アオザイ通信
【2013年10月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<「日越国交樹立 40 周年」記念番組 〜愛しき百年の友へ〜 >

今年は、 1973 年に日本とベトナムが国交を樹立してから、ちょうど 40 周年になります。それを記念して、日本のTBSとベトナムテレビが共同で製作した番組が、9月29日(日)に放映されました。

「 The Partner (パートナー)〜愛しき百年の友へ〜」 がそれです。この番組は、フランスからの独立を果たすために日本に留学した、ベトナム人 < Phan Boi Chau( ファン ボイ チャウ ) > と、神奈川県で医者をしていた <浅羽佐喜太郎> の交友を描いた物語です。

簡単に当時の状況を説明しますと、 19 世紀のアジアはほとんどが西欧の植民地になり、ベトナムもまたフランスの植民地になっていました。その時にある一人のベトナム人が、フランスからの独立の道を模索しに、日本に密かに来ました。そのベトナム人が Phan Boi Chau です。簡単な経歴は以下略述。

〜〜〜◆ Phan Boi Chau  の経歴 ◆〜〜〜

10 代の頃から反仏独立運動に参加するようになる。 1904 年、阮朝皇族の Cuong De( クォン・デ ) を盟主として 「維新会」 を結成し、武器援助を求めるべく 1905 年に来日した。

亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を日本に留学させる 東遊運動(ドンズー運動 )を興した。しかし、このような動きに危機感を抱いたフランスは日本政府に働き掛けて、 1909 年に国外退去にさせる。

その後中国に渡り、 1912 年に広東でベトナム 「光復会」 を結成した。武力によるベトナムの解放を目指したが、大きな成果は得られなかった。 1925 年、上海でフランスの官憲によって逮捕され、ハノイで終身刑を宣告される。しかし、ベトナム国内の世論の反発を受けて恩赦。フエに軟禁されたまま没した。

< Wikipedia より>

上記にあるように、ベトナムの青年たちが革命の志に燃えて日本に留学しましたが、その数は最盛期には二百人にも及んだと言います。しかし、それを快く思わなかったフランス政府は、日本に対してベトナム人留学生の退去を要求します。フランスとの関係悪化を恐れた日本は、已む無くそれを受け入れ、 1908 年に 「ベトナム人留学生解散命令」 を出します。

困ったのがベトナム人留学生たちでした。持って来たお金も尽きて無くなり、帰国費用のみならず、日本での生活にも困るような事態に追い込まれます。その時に支援の手を差し伸べたのが、< 浅羽佐喜太郎>という一人の日本人でした。浅羽佐喜太郎氏は医者でした。この番組はその<浅羽佐喜太郎>と< Phan Boi Chau >の出会い、日本での交友、そして別れまでを描いているという「事前の予告」が、ベトナムの新聞にも載りました。

事前にその予告を新聞で知った私は、そのことを今私が教えている実習生たちや、 『青年文化会館』 で毎週日曜日に開かれている <日本語会話クラブ> のメンバーにも知らせました。実習生たちには学校内の掲示板上で連絡し、<日本語会話クラブ>のメンバーたちにはベトナムの新聞記事の切り抜きと、日本の雑誌からの切り抜きを裏表コピーして事前に配りました。

そして、その「 The Partner 」放映の二日前に、あの 「日本語能力試験一級」 合格者の Bao (バオ)君 と、 「 14 年ぶりに会ったベトナム人青年」 Dat( ダット ) 君 に会うことが出来ました。実は七月の初めに Dat 君に会っていろいろな話をしていた時に、 Bao 君のことに話が及びました。

Bao 君は 2006 年に実修生として日本に行き、 2009 年にベトナムに帰りました。今年 29 歳の若者です。そして、その3年間の日本滞在の間に、実修生として働きながら、「日本語能力試験一級」に合格しました。今まで、彼のような例を聞いたことがありません。

最初に Bao 君 に会った時、3年の間働きながらどのようにして「日本語能力試験一級」に合格したのか、彼の日本での過ごし方を聞いたことがあります。彼の答えは驚くべきものでした。ちなみに、彼は日本に行く前は、4ヶ月しか日本語を学んでいませんでした。しかも、「漢字」は日本に行ってから、日本で「漢字」の本を買い、自分一人で勉強したというのです。彼はその時、私にこう話してくれました。

「毎朝5時に起きて、8時まで日本語を 勉強しました。そして、9時から6時まで工場で働いて、それが終わるとすぐ寮に帰りました。そして、夜7時から11時までまた日本語を勉強しました。そして12時に寝床に就きました。」

実に一日七時間の日本語の勉強です。これを三年間ずっと続けていたというのです。私は最初これを聞いた時大変驚き、そして、こころの底から深く感動しました。そして、その話を聞いて以来、今でも私は実修生のクラスで最初の授業に入る時に、必ずこの Bao 君の話をしてあげます。

みんな驚いた顔、感心した顔で聞いています。そしてこの Bao 君にインタビューした組合の記事がベトナム語でも載っていますので、それを読んで上げると最後に拍手が必ず起きます。今彼は、 JICA 「排水処理プロジェクト」 部門で働いています。

その Bao 君の話を Dat 君にした時、「それはすごい人ですねー。是非今度紹介して下さい。それに私の仕事は水道関係ですので、共通点もありますから。」というので、その後何回か Bao 君に連絡しました。

しかし、最近彼はなかなか仕事のほうが忙しく、まとまった時間が取れないようでしたが、ようやく「時間が取れました!」という連絡が来て、彼に会うことが出来ました。それが「パートナー」放映の二日前でした。そこに Dat 君も合流してくれました。

Bao 君と Dat 君と、私の三人が集った時に、私がそれぞれを紹介しました。 Dat 君は今年 39 歳ですので、 Bao 君とは ちょうど十歳の年齢差があります。 Dat 君が上水道の仕事を手がけているのに対して、 Bao 君はクリークや下水道の「排水処理プロジェクト」に取り組んでいます。

Bao 君の話では、ドブ川に近かったサイゴン市内のクリークを流れている水質が、以前と比べると徐々に改善されて来ているということでした。そこにも過去の日本の経験が生かされているとのことです。そう言われれば、一区から四区に架かる橋をバイクで渡る時に、以前はドブ川の臭いがしていましたが、最近は感じなくなりました。

そしていろいろ話をしてゆくうちに、 彼ら二人に「パートナー」の話をしました。たまたまこの時、そのコピーをバイクの中に入れていましたので、それを取りに行き、彼らに渡しました。すると Bao 君が次のように答えたのでした。

「実は、日本側で作成したその番組の日本語の脚本を、ベトナム語に翻訳して欲しいと依頼されて、私がその翻訳を担当しました。」と。「ええーっ!」とそれを聞いて驚きました。今回放映されるこの 40 周年記念番組のベトナム語の翻訳が彼の手によるものだとは!!

そしてこの番組は、実は日本でも同じ 9 月 29 日に放映されました。ベトナムでは現地時間の 8 時からでしたが、日本では 9 時からの放映でした。普段私はあまりベトナムのテレビ番組は観ないのですが、この日はこころ待ちにしていました。

ベトナム時間で 8 時 ( 日本時間の 10 時 ) からその番組は始まりました。番組の最初には今のベトナムの街中が登場したのには驚きました。てっきり、ベトナムの過去の歴史を忠実になぞった歴史ドラマなのだろうと予想していただけに、これは意外でした。

この日は、あの 「ベトナム戦争当時にバナナを植えていた日本人・Yさん」 もサイゴンでテレビを観ていました。数日後にその感想を聞きました。Yさんは次のように述べていました。

「番組の最初に、ベトナムが当時置かれていた時代背景を 10 分くらいでいいから、詳しく説明して欲しかったですね。あの番組を初めて観た普通の人たちは、専門家は別にして当時の時代背景が分からなかったでしょうねー。」

私もそう思いました。 21 世紀の今の時代と、百年前の時代を交互に重ねるように描いてありましたが、あのようなドラマの展開の仕方はストーリーを複雑にし過ぎていると感じました。事実、その翌日に実習生たちに番組の感想を聞きましたら「良く分かりませんでした。」という教え子たちの意見が多かったですね。

<浅羽佐喜太郎>と< Phan Boi Chau >との二人の出会いにも無理がありました。ドラマでは二人の最初の出会いは、 Phan Boi Chau が海岸に流れ着いた所を、 <浅羽佐喜太郎>医師が偶然に出会い、 Phan Boi Chau の 命を救ったように描かれていましたが、それも史実とは違います。まあしかし、テレビドラマですので、出来るだけ面白く描きたかったのだろうな〜とは想像出来ますが・・・。

ただ <浅羽佐喜太郎>と< Phan Boi Chau >の友情の描きかたについては、その番組を観ていた私自身も大変感動しました。涙が出て来ました。しかし、疑問に思ったのは(ベトナムという遠い異国から来た人間に対して、何故 <浅羽佐喜太郎>先生はそこまで献身的な努力をされたのだろうか・・・?)という疑問でした。番組の中で、同じような考えを持った人が、<浅羽佐喜太郎>先生に直に質問します。浅羽先生は次のように答えます。

「理由など何もありませんよ。」

テレビドラマの中では<浅羽佐喜太郎>先生がそう答えていましたが、< Phan Boi Chau >日本滞在中の浅羽先生の支援活動を見ていますと、口には出されなくても、 事実その通り「理由など何も無かった」のでしょう。

何故なら、<浅羽佐喜太郎>先生はもともと 「医は仁術」 という考え方を貫く生き方をされていたようです。患者にも親切で、貧しい人たちからは診察料を取らなかったといいます。だからこそ、政治的にも金銭的にも追い詰められた< Phan Boi Chau >たちベトナム人留学生たちにも自然と援助の手を差し伸べられたのでしょう。

しかしながらそれでも、<浅羽佐喜太郎>先生が身命を投げ打ってベトナム人留学生たちを献身的に支援された姿には頭が下がります。< Phan Boi Chau >たちが困難に陥った境遇を知っていたのは、 <浅羽佐喜太郎>先生以外にもいたはずですから、誰にでも出来得る行動ではないでしょう。

実はつい最近、ベトナムを訪問した日本人から頂いた、< Phan Boi Chau >に関する本を読んでいまして、おぼろげながらその時の <浅羽佐喜太郎>先生の気持ち・ 理由が分かる気がしました。その本には次のように書いてあります。

「浅羽医師は、実は肺結核に罹っていました。今でも厄介な病気ですが、当時はまだ特効薬などがなく、唯一の治療方法は、健康に良い土地で療養することでした。

 浅羽医師はこの病気のために、医学の先進国ドイツに留学するという、若いころからの夢を諦めなければなりませんでした。ベトナムからの留学生を助けたのは、自分自身が果たせなかった夢を、託す思いがあったのだと考えられます。」

         =「日本をめざしたベトナムの英雄と皇子」白石昌也 著=

このドラマで私が深い感銘を受けたのは、 ベトナムの会社へ契約をしに行った日本人が、相手先のベトナム人の社長から 「石碑」 の写真を見せられ、その「石碑」の謎解きから話が始まり、石碑の歴史を調べていくうちに、当時の日本とベトナムの歴史、そして <浅羽佐喜太郎>先生と< Phan Boi Chau >の交友が描かれ、最後に < Phan Boi Chau >が恩人の <浅羽佐喜太郎>先生のために「 石碑」を建立するところです。この「石碑」に関しては、次のような涙ぐましい <実話> があります。

■ 報恩の碑 ■

1917 年 ( 大正 6)5 月、ファンはひそかに日本へ来た。この 7 年前、 1910 年 ( 明治 43)9 月 25 日浅羽佐喜太郎は 43 歳で亡くなっていた。これは、ファンが日本を退去させられた次の年である。大恩ある浅羽先生はすでに亡く、ファンは哀惜の念に堪えず、御恩に報いることも、感謝することもできなくなったことを痛感、先生の墓前に記念碑をと決意した。そして次の年、それを実行しようと再び日本へ来た。

「私 ( ファン ) は静岡に着いて石碑を造る費用を調べた。石材と刻字の工賃で百円、それを運んで完成させるのに百円以上・・・。しかし私の懐中には 120 円しかなかった。私と李仲柏は東浅羽の村長さんのお宅へ行って事の次第を述べた。

今お金が不足しているから、中国へ行ってととのえて・・・と話した。村長さんは大変感激、石碑をすぐ建てるようにと。そして私たちを自宅に泊めて、週末の金曜日、村の小学校へ授業参観に連れて行ってくれた。児童たちに、日曜日に家の人を学校に連れて来て、私の話を聞くようにと言われた。

日曜日、私たちは村長さんの案内で小学校へ行った。大勢の父兄が集まっていた。村長さんは、浅羽先生の義侠の行いについて話し、私と李仲柏を紹介。このお二人が千里を越えて、こんな田舎の村へ来て、浅羽先生のために石碑を建てようとされている。私たちも手伝ってあげようではないか、と。

万雷の拍手が起こった。さらに村長さんは、このお二人には石材と石工の手間賃を負担してもらうだけで、石碑の運搬と建設費は村で出そうではないか、 と訴えた。学校いっぱいに賛成の声が。」

石碑の完成まで約一ヵ月、碑は浅羽佐喜太郎家の墓所、梅山の常林寺境内に建てられた。一メートル余に積みあげられた石垣の上に、高さ二.七メートル、幅〇.八七メートルという大きなものである。

「完成の日には、村人が集まり完成の式典を行い、自分達を主賓にして祝宴を張ってくれた。これは、皆村長の計らいであった。自分達はたかだか百円あまりを払っただけであった。このような日本人の義をベトナムの同胞に知らせたいので特にこの事を書き残す。」と

( 立教大学教授 後藤均平訳「ファン ボイ チャウ年表」)

さらにはこの番組の放送の数日前にも、今日本の静岡県で実習している私の教え子Tくんからメールが届きました。私は彼のメールを読んで深く感動しました。

「 私が実習している会社は静岡県袋井市であり、浅羽佐喜太郎医者様の出身と一緒の市です。私が会社に入った時に、

(昔この市にいたある一人の日本人が、偉いベトナム人のファン ボイ チャウさんを助けました。その人が浅羽佐喜太郎さんです。昔、日本でベトナム独立運動をすすめていたファン ボイ チャウが困っていた時、大金を贈って支援したそうです。浅羽佐喜太郎の記念碑は、ファン ボイ チャウが亡くなった浅羽佐喜太郎に感謝して作ったもので、浅羽佐喜太郎とファン ボイ チャウとの深い交流を示すものです。)

と会社の人が私に語ってくれました。それを聞いた後、私も浅羽さんの記念碑へ行きたいとお願いしました。それで、昨年の四月に社長さんと組合の先生が私を浅羽佐喜太郎の記念碑とお墓に連れて行って下さり、お墓参りをしました。

そして浅羽さんの記念碑の前で記念撮影をしました。私は二人のことや記念碑のことを知って、私はベトナムに対する日本の温かい思いを感じ取ることができました。そのことを自分のエネルギーにして、いま実習に励んでいます。今度 29 日に放映される、日本とベトナムのドラマを是非拝見したいと思います。」

今静岡県袋井市にある 「報恩の碑」 に 、 < Phan Boi Chau >が恩人 <浅羽佐喜太郎>先生に 籠めた思い は、まさに 100 年の時を超えてベトナム人の若者のこころにも強く、深く 届いているのです。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

相次ぐ外国人の交通事故死に思うこと

ホーチミン市の Ben Thanhバスターミナルで9月30日、宮本美智子さんがバスに乗ろうと道を横断していたところ転倒、走ってきたバスにひかれて亡くなられた。

ベトナムに長く住み、ホーチミン市「人文社会科学大学」で、フリーで6年ものあいだ日本語を教えていた宮本さんに、学生はじめ深い感銘を受けた人は多いだろう。足が不自由な宮本さんは松葉杖を使い、毎日バスを乗り継いで、7区の自宅から学校に通っていた。

道を横断していた宮本さんが転倒したちょうどその時に、バスは降車所に進入した。捜査機関の結論はまだだが、目撃者によると、バスがスピードを出して歩道に寄せたため、ブレーキが間に合わなかったようだ。 ベトナムのバスの長年の問題は、まさにここだ。

宮本さんの無念の死が、数多くの悲しい事故の記憶を蘇らせた。 今年6月はじめ、考古学者の西村昌也さん(48歳)がバイクで調査地に向かう途中、ハノイ市Gia Lam県の国道5号線でトラックと衝突し、命を落とした。

この9月にはホーチミン市1区Bui Thi Xuan通りで、横断歩道を渡っていたオランダ人旅行者Blankensteinさん(46歳)が事故に遭った。  同じく9月、ホーチミン市7区Luu Trong Lu−Huynh Tan Phat交差点でアメリカ人英語教師Wayne Madisonさん(55歳)が、自転車で走行中に後ろからトラックにはねられ、即死した。

7年前にもマサチューセッツ工科大学の数学者Seymour Papert氏が、ハノイで道路を横断中にバイクにはねられ重体となった。Papert氏は国際会議のため訪越していた。

ある読者が『 Nguoi Lao Dong』紙にこんな思いを投稿した。「とても悲しい。外国人が交通事故で亡くなったというニュースを聞くたびに、恥ずかしく、胸が痛む」。

ベトナム人には客をもてなす伝統がある。 しかし、集団になって一苦労して大通りを横断する外国人を見て、彼らが盗まれ、脅され、怪我をさせられ、終いには命を奪われてようやく、私たちは外国人に非情であることに気づく。

これまでベトナムが胸を張ってPRしてきた、親しみやすさや安全はどこへ行ってしまったのか。

(ベトナムニュース Hotnam)

◆ 美智子先生との永別 ◆

9月30日の夜 10時半を過ぎた頃、知人から私に連絡がありました。

知人:「美智子先生の件は聞きましたか?」

私 :「いいえ何も知りませんが・・・。」

知人:「今日の午後、交通事故で亡くなられました。」

私 :「ええーっ!!・・・・・」

最初、信じられませんでした。それ以上、言葉になりませんでした。しかし、もう一人の知人からも同じ連絡が入り、やはりどうも事実らしいと信じるしかありませんでした。「美智子先生」の逝去が事実だと分かり、涙を抑えることが出来ませんでした 。

翌日、外をバイクで走っている時にも、授業をしている時にも、空を見上げると「美智子先生」の顔が浮かんできました。

今振り返りますと、「ミチコ先生」と私の出会いは、約6年前まで遡ります。ある日本語学校で、一時期一緒に日本語を教えていたことがありました。「美智子先生」がそこで教えておられたのは三ヶ月くらいの間でしたが、会うたびに、いつもニコニコとして生徒たちにも、私たちにも接しておられました。

その後、「美智子先生」は日本語を教える場所を、 「人文社会科学大学」 に移されて、キャンパスの中にある長椅子に座り、そこに通う大学生たちで日本語を勉強したい学生たちに日本語を教えるようになりました。家庭教師のようなやり方で、自分のアパートでも生徒たちに教えておられました。

その頃の「美智子先生」の暮らしぶり、日々の活動がベトナムの新聞に採り上げられました。それを私が 「ベトナムに住んで生活している、市井の日本女性」 として翻訳したことがありました。

その後、「美智子先生」は、青年文化会館の中で行われている「日本語会話クラブ」に時折顔を出されることがありました。今となれば、約二ヶ月前に青年文化会館の喫茶店の中でが、「美智子先生」を私が見た最期になりました。

「美智子先生」のご葬儀は、 10 月 6 日・ 7 日に永厳寺 (Chua Vinh Nghiem) で行われることになりました。このお寺は日本とも縁が深く、日本の曹洞宗のお寺から寄贈された「平和の鐘」があるお寺としても有名です。

日本からは喪主として、「美智子先生」のお兄様が息子さんと共にベトナムに飛行機で来られました。「美智子先生」を知る友人たちが一度青年文化会館に集まり、その後葬儀に行くことにしました。

午後二時頃にお寺に着きました。お兄様とその息子さん、そして友人たちが祭壇の前に立たれていました。私たちは無言で挨拶をして、まず祭壇にある線香に火を点けて、「美智子先生」のご冥福をお祈りしました。後でお兄様に聞いた話では、もう火葬は済ませてあるということでした。

祭壇には「美智子先生」の写真が飾られてありました。それをじーっと見ていますと、やはり涙が出て来ました。「美智子先生」は一人でアパートに住んでおられて、ベトナムには家族がいませんでした。

それで、今回の「美智子先生」のご葬儀にこぎつけるまでには、親友のE先生が多大な尽力をされました。私も良く知る方です。「美智子先生」と同じく、このサイゴンで日本語を教えておられます。テトの時になると、サイゴンに家族のいない「美智子先生」をご自宅に呼んで、一緒に食事をされていたと言われました。

そのE先生から聞いた話ですが、この6日の昼過ぎまでに、「美智子先生」を直接・間接に知る人だけで五百人を超える人たちが来て、ベトナム人の大学生だけでも約二百人が葬儀に来たということでした。異国においてはすごい人数というべきでしょう。

E先生が私にしんみりとした口調で、静かに話されました。「お兄さんは今回が初めてのベトナム訪問でしたが、これだけの参列者の多さを目の当たりにして、改めて美智子先生がサイゴンに遺された功績と、偉大さをひしひしと感じ取られたことでしょう。」と。

この葬儀場で、私も直に「美智子先生」に習っていた「人文社会科学大学」の女子大生と話をする機会がありました。彼女は「美智子先生」から直接習っていたと言いました。彼女の言葉が今も忘れられません。

“美智子先生はもうこの世におられませんが、今でも私たちの心の中にずっといます。”

「美智子先生」、安らかにお眠り下さい・・・。



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