春さんのひとりごと
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・後篇
サイゴンを出てから6日目でハノイに到着。雨の中をバイクで走った日もあり ましたが、ここまでは大きなトラブルも事故も無く着きました。これから折り返し点となるハノイから南に下りて行きます。 結果としては、この<帰りの行程>のほうが波乱やドラマが起きました。
★7日目:Ha Noi (ハ ノイ)滞在★
この日は朝4時に起床。この日もハノイ滞在と決めていました。どこかに移動する訳ではないので、早く起きなくても良かったのですが、「さすらいのイベント屋NMさん」お勧めの、美味しいフォー屋さんに行くことになりました。そのフォー屋さんは非常に朝早い時間から(と言うか、正確には夜中から)営業しているというのです。
4時半にホテル前でNMさんと待ち合わせました。すぐにNMさんが来られたので、山元さんと私の三人で行きましたが、辺りはまだ真っ暗です。 そのフォー屋さんに行く途中で市場を通りましたが、まだ暗い時間からすでに多くの人たちが働いています。途中で牛か豚を解体している人たちがいました。 すでに肉が骨から外されていたので、何の肉なのか良く分かりませんが、そのなまなましい光景が歩道上にずっと続いていて圧巻でした。
そして、すぐにNMさんお勧めの、そのフォーの店に着きました。 NMさん曰く「この店はこうして、店の前の歩道を借りてフォーの店の営業を しています。歩道の前の店が開く前には、フォーの店を閉めないといけないので、営業時間は夜中の3時から朝6時まで」とのこと。一軒の店を構えられないので、苦肉の策でそうしているのでしょう。
歩道上を借りて営業しているだけに、店に置いてある道具類はスープが入った鍋と肉が入っている鍋と籠の中にフォーの麺が入っているだけです。私たちがそこに着いたのは4時半過ぎでしたが、すでに30人くらいのお客さんたちがいました。しばらくして、そのフォーが出てきました。牛肉のフォーでした。 確かにスープの味もすっきりしていて旨い!
私たちの席の隣に、若い男女のグループが座っていました。 その中で、髪を金髪に染めている男性は日本語が出来ました。 彼に話を聞くと、「夜中までみんなと遊んでいて、お腹が空いたのでここに来ました。この店は大変有名ですよ」とのこと。彼は実習生として3年間日本に行ったことがあるそうで、私たちが日本人だと分かると喜んでいました。 私が「今、ハノイでの仕事は何をしているの」と訊くと、彼は「今仕事はしていません。遊んでいます」との答え。
フォーを食べての帰り道も、あの肉を解体していた場所を通りました。 帰り道に通った時のほうが解体していた骨や肉の量も多かったのでした。 私も大好きな、豚さんの美味しそうな足(豚足)も見えましたので、豚さんが解体されていたのだなというのは分かりました。ハノイに来る途中で見たように、トラックに押し込まれていた豚さんたちもこういう市場に運ばれてきたのかも しれません。
ホテルに帰る前に、NMさんが「自分のアパートに来てよ!」と勧められたので、そのアパートに立ち寄りました。まだ朝の6時前でした。 そこは私たちが泊まっているホテルの近くにあります。初めてそこに行きました。そのアパートの前は市場になっていて、すでに市場の賑わいが始まっていました。 階段を上がると、NMさんの部屋と友人の部屋がありました。 この時、友人は外国に出張中で留守でした。
NMさんのアパートには部屋の外にテラスが有り、そこでお茶を頂きました。 テラスにはお茶が飲めるように丸いテーブルが置いてあり、そのテーブルの 真ん中にはパラソルが挿してあります。昼間でもここでお茶を飲んだり、本を読んだりされているのでしょう。テーブルの周りには良く手入れされた鉢植えの 花や植木が育っています。NMさんの留守中ハノイに居ない時には、大家さんが 水をやってくれているそうです。 アパートのテラスから下を眺めると市場が見えます。
NMさんの部屋は実にキレイに整理・整頓されていました。書棚には多くの本が 収まっていて、NMさんが大変な読書家であるのがよく分かりました。 <バオ・ニン>の「戦争の悲しみ」や<森村誠一さん>の著書「青春の源流」も 有りました。森村さんの本は以前、NMさんや山元さんたちで回し読みしたので大変懐かしい本です。山元さんはそれ以来、若い時に過ごしたベトナム南部のCai Beのことを「青春の源流」と呼んでいます。
NMさんのアパートには40分ほどいて、お礼を述べてそこを辞してホテルに 向かいました。アパートからすぐ近くの通り道に古城の門があります。 ずいぶん古い時代に建てられた印象です。門の上のほうに漢字で彫られた文字があります。立ち止まって眺めると「東河門」と読めます。この時にはこの門の歴史については知らず、サイゴンに戻って「東河門」の歴史が分かりました。
「東河門(Dong Ha Mon (O Quan Chuong))の観光情報―JTBより―」
ハンチェウ通り、紅河の堤防近くにあるこの門は旧市街北東部に残されている 旧ハノイ(タンロン)城壁に築かれた城門。1873年にこの門よりフランス軍が侵攻し、それに抵抗し亡くなった人物クアンチュオン(QuanChuong)にちなんで クアンチュオン門とも呼ばれている。1749年に高さ9m幅10mに土盛りされ、 当時は16の城門があった。旧市街に華人の町が形成された時代には、ハノイを囲んで、タンロンの都を洪水から守る役割も果たしていた。 東河門以外の多くの門は、フランスによる植民地時代に破壊された。
1749年に築かれたということは270年も前に遡ります。 NMさんのアパートの周りにはこういう古い歴史がある城門、市場、酒場、 早朝から店を開いているフォー屋さんなどがあるわけで、(いい雰囲気の所に住まわれているなー)と思いました。 『旧市街』は別名を「ハノイ旧市街36通り」とも呼びます。11世紀の李(Ly)朝 時代から始まる陳(Tran)朝初期にかけて、ハノイのこの『旧市街』に人々が住み始めて、商業活動が始まりました。
その商業活動を営んでいた職人たちの業種が36種類あり、それらが36の通りで商売をしていて、その地域の総称を『旧市街』と呼ぶようになりました。かつて、一つの通りには同じ業種の人たちが集まり商売をしていたそうですが、 今は他の業種も混じり合っています。ベトナムにおけるNMさんの活動の源泉が、この『旧市街』という、実に味わい深い場所にあるのかな・・・と感じた次第です。
NMさんについては、2016年11月号の<ダナンでの“十一面観音菩薩像奉納の儀式”に参加>にも載せていますが、 日本の「東大寺」とベトナムの「五行山」 の間を繋ぎ、ダナンでの「十一面観音菩薩像奉納の儀式」を実現・成功させた スゴイ人です。このアパートを訪れた時もまた、次に考えている企画について熱を込めて話されました。
NMさんが慕われているカメラマンで、あの有名な「ロバート・キャパ(1913- 1954)」がいます。2024年は彼が亡くなってから70周年になるとのことで、彼が 亡くなった戦場の地に「慰霊碑」を建てる計画を進めていると話されました。 その企画の実現に向けては、「フォト・ジャーナリストの村山さん」にも声を掛けていて、村山さんも「光栄です。協力させて頂きます!」と快諾されたそうです。
ホテルに戻り、山元さんと私は二人でハノイ駅まで行くことに。 サイゴンまでどうして戻るかを決めるためです。 サイゴンからハノイまではバイクで来ました。この後、ハノイからサイゴンまで帰る方法を事前に二人で話しましたが、まだ結論は出ていませんでした。サイゴンまで帰るには2つの方法があります。
① ハノイからサイゴンまでを列車にバイクを積んでサイゴンまで帰る。 途中、ニャー・チャーンで一旦バイクを降ろす。ニャー・チャーンで降りるのはそこに山元さんの知人がいるためです。それもあり、山元さんはこの案に傾いていました。
②行きも帰りもバイクで帰る。ニャー・チャーンまで列車にバイクを積んで行くのは、移動は少し楽になりますが、今回の「バイクでベトナム南北縦断の旅」にこだわる。その場合、行きのコースとは違う道を走るので、私はこちらの方法が良いかなと考えていました。
この2つの方法のうち、どちらにするかを決める必要がありました。それでハノイ駅に行き、「列車にバイクを積んでニャー・チャーンまで行くとしたら何日掛かるか?」と聞くと「4日ぐらいだ」との答え。「4日も掛かるのか・・・。であれば、列車にバイクを載せるのは難しいかな」と、山元さんは嘆息を漏らします。それで、一旦ホテルに戻り、再度どうするか考えことに。二人でハノイ駅を出て、またホテルに戻ることにしました。
ハノイ市内でも、私は写真を撮りたい場所があると、そこでバイクを停めて写真を撮っていたので、山元さんは先に進んで行き、姿が見えなくなりました。私たちが泊まったホテルのフロントにはお客さん用の地図がありました。それで私も(いつものことでもあるし、ホテルの地図は山元さんも持っているから、まあ大丈夫だろうな・・・)と思い、ホテルに戻る時の目印となる、ホアンキエム湖を目指して進みました。
ハノイには、私は何回も来たことがあるので土地勘は有ります。すると、 私のほうが先に着いたようで、30分待っても、40分待っても山元さんがホテルに戻って来ないのです。(おかしいなぁ~・・・)と思い、1時間近く待って、 山元さんの携帯に電話を掛けようとした頃、ようやく山元さんがホテルに到着。(ああー、良かった!)と私も一安心しました。
すると、山元さんはホテル前にバイクを停めるなり、ホテルの場所が書いてある地図を破り捨てて、地面に投げつけられたのでした。事情が分からず、 突然のことに驚き、「どうしたんですか?」と私が訊くと、「もう私はすぐにハノイを出る!この街はダメだ!今から荷物をまとめて、 ホテルを出るからね!」と叫ばれるのでした。
唖然とした私に、山元さんはこう言われました。「私は老眼なので、地図の小さい文字が読めないのですよ。それで、このホテルに戻るまでに私は6人のベトナム人に道を訊いた。すると6人中5人までが非常に無愛想で冷たい答え方だった」。それこそ、「怒り心頭に発した」ような表情で言われました。 私自身はその現場を見ていないので、その時の状況は分かりませんが、いつも 冗談は言われても、デタラメなことは一切言われない人ですからそうだったのでしょう。
さらに続けて言われるには、「ある一人のおばちゃんなど、私が道を訊いた時、 いかにも面倒臭そうな表情で、人差し指を差して(あっちへ行け!)と言わんばかりの失礼な対応だった。南のサイゴンで道を訊いた時に、そういう対応をする者はいない。この街はダメだ!もうサイゴンに帰る!」と、キッパリとした口調で言われました。
そして、バイクをホテルの前に停めたまま、荷物を取りに部屋まで上がって行かれたので、慌てて私も後を追うことに。部屋の中の荷物を片付け始めた山元さんに「もし、今から帰るにしても、そんなに怒った状態のままでバイクを運転してゆくと、途中事故にでも遭いかねません。危ないですよ。少し落ち着いてから考えましょう」となだめても「いや、私は帰る!この後、 毎日どこに泊まるかは連絡します」と、頑として返事は同じ。自分の荷物を全部抱えて部屋を出て、スタスタと階段を駆け下り一階に行き、停めていた バイクに荷物を積まれたのでした。
そのまま、バイクを発進させて、あれよあれよと言う前に姿が見えなくなりました。山元さんがホテルに戻ってきてから僅か十分足らずの出来事でした。余りに急展開の出来事だけに、説得する時間も有りませんでした。一人でバイクに跨ってホテルを去って行く山元さんの背中を見ながら、ハノイに一人残された私は茫然としてそこに立っていました。
その後、NMさんに「山元さんはたった今、ハノイの街を去って行かれました」 と連絡すると、NMさんも「ええーっ、本当ですか!」とビックリ仰天という反応でした。山元さんが「北部嫌い」なのは以前からNMさんも知っているのです。ですから、山元さんがハノイに来てどんな反応をするかに関心が有ったようです。それでも、(ハノイには最低でも2, 3泊ぐらいはされるだろうな ・・・)と考えていたのが、僅か一日だけの滞在でハノイを発たれたので驚いた感じでした。
そして、一人になった私は「ホアンキエム湖」に面した喫茶店「Thuy Ta Café」 へ行くことに。ここから眺める「ホアンキエム湖」は大好きな場所のひとつです。 8月に社員旅行で北部に来た時にはここの前を通りながら、みんなと一緒でしたのでここに入ることが出来ませんでした。湖が眼の前に見えるテラス席の欄干にはブーゲンビリアの盆栽が置いてあり、この時美しい花を咲かせていました。
私はテラス席に座り、湖を眺めていました。そして、山元さんがハノイを去って行かれた時の後ろ姿を思い出していました。(今頃どこを走っておられるのだろう・・・)と思いました。山元さんの「北部嫌い」のことは前々から聞いていましたが、それがああいう形で「癇癪玉」が爆発するとは想像も出来ませんでした。バイクで6日間掛けてようやく到着したハノイを、僅か一日で怒り心頭に発して引き返した山元さんを思い出すと可笑しくなり、テラス席でついつい笑ってしまいました。
しかし、私は今回山元さんとハノイまで同行した旅の中で、いろいろなことを学びました。(わぁー、スゴイなぁー!)と思った一つに、洗濯物の乾かし方が ありました。今回の旅に出る時、私は旅の達人でもある山元さんに 「上着は何枚ぐらい要りますか」と訊きました。すると山元さんの返事は、 「私は3着ぐらいしか持っていきませんよ」と言われたのでした。
それを聞いた私は、(3着とは幾ら何でも少ないだろうな・・・)と思い、 1週間ぶんぐらいは着替えられるようにと思い、7着の上着を用意して旅立ちました。しかし、結果としては、今回の旅の間は何と2着で済んでしまいました。 そこには、山元さんから教えて頂いた、洗濯した後の洗濯物の乾かし方の「秘訣」が有ったのでした。
ホテルのシャワー室で洗濯した後は、通常は両手で洗濯物を絞り、ハンガーに掛けて室内でそのまま洗濯物を干すのが普通でしょう。でも山元さんはその上のやり方を知っていました。シャワー室内にはバスタオルが常備してありますが、そのバスタオルを活用するのです。そのやり方を聞いた時、(何とスゴイ人だろうか・・・!)と感心した次第です。
山元さんから教えて頂いたその「秘訣」とは、その日汚れた服を洗濯した後、 乾いた部屋の床にバスタオルを敷いて、洗濯物をその上に広げます。 洗濯した服類は出来るだけ広げてバスタオルの上に置きます。そして、それをグルグルと巻いて横に置いて、その上から全体重を乗せて、バスタオルを何回も足で踏みます。一本に巻かれたバスタオルを左右から回数多く踏めばいいのです。
すると、洗濯した服の水気がそのバスタオルに吸い取られて、両手で絞る時 よりも、はるかに多くの水分が消し飛ぶのです。そして、翌日起きた時には、 前の日に洗濯した服は完璧に乾いているのでした。厚手の生地は少しまだ水分が残っていましたが、シャツなどの服は生乾きの状態は全然有りませんでした。 翌日には、前の日に洗濯した服をそのまま着ることが出来ました。それが、 今回の旅では2着の服で済んだ理由です。まあ、このやり方はベトナムのような 南国だからこそ、通用するやり方だとは思いますが・・・。
昼12時にNMさんと食事をする約束をしていたので、ホテルで待ち合わせ。そこで「山元さんハノイを去る!」をあらためて知らせますと、NMさんも笑いながら「初めて来たハノイでどういう反応を示されるか興味が有りましたが、やはり北のハノイは合わなかったのでしょうね。仕方がありませんね」と言われました。
お昼は路上で営業をしていた「Bun Cha」を食べて、その後「Tra Chanh (チャー チャイン)」と言う名前の店でジュースを飲むことに。この「Tra Chanh」という 飲み物は「Tra =お茶」「Chanh=レモン」と言う意味で、今は南部にもこの飲み物が広まっていますが、ここが発祥の地だと言われました。ハノイでこの店は有名なようで、多くのお客さんが来ていました。味もサッパリしていました。 その後またホテルに戻り、夕食を一緒にすることを約してそれまでホテルで休み。
今日の午後、NTさんというサイゴン在住の友人がハノイに来られるので、夕食を共にすることに。NTさんはサイゴンでは映像関係の仕事をされています。私の教え子のGaiさんがベトナムに戻った時、そこを紹介してあげて、一時期彼女もそこで働いていました。NTさんは今回ハノイまでは飛行機で来て、ハノイで レンタル・バイクを借りて北部の有名な観光地を撮影するために一人で旅をされていました。
中国国境に近い、あの有名な「Cao Bang の滝」までもレンタル・バイクで行き、撮影して来られました。後でその写真を見せて頂きましたが、やはり実に美しい滝の写真でした。NTさんは私がハノイに来ることを事前に知り、この日に合わせてハノイに到着されたのでした。身長も高く、雄偉な体格をされていますが、非常に礼儀正しく、律儀な方です。実は、NTさんも山元さんにハノイで会うのを楽しみにされていたのでした。
夕食をNMさん、NTさんと私の3人で一緒に摂ることにして、近くの「指差し食堂」 に行きました。前日食べたレストランは頼んでから料理が出てくるまで時間が掛かりましたが、ここにはすでに調理されたスゴイ種類のオカズが並んでいて、 出来上がるまで待つ必要も無かったのです。自分の好きな物を指で差して、「これと、これと、これを頂戴!」と言って、3人で「乾杯!」。
NTさんもこの場で「山元さんハノイを去る!」と聞いて大変驚かれました。NTさんはその場面の状況が良く理解出来ないようでしたので、私が簡単に説明しました。さらには山元さんの「北部嫌い」の理由もピンとこない様子でした。それも当然で、NTさんはベトナム戦争が終結した後に生まれた世代なのです。私から次のようにNTさんには説明しました。
「私たちベトナム戦争を本やテレビでしか知らない者にとって、今のベトナムは 北も南も併せて一つのベトナムという国です。しかし、ベトナム戦争当時に 20歳でベトナムに来た山元さんにとっては、ベトナム戦争の余韻はまだ続いているのです。特に、戦後に革命政府が行った南のベトナム人に対しての仕打ちに 怒っていました。それは、山元さんの中では今も変わらない気持ちのようです。 ですから、以前からHueより北には行きたくないと言われていたのです。」
そして、ちょうど3人で夕食を食べていたその時、山元さんからSMSで連絡が 来ました。「今Vinh に着きました!」と。それを知り、私も一安心しました。やはり、あのままバイクで行かれたのでした。しばらくそこで話をしていましたら、 NTさんは明日観光地・Nhin Binhの撮影のためにそこに行かれることが分かりました。私も明日ハノイを去り、南に下る予定でしたので、「ええーっ、そう ですか。それはちょうどいいですね。」と嬉しくなりました。
この後、続けて3人でビアホイに行き、数杯飲んで、またNMさんのアパートに そのままお邪魔して、しばらくそこで過ごした後、ホテルに戻りました。ハノイでは友人・知人との再会があり、楽しい二日間を過ごすことが出来ました。 いよいよ明日はハノイからサイゴンに向けて南下していきます。これから向かうサイゴンまでの道中において、どういうドラマやハプニングが起きるか楽しみです。
★8日目:Ha Noi (ハ ノイ)⇒Vinh (ヴィン)★
朝5時に起床。すぐに荷造りに取り掛かりました。6時過ぎにパラパラとした雨が 降りましたが、すぐに止みました。NTさんとは7時にホテル前で待ち合わせして いました。朝早くにもかかわらず、NMさんが見送りに来て頂きました。 7時にNTさんより「ホテルを出ようとしたらパンクしていました」との連絡が有り、しばし待つことに。そして、20分ほどして、NTさんが到着。ハノイの街に別れを告げ、NMさんにお別れの挨拶をして、二人でハノイを旅立ちました。
NTさんとはハノイからNinh Binhまで一緒に下りますが、私にとってラッキー だったのは、NTさんがスマホを持たれているので、Googleマップに従って、その指示通りにバイクを走らせることが出来たからです。山元さんもスマホを持たれていましたが、Googleマップの扱い方にあまり慣れていないので、結局それは使わずじまいでした。それでも、山元さんは抜群の方向感覚が有るのか、 ほとんど道に迷ったことは無かったそうです。
ハノイを出てNhin Binhまで行く時、私は最初から「国道1号線」を走るものだと 思っていましたが、NTさんはハノイ市内を出ると、「国道1号線」ではなくて、別の道に入りました。その道はGoogleマップが示した道路でした。私一人だけ でしたら、「国道1号線にはどうして行きますか」と地元の人たちに訊きながらバイクを走らせていたことでしょう。
でも、NTさんは誰にも訊くこと無く、Googleマップを見ながらバイクをスイスイ 走らせて行きました。私はその後を付いて行くだけです。大変助かりました。ハノイ市内を抜けて国道に入った時選んだ道は「国道39号線」でした。その 「国道39号線」を抜けると、Phu Ly (フーリー)という地名の場所辺りで「国道 1号線」に合流します。
でも、地図で確かめると、「国道39号線」からそこに行くにはグルリと迂回しているように見えます。地図が正しいのか、Googleマップが正しいのか、実際に二つの道を同時に走った訳ではないので、どちらが正しいのかは分かりません。どちらにしても、大した距離の差はありませんが、私はNTさんから「ハノイ からは国道39号線に入ります!」と聞いた時、一瞬嬉しい気持ちになりました。
「国道39号線・・・39 → サンキュ― →Thank you !!」
(何かいいことが有りそうだなぁ―・・・)と言う予感がしてきました。そして、9時過ぎに「国道39号線」に入り、周りの景色を見ながらウキウキしてバイクを走らせること30分ぐらいして、Hung Yen市という場所に入りました。そこを何の警戒心も無くバイクを走らせて行きました。その時もNTさんが先に進んでいました。
すると、道路右側に並木が有り、その木陰に「交通警察」の車が停まっていましたが、それが見えた時にはNTさんと私が「交通警察」に呼び止められていました。一人が警棒を出して、「こっちへ来い!」と言う仕草をします。素直にバイクを停めた私たち二人に「免許証を見せろ!」と言います。仕方がありません。逆らっても勝ち目は無いので、カバンから取り出して見せました。
「交通警察」はいろいろ話しかけてきますが、二人ともベトナム語が分からないふりをしていました。旅立つ前に、ベトナム人の友人から「途中で交通警察に捕まっても、ベトナム語を使わないほうがいいですよ。あなたがベトナム語が分かると交通警察が知ると、いろいろしつこく訊いてきますから。」と言うアドバイスを受けていましたので、この時もそれで通すことにしました。
免許証を見たら二人とも日本人だと分かるし、「カモが来た!」と喜んだこと でしょう。いろいろ私たちに話しかけてきます。それが分からないふりをして、首を横に振ります。すると、自分が持っていた携帯をポケットから出して我々に見せます。そこには「This is wrong way」と表示されています。何が「wrongway」なのかが分からないので、ジェスチャーで「ワカリマシェーーン」と手を 広げるしぐさをします。
すると、我々にベトナム語で説明しても時間の無駄だと思ったか、また携帯を見せました。そこには、「罰金50万ドン」と言う金額が表示されていました。 落ち着く先は、要はワイロ(Hoi Lo)の要求なのですが、50万ドン(日本円で 約2,500円)は高すぎます。NTさんが「そりゃー、高過ぎですよ。20万ドンで 勘弁してもらい、早くここを立ち去りましょう!」と私に話して、一人ずつ 20万ドン札を「交通警察」に見せると、ニコッとして、免許証を返してくれて 「OK!! Di di(行け、行け!」と言うのでした。
「あぁー、20万ドンぐらいで済んで良かったですね」とNTさんと話したこと でした。ベトナムでは交通違反の罰金でも、市場で物を買う時にベトナムの人たちがよくやっているように、「負けろ!」と言うと値段を下げてくれるのです。正式に書類に書いて上に報告する訳ではなく、自分の懐に入れて終わるので、それでいいのです。日本で警察官がこのように罰金を負けたと分かれば即クビでしょう。でも、ベトナムでは全土で同じような光景が繰り広げられているのだと思います。
しかし、面白かったのは、後続のバイクで走って来た何組かの人たちにも、 「交通警察」が「停まれ!」と笛を鳴らし、警棒を出していたのですが、 それを無視してスピードを上げて走り去った若者たちがいたことです。車で来ている「交通警察」はすぐには発進出来ないことを見越しているようでした。
事実、「交通警察」もその逃げ去った若者たちを追い駆けることはしません でした。「交通警察」は今捕まえている人の対応に手を取られているので、 その場を動けません。それを見越してさーっと逃げて行く、その見切りは大したものだな・・・と感心しました。日本人であれば、警官に呼び止められれば本能的に停車するでしょう。それを振り切って逃げて行く人は稀でしょう。
その場を逃れて30分後、今度はまた緑の制服を着た「公安警察」に、私が呼び止められました。今度は、前を走っていたNTさんは呼び止められず、私だけ。 また同じような違反理由を言うけれど、後続のバイクも私と同じ道を走って来ているのに、それは見逃していました。バイクに大きな荷物を積んで走っていたので、(バイクで旅行中の外国人だろうな・・・)と察したのでしょう。 NTさんは先のほうでバイクを停めて待っていました。
(やれやれ、またワイロの要求か・・・)と思い、財布の中のお札の一番上に 20万ドン札を準備しておきました。50万ドン札が入っているのを「交通警察」が眼にしたら、それを要求するに決まっているからです。こういう所で足止めを食うのもバカらしいので、20万ドン札を財布から半分ほど出して見せると、 「交通警察」のその担当者はニコーッとした表情をするのでした。
それで、私も(あぁー、この金額でいいようだな・・・)と安堵して、その 20万ドン札を直接渡そうとすると、何と手を横に振って、受け取ろうとしません。(あれ、要らないの?)と訝しく思っていると、白バイの横には備え付けの箱が有り、その蓋を開けて「ここに入れろ!」と言う仕草をするのでした。自分の手では直接受け取らずに、相手が勝手に入れたというふうに見せたいのでしょう。それで、20万ドンをその箱に入れて「さようなら!!」しました。時間は5, 6分 ぐらいで済みました。
しかし、わずか30分足らずで40万ドン(約2千円)の損失。トホホホ・・・でした。 NTさんに追い付いた後、彼にこう話しました。
“朝ハノイを出てこの「国道39号線」に入った時、(何か良いことが有りそうな ・・・?)と感じましたが、逆でしたね。この「国道39号線」は私たち庶民に とっての「国道Thank you号線」ではなくて、彼ら「交通警察」にとって、大変有り難い「国道Thank you号線」なのですね”と。NTさんも笑っていました。
まあ、旅ではイヤなことはすぐに忘れましょう!10時20分に「国道1号線」に入りました。しばらく走ると、私がハノイに行く時に見た、あの大きな「宮殿」がまた見えてきました。初めてそれを見たNTさんも驚いて、写真をバチバチ撮っています。あの大きな宮殿を直接見たら誰しもが驚くことでしょう。私が見たのは2回目になりますので、この時には写真を撮ることもなく、自分の両目に焼き付けるようにしてそこを過ぎました。ThanhHoaまであと56kmの標識が見えてきました。
そして、ちょうど11時にNinh Binh市内に着いた所で一休み。おばさんが一人でやっている路上の茶店があり、そこで休むことにし、コーヒーを頼むがそれは無いと言う。「何が有るの?」と訊くと、ガラスケースに入ったジュース類を指差すので、二人ともそれを頼んだのでした。NTさんとはここでお別れになります。NTさんのおかげでハノイ市内からここまで道に迷うことなくスイスイと来ることが出来ました。
「交通警察」に渡した40万ドンは惜しいが、道中の「保険料」だと思えばいいでしょう。NTさんにお礼を述べて、その茶店でお別れをしました。さぁー、これからは目的地に着くまでの道順を一人で見付けて、自分で決めないといけません。Googleマップという「文明の利器」が無いので、体に備わった眼と耳と口を駆使するしかないのです。
1. 眼・・・標識を見る。地図を見る。
2. 耳・・・道行く人に訊く。
3. 口・・・迷った時は質問する。
まあ、何とかなるでしょう!! NTさんと別れた後、大雨が降り雨宿りすることに。 そこには大理石で出来たいろんな作品がありましたが、人は誰もいません。 しばらくじーっとそれらを眺めているうちに欲しくなるような作品もありました。 でも、石で出来た物なのでバイクに乗せて帰るには重いし、そもそも誰もいないのでお金を出して買うことも出来ません。諦めました。
午後2時にThanh Hoa市内に入りました。今日泊まる予定のVinh市まではあと [133km]の表示が有りました。サイゴンまでは約1,548 kmぐらいです。4時半頃に ようやく「Ho Chi Minh」と「Phan Boi Chau」の故郷「Nghe An省」に入りました。 右手に山を見ながらバイクを走らせていましたが、山側から道路の側溝に清水が流れ落ちてきていました。サイゴン近辺の川や側溝はドブ川が多いのですが、 ここNghe Anでは山から湧き出ている清水が池に注ぎ、川に流れ落ちていました。
5時半過ぎにVinh市内に入りました。だんだんと日が暮れてきました。バイクでグルグルと回っていますと、道路の通りに(おや!)と思った看板が出ています。 その名も「TOKYO HOTEL」。 ベトナムの中部の街の中に「TOKYO」という文字がありました。 (もしかして日本人が経営者なのかな?)と思い、そこに向かいました。 もし、日本人がいたら、いろいろ話し相手にはなります。 しかし、フロントには日本人らしき人は誰もいませんでした。
そこにいたベトナム人の従業員に「オーナーは日本人なの?」と訊くと「違います」との答え。何故日本の名前を付けたのかは分からずじまいでした。しばらくホテル内を見ていても、従業員はベトナム人だけです。「宿代はいくらですか?」と訊くと「165,000ドン(約780円)です」と言うので、「OK!では、一晩だけお願いします」と言って、この日の宿はこの「TOKYO HOTEL」に決定。一晩寝るだけですので、安い所で十分です。
部屋に荷物を投げ入れて、すぐ夕食に行こうと思い外に出ましたが、近くに レストランらしき店は有りません。フロントに戻り従業員に訊くと、 「2kmぐらい先にビールが飲めるレストランが有るよ」というのですが、今さっきこの街に着いたばかりで、バイクの移動で疲れた体で歩いて行くには遠過ぎます。
(さて、どうしたものか・・・)と思い、また外に出てみると、ホテルの前の道路で携帯を操作している若い男の子がたまたまいました。 (これはラッキーだ!)と思い、彼に頼むことにしました。「私は日本人だが、今日初めてこの街に来ました。ビールが飲めて、食事が出来る場所を知らないかな?バイク代は払うので、そこまで連れて行ってくれませんか」とお願いすると、その若者はイヤな顔もせずに、ニコッとして、「いいですよ!」と言ってくれました。それで、彼のバイクの後ろに乗せてもらい、そこまで行くことに。
バイクでも5分ほど掛かったのです。やはり、歩いて行くには遠すぎました。 彼に謝礼を払おうとすると、右手を横に振り「要りません!」と言うジェスチャーをして、そのまま去って行ったのでした。私のこころの中に爽やかな風が吹き抜けたような思いがしました。彼の背中に向かって「有難う!」と言葉を発していました。大した金額ではもちろんないのですが、旅先で全く見知らぬ 人たちから受ける、こういう<無償の好意>は大変嬉しいものです。
彼が私をバイクに乗せて案内してくれたそこのレストランは路上の屋台で、 すでに多くのお客がいました。「ここは何が美味しいですか」と女性の店員に 私が訊くと、「今日はイカが新鮮で美味しいですよ!」と勧めるので、それを注文。さらに「卵焼き」と「空芯菜炒め」も注文。見回すと、お客さんはベトナム人ばかりのようで、外国人らしき人たちはいません。
しばらくして、先に「イカの炒め物」が出てきました。確かに新鮮で大変美味し かったです。「卵焼き」も「空芯菜炒め」も他所ではなかなか味わえないような旨さでした。(次にこの街を訪れるのもいつか知れず、おそらく、一生に一度しかここで食べることは無いだろうなぁ~)と思いながら、そこの料理をゆっくりと味わいました。そこのオーナーであろうおかみさんは私が外国人だと分かったらしく、いろいろ質問してきました。それもまた、良い思い出になりました。
そして、9時頃に食事が終わり、そこを出ることにしました。しかし、歩いてホテルに戻るには遠いので、店員がタクシーを呼んでくれました。すぐにタクシーがやって来ました。運転手は若いお兄さんでした。「TOKYO HOTEL」の名刺を渡して、「ここまで行ってくれ!」と言うと彼は「OK!」と返事してすぐに発進。ホテルに戻る短い間に、私が彼に質問しました。
「実は、私は日本人で、今日ここにバイクで着いたのだが、このNghe An省に あるHo Chi MinhとPhan Boi Chauの生家を訪ねたい。ただ、明日の午前中ぐらい しか時間が無いので、近い所にしか行けない。道が分からないので、タクシーで 行こうと考えている。Ho Chi MinhとPhan Boi Chauの生家はここからどのくら 離れているの?」
そのように彼に訊きました。すると彼の返事では 「Ho Chi Minhの生家はここから15kmほどで、タクシーで30分ぐらい。 Phan BoiChauの生家は40kmほどで、一時間半ぐらい掛かるよ」とのことでした。 可能ならば二つとも訪問したかったのですが、サイゴンに戻るまでに出来るだけ早く山元さんと合流する必要があるので、二つは無理かもと思い、 「よし、今回はHo Chi Minhの生家だけを訪問しよう!」と決めました。
私の教え子たちには「Nghe An省」出身の生徒たちも多くいて、Ho Chi Minhの 生家を訪ねたことのある生徒たちからいろいろ話を聞いていました。その時に写した写真も見せてもらったことがあります。ずいぶん昔に、ハノイの「ホーチミン廟」に眠る「故ホーチミン主席」も見ました。確かに、眠るご遺体は見ま したが、それ以上に、「Ho Chi Minhが生まれた誕生の地にある生家を見たいなー」という強い希望がありました。
それで、運転手の彼に「では明日、そのHo Chi Minhの生家を訪問したいので ホテルに朝8時に来てくれないか。タクシー代は往復で幾らぐらい?」と訊くと「分かった。タクシー代は往復で40万ドンぐらいだよ」と答えたので、私は 「OK!それでお願いします。では明日朝8時にホテルで会いましょう!」と 言って別れました。いよいよ明日は、長い間の念願であった「故・Ho Chi Minh 主席の生家」を訪問することになりました。そして、それは結果として、 今回の<南北縦断の旅>で出来た「唯一の観光」にもなりました。
(・・・続編に続く)
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
定年後に住みたい国、ベトナムがトップ10入り
定年後に住みたい国ランキングでベトナムが9つ順位をあげ、トップ10入りを果たした。定年後の海外移住に着目するInternational Living社が発表した定年後に住みたい国ランキングで、ベトナムは100ポイント中76ポイントの評価を獲得した。
24ヶ国で暮らす特派員や駐在員の自身が住んでいる国を不動産、娯楽、ヘルス ケア、気候、生活費、ビザ、余暇生活などの項目における評価に基づいて、ランキングは作成されている。ベトナムは生活費の項目で92ポイントと最高 評価だった。
「生活費が非常に安いのはベトナムで生活する上で大事なメリットだ。ホーチミンやハノイの様な最も生活費が高い都市でも1500ドル(約16万円)あれば2人で裕福な生活を送る事ができる」と報告には記載されていた。
ヘルスケアにおけるサービスと実施機会もそれぞれ84ポイントと高スコアだった。 近年では、品質の向上と低コストが要因で、世界中の人がベトナムのヘルスケアサービスを利用しているという。2018年にベトナムの病院を訪れた外国人は約30万人で、治療を受けた外国人は5万7000人にものぼる。5年前に比べて50%の増加だ。
一方で気候とビザの評価はそれぞれ60ポイント、68ポイントと低い評価だった。 昨年、ベトナムでは深刻な大気汚染や熱波、主要都市での洪水が発生した。ベトナムのビザに関する方針はアジアで最も厳しく、ASEAN諸国を含め24ヶ国以外のビザ取得を許容していない。
ランキングのトップはポルトガルでパナマ、コスタリカ、メキシコ、コロン ビアと続いている。エクアドル、スペイン、フランスが他にトップ10入りした国となっている。
<POSTE>
◆ 解説 ◆
2018年11月号のBAOに「ベトナム、駐在員にとって住みやすい国19位に選ばれる」という記事がありましたが、今回は「定年後に住みたい国、ベトナムがトップ 10入り」となっています。と言うことは、このベトナムは今働いている「駐在員」にとって「住みやすく」、いずれ「定年を迎える人」にとって「住みたい」国の上位にもなったわけです。
ある外国人にとって「住みやすい国」、「住みたい国」であるかどうかは、何を基準に、どういう観点から見るかで、判断はいろいろ分かれると思います。私がベトナムに住んで、今年の5月で23年目に入ります。私はランキングのトップに入っている国々の中で、ベトナム以外の国に住んだことは無いので、それらの国との比較は出来ません。
かろうじて知っているのは日本との比較だけです。その日本との比較で言えば、 「気候」「生活費の安さ」「生活のしやすさ」は、日本よりもベトナムのほうが「住みやすい」と言えるでしょう。「不動産、娯楽、ヘルスケア、余暇生活 ・・・」云々などは、その人が置かれている環境によって違うので一概には言えません。例えば、ゴルフなど私自身はベトナムでしたことが無いので、高いのか、安いのかも知りません。
「気候」で言えば、サイゴンに住んでいる人たちは「冬の寒さ」を体験することなく、年中「暑い夏」を過ごすことが出来ます。「暑いのは苦手な人」もいるでしょうし、「寒いのが苦手な人」もいるでしょうが、私のようにだんだん年を重ねると、冬の寒さが辛くなってきます。私の友人にも、冬の寒い時期になると3か月ほどベトナムに滞在して、暖かくなった頃日本に戻る人も実際にいます。
「生活費の安さ」で言えば、物にもよりますが、相対的にベトナムはやはり 安いです。一例を挙げれば「散髪」です。「散髪」の技術などは日本もベトナムも大して変わりません。今日本で「散髪」すると幾らになるのか、長い間日本で「散髪」したことがないので分かりませんが、ここサイゴンでは4万ドン(約200円) です。ベトナムに来て初めて「散髪」してその安さを知り、それ以来23年間日本で「散髪」をしたことが有りません。
「生活のしやすさ」と言う点では、「生活」の中の何の項目を考えるかで、人それぞれ違いますが、「食事」と言う項目では、ベトナムは「生活しやすい国」だと言えます。住まいや仕事場の近くに、それこそ歩いて行ける距離の範囲内で、 「朝食」「昼食」「夕食」を提供する店や「喫茶店」「レストラン」などが有ります。「路上屋台の店」ではいろんな種類の麺類や「おやつ」などが有ります。
日本に戻れば、私の田舎などは山奥にあるので、家の周りには路上屋台の店どころか、一軒の店も無く、喫茶店も有りません。スーパーに買い物に行こうと 思えば、車に乗って市内まで出かけなければなりません。市内までは車で15分ほど掛かります。
それが、今私が住んでいるサイゴン市内の住まいの場合、歩いて2分ぐらいの 所に、「朝食」「昼食」「夕食」を提供してくれる店が有り、ビールが飲める所が有ります。上に述べた、私が「散髪」する時によく行く「床屋さん」は歩いて1分の場所に有るのです。
私の田舎のケースなどは日本でも特殊な例なのかもしれませんが、ベトナム では人が集まる所にはいろいろな店が道路沿いや路上などで商売をしています。ある日本人が「ベトナムの人たちはみんな商売人」と言っていましたが、今回バイクでベトナム南北を縦断して、(次に行く所には、どんな店があるのかな?)と期待しながらバイクで旅するのも楽しみの一つでした。
私自身は一応まだ働いているので、全ての仕事を辞めた後、「定年後に住みたい国」として、このサイゴンにそのままずっといるかどうかは分かりません。ただ「生活のしやすさ」と言う面ではこちらのほうが生活しやすいので、まだまだサイゴンにいるだろうと思います。