春さんのひとりごと
元日本兵・古川さんの奥さんの16回目の法要
今年もCai Be(カイ ベー)で行われた「元日本兵・古川家の法要」に参加させて頂きました。今年は「元日本兵・古川さんの奥さんの法要」でした。古川さんの 奥さんは今から16年前の、2004年の2月9日 (旧暦)に亡くなられました。今年の 法要はその奥さんの命日に近い、旧暦の2月7日、新暦では2月29日(土)に行われました。
実は、故・山元さんから最初に聞いていた法要の日は、その1週前の2月22日(土) でした。山元さんがまだご健在で、日本に一時帰国される前、CaiBeの家族たちと打ち合わせて、最初に決めていた法要の予定日がその日でした。山元さんも そのつもりで日本に帰国されました。日本に帰国される前、私には「またベトナムに戻るのは法要の3日前ぐらいになります」と話されていました。
それで、(2月19日頃にはベトナムに戻って来られるだろうな・・・)と、私も 考えていました。それを受けて、私の友人たちに【今年の古川家の法要は2月22日】と、その日程で連絡しました。そして、「その日程で参加可能です!」 と言う人たちが、私の他に5人現れました。その中のお一人が、Ha NoiからNhin Binhまでバイクで私と一緒に走ったNTさんです。
NTさんはこのベトナムで映像関係の仕事をされています。山元さんという、ベトナム戦争当時を知る稀有の生き証人に出会い、山元さんが青春時代を過ごしたCai Beの地で、直接山元さん本人にインタビューしながら【記録としての映像】を回すことに張り切っておられました。そして、誰もが山元さんは 2月19日頃にはサイゴンに戻って来られるものと思っていたのでした。
そして、2月11日、私に「山元さんが日本で逝去されていました」との報せが友人から届き、状況が一変しました。「山元さん逝去」の事実を知った友人・ 知人から次々と連絡が有りました。古川さんの次男・Vu(ヴー)くんからも 「山元さんが亡くなったというのは本当ですか?」と連絡が届き、私は「そう です。残念だけれど、本当のことです」と答えるしかありませんでした。Vuくんも電話口の向こうで絶句していた様子でした。
Vuくんと何回かメッセージをやり取りしていた時、今年の「古川家の法要」は 2月29日に変更していたことを初めて知ったのでした。(何で早く知らせてく れなかったの?)と思いましたが、ベトナムでは「結婚式の招待状」なども一週間前ぐらいに渡すのが普通ですから、そのことを責めるわけにはいきません。
しかし、恐らく山元さんは手回しが早いので、飛行機の切符は「2月19日サイゴ ン着」の便で予約されていたことだろうなと想像しました。その時点では日本におられた山元さんも、最初に決めた「2月22日」の予定が「2月29日」に変更になったことはご存じなかったのでは・・・と思います。
予定の変更は「古川家」側の都合ですから仕方がありません。今年法要の奥さんの命日が旧暦で2月9日なので、それに近い旧暦の2月7日を選んだのだろうな・・・とは思いました。しかし、「最初の予定2月22日」が「2月29日に変更」 になったことで、「どうしても参加出来ません」と言う方が4名現れました。
あの「さすらいのイベント屋の中村さん」とNTさんがそうでした。中村さんは 最初に決めた日程では「はい、行きます!」と言われていましたが、変更になっ た日を知らせると「残念ですが、無理です」と連絡がありました。NTさんには昨年も「古川家の法要」について声を掛けていたのですが、昨年は参加出来なくて、今年初めて参加する予定で楽しみにされていました。
私にも、「Cai Beで山元さんを撮影します!」と張り切っていたのですが、それ も不可能になりました。彼も実に残念がっていました。NTさんはしみじみと「やはり、チャンスを先延ばししていてはダメですねー。昨年参加すれば良かったけれど、遂に山元さんを映像で残すことが出来なくなりました」と、後で私に話してくれました。山元さんの波乱万丈の人生を聞いているだけに、NTさんも本当に残念がっていました。
それで、最終的に今年参加する日本人は私とKSくんの二人だけになりました。 KSくんは3年前の「古川さんの42回目の法要」にも参加したことがあります。 その時には、我々より先発して、「法要」の前日に山元さんと二人だけでバイクでCa Beに行きました。我々は当日の朝バスで行きました。「古川さんの法要」に行く時、参加者が多い場合には「安全策」を採り、バスで行くことにしていました。
バスで行った時には、Mien Tay (ミエン タイ)バスターミナルまで行き、そこで案内の「古川家」の家族の一人と待ち合わせしていました。それからCai Be方面 行きのバスに乗り、My Thuan (ミー トゥアン)橋とCai Beの分かれ道の三差路のバス停で下車した時、そこまで山元さんと「古川家」の人に出迎えに来てもらっていました。フェリーで渡って「古川家」に行く時、道路が狭くて車は入れないので、参加者の人数分のバイクタクシーを、そこに手配してくれていたのでした。
今年は私とKSくんの二人だけになりましたので、事前に打ち合わせした時、 「今年は二人だけの参加でもあるし、バイクでCai Beまで行きましょう!」 と決めました。私とKSくんの二人がバイクで行けば、バイクタクシーの手配が必要無くなります。当日は法要の準備で忙しい最中でしょうから、「古川家」 の人たちに迷惑を掛けないで済むだろうなと思いました。
それで、出発は当日29日、朝7時に7区のロッテ・マート前にしました。例年なら ば、サイゴンを出発する時にはいつも山元さんに「今サイゴン市内を出ました!」 という連絡をしていたのですが、山元さんはもうおられません。それで、今回の我々の移動の様子はVuくんに連絡することにしました。Vuくんは前日にはCai Beに着いていました。
私が7時少し前にロッテ・マートに着くと、その数分後にKSくんも到着。二人で これからバイクでCai Beを目指します。事前にKSくんからCaiBeに行く場合の 二つのルートについて相談がありました。
① 国道1号線を下る。距離的にはこちらが短く、短時間でCai Beに着く。 但し、車やバイクの交通量が多い。
② 国道50号線を通る。国道1号線より距離が長く、時間が掛かるが交通量は 少ない。
「その2つのルートが有りますが、どちらにしましょうか?」とKSくんから 相談が有りました。毎年の「古川家の法要」はお昼前の11時半頃から始まります。Dong Naiに住む「古川家」の親族や地元の人たちはいつも先に着き、 私たちが到着してから宴会が始まるのでした。法要と言っても、お坊さんは 来ません。食事をしてビールを飲んで楽しく過ごします。それにカラオケも有ります。
それで、私はKSくんに「Cai Beに着くのがあまり遅くなると、皆さんを待たせるので申し訳ない。国道1号線だと何度も通っているので、到着時間が読めるし、遅くなることもないので、行きのルートは国道1号線で行きましょう!サイゴンに戻る時には、到着時間は何時でもいいので、その時の状況で考えましょう」と言いました。彼も「分かりました!」と同意してくれました。
KSくんと7時過ぎにロッテ・マート前を出発。彼はスマートフォンを持っていますので、Googleマップが利用出来ます。それで彼が先導してくれます。 いつも私はCai Beに行く時、5区の方面から行きましたが、今回は7区から出発 しました。すぐにNguyen Van Linh(グエン バン リィン)通りに入りました。 その通りを15分ぐらい走ると国道1号線に合流。
その後はCai Beまで行く時にいつも走っていた道順なのですが、やはり新しい建物が増えていて、以前通過した時に覚えていた建物が、道路の左右に無いかキョロ・キョロ見回しながらバイクを走らせました。そして、途中「Mekong Rest Stop」という見覚えのあるレストランが左手に見えました。
その前を通過したので、Cai Beに行くのは、今まで来た道順で間違いありません。 このレストランは、2009年2月に当時の「日本の皇太子殿下」、すなわち今の 天皇陛下がメコンデルタを御訪問された時に立ち寄られた所です。 私も一度だけそこに行ったことがあります。レストラン内にはその時撮った「皇太子殿下」 当時の御写真が掲示してありました。その時のことは【2012年2月号】<日本人が架けた二つの橋>で触れています。
8時45分、My Tho市内に入った時の目印となるロータリーが見えました。そこで、 Vuくんに現在地を知らせるために路上の茶店で一旦休憩。ロッテ・マート前からこのMyTho市内までは60km。VuくんにMy Tho市に着いたことを知らせました。 彼から「分かりました!」と返信が来ました。そこでコーヒーを飲んで、20分ほど休んだ後にまた出発。
ここからがKSくんが持っていたスマートフォンのGoogleマップが役に立ちました。 今までバスやバイクでCai Beまで行った時、国道1号線を走り、Cai BeとMy Thuan 橋の分かれ道になる三差路の地点でバスから降りたり、バイクでは左に折れて、 そこで山元さんたちと待ち合わせをしていました。そこからフェリー乗り場まで向かっていました。
それが今回は、メコン河沿いに作られていた道路をバイクで走ることになりました。この道路は確かにバスや車の交通量が少ないものでした。その道を二人でバイクで走っていると(あれ、この道は昨年通ったような・・・)という気がしてきました。見覚えのある、[Bia SAIGON]の工場が道路左側に有ったからです。 そのような工場は一つしか無かったので良く覚えていました。
昨年はDong Naiの古川さんの長女A(アー)さんの親族が車で行くことになり、私もそれに同乗させてもらいました。その時の運転手はCai Beに行くのが初めてだったので、道順が分からず、道行く人たちに何回も訊いていました。彼も車の中にはスマートフォンを置いていたので、Googleマップで位置を確認はしていました。しかし、その使い方が上手くなかったらしく、地理にも不案内だったので、大周りしていたようです。
昨年は先に着いていた山元さんから「今どこにいるの?」と何回も連絡が来ま した。しかし、今年はこの道路沿いに[Bia SAIGON]の工場を見たので、(あぁー、去年彼がグルグル回って探していた道路はこの道だったのだ!!正しかったのだ!)と、この時分かりました。メコン河沿いを通る道はほぼ真っすぐで、走りやすい道路でした。
10時半にCai Beのフェリー乗り場に到着。ロッテ・マート前からちょうど100km でした。この日、この時、多くの観光客がバスから降りてフェリー乗り場に集まっていました。ここから出る「メコン河クルーズ」に参加する人たちでしょう。 しかし、迎えに来ているはずのVuくんの姿が見えない。(ここに着くのが遅れているのかな・・・?)と思い、二人でフェリー乗り場前にバイクを停めていると、我々のほうに若い青年がツカツカと近づいて来ました。
そして、自分の携帯を出して、Vuくんの携帯電話の番号を見せました。それで、 (あぁー、おそらくVuくんは自分がここに来ることが出来ないので、この若者をここに来させたのだな)と分かりました。「二人の日本人がフェリー乗り場 に着くから、そこで待っていてくれ!」と、Vuさんから頼まれたのでしょう。その若者も、この日の「古川家の法要」に参加する一人なのだなと了解しました。
その若者が「次のフェリーで向こう側に渡ろう!」と言いましたが、私たちには 「古川家」に着く前にやるべきことが有りました。ビールや肉やお菓子などの 「お土産」を買う必要があったのです。7年前の2013年に「古川さんの三十八回忌」に参加した時に、私も古川さんの孫のXuan(スアン)ちゃんと一緒にCai Be 市場に行き、いろいろな食料品を買った記憶が有ります。それも、山元さんが事前に彼女に頼んでいたのでした。
3年前にKSくんが山元さんと先発でCai Beにバイクで来た時、山元さんは彼を連れてCai Be市場に行き、それらの「お土産」を購入されていたというのです。今回KSくんから「山元さんは、毎年の法要の前にはそのCai Be市場に行き、お 土産を買いますと話されていましたよ」と聞いて、そのことを初めて知りました。
山元さんはどこに行くのにも「手ぶら」では行かれない人でした。私も法要の前には山元さんがビールを買われているのは知っていました。後でそのビール代は折半していました。しかし、KSくんの話ではそれ以外にも、「肉やお菓子などをバイクに積みきれないほど買って古川さんの家に向かわれていました」と言うのでした。お菓子は、そこに来ている子どもたちのためです。
それで、フェリーに乗る前にそれらを購入する必要が有りました。島の中にも 「市場」は有りますが、小さい「市場」ですので、果たして欲しい物が有るかどうか分かりません。KSくんが「このフェリー乗り場のすぐ近くに、割と大きな市場が有ります」と言うのです。それで、その若者には「今から二人で買い物に行くので、ここでしばらく待っていてくれ!」と言って、二人で「市場」に行くことにしました。
「市場」はフェリー乗り場からすぐの場所にありました。KSくんも昨年山元さん と一緒にここに来たので知っていました。そこでは、羽をむしって茹でてある ニワトリを一羽。豚肉、お菓子類、それにビールを二ケース買いました。ビールの銘柄は、山元さんが愛飲されていたBia SAIGONです。費用は二人で折半しました。それをバイク二台に積んでまたフェリー乗り場に到着。
先ほどの若者が私たちの到着を待っていてくれました。すぐにフェリーに乗りま した。フェリーを降りた後、彼の先導で「古川家」に行くことに。島の中は番地も無く、クネクネと曲がった小道を進む必要が有りますが、ここではGoogleマップは役に立ちません。若者が先導してくれなかったら、我々二人だけでは難しかったでしょう。
「古川家」に近づくにつれ、お馴染みの建物や風景が見えてきました。いつもは この道を山元さんとともに進み、山元さんとともに「古川家」に着いていました。その山元さんはもうおられない・・・。「古川家」のほうからカラオケの大音響が聞こえてきます。果樹園に植えられている「竜眼の木」のトンネルを潜りました。今年もたわわに多くの実を付けています。そして、11時半に「古川家」に迷うこと なく到着。ロッテ・マート前からここまで110kmでした。
庭先にはテーブルが二つ出されていて、20人ほどがすでに座り、「法要の宴会」 が始まっていました。Dong NaiやChau Docの家族たちもすでに来ていて、テーブ ルに座り、食事をし、カラオケを歌っている最中でした。Vuくんもいました。 席に着いていた数人が近寄り、我々がバイクに積んでいた荷物を降ろしてくれて、 家の中に運んでくれました。
私は真っ先に、長男のTuan (トゥァン) さん夫婦の方に行き、二人の両手を握り 「山元さんが・・・」と話しかけましたが、後は言葉が続きませんでした。 涙を抑えきれませんでした。山元さんがすでに2月初めに亡くなられていたことは、すでに二人ともVuくんから聞いていましたので、それ以上の言葉は必要有りませんでした。
私自身は(今日は「古川さんの奥さんの法要」に来たのだ)とは分かっていたものの、(毎年ここにきていた山元さんはもうおられないのだ・・・)と、 あらためて思い、彼ら二人を見つめていました。彼ら二人も同じでした。下を 向いて涙を流していました。周りには多くのお客さんたちが来ていましたが、その時の気持ちは私たちだけに分かる、共通した思いでした。
その後、「古川さんご夫妻」と「澤口さん」の写真が飾ってある祭壇の部屋に入りました。この日ここに、私はサイゴンで現像した山元さんの遺影の写真を持ち込みました。この遺影は日本での告別式の時に飾られたものです。山元さんが40代の頃の写真だと思います。山元さんの最近の写真ももちろん有りましたが、その告別式の時の写真を現像しました。サイゴンで行った「山元さんを偲ぶ会」 でも、この写真を飾らせて頂きました。
その若かりし頃の遺影を、古川さんご夫婦の写真の下に飾りました。その横には、 山元さんの大親友の澤口さんが微笑んでおられます。
“やぁー、元(ゲン)ちゃん、えらく早く来てくれたねぇー”
と言う表情で・・・。
私たちの前で山元さんと澤口さんのお二人が呼び合われる時には、山元さんは 澤口さんのことを「澤(サワ)」、澤口さんは山元さんのことを「元(ゲン) ちゃん」と呼ばれていました。澤口さんのご友人たちは、澤口さんの名前 「徹行」さんを略して「徹ちゃん」と呼ばれていたそうです。澤口さんは 2017年6月に東京で亡くなられました。これからずっとここには「古川さんご夫妻」の写真を真ん中にして、左右に澤口さんと山元さんの写真が並びます。
その後、我々も「法要」の席に案内され、宴会に参加しました。今年は「古川 さんの奥さんの法要」と「山元さんの法要」の「二つの法要」になりました。いつものごとく、多くの種類の料理が出されました。その間もカラオケ大会は続いています。昼食の終わりには、デザートでドリアンの実が出てきました。眼の前に植えられているドリアンの木から今年収穫した「果実」でした。
この果樹園の中で育ったドリアンの木は植えられてから、約8年は経っています。 その前は竜眼が植えられていました。それを伐採して、単価が高いドリアンに植え替えました。ドリアンの木の高さはすでに10mを超えています。すでに毎年実を付けているというのは山元さんからも聞いていましたが、それを今年初めて味わいました。
以前、Long Khanh (ロン カーン)に田舎がある教え子の招待を受けて、そこに遊びに行ったことがありました。その時のことは、【2006年6月号】<物成りの豊かな国>に載せています。その教え子のお父さんが果樹園を持っていて、 いろんな果樹を栽培していましたが、その中にドリアンも有りました。そのお父さんが言われるには「ドリアンは4年で実を付ける」とのことでした。
ですから、この「古川家」の果樹園で育っているドリアンも実をつけてから 4, 5年は経っているのですが、我々が訪れていた時、いつも収穫期を外れていたのか、ドリアンにはありつけませんでした。今年はそれを食べることが 出来ました。そこには「工夫」があり、収穫したドリアンの実を<冷凍>してくれていました。それを冷蔵庫から取り出して解凍し、少し時間をおいて、食べ頃になった頃に我々に出してくれました。大変美味しいものでした。
お昼の宴会が一段落した2時過ぎに、KSくんと二人でメコン河の方に歩いて行 きました。そこは2年前に山元さんが「澤よー、戻って来たぞー。何でお前は オレよりも先に逝ってしまったんだよーー!」と、メコン川に向かって大声を上げて慟哭された、同じ場所でした。私も二年後に、その同じ場所で、天国におられる山元さんに向かい、お別れの言葉を告げることになりました。
この河は山元さんが1963年に20歳で初めてベトナムに来て青春時代を過ごし、 1975年にベトナムを離れるまで、「毎日眺めて暮らしていたよ!」と、私に言われた河です。メコン河に挟まれた小島の中で、日本から来た20代の青年が暮らしていたのです。電気も水道もガスもトイレも電話も無い、文明の利器など全く無い環境でしたが、その当時のことをいつも懐かしそうに、楽しく回顧して私に話してくれました。山元さん自ら曰く、「Cai Be は私の“青春の源流” です!」と。
森村誠一さんの著書「青春の源流」を読んでいた時、山元さんの生き方が重なってきました。山元さんご自身もその本を読まれました。それで、私が「山元さんが過ごしたCai Beに流れるメコン河は“青春の源流“そのものですね」とふと漏らした時、テーブルをバーンと叩いて「まさしくその通りです!」と叫ばれたのでした。
そのメコン河に向かい、生前の山元さんから享けたご恩に対して感謝の言葉を述べさせて頂きました。「山元さん、日本に帰って行ったまま、ベトナムに戻らないで逝ってしまうなんて寂しすぎますよ。まだまだずっと会いたかった! 話したかった!山元さんにはいろいろなことを教えて頂きました。いろいろな人を紹介して頂きました。いろいろな所へ一緒に連れて行って頂きました。本当に有難うございました・・・」と。
隣でKSくんも聴いていました。その後、二人で合掌しました。その後、魚の養 殖池がある家の軒下に行き、二人で少し休みました。木陰もあり涼しい風が吹いてきます。「古川家」のほうからはカラオケの大音響が聞こえてきます。 以前は食事会だけで終わる「法要」でしたが、ここ数年は食事会にカラオケ 大会が加わる「法要」になってきました。特に南部の人たちはシメっぽいのを嫌うようです。そこでKSくんとしばらく山元さんのことを思い出しながら話しました。
KSくんは、山元さんと私が昨年バイクで「南北縦断の旅」をしていた時、電話で励ましてくれました。ほとんど休みも取らず、朝も昼も食事抜きで突っ走っていたので、そんな私たち二人のことを「まるで修行僧のようですね」と言ったのは彼のことです。彼はその時、「12月にNhaTrangで行う自分の結婚式に 来て欲しい」と、山元さんにお願いしていました。山元さんはその時「分かった。バイクで行くよ!」と言われていました。結果としては、山元さんの日本帰国と重なり無理になりましたが・・・。
そのKSくんが「やはり山元さんはスゴイ人でしたねー。ベトナム戦争当時のこと、Cai Beでの出来事を断片的にはいろいろ話を伺いましたが、山元さんのご生前にもっと詳しく聞いて、克明に記録しておけば良かったです」と池の水面を眺めながら静かに話してくれました。あの映像関係のNTさんと同じような感想を抱いていました。
山元さんがお元気な時はそのようなことは思いも浮かびませんでしたが、私自 身も山元さんが亡くなられた後、記憶の糸をたどっています。特に、以前 「バナナ園」を開拓されていた時の貴重な写真の数々を山元さんから見せて 頂きました。その写真を見るたびに(すごい人生を歩まれて来たのだなぁー) と今でも感動しています。それらの写真が散逸してしまうのは余りに惜しく、 どこかの「記念館」で、是非それを保存して頂けないだろうか・・・と思っています。
家のほうに戻り、竜眼の実が房となって垂れている枝の下に立っていると、いろいろ山元さんとの思い出が甦りました。2005年に初めて出会った時のこと。2008年の末に「古川さんのお墓」を訪問した時のこと。2009年には山元さんの 奥さんの実家のフォー屋さん「Pho Tau Bay(フォー タウ バイ)」で美味しいフォーを食べたこと。
そして、2011年から初めて「古川家の法要」に参加させて頂いたこと。それ以来 その「法要」に参加するようになりました。2012年にDong Naiに<天然蜂蜜>を採りに行ったこと・・・・など。それらは全て山元さんがおられたからこそでした。ついに、最後の思い出が2019年末のバイクで「ベトナム南北縦断の旅」になりました。
6時から夕食の「宴会」が始まりました。地元の人たちはこの時はいなくて、 家族たちだけの「宴会」ですが、カラオケ大会は続きます。一曲終われば少し休めばいいのに、切れ目なく続きます。私とKSくんは(少しぐらい静かにしたらいいのに・・・)と思いながら聞いていました。
しかし、山元さんはこういうカラオケの騒音の中でも、ニコニコしながらビール を飲んで、地元の若者たちに冗談を飛ばしながら談笑していました。夕食が終わると、私やほかの日本人たちは9時ぐらいには酔いも回り、寝床に入ります。山元さんのほうは・・と見ると、ビールが入ったコップを右手に持ち、大きな声で笑いながら、若者たちの相手をされていました。
それが深夜0時頃まで続くのでした。私が深夜にふと目を覚ますと、まだ電気が点いていて、昼間から始まった「宴会」は12時間ぐらい続いているのでした。 私よりも10歳年長でありながら、(山元さんのあの元気の良さは、一体どこから来ていたのだろうか・・)と今でも不思議でなりません。到底私には真似が出来るものではありません。この日も軒下に作って頂いた蚊帳付きの寝床に9時頃に入りましたが、いろいろな思い出が甦り、夜中の0時頃まではなかなか寝付くことが出来ませんでした。
翌日は朝6時に起床。寝床を片付けた後、7時には私たちのためにインスタント・ ラーメンを作って頂きました。朝食後にはまた解凍した「ドリアンの実」を出してくれました。朝食が終わると、Dong NaiやChau Docから来ている家族たち も帰り支度を始めました。今年の「古川さんの奥さんの法要」も終わりました。今年はそれに加えて「山元さんの法要」も重なりました。
私たちもそろそろ「古川家の家族たち」に別れを告げなければなりません。 まず祭壇のほうに行き、線香に火を点けて、二人でお参りさせて頂きました。 サイゴンから持って来た「山元さんの遺影」は、このCai Beの家族の人たちや山元さんを知る地元の人たちにも線香を上げて頂きたく思い、ここにそのまま 置いてもらうことにしました。
8時に家族のみなさんたちにお礼を述べて「古川家」を出発。帰る時はChau Doc に住むオヤジさんがフェリー乗り場までの道順を教えてくれると言うので、私のバイクに乗り案内してくれましたので道に迷うことはありませんでした。20分ほどでフェリー乗り場に到着。そこでオヤジさんとは別れて、我々は来た 時と同じ、メコン河沿いの道路を走ることにしました。
My Thoまではその道を進みました。KSくんが「サイゴンまでは国道1号線を行くほうが距離は近いですが、交通量が多いです。国道50号線はサイゴンまでの距離が少し遠くなりますが、トラックや車が少ないです」と言うのです。私もまだ国道50号線は通ったことがないし、同じ道を通るのも面白くないので、 「では、国道50号線を行きましょう。帰りの時間は気にしなくていいので、安全なほうを行きましょう」と答えて、そちらを選びました。
地図上で見ると、My Thoからサイゴンまでは国道1号線と国道50号線がちょうど三角形の形をしています。三角形の底辺になるのが国道1号線。斜辺の二辺にあたるのが国道50号線です。3年前にKSくんが山元さんとCai Beに行った時にはこのルートを通ったとのことで、彼も良く知っていました。My Thoまでは 一気に走り、そこで喫茶店に入って一休み。その後すぐに国道50線に入ること が出来ました。
やはり、国道50線を通って正解でした。確かに車もトラックもバイクも少ないのです。それ以上に気に入ったのが沿道の風景です。花や盆栽や果樹を売っている店が多く、バイクで走りながら目が癒されてきました。国道1号線だと建物だけの単調な風景が続きますので、こちらのほうがバイクで走る時には心地良かったのでした。
そして、昼過ぎの1時35分にロッテ・マート前に到着。Cai Beの「古川家」から国道50号線を通って来た距離を見たら130kmでした。国道1号線を走った距離よりも20kmだけ遠いぐらいです。「古川さんの家族」、そしてVuくんの好意で、 今年の「古川家の法要」にも参加させて頂きました。そして、「山元さんの法要」も併せて行うことが出来ました。
以前、私は「古川家の法要」に参加させて頂いた時、次のように記しました。
『私も山元さんが元気でおられる限りは、毎年・毎年この「Cai Beでの法要」 に参加させて頂くつもりです』
これから「Cai Beでの法要」には、あの元気な山元さんはおられませんが、毎年続けて参加させて頂くつもりです。そこには「古川さんご夫妻」、 そして山元さんも澤口さんもおられますから。
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
4月1日から全国隔離措置を適用
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行がベトナム国内でも拡大する中、 グエン・スアン・フック首相は、4月1日からの15日間に全ての世帯および行政区を対象とした「全国隔離措置」を適用するよう指示した。
これによると、ベトナム国内の全ての世帯および全レベルの行政区(村落、村、 郡、市・省)は原則として、それぞれに別れて互いを隔離しなければならない。これに加え、感染の更なる拡大を抑えるため、公共の場に3人以上で集まることを一切禁止する。
公的機関および組織では、機密情報の処理や必需品の確保などを担当する人材を除き、労働者全員に対して自宅勤務制度を適用する。
公的セクター以外の企業については、自宅勤務制度の適用を義務付けておらず、 経営者の判断に委ねるが、経営者が責任を持って職場の安全対策に取り組み、労働者の健康を確保しなければならない。また工場では、規定に従って安全とされる距離を確保し、マスク着用や消毒を徹底する必要がある。
全国民には外出を自粛することが求められ、食料品や医薬品の購入、病気や怪我など救急の場合、または必要不可欠な商品・サービスを取り扱う施設・ 工場で働いている場合などを除き、極力外出を控えなければならない。また、互いにコミュニケーションが必要な場合は2m以上の距離を保たなければ ならない。
なお、今回の措置についてマイ・ティエン・ズン政府官房長官は、「都市封鎖ではない」と強調する一方で、「感染が広範囲で拡大すれば、より厳しい措置に踏み切る」と語った。
<POSTE>
◆ 解説 ◆
これが事前に発表されたのは3月31日。そして正式に通達が出たのが4月1日です。4月1日発行の「Tuoi Tre 新聞」の見出しには「Bat dau cach ly toan xa hoi」という見出しが有りました。
4月1日は「エイプリルフール (April Fools' Day)」ですが、「ウソ」や「冗談」ではなく、ベトナム政府からの正式な通達です。普通の人たちが「好き勝手に街中をブラブラ出歩くこと」は出来なくなりました。
数十年後に振り返ると「歴史に残る一日」になったことでしょう。ベトナム語で表記してある見出しの幾つかは、日本人にも理解出来る単語が有りますので説明しますと・・・
★「Bat dau (バッ ダウ) = 始まる。スタートする」
★「cach ly (カック リー) = 隔離」
★「toan (トアン) = 全。すべての」
★「xa hoi (サー ホイ) = 社会」
「cach ly=隔離」 も「toan=全」も「xa hoi=社会」も《漢越語》なので、日本人にも分かり易いです。この記事の内容が<VIETJO>に書いてある全てです。
早速近くの道路に出て左右を見てみると、やはり通行している車やバイクも実に少ないものでした。みなさん「自宅待機」しているようです。公安さんに見つかるといけないので、私もすぐに引き返しました。
この通達によると、外出できる<例外>としては
①急病人 ②薬品の購入 ③食料品の購入 ④スーパーの店員&薬屋の店員&重要な物を製造している工員・・・などが挙げられています。 まあ、「スーパー」が開いていれば、買い占めで商品が無くならない限り、 飢え死にすることは無いでしょう。この通達の期間は15日間となっています。
しかし、またいつまで「延長」になるかは分かりません。結局、小・中・高・大学の学校のほうの「休校」も3月いっぱいが「休校」になり、4月に入ってもまだ「休校」。学校側からの通達では4月19日まで「休校」となり、4月20日から「開校」と言う連絡が来ましたが、これもまた今後の状況次第では延びるかもしれません。4月からは学校の先生がオンラインでの授業を生徒たちにしてくれています。先生たちも大変です。
4月10日現在で(その発表が正しければ)、ベトナムでの感染者は255人。死者がゼロ。ベトナムは良く抑え込んでいると思います。このままベトナムが収束に向かえば、学校は「開校」、隔離も「解除」されるかもしれません。しかし、今回の事件は全世界の国々に、そして世界中の人たちにも大迷惑を与え、甚大な影響を及ぼしました。さらに、今もそれは続いています。
私個人に限っても、今年の「日本帰国」は無理になりました。今の段階で、我が故郷に帰る日本行きの便の飛行機が飛んでいません。「日本に入国」「ベトナムに入国」も無理になりました。従って、毎年夏休みに日本から小中学生たちがベトナムに来て活動してくれていた<ベトナムマングローブ子ども親善大使>も実施出来なくなりました。ベトナム側の生徒さんたちも毎年楽しみにしていただけに、本当に残念で仕方が有りません。
さらに、「留学生」「実習生」として日本に行くことを<夢>見て、日本語を勉強していたベトナムの若者たちはどんなに悲しい思いをしていることだろうと想像します。私が教えている「学校」も今は「休校」状態です。学校が「休校」する前に、彼らに「いつ日本に行くの?」と訊きました。すると、「僕は4月です」「私は5月です」と言う生徒たちが6人ほどいました。
今の日本側の状況では「4月」「5月」に日本に入国するのは難しいでしょう。最悪は今回の事件で、「保留」や「内定取り消し」が出て、日本に行くのが相当延びるか、行けなくなる生徒たちが出る恐れがあります。日本での「正社員」ですら<解雇>されているとも聞きました。そうなれば、彼らが頑張って日本語を勉強していた目的、日本行きの<夢>が消えるのです。
さらには、3年の任期を終えて、日本からベトナムに「4月」に戻る教え子たちもいました。しかし、それすら無事に戻れるかどうか分かりません。実際に、数日前「ビザの期限が切れましたが、ベトナムに戻りたくても戻れません」と、嘆いている教え子がいました。そういう状況に陥っているベトナムの若者たちが、この時期相当数いることでしょう。
今年初めまではみんな何の心配もなく、日本に行く<夢>を抱いて「ふつう」に「あたりまえ」に、『日本語』を勉強していました。「ふつうであること」、「あたりまえであること」が如何に大切なことかが、今回の事件を通してしみじみと分かります。このベトナムで若者たちに『日本語』を教える仕事に就いている日本人の一人として、その<夢>を捨てないように、諦めないように、彼らを励ましてゆくしかありません。