春さんのひとりごと
<日本帰国三話>
☆ 第一話・・・小学校還暦同窓会 ☆
「小学校還暦記念同窓会の案内が届いたよ。」
二月の終わり頃、私の母からベトナムにいる私にそういう連絡が来ました。そして、その案内文の内容を次のように知らせてくれました。
『昭和 27 ・ 28 年生まれの私どもも、今年は還暦を迎えます。つきましては、下記の日程で同期一同、揃って疋野 ( ひきの ) 神社に参拝後、故 M 先生宅へお参りして、祝賀会会場に移動し思い出話に花を咲かせ、楽しいひと時を過ごしたいものです。』
その案内を読んだ時に、私自身はあらためて ( そういう年齢になったのか・・・〜 ) と、感慨深いものがありました。そして、「必ず出席するよ!」と世話人に伝えてくれるように言いました。
私のクラスの同級生は、その当時全部で 42 名がいました。悲しいことには、既に物故している同級生が 4 人います。そして一年に一度私が日本に帰る時に、今も毎年会っている友人は 10 名足らずです。小学校を卒業して以来長い歳月が経ち、連絡が取れない人が多くなっているからです。それだけに、残りの 30 名くらいの同級生に今年また何名会えるのだろうかと思うと、ベトナムにいる時からその日が待ち遠しくて堪りませんでした。
そして同窓会当日、 疋野神社 の境内に集合時間の十時半前から次々と同級生たちが集まりだしました。前日の天気予報では朝から雨の予想でしたが、運のいいことにこの時には晴れ間ものぞいていました。
私の故郷の熊本県玉名市にあるこの神社は、歴史が大変古い神社としても知られています。 この日に頂いた神社の案内には、次のような説明がありました。
『疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、二〇〇〇年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。
平安時代の国の法律書 <延喜式> の神名帳にも記載されている式内社で、県下でも貴重な存在です。<延喜式>は延長五年に制定され、日本全国で当事すでに存在し、また特に著名であった神社が記載されています。
現在熊本県下で神社数は三二〇〇社程ですが、式内社は阿蘇地方の阿蘇神社、国造神社、そして当地方の疋野神社のみです。』
この神社の境内に集まった友人たちを見ていますと、中には実に 45 年ぶりに再会出来た顔もありました。さらにはわざわざこの日のために、神奈川県から来てくれた友人もいました。男性は昔の名前をほとんど思い出しましたが、女性の中にはどうしてもかつての名前が思い浮かばない人も数名いました。
それから私たちは宮司さんの案内で、全員が廊下を渡って神殿の中の一室に入りました。このような場所に入るのは、私には初めてのことでした。その神殿の中には祭壇が飾ってあり、我々はそれを前にして正座しました。そしてまず還暦記念のお祓いをしてもらいました。宮司さんはこの日に来ていた参加者全員の名前を一人ずつ読み上げて、神前に還暦祝いの報告をされました。
宮司さんが話されている時に、宮司さんの背中の向こうにある祭壇のほうを見つめていますと、不思議なことに私の視線の先に両親の顔が浮かんできました。そしてさらにまた、今は亡き小学校の恩師・ M 先生の顔も浮かんで来ました。この日、この場所で私たち同級生が一同に会し、みんな元気に 60 歳近くになるこの日を迎えることが出来ました。両親や恩師の恩を忘れることは出来ません。
後で聞きますと、このお祓いの時には私と同じように、数人がそれぞれ今まで自分が恩を受けた人たちの顔を思い浮かべたと話していました。私がその時に体験した、神前で両親や恩師の顔を思い浮かべるというのは、このような人生の節目・節目の時に、おそらく同じような体験をされた人がいるのではないでしょうか。
宮司さんのお祓いが終わり、宮司さんから還暦祝いを迎えることが出来た私たちに、優しく、こころ温まる話をして頂きました。それから私たちは境内にある階段に立ち、記念写真を撮りました。数日後にはその記念写真を頂きましたが、今まで同窓会は何回も実施されていても、時機が合わなくて参加出来なかった私には思い出の一枚になりました。
そして全員で車に乗って、恩師である故M先生宅に向かいました。奥様が私たちを迎えられました。一人ずつ仏壇の前に座り、お焼香をさせて頂きました。私は故M先生の奥様とお会いするのは、昨年に続いて今年が二回目でした。
今回は奥様に、私が二年前に故M先生を偲んで綴った <子どものこころに灯をともす> を贈らせて頂きました。その文の背景には、 『満開の奈良の吉野桜』 の写真を使いました。これは私のいとこでもあり、今写真館を開いているUさんが、数年前の春に奈良の吉野を訪れた時、たまたま山全体が満開の桜で埋め尽くされた光景を撮った写真でした。Uさんは、あの <熊本弁を話すオーストラリア人> マイケル・ラッタさんの知人でもあります。
私が「今回の還暦祝いの同窓会で、故M先生宅を訪問する時に一文を贈りたいのですが、その背景を飾るような、何か素晴らしい写真はないでしょうか。」と相談した時に、「それなら、この写真を背景に使ってみたら?」と言って、パソコンを開いて見せてくれたのが、その『満開の吉野桜』の写真でした。「吉野の桜は 【ひと目千本】 というけれど、それはそれは壮観な光景だったよ。」と話してくれました。
先生の位牌が置いてある仏壇の前にそれを置き、しばしの間目を閉じました。そして先生のさまざまな思い出がよみがえりました。特にこの日、この時にはM先生が担任された多くの同級生たちとの再会がありましたので、なおさら胸に沁みるものがありました。
みんなで奥様に別れを告げて、食事会に行きました。昼間からの宴会になりました。みんなで乾杯をする前に、すでに物故している四人の冥福を祈りました。そしてここで幹事役の友人が「あれは誰、あの隣が誰・・・」と私に説明してくれて、ようやく私は今回の同窓会に参加した全員の顔と名前が一致しました。小学生当時の面影が浮かんで来ました。
みんなが今就いている仕事についても説明してくれましたが、昔を知る彼、彼女たちの姿からは結びつかないような仕事をしている同級生もいました。しかし、そのほとんどが今年や来年は「定年」を迎える年齢になろうとしています。
そしてこの日は昼の宴会だけでは終わらずに、二次会、三次会まで続いてゆき、そのほとんどは三次会が終わるまで参加しました。さらに中には四次会までも繰り出してゆく元気者もいました。私は三次会で終わりましたが・・・。
「次はまた五年後に同窓会をやろうね!」
と言って、私たちは別れました。
☆ 第二話・・・田原坂の人 ☆
『田原坂』 といえば、西南戦争当時の有名な激戦地ですが、ここには今、西南戦争を記念した田原坂資料館が建ち、春には多くのツツジや桜が咲く名所にもなっています。以前、熊 本ウォーキング協会が主催した 「西南の役・田原坂(たばるざか)・歴史の道を歩く」 に私も参加して、田原坂の周辺を皆さんたちと歩きに歩きました。
そして今年の四月の初旬に、母が「そろそろツツジがきれいに咲いている頃だろうね。」と言うので、二人で田原坂に出かけることにしました。私の家からは車で三十分も掛かりません。「田原坂」自体は幹線道路から外れた、小高い山の中にあります。何の変哲もない、薄暗い、ただの坂道が続いています。
あのような「ただの坂道」で、官軍と薩摩の軍隊が血みどろの死闘を繰り広げたというのは、今思えばどうにも信じられません。特に今は、私たちのように「ツツジを見に行く」ためだけに、「田原坂」に行く人たちも多いことでしょうから、「田原坂での激闘」は遙か昔の出来事になっています。
私たちがそこに着いたのは、お昼ご飯を終えてしばらくした頃でした。ツツジが咲いている場所は、駐車場の下にあります。私たちは歩いてそこまで行きました。しかし、今年は期待していたほどツツジは多く咲いていませんでした。毎年今までは同じ時季に、見事なツツジが咲いていましたので、 ( どうしてだろう・・・ ) と不思議に思いました。
ツツジとツツジの株の間には雑草も生えていて、ツツジの高さを超えているのもあります。さらには、病気にかかっているツツジも多く、樹の勢いが弱いせいか、葉にもツヤがない感じです。要は、「ほったらかし」のような状態でした。この日にツツジを見に来た人たちは、私たち以外にも十数名いましたが、みんなガッカリとしています。 ( 何でもっと手入れをしないのだろうね〜 ) と、呟いています。
これ以上見ても仕方がないので、私たちは坂道を歩いて上がりました。そして、ある一軒の土産物屋さんに入りました。そこには女性の方が一人いました。そこの女主人でした。その女性の方に、眼下に見える今年のツツジの花のあまりの少なさについて言いますと、
「そうなんですよ!私は役場に消毒をして欲しいと、何度も足を運んでいるのですが、『予算が無い』というばかりで、全然手を打たないのですよ。雑草なんかも小学校の生徒さんたちにお願いして、一日みんなでやれば直ぐ終わりますよ。そのほうが、生徒さんたちの環境教育にとってもいい体験にもなりますよね。」
と、そこにいるお客さんの前に立ち、大きな声で話すのでした。 ( 実に元気な女性だな〜 ) と感心し、ふと上の看板を見上げますと 【田原坂げんき村】 と書いてあります。ここには様々なお土産が売られていました。
センベイ、飴、お菓子、漬物、皿、茶碗、服など、実に様々な物が置いてありました。さらにはその店のスペースの半分くらいは喫茶店になっていて、椅子とテーブルが据えてありました。彼女の名前は N ・Sさん。毎年ここ田原坂が桜とツツジの花に彩られる頃に、店を開いているとのことでした。彼女は最初五・六人のお客さんと話をしていましたが、一人去り、二人去りしてゆく内に、最後は私と母だけになりました。
二十分くらい話しているうちに、段々と打ち解けてきました。非常にきさくで、快活で、愉快な女性だな〜という印象を受けました。私は彼女のあまりの元気の良さに、「失礼ですが、おいくつでしょうか?」と聞きますと、彼女はハッハーハーと笑い、「今年還暦二歳です。」と答えられました。
(還暦二歳・・・?)私が怪訝な表情をしているのを読み取ってか、「ただ六十二歳というのでは面白くないじゃない。それでそういう言い方をしているの。」と、明るく笑い飛ばされるのでした。
三十分以上も話したでしょうか。あまり長居しても、店の邪魔になるので、私たちが(それではそろそろ帰ろうか・・・)というふうに顔を見合わせていると、N・Sさんは「今日は、特別にあなたたちに私の秘密を見せて上げるわね。」と言って、私たち二人だけを喫茶店のほうに案内して、高齢の母には椅子を出して座らせました。そして自分は奥の部屋に入られました。
奥の部屋から帰って来た時に、その手には筆と墨汁と紙と朱肉が握られていました。そして私の母に、「お母さん、あなたの名前は何ですか?」と聞きますので、母が自分の名前を言いますと、テーブルに広げた紙に母の姓と名をすらすらと横書きにして書かれました。
驚いたのはそれからです。名前を書いたその最初の一文字から始まる文章を、一瞬のためらいもなく、考え込む時間もなく、サーッと瞬時にして書き終えてしまわれたのです。しかも大変な達筆でした。そしてその書き終わった紙の上に、自分の人差し指を朱肉に押し、それからその背景に壁紙を作るように、桜の花びらを描かれたのでした。一瞬のうちに完成した、母の名前入りのその書をあらためて見て唸りました。
たのしい人生
くろう乗り越え
すこやかに
みらいを信じて
こころ磨き
母はそれを見て、読んで、「わあ〜、すごい!私の今までの人生を表しているわ。」と驚いていました。そしてこの時には、数人のお客さんが集まって来て、N・Sさんのその見事な筆さばきに見入っていました。
私はお土産屋さんの主人の余技というよりも、芸術家のような彼女の見事な技に魅入られました。感嘆しました。それで、「では次は私の名前を言いますので、それを頭の文字にしてまた書いて頂けますか。」とお願いしますと、気軽に「いいですよ。じゃー、趣向を変えて、姓のほうを後にして書きましょうか。」と言われて、これまたササッと書かれました。
はりきって前進
るんるん楽しく
よろこんで
しんじる道
たくましく生きる
くやしさバネに
一文・一文を一分・二分考えるのなら分かりますが、彼女は筆が勝手に動くような感じで、考える素振りも見せずにこれを書き上げたのでした。本当に目を見張りました。しかも全体として見た時に、一枚の紙の上に考えさせられる人生訓が散りばめられているのにはホトホト感心しました。後でこのお土産屋さんに集まって来て、彼女が筆を動かしている姿を見ていた人たちも、彼女のその芸のすごさには驚いていました。
私が「何故こんなに、書も文章も上手なのですか。」と聞きますと、「昔から筆を使って書くことは好きだったし、本を読むのも好きなだけよ。」と淡々として答えられるのでした。そして、私はじっくり落ち着いて回りを見ました。私はその喫茶店内にある、壁に掛けてあるものを見てまた驚いたのでした。
壁には、多くの書や絵が筆で書かれてあり、色紙にして飾ってありました。それは売り物ではなくて、彼女が純粋に趣味として描いたものをそこに貼ってあるようでした。こういうお土産屋さんを、私は今まで見たことがありません。
さらにはここで購入した本を入れてある紙袋や、頂いた名刺にまでも、彼女が自ら筆で書いた文字が書かれていました。センベイなどを巻いている紙の帯にまで、これまた筆で「田原坂」と書いてある念の入れようでした。私が買った本の紙の袋の裏には、 「優しい人は強い人」 と書いてありました。
名刺を三枚頂きましたが、名刺の裏にもまた筆で書かれた文がありました。一枚目は 「努力はぜったいむだじゃない」 。二枚目は 「動くから感じる」 。そして三枚目には、 「負けたら燃えろ」 と書いてありました。そして私と母のために書いて頂いたものは、N・Sさんが「今日あなたたちにお会い出来た記念にあげますよ。」と言われて、別れ際にプレゼントして頂きました。私は早速、家に帰ってから額に入れて飾りました。
彼女に、今私はベトナムに住んでいることを伝えましたが、「また来年もここに来ますよ。」と言って別れました。来年の日本帰国時の楽しみが、また一つ増えたような思いがします。
☆ 第三話・・・カンパチの海 ☆
二月半ばころに、サイゴンで再会した鹿児島県人・U・Hさんがいます。最初の出会いは、昨年の私の娘の「9歳の誕生日」に来て頂いた時でした。彼は鹿児島の 錦江湾 でカンパチを養殖している 垂水市漁業組合 から、「カンパチの養殖技術」「高級魚の水産加工技術」を指導するために、今後ベトナムからの研修生を受け入れたいということで、サイゴンに来られました。
そして、私が日本語を教えているベトナムの研修生派遣機関を訪問され、毎日の授業の様子を見学されました。いろいろ話をしてゆく中で、私の日本の故郷が熊本県であることを知り、「鹿児島は近いので、日本に帰った時には是非鹿児島の垂水市の漁業組合に来て、水産加工工場と、カンパチの養殖場を見学して下さいますか。」と言われました。「時間があれば、是非行きますよ。」と、私はその時答えました。
U・Hさんはいかにも鹿児島県人らしい、明るく、ユーモアに富んだ人で、話していて飽きが来ませんでした。また押しも強く、サイゴンで会ってから日本に帰って直ぐに、「鹿児島でお待ちしていますよー!」と、私に電話を掛けて来られました。
私自身はカンパチという魚も良く知らないし、鹿児島に行くのも実にひさしぶりのことでもあり、「将来もしベトナムから研修生が行くとしたら、どんな所なのだろうか・・・」という興味もあり、だんだんとその気になって来ました。
それで私が日本に帰国することに決まった時、U・Hさんと双方の日程を詰めて、四月下旬に鹿児島を訪問することになりました。九州新幹線に乗って、鹿児島中央駅まで行きましたが、九州新幹線の開通後に初めて鹿児島まで乗りました。そして鹿児島を訪れたのは、二十数年ぶりのことでした。大変懐かしい思いがしましたが、駅前の変貌ぶりはやはり大きいものがありました。
そしてU・Hさんの車に乗って走ると、数分も経たないうちに 「桜島」 が見えました。この日はモウモウたる火山灰を吹き上げていました。二十数年前に鹿児島を訪問した時には雨で、火山灰交じりの雨で服は黒く汚れ、その雨が頬に当たって痛い思いをした記憶があります。しかし、この日は快晴でした。
U・Hさんが最初に案内してくれたのは、義肢を作っている会社でした。ここの会社にもベトナム人研修生を派遣して、義肢製作の技術を学んでもらい、将来はベトナムでその経験と技術を活かして、ベトナム人のために義肢を製作しようということから、この会社を見学に来たのでした。
義肢の製作というのは一人・一人に合わせて作成することが多く、機械化が出来ないようで、石膏の型取りや、桐の木を加工したりする作業などは、人の手でやられていました。私が社内に入ると、仕事の手を休めて皆さんが挨拶されました。出来るだけ邪魔をしないように、少し離れて見学しました。しかし、大変礼儀正しい社員教育をされているところだな〜という印象を受けました。
聞けば、この会社には今二十人の社員がいて、その内七人が身体障害者だということですが、社長さんのお話では普通の社員たちとあまり変わらない技術を持っているので、仕事をする上では全然問題はないということでした。
会社の回りは田園風景という感じでした。ベトナム人研修生たちの大部分は田舎の出身が多いのですが、こういう静かな雰囲気にはすぐに馴染むでしょう。しかし、喧騒のサイゴンから来た研修生たちには、最初は退屈するかな・・・とは思いました。
ここの社長さんの温厚な雰囲気と、大変丁重な対応には感じ入りましたが、聞けば以前は高校の先生をされていたということでした。U・Hさんの話では、その人柄を信頼されてこの義肢の会社に転職されたのでした。「義肢製作の技術を是非ベトナムの人に学んでもらい、それを生かしてベトナムでも義肢を作ってもらいたいのです。」と、社長さんが話されました。
そこには四十分ほどいて、次に鹿児島湾からフェリーに乗りました。フェリーに二十分くらい乗った後にフェリーから降りて、車で垂水市漁協に向かいました。四十分ほどして漁協に着き、車を降りました。足元には砂鉄のような、黒い火山灰が数センチ積もっていました。
桜島の近くに住む人たちはこの火山灰のために、洗濯物も布団も外には干せないので、他県人にはさぞ辛いようですが、鹿児島の人たちにとって桜島は生まれた時からあるものなので、それを嘆いている人はいません。U・Hさんにそのことを聞いても、「みんな慣れたものですよー。ハッハッハー」と笑い飛ばされました。
そして、垂水市役所の水産課の人たちにも会いました。私が「ベトナムから来ました。」と言うと驚かれましたが、大まかな話は事前にU・Hさんがされていたようで、ベトナム人研修生を将来ここに連れて来て、水産加工や、カンパチの養殖技術を学んで、本国でそれを生かしてもらいたいという計画を再度説明されました。
私は、カンパチのことについてU・Hさんからいろいろ聞きました。カンパチの稚魚は日本では獲れず、中国の海南島近くで捕獲して、海南島の海軍の基地近くで少し大きくなるまで育てたのを、ここの錦江湾のイケスで養殖しているのでした。しかし、今中国で育てているのを止めて、ベトナムに代えようと考えているのでした。それは、ベトナムの中部で、カンパチの稚魚を見つけることが出来たからでした。
さらには、中国からシフトを代えようとしている理由はそれだけではありません。U・Hさん自身が中国で、中国人を使って数年間働いて来ましたが、「中国でのビジネスは長続きしないな。」と見切りをつけられました。彼が遭遇した例では、中国の幹部級の要人やお役人に会うためには、ただ会うだけでも「一回で、百万単位のお金が無くなるのですよ。」というのでした。高級レストランでの接待攻勢が繰り返されて、目を剥くような豪華な料理がドンドン出され、最後に請求書は彼のほうに回されて来たそうです。
友人が、彼に「最終的に、一億円くらいは吸い取られるのは覚悟しておいたがいい。」という忠告を受け、「止めた!」と、当初その要人に依頼して行おうと考えていたビジネスからは手を引きました。「中国人一人・一人は個人的には本当に良い人も多いのですが、その間に役人や官僚が入るともうダメですね。多くの日本人が多額の賄賂や手数料をむしり取られています。」と彼は言うのでした。
さらに続けて、「中国の若者たちと比べて、ベトナムの若い人たちのほうが明るいし、パワーがありますね。ベトナムの若い人たちは素直な人が多いな〜という印象を、ベトナムに来た時に受けました。」と話してくれました。U・Hさんが <ベトナムの若者の印象> として語ってくれた「明るい」「素直」という点に関しては、私も同感です。
市役所での説明後、その隣にある水産加工場を見学に行きました。歩いて一分も掛かりません。この時には五時を少し過ぎていましたので、従業員の人たちは帰った後でした。就業時間は朝八時から五時までということでした。工場内に入り、その中を観察することが出来ました。
室温は常時 17 度に保たれているそうで、長袖を着ていないと寒い感じがしました。カンパチをマイナス 40 度に一気に冷凍する機械も見せて頂きました。倉庫の中も見せてもらいましたが、そこにはカンパチの餌になる、イワシのすり身の固まりが冷凍した状態で保存してありました。
そうして冷凍されたカンパチが、すでにビニールの袋に入れられて箱の中に積んでありました。(数日後、私は熊本の実家近くのスーパーでたまたまカンパチの刺身を買いましたが、その産地には【鹿児島産】と明記してあったので、もしかしたらあの垂水で養殖していたカンパチなのだろうか・・・と思ったことでした。)
そして水産課の課長S・Tさん自らがボートを運転して、この近くで養殖しているカンパチのイケスに案内してくれることになりました。彼が自分で運転して来たボートに私たちは乗り込んで、錦江湾上に浮かぶカンパチの養殖場まで向かいました。この日の錦江湾の海面は、鏡のように滑らかでした。
目の前には、雄大な桜島が巨大な噴煙を上げていました。大きな爆発音が二回しました。桜島は一日平均三回爆発するそうで、大きい爆発音の時には、市内の民家の窓ガラスが割れることもあるといいます。
S・Tさんが前方に浮かんでいる漁船を指差して、「あの舟一艘だけで、六千万円はしますよ。」と言われるのでした。ただの舟ではなく、その船内には大きな機械が据え付けてありました。漁業というのは多額の設備投資が要るのでしょうが、それだけに ( 利益は少ないのですよ ) と、S・Tさんは言われるのでした。
ボートに乗って十五分ほどで、カンパチのイケスが無数に浮かべてある場所まで来ました。STさんによると、この垂水にあるカンパチのイケスは何と約五千個もあり、一つのイケスには約四千匹のカンパチが泳いでいるとのことでした。目の前にそのイケスが浮かんでいます。海面の深いところを泳いでいるのか、中にいるカンパチは見えません。イケスは縦横八メートルです。深さは十五メートルあるとのことでした。
「このイケス一個で、普通の家が一軒建ちますよ。」とS・Tさんがニコッとされました。イケスは二つを一組にして、ロープで繋いでありました。それが一人の所有物だそうです。しかし見たところ、どれも同じようなイケスが浮かんでいて、名前も書いてあるわけではなく、 ( どうやって自分のイケスを見分けるのだろうか? ) と、不思議に思いました。「自分のイケスと他人のイケスは、ブイの色とブイに書かれている番号で見分けが付く。」と、S・Tさんが言われました。確かにいろいろなブイの色がありました。
カンパチは養殖する上で、他の魚以上に難しい条件をクリアしないといけないそうです。第一に、水深が最低でも五十メートルくらいないとダメ。平均は八十メートルだそうです。それよりも深ければいいが、水深が浅い場合は無理。
第二に、海底が泥地であること。砂地だと中に虫が住みつき、その虫がカンパチの体やエラに寄生してゆくと、カンパチの商品価値が無くなること・・・などなど、お魚さんのそういう知識が全然ない私には、すべてが初めて聞くことばかりでした。約一時間ほどのボートでの見学でしたが、桜島の灰が海の上にも少し降って来ましたので、引き返すことにしました。
いずれ将来、この錦江湾でベトナム人の研修生たちが水産加工技術を習得し、カンパチの養殖技術を覚えてベトナムに戻り、ベトナムでのカンパチ養殖に活躍しているかもしれません。そうなったら、ベトナムにおいても日本人やベトナム人が、日本料理屋さんでカンパチの刺身を食べている光景を目にすることが普通になっていることでしょう。
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