春さんのひとりごと
『全社会の隔離』解除後の再会~山元さんの「百ヵ日の法要」
今年の私の「日本帰国」は不可能になりました。ベトナムに来て以来、毎年4月半ばから5月末までの期間で日本に帰国していました。今年はその間の日本行きの飛行機自体が飛んでいない状況なので、今年の「日本帰国」は諦めました。帰国する予定で組んでいたこともいろいろ<変更>しないといけなくなりました。
<変更>で言えば、ベトナムの公立の学校の<休校>が<変更>続きで、高校と大学の授業が始まったのが5月4日からでした。1月24日から「テト休み」に入り、それ以来<休校>が続きましたから、3ケ月以上の休みになりました。小学校と中学校は5月11日からスタートしました。
そして、ベトナム全土で4月1日から始まった『全社会の隔離』は、サイゴン市内は結局4月22日まで続き、4月23日からようやく<解除>されました。でも、<解除>と言っても全ての店が<解除>された訳ではなく、カラオケやディスコなどはまだ<休業>状態ですので、<緩和>と言うべきでしょうか。街中を走るバイクの数も徐々に増えてはきました。
しかし、<解除>後に市内中心部をバイクで走ると、かつての繁華街だった通りのシャッターが下りている店が多いこと、多いこと。自分の持ち家で商売をしていた人は、家賃代は要らないのでまだ何とか持ちこたえても、店を借りていた人たちは家賃代も払えないでしょう。「休業」⇒「廃業」⇒「失業」という状態でしょう。
『隔離』の期間中はお客が多く集まる店は「休業」でしたから、レストランなども「お持ち帰り」のサービスが提供出来ない店は「休業中」は収入ゼロ。日本の「休業要請」は「強制力」も「罰則」も無いので、それを無視して営業しているパチンコ屋もあるそうですが、ベトナムでは公安警察が眼を光らせていますので、「罰則」を恐れてみんな守ります。
しかし、今回はいろいろな「予定」が変更になりました。変更になった「予定」の中で大変残念だったのが、「石川文洋さんの来越」が実現出来なかったことです。本来であれば、「石川文洋さん」は、4月30日に行われる予定の「南部解放45周年記念式典」に参加されるはずでした。
今年が「南部解放45周年」になるので、サイゴンでは「南部解放45周年記念式典」が行われる予定でした。石川さんご自身も「今年は南部解放45周年になるので、サイゴンに行きますよ」と以前私にも話されていました。しかし、結果としては、やはり「ベトナム入国」自体が実現しませんでした。私自身はその「45周年記念式典」自体には興味・関心は無いのですが、石川さんにお会い出来ればそれだけで嬉しかったのです。
私は石川さんには2015年4月末にサイゴンで初めてお会いしました。その時、「石川文洋さんを囲む<トーク・ショー>」を行いました。それが終わった後、次は「スシコ」で「石川文洋さんを囲む宴会」を行いました。その翌日には<戦争証跡博物館>で石川文洋さんの写真の記念式典が開かれるとのことで、私もそれに参加させて頂きました。<戦争証跡博物館>には、あの「ドクちゃん」も顔を出してくれました。
5年前にお会いしたその時にも、石川さんは「次の45周年記念にも、また元気な姿でベトナムに来たいです」と話されていたのでした。その時のことは【2015年5月号】<石川文洋さんに会う>に載せています。その後、石川さんに再会出来たのは2019年9月のことでした。市内にあるベトナム料理屋さんでお会いしました。その時には山元さんも一緒でした。
石川さんはベトナム戦争中にベトナムに来られました。その時の取材時に、Ca Mau(カー マウ)省の人民委員会を訪問されましたが、その人民委員会に自分が使っていたカメラを進呈されたことがありました。そのカメラをKhoa(コア)さんという男性が大事に保管されていたのでした。そのKhoaさんはフォト・ジャーナリストの村山さんとふとしたことで知り合いになり、石川さんが9月にベトナムに来ることを知ると「是非会いたいです!」と村山さんに連絡が来ました。
この時村山さんは日本にいました。それで、村山さんから私に「石川さんとKhoaさんが再会出来る日と場所を設けて欲しいのですが・・・」と言う連絡がきました。しかし、私から直接石川さんには連絡が取れないので、山元さんを介してそのことをお願いしました。そして、それが実現したのが9月半ばのことでした。
石川さんはご自分がCa Mau(カー マウ)省の人民委員会にカメラを進呈されたことはすっかり忘れておられました。何せ、50年近くも前のことなのです。そして、その日、その席にKhoaさんが登場されたのです。Khoaさんはカバンからカメラを大事そうに取り出し、テーブルの上に置きました。石川さんはそれをじーっと見て、眼を丸くして「ワァー!」と叫ばれました。そして大喜びされました。自分の愛機でしたからすぐに分かったそうです。
自分が確かに人民委員会に進呈したカメラであることを思い出されたのでした。石川さんの感激は言うまでも有りません。さらには、Khoaさんも嬉しそうな表情で肯いています。その場に居合わせた私たちも、何かドラマを見ているようで感動しました。しかし、Khoaさんは良くぞ、50年近くも石川さんのカメラを保管されていたものだなぁーと感心しました。
その石川さんに、私自身は今年もまた会えるだろうなぁーと期待していただけに非常に残念でなりませんでした。4月30日のその日、私は「実際に記念式典が行われているのか、いないのか」を確かめるために<統一会堂>前にバイクで行ってみました。午後2時半過ぎにそこに着きました。やはり、何も有りませんでした。誰も集まっていませんでした。しばらくその前に立っていましたが、車、バイク、人通りも少なく、大変静かなものでした。「45周年記念」の立て看板だけが木に立て掛けてありました。
5年前、「南部解放40周年記念式典」に国内外の要人や報道関係者を集め、この「統一会堂」前でパレードを行い、「記念式典」を盛大に行っていました。しかし、この日、この時も「多人数が集まることは禁止」されていますので、(結局今年の式典は中止かな・・・?)と諦めました。私の女房に訊いても「今年は無いわよ!」との答えでした。
しかし、後で村山さんからの情報で、「オンライン形式で各会場をつなぐ式典」が行われたというのを知りました。その映像を見ましたが、小会場に分散して、確かに「式典」自体は行われたようです。でも、そういうやり方では、やはり盛り上がらない「式典」になったことでしょう。私が毎日読んでいる翌日の新聞にもそれらしき報道は載ってなかったので、取材した人たちも限定された人たちだけだったと思われます。「オンライン形式で式典」の情報のURLはこちらです。
今回の『全社会の隔離』期間の間はどこにも行かず、いや行けず、友人・知人たちとも全く会うことが出来ませんでした。それぞれが家から外に出れない状況に陥っていたからです。そして、『全社会の隔離』が解除された時、あの「さすらいのイベント屋の中村さん」から「5月9日(土)にサイゴンに行きます!」と言う連絡が届きました。中村さんはその翌日の10日にサイゴンで行われるマラソン大会に参加される予定なのでした。
その連絡を受けた私は大変嬉しくなりました。実は、3月28日に「山元さんの四十九日の法要」を予定していたのが、一カ所に外国人が多数集まることが難しくなり、一旦延期しました。その後すぐに『全社会の隔離』の通達が出されてますます皆が一同に集まることが出来なくなり、そのまま5月を迎えたのでした。
中村さんからその連絡を受けた私は(5月9日に中村さんがサイゴンに来られるのであれば、「スシコ」で「山元さんの百ヵ日の法要」を行おう!)と決めました。その日は、山元さんが亡くなられて96日目になっていたからでした。5月9日は土曜日なので、皆さんたちも集まりやすいだろうと思い、2月25日に行った「山元さんを偲ぶ会」に参加したメンバーの方たち数人に連絡しました。「密」を避けるためもあり、多くの方に声掛け出来なかったのが残念でした。
それで、その日に集まることが可能な確定したメンバーが、私を含めて5人になりました。中村さん、家具屋のABさん、映像関係のNTさん、瓦屋のHKさんなどでした。その日私は山元さんの遺影を「スシコ」に持ち込みました。2月に行った「山元さんを偲ぶ会」で飾った写真と同じものです。その時の写真はCaiBeに置いてきましたので、その後また新しく現像し直しました。
その前日に、4区の「スシコ」の店長を務めているPhat(ファット)くんに「明日ここで山元さんの百ヵ日の法要を行うので宜しくお願いしますね」と頼みますと、彼は「分かりました。では遺影に供える果物を準備しておきますね」と言ってくれました。Phatくんは「MICHIKO先生を偲ぶ会」の時にも、同じようにMICHIKO先生の遺影の前に果物を置いてくれています。有難いことです。
その「スシコ」は4月23日から営業を再開しました。再開はしましたが、「密集」「密接」を避けるために、隣同士のテーブルの位置を離して置くことにしたので、以前よりも席数が少なくなりました。「スシコ」が再開したことは特に告知もしなかったようですが、周りにはまだ「休業」中の店も数多く有るので、その日は満席になりました。
あらためて見回してみると、まだ営業を再開していない店や料理屋などが数多くあります。『全社会の隔離』期間中、店を閉め、従業員たちは田舎に帰っていたことでしょう。「休業補償」を従業員たちに補償していればすぐにまた復帰して、営業が再開できることでしょう。しかし、そうでない場合は、『隔離』が<解除>されてもすぐには開けないのでは・・と思いました。
「スシコ」のすぐ隣の店もそうでした。その店は『隔離』の前は「焼肉BBQ」の店でした。お客さんも欧米人やベトナム人のお客さんが多く来ていて、大変繁盛していました。しかし、『隔離』が<解除>された後、「スシコ」が再開した後も、その店はまだ開かずにずっと「休業中」でした。そのまま「廃業」かな・・・?と想像していました。
その影響をもろに受けていたのが、以前そこで飼われていた多くのネコちゃんたちです。親ネコ&子ネコを合わせて9匹もいました。しかし、そこで働いて、時に彼らにご飯を与えてくれていた従業員たちが全員いなくなりました。9匹のネコちゃんたちの世話をしてくれる人が誰もいなくなったのでした。
そのネコちゃんたちが、営業を再開した「スシコ」に進出してきます。「スシコ」のスタッフは優しいので追い払いません。それはいいのですが、ネコちゃんたちはお腹を空かせているので、お客さんたちから食べ物をねだります。子ネコちゃんたちは足元にすり寄って、催促するようにシッポをお客さんたちの足に巻き付けてきます。(一人だけで食べないで、ワタシにも何か頂戴ニャォ~~!)という仕草で。
お客さんの足元ならまだしも、いつも同じ場所に座る私の場合は、営業後数日でどうやらネコちゃんも私の顔を覚えたらしく、膝の上にサッと飛び乗って、そのまま座り込んでしまうのでした。私はいつも「タマゴ焼き」を注文するのですが、今眼の前にあるその「タマゴ焼き」が子ネコちゃんのお目当てです。それを頂くまでは、彼女(彼かな?)は私の膝の上から下りません。私が注文した「タマゴ焼き」はこうして、毎日ネコちゃんたちのお腹の中に消えてゆきました。
(早く隣の店が再開してくれないかなぁ・・・)
と期待していました。ずっと「休業中」だと、私が頼んだ「タマゴ焼き」はずっとネコちゃんたちが食べてしまうことになります。すると、ようやくその隣の店が再開したのは「スシコ」が再開してから一週間後のことでした。その後、ほとんどのネコちゃんたちはその店に戻りましたが、何匹かの子ネコちゃんはまたねだりに来ます。まあ、子ネコちゃんはこころを癒してくれるので、それでもいいのですが・・・。
そして迎えた5月9日、私は夕方6時には「スシコ」に着きました。すでに中村さんは到着されていました。その後HNさん、NTさんが到着。さらには飛び入りで、HNさんと同じ瓦屋関係の繋がりでOanh(オアン)さんとその娘さんのThao(タオ)ちゃんまでも参加してくれました。少し遅れてABさんが到着したところで、全員に線香を渡し、「山元さんの遺影」に向かい<合掌>しました。山元さんの遺影の横に、山元さん愛飲のBia SAIGONをグラスに入れて供えました。
それが終わり、今回の大騒動の中、全員がここに集合し、全員が健康に過ごせたことを祝い<乾杯!>。今回の『隔離』期間中の過ごし方をいろいろ話してくれました。ほとんどのみなさんが「自宅待機」状態で家の中で仕事をされていましたが、中でも感心したのがNTさん。彼は路上生活者や街中で見かけた困窮者に弁当を配るボランティア活動をされていました。自分も困窮している状態でありながら、スゴイ日本人です。
私の教え子の女子生徒の中にも、今回の『隔離』期間中に自分で1200枚の「布マスク」を手縫いして、それを貧しい人たちに配りましたという子がいました。私が教えている学校は5月4日から始まりました。その日に入った授業で「休みの間はみなさん何をしていましたか?」と訊いた時、みんながいろいろ答える中で、そういう答えをした子がいたのでした。各自が大変な状況の中でも、そういう人助けをしていた生徒が実際にいたのでした。
この日「山元さんの百ヵ日の法要」に来て頂いた人たちといろいろ話しながら、「山元さんの遺徳」と言う思いがしてきました。眼の前にいる人たちは日本では全然知ることは無く、このサイゴンで初めて出会った人たちです。その人たちが山元さんという一人の存在を通して、この日、この場所に集まってくれました。
そして、「百ヵ日の法要」の次は「山元さんの一周忌」になりますが、その時にもまたこうして集まってくれることでしょう。今回集まって頂いた方々のほとんどはサイゴンに住んでいますが、中村さんはハノイに住んでおられます。今回はダナンから飛んで来られましたが、そういう遠い道のりをものともせずに駆けつけて来られます。全てこれ「山元さんの遺徳」と言うほかありません。
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
南部解放の日~ベトナムの4月30日~
4月30日は、 南部解放の日(Ngày Giải phóng miền Nam) 、または 統一の日(Ngày Thống nhất) にあたります。日本語では一般的に、南部解放記念日と訳されています。第二次世界大戦以降、長年にわたり分断されていたベトナムが、1975年のこの日に統一されました。
翌日5月1日はメーデーの祝日。ベトナムの祝日数は年間10日間しかありませんが、テト(旧正月)の以外で毎年必ず連休になる唯一の機会です。
【南北分断、そして南部解放】
ベトナムはフランスの植民地となっていましたが、第二次大戦中はドイツに敗北したフランスに成立したヴィシー政権と日本の二重統治に。そして第二次世界大戦終結を受け、1945年8月17日にベトナム八月革命が起こり、9月4日に社会主義国家「ベトナム民主共和国」 が成立。ホー・チ・ミン氏が初代国家主席に就任します。
しかし、1946年になるとフランスは再びベトナムへの支配を強め、ベトナム南部にフランス傀儡国 「ベトナム国」(南ベトナム) を成立させます。これにベトナム民主共和国が対抗して第1次インドシナ戦争が勃発。米国の支持を受けていたフランスがディエンビエンフーの戦いで敗北し、1954年7月21日にジュネーブ休戦協定で戦争は終結しました。
このジュネーブ協定では、 北緯17度線を軍事境界線として、ベトナムを北の共産主義国と南の親西側陣営国に「一時的に」分割し、両軍の兵力分離を図ってから全国統一選挙を実施するということになっていましたが、米国と南ベトナムが調印を拒否。その後、南ベトナムでは米国の支持を受けたベトナム共和国が成立し、以降1975年まで分断国家の状態が続いていきます。
冷戦を背景に米国が軍事介入したことで泥沼化したベトナム戦争ですが、1973年に米国が全面撤退を決めます。同年のパリ和平協定で「停戦」が謳われたことなどで全面攻撃を踏みとどまっていた北ベトナムですが、1975年3月から全面攻撃を開始。米国からの大規模な軍事支援が途絶えていた南ベトナムは十分な抵抗ができず、中部から南部に向かって主要都市が次々陥落します(そのため各地に「解放記念日」があります)。
南北の和平交渉は続けられていたものの、南ベトナムの大統領が次々と変わる事態となり決裂。 4月30日朝、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が大統領官邸からテレビとラジオで無条件降伏を宣言した後、午前11時30分にベトナム軍の戦車が大統領官邸(現在の統一会堂)に突入。 南ベトナムは崩壊しました。これが「サイゴン解放」=「南部解放」です。
【南部解放記念日には何がある?】
舞台となったホーチミン市や首都ハノイをはじめ大都市で記念式典やイベント、歌謡ショーなどが開催されます。但し、共産党が主導となるイベントで娯楽性は高くないため、一般の人々にとっては、数少ない連休で、心置きなく遊びにいける日というイメージのほうが強いかもしれません。国内の娯楽施設や観光地はどこも大混雑します。年中ほぼ無休で営業している屋台や個人商店もこの日はお休みだったりします。
そして、市民が一番楽しみにしているのは 花火 かもしれません。ベトナムでは花火の打ち上げに厳しい規制があるため、大きな打ち上げ花火が上がるのはテトと南部解放記念日、 建国記念日 ぐらいです。ホーチミン市では30日の夜9時から15分間打ち上げられます。また、他の省・市ではそれぞれの地域の「解放記念日」に花火が打ち上げられることがあります。
【すべてのベトナム人にとっての「解放」ではない】
南北統一は北が南を解放するという形となっていますので、解放戦線に共鳴していた人々を除き、南ベトナムの人々にとっては戦いに敗れた日でもあります。戦後にベトナム国外へ逃れたベトナム人たちは、この日を「サイゴン喪失の日」と呼んでいます。
北ベトナムを支持していた人々にとっては待ち望んだ喜びの日ですが、南側の人々にとっては悲しみの日であり、敗北を目の当たりにし、戦後苦難を経験した人々が今もまだ健在です。戦後40年余り経って、戦争を知らない世代が多数派を占めるようになってきているとはいえ、複雑な心情を抱え続けている人たちがいるのだということを知っておいたほうが良いでしょう。
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
この記事にあるように、1975年「4月30日は、 南部解放の日、または 統一の日にあたります」。そして、その日、その時間、その瞬間に、今は亡き「山元さん」は<統一会堂>前で、戦車が<統一会堂>の正門に突入した、その場面を見ておられたのでした。「本当に、驚くような若い軍人が戦車に乗っていたよ!」と私には話されました。
その時の山元さんの表情は大変複雑な感じでした。何故なら、上記の<VIETJO>の記事の最後に書かれているように、その日から南に住んでいた人たちの「苦難」「困難」「悲惨」「地獄」が始まることになったからでした。涙無くしては語れない「ベトナム難民たち」の「悲劇」です。
私は今回のベトナム全土の『全社会の隔離」の期間中、三冊の単行本を読み終えました。その三冊の本は、実は生前の山元さんが私に貸してくださったものでした。山元さんの生前にはそれを読み終わることが出来ずに、遂にお返しすることが出来ないまま、山元さんは天国に旅立たれてしまい、結局その三冊の本は「山元さんの形見」になってしまいました。後で聞けば、私以外にも山元さんは多くの人たちに自分の本を貸しておられたようです。
しかし、今にして不思議なのは、私に貸してくださった、その三冊全てが「ベトナム難民」に関係した本なのでした。(どういう思いで私に貸して頂いたのだろうか・・・)と、今でも、「山元さん」の胸中を不思議に思っています。おそらくは、当時自分が住んでいた南ベトナムで知り合い、仲良くなった友人・知人たちが「ベトナム難民」となって、ベトナムから船に乗って国外に脱出し、さまざまな「困難」「苦難」に遭遇した境遇に思いを馳せたのでは・・・と想像しています。それを私にも知って欲しいという思いだったのではと思います。
その三冊の本の題名は、一冊目「ベトナム人の旅(小久保晴行 著):副題・本書を南海の藻屑となった名も知らぬベトナム人たちの霊に捧げる」、二冊目「冷たい日本人(前川誠 著):副題・君は難民の叫びが聞こえるか」、三冊目「ベトナムの難民たち(藤崎康夫 著)」です。その一冊、一冊、三冊すべてが大変重苦しい内容でした。涙が溢れる箇所がたくさん有りました。
日常の平穏な生活が破壊され、漁船に乗って海に脱出したベトナムの人たち。山元さんは身近にそういう悲惨な運命に陥った人たちの存在を知っておられただけに、革命後の政権のやり方には憤りを抱いておられました。ベトナム戦争が終わっても、山元さんの気持ちの中では、「北は北、南は南」という感じで距離を置いておられました。それが、バイクでの「ベトナム南北縦断の旅」を二人で果たし、やっとハノイに着いた時、山元さんはわずか一日だけの滞在で、怒り心頭に発してハノイを去られた理由だったのかもしれません。
この三冊の本の中には実に悲惨なエピソードが出てきます。小さな漁船に満員の状態でベトナムの港を離れて、しばらく経つと水が尽き、食料が尽きてきます。船体が小さいので、水や食料を大量に積み込むことが出来なかったのです。すると、大人たちも子どもたちも、何も飲む物が無くなり、食べる物も尽きます。当然船内では病気や飢えで亡くなる人たちが出てきます。
船内にまだ生き残った人たちは生き延びるために、自分の尿を飲み、亡くなったお父さんの肉までも食べて生き延びるような場面が書いてあります。そのお父さんは自分の死期が近いことを知り「自分が死んだ後は、みんなが生き延びるために、私の肉を食べてくれ」と言い遺して逝ったそうです。この場面を読んだ時、しばらく顔を上げることが出来ませんでした。
「当たり前の、平穏な日常生活」が破壊されるという点では今回のウイルスも同じですが、ウイルスはいつか収束が来ます。しかし、その時の「難民」の人たちはいつ自分たちを受け容れてくれて、安心して生活出来る国にたどり着けるかは分かりません。そういう悲惨な、当時の彼ら「難民」の悲惨な境遇に比べれば、今回我々が直面している騒動はいつか終わりが来るわけで、それを思えば「こんなことで負けてたまるか!」という気持ちにさせられました。