10 本ほどをバケツの中に沈めました。
この時に宴会の場に集まっていたのは、 A さんの旦那さんの Muoi さんと、 B さんの旦那さん。そしてすぐ近所に住んでいる男性二人が来てくれました。このお二人は前回来た時にも参加していました。こういう酒席の場には、ベトナムの田舎では普通、女性群は参加しません。男性だけです。女性群は部屋の別室で食事を摂っていました。
B さんの旦那さんの名前は Hoang( ホアーン ) さんと言います。年齢は 60 歳前です。 Y さんが言うには、 Hoang さんは 『ベトナム戦争』 当時の グエン・バン・チュー大統領 の政権下で、一時副大統領を務めた、 グエン・カオ・キ氏 に顔がそっくりだというのです。後でサイゴンに帰ってから私もその写真を見ましたが、確かによく似ていました。
さらに面白いのは、 グエン・バン・チュー大統領もグエン・カオ・キ 副大統領も、 Y さんの奥さんの実家である、あの有名な フォー の店 『 Pho Tau Bay( フォー タウ バイ ) 』 に自動小銃を持った護衛付きで現れ、フォーを食べて帰って行ったのでした。
またまた面白いのは、この『 Pho Tau Bay 』はもともとサイゴン市内に一軒しかないのですが、実は国道一号線沿いに、今二軒同じ名前の店が営業していることです。 Y さんの奥さんの 『 Pho Tau Bay 』の店の中には、 【ここが本店です。これ以外の支店はありません。】 と書いてあるのですが、実際には同じ名前の店が、国道一号線沿いでちゃっかりと『 Pho Tau Bay 』を開いています。 Y さんも苦笑していました。 ( 次に Dong Nai に行った帰り道には、あそこで食べてみようか ) と言っていました。
いろいろな資料を読みますと、実物の グエン・カオ・キ氏は実に数奇な運命をたどりましたが、今この Dong Nai に住んでいる Hoang さんはどこの会社にも勤めることなく、子どもたちの仕送りで悠々自適の生活をしています。
Y さんが言うには、朝早く起きたらまず体操をして、朝食を食べた後には木陰にハンモックを吊って、毎日のんびりと寝ている生活だそうです。日々時間に追われている日本人からみれば、何とも羨ましい生活だといえます。
10 分ほどバケツの中で冷やしたビールを取り出して、私たちはみんなで『乾杯!』をしました。炎天下の中を長時間バイクで走って来た我々には、実に美味いビールでした。今日ここに集まったベトナム人の方は、 Y さんとは旧知の仲ですから話も弾んでいます。
そして家の周りは高い木や果樹に囲まれて、実に静かなものです。涼しい風が吹いて来ます。家のすぐ横の崖下には、小川が流れています。聞こえてくるのは、蝉しぐれと小鳥の鳴き声。そして、ニワトリとひよこの「ピーピー」と言う声だけです。
少し離れたところにあるヤギ小屋からは、「メーメー」というヤギさんの声も聞こえてきました。車の音も、バイクの騒音も、クラクションも、カラオケの声も全然してきません。ここに来ますと、あのサイゴンの喧騒が別世界のようです。
Y さんを囲んでの宴会は、またまた大いに盛り上がりました。ふだん私は昼間からビールを飲むことはないのですが、こういう時には何本も飲めます。バケツに入れた最初の 10 本のビールはすぐに無くなり、またさらに追加して入れました。そして出された料理の中には、ニワトリの手羽先のヌックマム味のから揚げがありました。 Y さんは手を合わせてからそれを頂いていました。
昨日まではこの家の庭先を遊び回っていたのでしょうが、我々が今日ここに来るので、 ( おそらくは今朝ツブされたニワトリだろうな・・・ ) と、 Y さんは知っているからです。事実ここには、親鳥とひよこを合わせたら、 50 羽ほどのニワトリが走り回っていました。
小さいひよこが「ピーピー」鳴きながら、お母さんニワトリの後をヨチヨチと付いていきます。そしてこれまたいつもベトナムの田舎でよく見る光景なのですが、ワンちゃんがそのひよこのすぐそばを歩いていますが、全く無関心です。
ビールを飲み、料理を食べて一息ついた三時過ぎ頃、 Muoi さんがにこにこして Y さんに話しかけてきました。「今から自分の家に来い。実は、もうすでに蜂蜜を獲って来てあるから。」と。それを聞いた Y さんはもちろん、私たちも嬉しくなり、「今からすぐ行きましょう!」ということになりました。
Muoi さんの家は、我々が宴会をしたテーブルから 50 メートルくらいしか離れていません。そこに行くには、マンゴーの木が植えてある畑の中を通って行きます。するとそのマンゴーの木の間に、ちょうどカヤのような形をした、背丈の高い草が植えられていました。 ( 雑草かな? ) と思ったらそうではなく、何とそれは 『レモングラース』 なのでした。
ベトナム料理屋さんなどでは、すでに調理された料理の中に入っている『レモングラース』はよく見ますが、こうして畑の中に植えられている『レモングラース』は初めて見ました。その葉っぱをちぎって匂いを嗅いでみると、確かにあの『レモングラース』特有の強い芳香がしてきました。 ( 『レモングラース』というのは、こういうところに生えているのか・・・ ) と、あらためて驚きました。
そして家の中には A さんがいて、私たちに見せるために、『天然蜂蜜』が入ったバケツをぶら下げて来ました。それを見てびっくりしました。何と、バケツ一杯に『天然蜂蜜』が山盛りに入っていたからです。 10 キロくらいはありました。
(これが『天然蜂蜜』かぁ〜・・・)
私たち三人の日本人はしばらく手を触れずに、じーっと見ていました。ベトナム経験が長い Y さん自身も、 『天然蜂蜜』の現物を見るのは初めてということでした。私や SK くんなどは、当然初めて見ました。
Muoi さんが言うには、「あんたたちが来て山に入って蜂蜜を獲りに行こうとしても、最近はずいぶん山奥に入って探さないといけない。しかも、二泊三日の短さでは、果たして見つかるかどうか分からないので、事前に獲っておいたんだよ」と。「事前に・・・」というけど、「いつから?」と聞きましたら、何と「三週間前から」という返事でした。
今私たちに目の前にある『天然蜂蜜』は、ちょうどトウモロコシやバナナのような形をしていました。表面は白い巣に覆われていました。その巣の穴は、養殖の西洋ミツバチと比べたら、とても小さいものでした。
Muoi さんが、せっせとその『天然蜂蜜』を作った功労者の蜂さんを実際に見せてくれました。その胴体は黒い色をしていて、西洋ミツバチと比べてもずいぶん小さかったですね。おそらく、ベトナムの田舎で昔から生息してきた蜂なのでしょう。しかも実に不思議なのは、バケツに入れて上からはフタもせずに、ただ部屋の中においているのに、アリが全然寄って来ないということです。
さらには山の中の木の枝に蜂蜜があっても、アリはそれに群がったりはしません。テーブルの上に砂糖を数粒落としても、すぐアリの行列が発生しますが、蜂蜜の場合はそういうことはないのです。「蜂蜜は、原液の濃度が濃すぎるからでしょうね。お湯で溶かすと、アリが来ますよ。」と Y さんが説明してくれました。事実、コーヒーに蜂蜜を溶かして飲んだ後に、台所に放置しておくと、コップの底にアリがたかっていたそうです。
Y さんが言うには、『天然蜂蜜』は強い殺菌力があるので腐敗防止の効果があるらしく、 《エジプトのミイラ》 を作る時には、蜂蜜を何回も全身に塗りたくり、そうやって今も残る、あの 《エジプトのミイラ》を完成させたというのです。ミイラを精密検査した時に、そのミイラの体から蜂蜜の成分が検出されたということです。
さらに Y さんは本物の、純度百パーセントの 『天然蜂蜜』 と、 『ニセ天然蜂蜜』 の見分け方を説明してくれました。『天然蜂蜜』は蜜蜂が巣に蜜を運び入れる時に、体に付いた水気を落とすために、羽を何回も羽ばたかせて、水気を完全に切ってから中に入るそうです。ですから、『天然蜂蜜』には水分がないというのです。
しかし『ニセ天然蜂蜜』は、希少価値の、絶対量の少ない『天然蜂蜜』から水増しして量を増やします。あまりに水を入れると、素人でも見破りますが、普通の購入者には見ただけでは分からないレベルまで水を入れ、容量を増やして、それを『天然蜂蜜』だよ!と言って売るわけです。そういうのは、素人には見抜けないそうです。 Y さんはその見分け方を、こう説明してくれました。
「子どもが学校で使っている、普通の紙質のノートがありますね。あれに一滴ポタッと蜂蜜を垂らして見て下さい。しばらくして見てみると、ノートの上に落とした蜂蜜の周りに水分が滲んで広がっていたら、それは『ニセ天然蜂蜜』です。蜂蜜の周りが何も滲んでいなければ、それが純正の『天然蜂蜜』です。」
「その白い巣の中に、指を入れて舐めてみろ」と Muoi さんが言うので、お言葉に甘えて舐めてみました。すると琥珀色の液体をした、キラリと輝くような『天然蜂蜜』が外に溢れてきました。指についた蜂蜜は、実に豊潤な味がしました。やはり天然だけに、しつこい甘さがありません。私たちがサイゴンに帰るまでに、これを絞って蜂蜜を詰めた容器に入れる作業をこれからしてくれるというのです。
そして最終的にバケツ一杯に入ったこの蜂蜜からは、一リットル入りのポリ容器にして、全部で五本の『天然蜂蜜』が取れました。 A さんが布で濾してそれをキチンと容器に入れてくれました。サイゴンにいる友人から Y さんが頼まれた人数ぶんと、私のぶんでちょうどピッタシでした。
さらに Muoi さんは、山に入ってからどのようにして『天然蜂蜜』を獲るかの様子を話してくれました。まだ蜜蜂が巣を作っている初期の頃に目を付けていても、それは自分のものではないので、誰か別の人に獲られたら、それで終わりです。また別の場所に移動して見つけないといけません。
そして Muoi さんが言うには、(最近『天然蜂蜜』はこの近くではなかなか獲れなくてねー)、と言って、バイクなどが通る道もない森の中にどんどん入って行かないといけないそうです。しかし、朝から出て夕方まで探し回っても、一日で一つか二つくらいしか獲れない時もあります。
しかもただ山の中を歩けば獲れるものではなく、巣を探すためにはいつも視線を上に向け、頭を上げた姿勢で歩かないといけません。これは結構疲れる姿勢だろうと思います。
一匹でも蜜蜂が山の中を飛んでいたら、その近くを徹底して、目を皿のようにして探すそうです。
そしてめざす『天然蜂蜜』の巣が見つかると、ハシゴなどをいつもは持ち歩かないので、その巣の近くまで木によじ登らないといけません。時には、十メートルの高さまで登ることもあるそうです。大きな木の場合は登るのも楽ですが、幹が細い場合もあります。折れないように、細心の注意をして登らないといけません。
特に乾季の時には風を伴う雨風が少ないので、蜂は高い木の上で巣を作るのを好むそうです。雨季の時には、風が出て、巣も濡れるので、雨風から巣を守るために、乾季の時よりも低い位置に巣を作るといいます。いずれにしても、両手・両足を使い、自分一人で登るのに変わりはありません。下から長い棒で叩き落とすことは出来ません。
そして巣の近くまで登ったら、蜂に刺されないように、タバコの煙をその巣に吹き付けて、蜂を追い払います。そしてミツバチが枝に餅を巻きつけたように作った巣を、選定バサミで慎重に・慎重に切り落とします。
もし蜂蜜が地面に落ちてその柔らかい巣が壊れたら、蜂蜜が外にこぼれてしまい、商品価値はなくなるからです。業者は絞った原液を買うのではなく ( ニセ天然蜂蜜をつかまされる恐れがあるから ) 、その蜂蜜が詰まった巣を見て「これは本物だ!」と判断して買うからです。
それを聞いていましたら、『天然蜂蜜』を獲ると言う作業は、実に大変な苦労があるものだな〜と、この時私たちは思いました。ある時は蜂に刺されることもあるでしょうし、登った木から落ちることもあるでしょう。それだけに、 Y さんという伝手を通して Muoi さんを知り、 Muoi さんが苦労して獲った『天然蜂蜜』を味わえた我々は、実にラッキーというべきでした。
この後 Y さんはサイゴンから持参した釣竿で、 B さんの家の崖下を流れる小川で魚釣りをしました。ここには橋が架かっています。その橋の上で、子どもたちと一緒になって、エサの付け方を教えています。私は、 Y さんが魚を釣っている姿を初めて見ました。エサの付け方、竿の振り方など、本人は淡々とやられていましたが、その姿は実にサマになっていました。
聞けば、 Cai Be にいた時にも時間がある時には、メコン川に向かって釣り糸を垂らしていた そうですから、 50 年近い釣り歴があるわけです。あの作家の 「開高健」 さんも、 Y さんが Cai Be にいた時に釣竿持参でそこを訪問されました。そしてメコン川に向かって釣りをされましたが、その時には小さい魚が一匹しか釣れなかったということです。
しかしこの Dong Nai の小さい橋の上から釣り糸を垂らしたら、ものの二・三分で次々と魚が釣れました。でもハヤのような小さいサイズの魚です。「よっぽど腹が減っていたんだろうね。」と Y さんが笑っていました。結局 10 匹近く釣れましたが、あまりに小さいので食べるのも可愛そうだと Y さんは言って、そのまま全部リリースしました。
そしてこの日も、私たちは 12 時近くまで飲んで話していました。この日の夜までも、 Y さんの壮健さは全然衰えません。 ( この壮健さは一体どこから来るのだろうか ?) と、私には不思議でしたが、最近 Y さんの日常生活を聞いて、ようやく分かって来ました。
Y さんは日本にいる時は、「毎朝 10 kmを走っている。」というのです。「平均して一時間半くらいは走る」といいます。もう少しで 70 歳に届こうという Y さんですが、その壮健さ、髪の黒さ、肌の色艶の良さは、 Y さんのその本当の年齢を聞いた時に、初めて会う人は誰しもが驚きます。
翌日は私と SK くんの二人で、ここから近い距離にある Cat Tien( カット ティエン ) 国立公園 を訪問することにしました。この国立公園のことは以前私の知人から話に聞いていて、 ( 是非行ってみたいなー ) と希望していた場所の一つだったのですが、今回願いが叶いました。
しかし、そこに行くまでの道順が分からないし、途中は舗装されていない大変な悪路があるというので、ここら辺の地理に詳しい Muoi さんが案内してくれました。 SK くんは Muoi さんのバイクの後ろに乗り、私一人が自分のバイクに乗り、計二台のバイクで行くことにしました。
朝 8 時に B さんの家を出ました。確かに、大変な悪路とホコリだらけの道が続きました。しかし、田舎道を走っている時に、頭の上からシャワーのように降って来るセミ時雨の音は、大変なうるささで私たちを歓迎してくれました。
さらに、その途中で見た光景には不思議なものがありました。村の名前はどこか分かりませんが、道路の両側に火山岩のような、表面に穴が無数に開いた塊がごろごろと転がっていたのです。その岩を利用して、屋敷周りの壁にしたり、家の土台の石垣に利用していたり、隣の境界との低い垣根にも使っていました。色がこげ茶色をしているので、それが石の壁などに一面使われているのを見ますと、ちょうど日本の 『大谷石』 のように、統一された色の美しさを感じました。
後日私の知人の、あの 『さすらいのイベント屋』 の N さんにその不思議な光景のことを話しましたら、「ああー、そこは私も行ったことがあるよ。あそこの土地はおそらく、はるか昔に火山活動をしていたようで、今も地下深く掘ると温泉が出て来るよ。」と話していました。
私たち三人は、 B さんの家からちょうど二時間でそこには到着しました。 B さんの家からは、 約 40 キロ の距離でした。 Cat Tien 国立公園内に入るためには、ここでもまたフェリーに乗らないといけません。バイクはフェリーに乗る手前の駐車場に停めました。そしてここで、 Cat Tien 国立公園の入場料を払いました。一人が 2 万ドン ( 約 80 円 ) でした。
フェリーで渡った、川幅 30 メートルほどの向こう側に、 Cat Tien 国立公園があります。ここの川もまた、茶色い水が流れています。 Cat Tien 国立公園の正式名称は、 Vuon Quoc Gia Cat Tien( ヴゥオン クオック ヤー カット ティエン ) です。 Vuon は「公園」。 Quoc Gia は「国家」 Cat Tien が地名です。
しかしここの公園は余りに面積が広大過ぎて、到底 2 ・ 3 時間くらいでは回り切れるものではありません。ここは時間をかけてゆっくり回らないと、その価値は分からないだろうなと思いました。さらには私たちが遊歩道を歩いている時にも、ここの見学に訪れる人たちはほとんどいませんでした。
私たちがこの公園から帰る間際に、白人の団体さんと、ベトナム人の大学生たちが十人ほど到着しましたが、みんな公園内に作られた「ゲストハウス」に二泊くらいしながら、この公園内を歩き回るような計画を立てていました。日帰りで帰る私たちのような旅行者が珍しいほうでした。
11 時半にその公園を出ましたが、途中で昼食は食べずに B さんの家に着いてから食べようということになり、我々はバイクを飛ばしました。そして、 1 時 15 分に B さんの家に到着。みんなはすでに先に食べ終えていました。私たちも遅い昼食を頂きました。
昼食後には、初日の宴会に参加していた人のマンゴー園を見に行きました。いやー、大変な広さのマンゴー園でした。ここの畑のマンゴーの木には、実がたわわになっていました。さらには、カシューナッツもありました。
私はカシューナッツが大好きなのですが、実際にその果実がなっているのを見たのは初めてでした。黄色く熟れた果実の先に、茶色の実が付いています。食べるのは、その先の茶色の実の部分です。彼の家の庭先には、その実をもいでビ二―ルの上に広げて日干ししてありました。別れぎわには、目の前のマンゴーの木から、枝にぶら下がっているマンゴーを手でもいで、私に持たせてくれました。
そして夜もまた宴会が始まりました。 Dong Nai での最後の夜です。市場から買って来た大きなライギョを三匹炭火で焼いて、ビールのつまみに出してくれました。日本ではライギョを食べることはまずありませんが、ベトナムでは 「ライギョ鍋」「ライギョ入りスープ」「ライギョの煮付け」「揚げたライギョ」 など、ライギョを食材にした料理がいろいろあります。ハノイには、 「ライギョ料理」 の専門店まであります。
8 時を過ぎた頃、家の回りに立つ木々の間を抜けて、遠くからにぎやかな音楽が聞こえて来ました。聞けば、今日の夜にこの村の広場で芸人の一座が歌を歌うというのです。 A さんの家族も B さんの家族も全員が、みんな服を着替えて、それを見に行こうと準備しています。子どもたちは特に喜んでいて、「早く行こうよ、早く!」と、催促しています。
まあ、何の娯楽もないこの田舎の村ですから、芸人が来ればそれだけでも楽しいのでしょう。 SK くんまでが、「僕も行きたいです!」と言いますので、みんなのバイクに一緒に乗せてもらうことにしました。慣れない田舎道ですから、自分のバイクに乗って行くより、そちらが安全です。
みんながバイク四台くらいに乗って出てしまった後に、結局残ったのは Y さんと私の二人だけになりました。私たち以外は誰もいないので、部屋の電気もテレビも全部消して行きました。これだけ暗いと蚊にたくさん刺されてしまいそうですが、この時には全然刺されませんでした。夕方は涼しいくらいの温度になりましたので、蚊も出て来ないのでしょう。
周りは森の深い漆黒の闇が広がり、隣の家の灯りも見えず、二人が座ったテラスの天井から、小さい、薄暗い裸電球がぶら下がって電気が点いているだけです。時折遠くから聞こえる芸人さんの歌以外は、シーンとした静寂の闇が広がっています。
ここで Y さんと二人でビールを飲んでいますと、話は自然と今は亡き古川さんのことに及びました。第二次大戦が終わって、 Cai Be に住む古川さんと知り合えたからこそ、 Y さんが Cai Be でバナナ園を開くことが出来たこと。あの時の古川さんとのつながりがあったからこそ、今ここ Dong Nai でこうしてみんなと宴会をしたり、 Cai Be に行ってもまたそこで楽しいひとときを過ごせていること・・・などなど。
この Dong Nai の辺鄙な田舎の村の中に、日本人である古川さんの血を引いた子どもたち、そしてお孫さんたちが住んで、暮らしていることには、あらためて感慨深いものがあります。そしてそういう人たちと現実に今会えていることに、ふと不思議な気持ちがしてくるのです。
Y さんは、 【 1975 年の サイゴン陥落】 後に出た 『外国人強制退去命令 』により、 ベトナムを強制退去させられました。古川さんは、そのサイゴン陥落の約2ヶ月少し前に亡くなられました。 Y さんは、 日本に帰ってからもずっと古川さんが Cai Be に 残した、日本人の血を引いた六人の子どもたちと、お世話になった奥さんのことが気になっていました。
「古川さんの奥さんには、感謝しきれないくらいの恩を受けました。当時住んでいたバナナ島 ( 第二農園 ) には市場もないので料理する材料がない。家にはガスもない、水道もない、火もない、鍋もない、釜もない、茶碗もない、箸もない、とにかく何も無いのです。奥さんはそれを心配して、 『毎日、遠慮しないでここに食べに来なさい。自分一人で作らなくても、ここでみんなと一緒に食べればいいのだから』 と言ってくれてね。」
「 古川さんの家に着くまでには、手漕ぎボートを漕いで 45 分くらいかかったけれど、多い時には一日に二度、朝と晩に奥さんが作ってくれた料理を食べに、本当に行きましたよ。用事があって行けない時には、 ( 病気でもしているんじゃないか・・・ ) と私のことを心配して、迎えを寄越してくれたこともありました。」
「古川さんの奥さんは、本当に典型的な 【メコンの人】 という感じの人でした。気持ちがおおらかで、明るく、やさしく、田舎の純朴さを持ち合わせていた人でした。当事私はあの農園に日本人では一人で住んでいたけど、古川さんの奥さんが親切にいろいろしてくれたからこそ、あそこで病気もしないで、何年も元気に過ごすことが出来たのだなあ〜、と今でも思っています。だから、今でもこころから感謝しています。」
そして Y さんは 1992 年 に、またベトナムを再訪されました。実に 17 年ぶりのベトナム訪問でした。しかしこの当時、ベトナム政府の外国人に対しての監視の目は大変厳しく、 Cai Be に行こうとしたその日の朝に、早速 「秘密警察」 に後を付けられました。ホテルにチェック・インした段階で、 ( 外国人が来た! ) というのは、警察に筒抜けになっていたからです。
勘の鋭い Y さんは、すぐ「秘密警察」の尾行に気づきました。それで人気の多い 『ベンタン市場』 などにわざと入りましたが、尾行を振り切れません。次に、 『国営百貨店』 に入り、しばらくゆっくりと歩きながら、次にすばやくダッシュして、ようやくその尾行を振り切ったそうです。まるで、スパイ映画を見ているような光景を想像しました。
そしてそのままローカル・バスに飛び乗り、 Cai Be に向かいました。 Cai Be のような田舎の町に降り立った時に、ベトナム人とは違う服装をしている Y さんを見たら、誰もが ( これはベトナム人ではないな。たぶん外国人だろう・・・。 ) と思ったはずでしょう。しかし、誰も「秘密警察」には駆け込まなかったようです。ついに無事に、古川さんの奥さんの家に着きました。
その日に Y さんが来ることを何も知らないでいた、古川さんの奥さんや子どもたちや、家族の驚きと感激はいうまでもありません。「ニワトリをつぶせ!」「アヒルを絞めろ!」「今から魚を買って来い!」「焼酎をもらって来い!」と、 Y さんを迎える宴会でテンヤワンヤの大騒ぎになったそうです。 Cai Be のような田舎では、さぞ一大事件であり、一大ドラマだったことでしょう。
私がそれを Y さんから聞いた時に、 Cai Be の田舎で起きた 【 17 年ぶりの邂逅】 には、実に深い感動を味わいました。特に ( 古川さんの奥さんの感激はいかばかりだったろうか・・・ ) と想像します。しかし Y さんは、ここの家族に「秘密警察」の訊問が及ぶことを恐れ、無用の迷惑を掛けてはいけないと思い、一泊だけの滞在でまたサイゴンに帰られました。
それ以来、古川さんの奥さんや家族たちとの連絡をとることはありませんでした。というより、「出来ません」でした。 Cai Be の田舎には、電話自体が無かったからです。そして Y さんの次のベトナム再訪は、 2005 年 の三月でした。 Y さんはベトナムに着いてすぐに、 Cai Be を訪問されました。そして古川さんの奥さんの家の前に立ちました。
またまた家族全員の驚きと感激は言うまでもないことでした。しかし・・・、一番会いたいと思っていた古川さんの奥さんの姿は、家の中からついに現れて来られませんでした。すでに 2004 年に亡くなられていたからでした。
「古川さんの奥さんが亡くなられた時に私は日本にいて、その最期に間に合わなかったけれども、後で子どもたちからいろいろ話を聞きました。奥さんは臨終間際まで、 『あの Y は今どこで、どうしているのだろうか?』 と呟いておられたと・・・。」
広い森の中にある果樹園で、薄暗い裸電球が一つだけ光り、ニワトリも犬も寝静まり、偶然ながら周りには誰もいず、シーンとした静寂な時間が流れる中で、声に出して話しているのは私たち二人だけでした。いつもは大きく、元気な声で話される Y さんなのですが、この時にはしんみりとした口調で、静かに話されていました。
Y さんの話が、奥さんが亡くなられるところまで来た時に、 Y さんはすっと顔を下に伏せられました。裸電球の光が反射したからなのか、 Y さんの横顔に一条の、細い光が見えました。「ちょっと失礼します・・・」と言って、私は椅子から立ち上がり、そこを離れました。
小川に架かる橋の上で、空をふと見上げますと、この日は実にきれいな満天の星が無数に輝いていました。そして、下を流れる川の音がさらさらと聞こえてきました。キラキラと光る星をそのまましばらく見ながら、私は川の流れる音をじーっと聞いていました。
その時に、バイクでみんなが帰って来る音がしました。芸人の歌を聞きに行った家族が全員帰って来ました。「どうだった?」と聞くと、小学生の子が、「もう、本当に楽しかった!オカマさんが何人も出て歌を歌ってたよ。何でおじさんたちは来なかったのー。」と残念そうに話すのでした。
翌日、 Muoi さんから頂いた『天然蜂蜜』は、一リットル入りの容器にいれて、こぼさないように、念入りにビニールの袋で包みました。このほかにお土産として、まだ絞る前の蜂の巣の状態で、そのまま容器に入れてあるのも頂きました。蜂蜜を絞る前の元の蜂の巣を、友人たちにも見てもらいたいからです。ポリ容器に入ったのは私が一本頂き、後は Y さんが自分のリュックに詰めました。
「それでは帰りましょうか」と我々が腰を上げようとすると、「ちょっと待っていて。」と A さんが私たちに言うので、待ちました。すると、 Muoi さんがバイクの前と後ろに大きな袋を積んで帰って来ました。 A さんがそれを降ろして、中から取り出しますと大きなマンゴーが入っていました。
「今から三つに分けて袋に入れてあげるから、少し待っていてね。」と A さんが言って、手際よく一人ずつのぶんをまず新聞紙で包んで、それから袋に入れて、私たちにくれました。一人 7 ・ 8 個もらいました。二泊三日の感謝のお礼を述べて、 9 時に私たちはそこを後にしました。そしてサイゴンに着いたのは、昼すぎのちょうど一時でした。
Dong Nai からもらって来た、蜂蜜が中に詰まっている蜂の巣そのままを、容器から取り出して女房に見せました。「何これは・・。これが蜂蜜なの?初めて見たわ。」と女房も驚いていました。その蜂の巣の中を、小さいスプーンですくって舐めていました。「わあー、こういう味の蜂蜜ははじめて。」と感激したように首を振っていました。
そしてその翌日、早速私は熱い紅茶に『天然蜂蜜』を入れて飲みました。ふだん飲んでいる紅茶の匂いのほかに、何ともいえない、花のいい香りがしてきました。紅茶の味も、匂いも引き立ってきます。私はふだんコーヒーにも、紅茶にも、砂糖は入れないのですが、これからはこの 『天然蜂蜜』 が尽きるまで入れて飲もうと思いました。
Dong Nai の森に住む蜜蜂たちが、あの広い森の中を飛び回り、苦労して集めてくれ、 Dong Nai のあの家族の人たちとのいろんな思い出が詰まった、濃密な『天然蜂蜜』です。これから大事に・大切に、じっくりと味わって飲ませて頂きます。
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