春さんのひとりごと
「甥っ子の来越」と「Sonさんの結婚式」
● 甥っ子の来越 ●
7月末に私の甥っ子がベトナムまで訪問に来てくれました。その目的は、「最近結婚した、自分の奥さんを紹介したい!」と言うことでした。(わざわざそのためにベトナムにまで来てくれるのか・・・)と思い、私にとっては実に嬉しいとしか言いようがありませんでした。
私の甥っ子は妹の子で、今年29歳になります。今日本で「歯科医」の仕事に就いています。私は幼い頃から彼の様子を身近で見ていて、今でも彼の子ども時代のことを良く覚えていますので、(あの時の彼が、早や30歳近くになったのか・・・)と思いますと、あらためて感慨深いものがあります。
彼がまだ4・5歳頃の幼い時、夏の暑い日に、熊本の実家の庭先に広げた、ビニールで出来た、小さいプールの中で嬉々として水遊びに興じていた姿を今でも覚えています。そうやって、夏の炎天下の中で、一時間でも、二時間でも一人で遊んでいました。それで、夏には顔や腕はいつも褐色に日焼けしていました。
彼にまつわるエピソードには、実に面白い話が幾つかあります。彼が小学校に上がる前の時、私の田舎で農協主催の小旅行があり、それに私の両親と甥っ子が参加しました。私はそこにはいませんでした。その時甥っ子が起こしたエピソードは、今でも私が日本に帰るたびに、母親が大笑いしながら、懐かしく話してくれます。
その小旅行では大型バスで移動していたのですが、帰り道で高速道路の料金所の出口に近づいた時、バスの中の女性の車掌さんがマイクで車内の乗客に向けて次のような話をしたそうです。
「只今高速道路に近づいて来ましたが、出口付近で交通渋滞が発生しているようです。それで、料金所の出口を抜けるまで、少し時間が掛かるかもしれません。しばらくお待ちください」
それを聞いた私の母親が、隣の席に座っていた甥っ子に尋ねました。「コーちゃん(それが彼の愛称です)、交通<ジュータイ>って、どう言う意味なのか分かる?」と。すると、その甥っ子は、さもその意味を良く知っているかのように、得意そうに、車内に響き渡るような大声で、次のように答えたと言います。
「そんなことぐらい知っているよ!車が<10台>並ぶから、交通<ジュータイ>って言うんだよ!!」
それまでシーンとした車内の中に、その甥っ子の声が大きく聞こえてきて、それを耳にした車内のお客さんたちは一瞬シーンと静まり、その後車内中が一斉に大爆笑に包まれたということです。本人は何故みんなが笑っているのかが分からず、キョトンとしていたそうです。後でそれを聞いた私自身も大笑いしました。
彼は今歯科医の仕事をしていますが、そのことと関係があるのかどうか、直接彼に聞く機会を逃しましたが、実は幼い頃から、彼には虫歯が一本も無いのです。母親である妹の躾の影響からか、幼い時から毎日食後の歯磨きを欠かさずしていたそうで、毎日三回の歯磨きを習慣化してきたと言います。それで、大人になった今でも虫歯は一本もありません。
甥っ子にとっては、今回で四回目のベトナム訪問になりました。最初は私がベトナムに来た翌年に、私の両親と兄弟たちと一緒について来ました。その時は小学3年生でした。その時の幼い頃の姿を、私の女房の家族全員が良く覚えていますので、いつも彼がベトナムに来ると、みんなが喜んで集まって来ます。
二回目は私の結婚式の時です。ちょうど彼が中学1年生になった頃です。妹の話によると、彼は「コーちゃんのおじさんの結婚式をベトナムでするので、みんなで行くことにしたけど、どうする?」と聞くと、眼を輝かせて「ボクも行くよ!」と大きな声で叫んだそうです。それは「外国に行きたい!」という好奇心が、幼い時から彼には強くあったからのようでした。
三回目は、彼が大学を卒業してからです。この時は、甥っ子の幼い頃を知る女房の家族たち全員が彼の到着を喜んでいました。二回目までは、彼がベトナムに来てもビールを一緒に飲むことはありませんでしたが、甥っ子も大学を卒業して二十歳を超えています。ですから、ビールが飲める年齢になりましたので、みんなが彼との「乾杯!」を待ち望んでいました。
あの時、どこで彼の<歓迎会>をしようか・・・と考えた時、その場所はすぐに決まりました。いつもの馴染みの「ヤギ鍋屋」です。その当時、大人数で宴会をする時には、いつもその「ヤギ鍋屋」を良く利用していました。それで、甥っ子の<歓迎会>をそこですることにしたのでした。
そこで初めて、甥っ子を囲んでの「ビールで乾杯!」から宴会が始まりました。それまでは甥っ子とビールなど飲んだことが無い女房の家族たちでしたので、この時は甥っ子の大きく成長したその姿を見て、全員が喜んでいました。
そして、今回の7月末が四回目のベトナム訪問です。しかし、彼は仕事の忙しい中をやりくりして来たらしく、ベトナムでの滞在は二日間で、サイゴンに滞在するのは一日だけなのでした。その翌日の深夜便でサイゴンを発ち、日本に帰国する予定で動いていました。
それで、当日は私と女房で「タン ソン ニヤット空港」に向かいました。「国内線」のほうの出口です。甥っ子はこの日の一日前にサイゴンに着いていて、そのままダ ナンまで旅行に行き、その後ダ ナンから「国内線」の便で「タン ソン ニヤット空港」に着く予定だったからです。
空港に向かう途中で、私の携帯に連絡がありました。「今ダ ナンから到着しました。ゲートを出た所で待っています」と。私は(思ったより早く着いたなぁー)と思いながら、「そこを動かないでじっと待っていてね!」と返事しました。そして、私と女房の二人で空港に着いた時、大変な混雑ぶりでした。最初は左側の隅まで歩いて探しましたが、二人の姿が見当たりません。
そして、次に右側に戻り探しましたら、一番端に一人の青年が女性と座っているのが分かりました。やはり、甥っ子でした。安心しました。彼の新婦さんとはこの日、この場で、初めての対面となります。私たちを見ると、ニコッとして頭を下げました。彼女は初めてのベトナム訪問だということでした。私の女房に甥っ子の奥さんを紹介し、甥っ子の新婦さんに私の女房を紹介しました。そして、空港からタクシーで四区まで戻ることに。
タクシーの中で甥っ子に聞きました。「何故この短いベトナム訪問の中で、わざわざダ ナンまで足を延ばしたの?」と。それに対して甥っ子が言うには、「日本のテレビでたまたま観た【インター コンチネンタル ホテル】が海に面している素晴らしいリゾート地のように感じたので、ベトナムでの新婚旅行の思い出創りにと思ったんです」と答えました。
私は彼に聞くまで、【インター コンチネンタル ホテル】がどういうホテルかは知りませんでしたが、五つ星のホテルだということです。一泊の宿泊料金が、日本円で何と13万円もするということでした。ホテル内での食事代全部込みの値段だそうですが、それにしてもベトナムではスゴイ値段の高さです。
そして、四区に着いて荷物を降ろして、女房の家族全員で、今回もまた「ヤギ鍋屋」に行くことにしました。女房の実家から、離れて郊外に住んでいる女房の兄弟姉妹たちにも今回は声を掛けて、その「ヤギ鍋屋」に集合してもらうことにしました。すると、サイゴン市内と郊外に住んでいる女房の兄弟姉妹ほぼ全員が集合したのでした。参加出来なかったのは、今は日本の東京に住んでいる、女房の弟の家族たちだけでした。
女房の両親とその子どもたち、さらにその孫も入れて、全部で20人の大人数になりました。今までいつも利用していたここの「ヤギ鍋屋」は、以前道路の向かい側の歩道上にテーブルや椅子を広げていた営業のやり方が出来なくなり、今は店の前の歩道上と、店の中の空間だけです。
事前にここに足を運んで、馴染みのおばさんに「20人ぶんの席を作っておいてね」と頼んでいましたので、その点は大丈夫でしたが、我々の席だけで店の中の面積の半分以上を占めています。店のおばさんも久しぶりに私が顔を見せたので、懐かしそうに「本当に久しぶりですねー」と喜んでくれています。
私は店の中の上のほうに飾ってある祭壇の写真に手向けるために、線香を所望しました。そこにはこの「ヤギ鍋屋」を創業したおじいさんの遺影が飾られています。このおじいさんについては、2009年7月号の「三つの老舗」でも触れています。
この日は「ヤギの乳肉」の炭火焼きと「ヤギ鍋」を頼みました。最初に「ヤギの乳肉」を食べました。この日の「ヤギの乳肉」は大変柔らかく、甥っ子もその新婦の奥さんも「美味しい、美味しい!」と言って、喜んで食べています。甥っ子は体も大きいので、一皿ぶんの「ヤギの乳肉」はすぐに無くなりました。それで、さらにあと一皿追加することに。
ベトナムの人に「ヤギの乳肉は美味しいですねー!」と話すと、いつも返ってくる言葉があります。「あれは豚の乳肉ですよ。一頭のヤギからそんなに乳肉は取れないので、豚の乳肉を代用しているのですよ。その豚の乳肉も、主に中国から輸入されているという噂です」と。
それに対して、私はいつも次のように答えます。「日本にいた時にヤギの乳肉自体を食べたことがないので、店で食べるヤギの乳肉がヤギのものなのか、豚の乳肉なのかは分かりません。まあ、どんな乳肉であれ、美味しければそれでいいんですよ」。そう言うと、ベトナムの人たちも肯きながら笑っています。
そして、「ヤギの乳肉」を炭火で焼いている頃に、郊外に住んでいる女房の兄弟姉妹全員が集合しましたので、全員で「乾杯!」の音頭を取って、甥っ子とその奥さんの「歓迎会」が始まりました。
私のすぐ右隣の席に女房、そのすぐ隣に女房の両親が座り、目の前の席に甥っ子と新婦さんが座りました。こうして、女房の家族全員が一同に集まり宴会をする自体が、「テト(旧正月)」以来のことです。「特別の慶事」でも無い限り、ベトナムでも一年にそう何回もあるわけではありません。
この日の宴会は、その「特別の慶事」になりました。この日、この場所に子どもたちや孫たちが集まり、楽しく、賑やかに食べて、飲んでいました。女房の隣に座った両親の顔を見ていますと、両親の子どもたちや孫たちのほとんど全員が参加して、楽しんでいる姿を見て、眼を細めて喜んでくれている様子が良く分かりました。(甥っ子はベトナムの両親孝行までもしてくれたのだなぁー・・・)と有り難く思いました。夕方6時過ぎから始めた「歓迎会」は9時半過ぎまで続きました。
そして翌日、甥っ子との別れの日が来ました。私はその日も学校での授業があり、昼間の時間帯には甥っ子夫婦と付き合うことは出来ませんでした。この日は、私の女房と娘に頼んで、サイゴン市内の見物とお土産を買うのに付き合ってもらうことにしていました。
最初に、「ベン タン市場」に行ったそうです。サイゴン市内でも有名な所ですから、特に初めてベトナムを訪問した新婦にとっては見逃したくない場所だったようです。その後、歩いて「中央郵便局」「聖マリア教会」を見て、「ダイヤモンド・プラザ」内のフード・コートで昼食。
そして、グエン フエ通りの店で友人・知人のための買い物を山ほどして、ようやく四区に戻り着いたのが、夕方四時ぐらいになったそうです。それから荷物のパッキングをして、日本への帰国準備をしていました。私は学校から帰って、彼らと夕食に行くことにしていました。
それまで二人には、「忘れ物が無いように一つ・一つを確認して、トランクにしまっておき、夕食後はあまり時間が無いので、すぐに空港に行けるようにしておいてね」と伝えていました。私が話したそのことを忠実に守り、私が帰り着いた時には、彼ら二人ぶんの全ての荷物やバッグが一階に下ろしてありました。
しかし、不思議だったのは、彼ら二人がサイゴンにいた二日間、雨季にもかかわらず、全然雨が降らなかったことです。そのお陰で、市内を歩いて移動する時にはタクシーの世話にもならず、好きな場所をみんなで歩いて移動することが出来たのでした。雨が降る時には建物の中で雨宿りしたり、雨が止むまでじーっと待っていたりと、無駄な時間を過ごすことが多いのですが、彼ら二人のサイゴン滞在時にはそういう場面は一度もありませんでした。
そして、日本に帰国する日は空港まで家族で見送りに行く予定にしていて、遅くまでゆっくりした時間が取れないので、事務所の近くにある「SUSHI KO」に行くことにしました。この日は私と女房と娘の三人で<お別れ会>をすることに。
私が甥っ子をバイクに乗せ、女房が娘と新婦さんを乗せて「SUSHI KO」に着くと、いつもの席には先客がいました。以前「鮎」を日本から「SUSHI KO」に持ち込んで、炭火焼にして振舞って頂いた、あのINさんです。
INさんの話では、「もうすぐ家具屋のABさんも到着しますよ。社長さんが今日ベトナムに来られたので、一緒に連れてくるそうです」と言われたのでした。飛び入りでしたが、知人たちの嬉しい参加になりました。
私の家族と甥っ子夫婦だけであれば、一つのテーブルだけで十分でしたが、店に頼んで急遽テーブルを一つ追加することに。しばらくすると、やはりABさんが社長さんと共にタクシーに乗って到着。社長さんとも久しぶりの再会でした。
するとABさんが言われるには、「奨学金を支援していた、あのHaiさんも後で合流します」とのこと。社長さんは「麦焼酎」の差し入れまで持参されて来ていて、この場でプレゼントして頂きました。さらに、もう一人飛び入りで、ABさんの友人のWBさんも参加されました。
「Haiさん奨学金支援の会」は今年の6月で2年間続いた活動が終わり、今現在HaiさんはABさんの会社に採用されて、そこで正社員として働くことになりました。ABさん自身が「Haiさん奨学金支援の会」に賛同し、協力されてきました。さらには、Haiさんの就職の面倒までも世話をされました。ABさんの気遣いには、私も大変感謝しています。
Haiさんもこの後すぐに到着しましたので、全員が揃ったところで「乾杯!」をしました。そして、みなさんに私から甥っ子と新婦の紹介をしました。新婦は甥っ子より数歳年上の姉さん女房だと、私もこの場で初めて知りました。道理で、しっかりした印象を私も感じてはいました。甥っ子については、私の父の葬儀の時のエピソードを紹介しました。
「今から11年前、私の父親が亡くなりましたが、葬祭場での告別式の勤めが終わり、親戚一同が私の実家に集まりました。そこでみんなが父の生前を偲びながら、食べて、飲んでいました。そして、そろそろ終わりに近づき、みんなが帰り支度を始めた時、この甥っ子が玄関の入り口の前に立ち、こう話しました。
“今からジイちゃんを偲んで、ボクが「千の風になって」を歌います!!”
と言って、大きな声でその歌を歌ってくれました。みんながその歌声を聴いて、感動して涙を流していました」
実は、私はその時、その場で、秋川雅史さんが歌う「千の風になって」を初めて聴きました。そういう歌自体があることを知りませんでした。その歌は知りませんでしたが、甥っ子が歌ったその歌詞の素晴らしさ、そして、甥っ子の歌声にはこころから感動しました。
そして、甥っ子が父の葬儀の後、実家で「千の風になって」を歌ってからちょうど一年後、このサイゴンで秋川雅史さん本人が歌う「千の風になって」を聴く機会が訪れました。その時のことは2008年6月号の<サイゴンで聴く「千の風になって」>で触れています。あの時に、甥っ子が歌う「千の風になって」を聴いていなかったら、その歌の存在自体を知らなかったので、サイゴンでのコンサートも聴き逃していたかもしれません。
サイゴン市内にあるHoa Binh劇場で行われた、そのコンサートの時の秋川さんの歌は、私の携帯にしっかりと録音しました。そして、今でもベトナムの生徒たちに、「○○ないでください」の文法に入った時、「ない形の文型」を教える場面で、この「千の風になって」の日本語の歌詞とベトナム語の翻訳を配ります。
ただ文法を普通に教えるのではなく、「私のお墓の前で 泣かないでください・・・」というその文章の意味と背景を説明すると、ベトナム人の生徒たちもシンミリとした表情で聴いてくれます。そして、その時に、十年前に録音した秋川さんの歌を聴かせますと、全員がその歌声の大きさと歌唱力の素晴らしさにびっくりします。
(しかし、それにしても・・・)と、しばらく月日が経ってから私は思いました。(あれだけ見事な歌声をしているのに、何故みんなが大勢集まっていたあの葬儀の時に歌ってくれなかったのだろうか・・・)と。その思いは、甥っ子の母親である私の妹も今でも同じように感じていたようです。
今年日本に帰った時にも、その話を妹にすると(そうよねー、本当に私もそう思った。あの時、葬儀の場で歌っていたら、みんな喜んでくれていただろうにね~)と話していました。それを聞いて、妹もそのことをまだ自分の息子に聞いていない様子が分かりました。
それで、(ちょうどいい機会だな)と思い、ベトナムのこの「SUSHI KO」の場で、彼に初めて11年前のあの時のことを尋ねてみました。すると、彼はこう答えました。「あの葬儀の時には、ジイちゃんが亡くなったことが悲しくて、悲しくて、とても歌を歌う気持ちにはなれなかった・・・」と。ジイちゃんから人一倍可愛がられていた甥っ子でしたので、その時の「悲しみ」は深いものがあったのでしょう。18歳の時からして、やはり彼はこころ優しい青年だったのでした。
この日の深夜便でサイゴンを去る甥っ子夫婦は、この場で初めて会う人たちと打ち解けて、楽しく過ごしていました。この後空港に向かうので、私たちは皆さんたちにお別れして、先に「SUSHI KO」を出ました。そして予定通りに二人は深夜便で日本に向けて発ちました。無事に日本に着いた後すぐに、甥っ子からメッセージを送ってきました。
「今羽田に到着しました。二日間とてもお世話になりました。大変思い出深い旅になりました。有り難うございました。皆さんによろしく伝えてください。また会いに行きます。」
● Sonさんの結婚式 ●
<青年文化会館>では毎週の日曜日の午前に「日本語会話クラブ」を実施していますが、そのメンバーでもあるSon(ソン)さんの結婚式が8月5日にありました。その一週間前に、「日本語会話クラブ」に参加した彼から招待状を頂きましたので、「喜んで参加させて頂きますよ!」と、私はその場で答えました。
結婚式場はTan Phu(タン フー)区にあるMelisa(メリッサ) Center。その式場は初めて聞く名前なので、事前に地図で確かめてみますと、市内中心部からは結構な距離があります。「喜んで参加させて頂きますよ!」と答えた手前、どのルートを通れば一番近道になるかを調べておくことにしました。
Sonさんは今「日本語会話クラブ」に参加しているメンバーの中では古い一人になります。彼はサイゴン市内の工業大学を卒業して、日本の東京でIT系の<技師>として8年間働いていたと言いました。ですから、日本語の会話のレベルも高いものがあります。「日本語能力試験」ではN2を持っています。
性格も非常に素直で、信頼出来る人物であり、「日本語会話クラブ」に参加している日本人の間では、彼の評価は高いものがあります。女性にも割りとモテルらしく、そのせいもあるのか、結婚をあまり急がなかったようで、今年40歳になるまで独身を通してきました。
新しい彼女が出来るたびに、「いつ結婚するの?」と、クラブのみんなが冗談を言っていました。その彼が、ついに花嫁さんを射止めました。その花嫁さんは名前をLinh(リン)さんと言い、今年22歳だとのことです。彼からそれを聞いたみんなは「ええーっ、18歳も歳が違うの!」と、驚きながらも、笑顔になります。
それを聞いて、私自身は「そうですか。それは良かったですね!」と彼に祝辞を贈りました。でも私自身、驚く顔は見せません。歳の差で言えば、私と女房もSonさんの花嫁さんとあまり大して変わらないからです。まあ、そのような場では、敢えてそのことを話しませんが。
二人が知り合った場所は、日本人がオーナーでもある「くまのカフェー」という喫茶店です。ここにも、日本語を勉強しているベトナム人の若者たちが出入りしていて、Sonさんも<青年文化会館>での「日本語会話クラブ」が終わった後、そこに顔を出してLinhさんと知り合いました。その後、時々「日本語会話クラブ」にもLinhさんを誘ってきてくれていたので、私もLinhさんの顔は知っていました。
二人が最初に出会ったのは<青年文化会館>での「日本語会話クラブ」ではありませんでしたが、「日本語」を通して二人は繋がったのです。今まで「日本語会話クラブ」で初めて出会い、そして結婚までに至ったカップルを何組か知っています。Sonさんの場合、生涯の伴侶と知り合った場所は「日本語会話クラブ」ではありませんでしたが、同じく「日本語」がその縁になっていることは面白いと思います。
結婚式が行われる一週間前に、Sonさんは「日本語会話クラブ」に招待状を持参してきましたので、日本人、ベトナム人に関係なく、クラブの終わりに私から次のような話をしました。
“来週の日曜日にSonさんの結婚式に参加される方は、今から聴いて頂く日本の歌のメロディーをYoutubeなどで調べて、一週間かけて練習しておいてください。この歌を当日「日本語会話クラブ」のメンバー全員が壇上に立ち、Sonさんのために歌ってあげたいと思います。もし、歌詞を完璧に覚えていなくても構いません。当日は私のほうで、その歌詞のコピーを皆さんたちに配りますので、メロディーをしっかり練習しておいてくださいね。当日、Sonさんの結婚式で歌う歌は、【長渕 剛の乾杯!!】です”
そして、その場に参加していたベトナム人の若者のスマート・フォンの携帯を拝借して、【長渕 剛の乾杯!!】の歌を探してもらいました。その歌は簡単に見つかりました。それから、その携帯にマイクを当てて、【乾杯!!】の歌をゆっくり聴いてもらいました。さすがに、そこに参加していた日本人の方はみんなが知っていました。
この「長渕 剛」さんの「乾杯!」の歌は、2017年12月にサイゴン市内で行われたNguyen(グエン)さんの挙式の時も、当日参加していた「日本語会話クラブ」のメンバーたち全員で歌いました。その時のことは2017年1月号で「Nguyenさんの結婚式」として書いています。
そして迎えたSonさんとLinhさんの挙式当日。結婚式自体はお昼の12時から始まると招待状に書いてありましたが、ベトナムの結婚式は招待状に書いてある時間より、大体は30分ぐらい遅れて、12時半過ぎに始まります。
私の住んでいる四区からは、(普通に行けば、40分ぐらいで着くだろうな・・・)と予想しました。しかし、初めて行く式場でもあり、途中までの大きな道路の名前は分かりましたが、 その先の小道の道路名は初めて眼にする名前でした。それで、念のために少し早めに四区を出ることにしました。
11時過ぎに四区を出て大きな通りに入りました。そこからは一直線の道路を走ればいいので問題ありません。しかし、その先にある交差点を曲がる場所がどこなのかが良く分かりません。それで、その通りにあった携帯電話屋さんの前でバイクの駐車係りをしているおじさんがいましたので、彼に聞くことにしました。その店の前でバイクを停め、カバンに入れていた招待状を取り出して、その裏面に記載してある地図を彼に見せました。
おじさんはその地図をしばらくじーっと見て、「ああー、この場所なら、この先にある二つ目の交差点を右に曲がればいいよ」と教えてくれました。それを聞いてしばらくバイクで走りましたが、その二つ目の交差点がなかなか見えてきません。
それで、またさらに道路沿いにあるフォー屋さんの店のおばさんに聞くと、先ほどおじさんが教えてくれた方向とは違う方を教えます。どうやら行き過ぎたようです。知らない場所に来た時、目指す場所の近くに来たと思ったら、その都度頻繁に目的地を聞かないといけません。それで、ようやく目的地に辿り着きます。
この日も四回ぐらい聞いて、ようやく目的地の式場「Melisa Center」に着きました。しかし、途中の交通渋滞はもの凄いものでした。このTan Phu地区では他にも様々な結婚式場があり、この日私がバイクでその式場の前の道路を通った時間帯は、結婚式の開始時間が迫り、ちょうど多くのお客さんたちが式場に着いた頃でしたので、式場の前には人が溢れていました。
そして、11時50分に私は式場の「Melisa Center」に到着。バイクを駐車場に預けて、ご祝儀の封筒を持って受付に向かいました。すると、驚くべき光景が!この日「Melisa Center」で結婚式を挙げていたのは何と、10組ぐらいいたのです。1組、2組ではありませんでした。それらが全部一階の式場で結婚式を挙げているので、受付も隣り合うようにして、多くの机が出されていました。
私がベトナムに来たばかりの頃、ベトナム人の結婚式に参加したことがありましたが、その時にも数組の結婚式が同じ式場で行われていました。そして、同じように多くの受付のテーブルが出されていました。日本以上に、ベトナムでは「吉日」を選んで物事を決めることが多いので、結婚式などの慶事がどうしても同じ日に重なることがあります。
当時、ベトナムでの結婚式のやり方に慣れていなかった私は、何の考えもなく、当日持参したご祝儀を入れた封筒を、全く別の新郎新婦の受付の箱に入れてしまいました。後でそのミスに気付き、間違えた受付のテーブルに慌てて行き、頭を下げて封筒を返してもらった苦い経験があります。それ以来、このように受付のテーブルが多い時には、用心して間違えないようにしています。
式場の中にある部屋の入り口に、Sonくんと Linhさんが立ち、お客さんたちを出迎えています。私も二人に挨拶しました。そして、いつものように、新郎新婦を間に挟んで記念写真をカメラマンの方が撮ります。当日の式に参加した全員の人たちとこうして「記念写真」を撮りますので、新郎新婦は大変です。
そして、式場の中に入りますと、「日本語会話クラブ」のメンバーのNamくんが先に着いていて、私たち日本人が座る席を事前に確保してくれていました。そこの席に私も座りました。私が座った席は日本人がほとんどで、ベトナム人はNamくん一人だけでした。ざっとテーブルを数え、来ていた人たちの総数を見ると、この日は200名ぐらいの参加者がいました。
12時10分頃には私たちのテーブル席は10人で揃いました。そして、12時20分過ぎに「結婚式」のオープニング・モードに入り、式場内の照明が落とされ、式場の入り口のほうに照明の光が向けられました。いよいよ新郎・新婦の登場です。
二人が手を取り合って、バージン・ロードを歩いてゆきます。その後、ご両家の両親も登場。新郎新婦、両家の両親が壇上に立ち、Sonさんのお父さんが感謝の言葉を参列者に述べられます。その後、ウエディング・ケーキ・カット。そして、シャンパン・タワーにシャンパンを注ぎます。いつもの定番の流れです。
それが終わり、新郎新婦、両家のご両親が壇上から降りると、音楽の演奏が始まります。これが大変喧しい演奏でしたが、いつものことなので平然として、みんな料理を食べながら、ビールを傾けながらそれを聴き、同じテーブルに座った人たちと談笑しています。
この段階で、私はカバンに入れていた【長渕 剛の乾杯!!】のコピーを取り出し、各テーブルに配ることにしました。この日、壇上に立って歌う「日本語会話クラブ」のメンバーのコピーぶんは先に確保しておきました。しかし、一人で全部のテーブルには配りきれないなと思い、テーブル数の半分は、サイゴンで「ケーキ屋さん」をされているYAさんにも手伝って頂きました。
そのコピーを配る時、「今日はこの日本語の歌を日本語会話クラブのメンバーで歌います。ベトナム語の訳もありますので見てください」と説明して、一つのテーブルに三枚ずつ配りました。三人で一枚のコピーを見てもらえればいいかなと思い、そのようにしましたが、ちょうどピッタシの枚数で足りました。
そして、式が始まって一時間ぐらいして、料理のコースが「海鮮鍋」に入る頃になりました。給仕をする人たちが、鍋や料理の具材を載せた大皿を持ってテーブルを回り始めました。この流れになると、後はデザートのコースになりますので、(よし、ここらでみんな一緒に「乾杯!」を歌おう!!)と思い、Sonさんに頼んで司会者にその曲をスタン・バイ出来るようにお願いしました。
そして、壇上に上がる予定の日本人とベトナム人に「さあー、今から歌いますよ!」と声を掛け、コピーした歌詞を渡しました。Nguyenさんの結婚式の時に歌ったメンバーが多いので、みんな慣れたものです。壇上に上がったメンバーの中にはFMさんという日本人の方がいて、その奥さんはベトナム人です。奥さんは日本語が分かります。私がお客さんに向かって話すことを、ベトナム語で同時通訳してもらいました。
「Sonさん、Linhさん、ご結婚おめでとうございます。そして、みなさん、今から【日本語会話クラブ】のメンバーで日本の歌を歌います。この歌は日本では結婚式の時に歌う有名な歌です。歌の名前は♪乾杯!♪と言います」
そして、音楽がスタート。全員が大きな声で歌ってくれました。ベトナム人のお客さんたちも ♪ 乾杯!今君は 人生の 大きな 大きな 舞台に立ち♪ というメロディーの部分では、 客席に座りながら、大きく両手を左右に揺らしています。日本語が分からなくても、その雰囲気で意味が理解できていたのでしょう。やはり、ベトナム語を付けたコピーを配っていて良かったです。二番の歌詞までみんなで無事に全部歌い終わりました。
我々が「乾杯!」を歌い終わった後、ベトナム人のお客さんたちの歌が始まりました。ベトナム人のお客さんたちの歌は、一旦始まりだすと、切れ目なく歌が続きます。後で歌おうとしても、歌の予約が次々と済んでいて、我々が入り込む余地はありません。最初に歌い終わっていて正解でした。
結婚式は二時過ぎにお開きになり、みんなが帰り支度を始めました。しかし、式場のドアを開けて、みんなが建物から出ようとした時、大雨の襲来。仕方なく、みんなしばし雨宿り。ほかの結婚式のグループも同じように待機していますので、広間は大勢の人たちでいっぱいです。
そして、20分もすると雨が止んで、晴れ間が広がりました。二人はこの後、Phu Quoc(フー クオック)島へ新婚旅行に行くということでした。新婚生活が一段落して落ち着いたら、また「日本語会話クラブ」で再会することになるでしょう。
“Sonさん、Linhさん、ご結婚おめでとうございます!!末永くお幸せに!!”
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
日本で労働環境に不満を持つベトナム人研修生の退職増加
日本の技能実習プログラムに参加する外国人が増えている。そのうちベトナム人参加者が最も多く、続いて中国人、インドネシア人、タイ人が多く参加している。
日経アジアンレビューの報告書によると、昨年、日本の技能実習プログラムに参加した外国人研修生のうち7000人以上が途中退職したという。途中退職の背景には長時間労働や賃金未払いなどの厳しい労働環境があげられている。
日本国内の外国人研修生のほとんどは日本国際協力機構(JITCO)が設立した日本の技能実習プログラムへの参加者だ。このプログラムは発展途上国出身の外国人に技能を習得させることを目的としたもので、日本の労働力不足問題の解消に繋がる大きなプロジェクトでもある。
このプログラムは本来外国人研修生の成長を促すためのものであったが、実際は研修生の労働環境までは保証されていない。2016年以降、外国人研修生のうち4割は途中で退職に踏み切っているという。2017年の厚生労働省による調査によると、5966人中4226人が賃金未払いや不当残業を強いられていると回答した。今年3月には、ある24歳のベトナム人研修生は雇用主に福島県内の放射濃度が高い地域での労働を強制されたという。
一方、このような研修生が過酷な労働環境に置かれる状況を改善しようという動きも見られている。岡部文吾さん(36)は悩みを抱える研修生に向けて相談所を作り、人間関係におけるネットワーク作りのサポートも行なっているという。
岡部さんはPham Nhat Vuongというベトナム名も持っている。岡部さんは元々飲食店を経営していたが、お店を閉店させたという。その後、福島県内の自宅から新しい自宅兼相談所に引っ越し、研修生の支援事業に専念しているそうだ。現在、長時間労働や賃金未払い、同僚から暴力被害を受け、帰国を迫られそうになったことが原因で退職した元研修生数十人が相談所を利用している
また、岡部さんは研修生が無料で法律相談を受けられるようにするため、日本とベトナムの政府機関と共同で労働組合を立ち上げた。これにより、研修生が好待遇の仕事を探せるようになることや人権が保護されることが期待されている。しかし、日本国内における研修生雇用に関する制度は依然として整備されておらず、研修生への不当労働行為を強いる風潮はなくなっていないのが事実だ。
<POSTE>
◆ 解説 ◆
私がこのベトナムで、「人材派遣会社」の中で日本語を教えてきて、今年でちょうど13年目になります。その間に教えてきた生徒たちの数は、ざっと数えると一万人を超えています。初めの頃教えていた生徒たちは30代を超えているので、すでに家庭を築いているはずです。
日本へ実習に行き、三年間の実習を無事終えて、ベトナムに戻って来た彼等教え子たちと、少数ですが、懐かしい再会することがあります。みんなが「日本に行って、本当に良かったです。貯金もいっぱい出来たし、日本人の友人もたくさん出来ました」と言う感謝の言葉を述べてくれます。
しかし、時に私も思うことがあります。日本に行って、仕事の面でも成功して、ベトナムに戻って来ている生徒たちが多数いるのは事実にしても、ある少数の教え子たちの中には、ベトナムに帰りたくても、様々な事情で戻ることが出来ない子たちがいるのではないかと・・・。
事実、今から約8年前に私が「日本語」を教えていたある一人の女子の生徒がいました。ベトナムで彼女が「日本語」を勉強していた時、彼女は非常に真面目で、学習意欲も高く、私もいつも褒めていました。そして、彼女は日本の北海道で働くことになりました。
しかし、一年後に、その職場から失踪したのです。今でも、彼女の行方は杳として知れません。彼女と同期で行った教え子たちに聞いても「分かりません」と言う答えしか返ってきません。日本にまだいるのか、ベトナムに戻って来たのかも分かりません。時に、彼女のことを思い出しますと、大変悲しくなります。
私が今教えている学校の中で勉強している生徒たちの故郷はサイゴンの近くや、メコンデルタ地帯、遠くても中部から来ている生徒たちがほとんどです。しかし、時にクラスの中に、少数ですが、ベトナム北部のハノイの近郊から来ている生徒たちがいます。
私が彼らに聞きます。「ハノイ市内にも人材派遣会社はたくさんあるはずなのに、何故わざわざ遠いサイゴンの人材派遣会社まで来て日本語を勉強しているの?」と。すると、彼らが答えるのが決まって次のような内容です。
「確かに、ハノイ市内にも人材派遣会社はありますが、日本に行く時の保証金の額がハノイとサイゴンでは違います。ハノイのほうがとても高いのです。さらには、その保証金はベトナムに戻って来ても、ハノイの会社でもサイゴンの会社でも、本人には返してくれません。ですから、みんなサイゴンの人材派遣会社に登録して、日本に行くまでの間はそこで日本語を勉強しているのです」
そういう返事を生徒たちから聞きました。それを聞いて、人材派遣会社側は何故「保証金」を生徒たちに要求するのかを、直接会社側から聞きました。すると、その答えは「日本に行った後逃亡者が出ると、会社側にとっても問題が大きいから・・・」というものでした。
そして、その保証金は多くの両親たちがベトナムの銀行から借金をしているのです。三年後にベトナムに戻った後、その借りたお金を銀行に返さないといけません。そういう過酷な状況の中で、「日本語」を勉強してきたのが、日本で三年間働いているベトナム人実習生たちの現実だろうと思います。
しかし、日本に三年いる間に、この記事にあるように過酷な扱いを会社側でされたら、彼らベトナム人の実習生たちも深く考えることがあるでしょう。そのような扱いに我慢出来るベトナム人の若者たちだったらいいでしょうが、それは少数です。そうでない若者たちは「脱走」「失踪」です。それが、この記事に載っている内容です。
しかし、そういう過酷な状況の中で働いているベトナム人実習生たちに対して、この記事の中にあるように、救いの手を差し伸べている一人の日本人がおられる。素晴らしいことです。この記事を読んでゆきながら、私自身が深く感動しました。
その方のお名前は岡部さん。写真で見る限りは、まだ若い感じの方です。それだけに、ベトナム人の実習生たちを相手に、親身になってこういう支援の手を差し伸べておられる岡部さんには、本当に頭が下がりました。いつか、私はこのサイゴンで、その岡部さんにお会いしたいと願っています。