アオザイ通信
【2013年9月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<この夏のさまざまな思い出>

● Mui Ne( ムイネー ) への旅 ●

今年の日本の夏は『酷暑』という報道がなされていましたが、サイゴンのほうは夕方に雨が降る日が多く、雨が降ると街が涼しくなり、過ごしやすかったという感じがしました。

一年中暑い日が続くサイゴンなのですが、私にとって8月は日本から 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』 の生徒さんたちのベトナム訪問があり、毎年「日本の暑い夏」を運んで来るという気持ちがします。

そして、今年で 13 回目となる、その『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の生徒さんたちのベトナム訪問も無事終わりました。今年も 8 月末から一週間ベトナムを訪問し、さまざまな活動に参加しました。

毎年行っている 「 村山日本語学校の生徒さんたちとの交流会」「ベトナム語青空特訓教室」「ホーチミン市内観光」「ホームステイ体験」「ホーチミン市友好協会表敬訪問と交流会」「カンザーの小学生たちとのマングローブ友好植林」「 Saint Vinh Son 小学校との交流会」「クチ トンネル訪問」 などの行事をすべてこなし、充実した体験を積んで日本に帰国しました。

中でも、 「カンザーの小学生たちとのマングローブ友好植林」 は今年で2回目となり、昨年に続いて現地の小学生たちと深い交流を行うことが出来ました。今年は、昨年「マングローブ友好植林」に参加してくれた、日本とベトナムの生徒さんたちの名前入りの写真を額に入れて、それを学校側に贈りました。学校の先生も、生徒たちにも大変喜んで頂けました。次年度もまた継続して行いたいと考えています。

そのカンザーでの行事が終わり、サイゴンに帰った時、娘が一人しくしくと泣いていました。「みんなはこの夏休みにいろんな所に連れて行ってもらっているのに、私はどこにも連れて行ってもらえない・・・」と。この夏はいろんな行事が立て込んでいて、確かにどこにも娘を連れて行けなかったので、そう言われても仕方がないことではありました。

それで大きな行事が一段落して終わった時、カレンダーをふと見ますと 9 月 2 日(月)は、ベトナムは 『国慶節』 にあたり休日です。それで、 8 月 31 日から Sinh Cafe Tuorist のバスで、2泊3日の Mui Ne ( ムイネー ) への旅に家族で行くことにしました。 Mui Ne はサイゴンから 250 kmほど 離れた場所にある鄙びたビーチです。

実は、7年前にも一度行ったことがありました。その時娘はまだ三歳でした。その時のことを聞きますと、「全然覚えていない」と言います。まあ、まだ幼い時期でしたから、それも当然でしょう。しかし、同じ年齢の時に日本にも行きましたが、その時の思い出はあると言いますので、強い印象体験は幼くても残るのでしょう。

7 年前のあの時は、旧正月の 「テト」 をムイネーで過ごすつもりで、夜にサイゴン市内を出発するバスに乗りましたが、途中の国道は「テト」で田舎に帰る帰省客の車やバスで交通渋滞が続き、予想外に時間が掛かり、ムイネーに着いたのは朝方の 4 時頃でした。

朝は早くて眠いし、お腹は空くし、まだ外の店もホテルの中の食堂も開いていないし、バスの移動で疲れて私達も娘も海で泳ぐ気もしないし、お昼近くまでただ寝ていたという記憶があります。

それで、今回は朝早くサイゴンを出て、昼過ぎに着く予定のバスに乗りました。車内は満席でした。ベトナム人、白人、中国人、韓国人、フィリピン人など国際色豊かです。私の隣に座った人も外国人でした。

バスは予定通り 7 時 15 分に出発。予約しておいた前の席に座り、後から続々と入って来る人たちを見ていましたら、ある一人のベトナム人女性と目が合いました。驚きました。彼女は今から 6 ・ 7 年前の、 2006 年と 2007 年の二年に亘って、『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の女子の生徒たちの世話係りとして手伝ってくれた Tien さんなのでした。実にひさしぶりの再会でした。

友人の話では、彼女は FamilyMart に勤めているとは聞いていました。しかし、この時のバスの中では、彼女の後に日本人らしき人が続いていました。どうやら、その人がご主人のようでした。私が、「結婚したの?」と聞きますと、「そうです。」と答えました。「あなたもムイネーに行くの?」と聞きますと、「そうです。遊びに行きます。」と答えたのでした。

しかし、座った席が離れていることもあり、彼女と親しく話すことは出来ませんでした。そしてムイネーに着いてからも、先に彼女たちはバスから降りてしまい、ついに本人とも、ご主人とも、それ以上の会話を交わすことはありませんでした。残念でした。

サイゴンを出て Bien Hoa( ビエン ホア ) に行く途中までの道路は、やはり『国慶節』で同じように旅行に行く人たちが多いせいか、観光客が乗るバスで混んでいました。以前「天然蜂蜜」を獲りに Dong Nai( ドン ナイ ) を目指して行った時、 Da Lat( ダ ラット ) 方面に向かう 国道 20 号線 の分かれ道に着いたのはバイクで2時間ほどでしたが、この日は約3時間近く掛かりました。

途中トイレ休憩を一回入れて、午後一時にバスは Phan Thiet( ファン ティエット ) 市内に入りました。ムイネーへは、国道一号線を外れてそこから十数キロの道のりになります。そしてちょうど午後一時半に、バスは Sinh Cafe が経営するホテル 「Mui Ne Resort」 に到着。
サイゴンから6時間ほどかかりました。

ここのホテル は、その敷地の真ん中に鮮やかなブルーのプールが備えてあります。ムイネーの海もカンザーと同じくキレイな色をしていないので、目の前に広がるビーチでは泳がないで、ホテル内に作られたこういうプールで泳ぐ観光客が多いのです。この時もすでに十人くらいのお客さんたちが泳いでいました。

ここは、ホテルの 周り にも敷地内にも樹木が茂っています。海岸に出ると、高い椰子の木が聳えたビーチが続いています。こういう光景を眺めていますと、いかにも 「南国」 だな〜という気がしてきます。ムイネーの海は波がおだやかです。遠浅になっていて、深みにはまる危険もありません。

しかも、このムイネーは幹線道路から離れた場所にある観光地で、多くの観光客は Phan Thiet や Nha Trang( ニャー チャーン ) を目指して行くので、海岸のビーチにも人は少なく、のんびりした雰囲気が漂っています。バイクの騒音も全然聞こえてきません。

2時から昼食になりました。食事はすでにお客さんが食べるメニューが決められていて、飲み物だけは注文しますが、料理を注文する必要は無く、出された料理を食べるだけです。この日は、 [ ご飯+スープ+おかず三品 ] が出てきました。

その後、娘はプールに入って大喜びで楽しんでいました。私はプール・サイドに置いてある椅子に座り、ビールを飲みながらそれを眺めていました。ここのプールには大人の腰の深さまでくらいしかない小さいプールと、首の深さまである大きいプールの二つがありました。

7年前に来た時には、娘は小さいほうのプールに入って水遊びしていましたが、今は深いほうのプールで遊んでいます。あらためて ( 大きくなったのだなー ) と思いました。あの時娘はまだ小学校にも行っていなかったのに、今年は中学に通う年齢に達しました。

夕方までそのプールで泳いだ後、三人ですぐ目の前のビーチに立って海を眺めていると、 Basket Boat に乗った漁師が、海に出ています。海に向かって網を投げていました。

♪♪ お椀の舟に ハシの櫂 ♪♪

『一寸法師』 の歌を連想しました。それをじーっと眺めているうちに日が暮れてきました。

翌日は、午後からムイネー観光でした。午前中まではゆっくりとホテルで過ごします。朝早く起きて海岸に行きました。この日は快晴。風もなく、波もおだやかです。すでに海で 泳いでいる人がいます。そして、 Basket Boat に乗って、海に出て仕事をしている人がいます。そして Basket Boat から降りて来た漁師さんが、何か手に持っています。

見ると、ワタリガニをたくさん獲っていました。これを今から市場に売りに行くのだとか。その前に私たちに「買わんか?」と聞きます。しかし、もうすぐホテルで朝ご飯食べるので、私は買いませんでした。

ホテルの朝食はビュッフェ形式でした。朝の食事を終えて、また海を眺めに行くと、プラスチック出来た Basket Boat ではなく、昔風のお椀の舟で海に出ている人がいました。 そしてその横を、観光客を乗せた水上ボートが疾走しています。

娘が「あれに乗りたい!!」というので、女房が値段を 聞きます。時間は 15 分で、2人で乗って 40 万ドン(約 1,900 円)。しかし、娘一人しか乗らないし、時間も 15 分は長すぎる。海の上を軽く一往復、一分ぐらいでいいと言うと、 10 万ドンに値引き。一分間の水上ボートは楽しそうでした。

この海岸にいると、ここに滞在する観光客目当てにおばさんたちが、ビーチを歩きながら貝やカニを売りにやって来ます。この時おばさんたちは、ホタテ貝を売っていました。それを買う人がいると、すぐその場で調理してくれます。ガスコンロも常時持ち歩いています。

この時フィリピンから来たという観光客がいて、そのホタテ貝を買っていました。値段は、1kgで 14 万ドン。水で洗った貝を、そのガスコンロの上に乗せてバーベキューにしていました。香ばしい匂いが漂ってきます。美味しそうに食べていました。

そして、午後2時半から、 Sinh Cafeバスでムイネー観光へ。バスに乗って15分ほどして着いた所は海岸。海岸に下りるコンクリートの斜面に、小魚がたくさん日干しにされていました。聞けば、「売るため」とのこと。

海岸に下りると、みんなが集って騒いでいます。見ると、大きな「エイ」が獲れていました。それも「市場に売りに行く」と言って、手にぶら下げて持って行きました。いろんな海の幸にこのムイネーは恵まれています。

この後、私たちは White Sand Dunes 【白い砂丘】 へ行くことになりました。バスの窓から見える途中の景色は、広い面積に植えられた「キャッサバ」が緑の葉を茂らせていました。

そして、 White Sand Dunes が見えて来ました。名前の通り、「白い砂丘」という感じです。

White Sand Dunes にバスが着きました。バスが止まった所には 「ダチョウ」 がいました。これも観光用です。「ダチョウ」の背に乗って遊ぶのです。当然有料です。

私たちは White Sand Dunes まで歩いて行きました。足元の砂を手に取ってみると、確かに白っぽい。しかし、遠くから聞こえるバイクの騒音がスゴイ。観光客をバイクに乗せて、砂丘見物のサービスをする商売をしているのでした。

砂丘の頂きまでテクテクと歩いている人たちもいますが、そのバイクに乗って、エンジンの大音響を轟かせながら砂丘に登って行く人がいます。しかし、こういうのを考え付くベトナムの人は商魂が逞しいというべきです。値段を聞くと、大型バイクに二人乗りで 40 万ドン。一人だと小型バイクで 20 万ドン。制限時間は 20 分まで。

そこでの観光を終えて、次は Yellow Sand Dunes 【黄色い砂丘 】へ到着。黄色いというよりも、赤茶けた色をしています。ここでは砂丘の傾斜のある斜面を、薄い板をお尻に敷いて滑る遊びが出来ます。子どもたちがその板を貸し出して、お金をもらっています。この板一枚の使用料が3万ドン。娘もこの遊びに挑戦。

これは結構楽しかったらしく、何回も滑っては登り、登っては滑りを繰り返していました。時計を良く見ると集合時間ギリギリになったので急いでバスに帰ったら、みんなバスに乗り込んでいて、私たちを待っていてくれました。大人はああいう遊びはしないので、皆さんたちは砂丘を見たらすぐ降りて来たようでした。

バスでホテルに帰り、夕食をホテルで摂った後に外に出ると、すぐ隣に 『海鮮レストラン』 があり、そこには獲れたばかりの魚介類がたくさんありました。次回はホテルで三度の食事を摂るのではなく、夕食はここで食べようと思いました。

翌日は朝7時半にサイゴンへ向けて出発。二泊三日のムイネーの旅が終わりました。「ムイネーの海よ、さようなら!!」と、別れを告げました。海と砂丘と海鮮類しかないムイネーですが、それがいいのでしょう。娘にこの旅の感想を聞きました。「とても楽しかった!」と答えてくれました。それを聞けば十分です。

● 嬉しい再会 ●

ムイネーからサイゴンに帰った夜には、ひさしぶりの嬉しい再会がありました。懐かしい三人の知人が同じ飛行機の便に乗り、三人同時にサイゴンに着かれていました。

お一人は、ベトナム戦争がまだ激しかった 1963年にベトナムに来て、メコンデルタの Cai Be (カイ ベー) でバナナを栽培されていたYさん。Yさんの奥さんの実家は、創業約 60年になる有名なPho屋さん 「 Pho Tau Bay(フォー タウ バイ)」 です。

二人目は、以前 Binh Duong( ビンユーン ) 省 で喫茶店、 Gio va Nuoc( ゾーバーヌック:風と水 ) を経営されていた SB さん。最近 SB さんはカンボジアでの仕事も手がけられていて、サイゴンにもよく来られるようになりました。今回はサイゴンには一週間ほど滞在されました。

そして三人目は、東京の浅草で <風流お好み焼き 浅草 染太郎> の総支配人をされていたSさん。<浅草 染太郎>は今年で創業 67 年になるといいます。私は 2009 年にその店を訪れました。その時にはSさん自らが、コテを握りお好み焼きを焼いて頂きました。

そしてSさんとは、 2011 年に元日本兵・古川さんの「 36 回忌の法要」でお会いして以来のひさしぶりの再会でした。Sさんも今回サイゴンには一週間ほど滞在されましたが、その間Yさんのバイクの後ろに乗って Dong Nai( ドン ナーイ ) 省 まで行き、 Dong Nai に住む古川さんの長女 A さんのご家族の方々に一泊二日で会われて来ました。

A さんの家族も二人の訪問を大変喜び、朝 9 時半頃に着いてすぐに宴会が始まったといいます。Yさんは足繁く Dong Nai に通われていますが、Sさんはめったに来られないので、みんなが大歓迎してくれたそうです。そして、二人の訪問に合わせて、Aさんの旦那さんが天然蜂蜜を山の中に獲りに行き、いろいろ探してペットボトル五本ぶんの蜂蜜を収穫して、Yさんに持たせたといいます。

Yさんはまたサイゴンにそのまま残られていますが、Sさんと SB さんは一週間でサイゴンを離れました。 SB さんがそのサイゴン滞在の最後の日に、なかなかサイゴンに来ることがないSさんのために、送別会を開いてあげました。そこにはYさん、Sさん、SBさん、KRさん、私も出席しました。

そこには SB さんが以前サイゴンにいた時、毎週参加していた 「東日クラブ」 のメンバーも十人ほど招待して、送別会を盛り上げてくれました。 9 時頃になり、Sさんはその送別会の会場からそのまま荷持を持って空港に向われました。Sさんとは別れ際、「また来年も是非サイゴンでお会いしましょう。」と握手をして別れました。そして、 SB さんもその翌日の早朝に、 Da Lat に向けて旅立たれたのでした。

● 新しい出会い ●

そのSさんとの別れの宴の時、 「 Saint Vinh Son小学校」 の運営責任者Fさんから、私に電話がありました。「実はYさんに会いたいという日本人の方がいます。Yさんを紹介して欲しいのですが・・・。」その日本人の方の名前を聞いて、私も懐かしく思い出しました。

ベトナムの 「枯葉剤被害者」 の写真を撮り続けておられる、写真家の 「西村洋一」 さんでした。 2009年に、私も以前一度 「戦争証跡博物館」 でお会いしたことがありました。あの時は同じく写真家の 「村山康文」 さんと一緒に写真展 『ベトナム戦争の傷痕』 が展示されていて、その展覧会初日にお二人の写真の記念式典があり、私も招待されていたので行きました。

その時に西村さんとは初めてお会いしましたが、そこでは深い話は出来ませんでした。その時の写真展の紹介の記事が、その二日後に次のように載りました。ちなみに、今「戦争証跡博物館」に、西村さんの写真は十枚展示されているそうです。

☆☆☆枯葉剤テーマの写真展始まる☆☆☆

2009 年 07 月 29 日

ホーチミン市の戦争証跡博物館で 7月27日、写真展『ベトナム戦争の傷痕』が始まった。日本人写真家の西村洋一氏、村山康文氏の作品60点以上が展示される。

西村氏は 2004〜2007年にツーズー病院ホアビン村の子供達に日本語や数学を教え、枯葉剤被害者を訪ねてベトナム各地を回った。2009年には日本で写真集「ベトナムの枯葉剤ダイオキシンを追いかけて」を出版している。

フリーカメラマンの村山氏もこれまで日本でベトナム戦争に関する写真展を多数開催しており、ベトナムに何度も足を運び、数多くの戦争被害者を写真に収めてきた。

写真展は 1カ月間行われ、枯葉剤被害者など戦争の傷痕の写真や、人々や国の再生をテーマとした写真が展示される。      

<ベトナムガイド .com>

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

目の前に座っているYさんにその件を打診しますと、「明日ならいいですよ。」と返事があり、Fさんにそれを伝えました。

そしてその翌日、Fさんが西村さんを伴って 「 SUSHI ○○」 に来られました。すぐYさんも着かれました。私からFさん、西村さんを紹介しました。偶然ながら、西村さんはYさんと同じ年齢でした。

西村さんは以前公立高校で数学の先生をされていたそうで、日本で 『ダイオキシン』 の問題が騒がれていた時に、自然とベトナムに関心が向き、 2001年に初めてベトナムに来られたといいます。今回は7月にベトナムに着いて、10月まで滞在される予定だと話されました。

西村さんは、中部の Hue(フエ) のすぐ上にある Quang Tri(クアン チー)省 から帰って来たばかりだということでした。私も以前一度その Quang Triを通ったことがありますが、山には欝蒼とした森が少なく、まばらでした。実は、 それなりの理由がありました。

その時のガイドが「 この辺りの山に木がまばらにしか生えていないのは、ベトナム戦争中に 「旧ホーチミンルート」 沿いの山々にも、米軍が枯葉剤を撒いて山の木を枯らしてしまったからです。」という話をしていました。

西村さんの話では、「今でも枯葉剤の影響と見られる子どもたちの姿を Quang Triでも 見るが、最近は事前に産まれて来る子どもの状態がエコー検査で分かるようになり、もし異常があれば産む事を望まないので、子どもの出生数がその地区は減少しているのです。」ということでした。そして今ベトナム全省のうち 53 省で、 『枯葉剤被害者の会』 が結成されていると話されました。

話は自然と、ベトナム戦争当時のYさんと、石川文洋さんとの関わりや、Yさんが Cai Be にいた当時の様子、ベトちゃん・ドクちゃんのことなどに広がってゆきました。Yさんが話されるベトナム戦争当時のことになると、身を乗り出して聞いておられました。

私は西村さんとこの日初めて話を交わすことが出来ましたが、いつもニコニコとした微笑を浮かべられていて、(実に温厚そうな方だなー)という印象を受けました。(これからも長いお付き合いをして頂ければいいなー)と思いました。

この夏は、 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」「ムイネーへの家族旅行」「懐かしい再会」「新しい出会い」 と、いろいろな <夏の思い出> が出来ました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

大学に入るために涙を拭いたこともある

Dong Nai( ドン ナイ ) 省 に住む Tran Huyen Tram( チャン フィン チャム ) さんは、昨年 『ホーチミン経済大学』 『自然科学大学』 の、二つの大学に合格した。しかし、学費を納めるだけのお金が無いので、今は大学を辞めてアルバイトに精を出している。

【 お金が無いので、学業を放棄する 】

大学に入学するお金を貯めるために、 Tram さんは午前中山に入って竹の子を獲る仕事をし、午後と夜は村の中にいる学生たちの家庭教師の仕事をしている。

「一ヶ月一生懸命働いても、私が貯金出来るのは 100 万ドン ( 約 4,800 円 .) くらいですが、一学期 (6 ヶ月 ) の学費は 300 万ドン (14,000 円 ) もするのです。それで仕方なく、その学費を工面するために、私の母はいろんな所にお金を借りに行きました。その時私は<今年は絶対に学校を休まないようにしよう!>と強く心に決めました。」

今 Tram さんは母親と妹と、年を取ったおばあさんと一緒に住んでいる。父親は、彼女が小学校に入学する前に家族を棄てて家を出てしまった。それで家の収入は、工員として働いている母親一人の給料に頼るだけである。

Tram さんの母親の Dau( ヤウ ) さんは、革靴の工場で働いているが、一ヶ月の給料は 300 万ドンしかない。それで、 Tram さんは中学三年生から製材工場で働き始めた。高校一年生の時からは山の中に入って竹の子を収穫したり、家庭教師をしたりして家計を助けているのである。

2012 年に Tram さんは 『ホーチミン市農林大学』 のインテリア・デザイン科の試験を受けて合格した。「合格」の通知が来た時、 Tram さんは大変嬉しかった。そしてその大学の入学式の日、 Tram さんも新入生たちと同じように大学に行った。しかし、入学手続きを済ませることが出来なかった。

この時、入学金を納めることが出来なかったので、「入学を保留にして欲しい」と大学にお願いしたのだが、大学側はそれを認めなかった。それで、 Tram さんは保留にはならなかった。

涙を拭いながら Tram さんは考えた。 ( 今回は夢が一旦閉ざされたけれども、何とか別の方法を考えて、大学に入る夢を叶えよう! ) と。

【 夢は諦めない 】

家庭が貧しいので、働きながら学校に通いながらも、 Tram さんの学校の中での成績は大変良かった。大学生の資格はまだ与えられていないが、 Tram さんは「大学に入る夢を諦めないで頑張る。」と言う。

今 Tram さんは、また 『ホーチミン市経済大学』 に入りたいと考えている。「私は経済の領域の勉強が好きだし、学費も他より安いので、その大学を目指しています。そして、大学に通いながら、家庭教師のアルバイトもしていこうと考えています。私はその経験が長いので、自信はありますから。」

◆ 解説 ◆

この記事が掲載されたのは 9 月 10 日でした。そして、その 2 日後の 9 月 12 日付けで、同じ新聞に以下の記事が載りました。いやー、その対応の速さに驚きました。そして感動しました。

☆ Tram さん、大学に入学!!☆

9 月 10 日付けの Tram さんの記事を読んだ 『ホーチミン市経済大学』 の副学長・ Cao Van Tien( カオ ヴァンティエン ) 氏 は痛く感動し、記事が掲載された新聞社を通して Tram さんに連絡を取り、次のように述べたのだった。

「 Tram さんの『ホーチミン市経済大学』への入学を許可します。 Tram さんが大学生活を過ごす四年の間、寄宿舎の費用は免除し、学費も無料にします。そして、毎月奨学金として 50 万ドン ( 約 2,300 円 ) を支給します。」

Tram さんの感激は言うまでもありません。「あの記事が出てから、私に多くの励ましの言葉を頂きました。感動しています。大学に入学を許可して頂き、本当に感謝に堪えません。学業に専念して頑張りたいと思います。もう一度皆さんに“有難うございます!!”とお礼を申し上げたいです。」

近年珍しい『美談』だと思います。 Tram さんの 【 夢は諦めない 】という強い決意が感動を呼び、【 夢が実現 】した訳です。これから始まる四年間の大学生活、頑張って下さいね!



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