春さんのひとりごと

「Saint Vinh Son 小学校」の<閉校式>

私がベトナムに戻ったその日、「Saint Vinh Son 小学校」の校長のOanh先生から連絡がありました。私は5月29日にベトナムに戻りましたが、この日に戻ることは事前にOanh先生にも知らせていました。

“5月31日に「Saint Vinh Son 小学校」の<閉校式>をしますので参加してください”

そのメッセージを見た時、私は深い感慨に襲われました。1999年に「Saint Vinh Son 小学校」は開校しましたので、約19年間続いたことになります。19年間、貧しい家庭の子どもたちを「授業料無償」で受け入れて、小学校の教育課程を子どもたちに授けて卒業させて来られました。

私が「Saint Vinh Son 小学校」の存在を知ったのは2000年のことでした。その当時、今は「日本人街」とまで呼ばれるようになった<Le Thanh Ton (レー タン トン)通り>に、日本人経営の喫茶店「ひろば」が出来ました。そこで「Saint Vinh Son 小学校」の運営責任者の「藤牧さん」と知り合いになりました。

最初に藤牧さんにお会いした時、ベトナムで何をされている方なのかは全く知らず、ただ普通に会話していました。もともと藤牧さんは口数の少ない方なので、自分のことを饒舌には語られない人でした。そして、それは今でもそうなのです。

しばらくしたある日、「ひろば」のオーナーである日本人が、「実は藤牧さんという方は、このベトナムのサイゴンで授業料無償の小学校を運営されている方なのですよ」と私に話してくれたのでした。それを聞いた私は大変驚きました。

(そういう奇特な日本人がこのサイゴンにおられるのだろうか・・・)

という素直な驚きでした。それで、藤牧さんが「ひろば」に顔を出された時に、直接お聞きしました。「このサイゴンで授業料無償の学校を開かれたと聞きましたが、本当でしょうか」と。藤牧さんはそれに対して「はい、そうです。今、小学1年生から5年生までの生徒たちを預かって授業をしています」と淡々と答えられたのでした。

それを聞いた私は、「是非近いうちに、その学校を訪問させてください」とお願いしますと、「ええ、いつでも構いませんよ。もし、学校を訪問される日が分かれば、校長のOanhに伝えておきますので、大丈夫ですよ」と快く承知されました。

そして、「Saint Vinh Son 小学校」を私が直接訪問出来たのが、2000年12月のことでした。その時「Saint Vinh Son 小学校」を訪問した時の私の感想は、直接藤牧さんにもお渡ししました。それは、2016年7月号<Saint  Vinh  Son小学校の“Fさんを囲む会”>の中に載せています。

“Fさんを囲む会”の時に、<Haiさんの奨学金支援の会>を立ち上げましたが、その後全員で10名の有志の方々に賛同頂いて、ちょうど2年間続いた<Haiさん支援の会>が今年の6月に終わりました。10名の有志の方々は全員が日本人の方たちです。しかし、途中で一人も欠けることなく、良くぞ続いて来たなぁ~という感を深くしています。

そして、今年の7月からHaiさんは、<Fさんを囲む会>の時の発起人だったABさんの会社で働くことになりました。それを聞いて、私も嬉しかったです。<Fさんを囲む会>から<Haiさんの奨学金支援の会>の立ち上げ、そして、<Haiさんの就職>にまで繋がったからです。

“Fさんを囲む会”の時には、ABさんの知り合いの日本人の方が参加されていましたが、みなさんが身を乗り出して、藤牧さんの話を聞いていました。それはやはり、ベトナムの公立の学校が救えない貧しい生徒たちを、授業料無償で学校に通わせている<日本人・藤牧さん>という人の存在を、あの日参加した皆さんが初めて知ったからでした。

私自身も、今から18年前に、ベトナムの普通の公立の学校に通えない貧しい生徒たちが「授業料無償」で通っている「Saint Vinh Son 小学校」の存在を知った時、私のこころの中で、毎年の夏にベトナムに来ている“ベトナムマングローブ子ども親善大使”の小・中学生たちとの交流が企画できないものか・・・という気持ちが湧いてきました。

それまでは、日本から来た生徒たちがベトナムの生徒たちとお互いに交流を行う機会はほとんど無かったからです。ベトナムに来た後も、日本の生徒たちだけで最初から最後までベトナムで過ごし、そのまま日本に帰国していました。それで、「日本の生徒とベトナムの生徒の交流会」の企画の実現に向けてプログラムを組み直しました。

そのことを藤牧さんとOanh先生に話して、毎年の交流会が実現出来たのが2005年からでした。それ以来途切れることなく「Saint Vinh Son 小学校」の生徒たちと“ベトナムマングローブ子ども親善大使”の生徒たちとの交流会が、12年間に亘って続いてきました。

「Saint Vinh Son 小学校」の生徒さんたちにとっては、普段日本から来た生徒たちとの交流会はめったに無いことだし、日本人の生徒たちにとっても、自分とあまり変わらない学年のベトナムの生徒たちと交流が出来るので、大変喜びもしたし、日本での自分たちの恵まれた「教育環境」を振り返るキッカケにもなりました。

この学校を訪問した後に、日本の生徒たちが書いてくれた「感想文」にもそのことが触れられていました。それらの感想文を読みながら、私は(毎年、日本の生徒たちをこの学校に連れて来て本当に良かったなぁー)と言う思いを、新たにしていました。そのことを、藤牧さんにもお会いするたびに話していました。

その「Saint Vinh Son 小学校」との交流会が、昨年の生徒たちを最後にして終わりました。昨年ベトナムに来た生徒たちには、「実は、みなさんがSaint Vinh Son 小学校の生徒たちとの交流会を行う最後の日本人の生徒たちになります。それだけに、小学校を訪問した時には、ベトナムの生徒たちとの交流をしっかりやってくださいね」と言う話をしました。

それから約9ヶ月が過ぎました。そしていよいよ、「Saint Vinh Son 小学校」の「閉校式」 を迎えることになりました。さらには、この日は小学5年生の「卒業式」も兼ねていました。要は、「5年生の卒業式」と「Saint Vinh Son 小学校の閉校式」を同時に行うことになったのでした。それが、5月31日でした。

私はOanh先生からの連絡を頂いて「有難うございます。喜んで出席させて頂きます」と言う返事を出しました。閉校式に参加する日本人は私一人だけだということでしたので、必ず出席しようと思いました。敢えて日本人やベトナム人に告知することなどはせず、ひっそりと「卒業式と閉校式」を行う考えのようでした。それは、おそらく藤牧さんとOanh先生二人の気持ちからではないかな・・・と想像しました。

そして、迎えた当日、「閉校式自体は9時から始まりますが、生徒たちへの文具の進呈があり、それを渡して欲しいので、8時半頃に来てくださいますか」と、Oanh先生からお願いがありました。それで、8時半少し前に学校に着きました。

着いた時には、Oanh先生が学校の入り口で出迎えてくれました。学校の前の道路は、いつもの如く、路上市場になっていて、多くの人たちが市場に並ぶ品物を買うために歩いていて、その間をバイクがビュンビュン走っています。

この日クラスの中にいたのは小学5年生だけです。彼らが最後の卒業生になるわけです。この生徒さんたちを送り出して、「Saint Vinh Son 小学校」がその活動を終了することになります。「閉校式」が始まるまでの間、しばらくOanh先生と話をさせて頂きました。

今日は全員で21名の卒業生がいると言われました。一人が体調不良で欠席しているとのことで、この日に出席していたのは全員で20名でした。その全員の氏名が載ったリストを頂きました。Oanh先生の話では、全員100%が次の中学校に進学するとのことで、これは嬉しかったです。

学校の中に入ってすぐの部屋には、「Saint Vinh Son 小学校」の生徒たちのいろいろな写真が掲示されています。その写真の中に、ニッパ椰子で出来た家の前で、家族たちと並んで写っているOanh先生の姿があります。写真が少しセピア色に変色していたので、最近のものではなく、ずいぶん以前の写真のようでした。「Saint Vinh Son 小学校」を創って間もない時期の頃の写真ではないかな・・・と思いました。

Oanh先生は、こういう貧しい家の両親と子どもたちの元を一軒・一軒自分で直接訪ねて行き、「Saint Vinh Son 小学校」にその子どもたちを引き受け、「授業料無償」で小学校教育を受けさせて来られたのでした。誰にでも出来ることではないでしょう。それだけに、今日のこの日の<閉校式>を迎えた、Oanh先生の心情は如何ばかりだろうか・・・と思いました。

それから、Oanh先生の案内で、教室の前まで進みました。最初に、今年の卒業生たちの中で、成績優秀な生徒たちにOanh先生から「表彰状」の授与がありました。この時は五名の生徒たちが選ばれました。全員が前に出て、Oanh先生から「表彰状」を受け取ります。みんな喜んでいます。

その後、Oanh先生が私を紹介して頂きました。「どうぞこちらへ」と言われましたので、教室のほうに行きます。教室の中に入りますと、生徒たち全員がサッと立ち上がり、大きな声で私に挨拶してくれました。黒板には生徒たち自身の手によるものでしょう。「2017 ♡ 2018 学年終了式」と、赤い字で大きく描いてありました。

私は「みなさん、卒業おめでとうございます。みなさんたち全員が中学校に進むとOanh先生から聞きました。次の中学校でもしっかり頑張ってくださいね」と、ベトナム語で話しました。昨年の夏に日本の生徒たちと一緒に来たので、私の顔を覚えてくれていました。

そして、この日の<卒業式>では、生徒たち全員に渡すノートや、次学年の教科書のプレゼントを私に手伝って欲しいとOanh先生が言われましたので、生徒たち一人・一人に配りました。Oanh先生が生徒の名前を読み上げられて、生徒たちが一人ずつ前に出て来ます。その生徒に対して、私がノートと教科書を渡します。

それが済みますと、私自身に何と、生徒たちから手書きの「感謝の手紙」を頂きました。
生徒たちが自分の手で書いてくれて、私にプレゼントしてくれたのでした。私がこの日に来ることを生徒たちにOanh先生が事前に伝えてくれていて、前もって生徒たちに書いてもらっていたのでしょう。全部で13通も頂きました。

その場では全部に眼を通すことが出来なかったので、生徒たちから頂いただけで、「有難うね!」と言って受け取りましたが、それを持ち帰った後でゆっくりと読ませて頂きました。みんな一人・一人がボールペンでノートに書いてくれていました。

その手紙の一部を紹介しますと、「今まで十年以上も、毎年、私たちに新しい、キレイな制服をプレゼントして頂きまして、本当に有難うございました。私たちはその恩を忘れることはできません。先生のご家族の皆様の幸せを願っています」という内容の手紙でした。それらの一つ・一つを読んでいますと、思わず涙がこぼれそうになりました。

私が今回の<卒業式>と<閉校式>に参加させて頂いた時間は約40分間ほどでした。彼らの後に続く生徒たちはこれからいません。今年が最後の「Saint Vinh Son 小学校」の<卒業生>になります。今日この日の<卒業式>を迎えた生徒たちも、当然そのことを知っています。彼らの胸中の思いはどうだったでしょうか。

生徒たちからの手紙を受け取った後、私の役割は終わり、後はベトナム人の先生だけで<閉校式>にまで進んでゆきました。私はそれを、教室から少し離れた所から見ていました。私の隣にはOanh先生が立っておられました。

私が率直にOanh先生に聞きました。「1999年にこのSaint Vinh Son 小学校を開設して以来、どれだけの生徒たちがここを卒業してゆきましたか」と。それに対して、Oanh先生は次のように、静かに答えられました。

「19年間この学校で生徒たちを教えて来ましたが、今までこの学校から約300人の生徒たちが卒業してゆきました」

私が2000年の12月に初めて「Saint Vinh Son 小学校」を訪問した時に、「学校の訪問記」を書きましたが、私自身がOanh先生に質問した内容も記しました。あの時はまだ「Saint Vinh Son 小学校」が開校して一年目ぐらいの時期でした。

その時の記録を読み返していますと、学校が開校して間もない時に、Oanh先生が話されていたことが今まざまざと思い出されて、深い感慨を覚えています。あの時、Oanh先生は私の質問に対して、次のように答えられました。

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Q.「何故このような施設を創ろうと思ったのですか?」

A.「子どものころからカソリツクの団体でボアンテイア活動をしていましたので、このようなことにも興味がありました。多くの子どもたちが学校に行けない状況があり、自分の家を解放して教室にすればそういう子どもたちでも教育を受けられると思ったのです」・・・

Q.「最後にOanhさんの将来の夢をお聞かせ下さい」

A.「今の施設の設備や内容をもっと充実させ、ここで子どもたちに職業訓練を施して、将来子どもたち一人一人に手に技術を身につけさせてあげたいと思います。ここでは子どもたちのために仕事の世話もしていますが、住民票もここにない子どもたちの職業の選択肢は非常に狭いのです。ですから子どもたちが自立できるような技術をここで教えてあげたいと思うのです。資金面や人材の面でまだまだ不充分ですが、ぜひそういう夢を実現させたいと思います」

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この日の<閉校式>の時、今までに、約300人の生徒たちが「Saint Vinh Son 小学校」を卒業して行ったとOanh先生は言われましたが、最初の卒業生たちは今30歳くらいになっていることでしょう。

今や立派な社会人となり、すでに結婚して家庭を築き、子どもがいる卒業生たちも多いはずです。その彼らも、かつて自分たちが小学生時代に通い、学んだ「Saint Vinh Son 小学校」がその活動を終えたということは、遅かれ早かれ、知ることになるでしょう。

しかし、彼らが、藤牧さんやOanh先生、さらには多くの先生たちの愛情に包まれて「Saint Vinh Son小学校」で学んだ思い出は、彼らのこころの中で今後も消えることなく、これからもずっとずっと輝き続けてゆくことと思います。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

歴史学者のファン・フイ・レ氏が死去、福岡アジア文化賞受賞

ベトナムの著名な歴史学者で、ベトナム歴史科学会の会長も務めたファン・フイ・レ(Phan Huy Le)氏が23日、ハノイ市バックマイ病院で死去した。84歳だった。

レ氏は1934年2月23日生まれ。北中部地方ハティン省タックハー郡(現在のロックハー郡)タックチャウ村出身で、父方と母方のいずれも著名な学者を多数輩出した家系に育った。

ノイ市師範大学で古代ベトナムの歴史を学び、1956年に卒業。1980年に教授となり、1988年には優秀教育者、1994年には人民教育者の称号を贈られた。また日本では、1996年に「第7回福岡アジア文化賞」でベトナム人として初めて学術研究賞を受賞した。

1988年から2016年までベトナム歴史科学会会長を務め、歴史の再考および新たな歴史的アプローチに対して多数の問題を提起したほか、ハノイ市バーディン区の世界文化遺産タンロン城王宮跡(タンロン遺跡)を含めた歴史文化遺産の保存など、歴史と開発のつながりにも着目し、長きにわたりベトナムの歴史研究に貢献してきた。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

歴史学者の「ファン・フイ・レ氏」については、私自身は全く存じ上げていませんでしたが、私の知人の「安間さん」からの情報で、その人となりを詳しく知ることが出来ました。

「安間さん」については、2018年1月号<静岡県袋井市の【浅羽ベトナム会】のこと>の記事の中で詳しく触れています。「安間さん」は大変爽やかな笑顔と、優しい人柄を漂わせた方でした。

昨年12月中旬にサイゴンで「安間さん」にお会いしましたが、その時、「報恩の碑 浅羽佐喜太郎とファン ボイ チャウ」と題した<紙芝居>をわざわざ日本から持参されて来て、それを私に下さいました。それ以来、私が日本語を教えている学校で、初めて入るクラスには、その<紙芝居>を生徒たちに紹介してきました。それは今も続けています。

その「安間さん」が書かれている追悼の記事内容を読んで初めて、今回亡くなられた、「ファン・フイ・レ氏」の足跡を詳しく知ることが出来たのでした。「安間さん」が「ファン・フイ・レ氏」について追悼された内容は以下です。

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「Phan Huy Le前ベトナム歴史科学協会会長が急逝。27年間の会長職後に、ベトナム国史25巻の編集監修に専念されていました。お疲れだったのだろうと思う。猛烈に忙しい方ながら、ハノイ訪問時には自宅を訪ねてご指導を頂いてきた。

「東遊運動」の歴史を日越間の代表的歴史に、そして「友好の歴史」への評価を定着させてくれた方。「浅羽佐喜太郎記念碑の歴史」を「東遊運動の歴史のシンボル」の様な存在にしてくれた恩人の様な存在。

最後にお会いしたのは昨年9月、「ゲアン省ファンボイチャウ記念館の展示をしっかり見て下さい、あなた方の実績ですよ」と語られた言葉が記憶に残る。ドンズー運動100年の2005年以来、浅羽ベトナム会の指針の様な存在でもあった。実に悲しい」

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今、「安間さん」は今年9月22日に行う「浅羽佐喜太郎記念碑建立100周年」の行事の準備を、静岡県袋井市で進められています。そのことは、昨年から私の教え子たちにも話して来ました。

“静岡県に近い、名古屋、三重、大阪などの場所で働く生徒がいれば、是非9月22日の「浅羽佐喜太郎記念碑建立100周年」に参加してください。もし、今年が無理でも三年間日本にいる間に一度は訪問してくださいね”

そのように授業中に話しましたが、一人でも二人でも「浅羽佐喜太郎記念碑建立100周年」の行事に参加して欲しいと願っています。

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