春さんのひとりごと
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・完結篇
今回のバイクで<ベトナム南北縦断の旅>は、往復14日間で終わりました。 全行程は15日間でしたが、サイゴンに戻る最終日の前にDong Naiで2泊したからです。今回の旅の間、多くの人たちから励ましの言葉を頂きました。長年来の“夢”が実現できたのは、何と言っても大先輩「山元さん」の同行・協力が有ればこそでした。どんなに感謝しても足りません。今回の旅の記録の最後に、 私が敬愛する「山元さん」から享けた恩に対して、それを述べさせて頂きます。
★13日目:Nha Trang (ニャー チャーン)⇒Dong Nai(ドン ナーイ)★
朝6時に起床。(さぁー、今から荷物を片付けるぞ!)と、支度したその時に停電!私が泊まった部屋は窓が無い部屋なので、部屋全体が真っ暗になりました。採光のための小さいガラスが壁に埋め込んであるぐらいなので、取りあえずドアを開けて外の光を入れ、忘れ物をしないように注意しました。7時過ぎに荷造りを終えてチェック・アウト。
ホテル代を清算しながら、受付のおばさんに「今からDa Lat(ダ ラット)の方に行きたいので、道順を教えてください!」とお願いして、ホテル前の道路からダラットに入るまでの道順を図に書いてもらいました。山元さんから事前に 教えて頂いたようにDong NaiのBさんの家に着くには「Nha Trangから国道27C 号線に入ってDa Latに行き、Da Latから国道20号線に入ってBao Locに行き、 そのままDong Naiに下る」というルートを進みます。そのDong Naiで、山元さんが私の到着を待っているのです。
おばさんから教えて頂いた道順は、最初に通る道路名が「23 thang 10」になっていましたので、その通りを目指しました。「Nha Trangの街にさようなら!」をしました。「23thang10」の道路はすぐに分かりました。山元さんから事前に「Nha TrangからDa Latに入る時の道は、交差点に道路名を示す大きな標識が 無いので分かりにくいですよ」と教えて頂きましたが、その交差点であろう地点に差し掛かりました。「Ho Chi Minhまで428km」と書いてありましたので、そこを左折。
しかし、だいぶ進んだ所で、沿道の民家の家の上に「QL1A(国道1号)」と書いてありました。「QL27C」ではなかったのです。(オカシイナ・・・)と 思い、道端にいた人に訊くと「QL27Cなら10kmの場所まで元に戻れ!」と言う ので驚きました。先に左折した交差点にはDa Latへ行く道が表記されていなかったので間違えたようです。仕方がありません。すぐにまた引き返しました。
そして、元の場所に戻った時、近くにいたおばさんに再度道を確認しました。 おばさんは親切に教えてくれて、「気を付けてね!」と言って、バイクに乗って去って行きました。しばらく進むと「DaLatまで130km」と書いた標識が見えました。ちゃんと「QL27C」とも書いてあります。この道に間違いありませんでした。おばさん有難う!!
しかし、ハノイから南に下り、あと僅かでサイゴンに着く頃になりますと、 (もうすぐサイゴンへ戻るぞ!)という声と、 (まだまだゆっくりとバイクの旅を楽しんでゆけ!)という半ば相反する声が聴こえてきました。(もうすぐサイゴンへ戻るぞ!)という声は、前から手綱で 引かれるような感じがし、(まだゆっくりと楽しんでゆけ!)という声は、 後ろからバイクの荷台を引っぱられるような感じがしてきました。でも、もう 後ろに引き返すことは出来ません。一路サイゴンを目指して走るだけです。
Da Latへの道のりは坂道が多くなります。その坂道にも穴ボコが有りました。 坂道の上には「Do Cao(ドー カオ)500m」と書いた標識が立っています。 Do=度、Cao=高で「高度500m」のことです。しばらく進むと崖の上から滝が流れ落ちていました。この山道で初めて見た滝でした。崖から山道の溝に流れ落ちていました。こういう山道で滝を眺めると、不思議と嬉しい気持ちになってきます。この滝だけではなく、DaLatへ行く坂道には幾つもの滝が有りました。 ある一つの滝の前には、「Da Latまで70km」の標識が有りました。
Da Latまで67km、高度1,000mの坂道を上りつめ、下り坂に入り、麓が近づいて来た時、バイクのガソリンのメーターがレッド・ゾーンに入る状態がしばらく続きました。今回の旅でガス欠の事態に遭うのは2回目です。こういう山道では人家も無く、ハラハラ・ドキドキです。たまたま私の前をバイクで走っていたおじさんがいたので、バイクを横に付けて、「麓にガソリン・スタンドはあり ますか?」と訊きました。
そのおじさんは「5, 6キロ先に家があり、そこではガソリンを売っているよ」 との答え。それを聞いて嬉しくなりましたが、そこまで果たして持つかどうか分かりません。すると、麓に下りると確かに有りました。本当にハラハラしましたが、ガス欠になる前に何とか大丈夫でした。前回は 「峠のガソリン屋さん」に助けて頂きましたが、今回は「麓のガソリン屋さん」に助けてもらいました。
そして、いよいよDa Latの高原地帯に入りました。 新しい公園を整備中の所もありました。きれいな盆栽も有りました。 Da Lat市内まで13kmの標識が有りました。ここら辺りからビニール・ハウスが多くなります。ビニール・ハウスの入口には「日本のイチゴ」と書いた建物も有ります。ここで栽培しているようです。DaLatは高原地帯の涼しい気候を利用した野菜や生花の栽培が大変盛んなところですが、広い範囲で続くビニール・ ハウス群の壮観な眺めは圧巻でした。
午後1時半にDa Lat市内に入りました。「CACAOKEN カカオ研究所」と、日本語でも書いてある建物が有りました。後で聞いたのですが、ここを知る友人の話では、やはり日本人が経営者だとのことでした。市内に入ると桜の木が道路沿いに植えてありました。10年後、20年後に、ここの桜並木が大きく育ち、キレイな桜の花を咲かせているだろうなと思うと大変楽しみです。桜を愛好する 日本人にとって、将来Da Latは、ベトナムの中でも「桜の名所」になるかも しれません。そういう可能性を秘めています。
Da Lat市内を後にして、有名なDA TANLA(ダ タンラ)滝の駐車場の前を通過 しました。そして、2時15分に「国道20号線」の標識が見えました。Bao Loc からDong Naiに入る道を通っているのは間違いありません。その後、夕方4時20分頃、大雨が降り出しました。店の軒先で雨宿りしました。30分ぐらい雨宿りしましたが、ドンドンひどい大雨になりました。
山元さんからは「もう少しで暗くなる頃だし、まだそちらは雨が続いているの なら、今日の宿はBao Locで泊まったがいいかもしれませんね」という連絡が届きました。私も「そうですね。ではそうしましょうか」と、一度はBao Locに宿を取ることにしようと思いました。でも6時を過ぎた頃、ようやく雨が止みました。山元さんに「こちらは雨が止みましたが、そちらはどうですか」と訊くと「Dong Naiのほうは雨は降っていないよ」との返事。
それを聞いて「では、Bao Locに泊まるとまた一日遅れるので、それは止めて、このまま一気にDong Naiまで突っ走ります!少し遅くなるかもしれませんが待っていてください」と言いますと、山元さんも 「了解!くれぐれも気を付けてきてくださいね」との返事を頂きました。 私自身は(今晩久しぶりに山元さんに会えるのだ!) と思うと実に嬉しくなりました。それだけに、 (暗くもなるし、慎重に運転しないといけないな)と自分を戒めました。
そして、夜の7時前に「ここはDong Nai省」と書いてある看板の前を通過しました。 そこからBさんの家までどれくらいの時間が掛かるか、ここらの地理に詳しい山元さんなら分かりますので、すぐに連絡しました。夜7時半に、「Dinh Quan 教会」の名前がある教会前を通過した所で山元さんにまた連絡。山元さんが そこからの道順を教えてくれましたので、その通りに進み、「Ngoc Dinh」と言う名前が書いてある道路に入りました。 (ここまで来ればもう大丈夫だろうな。すぐに山元さんに会えるぞ!)と嬉しくなりました。
しかし、山元さんからは事前に「この村に渡る新しい吊り橋が出来ているので、その吊り橋を渡ってください。その近くに迎えに行きますので」 と言うアドバイスを頂いていたので、その吊り橋を探していたのですが、なかなか見つからないのです。以前は、元日本兵古川さんの次女・Bさんの家族が住んでおられるThanh Son村に行くにはフェリーに乗らないといけませんでした。それが今はフェリーに乗る必要はなくて、新しく出来た吊り橋を渡ればそこに行けるようになりました。
暗くなってきたこともあり、その吊り橋がなかなか見つからないので、山元さんに再度連絡しますと、「分かりました。今からそちらに行きますので待っていて ください」と言われました。その間、また横道に入り、その吊り橋を見つけに 行きました。すると、ようやく吊り橋を見つけました。迷いに迷いましたが、 やはり山元さんが言われたように、吊り橋は有りました。
吊り橋の手前でバイクを停めたその時、「ここにいましたか!」と言う山元さんの声。後ろを振り向くと、バイクに乗ってニコッとした笑顔の山元さんがいました。子どもを後ろに乗せていました。久しぶりに山元さんの姿を見て、 嬉しかったこと、嬉しかったこと。ここからは、山元さんが先導でBさんの家に向かいます。途中の店で子どもがバイクから降りて、閉まっていたドアをガンガン叩いてビールを買おうとしましたが、店の人はもう寝ていたようでビールは買えませんでした。
そして、ようやくBさんの家に着いたのは夜の9時。しかし、Bさんとご主人のHoang (ホアーン) さんもまだ起きていました。いつもは夜8時過ぎには床に就くそうですが、私を待っていてくれました。お二人が「心配していたよ!」と 言ってくれました。私のためにまだ料理も残しておいてくれました。ビールも数本は有りましたので、再会を祝して皆で<乾杯!>しました。山元さんとのハノイでの劇的な別れと、ここDong Naiでの再会があり、Bさんと Hoangさんを交えての大変旨いビールとなりました。
この日は久しぶりに山元さんとの再会で話が弾みました。ハノイで山元さんと 別れてから、6日ぶりの再会でした。あれからいろんなことが有りました。途中でケガもしましたが、Dong Naiでまた会うことが出来ました。ケガのことはすでに山元さんには連絡していて、途中経過も報告していました。私と再会し、骨折などはしていないので安心されました。夜も遅くなり、田舎の人は朝が早いので私たちも寝ることに。翌日も一日DongNaiに泊まります。 この日、Nha Trang からDong Naiまでは380kmを走っていました。
★14日目:Dong Nai(ドン ナーイ)滞在★
Dong Naiの朝は5時に起床。胡椒が這わせてある木々の間から朝日が射してきました。この日はどこにも行かず、またここに泊まるので、別に朝早く起きる必要もないのですが、田舎の人たちは早起きなので、つい私も起きてしまいました。山元さんはすでに起きておられて、庭の中を歩き周られていました。
この日は朝から市場に行き、食糧の買い出しをしに行くことに。山元さん、 Hoangさん、そして私の三人で出かけました。Hoangさんは私と同じ66歳です。山元さんが言われるには、Hoangさんは 『ベトナム戦争』当時の「グエン・ バン・チュー大統領」の政権下で、一時副大統領を務めた、「グエン・カオ・ キ氏」に顔がそっくりだということですが、後で私もインターネットで調べましたら、確かに似ていました。
目指すのは「Thanh Son(タン ソン)市場」ですが、そこに着く前に、路上でも いろんな食材が売られていました。ニワトリや魚や果物やヒキガエルまで有りました。20分ほどで「Thanh Son市場」に到着。食材が多かったですが、そのほかにもいろんな物が売られています。この日の朝・昼・夜の食材を買うの ですが、何を買うかはすべてHoangさんにお任せしました。Hoangさんは肉・キノコ・野菜などを買っていました。山元さんと私でその費用を折半しました。
この日の朝ご飯は、ベトナムでは朝食の定番でもある、フランス・パンに具を 挟んだ「Banh Mi(バイン ミー)」とアイス・コーヒー。朝飯を食べている眼の前で、アヒルが遊んでいます。Bさんがエサを与えています。その光景を見ているだけで、何か嬉しくなってきます。久しぶりに移動が無い日がここで出来ましたので、旅の疲れが癒されました。山元さんがここの家族たちと懇意にされているからこそなのですが、外国人の私をも気持ちよく迎えて頂きました。
この日は特に何もすることなく、朝から畑の中をブラブラ歩いて果樹を眺めたり、近くの家を訪ねたりしました。山元さんは家のすぐ下を流れている小川に行き、魚釣りをされていました。一匹も釣れませんでしたが、のどかな時間が流れました。お昼になり、ご飯を食べながら、山元さんとビールで<乾杯!>。 昼間にビールを飲むことは今回の旅では一度も無かったのですが、この日はどこにも行かないので、無事にここDong Naiまで二人が着いたことを祝い<乾杯!>しました。午後は暑いので、何もすることも無く昼寝三昧。牛、ニワトリ、ヒヨコの鳴き声しか聞こえません。
夕方5時になり、市場で買った材料で、Bさんが鍋料理を振る舞ってくれました。大変美味しく、ビールもすすみます。良く考えたら、ここまでの14日間の旅の 中で「朝・昼・晩」と一日三食を摂ったのは、ここBさんの家が初めてのこと でした。「暗くなる前に目的地に着かないと!」と言う山元さんの助言に従い 、朝は早起きして荷物を畳み、昼飯を摂ることも無く走り続け、夕方着いた 場所でようやく晩ご飯を摂るパターンが続いたのです。それだけに、ここでは のどかな時間が流れました。
★15日目:Dong Nai(ドン ナーイ)⇒Sai Gon (サイ ゴン)★
朝5時半に起床。Bさんがラーメンを作ってくれたのでご馳走になりました。今回の旅では二度目の朝食です。朝のラーメンが胃袋に沁みます。部屋の外のテーブルで食べていましたが、すぐ目の前には大きな木があり、それには胡椒が絡ませてあります。その胡椒が実を付けているので、手でむしって実を落としてラーメンの中に入れてみました。すると、これが大変美味しくて、ラーメンの味も引き立ちます。
(そうだ、この生の実を少し頂いて、サイゴンの家の屋上で鉢植えにでも出来ないかな・・・?)と思い、Hoangさんに訊くと「それは難しいかもね。この実から果たして芽が出るかどうか分からない。それに、胡椒というのはこうして大きな木に巻き付いて上に伸びていくのだからね」と言われたので、実を頂いて持ち帰るのは諦めました。
Bさんとは今年Cai Beで行われる「古川さんの家での法要」での再会を約束しました。今年の「古川さんの家での法要」は、2月29日(土)に執り行われました。Bさんの家族の方たちにお礼を述べて、山元さんと私は一路サイゴンを目指しました。行きと同じく、山元さんが先にバイクを颯爽と走らせてゆきます。初日にサイゴンを旅立った時の光景を思い出しました。
7時45分に国道20号線に入り、La Nga橋の手前で山元さんがバイクを停めて説明してくれます。La Nga橋の上から見ると、「水上生活」で暮らしている人たちのイケスが見えます。8時45分に国道1号線に入りました。「HoChi Minhまで32km」 の標識が見えました。出発点でもあり、終着点でもあるBen Thanh市場前までもうすぐの所まで来ました。地下鉄工事中の高架橋も見えてきました。
「Bien Hoaまで19km」の標識の所を通過すると、Suoi Tien (スイ ティエン) テーマ・パークが見えてきました。この辺りには延々と続く地下鉄の高架橋が立っています。当初、この地下鉄は2020年に「開通予定」でしたが、まだまだ 「工事中」なのです。つい最近の新聞記事には「2021年末に開通予定」と載っていましたが、これもまた「予定」であり、「確定」ではなく、アテにはなりません。 いつ「正式開通」するのか、誰にも分かりません。
そして、だんだんとBien Hoa市内に入ってきました。私の前を走る山元さんの後ろ姿が大変カッコイイのです。山元さんは今回のバイクでの旅の間、いつも青い上着を着ておられたので、私が後ろから追い付く時に見つけ易かったのでした。9時45分、Bien Hoa市内に入り、見覚えのあるお寺が見えてきました。
ここら辺りから見覚えのある建物が徐々に現れてきました。見覚えのある建物の幾つかが「点」として現れ、だんだんそれが増えてきて「面」になってきました。 以前通った覚えのある道なので、道に迷うことはありません。この旅の間、 (今走っているこの道で間違いないのだろうか・・・?正しいのだろうか?)と不安な気持ちで走ってきましたが、知った道を走る時は何も考えなくても スイスイと走ります。
Thu Thiemトンネルを通過しました。遂に市内中心部まで来ました!そして、旅の出発地点のBen Thanh市場の建物が見えてきました。山元さんが先にそこを目指します。10時45分に、ようやくBenThanh市場前に到着!出発した時と同じ 建物がそこに有ります。早速、道行く人に頼んで、二人で「バンザイ!」して いる記念写真を撮ってもらいました。出発の時にはここでの二人一緒の写真は撮れなかったので、私たち二人にとって今回の<南北縦断の旅>を完走した記念すべき写真になりました。
さらに、Ben Thanh市場前に到着した瞬間の<山元さんの勇姿>も写真に収めました。とても「御年76歳」とは思えません。76歳でこれだけのバイタリテイーがある人はそうそうおられないでしょう。この旅の間、山元さんに長い行程を 同行出来た私は、ただただ感謝の言葉しか有りません。山元さんとは「また落ち着いたら会いましょう!」と再会を約束して、そこでお別れしました。
家に戻る前に、[HONDA]の代理店に立ち寄り、洗車とオイル交換をしてもらいました。本当に我が愛車「AIRBLADE」は良く頑張ってくれました!! ワンちゃんやお馬さんだったら抱きしめてあげたいぐらいです。この時は頭のほうをナデナデしてあげました。Dong Naiからは114kmで着きました。今回の「南北縦断の旅」の間、ガソリンを入れた回数は全部で37回、合計で1,594,000 ドン(約7,480円)。オイル交換がこの日を入れて3回。 サイゴン⇒ハノイ⇒サイゴンまでの全部の走行距離は「3,520km」になりました。
お昼前の11時30分、15日ぶりにようやく我が家に到着。その時、女房と娘は買い物に行っているらしく誰もいません。1時間後、二人が帰って来ました。そして、私の包帯姿を見て驚きました。ケガのことは二人には内緒にしていたからです。でも、傷も治っていた頃でしたので、二人も安堵した表情です。 女房には早速、傷の治療をして頂いたQuangBinh省の女医さんにお礼の電話をしてもらいました。
この日の夜、女房と娘には旅先で起きたことなどをいろいろ話して床に就き ました。そして、夜中の3時頃目が覚めました。天井をじーっと眺めていて、(あれ、ここはどこだ・・・?)と一瞬迷いました。自分がどこにいるのかが分からなくなったのでした。毎日が移動・移動の連続で、違う天井ばかり見続けてきたからでしょう。少しして、(あぁー、やっと我が家に戻ってきたのだなぁー)と気づきました。それから、すぐにまた深い眠りに落ちました。
そして、サイゴンに戻った2日後、15日間掛けて達成した「バイクでベトナム南北縦断の旅」の報告会を「スシコ」で行いました。そこには、山元さんほか友人・知人、同僚の先生を入れて、4人の方に来て頂きました。その中のお一人が、 私の友人から預かってきたと言う「石川文洋さん」の著書「日本縦断徒歩の旅 ~65歳の挑戦~」を持ち込んでくれました。その本は、私が日本にいる友人に頼んでいたものでした。
この本は「石川文洋さん」が65歳の時、徒歩で150日間かけて「日本縦断」 された時の記録です。私自身も、石川さんには昨年9月にサイゴンでお会いしました。それだけに大変愛着を感じた本なのです。早速それを一週間ほど掛けて読みました。この本の「終章 3300キロを歩き終えて」の中で、石川さんは 次のように書かれています。そして、私自身がバイクでの「ベトナム南北縦断の旅」を終えた今、私も同じような気持ちです。
“断言出来るのは「旅をして本当に良かった」ということだ。感動は人生の喜びと考えている。徒歩の旅は感動の連続だった。いろいろな風景を見て、良い人たちと出会い、新鮮な魚を食べ、旨いビールを飲んだ。まさしく天国へ行ってきたような気持ちだった。”
◆旅の終わりに◆
●40代の「挑戦」●・・・異国で働きたい
40歳の初め、私は我が社の夏合宿の引率でモンゴルに行きました。そこで、 強烈な刺激を受けました。(世界にはいろんな国が有るものだなぁ~)と思い、 いつか異国で働くことに「挑戦」したいと思い、44歳の時その夢が叶い、ここベトナムで働くことになりました。
●50代の「挑戦」●・・・「日本語教師」としてデビュー
日本では塾の教師として、小学生・中学生・高校生に教えてきましたが、ふと した縁で、ここベトナムの若者達に「日本語」を教えることになりました。 若い生徒たちに「教えること」は好きなので、「日本語の教師」としての面白さ、やりがいを感じ、昨年の9月まで「人材派遣会社」でベトナムの若者たちに日本語を教えてきました。多くの生徒たちとの出会いがあり、成長した生徒たちとの再会があります。それは「教師としての喜び」でもあります。そして、また今年の1月から新しい学校で教えることになりました。
●60代の挑戦●・・・バイクで「ベトナム南北縦断の旅」
今から10年前、今回の旅に同行して頂いた「山元さん」ほか、私以外に3名の方たちと(いつかバイクで南北縦断の旅をしたいですねぇ~)と話していました。 しかし、二人の方はベトナムを去り、一人の方はこの世を去られました。それで、 結局ベトナムに残り『ベトナム南北縦断の旅』を実行するのは山元さんと私の二人だけになりました。
昨年の9月に「そろそろバイクでの南北縦断に行きましょうか」と私が山元さんに 打診した時、山元さんが「よし、行きましょう!」と快諾されて、今回の旅が始まり、無事に終わりました。結果として、2020年を迎える前に、長年来の“夢” を果たすことが出来ました。
◆その一生は“永遠の青春”・・・。愉快・痛快・爽快の人生を貫いた「山元さん」◆
今回の「バイクで南北縦断の旅」の記録を全部書き終えたのは2月初めでした。 そして、2月11日に「驚天動地」の報せが友人から私に届きました。何と「山元さんが2月3日未明に、日本で逝去」されていたのでした。享年77歳でした。
昨年の10月に、私と一緒にバイクで<南北縦断の旅>をした、あの「山元さん」が 今はこの世におられないのです。壮健そのものであった「山元さん」のイメージ しかないので、最初にその知らせを聞いた時、愕然としました。どうにも信じられませんでした。
最初に私の友人からその報せが届いた時、思わず「ウソでしょうーー!!」と 叫びました。しかし、さらに、もう一人の知人からも同じ報せが届いたことで、(やはり、本当のことだったのか・・・)と、「山元さん逝去」の報せを“事実” として受け止めるしかありませんでした。
それで、山元さんと今回の旅の最初から最終日までを一緒に同行させて頂いた私は、今回の旅が終わるまでの部分を“完結編”と題し、 「山元さんの生前までの記録」として残したく思い、敢えて一字・一句・一文を 書き直したりせずに、そのままにしておきました。 最終的に、今回の『ベトナム南北縦断の旅』の記録は、山元さんへの「鎮魂歌」に なってしまいました。
そして、サイゴンで「山元さんのご逝去」を知った友人たちが2月25日に集まり、 <山元さんを偲ぶ会>を行いました。全員で11人の方が参加しました。やはり みんなが席に着くなり、「信じられないです!」と呟いていました。みんなも 私と同じ思いでいたのでした。友人から聞いた情報では、突然の山元さんの ご逝去は事故ではなくて、ご自宅で急に息を引き取られたとのことでした。 その最期は病床に臥せること無く、あっという間に旅立たれたのでした。
今思い出すのは、10年ぐらい前から私にも「不整脈があるんですよ」とは話されていました。それにしても、これほど急な展開になるとは思いもしませんでした。こちらベトナムでは、山元さんを知る人たち全員が驚き、悲しみに暮れています。2人で昨年バイクで走った<南北縦断の旅>が走馬灯のように 思い出されてきます。涙とともに・・・。山元さんからは「メソメソするな!」 と言われそうです。
私が山元さんと初めて知り合ったのは2005年のことでした。 その時のことは2005年4月号に<ベトナム戦争中にバナナを栽培していた日本人> として載せています。その最後の部分に、山元さんについて「その話し方の元気の良さは、聞いていてとうてい60歳代とは思えない若々しい情熱を感じたことでした」 と、私が受けた印象を書きました。その時は山元さん62歳の頃ですが、私の第一印象はそうでした(ちなみに、<南北縦断の旅>を終えた時、山元さんは76歳で、 昨年の11月に山元さんは77歳を迎えられました)。
しかし、それから15年が経ち、77歳になられても“若々しい情熱”は衰えること 無く、私が受けていた印象はその時のままでした。20歳の青春時代にベトナムに初めて来て、それ以来50有余年が経っても、山元さんは体力も精神も“青春”のままでした。その人柄は、いつも「元気」「快活」「明るい」「人に優しい」 「冗談好き」「几帳面」「律儀」「こころの寛さ」「恥ずかしがり屋さん」 「曲がったことが嫌い」・・・など、これらは生前の山元さんと親交を結んで いた方々が<偲ぶ会>で山元さんについて述べていた言葉です。
今回のバイクの旅の帰路で、Ha NoiからNhin Binhまで一緒に走ったNTさんは、 山元さんのことを「カッコいいオヤジさん」と呼んでいました。「元気の良さ」 という面で言えば、今回のバイクの旅で大雨に降られた中を二人でバイクに 乗って国道を駆け抜け、ようやくその日の宿に着いて荷物を降ろした時、私が「いやぁ~、さすがに今日は疲れましたねー」と言いますと、70歳の半ばを 超えた山元さんは「いいえー、ゼンゼン!」と、ケロリとして言われるのでした。 それを聞いて、つくづくと(どこまで元気な人なのだろう・・・)と感心しました。
私は山元さんに最初に出会った時の、山元さんの言葉を今でも鮮明に覚えています。 「飛行機でサイゴンに向かう日に両親が空港に来ました。それは見送りのためにではなくて、ベトナムに行くのを引き留めに来たのでした。戦争の状況が深刻になっている国に我が子を行かせたくないのは親の真情だったのでしょう。でもそれを振り切ってベトナムに行きました。その時は“何でも見てやろう!”と言う気持ちでしたよ」と。そのように、私には話してくれました。
それ以来、山元さんとは15年にも亘るお付き合いが始まりました。その当時のことから今に至るまでのさまざまな歴史を、会うたびにいろいろ聞かせて頂きました。その当時ベトナムに来ていた人たちは山元さん以外にもたくさんいたのでしょうが、日本に戻られていたり、すでに亡くなられていることでしょう。私たちにその当時のことを親しく話して頂けるのは、このサイゴンにおいては、ただ山元さんお一人だけでした。
多くの人たちは、山元さんが持っておられた天性の「明るさ」「快活さ」 「元気良さ」「優しさ」に魅かれて、こころからの親交を結んでいました。 山元さんは年齢・性別・仕事の職種など関係なく、多くの人たちを受け容れる 「寛容さ」をお持ちでした。また、人の悪口なども一切言われない方でした。 「優しさ」について言えば、路上の屋台に腰を屈めて「宝くじ」を売りに来る 「おじいさん」「おばあさん」にまでも、その「優しさ」は及んでいました。そういう「おじいさん」や「おばあさん」を見かけると、手招きして「宝くじ」 を買われていました。。
さらにもっと頭が下がり、感心したのは、Cai Be(カイベー)やDong Nai (ドン ナーイ)に住む、元日本兵・古川さんの家族や孫たちに、日本からベトナムに 戻る度に、毎回お土産を持参して渡されていたことです。私自身も直にその場面を見たことがあります。20代に享けた「古川さんご夫婦」の恩義を、50年以上過ぎても忘れないでおられたのですが、誰にでも出来ることではないでしょう。
私自身は山元さんから多くのことを学ばせて頂きました。いろいろな人をご紹介頂きました。あの「石川文洋さん」もそのお一人です。また、いろいろな所にも 同行させて頂きました。Cai BeやDong Naiも山元さんの紹介があればこそ訪問出来たのでした。そして、「最大の思い出」となったのが、昨年の10月10日~ 10月24日に掛けて、山元さんと一緒に果たした、バイクによる<ベトナム南北縦断の旅>の完走でした。
あの時の二人の旅の「最大の思い出」が「最後の思い出」になろうとは、誰が予想しえたでしょうか・・・。涙・涙の思い出になりました。 今回の旅は、山元さんと二人だけで果たした「最後の思い出」の旅になりました。最近「スシコ」に座っていますと、店の前にバイクで乗り付けて、今にも 「ヤァー、久しぶり!」と右手を挙げて山元さんが現れて来られそうです。 路上屋台の「スシコ」に座り、ふと頭を上げるとお月さまが輝いていますが、そのお月さまに山元さんの笑顔が重なってきます。ニコッとした笑顔で、 山元さんはいつも微笑んでおられます。
昨年私が山元さんに「私も学校の仕事を一旦辞めますので、 いよいよ念願の<バイクで南北縦断の旅>をやりましょう!」と話した時、 「いいですよ!では“善は急げ!”で、早く行きましょう!」と快諾されて、旅立ったのが10月10日でした。結果として、また先延ばししていたら、永遠に 実現出来ない「夢」のままで終わるところでした。その<南北縦断の旅>を 実現させて約3ヶ月半後に、山元さんは天国に旅立たれました。
私のこのベトナム生活23年の人生において、山元さんほど大きな影響を受け、 ベトナムの歴史について語って頂き、ベトナムで元気に生きる活力を与えて頂いた人はおられません。それだけに山元さんがこのサイゴンにおられない今、 いや天国に旅立たれた今、限りない寂しさを感じている毎日・毎日です。私はこれからもずっと、生前の山元さんから享けた大きな“恩”を忘れることは 出来ないでしょう。山元さん、本当に、本当に有難うございました!!
“謹んで故人のご冥福をお祈り致します!!山元さん、安らかにお眠りください!!”
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
ハノイとホーチミン、休校期間を再延長
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策の一環として適用されている休校措置に関連し、ハノイ市人民委員会は幼稚園・小中学校・高校の学校再開について保護者の意見聴取を実施した上で、休校措置を3月8日まで延長することを決定した。
ただし、1クラスの生徒数が比較的少ないインターナショナルスクールについては、各国大使ならびに学校側の責任者の要求に応じて3月2日からの学校再開を認める。
一方、ホーチミン市人民委員会は幼稚園・小中学校・高校の学校再開について保護者の意見聴取を実施した上で、休校措置を3月15日まで延長することとし、高校3年生については高校卒業 兼大学入学統一試験(国家統一試験)を考慮して休校措置を3月8日までとすることを決定した。新型コロナウイルス感染症対策の一環として、全国の教育施設ではテト(旧正月)明けから休校措置が適用されている。
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
最近のベトナムの新聞記事は「コロナウイルス」関係の記事がオンパレードで、あまり私の興味を惹く記事がありません。それで、先月号の「BAO」はお休みしました。しかし、それから一ケ月が経っても同じような状況が続いていて、全然変わりません。新聞の一面は「コロナウイルス」関係の記事が続いています。
今のところ、私の周囲に「新型肺炎」に罹った人はいませんが、子を持つ親の関心事、心配事は「新学期」のスタートが大変遅れていることです。2020年の<テト休み>は1月23日(木)から1月29日(水)まででした。それが終われば「新学期」が始まるのでしたが、「新型肺炎」の影響で<テト休み>が終わってもサイゴン市内の学校は閉じたままでした。
さらに2月に入っても、最初の1週目は休校。2週目も休校と続き、とうとう2月いっぱいが休校になりました。その「休校」の連絡は保護者宛てにメッセージで届くのですが、それが来るのは土曜日か日曜日でした。3月になってもそのような状況は同じです。3月に入って1週目の6日(金)に、今高校3年生の娘に訊くと「来週からは学校が始まるよ!」と話していました。本人も私たちもそのつもりでいました。学校への送り迎えがあるからです。
翌日の3月7日(土)、翌々日の8日(日)のお昼にも「来週から本当に学校は始まるのかな?」と確認しました。娘は「友達みんなもそう言っているから9日からは始まると思うよ!」と話していました。すると、何と8日夜の8時になって、学校名の発信で
「来週もお休みします!」という連絡が女房に届きました。 また3月15日までお休みになったのでした。
この記事にあるように、それを決めるのは「人民委員会」のようですが、夜遅くまで激論を戦わせて、そういう結論を下したのでしょ う。しかし、その15日が明けた次の週に、果たして学校が始まるかどうかもまだ分かりません。
夏休みのようにはっきりと決まった休みが有る場合は、生徒たちも そのつもりで休みを過ごし、新学期のスタートに備えますが、今回 のように「いつ学校が始まるか分からない」ような状況では、生徒たちもその週の予定が立てにくくて困っているようです。また高学年になると、「勉学の遅れの不安」や「友達に会えない寂しさ」も感じているようです。学校がお休みになったといっても旅行にも行けず、終日家にいるので、高学年の子どもたちはストレスも溜まることでしょう。
しかし、幼稚園児ぐらいの年齢になると「毎日がお休み」状態とい うのは大変嬉しいらしく、一日中遊びまわり、朝からテレビで「ドラえもん」のアニメを見ています。近所の子どもたちは男の子も女の子も、子ども用の自転車を乗り回し、路地の中で嬉々として遊んでいます。女房の実家には保育園に通う男の子と女の子がいますが、「学校に行きたい?」と訊くと、二人とも 「行きたくなーい!」と大きな声で答えます。毎日・毎日楽しそうに遊びまわっています。
普段でも休みが少し長く続くと、遊び暮らした休み明けに学校に連れて行こうとする時、毎回「行きたくなーい!」と駄々をこねて泣き喚くのです。今回のように長すぎる休みが続くと、いざ学校が始まった時、どういう反応をするか、今から眼に見えるようです。
またかの国から発生した「コロナウイルス」ですが、いつになったら収まることやら・・・。毎年4月半ばに私は日本に帰国していたのですが、今年の日本への帰国にも影響が及ぶのではと心配しています。早く事態が鎮静化してくれることを願うばかりです。