春さんのひとりごと
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・続篇
★9日目:Vinh (ヴィン)⇒Dong Hoi(ドン ホイ)★
この日に念願の「故ホーチミン主席の生家」を訪問する予定です。前日約束したタクシーの運転手をホテルで待ちました。予定通り、彼は朝8時にホテル前に到着しました。運転手の名前はHien(ヒエン)くん。今年36歳。彼は日本に仕事で 行ったことがあると言うので、車中で話が弾みました。彼の話ではベトナム人のお客を乗せて「ホーチミンの生家」まで行ったことはあるが、外国人も含めて日本人は私が初めてだと言いました。
Hien くんが言ったように、ちょうど30分後の8時半に「ホーチミンの 生家」に到着。日本人の観光客らしき人はいませんでした。欧米人ではバイクで来ている人が一組いました。受付とおぼしき入り口の前にはいろんな店で雑貨類を売っていました。やはり、ここも「観光地」になっているということでしょう。
取りあえず、ベトナムにある歴史遺跡や美術館や博物館では恒例の、入場料代わりの「切符」を買おうとして、受付にいた年配の女性に「入場料はいくらですか?」と訊きました。すると、彼女はニコッと笑って「そういうものは有りません」と言うではありませんか。「ええーっ、入場料は無いのですか?」とさらに訊くと、「はい、入場料のようなものは有りませんが、みなさんには この花を買って頂いて、生家にある祭壇にお供えしてもらっています」と答えられました。
それを聞いた時、(何という、麗しいやり方だろうか・・・)と思いました。 ベトナムの人たちにとっての「ホーチミンの生家」は歴史遺跡や美術館のような存在ではなくて、ホーチミンという一人の偉大な人物が生まれてから亡くなるまでの一生の源が、彼が産まれたその生家にぎっしりと詰まり、そこに足を運んだ人たちを深く感動させるからでしょう。そのように感じました。
私もみなさんと同じようにその花を買いました。一束で5万ドン(約240円) でした。「この花はHoa Hue(ホア フエ)と言う名前です」と受付の女性が教えて くれました。英語名はTuberose (チューベローズ)です。白い花びらが開いていました。この花をホーチミンの生家まで持参して、その家の中にある祭壇にお供えしてくださいということなのです。
私が着いたのと同じ頃、ベトナム人グループの方もいたので、彼らと一緒に歩いて行きました。実は、ここに来るまでに、(周りが畑や田んぼの中に 「ホーチミンの生家」が一軒だけポツンとあるのかな・・・?)と想像していたのですが、違いました。勿論、「生家」自体は豪邸でもなく、普通の民家のような印象ですが、そこを「聖なる空間」として護るように、静かな雰囲気の中で「生家」の参拝が出来るように考えてあるなぁーと感じました。
相当広い敷地の中に大きな木があり、幾つもの建物があり、池があり、花木が 植えられていました。謂わば、「ホーチミンの生家」を真ん中に置いて、それを中心にして樹木、建物などが配置され、そこの敷地全体が「公園」のような設計になっていました。園内に入ると、多くの写真が展示されている店があります。お土産用品を販売していました。すべて「ホーチミン」に関係した写真などです。
ホーチミンの若い頃、壮年期、そして晩年にいたるまでの写真が額に収められて売られています。サイゴンでも良く眼にした写真もあります。内外の有名な政治家たちと一緒に写っている写真も有りますが、私が好きな写真は屋外で籐椅子に座って執務している写真や、子どもたちに取り囲まれてニコニコしている写真です。
そのお土産屋さんから歩いてしばらくして、ついに「故・Ho Chi Minh主席の生家」に着きました。植木で出来た低い生垣の奥に「故・Ho Chi Minh主席の生家」は有りました。「故・Ho Chi Minh主席の生家」はレンガ造りでもなく、日本でいうところの「ワラブキ屋根」のような感じの家でした。以前、本や写真で見た通りの質素な家です。その質素な家をしばらくじーっと見つめながら、私のこころの中には
(これが故・Ho Chi Minh主席が生まれ育った家なのか・・・)
という、深い感慨が湧き起こりました。この家で生まれ、この場所で両親や家族たちと青少年期を過ごし、外国に留学し、国に戻ってから革命運動に身命を注ぎ、ベトナム戦争終結を前にして亡くなった、「ホーチミンの原点」がこの生家でした。豪華な造りでも、大きな家でもなくて、まさに「普通の庶民の家」と言うべきものでした。
私は一度、「故・Ho Chi Minh主席」に実際に会った人に、「その時のHo Chi Minh主席の印象はどうでしたか?」と伺ったことがあります。それは、2010年6月のことでした。場所は、サイゴン市内にある【ホーチミン市友好協会】に 於いてです。その時のことは、2010年7月号の「ホーチミンはふつうの人」に載せています。
そこには、友好協会の会長であるQuocさんがおられて、そのQuocさんが私に次のように話されたのでした。「私がまだ幼い小学生の時に、北部の空港でホーチミン主席に会いました。その時の印象はホーチミン主席は“ふつうの人”という感じでした。本当に <ふつうのおじさん> と言う感じでしたよ」と、「ふつう【Binh Thuong (ビン トゥーン】」 という単語を2回繰り返されたのでした。
政治家や軍人という職種に就いた人というのは、どこの国でも、上に昇り詰めるにつれ、権力闘争に巻き込まれ、ギラギラとした権力欲が染み付くようになり、それこそ「ふつうの人」の感覚が失せてゆきます。しかし、ベトナムの「Ho ChiMinh」だけは、晩年に至るまで「ふつうの人」の気持ち・感情を保ち続けた人ではなかったか・・・と思います。そういう意味でも類い稀な人物ではなかったでしょうか。
それが、「Ho Chi Minh」が亡くなって50年が経った今でも、「Chu tich Ho Chi Minh (ホーチミン主席)」と言わずに「Bac Ho(ホーおじさん)」と、ベトナムの人たちが親しく呼ぶ所以でしょうか。私は「Ho Chi Minh」が亡くなられた時に、ハノイで行われた「国葬」のビデオを最近初めて観ました。今まで観たことはありませんでした。
それが、ふとしたキッカケで、ある一人の日本人の方に紹介して頂いて、その「国葬」のビデオを観たのでした。その方はハノイに着いた日の夜の宴会に参加していたSHさんでした。その時がSHさんとは初対面でした。それが、「ホー・ チ・ミン主席の国葬(1969年制作)」と言うタイトルが付けられたビデオなのでした。
私自身は初めてこのビデオを観て、最後まで観終わった時、深い・深い感動に襲われました。このビデオを観た人たちも同じ気持ちになるのでは・・・と 思います。9分足らずのビデオですが、実に感動的なビデオです。ビデオのURLはこちらです。
Ho Chi Minh主席の国葬の日、この映画では政治家や軍人や兵士たちはもとより、老人・おばあさん・婦人・学生・子どもたちまでもが滂沱たる涙を流し、泣き崩れ、慟哭しています。まさに「ふつうの人たち」がそうしているのです。如何にHoChi Minh 主席が生前にそういう「ふつうの人たち」から慕われ、敬愛されていたかが良く分かります。現在の幾つかの共産主義国家のリーダーたちに対する「偽りの崇拝の強要」とはまさに対極にあると言えるでしょう。
そして、「生家」の中に入り、受付で頂いた花「Hoa Hue」を祭壇にある箱の中に入れてお供えしました。この中がいっぱいになったら、また受付に戻して、次の方たちに配るのでしょうが、そのほうが無駄が無くていいと思います。「生家」の中には、家具らしいものは木製のベッドと台所用品や茶わんや皿などが有りました。その当時のままの用具が置かれているという話でした。
「生家」についての説明は若い女性がされていました。地元の女性なのかは聞き忘れましたが、毎日ここを訪れる観光客に「ホーチミンの生家」の説明を行う仕事に就いているというのは光栄なことでしょう。彼女はイキイキした表情で説明していました。みんな静かに、熱心に聴いています。
私以外はベトナム人しかいなかったらしく、全てベトナム語で説明していました。 サイゴン近郊にある「クチトンネル」などはいろんな国の人たちが観光に来ているので、各国語に対応したビデオの説明が有り、それを見せていますが、 ここは外国人の観光客は少ないので、そういう必要は無いのでしょう。
この園内にはお寺のような大きな建物もあり、そこに党の幹部らしき人たちが 十人ほど「ホーチミンの胸像」の前に立ち、一人・一人が線香を握り、胸像の前に置いてある線香立てに一人が線香を手向けると、次の人がまた同じように線香を上げていました。私はその後ろに立って見ていましたが、係員が私にも 線香を渡してくれましたので、私も同じように線香を捧げました。
9時20分に「ホーチミンの生家」とその周りの施設を見終わって、出口に向かいました。しかし、園内が広いので、どこが出口か分からなくなりました。どうも反対側の出口に出てしまったようでした。それで、Hienくんに電話しましたが、 彼も私がどの出口にいるのか分からない様子でしたので、園内で仕事をしていた係員に電話を代わってもらい、ようやく彼が駆けつけて来てくれました。
また彼のタクシーに乗り、「ホーチミンの生家」を後にしました。 「ホーチミンの生家」を離れ、大通りに出た時、「ホーチミンの生家」に入る時の門が有りましたので、そこの写真を記念に撮りました。日本でも、私自身は有名人や政治家などの「生家」を見学に行ったことなど無かったのですが、 この旅の中で「ホーチミンの生家」に足が向いたのは自分でも不思議な気持ちがしています。今回の「ベトナム南北縦断の旅」が終わった後、この日訪れた 「ホーチミンの生家」は今でも忘れ難い「思い出」として甦ってくるのでした。
10時過ぎにホテルには着きました。早朝からタクシーで案内してくれたHienくんのお陰で、短時間の中で念願の「ホーチミンの生家」に行くことが叶いました。料金のメーターを見ると46万ドンになっていたので、Hienくんには50万ドンを渡し、お礼を述べて別れました。この後、バイクで一路Da Nangまで走らないといけません。山元さんに一日でも早く追いつかなくては。
Vinhを出てHa Tinhに向かいました。「Ha Tinhまで50km」という表示が有りました。サイゴンまではまだ「1362km」と有りました。そして、11時半にHa Tinh市内に入りました。ここで今回の旅に出てから、2回目のオイル交換をしました。1回目のオイル交換から約1,000km走りました。サイゴン市内を走っている時には大体1ケ月に1回、1,000kmを目安にオイル交換をしていますが、今回の旅では毎日長距離を走っているので、1,000kmになるペースが早くなります。
そして、昼の2時半。Quang Binh省に入った頃に、今回最大の<災難>が起きました。<災難>はベトナム語では<tai nan (タイ ナーン)>と言います。 「漢越語」ですので、発音が似ています。その時、国道を時速50kmぐらいのスピードで走っていました。すると、(ああぁー、眼の前に水溜りの穴がある!!)と、ハッキリと見えました。しかし、その「水溜まりの穴」に気が 付いた時には、すでに遅かったのです。思わず「わあぁーーーっ!!」と叫んでいました。
その水溜りは案外深く、ハンドルを取られました。さらに、その穴ボコの周りには小さい砂利があり、タイヤが滑りやすい状態で、私のバイクは右側に滑って横転しました。荷物も道路上にあちこち散乱しました、(しまったぁーー!!)と思い立ち上がると、その時、右腕と右足から血がポタポタと流れ落ちきました。右足はジーンズの布地が破れて、ヒザの所がむき出しになり、そこから血が流れています。モタモタしていると後続車が来て危ないので、急いでバイクを起こして、荷物を積み直し、道路の端にバイクを寄せました。
たまたまこの時、ペットボトルを2本バイクにぶら下げていました。道中のホテルでは、1泊するごとに1本の水をサービスしてくれます。飲みきれない時、それを捨てずにいたのが、この場で役立ちました。それで手足の血を洗い流し、チリ紙で出血している所を押さえました。右足の傷はしばらくチリ紙を当てていると出血が止まりました。しかし、右腕のほうが傷が深いようで、ポタポタと流れる状態が続きます。
辺りに民家も無し。またバイクで走るしかありませんが、止むを得ず、傷口にチリ紙を当てながら走ったのでした。しばらくしたらその右腕の出血も収まってきました。そのまま走っていると、バックミラーが横転した時の衝撃でグラグラした状態になってしまい、固定して後ろを見ることが出来なくなりました。
(こりゃー、イカン!どこかで直さないとマズイ)と思いながらしばらく走りました。そのまま走りながら、(バイクの修理屋さんがどこか無いかな・・・)と注意して見て行くと、怪我をした所から20分ぐらいの所に修理屋さんが有ったので、そこにバイクを停めました。
そこの親父さんに「バイクに乗っていて転んで、ミラーがグラグラするので直してください!」とお願いしました。すると、右のミラーを触っていたその時、また血がポタポタと落ちてきたのです。その修理屋の親父さんは驚いたように「こりゃー、イカン!」と、周りに向かって叫び、「早く病院に行って治療しないといけないよ!」と、私に言いました。さらに、側でバイクを直していた若者に「お前、この人を病院に連れて行け!」と言ってくれたのでした。
親父さんからそう言われたその若者は「分かりました!」と言って、修理していた手を休めて、自分のバイクを出して、「僕の後に付いて来て!」と言うので、私も「有り難う。お願いします!」と言ってその後を追いました。すると、 わずか5分ぐらいでそこに着きました。着いた所は「病院」と言うよりは 「診療所」という感じの小さな所でした。
そこには3人の女医さんが居て、テキパキと治療をしてくれました。右足の傷は消毒して、上から包帯を巻いてくれました。右腕はやはり少し傷が深いらしく、麻酔を打って3針ぐらい縫っていたようです。(・・・ようです)と言うのは、 ケガをした箇所が腕の裏側だったので見えなかったのですが、針を通す時の痛みが3回ぐらいチクチクしたからです。
治療は30分ぐらいで終わりました。女医さんには感謝の言葉しか有りません。 自分一人だけだったら包帯も無いし、お手上げでした。ケガをした状態のままでホテルに泊まれば、おそらく寝具も汚していたでしょう。診療所の住所と女医さんの電話番号を聞いておきました。後日サイゴンに戻った時、女房からお礼の電話をしてもらいました。治療費が20万ドン、薬代は10万ドンだけでした。
治療が終わった後、私は一人でまたバイクの親父さんの所に戻りました。この 親父さんの厚意が無ければ、診療所の存在自体も知らず、治療も出来なかったでしょう。親父さんに無事に治療が済んだことを伝えて、「このご恩は忘れません。本当に有難うございました。これはほんの気持ちです。 みなさんで食事して、ビールでも飲んでください」 と言って謝礼を渡しました。実際に、旅先で受ける親切ほど身に染みて有り難いものは無いのですが、我が身で今回それを実体験しました。
親父さんに別れを告げて、またバイクを走らせました。スピードを出すのには懲りたので、それ以後は40kmぐらいの速度で走りました。それまで無事故できたので油断していましたが、その後、国道を走っている時に良く注意して見ていると、大きな穴ボコが有るわ、有るわ、至る所に有ります。あんな穴に入ったら、車は少し車体が沈むぐらいで済みますが、バイクなら転倒は免れません。暗い夜道なら大変危険です。
山元さんが今回の旅の道中、口癖のように「暗くなる前にホテルに着かないと 危ないのです」と言われたのも肯けます。しかし、サイゴンでは小道ならまだしも、大きな国道にああいう大きな穴ボコが有るのを見たことが有りません。穴ボコが出来た場合、すぐに修復しているからでしょう。他の省では何故すぐに補修をしないのか疑問ですが、ああいう穴ボコを放置しているのは、その省の予算の関係もあるのでしょう。この「南北縦断の旅」の間、道路の補修をしていた場面を見たのは2回ぐらいでした。
そして、応急処置の手当てをした状態でDong Hoiに着いたのは夕方5時過ぎ。 前回と同じホテルなので、主人も私を覚えていてくれました。白い包帯を巻いた私の姿を見て驚いています。「何があったの?」と訊くので、「バイクで転んでケガをしたんだ」と言うと、悲しそうな顔をして肯きながら、「帰り道は気を付けろよ!」と忠告してくれました。
さらに、「ところで、お前の友達はどこだ?」と山元さんのことを訊くので、 「先にサイゴンに帰ったよ!」と答えると、「そうかぁー、たった一人で旅をするのも寂しいねぇー」と、また悲しそうな表情で私に話しました。 そう言われれば、確かにそうなのですが、仕方ありません。しかし、ただ一度しかこのホテルに泊っていないのに、外国人の私に優しい言葉をかけてくれる彼の気持ちにジーンとしました。部屋代は前回の時と同じ20万ドンでした。
部屋に荷物を入れて、前回と同じ屋台「Thuy Duong」に夕食に行きました。 ホテルの前に架かっている橋を渡って行きましたが、橋の下を流れている小川のようなクリークが何と言う名前なのか、名前が有るのかどうかも聞き忘れました。このホテルにまた泊まったのは、ホテルの前から見える、この小川の風情が大変気に入ったからでした。
食堂に着くと、ついこのあいだ来たばかりなので、店員も私の顔を覚えていてくれました。前回は隣に座ったお客が「春雨とウナギの炒め物」を食べていて美味しそうだったので、ここでは私もそれを食べることに決めていました。 それと、カキのスープも頼みました。「春雨とウナギの炒め物」は子どものウナギなのか、「小ぶりのウナギ」と一緒に炒めてあり、柔らかくて、大変美味しいものでした。
夕食を終えてホテルに戻り、この日は早く寝ることにしました。寝ている時に、足をケガした所が時にズキズキと痛みましたが、何とか眠ることが出来ました。女医さんが手当てをしてくれたお陰で、寝具も汚さずに眠ることが出来て一安心しました。翌日はDa Nangに滞在する予定です。
★10日目:Dong Hoi (ドン ホイ)⇒Da Nang(ダ ナン)★
朝6時起床。7時半に Dong Hoiを出発。そして、10時10分にQuang Tri省に入りました。途中Vinh Linhと言う名前の街を通過しましたが、ここでもまた 「烈士の墓」を幾つも見ることが出来ました。5kmおきぐらいに有りました。Quang Tri省の中を進んでいくと、公園があり、その中に銅像があります。 その銅像にはLe Duan (レ ズアン)と書かれていました。サイゴン市内の道路にはLe Duan通りと言うのが有ります。
Le Duanは南北ベトナムが統一された後、党書記長に就任し、最高指導者となりましたが、その故郷までは知りませんでした。後で調べてみると、彼の故郷はQuang Tri省Trieu Phong (チィウ フォン)となっていました。私がバイクで通過した時に見た、あの銅像が立っていた場所が、やはり彼の故郷Trieu Phong だったのでしょう。本で読んだだけでは記憶に残らないでしょうが、今はハッキリと胸に刻み込みました。
そして、Da Nang まであと55kmの地点を通り、午後2時にHai Van峠を越える最初のトンネルに入りました。ここを越えるとDa Nangはすぐ近くです。そして、2時25分にあの踏切がある場所に着き、Hai Van峠を上りました。Hai Van峠を越え、麓に着いたのは3時10分になっていました。やはり、Hai Van峠から見える光景は大変印象的でした。
Da Nang市内に入ったのは4時過ぎ。「ENEOS」という名前のガソリンスタンドが有りました。日本人が経営しているのかもしれません。5時に今日泊まるホテルを見つけました。名前は「Minh Hoa (ミン ホア)」ホテル。1泊25万ドン(約1,300円)ホテルのすぐ前に海鮮料理屋が多く集まっていたので、そこに決めました。 すぐに食事に出かけました。「空心菜炒め」「ポテトフライ」「海鮮焼きそば」 を頼みましたが、どうもこの日は食が進まず、「海鮮焼きそば」などは半分しか食べられませんでした。ケガのせいもあったのでしょう。
その屋台にいた時に山元さんから連絡が有りました。 「今日はQuy NhonからDa Latに向かい、先ほどDa Latに着きました。我々が 落ち合う場所は、あの、Dong Nai (ドン ナーイ)の古川さんの次女Bさんの家に しましょう。そのDong Naiの家に行くには国道1号線ではなくて、Nha Trang から 右に曲がってDa Latに入り、Da Latから国道20号線に入ってDong Naiに来た方が 近道なのです。しかし、そのNha Trang からDa Latに入る時の道路の標識が無いので非常に分かりにくいのです」と。
そして、さらに続けて「今からNha TrangからDa Latに入る時の交差点にある建物の特徴を言いますのでメモしてください」と言われて、「これこれ、こういう特徴のある建物や看板が有りますので、それを覚えておいてください。その交差点にある建物と看板を見つけたら、私が言った道路に進んでください。その入り口さえ間違わなければ、後は大丈夫ですから」と、親切なアドバイスを頂きました。
この日は食欲も無く、ビールを3本飲んだらそれ以上飲めず、食べられず、ホテルに戻り早く寝ることにしました。ホテルのベッドに横になっていると、サイゴンで待っている女房と娘が無性に懐かしくなってきました。山元さんと離れた寂しさやケガをした痛みもあったからでしょう。じーっとホテルの天井を見て、瞼を閉じて思い返していました。
この旅に出る前は「バイクでサイゴンからハノイに行き、またサイゴンに戻って来るなんて危ないわよ!死んだらどうするの!」と反対していた女房も、最後は私の<60代の挑戦>をシブシブと許してくれたのでした。翌日は山元さんも泊まったQuy Nhon に滞在する予定です。この日は Dong Hoi からDa Nangまで275kmを走っていました。
★11日目:Da Nang(ダ ナン)⇒Quy Nhon(クイ ニョン)★
朝8時にDa Nangを出てQuy Nhonに向かいました。毎日の移動行程は女房にはSMSで知らせていましたし、親しい友人たちにも、宿泊地に着いた時にその都度連絡はしていました。その度に、友人たちからも「そうですか!無事に着きましたか。安心しました!」と言う返信を頂きました。山元さんと私がその日に到着した場所から送る連絡を待ってくれている人たちがいました。
友人でもある家具屋のABさんは山元さんと私が旅に出る前日に、忙しい中「スシコ」に来てくれて、「壮行会」まで開いてくれました。女房と娘、そして、親しい友人たちが、山元さんと私が元気な姿でまたサイゴンに戻ってくるのを待っていてくれるのだと思いました。それだけに、残りの行程を十分な注意を払いながら進んで行かないと・・・と、気を引き締めました。
そして、10時前にQuang Nam省に入った時のこと。街中をバイクで通過していた時、道路沿いに見事な盆栽が置いてありました。その形といい、大きさといい、数の多さといい、見事な盆栽の数々でした。ちょうど道路の右側にあったので眼に留まったのです。一度はそこをそのまま通過しました。しかし、この時どういうわけか、私の中に(もう一度引き返して、あの盆栽を眺めたいな!)という気持ちが湧いてきて、バイクを戻しました。
その盆栽が置いてある前でバイクを停めると、ちょうど真ん中の辺りの位置に 広場があり、そこには門が有りました。それは中学校の正門でした。その正門に掲げられていた学校の名前を見て実に驚きました。その学校の名前は「Phan Boi Chau中学校」。(えぇーっ!)と言う気持ちでした。(Phan Boi Chauは Nghe An省の出身なのに、何故ここQuang Nam省にPhan BoiChauの名前を付けた 学校があるのかな・・・?)という疑問でした。
その時、午前の授業が終わっていたからか、十人ぐらいの生徒たちが門の前に いました。それで、私が「ここの場所は何と言う名前なの?」と地図を広げて見せて訊きました。すると一人の男の生徒が私の赤ペンを握り、地図に○で囲ってくれました。それを見ると。ここは「Quang Nam省 Binh Trung」という 場所でした。
私が「実は私は日本人です。サイゴンからハノイまで行き、今からまたサイゴンに戻る途中です」と言いますと、みんな驚いていました。しかし、偶然ながら、こういう場所で中学生の彼らに出会ったのは奇蹟的なことでした。それで、彼らがたまたまそこにいたので、(これはちょうどいい!)と思い、いろいろ質問しました。
私が「Phan Boi Chauは確かNghe An省の出身なのに、何故ここにPhan Boi Chauの名前を付けた学校があるの?」と訊くと、彼らも、「Phan Boi Chau」はNghe An省の出身であることは知ってはいましたが、この場所にPhan Boi Chauの名前を付けた学校が何故あるのか、その謂われについては知らないようでした。学校でも、その理由については教えていないのでしょう。
私が「Phan Boi Chauは日本に留学したことがありますが、皆さんは知っていますか?」と訊くと、数人が「はい、知っていますよ」と答え、数人は知らないようでした。「知っていますよ!」と答えた生徒の一人は「僕もいつか日本に留学したいです!」と言ってくれました。門の外から中を見ると「Phan Boi Chau」の胸像が立ててあります。その胸像の下に「Phan Boi Chau」と刻んでありました。間違いありません、ここは「Phan Boi Chau」の名前を冠した中学校でした。
しかし、不思議な気持ちでした。Nghe An省のVinhにいた時に、「Ho Chi Minhの生家」と「Phan Boi Chauの生家」の二つを訪問したかったのですが、結果として「Ho Chi Minhの生家」訪問が実現し、「Phan Boi Chauの生家」訪問は出来ませんでした。それが、ここ「Quang Nam省」で「Phan Boi Chau」の名前を冠した中学校に巡り合えるとは、実に幸運でした。
後日、<浅羽ベトナム会>代表の安間さんにそのことをお聞きしました。すると、さすが、安間さんはこの学校のことをご存じでした。安間さんについては、2018年1月号で<静岡県袋井市の【浅羽ベトナム会】のこと>で触れています。安間さんのご返事はこうでした。
『この近くの地にファンボイチャウが同志を集め秘密結社「維新会」を立ち 上げた家が保存されています。2015年に“さすらいのイベント屋”のNMさんと一緒に行きましたよ。荒廃していたこの建物と墓地の整備は2004年に【維新会 100年】の記念事業として整備された様です。当時、フック首相がこのクァンナム省の人民委員会主席だったとのことです』と、安間さんから教えて頂きました。
やはり、そういう繋がりがあってこそ、「Phan Boi Chau中学校」がQuang Nam省 にあるのでした。しかし、偶然とは言え、バイクで初めて訪れたこの地で、普通ならばそのまま通り過ぎてゆくであろうに、安間さんとNMさんが訪問されたこの中学校に私も足を停めたとは!(何らかの“念力”が働いたのかも・・・)と思わずにはいられませんでした。
Quy Nhonまで200kmぐらいの場所で雨が降り出してきたので路上の喫茶店で一休み。アイス・コーヒーを頼むと、氷はコップではなくて、茶碗に入って出てきました。しばらくして、雨が止んでまた出発。もうすぐBinhDinh省に入る所で「SA HUYNH駅」という名前がある鉄道が有りました。地図で確かめると、やはりこの駅はBinh Dinh省の手前に有ります。
そして、3時半にBinh Dinh省に入りました。このBinh Dinh省は私の教え子が多い場所でもあります。Binh Dinh省は海に面しています。進路の左手に Binh Dinhの海岸が見えましたので、バイクでその海岸に向かいました。海岸の砂浜に売店が有りましたが、この時は無人。店員もお客もいません。その売店にあった看板にはいろいろなメニューの写真が貼られていて、何と「巻き寿司」まで有りました。
Quy Nhonに行くまでの途中の坂道にも大きな穴ボコが有りました。バイクで走る人には大変危ない大きさです。後続で来る人が私のように穴ボコに入らないように祈るだけです。Ho Chi MinhとHa Noiの別れ道の看板が出ている所に到達。Quy Nhonまではちょうど100kmとなっていました。Nha Trangまでは「国道1号線」をこのまま下るだけです。
しかし、「国道1号線」と言うのは、サイゴンに下って行く場合、地図上で見るとまっすぐ進めばいいような感じですが、実際にバイクで走ると、ある場所では右に曲がり、ある地点では左に曲がっていたりしていて、そう単純ではないのだなと言うことも分かりました。それでも今まであまり迷わないでここまで来たのは、分かれ道には「標識」が立っていたからです。
4時過ぎにまた雨が降り出しました。この日は雨が良く降りました。それで、Quy Nhon市内の宿にこだわる必要もないので、市内に入る少し手前で宿を取る ことにしました。夕方5時半に宿が見つかりました。HOTELという看板ではなくて、「Nha Nghi(ニャー ギー)」と言う看板が出ています。日本で言う ところの「連れ込み宿」のようなものです。私が「1人で泊まるので安くしてくれ!」と言うと、25万ドンのところを20万ドンに負けてくれました。
しかし、困ったことに、近くにめぼしきレストランが有りません。外に出てトボトボ歩いていると、バイクタクシーのお兄さんが近づいてきたので レストランまで案内してもらうことにしました。そこは宿からは少し離れた所にありました。「食事が終わったらまた電話するから、電話番号を教えて」と言って、帰りのバイクも彼にお願いしました。レストランには2時間ほど いて、お兄さんのバイクで帰りましたが、宿に帰り着いた途端に大雨。 ラッキーでした。
「Nha Nghi」の値段は安いのはいいのですが、部屋の作りが雑で、テレビがシャワー室の前の壁に固定してあるものの、その取り付け位置が低くて、夜中に2回ほど頭をぶつけてしまいました。まあ、一晩寝るだけでここを出るので、文句を言うまでも無し。明日も早起きするので、すぐに眠りました。
★12日目:Quy Nhon(クイ ニョン)⇒Nha Trang (ニャー チャーン)★
朝7時に起床。8時にはNha Nghiを出発。この日はQuy Nhonを出てTuy Hoaを通過し、Ninh Hoaも通り過ぎ、Nha Trangに宿泊予定。この日走っていた道路にも、至る所にまた穴ボコが出現!Tuy Hoaまでは急カーブ、急坂が続きました。急な坂道ではスピードを落とします。坂道を越えると、眼下にキレイな景色が現れてきました。
11時半頃、「Nha Trangまで114km」の標識を過ぎた所にロータリーが有り、そこには細長い塔が立っていて、「みなさんTuy Hoa市へようこそ」と言う文字が塔の下に有りました。TuyHoa市内に入っていたのでした。そのロータリーの前でバイクを停め、写真を撮りました。すると、ロータリーから少し離れた所のガードレール沿いに若い男性がバイクを停めていました。
私が写真を撮り終わった時、その若い男性が私のほうを見て手招きします。私が彼のほうに近寄ると、申し訳なさそうに、こう話しかけてきました。「すみません。実はガソリンがもうすぐ無くなりそうなんです。助けていただけませんか。2万ドンぐらいでいいですので・・・」と悲しい表情で私に頼んできたのでした。
最初は(何事か!)と思った私も、「ああー、そう。分かった、いいよ!この近くにガソリン・スタンドがあるなら、そこまで一緒に行こう!」と承知。そこから3分ぐらい走ると、ガソリン・スタンドが有りました。その途中では多くのアヒルさんたちが泳いでいる池が有りました。親のアヒルから子どものアヒルまでが、池の中で遊んでいるのを見ていますと、無性に嬉しくなりました。
そしてガソリン・スタンドに着き、彼に2万ドンを渡してガソリンを入れてあげました。彼も「有難うございました!」と喜んでいました。「いいよ、いいよ。大したことじゃない。実は私は日本人だが、このバイクでサイゴンからハノイに行き、ハノイからサイゴンに今また戻っている途中です。この旅の間、たくさんのベトナムの人たちに助けられたので私も嬉しいのです」と言うと、彼はニコッとして頭を下げて、またバイクに乗って去って行きました。
彼が私をあそこで呼び止めたのは、バイクで走っている人にそういう話し掛けは出来ないので、たまたまあそこで立ち止まって写真を撮っていた私が話し掛け易かったのでしょう。後で思い返すと、Vinhでは若い男性、QuangBinhではバイク修理のおじさんや女医さんたちなど、いろいろなベトナムの人たちから助けられました。金額にしたら僅かなものですが、少しながら“恩返し”が出来たかなと思いました。
ちょうどお昼12時頃に、「Nha Trangまで100km」の標識が有りました。3時過ぎにはNha Trangに着けるでしょう。しかし、やはり、またも穴ボコが有りました。牛さんの群れもまた現れました。この時は飼い主も近くにいました。坂道を上ってゆく と、山の頂上に何か突起物が・・・。(何だろう?)と思いました。人工物ではなさそうでした。大きな岩のようでした。人の横顔のような形をしています。そして、視界から消えてゆきました。その正体は分かりませんでした。
そして、ちょうど3時半、Nha Trang市内に入りました。4時に前日と同じNha Nghi形式の宿が見つかりました。名前は「Hoang Hai」で、一泊15万ドン。ここの主人は鳥や花が好きなようで、ロビーにはハトや小鳥が籠に入っていて、小鳥の鳴き声が心地良かったです。2階には蘭の花もたくさん有りました。Nha Nghiにしては趣味がいいです。
そのNha Nghiの目の前にレストランが有りました。部屋に荷物を入れて、早速そこに 行き、メニューを見せてもらいました。(野菜料理をひとつ頼むか)と思い、ページをめくると、見たことが無いベトナム語の単語があります。「ổ qua xào trứng」・・・。(何だこれは?)と思いました。
サイゴンで私が食べる「ニガウリの卵炒め」のベトナム語の表記は「kho qua xao trung」です。(おそらく、中部の単語は違うのかな?)と思いましたが、たぶん、 「o qua xao trung」=「kho qua xao trung」と同じではないかと想像してそれを頼みました。ほかに「ニワトリの手羽先のヌックマム揚げ」も頼みました。しばらく して出てきた料理を見ると、やはり、サイゴンで食べるのと同じ「ニガウリの卵炒め」 でした。
ほかにも、このメニューにはサイゴンでの表記とは違う単語が有りました。私がサイ ゴンで良く食べる「ピータン」は、南では「Trung vit Bac Thao」ですが、ここの メニューには「Trung Bap Thao」となっていました。表記や発音が似ていますので、 これもおそらくは「ピータン」のことだろうと思います。ここでそれを注文はしません でしたが。しかし、ベトナムでは地方に行くたびに、同じ物でも意味する言葉が違うというのは面白いものです。
食事を終えて、8時過ぎにNha Nghiに戻りました。(さー、寝るか!)とベッドに寝転ぶと、部屋の天井からぶら下がっている扇風機がえらく大きいのです。まるでヘリコプターのプロペラのようです。スイッチを入れると音も「ブルルーーン」と大きく響きます。「Nha Nghi」=「連れ込み宿」なので、(サービスのつもりでこんな大きい扇風機を付けているのかな?)と思いました。
さらには天井にある照明が5秒間隔ぐらいで赤や紫やピンクに色が変化して大変なまめかしい。二人で泊まったお客さんへの「サービス」のつもりなのでしょうが、一人旅の私には必要無し。天井の電気を消して早く寝ることにしました。翌日はいよいよ 山元さんが待っているDong Naiを目指します。この日、Nha Trangまでは230kmを走っていました。
(・・・完結篇に続く)